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無垢のヒト
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コッカースパニエルが前から歩いて来る。ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして歩いている犬。隣をなまずのような鈍重そうな女とハリガネムシのような男とが歩いてくる。中村は、この辺りに住んで随分長いのに、個性的な彼らを目撃するのが初めてなのが意外に感じていた。最近引っ越してきたのだろうか。コッカースパニエルが中村の隣をぽっけに手を突っ込んでふらふらとおぼつかない拍子で歩く河合を見て、それから中村を見て、わん!と鳴いて茶色い毛を揺らしながら跳ね、ぷりぷりと尻を振った。女が、申し訳なさそうに犬を見て、それから河合を見て、ぎこちなく微笑む。
コッカースパニエルをコッカースパニエルと認識するのか、ただの犬と認識するか動物と認識するのか、そもそも目に映らないのか。人は見たい物しか見ない。見たいものを見たいように見る。コッカースパニエルは縫いぐるみのような見た目に反して元は猟犬であり、ウェーブのかかった温かそうな毛の下には発達した筋繊維が張り巡らされている。一歩一歩踏み出す足取りは軽やかだが、筋肉があるからこその動き。無垢な魂の毛玉。
可愛いな~、河合が酔っぱらいが歌うようにひとりごちてすれちがう犬を眺めていた。美味しそうだな~、と、ちゃちな食品サンプルに言うような適当さで本心でない、ままごとみたいな言い方であった。河合は茶色がかった毛がうねっており、河合自身コッカースパニエルによく似ていると中村は思った。
路地の向こうから、また小さな犬が人間と今度は浴衣を着た細い女と一緒にやってくる。遠くにまた一組別の犬。犬の回転寿司だな、と中村は思って、コッカースパニエルは鮨で言うと卵かな、たんぱく質が多そうだし、小さいし、と思った。「わんっ、わんっ、」と河合がちゃらけるように言って二三歩前に進み、中村を覗き込むように見た。無垢な笑顔のまま開いた口の中で犬歯が目立って、口の端から涎が一筋垂れた。中村は涎の輝きを見て、またそっと前を向いた。
縁日の音が、風に流されて近づいてくる。湿った風であり、濁ったどぶ川の臭いがした。今日は神社で祭がある。浴衣や甚平の男女がのんびりと道を歩くのもそのせいだ。その中で中村と河合は、二人並んで神社に向かっていた。へっへっへと、どの犬も舌を出して、肉を揺らしている。河合も中村の横で犬の様に笑っていた。
河合は先月、今日祭りのやっている件の神社の階段、八十八段もある石畳の階段から落下して頭を強く打った結果、アホになったと言われている。言われている、というのも、中村以外の人間がそう噂しているだけで、中村は河合は以前の方がよほどアホであり、今の方が良いと思っていた。
そもそもなぜ河合が、堕ちる前の河合なら絶対に行きそうもない神社などにいたのか。しかも、運動神経がよくバスケの国体のレギュラーにさえなっていた河合が、何故老人の失態のような真似をして負傷したのか、この街皆の謎であった。噂がいくつも現れては消えた。喧嘩にでもなってつきおとされたというのが、一番有力な説であった。その中で、容疑者としてあげられたのが、隣の火玉中学校の庄野である。火玉中と河合らが通う星野中は、不良同士で抗争をしていた。抗争、と言ったって中学生がやるものだ、可愛い物である。しかし、庄野は違った。火玉中史上最悪の不良と言っていい。中学生のくせに身長が百八十近く、体重が七十もある。彼は関東から来た転校生で、元居た学校でなにやらやらかし、その地方にいることができなくなって転校してきたとかどうだとか。たしかに、暴力の破壊力が違った。他の生徒らの暴力が、庄野のそれに比べればまるでボウフラのドブ水に漂っているように見える程だ。
