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32 すれ違う、ぶつかり合う

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 夜も更け、湯浴みを終えて寝台脇の肘掛け椅子に座るとサブリナはほぉっと、先程までの出来事を心の中で反芻していた。

 オーランドから思いがけず誕生日を祝ってもらい、葡萄酒の酔いも残ってか、ふわふわとした夢の中にいるような気分だ。

 あの後、二人でまた手を繋ぎながら別邸まで戻り、夕涼みの散歩は終わったが、サブリナからしてみればなんとも甘酸っぱい思い出になったことは間違いない。

 あまりにも身分不相応な出来事だが、一人の女としてはとても嬉しかった。
まだ夢見心地のまま、甘い想いを胸にそろそろ寝ようかと思った時、部屋に控えめなノックの音が響いた。
 
 時刻はもう深夜。
エイブスや使用人がこの部屋を訪れることはまずない。夫人の容体に何か起これば、夫人の部屋の隣室で寝泊まりしているシャルが対応して、サブリナのもとに来る手筈になっている。
シャルはこんな静かに扉を叩いたりしない。
誰だろう、と訝しみながら「はい」と返事をしてして扉を開ける。

「・・・オーランド様」

 もしかしたら、と予想していたが、まさか本当にそうだとは思わず、実際に立っている彼の姿にびっくりしてしまう。思わず身体の動きが止まったが、「夜分にすまない・・・少しだけいいか?」と申し訳ない顔で言われてしまい、喘ぐように呼吸をした。

 こんな時間に若い男性を部屋に通すことなど許されない。だが「夫婦のふり」はそんな道徳や慎みをいとも簡単に忘れさせてしまう。

 どうぞ、と通せばオーランドは迷うような表情をしながら、でも静かに部屋に入ってきた。
彼はまだ先程と同じ服のままで、サブリナが贈ったスカーフも付けている。
湯浴みもせず、どうしたのだろう?と思いつつ、部屋の真ん中で向き合うと、オーランドの困ったような視線とぶつかり、しばらく見つめ合ってしまった。

 オーランドはとても迷うような顔をして、躊躇いがちに片手を差し出した。

「これを」
「?」

 オーランドはいつも「これを」と言って、サブリナに何かを与えようとする。それが要注意なのは学習済みだから、サブリナは一歩後ずさった。

「何かを頂戴することはできません」

 そう言うと、ご令息は途端に不機嫌そうに眉を顰め、わざとらしく溜め息らしきものを吐き出した。
だが、顰めるだけではサブリナが折れないことは学んでいるのだろう。今度は彼が一歩前に出ると、珍しく大きめの声で続けた。

「誕生日の祝いだ」
「先程、もう充分に祝っていただきました、ありがとうございます」

 そう答えたが、多分それだけでは彼が引かないだろうと思って「これ以上は過分でございます」と付け加え、使用人がするように腰を曲げて頭を下げると「やめろ」と珍しく怒気を滲ませたオーランドの声が頭上で響いた。
顔を上げるとイライラした怒りで顔を赤くした彼がいて、サブリナは悲しくなってしまう。

 せっかく先ほどまで甘い気持ちでいたのに・・・。

 自分のオーランドへの接し方がブレるから、優しい彼を傷つけるし自分の心もおかしくしてしまう。分かっているのに揺れる感情のままに振る舞ってしまう自分が嫌になる。

 だが、彼が持っている天鵞絨の箱はとても上等な雰囲気を醸し出していて、高価なものだということが一目で分かる。そんなものを自分は受け取ることは出来ない。

 悲しげな顔をしたサブリナに、今度はオーランドが慌てだす。自分の態度でサブリナが怯えたのかと思ったのだろう。

「す、すまない。大きな声を出すつもりは無かった。ただ・・・」

——これを受け取って欲しい——

 彼が小さな箱を開けて、取り出したものにサブリナの目は釘付けになった。
オーランドの手の中で光るそれ・・・シャンパーニュのような金色の細身の鎖と、ころんとした愛らしいリング形の中に、蝋燭の光に反射してキラキラ光る黒い石が8本爪で止められたシンプルな意匠の首飾りだ。

・・・これは・・・

 洗練された上品な首飾りにサブリナは一瞬見惚れ、そして困惑したままオーランドを見返した。どうみてもこの国で一般的なオニキスやスピネルには見えない。
サブリナが思うものであれば、看護の報酬であったとしても、絶対に受け取れない、絶対にだ。

