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28 どうしようもなく近づく距離
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毒殺容疑の一件から2週間経ち、サブリナの頬の腫れや内出血の跡が消えた頃、サブリナは夫人とオーランド、そしてシャルを含む使用人達とともに、王都から離れた避暑地の別邸に来ていた。
爽やかな風の香りを感じられる森と澄んだ湖がある風光明媚な場所に、ウィテカー公爵家の離宮のような佇まいの瀟洒な別邸はあり、そこにサブリナも夫人達と一緒に滞在していたのだ。
・・・オーランドの妻として。
それは、サブリナにしてみれば唐突な話だった。
「えっ?避暑でございますか?」
サブリナは夫人のにこやかな笑みを、驚いて見返した。
「ええ、そう。旦那様はお仕事で行けないけれど、お許しは頂いたわ。オーリーも一緒よ」
地下牢の釈放から3日後、夫人は決定事項としてサブリナに別邸行きを告げた。その頃には使用人達が先に出立し、滞在の準備を始めていた。
サブリナは夫人が自分を気遣ってのことではないかと思い、その申し出に及び腰になった。
なによりもオーランドとこれ以上、親密になることを避けたい気持ちが強いからだ。
投獄された自分への気遣いなら必要ない、と言おうとしたが、夫人が先手を打った。
「来年のこの時期を私は待つことができない。いまのうちに新婚時代やオーリー、ナディア達と避暑を過ごした別邸に行きたいの。お願い、ブリー」
そう言われてしまえば否とはいえない。自分の命の期限を知っている夫人の願いに、サブリナは拒否することは出来ないのだから。
夫人が思い出の場所で過ごしたいと願えば何としても叶えてやりたい。
それに、今の夫人の体調を考えれば少しでも涼しい場所で一夏過ごすことは得策だ。
サブリナが公爵家に来て9ヶ月。
今の夫人はサブリナの看護や処方を変えた薬草類のおかげで小康状態だ。一年と言われた期間は無事に越えられるだろう。
だが胎内や胸の腫瘤は小さくなっていず、着実に大きくなっているのも事実だ。いつなんどき、それらが心臓や他の臓器に牙を剥くかは分からない。
だからこそ、今という一瞬を精一杯夫人の望むように過ごさせてあげたい。
それが看護者としても・・・仮初の義娘としての強い願いでもある。
サブリナはにこやかに笑う夫人の顔を見つめてニッコリと笑うと「ぜひ、お義母様。避暑なんて初めてだから楽しみです」そう答えていた。
「今日の昼食はサブリナと湖畔で食べようと思うが、母上はいかがされますか?」
朝食後、夫人のマッサージをしている横で興味なさげに本を読んでいたオーランドは、顔を上げるといきなりそんなことを言って、サブリナは椅子から転がり落ちそうになった。
サブリナと取り止めもない会話を楽しんでいた夫人はオーランドの言葉に瞳をキラキラ輝かせると、それはそれは嬉しそうに答える。
「オーリー、それは素敵ね。湖畔には四阿もあるし。ブリーと散策をしてくると良いわ。ボート遊びはどう?」
「ボートはまだ新しいのが来てないのでそれは後日に」
涼しげな顔で夫人と話すオーランドに、余計なことを言うな、と言う意思を必死に目ヂカラに込めて、彼を見るがオーランドはガン無視で母親とボートや四阿の整備状態について話している。
夫人はサブリナと過ごすための息子の計画?を嬉しそうに聞くと答えた。
「オーリー、私は午後はシャルに刺繍を教える約束をしているから遠慮するわ。若夫婦で楽しんでいらっしゃい」
「奥様!!でもっ!!」
若夫婦!?なんてことを!!
