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36 月灯りの誓い
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管弦楽団がワルツを奏で始めると、国王達のファーストダンスが始まった。
一曲終わると王太子夫妻やウィテカー宰相公爵達が次々にフロアに出てダンスを踊り始める。
サブリナは夫人が体調の悪さを微塵も感じさせずに、生き生きと踊っているのを見てホッとした。彼女の強靭な精神力にはいつも感嘆させられる。
宰相の顔を見つめながら、麗しく踊る姿に誰もが見惚れていて、紛うことなき彼女は社交界の女神だとサブリナは思う。
この王宮舞踏会に参加し踊ることが出来て本当に良かった、とサブリナは目頭を熱くした。
王族と上位貴族達のダンスが終わると、次々に招待されている来賓者達が待ちかねたように踊り始める。
両親は知り合いと、何やら話に花を咲かせている。同年代の知人が皆無のサブリナはエディと一緒に取り止めもない話しをしていてた。
「ご覧になって。ウィテカー公爵家の御令息よ。踊られるみたい」
「まあ、お珍しい。お相手はどなた?」
ひそひそと囁かれる会話の中にオーランドの名前が出てきて、サブリナはふっとフロアの中央に目を向けた。
オーランドが美しい金髪の少女の手を取り、ステップを踏み始めていた。
誰だろう?あの綺麗な令嬢は?
エブリスティと一緒にいる所を見た時よりも、もっと完璧な一対に見えて、サブリナは息を飲んだ。
「あっ、あれがウィテカー宰相の御子息だね」
エディがのほほんと言うのに声もなく頷くと、彼は続けた。
「へぇー、男の僕から見ても整った顔立ちだね。さすが、宰相の息子、踊る相手がすごいな」
「どこのご令嬢か知ってるの?」
エディがこの国の令嬢事情に明るいとは思ってもみなかったので、驚いて尋ねると彼はうん、と答えた。
「軍事同盟を結んだジェラール帝国の第三皇女だ。ほら、あそこの来賓の座にいるのがオマージュ皇帝だよ」
声を顰めて告げられた名前に驚いて、指し示す方をチラリと見れば厳つい顔をした老人がいた。
あれがエブリスティが側室として差し出された若い娘狂いの皇帝なのか。
「噂通りの好色家の爺さんだって。皇女なんて10人以上いるらしいよ」
皇子だって8人もいて、いまだ皇太子も決まらず血生臭い話が多い、おお、寒っ!!と
聞かれたら間違いなく首が刎ねられそうな不敬な事を言ってエディは、タルトを口に頬張った。
彼は留学中に、この国と近隣諸国の関係や要人を俯瞰して見られるようになっており、人物の評判についても詳しい。
「うちの国からは側室を差し出してるだろう。同盟強化の証として、次は自分の娘をこの国に送り込むんだろうね。候補は年齢と格式を考えれば間違いなく王族に連なるウィテカー宰相の息子だ」
エブリスティが差し出され、そしてオーランドが第3皇女を娶る。
政略結婚に他ならないが、これがウィテカー宰相の当たり前の計画なのだろう。
「だからダンスもお相手しないといけないし、上位貴族は大変だよな」
もうサブリナの耳にはエディの言葉は入ってこなかった。
理解も予想もしていたが、改めて現実を突きつけられるとどうしようもなく胸が苦しくなる。
拒絶したのは自分なのに、勝手に傷つくなんて卑怯だ。
「って、ブリー、大丈夫?疲れてきた?」
返事をしなくなったサブリナを訝しんで、顔を覗き込むエディに気がつくと、サブリナはグッと胸の中で荒れる感情を押し殺した。
「ちょっと人酔いしたみたい。すこし風にあたってくるわ」