 それなのに彼は唇を引き結んだ真剣な表情をすると、慎重な手つきで金具を外す。
そして、意を決したような目でサブリナを見つめると口を開いた。

「君は俺に言うなと言う。だから今は言わない。代わりにこれを着けていてくれ」

 彼の手の中で揺れるオーランドの瞳の色そのままのブラック・ダイアモンド。蝋燭の灯りを受けて眩く輝いている。

 だめです・・・とサブリナは小さく呟き、彼の視線から目を逸らして俯くと、イヤイヤをする様に頭を左右に振った。

 これを受け取ってしまえば、もう自分の気持ちを隠すことは出来なくなってしまう。

 そしてオーランドの気持ちを期待してしまう・・・母親の影響を受けているだけだと・・・勘違いしているだけだと・・・ただ自分という存在が物珍しいだけだと・・・そう思い続けることが難しくなってしまう。

 それなのに浅ましくも、その首飾りを・・・彼の心を、欲しいと思う気持ちから反くことも出来ず、途方にくれて首を振り続けた。

 頑なな態度のサブリナに、オーランドは焦れたのか、距離を詰めると強引に片手でサブリナの腰を抱き寄せた。

「オーランド様っ!?」

 ひどく真剣な眼差しに射抜くように見つめられて肩が震えてしまう。彼の手が腰や背筋を這い回り、熱い体温を感じてやっとサブリナは自分が薄い寝衣にガウンだけという姿だったことを思い出した時には、もう身体は彼の胸の中にぴたりと抱き込められていた。

「サブリナは酷い・・・」

 耳元に唇を押し付けられて、甘さを滲まさせたような声音で詰られる。

 そんな風に言われてもサブリナに返す言葉は無い。何と答えれば良いのか、言葉が見つからず途方にくれる。
オーランドの腕から抜けでようとしても、避暑の間に慣れてしまった心も身体も、圧倒的な力強さの前に、簡単に彼に身を委ねてしまいたくなる。息を詰めたまま彼の胸に頬を預ければ、オーランドの剣だこのあるごつごつした指が頸の毛をかき分けた。

「・・・ぁ」

 彼の吐息が耳元を通り過ぎ、頸にひんやりとした鎖と彼の手が這い回り、カチッと言う微かな音がサブリナの耳にも響くと、やっと顔からオーランドの胸が僅かに離れた。

 彼の手はまた腰に戻ってきて、離れることを許さないかのように抱き寄せられる。
自由になった顔を起こしてオーランドを見上げると、熱を帯びた闇のような瞳とかちあった。

「・・・似合ってる」

 呟くような言葉とともに、彼は片手を上げて、指先で鎖を辿りながら鎖骨に触れる。
サブリナも釣られるように、その指先を目線で追うと、胸元に先程の首飾りが揺れていて。

「・・・綺麗・・・」
「そうか」

 思わず呟いてしまうと、頭上からオーランドの嬉しそうな声が降ってくる。
顔を上げると破顔した彼がいて、驚きで息を飲んでしまった。

 自分に初めて見せた笑顔だ。

 いつも真顔か仏頂面か眉を顰めた顔しかしないのに・・・端正な面差しをの中に少年のような爽やかさを感じさせる優しい笑顔。
エブリスティに笑いかけていた時よりも遥かに甘さと優しさを滲ませる彼のそれに、サブリナの胸が乙女のように高鳴った。

 オーランドの指先が揺れるダイヤを弄び、またサブリナの鎖骨に躊躇いがちに触れる。つっと指が鎖骨を滑ると、あっと思うまもなく、彼の唇が胸元に滑り落ちた。

 熱い唇が鎖骨から首筋をたどり、きゅっとした痛みを感じたのは僅か。

「君は酷い・・・」

 また同じ言葉を言われるが、今度は与えられるゾクゾクした何かに混乱して言葉が出てこない。

「・・・ぁ、オーランド様・・・」

 背がしなるほどの力強さで抱きしめられ、首元に彼の顔が埋められると、オーランドが切なさを滲ませたような声音で続ける。

「サブリナは俺の気持ちを聞こうとしない・・・そんなに俺は男として頼りないか・・・態度だけじゃ限界だ・・・言わなきゃ何も始まらないじゃないか・・・っ!」

 思ってもいないことを懇々と胸元で呟かれてサブリナは激しく混乱する。
その間にも彼の手は背や腰を弄り、ガウンの紐がスルッと外されたのを感じた。

「ちっ、違い・・・ます・・・そんなこと・・・」

 思ってない、と言おうとした否定は彼の口の中に飲み込まれ、気づけばサブリナは寝台に押し倒されていた。

「ぁっ・・・オーランド・・・様っ!いけませっ・・・んっ!!」

 抵抗は彼の手に阻まれて、唇を自分のそれに押し当てられる。口付けられていると気づく前に、熱い舌が傍若無人にサブリナの口腔の中を暴れ回り、舌を絡め取られるとサブリナの身体から力が抜けた。