サブリナが動揺混じりの声を上げると、夫人はふふっと笑ってサブリナを楽しそうに見つめた。
「ブリー、湖畔から少し入った森には秘密のクロスグリの実が生っている場所があるのよ。私はあれで作った果実シロップやジャムが大好きなの。オーリーが自生している場所を知っているから、二人で取ってきて欲しいわ」
でも、と言い淀むサブリナに夫人はニッコリ笑いかけた。
「ここのことを良く知って欲しいの。この別邸は素敵なところなのよ。お願い」
そう言われるとサブリナは観念するしかない。オーランドは夫人のその言葉に、決まりだな、と言うと立ち上がった。
「では12時に迎えに来る」
それだけ言うと彼は、サブリナの答えも聞かず部屋を出て行ってしまったのだった。
もう、どうしよう・・・。
彼に手を繋がれ、湖畔をゆっくりと散歩する。オーランドの手の温もりに、サブリナの心拍数は上がりっぱなしだ。
別邸について1週間、サブリナは夫人の目のない場所ではオーランドから距離を取っていた。
どちらかと言えば、自分が看護を理由に夫人にベッタリと張り付いて、オーランドと二人きりにならないように気を付けていたのだ。
毒殺容疑で地下牢に投獄されたあの夜から、サブリナのオーランドに対する思慕は決定的なものへ変化した。
駄目だと自分の心に何度言い聞かせても、ふとした拍子に溢れ出してしまいそうになる。
オーランドがサブリナを大切に接してくれていても、ウィテカー宰相は許さないし、自分だって【結婚の振り】を破るつもりはない。
それでも・・・。
「ここで食事をしよう」
オーランドはサブリナの手を離すと、湖畔の草むらにブランケットを広げた。食事が入った籠をそこに置くと、サブリナに座るように促す。
ブランケットに腰を下ろして、サブリナは間を持たせるように籠の中から、料理人が準備してくれた昼食を取り出してブランケットに並べた。オーランドは彼女の隣に座り込むと、果実水の瓶を取り出しグラスに注ぐ。オーランドは自宅にいるときは母親を気にしてか、飲めるだろうに酒は嗜まない。
サブリナは肉を挟んだパンを差し出すと彼はそれを受け取り、代わりに果実水のグラスをサブリナに渡す。
奇妙な沈黙が満ちた食事が始まった。
お互い何を話すでもなく、ただ眼前に広がる静かに煌めく湖畔に目をやりながら黙々と咀嚼する。もはや馴染みとなった気詰まりな雰囲気に、だがサブリナは心地よさを感じていた。
避けているのに、二人きりになれば嬉しい。そんな相反した感情と葛藤し続けている。
ほどなく肉やパン、付け合わせのピクルスを食べ終わり、サブリナは籠から果物や焼き菓子を取り出した。
酒を飲まない代わりに彼は良く果物や焼き菓子などの甘いものを好む。
「デザートは召し上が・・・えっ!?」
彼の横顔を見て声をかけたはずだった。
だが、オーランドはサブリナにチラリと視線をやると、いきなりごろりと寝転がり、そして頭をサブリナの膝に乗せたのだ。
「ウィテカー公爵卿っ!!なっ!何をっ!!!!」
突然のオーランドの暴挙に狼狽えて、大きな声を上げると、オーランドは安定の仏頂面でサブリナを漆黒の瞳で見上げた。
「その呼び方は、いい加減やめろ」
「え?」
「卿なんて引退したジジイみたいで、虫唾が走る」
いきなり呼び方を注意されてサブリナは目を瞬かせた。名前を呼べと言われて、頑なに拒否していたのは自分だ。あまりにも身分不相応だと思っていたから。
「あ・・・申し訳ございま・・・」
「謝って欲しいわけじゃない」
言って彼はサブリナの手を取ると指先に唇を這わす。
「ひゃうっ!!ウィテカーこうっ・・・ぁっ!!」
ねっとりと湿った感触が指先を這い回るのに驚いた手を引こうとしてもがっちりと捕まれ逃げられない。公爵卿と呼ぼうとすると、かりりと歯を立てられた。
「オーランドと」
出来ない、と頑なに目を瞑って頭を左右に振ると、今度は指先を口に含まれる。
「ぃやっ・・・」
「君の指は甘いな・・・」
サブリナの弱々しい拒絶はあっさり無視され、オーランドの度を超えた接触は続く。