そう言い置いて、エディが止めるのも聞かずにサブリナは庭園へと向かった。
夜の闇に、蝋燭の仄かに揺れる光に照らされた庭園が幻想的に浮かび上がる。
気温が下がる季節だけに、さすがに庭園には誰も出ていない。恋を語らう者たちはテラスやバルコニーにいるのだろう、と人目につきたくないサブリナはホッと気を抜いて庭園をそぞろ歩いた。
遠くから聞こえる水のせせらぎに管弦楽の奏でる音色。
頬に触れる冴え冴えとした冷たい空気、そしてほのかに香る草花の匂い、それらが波打ちささくれ立つ心を落ち着かせてくれる。
先程まで感じていた卑屈な気持ちが嫌になって、誰もいない事を良いことに、高いヒールの靴と絹の長靴下を脱ぐと片手でぶらぶらさせながら、一本の大木にそっと寄り添った。
ひんやりとした樹の手触りになんだか堪らなくなって、眼を閉じれば、先程のオーランドと第3皇女の踊る姿が思い出されて、やけに感傷的な気持ちが込み上げてきてしまう。
分かっていたはずだ。宰相は言っていたでないか。
—— お前の嫁には次期公爵家当主の妻として、あらゆる完璧さが必要だ ——
美しさと若さを兼ね備えた女性としても、品位と優雅さを求められる淑女としても、王族に連なる公爵家に相応しい高貴な身分としても、そしてこの国のためにも・・・宰相の求めるあらゆる完璧さがあの少女にはある。
だってお姫様なのだから・・・。
あまりにも自分とは違い過ぎて、羨ましいとも妬ましいとすらも思えない。
エブリスティと一緒の姿を見た時と同じように、ただ現実を再認識しただけだ。自分はオーランドへの気持ちを捨てない限り、きっと何度も同じ思いを味わうことになるのだろう。
彼に優しくしてもらい、振りの中で本当の妻のように、触れてもらえた。まるで愛されているかのように。
・・・そして、自分の過去を受け止める覚悟があると言ってくれた彼を、手酷く拒絶した。
それなのに彼が贈ってくれたドレスに身を包み、姿を探してしまう。
どうしたら良いのだろう・・・。これ以上、彼のことで心を揺らしてはならない、と思うのに。
どうにも折り合いのつかない感情を持て余して、眼を閉じたまま額を幹に押し当てた時だった。
「また、靴を脱いでる」
突如、背後から低い柔らかな声が聞こえてきて、サブリナの肩はびくりと震え、心臓が飛び出さんばかりになった。
まさか、どうして、いやそんな訳ない・・・跳ねる鼓動を抑え、千々に乱れる気持ちのまま振り返る。
そこには眉を顰めた仏頂面が立っていた。
「オーランド様・・・」
どうしてここにいるのか、混乱してサブリナは目を見開いた。
「ここは冷える。こちらへ」
仏頂面のまま、また「こちらへ」と言われて、手を伸ばされる。否と抗するまもなく手を掴まれて、引き寄せられた。
そのまま歩き出すから、サブリナは彼の背中を見つめながら後をついていくしかない。
夜会は男女の逢瀬の場だ。王宮内といえども、そのための客間が当然用意されているし、庭園にも「そう言う場所」が設られている。
そのうちの一つ、四阿を模した天幕の一つにオーランドはサブリナを引き入れた。蝋燭の灯りはなく、月明かりだけが二人を照らし出す。
長椅子に座らされると、サブリナは目の前に立つオーランドを見た。
「こんなところにいらして大丈夫なのですか?皇女様は・・・」
サブリナの問いに、彼は途端に気分を害したように目つきを鋭く眇めると、ふっとため息を吐いた。
「役目は果たした。問題ない」
「でも・・・」
宰相や他の貴族たちに、二人でいるところを見られたらと思うと、気が気じゃない。