 彼に詰られる理由がわからない。だって自分達は「夫婦」を演じているだけ。そこにお互いの気持ちを通わすことは許されない。
オーランドはこの国の将来を担う筆頭公爵家の嫡男。

 仮に彼が自分に気持ちを寄せてくれたとしても、圧倒的な身分差と、そこに当然立ちはだかる彼の父親を超えることなど、到底不可能なのだから。

 ひとしきり舌を絡め合わせ、口蓋を擽られ唾液を啜られる。満足したようにオーランドが口付けを解き、サブリナを見下ろした。
掴まれていた手首は解放されたが、今度はいつも繋いでいた時のように指を絡められ、彼は体重をかけてのしかかると、反対の手でサブリナの髪の毛を掬い、口付ける。

「どうして、俺の気持ちを言っちゃいけないんだ」
「・・・それは・・・」
「ここでの日々を無かったことにするのか」

 切々と訴えるように言われてサブリナは混乱しっぱなしだ。
その間にもオーランドの唇は頬や耳を柔らかく吸い、手は優しく寝衣の上を撫でていく。

「聞きたくないなら言わない、だけど俺の心は、思う気持ちは俺のものだ。否定するな」

 強い意志を持った言葉に、サブリナは「ぁ」と小さく声を上げた。

 聞きたい、聞いてみたいな決まっている・・・でも聞きたくない、聞いてはいけない・・・オーランドの胸の内。

 何も言うことが出来ないサブリナに、焦れたように愛撫の手を強めてくる彼に、とうとうサブリナは白旗を上げそうになっていた。
ひたむきな情熱を向けられて、彼の劣情を全身で受け止めたい衝動に駆られる。

 どうせ、自分は・・・そう思って流されてしまいたくなって、彼の背中に腕を回そうとオーランドの熱い眼差しを見返した瞬間、ふっと冷や水を浴びせられたように心が冷えた。

 いけない・・・!!
この優しい方の名誉を貶めてしまう!
 
 脳裏を過ったのは、ただそれだけ。
自分の過去を思った瞬間、心が掻きむしりたくなるほどの悲しみに襲われて、サブリナはオーランドの胸を腕で突っぱねた。

「いけません・・・オーランド様・・・私に触れない・・・でっ・・・」

 絶対に自分のことでは泣かない、と決めていたのに、涙が滲みそうになる。堪えながら、オーランドの身体を押しのけると、サブリナは素早く寝台から飛び降りて、両腕で自分の身体を抱きしめた。

 彼が茫然と寝台の上でサブリナを見つめている。
ガウンの前を掻き合わせながら、決然とした顔つきに見えるように、精一杯の力を込めて彼の視線を受け止めた。

「オーランド様は私の評判をご存知のはず。私に触れたりなどされたら、オーランド様も、この公爵家も品位を貶めることになります」
「君の評判など・・・嘘だと分かる」
「・・・嘘?」

 令息の言葉にサブリナは皮肉げに頬を歪めた。

「どうして嘘だとお分かりに?そもそもどのようにご存知なのですか?」

 尋ねると、途端にオーランドの表情が先程までの甘いものから、困ったようなそれに変わった。

「お教えください、どうか」

 強いサブリナの口調に負けたように、彼が渋々と口を開いた。

「俺は・・・モントクレイユの醜聞は信じていない!!君がそんなことをする人間だなんて思えない!何度も父上に聞いたが教えてもらえなくて・・・」

 彼が叫ぶように言った醜聞という単語に、サブリナは「あぁ」と小さく嘆息した。やはり彼に伝わっているのは醜聞なのだ。

「私が男狂いが高じて、娼館で働いていた売女だと。それが原因でカルディア子爵から婚約破棄されたふしだらな傷物だと・・・そうご存知でいらっしゃるんですね」

 サブリナが冷静に言い放った言葉が部屋に響くと、オーランドは目を見開き息を飲んだ。

 そして二人の間は、シンと静まり返った。
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