〜Marigold〜 恋人ごっこはキスを禁じて

嘉多山瑞菜

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第八章 ―もっと…楽で楽しい恋愛がしたかった…—

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「桂!待たせたな」

 乱暴にドアの開く音が響いて、亮が颯爽と部屋に入って来る。ビシッと決めたスーツ姿で、自身に満ちた態度でキビキビと歩く様は非の打ち所のないビジネスマンといった風情。

 カッコイイ…ボーっと桂はそんな亮に見惚れてしまう。亮はそんな桂の様子を、目を細めて見つめると嬉しそうな優しい笑みを浮かべた。  

 待ちきれない…といった感じでふわりと桂を抱き寄せる。桂の耳にキスをチュっとすると少し責めるような口調で囁いた。

「昨日も一昨日も逢えなかった…」

 会社の応接室で、いきなり抱きすくめられて桂はオロオロともがいた。誰かに見られたらと思うと気が気じゃなかったのだ。

 それなのに亮はしっかりと桂を腕の中に抱き込めて放そうとしない。

 いや…昨日も一昨日もって言ったって…。そりゃ…俺もあんたも仕事だったからだろ…。それに…。

 桂は再度抜け出そうと足掻きながら亮に突っ込んでみる。もちろん口に出して言えないから…心の中でだが…。

 昨日は火曜日で一昨日は月曜日だろ!契約外だろが!
週末は金曜日の夜から月曜日の朝まで一緒に過ごしたのに…!

 思わず桂は先週末の自分のあられもない嬌態を思い出して赤くなった。亮にしつこく抱かれて土曜日なんて…抱かれていたか、失神していたかのどちらかしか思い出せなかった…。

 お陰で今だって体はまだダルく、腰から下は鈍痛に苛まされているのに…。

 やっとの思いで桂は亮の腕から抜け出すと、諌めるように亮を軽く睨んだ。 

「バカ…。場所をわきまえろよ。俺は仕事に来たんだ」

 抱きしめられて心臓はバクバクいって、耳に甘く愛撫されて瞳は赤く潤んだまま…あまりに説得力も迫力もない桂の姿に亮がニヤニヤしながら意地悪く言った。

「ふーん。桂も気持良さそうだったのに…。したくなっただろ?」

 亮の最後の一言に桂はカッと頬を赤らめながらバカともう一度咎めるように呟いた。それなのに早くも身体は亮を求めて疼き出している。何とかその衝動を気取られないように桂は亮をもう一度睨むと、少し強気な口調で言った。

