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20 演じる結婚式

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目の前に広げられたドレスにサブリナは戸惑いの眼を向けた。

「私《わたくし》の婚礼衣装よ、綺麗でしょう?」

 健康だった時を彷彿とさせるチャーミングな笑顔で宰相夫人のディアラはそうサブリナの視線に答えると、当時を懐かしむかのように上質な生成りがかったレースをそっと撫でる。

「はい、とても美しいです」

 そうサブリナが答えると夫人は嬉しそうに微笑むと、驚くべきことを口にした。

「ブリーに着て欲しいの、オーリーとの結婚式で」

「・・・奥様・・・何を・・・?」

 思ってもいない夫人の言葉に、思わず口籠もると、夫人はレースを撫でながら、真っ直ぐにサブリナを見つめる。

「私の我儘だけど、ブリーがオーリーとの婚姻を受けてくれて、とても嬉しいの」

「受けるなんて・・・身分を考えれば私の方が身に余るお申し出です」

 そう言うと夫人は、少しばかり悲しげに目尻を下げて続けた。

「家格差で辛い思いをさせるつもりはないわ、旦那様がなんとかしてくれると仰ってるから」

 宰相がなんとかする・・・そんなことはあり得ないのだ。

「二人の結婚のお披露目は、まだ陛下や周辺の貴族達との調整があるらしくて・・・すぐにはできないと仰られて。しばらくは内密の結婚になってしまうことがブリーに申し訳ないけど、心配しないでちょうだい」

 サブリナはこっそり嘆息した。
いったい、宰相はどれだけの嘘を妻に重ねてまで、この【振り】をやり遂げたいのか・・・そこに宰相の狂気めいた本気を感じる。

「お式だけ私の調子が良いうちに、当家の教会であげて欲しくて・・・誰もお招き出来ないし、ドレスも仕立てが間に合わなくて私のものになってしまって・・・急がせるようでごめんなさいね」

 その言葉に夫人の強い決意を感じて、サブリナは顔を上げると、ずっと気になっていたことを思い切って口にした。

「奥様は・・・その・・・なぜ私なのですか?大切なご嫡男の妻なのに・・・私は年上ですし、貴族令嬢には程遠い育ち方をしています・・・それに・・・」

 そこまで言って嫌な過去が蘇る。言いたくないが、宰相夫人が知らないはずは無いのだ。

「それに、私の評判を耳にされていると思います。そんな女を大切なご令息の嫁に選ぶなんて・・・普通じゃあり得ません」

 一気にそう言って夫人を見返すと、彼女は鈴を転がすような笑い声を上げた。

「そうね、噂だけなら確かに」
 
 彼女はそっとサブリナの手を握った。

「だってオーリーはブリーに懸想してるから」
「えぇっ?!

 爆弾発言に驚くと夫人は「母親ですもの、息子のことくらいわかります」とやけにキッパリ言うと、その顔を優しいものに変えて続ける。

「それに私はブリーの人柄や心根の美しさ、度量の大きさを知っている。そして芯の強さを。噂は何の意味もない。そしてあなたは、その力で私にもう一度生きる力をくれた・・・あなたであれば、オーリーを支えてくれると感じたわ」

「そんな・・・」

 思いがけない賛辞にサブリナは言葉を失った。夫人の冷たい手がぎゅっと自分の指を握りしめる。

「あの子は、オーリーは生真面目で融通が効かない頑固物だけど、優しいのよ」

 知っている・・・仏頂面の下で、彼はいつだって自分のことを良く見て、優しく気遣ってくれた・・・。

「公爵家の継嗣として厳しく育て過ぎてしまったかもしれない。本当のあの子は寂しがり屋の甘えん坊さんなの。でも絶対に弱みを見せない子だから・・・私亡き後、あの子にはたくさんの愛情と包容力で支えてくれる方が必要だから」

 夫人はそこまで言うと、必死な顔をしてサブリナを見た。

「あなたならオーリーの隣であの子を支え、あの子の心を守ってくれると私は信じてます、ブリー、どうかオーリーを・・・オーランドをお願いします」

 母親の息子に対する揺るぎない愛情と自分に対する大きな信頼の前に、何も言うことが出来なかった。

 嘘を吐く罪悪感、叶えることのできない悲しみ、それらに押し潰されそうになりながら、サブリナはただただ夫人の言葉に頷いていた。





 その日の午後、サブリナはオーランドに呼ばれた。
 
 あの日——結婚の振りを断れ、断らないの言い争いから顔を合わすことは無かった。
気まずかったから、ホッとしていたのだが、今日は夫人直々に「午後、オーリーと結婚式の準備の話をしてちょうだい」と言われてしまい、断る理由が見つからなかった。