早くお戻りを、と言おうとしたところで「ぁ」とサブリナの言葉は、身をかがめてきたオーランドの唇に飲み込まれた。
背中を逞しい腕に抱き寄せられ、唇が角度を変えて何度も啄まれる。チュッチュッと唇を喰むように口付けられて堪らず彼の胸に縋るように手を当てると、オーランドがのしかかってきて、そのまま抱きしめられた。
触れ合うだけの唇が離れると、オーランドの顔がサブリナのむき出しの肩口に沈む。
「・・・会いたかった・・・」
夜の空気に溶けてしまいそうなほど、小さな、でも熱っぽい囁きがサブリナの鼓膜を震わせて・・・。
「私も」と言えればどんなに楽だろう、サブリナはその言葉を飲み込むと、ただ自分もオーランドの背中に腕を回して抱きしめ返す。
ひとしきり、そうやって抱きしめあっていたが、やっとオーランドは顔を上げると、サブリナの瞳を覗き込みながら、頬を撫でた。
優しく触れる指先が頬を擽り、耳朶で揺れる漆黒の石をいたずらに揺らし、首筋をたどる。
サブリナは言葉もなく、魅入られたように彼の動きを見つめていた。ほどなく首筋を滑り落ちた手が胸元に触れ、オーランドが自分で与えた首飾りを摘むと、手の中で慈しむよう握りしめる。
「・・・あの、ドレスをありがとうございました」
さっきまで自分を叱咤していたのに、本人に会えば簡単に抱擁を許して、唇を合わせてしまう。
心の中の自己嫌悪と葛藤しながらも、オーランドが自分に会いに来てくれたことに、サブリナは仄暗い喜びを感じた。
彼はサブリナの礼に頬を緩めた。
「サブリナは自然の色が似合う」
何の衒いもない真っ直ぐな彼の言葉に、サブリナは気恥ずかしくて俯いた。
自分に似合う色を選んでくれた気持ちが嬉しい。月明かりを頼りによくよく見れば、オーランドの飾り緒と詰襟からジャケットにかけて施されている刺繍がドレスと同じ若草色だ。
揃いにしてくれたという喜びと、それが誰かにバレていないのかと言う恐れと、彼はどうしてそんなことをするのかと言う困惑と・・・オーランドはいつでもサブリナの感情を揺さぶってくる。
「サブリナ」
彼の自分を呼ぶ声は、とても甘やかで迷いがない。呼ばれるたびに、彼の気持ちを確かめたくなる衝動に駆られてしまう。
顔を上げると、月明かりの下でもはっきりとわかる彼の黒曜石のような瞳。そこに当惑したような自分の顔が写っている。
「それを」
「え?」
そう言って、オーランドは身体を起こして手を伸ばしてくる。何のことを言っているのか分からずにキョトンとすると、片手で持ったままだった靴と靴下を取り上げた。
「あっ!何をっ!お返しください!!」
「ダメだ、足が汚れてる」
「大丈夫ですからっ!!」
彼が何をしようとしているのか、分かってサブリナは慌てて身体を起こして、靴と靴下に向かって手を伸ばしたが、あえなく虚空を掴むばかり。
オーランドはサブリナの足元で膝を折ると、ドレスの裾を徐にめくった。
「ひっ!」
変な声が出たのは仕方がない。彼は手巾を取り出して、サブリナの素足についた芝生や土汚れを拭う。
「ぁ、ぁ、あ・・・あのっ!そんなことなさらないでくださいっ!!」
看護する相手の足を拭くことなんて、星の数ほどやってきたが、自分がされるのは別物だ。しかもオーランドがやっていることにサブリナは動揺した。
サブリナの声はあっさり無視される。オーランドは黙々と拭き続けていたが、サブリナのつま先に手を添えたまま口を開いた。
「俺は覚悟がある」
「・・・!?」
その言葉に、彼があの夜のことを言っているのだと瞬時に分かる。サブリナは彼の顔を真っ直ぐに見返した。返事に迷っていると、拭き終わった左足に
長靴下を履かせてこようとするから、サブリナは仰天して、それを彼の手からひったくった。