中村は、河合が今のようになってから、一度、庄野の存在を確認しに、火玉中へ向かった。噂だけでなく、確かに存在した。山のような男、高校生、いや、もはやガタイのいい大人と言っても良かった。たしかに軽く顔を叩かれただけで二メートルは吹っ飛ぶだろう。河合は彼に因縁をつけられ喧嘩になったというのが街の一番の意見だったが、目撃者も証拠も無かった。ある日、家に帰らなかった河合。翌朝、通学中の女子小学生に血塗れになって倒れているのを発見されたのだった。
河合もどちらかといえば不良生徒だった。徒党を組み、喧嘩を好み、授業をさぼり、人を脅し、金銭をゆすり、いじめを行う。所謂不良がやりそうなことは、すべてやっていた。中村は、以前から河合のいじめの被害に遭ったある男の話を聴いてやっていた。被害者の真壁という少年は、河合に、考えられうるほぼすべてのレパートリーのいじめを受けていた。あまりにも数が多いから、一回では聞き切れず、また真壁も話しきれず、いつからか都度都度こんなことがあったのだ、と中村に語りに来るようになった。時に、どんなにされても泣かない彼が、中村の前だけで、涙を流した。いじめのフルコースである。河合は器用な人間であり、見目も良く溌溂とし、魅力的で、大人からも仲間からも気に入られた。人を操作するのも上手い。きっと将来この街を出て大きくなる。そんな風情があった。しかし、彼の犠牲になった人間はそうではないだろう。真壁以外にも被害者は多かったが泣き寝入り、中には死んだのではと噂される者もいた。
真壁は、中村の元には姿を見せるが、学校には来なくなったようだった。彼は線の細い女のようなところのある奇麗な男だった。中学に上がるまでは、みんなから優しくされ、いじめや男同士の強い軋轢など今まで無縁で、経験したことがなかったらしい。思春期に入り、皆の身体がみるみる成長していく中で、真壁の成長は遅く、美しさも兼ね備えていたが、学校という狭い社会では浮いたのだった。中村は真壁のことを少し気に入っていたから、中村なりに、何度か元気になるような工夫をしてみたが、通じなかった。いつからか彼の中の清らかな心の面積が減り、河合を強く恨むようになっていた。真壁の強い怒りの根源に中村は興味を抱いた。
中村は以前から河合のことを、この街の一員として知ってはいたが、真壁の話を聞いてからはより強い興味を持ち、真壁のためにも、積極的にかかわりを進めたのだった。河合の様々なことを知った。
庄野が街に来てからというもの、この街の小さな事件の裏には常に庄野がいることになっていた。ただ、河合のいじめのことを知っている人間は誰も何も言わないが、いくらか別の想像をした。河合の被害者は一人ではない。この街の人間は噂が好きだ。そして噂は一瞬の風のようで、わっと広まってわっと収まる。そして、誰も覚えていなくなる。
神社についた。天を突くような巨大で白い鳥居。この街唯一の見どころ、売りと言えた。マイナーな旅行雑誌にも何度か特集されている。特に縁切りに効果があるとか、無いとか、三流雑誌は好き勝手に書いていた。中村は、横目で河合の様子を確認したが、彼は自分が今立っている場所で頭を割って血まみれで倒れていたことを一切覚えていないらしく意気揚々として中村を見据えていた。大きな瞳が瞬いて、中村の気持ちを伺うように眉が上がった。
中村は黙ったまま階段を上る。横を同じ調子で河合が付いてくる。今、中村の父が、中で催事を行っているところであった。中村の住む場所は神社の中にあった。
縁日でにぎわい、ほとんどの人間が本来の目的である催事などに興味を寄せない。物好き、数少ない老人、地方の催事に興味があるキワモノライター、土地の研究者などが微かにいるくらいだ。中村自身も特別な取材を申し込まれたことがあるが父が断った。