 応接室で待っているとエイブスに言われて向かうと、彼が廊下の壁際にもたれて腕を組んで立っている。どうやら、自分を待ってくれていたようだ。

 久しぶりに見るオーランドの顔は、騎士団の職務が多忙だったのか幾分憔悴したような気怠さがある。
身体を起こして彼はサブリナをじっと見つめた。その視線が気怠さと相まって、男性特有の色気なようなものを匂わせて、思わずサブリナは視線を逸らして挨拶をした。

「お待たせして申し訳ございません」
「・・・別に待たされてない」

 彼は呟くように、そう言うとサブリナの手を取った。

「なっ!何をっ!」

 彼に触れられることに動揺するサブリナをオーランドは、静かな眼差しで見下ろす。

「これから、こういうことも増える。・・・俺に怯えないでくれ」

 口調が少し傷ついたように感じられて、サブリナは思わず彼を見返してしまった。
彼はサブリナの視線を真っ直ぐに受け止めると、頬を赤くし口籠もりながら続けた。

「無体なことはしない、約束する」

 その言葉を聞いた瞬間、多分、彼は自分の噂を知っているのだろう、と感じる。果たしてどちらの噂を知っているのだろうか。
どちらにしても知られたくなかった、と心臓がギュッと縮むように冷えたのに、オーランドの仏頂面の中で、漆黒の瞳だけは困ったような翳りを見せているのが分かった。その瞳に今度は心の中が熱くなる。

 彼は優しい。
自分を怖がらせないよう、怯えさせないよう神経を張り巡らせ、慮ってくれている。

 サブリナは軽く頭を下げると「お気遣いありがとうございます。気をつけます」と答えた。
杓子定規で、なんら愛想のない返事であるのは百も承知。

 でも、自分は彼の言動に浮かれてはいけない立場だ。

 オーランドは愁眉のまま、静かに用件を告げた。

「母上が呼んだ仕立て屋が来てる」
「えっ!?」

 どう言うことか分からずに目を見開いたサブリナに、珍しくオーランドはふっと口元を緩めた。

「婚礼衣装のサイズの調整と、夜会用のドレスを作るためだ。採寸をするそうだ」

 令嬢のようにエスコートされることに戸惑いつつ、オーランドのその言葉に、でも・・・とサブリナは言い淀んだ。その仕立て屋にどんな説明をしたのか・・・結婚のケの字も出してはいけないのだ。

 サブリナの心配が分かったのだろう、オーランドは仏頂面に戻ると、心配はない、と言った。

「母上の遠縁の娘ということにしてある。嫁ぐのに、母上のドレスを貸すと言う話しをしてある。だから気にしなくて大丈夫だ」

「・・・そうですか、でもそんなことまでして頂く必要は・・・」

 必要はない、振りなのだから。
わざわざドレスを直さなくても、体つきは夫人とそう変わらないからどうにでもなる、そう言おうとしたサブリナの言葉を、オーランドは遮った。

「必要ある、君は気にしなくていい。もし気になるなら・・・報酬の一つだと思ってくれて構わない」

 令息は一気にそう言うと、言い返す隙を与えず、皮肉げに顔を歪めてサブリナをそのまま応接室に応接室へと誘う。

 部屋に入り、オーランドが仕立て屋に自分のことを説明するのを、サブリナはなんとも言えない気持ちで、聞いていた。

 彼も「振り」をする事を受け入れたのだろうか。あたかもサブリナのことを思いやるような言い方で「夫婦の振り」をすることに反対し、宰相に食ってかかっていたオーランドを思い出す。

 あの時はオーランドのその気持ちが嬉しかったが、今となってはそれが正しいのかは分からない。

 年若い彼にしてみれば、いくら母親のための振りであっても、屋敷の中だけのことであっても、年増の女と夫婦の真似事をするなんて嫌だろう。

 もし、彼に好いた女性や、もう付き合っている令嬢がいれば、この真似事は彼にとって迷惑なだけだ。
そう考えれば、オーランドがあれほど怒っていたことも頷ける。

 自分に対する気持ちなど無いのだ、と思うことが出来る。

 カンカンに怒ってサブリナにも宰相の申し出を拒否するよう言っていたが・・・母親のために諦めたのだろうか。

 ・・・そうであれば・・・サブリナは嬉しいと思う。歪な関係になってしまうが、自分にとっては叶うことのない淡い恋心が満たされる。

 そんなごくごく私的な感情を、自分の使命・・・看護と天秤にかけてしまった。もっとありていに言えば、夫人の命の灯火に対し、自分の欲求を利用してしまった。

 その罪は一生背負っていこうと、もうサブリナは決めている。このひとときオーランドの側で夢を見て、そしてあとは一生を贖罪に捧げる。

 それが今のサブリナの偽らざる気持ちだ。
オーランドには申し訳ないと思う。彼の時間を自分のせいで無駄にさせることを。

・・・でも・・・束の間、ごく普通の令嬢のように嫁ぐ喜びを、好きでいることを許して頂ければ・・・自分は全身全霊で、貴方の妻として、お義母様に尽くすから・・・だから、どうぞお願い・・・お許しください。

