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第二章  彼のために・・・自分のために・・・唇へのキスはしない・・・

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 あまり生活感のない部屋だと桂は思った。良く言えば洗練されて垢抜けている。悪く言えば殺風景…。

 健志さんとは部屋で過ごす事はしないのかな…?連れてこられた亮の部屋を見渡しながら、ふと桂は考える。

 部屋で甘い時間を過ごす…なんて嫌いなのか?俺は好きだけど…。

 桂はもの珍しげに亮の部屋をジロジロと眺めた。
山手の一等地に立っているマンションの一室。高級マンションである事は一目瞭然で、桂は自分の住むマンションの部屋と比べて溜息を吐出した。恐らく家賃も俺の給料の2ヶ月分ぐらい有るんだろう。

 そう言えばさっきのフランス料理のコースも桂にとっては天文学的な数字の値段だった。

 金銭感覚がまるで違う…その事も桂を不安にさせた。

 健志なら理解出来る金銭感覚でも、桂には理解出来ない。

 俺…10ヶ月やっていけるのかな…?

「何…ボッーとしてんだ?適当に座ってよ。」

 亮はキッチンからビールを持って出てくると桂を促した。

 スーツのジャケットを脱いでタイを緩めている。リラックスしたような亮の姿に桂が少し緊張を解いて微笑んで見せた。

 上質なスーツをピシっと着こなした彼も素敵だけど、こんな風にリラックスした姿の彼もカッコイイ。

 こういう姿は恋人じゃないと見られないから…この姿が見られただけでも、今回の申し出を受けた甲斐があったな…。
  
 とりとめもない事を考えて桂がポッと笑みを浮かべた。そんな桂を訝しげに亮は見つめると、ホラと言って桂に冷えた缶ビールを手渡す。プルトップを開けると、亮はビールを口に含んだ。

「今なら、聞けるかな…?」

 桂は今まで胸にわだかまっていたモヤモヤをぶつけてみる気になっていた。 

「あの…済みません…聞きたい事があるのですが…伺ってもよろしいでしょうか?」 

 桂の言葉を聞いて亮が眉を寄せた。やや、不機嫌そうに口を開く。

「そういう他人行儀な喋り方は止めてくれないかな。俺達付き合ってんだから。遠慮とかしないでくれる?」

 はぁ…済みません…と身を竦めて恐縮する桂に亮は苦笑する。

「ほら…だから謝らないでよ。謝る必要はないだろう?それで、何かな?聞きたいことって。」

 亮が見せた笑顔に励まされて、意を決したように桂が顔を上げて口を開いた。

「これ以上事を進める前に、俺達の今後の事をはっきりさせておきたいんですけど。」

 どうぞ…亮がビールを飲みながら続きを促した。

「期間は10ヶ月。割り切った大人の関係。そして愛情は抜き。そうですよね。」

 亮が一瞬不快そうに顔を歪め、そして、そうだよ…と答えた。桂はビールを握り締めながら言葉を絞り出す。

「貴方の愛は健志さんのモノだから…俺の愛ももちろん俺が愛する人のモノって事ですよね。」

「あんた…今本命がいるって事?」
 
 亮が瞳をすっと細めながら桂を見た。心なしか…桂は気のせいで有る事を願ったが…怒ったような表情だった。

 亮の威圧するような迫力に負けないよう、桂は虚勢を張って「いいえ。」と否定して続けた。

「例えばの話です。俺達は愛情抜きの関係。心は自由。ということは貴方と健志さんの間で存在する、束縛や嫉妬心は当然無いって事ですよね。ドライでライトな関係…ですよね。」