階段の半ばで、河合が一瞬足を止めた。中村が振り返ると、河合の目に一瞬だけ理性のような輝きが見えて固まったが、すぐにうち消えて、中村を見て微笑んだ。それから一段飛ばしで階段を犬の様に駆け上がっていく。中村が河合に追いついた時には、河合は金魚すくいの金魚を無邪気に覗き込み、しゃがみこんで、もじもじとしていた。河合が水面を覗き込むと、群れになった金魚が放射線状に花火の様に散りぢりになって激しく音を立てて泳いでいき、隅の方へ群がって跳ね回る。出れるわけもないのに、壁に突っ込んで病気になったかのように、異常な跳ね方をする。河合が水に手を突っ込もうとするのを背後から留めて、金、と言った。河合は水面に突っ込もうとしていた手をポケットに入れ、素直に露店の男に金を払い、金魚すくいのポイを手わたされて、きゃっきゃと悦んでいた。
「おい、河合じゃねぇか。」
庄野だ。中村が振り向いた先に、庄野とふたりの男が立っていた。まるで大人と子供だった。河合は三人のことなどまるで無視してたのしげに金魚すくいに興じていた。これがなかなかうまくて、中村が庄野の方を振りかえった一瞬の隙に四匹も掬っていた。しかも、その内一匹はぶりぶりとして重そうな真っ黒な出目金だ。中村が感心していると、庄野たちが直ぐ近くにやってきた。
「河合。」
庄野の脛が、しゃがみ込んだ河合の尻に当たったが、河合は金魚すくいに夢中だ。庄野の太い腕が河合の頭の上にのって、まるで餅でもつくように思い切り振りかぶってから、下に突き落とした。大きな水の音がなって、河合の頭がなくなった、わけではなく、水の中に沈んで、河合がポイで掬って救出した金魚が土の上でビチビチと勢いよくはね苦しみ、それだけでなく、元々中でたゆたっていた金魚さえ、勢い四方八方に飛び散って、あたりにぴちぴちぴちぴちと激しい音が鳴る。露店の男は一瞬のことに呆気に撮られて動けず、河合は頭を水に入れたまま動かず、泡がぼこぼこと湧き出る。あまりに河合が動かないので、庄野の方が不気味気な顔をして腕を離した。腕を離しても、河合は水の中に居る。死んでいない証拠に泡がいつまでも水面に上がってきていたが、ついにその音も止まった。
中村が、河合の腕を引いて頭をあげさせた。顔を覗き込むが、何もなかったかのように、にこにこしている。人間に相手にしてもらい、遊んでもらって嬉しいらしい。河合は中村の方は愉し気に見れども、肝心の庄野の方など見向きもせず何も言わず、まるで存在しないかのように振舞い、散らばった金魚を丁寧に拾い集め始め、プラ船の中に戻していく。しかし、自分が採った金魚はしっかり見極めて、自分の持っていた器にいれた。
「アホになったというのは本当らしいな。」
庄野の声に、嘲りと少しの動揺が含まれていた。
「こうしてやる。」
庄野はまだ土の上で跳ねていた金魚を二三匹手に掴み、河合の口元に押し付けた。あ、と中村が思うと同時に命が河合の中に吸い込まれていった。流石に笑顔をやめて咳き込む河合を見て、多少留飲を下げたのか、彼らは笑いながら去っていく。河合は喉の辺りを気持ち悪そうにしながら、伺うように中村を見上げた。中村が何も言わず普段の調子で河合を見ていると、不安げな表情を元に戻し、口を開いた。舌の上で金魚が踊っている。
「兄ちゃん、それはもってっていいよ。」
関わり合いになりたくないようで身を潜めていた金魚すくい屋の男がようやく口を開き、河合はよろこんで口の中の物を器の中に吐き出した。しかし、庄野が口に運んだのは三匹のはずで、今出したのは二匹だ。金魚すくいを終えても、河合ははしゃぎ、いろいろな物を買ってまわって生き生きとしていた。神社では息がしやすいらしい。神社の境内の奥へ行けば行くほど露店は減り、火のともされた灯篭がぽつぽつと立ち並んでいた。喧騒も遠のき、静かな闇の向こう側に白い装束を着た男が立っていた。父だ。