「自分で出来ますっ!!見ないでくださいっ!!」
靴下まで脱いだ自分を呪いたい。鼓動が煩いほど跳ねまくる。
慌てて立ち上がり、長椅子の後ろに回り込んだサブリナの姿がおかしかったのか、もはや気が触れたとしか思えない令息は、くつくつと笑った。
「失礼した、じゃ俺は後を向いてる」
横目で彼が自分に背を向けたのを確認すると、サブリナはドレスの裾を捲りながら、急いで長靴下を履き、ガーターの紐でそれを止める。
ホッと安堵の息を吐いたのも一瞬で、靴が無いことに途方にくれた。
「・・・あの靴を・・・」
「こちらへ」
まただ、彼と脈絡のない会話になっている。彼はこういう時、絶対に譲らない。この後に何が起こるのか、もうサブリナは諦めるしかなかった。
振り返った彼に、また手を取られると椅子に座らせられる。
オーランドはあらためて跪くとサブリナの足首を取った。
さらりと足の甲を撫でられて、ゾクリと身体が震えたのはどちらが悪いのだろう。
「俺は覚悟がある、そう言った」
「・・・覚えております」
話題をあの夜に戻したいのか、サブリナは途方にくれて彼の頭のつむじを見つめた。あの夜の話はもうしたくない。
彼がゆっくりと片足にビジューが光る靴を履かせる。
「だけど・・・それだけでは足りないと気づいた」
「・・・」
何をとは聞けなかった。
聞くのが怖くて・・・聞いてしまえば、もう後戻りが出来なくなるような気がして。
丁寧な手つきで、もう片方の足を靴に押しこまれる。
「力が必要だと・・・圧倒的な強い力が」
「・・・力・・・ですか・・・?」
権力なら公爵家の継嗣として約束されているはずだ、それなのに何の力が必要なのか?
サブリナの問いに、そうだ、と答えると彼は恭しく頭を屈めた。
「オーランド様っ!!」
彼のしようとしていることに気づいて、静止の声を上げたが、強く掴まれた脚を引くことも出来ず。
彼の唇がつま先に触れるのをサブリナは呆然と見つめた。
どれだけの時間が経ったのか・・・オーランドがやっと顔を上げ、自失したままのサブリナを強い視線で射抜く。
月明かりに照らされた彼の顔には、今までにない決然とした意思のようなものが秘められていて・・・。
「だから、俺がなにものにも負けない強さを持った時・・・」
情熱の誘惑はサブリナを追い詰めていく。
「・・・その時は、俺の気持ちを聞いて欲しい」
約束だ、そう告げられたオーランドの言葉に、サブリナの瞳からポロリと一粒の涙が溢れた。
一曲終わると王太子夫妻やウィテカー宰相公爵達が次々にフロアに出てダンスを踊り始める。
サブリナは夫人が体調の悪さを微塵も感じさせずに、生き生きと踊っているのを見てホッとした。彼女の強靭な精神力にはいつも感嘆させられる。
宰相の顔を見つめながら、麗しく踊る姿に誰もが見惚れていて、紛うことなき彼女は社交界の女神だとサブリナは思う。
この王宮舞踏会に参加し踊ることが出来て本当に良かった、とサブリナは目頭を熱くした。
王族と上位貴族達のダンスが終わると、次々に招待されている来賓者達が待ちかねたように踊り始める。
両親は知り合いと、何やら話に花を咲かせている。同年代の知人が皆無のサブリナはエディと一緒に取り止めもない話しをしていてた。
「ご覧になって。ウィテカー公爵家の御令息よ。踊られるみたい」
「まあ、お珍しい。お相手はどなた?」
ひそひそと囁かれる会話の中にオーランドの名前が出てきて、サブリナはふっとフロアの中央に目を向けた。
オーランドが美しい金髪の少女の手を取り、ステップを踏み始めていた。
誰だろう?あの綺麗な令嬢は?