 仕立て屋が採寸について、いくつか説明していくのをオーランドは聞いてから「じゃ、よろしく頼む」と言って、掴んでいたサブリナの腕を離すと扉へ向かう。

 物思いにふけったまま、ぼんやりと部屋を出ようとする彼の背中を見送っていると、ふっとオーランドが足を止めた。徐に振り向いて、チラリとサブリナに視線をやると、すぐに仕立て屋を見た。

「あぁ、さっき言ったことも忘れないで頼む」
「かしこまりました、オーランド様」

 なんの会話なのか分からず、サブリナはオーランドを見たが、彼は説明することもせず、そのまま部屋を出て行った。自分に関係のないことなのだろうと、思い直して、サブリナは仕立て屋に言われるまま、採寸のためにワンピースを脱ぎ始めたのだった。







 サブリナはこの日を一生忘れない、喜びと苦しさと両方の想いを胸に仕舞い込み、そう決意していた。

 公爵家の敷地内にある小さな教会。彼女は夫人のエレガントで優美な意匠のウエディングドレスに身を包み、オーランドと一緒にそこにいた。

「死が二人を分かつまで、 愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを、 神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」

 神父が朗々と誓いの言葉を述べるのをどこかぼんやりとした思いで聴きながら、オーランドに続いてサブリナは「誓います」と答えた。

「では、誓いのキスを」という神父の言葉に、傍らの彼と向かい合う。

 そこには近衛騎士団の瀟洒な礼装に身を包むオーランドがいる。彼の瞳と同じ漆黒に金糸の刺繍が施された詰襟のジャケットを纏い、金の肩章と臙脂の胸帯が目に鮮やかだ。そして腰にはウィテカー公爵家の証である宝剣を佩いている。

 その端正で静謐な佇まいは、持って生まれた公爵家の嫡男の気品と近衛騎士として清廉さに溢れていて見惚れるほどだ。

 彼が屈んでいるサブリナの顔にかかっているベールをそっと上げる。ふと見上げると、とても静かな彼の瞳に目線が囚われて、急に胸がドキドキする。

 何度もこれは【振り】だと自分に言い聞かせた。夫人のために演じる真似事なのだと。
オーランドも父親の宰相に逆らえず、そして母親のために嫌々やっていることだと、分かっている。

 婚約も指輪の交換もない。偽の婚姻誓約書へのサインだけが、もっともらしく行われる。
 
 見守る者も参列者もいない、自分とオーランドと宰相夫妻だけのまやかしの結婚式。
夫人は目頭を拭いながら、柔かな微笑みを浮かべて息子を見守っている。

・・・そして神に誓ってもいない。

 ここで式を執り行っているのは宰相が雇った役者なのだから。

 夫人は教区で見たことのない神父を最初、訝しんだが、宰相が言った、いつもの神父は王宮の祭事で都合がつかなかった、という嘘をいとも簡単に信じていた。

 教区の神父ではなくて奥様にバレないのか?と尋ねた時、宰相は至って冷静に「妻が次にうちの神父に会うときは、最後の時だ」とあっさりと言われて、サブリナは言葉を失った。
だが、この茶番の前では宰相の残酷なほどの冷静沈着さと手の打ち方は必要だ。

 オーランドがサブリナの瞳を覗き込むように顔を近づけてくる。彼の黒い瞳の中に自分の顔が映り込むのが罪深くて、サブリナは堪らず眼を閉じ、前で組んだ指先を握りしめた。

 睫毛に触れる彼の吐息、鼻先に彼の唇が掠めたような気がして・・・額に押し当てられた熱を感じて、閉じた瞼の裏側が潤んだ。

 幸せだった・・・偽りでも、まやかしでも
・・・役者として演じたものでも・・・二度と経験できないであろう、オーランドとの結婚式が。

 歪んでいても、一人の女性としての幸福に酔うことができて、サブリナの胸は溢れるような喜びの後、冷たく軋んだのだった。
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