「来たか。」
彼は、中村と河合を見据え、河合を見た時、中村にわかる程度に一瞬眉をひそめた。
「どうするんだよ、それは。」
それ、つまり、河合のことだった。中村は、父に、次のあなたにするつもりだ、でも、今すぐじゃない、と答えた。興味を持ったから、と続ける。父は、何故とも嫌とも言わず、「そうか」と言って、どこか悲し気な雰囲気を醸し出した。まだ彼にそのような感情があったことに感動を覚えた。「父」とは、もう20年ほどの付き合いになる。民俗学の若い研究者としてこの土地にやってきた彼に、中村は激しい興味を覚えた。彼の前の「父」は、老体であり、跡を継ごうという人間はしょうもない、中村の興味のわかない人間ばかりであった。神社の継承者は血縁では選ばれない仕組みだ。たとえ子がいたとして、子が見入られなければ、継承はなされない。見入られた人間には予兆が起こる。
父は、中村の方へと近づいて来る。随分と年を取った。一瞬だった、一瞬で人間という者は見目形が変わってしまう。中身は大きく損なわれないというのに不思議なことだ。父は、研究者としてそれなりに名をあげた。名をあげさせるために手伝ったこともある。そして、この土地に定着した。まだ手放すには惜しいから、そのままにしていた。
「ソイツの何が気に入った。」
父はあからさまに怒りをむき出しにしていた。珍しいことで、昔のことを思い出し、一瞬愉快になったが、中村は答えなかった。答えないまま、父の身体を通り抜け、社の方へ向かう。仔犬の様について来る河合に、本尊を見せてやろうと思った。ずっと河合を見ていた分、河合にも自分を見て欲しい。
社の中で河合はいままで、人間社会の中で大人しくしていた我慢を発散するように、裸になって吠えて四ツばいになってぐるぐる本尊の前をまわっていた。庄野に噛みつかなかったことを誉めたが、もはや、理解ができないようで恍惚とした瞳で、中村の方を見て声をあげて楽しそうに笑った。
河合を、彼の親よりもすぐ側で見ていてわかったこと、それは、彼が人間という物に極めて疲れているということだった。人からよく見られるため、なめられないため、褒められるため、好かれるため、河合の行動のすべてはここから来ていた。いじめも本心からやっていたことではない。はじめは「やらされ」ていた。周りの流れに流されて、やらされている内に、己の内なるストレス解消と同一化したのだろう。器用さはいじめのやり方にもふんだんに使われ、皆を愉しませた。と、同時に、河合は常に次は自分なのではないかという恐怖にかられ、いつの間にか降りられなくなってしまったようだった。他人都合でしか動けない河合の、その中心に無垢な魂が震えて眠っていた。無垢なゆえに、どうすればよいかわからず、無垢さが捨てきれず、自分の意志が確立されず、今の複雑な河合が、無垢さを守るように何重も道がくねり曲がったの迷路のように構築されていたのだ。上空から巨大迷路を眺めると、それは美しい一枚の絵だ。しかし、中に入り込んで、常に誰かに追われているならば、休まる暇はない。河合の心の中の迷路は、存在しない敵から逃げ回るために、幾度も増築され巨大化し、複雑になっていた。心の底、迷路の中心に眠る無垢さは、愛嬌として、河合に表面的な輝く魅力を与えたようだが、迷路に嵌り込んで、悲鳴を上げ続けているようだった。彼の無垢さ、周辺に構築された邪悪さ、中村はそれを万華鏡を光に透かして回して見るように、愉しんだ。
「神様。」
社の外からささやき声がした。どたどたと騒ぎまわっていた河合が、ぴた、と、脚を止めて床に座り込み、声のする方を向いた。風のない社の中で蝋燭に灯った炎がゆらゆらと揺れた。揺れた光が社の外に漏れた。