エブリスティと一緒にいる所を見た時よりも、もっと完璧な一対に見えて、サブリナは息を飲んだ。
「あっ、あれがウィテカー宰相の御子息だね」
エディがのほほんと言うのに声もなく頷くと、彼は続けた。
「へぇー、男の僕から見ても整った顔立ちだね。さすが、宰相の息子、踊る相手がすごいな」
「どこのご令嬢か知ってるの?」
エディがこの国の令嬢事情に明るいとは思ってもみなかったので、驚いて尋ねると彼はうん、と答えた。
「軍事同盟を結んだジェラール帝国の第三皇女だ。ほら、あそこの来賓の座にいるのがオマージュ皇帝だよ」
声を顰めて告げられた名前に驚いて、指し示す方をチラリと見れば厳つい顔をした老人がいた。
あれがエブリスティが側室として差し出された若い娘狂いの皇帝なのか。
「噂通りの好色家の爺さんだって。皇女なんて10人以上いるらしいよ」
皇子だって8人もいて、いまだ皇太子も決まらず血生臭い話が多い、おお、寒っ!!と
聞かれたら間違いなく首が刎ねられそうな不敬な事を言ってエディは、タルトを口に頬張った。
彼は留学中に、この国と近隣諸国の関係や要人を俯瞰して見られるようになっており、人物の評判についても詳しい。
「うちの国からは側室を差し出してるだろう。同盟強化の証として、次は自分の娘をこの国に送り込むんだろうね。候補は年齢と格式を考えれば間違いなく王族に連なるウィテカー宰相の息子だ」
エブリスティが差し出され、そしてオーランドが第3皇女を娶る。
政略結婚に他ならないが、これがウィテカー宰相の当たり前の計画なのだろう。
「だからダンスもお相手しないといけないし、上位貴族は大変だよな」
もうサブリナの耳にはエディの言葉は入ってこなかった。
理解も予想もしていたが、改めて現実を突きつけられるとどうしようもなく胸が苦しくなる。
拒絶したのは自分なのに、勝手に傷つくなんて卑怯だ。
「って、ブリー、大丈夫?疲れてきた?」
返事をしなくなったサブリナを訝しんで、顔を覗き込むエディに気がつくと、サブリナはグッと胸の中で荒れる感情を押し殺した。
「ちょっと人酔いしたみたい。すこし風にあたってくるわ」
そう言い置いて、エディが止めるのも聞かずにサブリナは庭園へと向かった。
夜の闇に、蝋燭の仄かに揺れる光に照らされた庭園が幻想的に浮かび上がる。
気温が下がる季節だけに、さすがに庭園には誰も出ていない。恋を語らう者たちはテラスやバルコニーにいるのだろう、と人目につきたくないサブリナはホッと気を抜いて庭園をそぞろ歩いた。
遠くから聞こえる水のせせらぎに管弦楽の奏でる音色。
頬に触れる冴え冴えとした冷たい空気、そしてほのかに香る草花の匂い、それらが波打ちささくれ立つ心を落ち着かせてくれる。
先程まで感じていた卑屈な気持ちが嫌になって、誰もいない事を良いことに、高いヒールの靴と絹の長靴下を脱ぐと片手でぶらぶらさせながら、一本の大木にそっと寄り添った。
ひんやりとした樹の手触りになんだか堪らなくなって、眼を閉じれば、先程のオーランドと第3皇女の踊る姿が思い出されて、やけに感傷的な気持ちが込み上げてきてしまう。
分かっていたはずだ。宰相は言っていたでないか。
—— お前の嫁には次期公爵家当主の妻として、あらゆる完璧さが必要だ ——
美しさと若さを兼ね備えた女性としても、品位と優雅さを求められる淑女としても、王族に連なる公爵家に相応しい高貴な身分としても、そしてこの国のためにも・・・宰相の求めるあらゆる完璧さがあの少女にはある。
だってお姫様なのだから・・・。
あまりにも自分とは違い過ぎて、羨ましいとも妬ましいとすらも思えない。
エブリスティと一緒の姿を見た時と同じように、ただ現実を再認識しただけだ。自分はオーランドへの気持ちを捨てない限り、きっと何度も同じ思いを味わうことになるのだろう。
彼に優しくしてもらい、振りの中で本当の妻のように、触れてもらえた。まるで愛されているかのように。