「俺は仕事に来たんだ。早く学習者を紹介してよ。色々予定があるんだから」

 そう…俺は日本語教師だ…。
仕事をしに来たんだ。大事な学習者が俺を待っている…。

 桂は本来の目的を思い出して、やっと気持が落ち着き始めていた。亮と一緒にいるとどうしても亮のペースに巻き込まれてしまう自分が情けない…。

 亮はまだニヤニヤ桂を眺めていたが、チラリと腕時計に視線を走らせるとすばやく応接室の隅に設置してある電話に歩いて行った。

 受話器を取り上げながら、桂に「座ってて」と言うと、すばやく番号を押して電話の相手と何かを話し始める。
 
 何か…と言うのは、どうも外国語らしくて(多分イタリア語だろうと桂は思ったのだが。)桂には電話の内容が全く理解出来なかったからだ。

 受話器を置いて、ソファに戻ってくると亮は自分も桂の向かいの席に自分の身体を沈めた。

 不安そうに自分を見つめる桂の視線に気付いて、安心させるような魅力的な笑みを見せると言った。

「今来るから待ってて。それより桂…夏休み…」
「え…?夏休みがどうしたんだ?」

 言いかけた二人の会話が突然のノックの音で遮られた。威勢の良いその音に亮が顔を顰める。腹ただしそうな表情で、立ちあがるとドアを開けにいった。 

「ジュリオ…。ノックは静かにしろよ」

 ノックの主を部屋に迎え入れると、亮は腹立ち紛れにそう呟いた。 

「おお…ゴメンね。リョー。静かにノックしました。でも大きい音になりました」

 ジュリオと亮が呼んだ人物は大仰に手を振りながら、そう言って部屋に入ってきた。

 生粋のイタリア人らしい彫りの深いはっきりした顔立ちに陽気そうな笑顔を浮かべて亮の横に立つ。瞳をクルクルさせるような、その笑みにつられて桂も自然微笑んでいた。

 ジュリオは桂に気がつくと、手を伸ばしてくる。握手を求められているんだと気付いて桂は慌てて立ちあがると、自分も手を差し出した。

 ジュリオがギュッと桂の手を握り締める。それを見て亮が僅かに眉をひそめた。 

「センセーですね?初めまして。ジュリオ・マレアーナです。どうぞよろしくお願いします」

 明るい笑みを見せながらジュリオは流暢な発音で桂に礼儀正しく挨拶をする。桂も微笑むと「伊東です。こちらこそよろしくお願いします。」と型通りの挨拶を返した。

「これで自己紹介はOKかな?」

 亮がなぜか憮然とした表情で口を挟んだ。ジュリオが亮をかえりみて「Si」と返事をした。イタリア語に疎い桂にもそれが「YES」だと言う事はわかった。

「それじゃジュリオ、伊東先生からいい加減手を放せよ。握手はお終いだ」

 言って亮が、ジュリオが握り締めている桂の腕を引っ張る。

 桂は亮の突然の行為に戸惑って顔を赤らめた。まるで焼もちのような亮の行為に恥ずかしくなる。

 ジュリオは亮に驚いた表情を向けると肩を大げさに竦める。手を放すと桂を見ながら微笑んだ。

「リョー恐いですね?センセー。いつもこうですか?」

 亮を茶化すような言い方に桂も思わず微笑んだ。ジュリオも軽く桂にウインクをすると、次の瞬間真面目な表情に戻って亮に言った。

「リョー。もうOKです。リョーは仕事に戻り…なさい。私はイトーセンセーと話をします。大丈夫です」

 ジュリオの言葉を聞いて一瞬亮が顔を赤くした。何かを言おうと口を開きかける。桂が慌てて言葉を挟んだ。 

「山本、ありがとう。もう大丈夫だから。後は俺とジュリオさんとで今後の相談をするから」

 ジュリオの日本語は申し分ない。桂は今のジュリオの言葉で、彼が高いレベルにあるのを感じた。ただ、多少命令調の言い方になる傾向があるため、話しかけられる相手は強い語調を不快に思いがちになる。

 ジュリオは別に悪気があって言ったわけじゃなくても、亮は今の言い方で追い払われたと思ったのかもしれない。桂の言葉に、それでも亮が不機嫌そうな表情を見せた。

「でも…」

 やはり何かを言おうとする。桂は安心させるように笑うと続けて言った。

「本当に大丈夫。これからジュリオさんに簡単なテストを受けてもらうから。仕事あるだろう?戻らないと…」

 テストと聞いてジュリオがゲッとしたような顔をする。そんなジュリオをまだ憮然と眺めながら、それでも渋々亮が動いた。

 桂を見ながら「じゃ…よろしく頼むよ」と言うと、ジュリオを睨んで何かを早口で喋った。

 好奇心に満ちたように、濡れたような黒い瞳をニヤニヤさせながら、ジュリオが亮の言葉に相槌を打つ。

 苛立ったような亮とは対照的にゆったりとした態度でジュリオは亮に近づくと、亮の肩に腕を回しながら徐々に亮の身体をドアへ押しやって行く。要領の良いその方法に桂が目を見張った。

—すげぇ…山本が丸め込まれている…—

 二人の会話がイタリア語のため、桂には内容が全くわからなかったが…それでも亮が丸め込まれていると思った。

 その証拠にジュリオはまんまと亮をドアの外に押し出すと、容赦なく扉を閉める。そして振り返るとニッコリと微笑んで桂に言ったのだ。

「センセー。ウルサイお邪魔虫、駆除しました。お待たせしました」 

 ジュリオの言葉に桂はプッと吹き出して、次の瞬間大声で笑っていた。
 
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