 あぁ…亮は相変わらず顔を顰めたまま答える。自分が持ち出した契約を理路整然と桂が整理していくのが不愉快なのだろう。
 
 その内容には自分が無意識で見たくない何かが含まれているのかもしれない。

「疑問はそれでOKかな?整理できた?」

 亮は飲み終わったビール缶をブシュッと握りつぶすとテーブルに乱暴に置いた。口元の泡を拭うようにグイっと唇を拭うと、ソファーに座っていた桂に覆い被さる。 

 桂の肩を両手でグッと掴んだ。乱暴に掴まれて桂の肩に痛みが走る。痛みを堪えながら桂は亮を見上げた。

 彼の意志の強そうな瞳を、真剣に見詰め返す。最初に惹かれたのも彼のこの瞳だった。

「えぇ、お蔭様で整理が出来ました。ありがとうございます。」

 桂は笑みを浮かべて答えた。やっとこの関係を割り切って受け入れられそうな気がし始めていた。 

 亮はその桂の微笑を見詰めながら、唇を寄せてくる。それを桂は両手で遮った。

 肝心なことを言わなくちゃいけない。

 震えそうになる声で言う。

「一つだけお願いがあるんです。」

 亮が苛ついたような顔をして、プイッと横を向いた。そして少し拗ねるような口調で言う。

「あんた…俺と付き合うのがやなわけ?」

 いえ…。拗ねた彼の表情に戸惑って桂は困惑したように答えた。

 キスを拒否されて苛ついた自分が大人気無いと思ったのか、桂の返事を聞いて相手の男は表情を少し緩めた。

「何…お願いって?」 

 ストンと桂の隣に腰を落とすとハァーと息を吐出しながら顔を両手で擦る。少し疲労の色が滲んだような声音だった。

 亮の様子に申し訳無いような気持になりながら、それでも桂は言葉を継いだ。絶対にこれだけは言おうと最初から決めていたから…。

「キ…キス…だけは…しないでください…。それだけが俺のお願いです。」

 唇が少し震えた。亮が驚いたように顔を上げ、桂を擬視して言った。

「どう言う事…?」 

 桂は胸がキシキシ鳴るような痛みを押さえながら言う。瞼の裏がジンジン熱くなり涙が出てきそうになる。

 それでも決めていた。
彼のために・・・自分のために・・・唇へのキスはしない・・・と。
 
「あの…何かの本で読んだんですけど…。ギリシャでは唇は恋人への忠誠を表すそうです。」

 もちろんそんな本、読んだ事なんて無い…。亮が怪訝な瞳で桂の顔を覗き込んだ。

「だっ…だから…貴方の唇は貴方の恋人…健志さんのモノ…。」

 心の内の乱れる気持を見透かされないよう、言って桂は瞳を伏せた。長い睫が震えて揺れていた。

 亮は無言で桂を見つめつづける。無言の彼に耐えきれず桂がパッと顔を上げて哀願するように言った。

「ホラ…映画でもあるじゃないですか。娼婦がお客と、唇へのキスだけは絶対にしないって奴。それと同じです」  

 そこまで伝えて、やっと気持ちが落ち着いたような気がした。これなら、ちゃんと最後まで言える、大丈夫。自分を鼓舞しながら桂は続けた。

「俺…貴方と10ヶ月付き合うけど…でも…健志さんとは立場が違うから…。健志さんに申し訳無いので…。それだけは…俺のけじめなんです」

 涙をこぼさまいと、切々と訴える桂に亮は驚いたような顔を見せた。亮の瞳が戸惑うように揺れる。

 何かを言おうとして口を開きかけたが、そこから言葉が出る事なく閉じられた。代わりにハァーと言う溜息が漏れる。

 たっぷり2・3分は黙った後、やっと亮が声を出した。

「分かった…。あんたのお願いは…。しない…しないから…」

…良かった…桂が僅かに潤んだ瞳のまま笑みを見せる。眼の縁が少し朱に染まっている。

 亮は桂の顔を見詰めると、スッと指先を桂の潤んだ瞳に触れさせた。涙を拭うように指先で瞳の縁を優しく擦る。

「…あ…」

 亮の優しい刺激に桂の身体がピクンと触れた。

夜の闇が…静寂が…やっと二人の間に満ちて来ていた…。
 
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