・・・そして、自分の過去を受け止める覚悟があると言ってくれた彼を、手酷く拒絶した。
それなのに彼が贈ってくれたドレスに身を包み、姿を探してしまう。
どうしたら良いのだろう・・・。これ以上、彼のことで心を揺らしてはならない、と思うのに。
どうにも折り合いのつかない感情を持て余して、眼を閉じたまま額を幹に押し当てた時だった。
「また、靴を脱いでる」
突如、背後から低い柔らかな声が聞こえてきて、サブリナの肩はびくりと震え、心臓が飛び出さんばかりになった。
まさか、どうして、いやそんな訳ない・・・跳ねる鼓動を抑え、千々に乱れる気持ちのまま振り返る。
そこには眉を顰めた仏頂面が立っていた。
「オーランド様・・・」
どうしてここにいるのか、混乱してサブリナは目を見開いた。
「ここは冷える。こちらへ」
仏頂面のまま、また「こちらへ」と言われて、手を伸ばされる。否と抗するまもなく手を掴まれて、引き寄せられた。
そのまま歩き出すから、サブリナは彼の背中を見つめながら後をついていくしかない。
夜会は男女の逢瀬の場だ。王宮内といえども、そのための客間が当然用意されているし、庭園にも「そう言う場所」が設られている。
そのうちの一つ、四阿を模した天幕の一つにオーランドはサブリナを引き入れた。蝋燭の灯りはなく、月明かりだけが二人を照らし出す。
長椅子に座らされると、サブリナは目の前に立つオーランドを見た。
「こんなところにいらして大丈夫なのですか?皇女様は・・・」
サブリナの問いに、彼は途端に気分を害したように目つきを鋭く眇めると、ふっとため息を吐いた。
「役目は果たした。問題ない」
「でも・・・」
宰相や他の貴族たちに、二人でいるところを見られたらと思うと、気が気じゃない。
早くお戻りを、と言おうとしたところで「ぁ」とサブリナの言葉は、身をかがめてきたオーランドの唇に飲み込まれた。
背中を逞しい腕に抱き寄せられ、唇が角度を変えて何度も啄まれる。チュッチュッと唇を喰むように口付けられて堪らず彼の胸に縋るように手を当てると、オーランドがのしかかってきて、そのまま抱きしめられた。
触れ合うだけの唇が離れると、オーランドの顔がサブリナのむき出しの肩口に沈む。
「・・・会いたかった・・・」
夜の空気に溶けてしまいそうなほど、小さな、でも熱っぽい囁きがサブリナの鼓膜を震わせて・・・。
「私も」と言えればどんなに楽だろう、サブリナはその言葉を飲み込むと、ただ自分もオーランドの背中に腕を回して抱きしめ返す。
ひとしきり、そうやって抱きしめあっていたが、やっとオーランドは顔を上げると、サブリナの瞳を覗き込みながら、頬を撫でた。
優しく触れる指先が頬を擽り、耳朶で揺れる漆黒の石をいたずらに揺らし、首筋をたどる。
サブリナは言葉もなく、魅入られたように彼の動きを見つめていた。ほどなく首筋を滑り落ちた手が胸元に触れ、オーランドが自分で与えた首飾りを摘むと、手の中で慈しむよう握りしめる。
「・・・あの、ドレスをありがとうございました」
さっきまで自分を叱咤していたのに、本人に会えば簡単に抱擁を許して、唇を合わせてしまう。
心の中の自己嫌悪と葛藤しながらも、オーランドが自分に会いに来てくれたことに、サブリナは仄暗い喜びを感じた。
彼はサブリナの礼に頬を緩めた。
「サブリナは自然の色が似合う」
何の衒いもない真っ直ぐな彼の言葉に、サブリナは気恥ずかしくて俯いた。
自分に似合う色を選んでくれた気持ちが嬉しい。月明かりを頼りによくよく見れば、オーランドの飾り緒と詰襟からジャケットにかけて施されている刺繍がドレスと同じ若草色だ。
揃いにしてくれたという喜びと、それが誰かにバレていないのかと言う恐れと、彼はどうしてそんなことをするのかと言う困惑と・・・オーランドはいつでもサブリナの感情を揺さぶってくる。
「サブリナ」
彼の自分を呼ぶ声は、とても甘やかで迷いがない。呼ばれるたびに、彼の気持ちを確かめたくなる衝動に駆られてしまう。