甘いのはさっきメレンゲを焼いたクッキーを手に持っていたからだと言い返したかったが、依然続くいたずらにサブリナは言葉が出ない。
「難しく考えるな、オーランドと」
手の甲にも舌を這わされる。手を振り払おうとしたのに、オーランドの声音に懇願のような弱々しさが混ざっているのに気づいた瞬間、サブリナは根負けした。
「・・・・・・ォ・・・ラン・・・ド・・・様」
「聞こえない」
冷たい声音に目を開けて彼を見下ろせば、真剣な彼の瞳と視線が絡まって、サブリナは震える唇でもう一度禁じたはずのそれを口にした。
「・・・オーランド様」
「様はいらない」
オーランドの頑とした物言いに言葉に詰まりながらも、サブリナは「そんな恐れ多い」と呟く。
オーランドはそれを聞いてニヤリと意地の悪い笑みを口元に浮かべると、サブリナの手を握りしめているのとは反対の手を伸ばし、彼女の頬を柔らかく撫でた。
地下牢で同じように優しく触れられたことを思い出して、頬が上気するサブリナの顔を見つめたまま、オーランドが口を開いた。
「なぜ俺から距離を置く?」
「えっ!?」
そんなの雇われた看護者だから当たり前、雇用主と使用人の関係だ、と切り返せば良かったが、彼の頭の重みを膝に感じると言う異常事態に、サブリナの思考は止まっていた。
なんでそんな事を言うのかとおろおろしながら、マジマジと彼の顔を見下ろすとオーランドはたたみかけた。
「君にとって俺は頼りない男か?」
「っ!!まさかっ!!そんなっ!!」
論点がややズレていることに気付くこともできず、考えもしなかった問いにびっくりして頭を振って否定する。
「じゃ、年下だからダメなのか?」
「どうしてそんなことを!・・・私を地下牢で守ってくださいました。ご信頼しております」
そう言い募るサブリナにオーランドは皮肉気な笑みを口端に浮かべると続ける。
「そうか?では父上の言いなりになっている甘えた坊ちゃんと思っているんだろう?」
自虐めいた彼らしからぬ言葉にサブリナは困惑するばかり。なぜ急にこんなことを言い出したのか。
「ウィテカー公爵卿は・・・」
「俺はまだジジイか」
ブスっと子供じみた表情に思わず笑みが浮かんでしまう。申し上げございません、と謝れば謝罪はいらないと、また不貞腐れられ、堂々巡りにサブリナは笑いながら続けた。
「オーランド様・・・はご立派であられられます。真っ直ぐでいつも正直でいらっしゃって。奥様の教えをしっかりと実践されていらっしゃいます。宰相様の言いなりなど・・・」
「父上の傀儡、操り人形でしかないのに?」
「そのようなことは・・・」
「あるさ、誰もが俺のことを父上の威光を傘に来た若造で、父親の言いなりだと思っている」
最後に付け加えられた「君もそう思うだろう」と言うオーランドの辛辣な言葉にサブリナは息を呑んだ。
彼は父親が強要した結婚の振りを後悔しているのだろうか・・・それは、もしかしなくても自分のためにそう思ってくれているのだろうか。
彼は最初からサブリナのために宰相の提案を反対し続けていた。あまつさえ、宰相に掴みかかった。その彼の正義感を無碍にしたのは自分なのだから、彼が父親のいいなりになったと自分を責める必要はない。
誰も二人を見咎める者がいないこの場所。
開放的な空気のせいか、サブリナの心の強張りも解れていったのか。
サブリナはオーランドに優しい眼差しを向けた。
最上貴族の継嗣、王族に連なる血筋。
ましてや父親が近隣諸国も含めて屈指の頭脳を誇る宰相となれば、自身の存在意義を問うことも、この年頃の男性であれば多いのだろう。
父親の敷いた道の上を歩かされている、と葛藤しているのかもしれない。
オーランドの手の体温を感じながら、彼の自虐的な言葉に答えあぐねていた。
サブリナの困った顔が面白かったのか、オーランドは珍しくぷぷっと吹き出した。
「君でもそんな顔するんだな」
「どんな顔ですか?」
「眉尻下げた面白い顔だ。そんな表情したことないだろ」