「いらっしゃるのですね。」
ああ、いるよ、と中村は答えたが、自分が神なのかはわかっていなかった。気がついたら家がつくられ、気がついたら供物を当てられ、気がついたらここに居ただけなのだから。
「ありがとうございます。」
透き通った声が震えていた。中村はその声も奪ってしまいたいほどに好きだった。
「僕のために。」
しかし、真壁には、河合にかなう程の魅力は無かった。真壁の心は河合と反対に極めて単純にできて面白みに欠けた。彼の家の周りに花を咲かせてみても、彼の出かける日に空に虹をかけてみても、気が付きもしない。河合は、そうではなかった。微笑みかけ、周りに誰もいないのを確認して、もう一度しっかりとほほ笑み、それから少し顔をしかめる癖があった。対して真壁は、周囲の些末な変化には気が付かない。そして、嫌なものは嫌、好きなものは好き、と見た目と同じくはっきりしている。河合にもはっきりと嫌いだと言っただろう。我が強く、だからこそ上手くやらなければ、長い間いじめの対象になってしまう。中村は対価として、真壁の声を貰おうかとも考えはしたが、もういらなかった。今回のこともあって、真壁はより自分の気持ちに正直に生きるようになるだろう。最後のプレゼントをあげよう、君にも見せてあげる、と、中村は社の扉を開いた。
コッカースパニエルをコッカースパニエルと認識するのか、ただの犬と認識するか動物と認識するのか、そもそも目に映らないのか。人は見たい物しか見ない。見たいものを見たいように見る。コッカースパニエルは縫いぐるみのような見た目に反して元は猟犬であり、ウェーブのかかった温かそうな毛の下には発達した筋繊維が張り巡らされている。一歩一歩踏み出す足取りは軽やかだが、筋肉があるからこその動き。無垢な魂の毛玉。
可愛いな~、河合が酔っぱらいが歌うようにひとりごちてすれちがう犬を眺めていた。美味しそうだな~、と、ちゃちな食品サンプルに言うような適当さで本心でない、ままごとみたいな言い方であった。河合は茶色がかった毛がうねっており、河合自身コッカースパニエルによく似ていると中村は思った。
路地の向こうから、また小さな犬が人間と今度は浴衣を着た細い女と一緒にやってくる。遠くにまた一組別の犬。犬の回転寿司だな、と中村は思って、コッカースパニエルは鮨で言うと卵かな、たんぱく質が多そうだし、小さいし、と思った。「わんっ、わんっ、」と河合がちゃらけるように言って二三歩前に進み、中村を覗き込むように見た。無垢な笑顔のまま開いた口の中で犬歯が目立って、口の端から涎が一筋垂れた。中村は涎の輝きを見て、またそっと前を向いた。
縁日の音が、風に流されて近づいてくる。湿った風であり、濁ったどぶ川の臭いがした。今日は神社で祭がある。浴衣や甚平の男女がのんびりと道を歩くのもそのせいだ。その中で中村と河合は、二人並んで神社に向かっていた。へっへっへと、どの犬も舌を出して、肉を揺らしている。河合も中村の横で犬の様に笑っていた。
河合は先月、今日祭りのやっている件の神社の階段、八十八段もある石畳の階段から落下して頭を強く打った結果、アホになったと言われている。言われている、というのも、中村以外の人間がそう噂しているだけで、中村は河合は以前の方がよほどアホであり、今の方が良いと思っていた。
そもそもなぜ河合が、堕ちる前の河合なら絶対に行きそうもない神社などにいたのか。しかも、運動神経がよくバスケの国体のレギュラーにさえなっていた河合が、何故老人の失態のような真似をして負傷したのか、この街皆の謎であった。噂がいくつも現れては消えた。喧嘩にでもなってつきおとされたというのが、一番有力な説であった。その中で、容疑者としてあげられたのが、隣の火玉中学校の庄野である。火玉中と河合らが通う星野中は、不良同士で抗争をしていた。抗争、と言ったって中学生がやるものだ、可愛い物である。しかし、庄野は違った。火玉中史上最悪の不良と言っていい。中学生のくせに身長が百八十近く、体重が七十もある。彼は関東から来た転校生で、元居た学校でなにやらやらかし、その地方にいることができなくなって転校してきたとかどうだとか。たしかに、暴力の破壊力が違った。他の生徒らの暴力が、庄野のそれに比べればまるでボウフラのドブ水に漂っているように見える程だ。
