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春 1

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 見はるかす山の稜線から朝陽が顔を出す。まだしんとした冬の気配を残しつつ、柔らかな春の訪れを告げる黄色とオレンジ。光をまとった鮮明な色彩が、夜を静かに拭うように空を明るくしてゆく。

 美しい山里の朝。

 その中に、ポツリと建つ一軒家。そこから。




 ジリリリリリリリリリリリリリ!

 静寂を破る大音量が響いてトク子さんは、はうっ! と飛び起きた。

 否。

 気分的には飛び起きたのだが、実際には、うええ、はうう、と何やらもごもご呻きながら這い起きた、というのが正しい。

「ああああああ……もう、こんな時間……!」

 わざと古いタイプのうるさい音が出る目覚まし時計を買ったのに、時計そのものは最新式でスヌーズ機能がついている。だから何回もこの大音量が鳴っている筈だ。にもかかわらず一度では起きられなくて、今現在、時計が指し示す時間は、午前七時半を回っている。

 慌てて寝室を出てリビングダイニングに向かうと、ダイニングテーブルでタブレットを見ている夫に、

「ご、ごめんなさぁい、慶さん……今日も、起きられなかったですぅぅ……」

 スライディングする勢いで、がっくりと倒れ込むようにうなだれる。

「おはようございます、トク子さん」

 にっこりと朝から爽やかな笑顔が眩しい。うう、まぶしい、と直視できずトク子さんはパジャマの袖で目を覆う。

「……ごめんなさいぃ……」

「無理しなくていいですよって、毎日言ってますよ?」

 慶さんは、コーヒーカップを持ち上げると、

「コーヒー入ってますよ」

 と、トク子さんに追い打ちをかけて、トク子さんは今日もノックダウンだ。

 神だ、うちにいるのは夫ではない、きっと神様に違いない。

 慣れないのは早起きができないことではない。それを許されることだ。

 許されているのだから、自分も許していいのだということに、なかなか慣れることができないだけなのだ。

 まあ、早起きが出来ないのも事実ではあるが。今ここでの問題はそれではない。

 だからトク子さんは、気持ちを切り替えて笑顔を見せた。卑屈になって自分を責めても気分が悪くなるだけだ。

「ありがとうございます! いただきますね!」

 トイレに行って顔を洗って、急いで着替えてから、出勤前の慶さんとゆっくりコーヒーを飲んだ。慶さんは食べないことも多いけれど、今日はトク子さんが買っていたパンを出して一緒に食べた。

「僕はあまり朝ご飯を食べないし、お昼も不規則だからお弁当もいらないし、トク子さんが僕より早く起きる必要はないんですよ? って何回も言ってますよね?」

「それはそうなんですけどぅ……」

「にもかかわらずトク子さんが毎日毎朝ギャグかなと思うくらい同じことをやってるのは、あれですね」

「ギャグ……みたいですか、ね……?」

 確かにドタバタ起きてきてスライディング土下座するのは、下手するとふざけているようにも見えるかもしれない。トク子さんはちょっと違う意味で反省した。

「まあ、面白いし可愛いので、いいですけど」

 と慶さんはくすくすと笑う。ああ、もう、こういうところが敵わない、とトク子さんは朝から夫に惚れ直してみたり。

 慶さんは笑顔のままで続ける。

「つまり、世間一般的な妻はこうするべきとか、女はこうであるべきとか、古い常識が多かれ少なかれ人々の中にすり込まれているということじゃないですかね」

 慶さんは理論的に物事を捉える。時々理屈っぽい気もするけれど、その視点は中立で客観的だと思う。

「そうなんですかねぇ?」

「そうなんですよ。それにトク子さんも含まれているということですよ?」

 トク子さんが呑気な返答をしたからか、慶さんは念を押す。

「…え? あ、そ、そうか………そうですね、そうかも」

 トク子さんは自分の駄目っぷりはさておき、新婚だし、一応専業主婦なのだからやはり、朝は夫より早く起きて朝食やお弁当の支度をしなければならない、とどこかで思い込んでいた節がある。いや、どちらかというと、そんなきちんとした奥さんに憧れて勝手な『理想の妻』像を、自分に押し付けようとしていたのかもしれない。

 でも実際にやろうとすると、トク子さんにとってはかなりの苦行でしかなかった。そしてそれを慶さんはしなくていい、と言っているのに、頑張って起きようとすること自体が、世間的な常識にとらわれている、と慶さんは言いたいのだろう。

「もちろん、僕も帰ってきて晩ご飯ができているのは嬉しいし、掃除や洗濯をしてくれるのも助かってます。でも、もしトク子さんがどうしても苦手だとかやりたくないなら、別の方法を考えたらいいんですよ」

 料理は嫌いではないが掃除や洗濯はお世辞にも得意とは言えない。洗濯は洗濯機がしてくれるけれど、干すのが大雑把すぎてまあまあしわしわだし、たたむのも超下手くそでかなり適当。慶さんが仕事に着ていく制服のシャツは、慶さんがアイロンをかけてくれる。それから掃除は最近はもっぱらお掃除ロボット任せ。ロボットが入れない場所は気になったら掃除することもあるが、隅っこに溜まった埃は見えないことにしている。

 洗い物も食洗機があるからかなり楽な筈なのだ。それでも名もなき家事という細かい家事は数えきれないほどあって、新婚のトク子さんは毎日、ああ私は主婦には向いてない、と溜め息ばかりである。

 それに。

 慶さんが言っていることは、今どきの共働き家庭にこそ当てはまることで、専業主婦というのは対価労働として家事を提供することが主な役割なのではないだろうか。慶さんが仕事で収入を得ている分、家のことをきちんとするべきではないのか、と、どうしても思ってしまう。いくら苦手でも。

「でも、慶さん。そしたら私、本当にただの居候になっちゃうと思うんですけど……」

 真剣に言ったのに、慶さんは珍しく爆笑した。

「何言ってるんですか、あなたは僕の大切な奥さんです」

 いてくれるだけでいいんですよ、と殺し文句を放って、慶さんは固まっているトク子さんをスルーして出勤していった。行ってきます、とトク子さんの頭をぽんぽんして、放心したトク子さんは無意識に行ってらっしゃい……と小
さく呟いた。

 幸せって人それぞれだと思うけれど、とトク子さんは前置きして。

 自分にとって居心地がいい、というのが一番の幸せなのではないだろうか、と思う。

 現世の私はだいぶグダグダな三十年近くを生きてきたけれど、きっと前世で徳を積んだに違いない。ありがとう前世の私、グッジョブ。

 そして、今日も幸せな一日が始まるのだ。
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