ああ、俺が靴を拾った時もそんな顔してたな、と最初の頃の失態を引っ張り出して、面白おかしく言う彼にサブリナは「普段の私はどんな風な顔をしているんですか」とむくれ気味に聞いてしまったのは仕方がないだろう。
オーランドは考え込むような顔をした。頬をまた彼の指が滑る。彼は眩しいのか目を細めながら言葉を継いだ。
「大地のように落ち着いていて、静寂《しじま》のように凛としていて・・・そして聖母のように慈愛に溢れた顔をしている・・・ああ、でも君は天使か」
なんてことを・・・思わぬオーランドの評価にみるみるサブリナの鼓動は早まった。
ふいにオーランドは身体を起こすと、繋いだ指にぎゅっと力を込めてきた。
頬に触れる手のひら、繋がれた指先はそのままに、真っ直ぐに赤くなったサブリナの瞳を覗き込む。
「サブリナ」
甘く名前を呼ばれて胸がときめいて。
頬に添えられた彼の手にわずかに力が入るのを感じて。
「口付けても?」
彼は卑怯だ。そんな問いに答えられないのに、黙ったまま息を詰めて見つめ合う。
頬が引き寄せられ、オーランドの顔が近づいてくる。たまらずサブリナは目を閉じた。
彼の唇が静かに押し当てられ、二度三度と啄まられる。
次第に熱を帯びてくると、オーランドは頬に添えた手を頸から髪の後ろに差し入れて深く口付けてきた。
「ん・・・ふぁっ・・・」
酸素を求めて薄くあけた唇から、オーランドの舌が早急に押し入ってくる。ぬらぬらと縮こまる舌を絡め取られ甘く歯を立てられると、鼻にかかったような吐息が漏れ出てしまう。
彼の舌が縦横無尽に口蓋をあますことなく舐め、くすぐられるとサブリナの身体は震えた。
それを宥めるように、繋いでいた手を離され背中を軽く撫で抱きしめられる。
どれほどの時間が経ったのか。
やっと絡まる舌を開放されて、サブリナはぼんやりと眼を開ける。目の前のオーランドが自分を見つめる瞳は熱情に駆られたような深い闇だ。
恥ずかしくて思わず下を向こうとしたが、それは許されなかった。
彼は濡れたサブリナの唇を親指で拭うと、額をサブリナのそれにひたりとくっつけた。
戸惑う彼女の瞳を覗き込みながら彼は真剣な顔で甘い言葉を紡ぐ。
「俺はサブリナを何があっても守る。君は俺の妻だ」
彼の言葉の真意をはかりかねて、でもその言葉を【結婚の振り】だからと拒絶することも出来ず、サブリナは鼻先に触れた彼の唇を感じると、また口付けを受け入れていた。
爽やかな風の香りを感じられる森と澄んだ湖がある風光明媚な場所に、ウィテカー公爵家の離宮のような佇まいの瀟洒な別邸はあり、そこにサブリナも夫人達と一緒に滞在していたのだ。
・・・オーランドの妻として。
それは、サブリナにしてみれば唐突な話だった。
「えっ?避暑でございますか?」
サブリナは夫人のにこやかな笑みを、驚いて見返した。
「ええ、そう。旦那様はお仕事で行けないけれど、お許しは頂いたわ。オーリーも一緒よ」
地下牢の釈放から3日後、夫人は決定事項としてサブリナに別邸行きを告げた。その頃には使用人達が先に出立し、滞在の準備を始めていた。
サブリナは夫人が自分を気遣ってのことではないかと思い、その申し出に及び腰になった。
なによりもオーランドとこれ以上、親密になることを避けたい気持ちが強いからだ。
投獄された自分への気遣いなら必要ない、と言おうとしたが、夫人が先手を打った。
「来年のこの時期を私は待つことができない。いまのうちに新婚時代やオーリー、ナディア達と避暑を過ごした別邸に行きたいの。お願い、ブリー」
そう言われてしまえば否とはいえない。自分の命の期限を知っている夫人の願いに、サブリナは拒否することは出来ないのだから。
夫人が思い出の場所で過ごしたいと願えば何としても叶えてやりたい。
それに、今の夫人の体調を考えれば少しでも涼しい場所で一夏過ごすことは得策だ。
サブリナが公爵家に来て9ヶ月。
今の夫人はサブリナの看護や処方を変えた薬草類のおかげで小康状態だ。一年と言われた期間は無事に越えられるだろう。