顔を上げると、月明かりの下でもはっきりとわかる彼の黒曜石のような瞳。そこに当惑したような自分の顔が写っている。
「それを」
「え?」
そう言って、オーランドは身体を起こして手を伸ばしてくる。何のことを言っているのか分からずにキョトンとすると、片手で持ったままだった靴と靴下を取り上げた。
「あっ!何をっ!お返しください!!」
「ダメだ、足が汚れてる」
「大丈夫ですからっ!!」
彼が何をしようとしているのか、分かってサブリナは慌てて身体を起こして、靴と靴下に向かって手を伸ばしたが、あえなく虚空を掴むばかり。
オーランドはサブリナの足元で膝を折ると、ドレスの裾を徐にめくった。
「ひっ!」
変な声が出たのは仕方がない。彼は手巾を取り出して、サブリナの素足についた芝生や土汚れを拭う。
「ぁ、ぁ、あ・・・あのっ!そんなことなさらないでくださいっ!!」
看護する相手の足を拭くことなんて、星の数ほどやってきたが、自分がされるのは別物だ。しかもオーランドがやっていることにサブリナは動揺した。
サブリナの声はあっさり無視される。オーランドは黙々と拭き続けていたが、サブリナのつま先に手を添えたまま口を開いた。
「俺は覚悟がある」
「・・・!?」
その言葉に、彼があの夜のことを言っているのだと瞬時に分かる。サブリナは彼の顔を真っ直ぐに見返した。返事に迷っていると、拭き終わった左足に
長靴下を履かせてこようとするから、サブリナは仰天して、それを彼の手からひったくった。
「自分で出来ますっ!!見ないでくださいっ!!」
靴下まで脱いだ自分を呪いたい。鼓動が煩いほど跳ねまくる。
慌てて立ち上がり、長椅子の後ろに回り込んだサブリナの姿がおかしかったのか、もはや気が触れたとしか思えない令息は、くつくつと笑った。
「失礼した、じゃ俺は後を向いてる」
横目で彼が自分に背を向けたのを確認すると、サブリナはドレスの裾を捲りながら、急いで長靴下を履き、ガーターの紐でそれを止める。
ホッと安堵の息を吐いたのも一瞬で、靴が無いことに途方にくれた。
「・・・あの靴を・・・」
「こちらへ」
まただ、彼と脈絡のない会話になっている。彼はこういう時、絶対に譲らない。この後に何が起こるのか、もうサブリナは諦めるしかなかった。
振り返った彼に、また手を取られると椅子に座らせられる。
オーランドはあらためて跪くとサブリナの足首を取った。
さらりと足の甲を撫でられて、ゾクリと身体が震えたのはどちらが悪いのだろう。
「俺は覚悟がある、そう言った」
「・・・覚えております」
話題をあの夜に戻したいのか、サブリナは途方にくれて彼の頭のつむじを見つめた。あの夜の話はもうしたくない。
彼がゆっくりと片足にビジューが光る靴を履かせる。
「だけど・・・それだけでは足りないと気づいた」
「・・・」
何をとは聞けなかった。
聞くのが怖くて・・・聞いてしまえば、もう後戻りが出来なくなるような気がして。
丁寧な手つきで、もう片方の足を靴に押しこまれる。
「力が必要だと・・・圧倒的な強い力が」
「・・・力・・・ですか・・・?」
権力なら公爵家の継嗣として約束されているはずだ、それなのに何の力が必要なのか?
サブリナの問いに、そうだ、と答えると彼は恭しく頭を屈めた。
「オーランド様っ!!」
彼のしようとしていることに気づいて、静止の声を上げたが、強く掴まれた脚を引くことも出来ず。
彼の唇がつま先に触れるのをサブリナは呆然と見つめた。
どれだけの時間が経ったのか・・・オーランドがやっと顔を上げ、自失したままのサブリナを強い視線で射抜く。
月明かりに照らされた彼の顔には、今までにない決然とした意思のようなものが秘められていて・・・。
「だから、俺がなにものにも負けない強さを持った時・・・」
情熱の誘惑はサブリナを追い詰めていく。
「・・・その時は、俺の気持ちを聞いて欲しい」
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