だが胎内や胸の腫瘤は小さくなっていず、着実に大きくなっているのも事実だ。いつなんどき、それらが心臓や他の臓器に牙を剥くかは分からない。
だからこそ、今という一瞬を精一杯夫人の望むように過ごさせてあげたい。
それが看護者としても・・・仮初の義娘としての強い願いでもある。
サブリナはにこやかに笑う夫人の顔を見つめてニッコリと笑うと「ぜひ、お義母様。避暑なんて初めてだから楽しみです」そう答えていた。
「今日の昼食はサブリナと湖畔で食べようと思うが、母上はいかがされますか?」
朝食後、夫人のマッサージをしている横で興味なさげに本を読んでいたオーランドは、顔を上げるといきなりそんなことを言って、サブリナは椅子から転がり落ちそうになった。
サブリナと取り止めもない会話を楽しんでいた夫人はオーランドの言葉に瞳をキラキラ輝かせると、それはそれは嬉しそうに答える。
「オーリー、それは素敵ね。湖畔には四阿もあるし。ブリーと散策をしてくると良いわ。ボート遊びはどう?」
「ボートはまだ新しいのが来てないのでそれは後日に」
涼しげな顔で夫人と話すオーランドに、余計なことを言うな、と言う意思を必死に目ヂカラに込めて、彼を見るがオーランドはガン無視で母親とボートや四阿の整備状態について話している。
夫人はサブリナと過ごすための息子の計画?を嬉しそうに聞くと答えた。
「オーリー、私は午後はシャルに刺繍を教える約束をしているから遠慮するわ。若夫婦で楽しんでいらっしゃい」
「奥様!!でもっ!!」
若夫婦!?なんてことを!!
サブリナが動揺混じりの声を上げると、夫人はふふっと笑ってサブリナを楽しそうに見つめた。
「ブリー、湖畔から少し入った森には秘密のクロスグリの実が生っている場所があるのよ。私はあれで作った果実シロップやジャムが大好きなの。オーリーが自生している場所を知っているから、二人で取ってきて欲しいわ」
でも、と言い淀むサブリナに夫人はニッコリ笑いかけた。
「ここのことを良く知って欲しいの。この別邸は素敵なところなのよ。お願い」
そう言われるとサブリナは観念するしかない。オーランドは夫人のその言葉に、決まりだな、と言うと立ち上がった。
「では12時に迎えに来る」
それだけ言うと彼は、サブリナの答えも聞かず部屋を出て行ってしまったのだった。
もう、どうしよう・・・。
彼に手を繋がれ、湖畔をゆっくりと散歩する。オーランドの手の温もりに、サブリナの心拍数は上がりっぱなしだ。
別邸について1週間、サブリナは夫人の目のない場所ではオーランドから距離を取っていた。
どちらかと言えば、自分が看護を理由に夫人にベッタリと張り付いて、オーランドと二人きりにならないように気を付けていたのだ。
毒殺容疑で地下牢に投獄されたあの夜から、サブリナのオーランドに対する思慕は決定的なものへ変化した。
駄目だと自分の心に何度言い聞かせても、ふとした拍子に溢れ出してしまいそうになる。
オーランドがサブリナを大切に接してくれていても、ウィテカー宰相は許さないし、自分だって【結婚の振り】を破るつもりはない。
それでも・・・。
「ここで食事をしよう」
オーランドはサブリナの手を離すと、湖畔の草むらにブランケットを広げた。食事が入った籠をそこに置くと、サブリナに座るように促す。
ブランケットに腰を下ろして、サブリナは間を持たせるように籠の中から、料理人が準備してくれた昼食を取り出してブランケットに並べた。オーランドは彼女の隣に座り込むと、果実水の瓶を取り出しグラスに注ぐ。オーランドは自宅にいるときは母親を気にしてか、飲めるだろうに酒は嗜まない。
サブリナは肉を挟んだパンを差し出すと彼はそれを受け取り、代わりに果実水のグラスをサブリナに渡す。
奇妙な沈黙が満ちた食事が始まった。
お互い何を話すでもなく、ただ眼前に広がる静かに煌めく湖畔に目をやりながら黙々と咀嚼する。もはや馴染みとなった気詰まりな雰囲気に、だがサブリナは心地よさを感じていた。
避けているのに、二人きりになれば嬉しい。そんな相反した感情と葛藤し続けている。
ほどなく肉やパン、付け合わせのピクルスを食べ終わり、サブリナは籠から果物や焼き菓子を取り出した。
酒を飲まない代わりに彼は良く果物や焼き菓子などの甘いものを好む。
「デザートは召し上が・・・えっ!?」
彼の横顔を見て声をかけたはずだった。
だが、オーランドはサブリナにチラリと視線をやると、いきなりごろりと寝転がり、そして頭をサブリナの膝に乗せたのだ。
「ウィテカー公爵卿っ!!なっ!何をっ!!!!」
突然のオーランドの暴挙に狼狽えて、大きな声を上げると、オーランドは安定の仏頂面でサブリナを漆黒の瞳で見上げた。
「その呼び方は、いい加減やめろ」
「え?」
「卿なんて引退したジジイみたいで、虫唾が走る」
いきなり呼び方を注意されてサブリナは目を瞬かせた。名前を呼べと言われて、頑なに拒否していたのは自分だ。あまりにも身分不相応だと思っていたから。
「あ・・・申し訳ございま・・・」
「謝って欲しいわけじゃない」
言って彼はサブリナの手を取ると指先に唇を這わす。
「ひゃうっ!!ウィテカーこうっ・・・ぁっ!!」
ねっとりと湿った感触が指先を這い回るのに驚いた手を引こうとしてもがっちりと捕まれ逃げられない。公爵卿と呼ぼうとすると、かりりと歯を立てられた。
「オーランドと」
出来ない、と頑なに目を瞑って頭を左右に振ると、今度は指先を口に含まれる。
「ぃやっ・・・」
「君の指は甘いな・・・」
サブリナの弱々しい拒絶はあっさり無視され、オーランドの度を超えた接触は続く。
甘いのはさっきメレンゲを焼いたクッキーを手に持っていたからだと言い返したかったが、依然続くいたずらにサブリナは言葉が出ない。
「難しく考えるな、オーランドと」
手の甲にも舌を這わされる。手を振り払おうとしたのに、オーランドの声音に懇願のような弱々しさが混ざっているのに気づいた瞬間、サブリナは根負けした。
「・・・・・・ォ・・・ラン・・・ド・・・様」
「聞こえない」
冷たい声音に目を開けて彼を見下ろせば、真剣な彼の瞳と視線が絡まって、サブリナは震える唇でもう一度禁じたはずのそれを口にした。
「・・・オーランド様」
「様はいらない」
オーランドの頑とした物言いに言葉に詰まりながらも、サブリナは「そんな恐れ多い」と呟く。
オーランドはそれを聞いてニヤリと意地の悪い笑みを口元に浮かべると、サブリナの手を握りしめているのとは反対の手を伸ばし、彼女の頬を柔らかく撫でた。
地下牢で同じように優しく触れられたことを思い出して、頬が上気するサブリナの顔を見つめたまま、オーランドが口を開いた。
「なぜ俺から距離を置く?」
「えっ!?」
そんなの雇われた看護者だから当たり前、雇用主と使用人の関係だ、と切り返せば良かったが、彼の頭の重みを膝に感じると言う異常事態に、サブリナの思考は止まっていた。
なんでそんな事を言うのかとおろおろしながら、マジマジと彼の顔を見下ろすとオーランドはたたみかけた。
「君にとって俺は頼りない男か?」
「っ!!まさかっ!!そんなっ!!」
論点がややズレていることに気付くこともできず、考えもしなかった問いにびっくりして頭を振って否定する。
「じゃ、年下だからダメなのか?」
「どうしてそんなことを!・・・私を地下牢で守ってくださいました。ご信頼しております」
そう言い募るサブリナにオーランドは皮肉気な笑みを口端に浮かべると続ける。
「そうか?では父上の言いなりになっている甘えた坊ちゃんと思っているんだろう?」
自虐めいた彼らしからぬ言葉にサブリナは困惑するばかり。なぜ急にこんなことを言い出したのか。
「ウィテカー公爵卿は・・・」
「俺はまだジジイか」
ブスっと子供じみた表情に思わず笑みが浮かんでしまう。申し上げございません、と謝れば謝罪はいらないと、また不貞腐れられ、堂々巡りにサブリナは笑いながら続けた。
「オーランド様・・・はご立派であられられます。真っ直ぐでいつも正直でいらっしゃって。奥様の教えをしっかりと実践されていらっしゃいます。宰相様の言いなりなど・・・」
「父上の傀儡、操り人形でしかないのに?」
「そのようなことは・・・」
「あるさ、誰もが俺のことを父上の威光を傘に来た若造で、父親の言いなりだと思っている」
最後に付け加えられた「君もそう思うだろう」と言うオーランドの辛辣な言葉にサブリナは息を呑んだ。
彼は父親が強要した結婚の振りを後悔しているのだろうか・・・それは、もしかしなくても自分のためにそう思ってくれているのだろうか。
彼は最初からサブリナのために宰相の提案を反対し続けていた。あまつさえ、宰相に掴みかかった。その彼の正義感を無碍にしたのは自分なのだから、彼が父親のいいなりになったと自分を責める必要はない。
誰も二人を見咎める者がいないこの場所。
開放的な空気のせいか、サブリナの心の強張りも解れていったのか。
サブリナはオーランドに優しい眼差しを向けた。
最上貴族の継嗣、王族に連なる血筋。
ましてや父親が近隣諸国も含めて屈指の頭脳を誇る宰相となれば、自身の存在意義を問うことも、この年頃の男性であれば多いのだろう。
父親の敷いた道の上を歩かされている、と葛藤しているのかもしれない。
オーランドの手の体温を感じながら、彼の自虐的な言葉に答えあぐねていた。
サブリナの困った顔が面白かったのか、オーランドは珍しくぷぷっと吹き出した。
「君でもそんな顔するんだな」
「どんな顔ですか?」
「眉尻下げた面白い顔だ。そんな表情したことないだろ」
ああ、俺が靴を拾った時もそんな顔してたな、と最初の頃の失態を引っ張り出して、面白おかしく言う彼にサブリナは「普段の私はどんな風な顔をしているんですか」とむくれ気味に聞いてしまったのは仕方がないだろう。
オーランドは考え込むような顔をした。頬をまた彼の指が滑る。彼は眩しいのか目を細めながら言葉を継いだ。
「大地のように落ち着いていて、静寂《しじま》のように凛としていて・・・そして聖母のように慈愛に溢れた顔をしている・・・ああ、でも君は天使か」
なんてことを・・・思わぬオーランドの評価にみるみるサブリナの鼓動は早まった。
ふいにオーランドは身体を起こすと、繋いだ指にぎゅっと力を込めてきた。
頬に触れる手のひら、繋がれた指先はそのままに、真っ直ぐに赤くなったサブリナの瞳を覗き込む。
「サブリナ」
甘く名前を呼ばれて胸がときめいて。
頬に添えられた彼の手にわずかに力が入るのを感じて。
「口付けても?」
彼は卑怯だ。そんな問いに答えられないのに、黙ったまま息を詰めて見つめ合う。
頬が引き寄せられ、オーランドの顔が近づいてくる。たまらずサブリナは目を閉じた。
彼の唇が静かに押し当てられ、二度三度と啄まられる。
次第に熱を帯びてくると、オーランドは頬に添えた手を頸から髪の後ろに差し入れて深く口付けてきた。
「ん・・・ふぁっ・・・」
酸素を求めて薄くあけた唇から、オーランドの舌が早急に押し入ってくる。ぬらぬらと縮こまる舌を絡め取られ甘く歯を立てられると、鼻にかかったような吐息が漏れ出てしまう。
彼の舌が縦横無尽に口蓋をあますことなく舐め、くすぐられるとサブリナの身体は震えた。
それを宥めるように、繋いでいた手を離され背中を軽く撫で抱きしめられる。
どれほどの時間が経ったのか。
やっと絡まる舌を開放されて、サブリナはぼんやりと眼を開ける。目の前のオーランドが自分を見つめる瞳は熱情に駆られたような深い闇だ。
恥ずかしくて思わず下を向こうとしたが、それは許されなかった。
彼は濡れたサブリナの唇を親指で拭うと、額をサブリナのそれにひたりとくっつけた。
戸惑う彼女の瞳を覗き込みながら彼は真剣な顔で甘い言葉を紡ぐ。
「俺はサブリナを何があっても守る。君は俺の妻だ」
彼の言葉の真意をはかりかねて、でもその言葉を【結婚の振り】だからと拒絶することも出来ず、サブリナは鼻先に触れた彼の唇を感じると、また口付けを受け入れていた。
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