中村は、河合が今のようになってから、一度、庄野の存在を確認しに、火玉中へ向かった。噂だけでなく、確かに存在した。山のような男、高校生、いや、もはやガタイのいい大人と言っても良かった。たしかに軽く顔を叩かれただけで二メートルは吹っ飛ぶだろう。河合は彼に因縁をつけられ喧嘩になったというのが街の一番の意見だったが、目撃者も証拠も無かった。ある日、家に帰らなかった河合。翌朝、通学中の女子小学生に血塗れになって倒れているのを発見されたのだった。
河合もどちらかといえば不良生徒だった。徒党を組み、喧嘩を好み、授業をさぼり、人を脅し、金銭をゆすり、いじめを行う。所謂不良がやりそうなことは、すべてやっていた。中村は、以前から河合のいじめの被害に遭ったある男の話を聴いてやっていた。被害者の真壁という少年は、河合に、考えられうるほぼすべてのレパートリーのいじめを受けていた。あまりにも数が多いから、一回では聞き切れず、また真壁も話しきれず、いつからか都度都度こんなことがあったのだ、と中村に語りに来るようになった。時に、どんなにされても泣かない彼が、中村の前だけで、涙を流した。いじめのフルコースである。河合は器用な人間であり、見目も良く溌溂とし、魅力的で、大人からも仲間からも気に入られた。人を操作するのも上手い。きっと将来この街を出て大きくなる。そんな風情があった。しかし、彼の犠牲になった人間はそうではないだろう。真壁以外にも被害者は多かったが泣き寝入り、中には死んだのではと噂される者もいた。
真壁は、中村の元には姿を見せるが、学校には来なくなったようだった。彼は線の細い女のようなところのある奇麗な男だった。中学に上がるまでは、みんなから優しくされ、いじめや男同士の強い軋轢など今まで無縁で、経験したことがなかったらしい。思春期に入り、皆の身体がみるみる成長していく中で、真壁の成長は遅く、美しさも兼ね備えていたが、学校という狭い社会では浮いたのだった。中村は真壁のことを少し気に入っていたから、中村なりに、何度か元気になるような工夫をしてみたが、通じなかった。いつからか彼の中の清らかな心の面積が減り、河合を強く恨むようになっていた。真壁の強い怒りの根源に中村は興味を抱いた。
中村は以前から河合のことを、この街の一員として知ってはいたが、真壁の話を聞いてからはより強い興味を持ち、真壁のためにも、積極的にかかわりを進めたのだった。河合の様々なことを知った。
庄野が街に来てからというもの、この街の小さな事件の裏には常に庄野がいることになっていた。ただ、河合のいじめのことを知っている人間は誰も何も言わないが、いくらか別の想像をした。河合の被害者は一人ではない。この街の人間は噂が好きだ。そして噂は一瞬の風のようで、わっと広まってわっと収まる。そして、誰も覚えていなくなる。
神社についた。天を突くような巨大で白い鳥居。この街唯一の見どころ、売りと言えた。マイナーな旅行雑誌にも何度か特集されている。特に縁切りに効果があるとか、無いとか、三流雑誌は好き勝手に書いていた。中村は、横目で河合の様子を確認したが、彼は自分が今立っている場所で頭を割って血まみれで倒れていたことを一切覚えていないらしく意気揚々として中村を見据えていた。大きな瞳が瞬いて、中村の気持ちを伺うように眉が上がった。
中村は黙ったまま階段を上る。横を同じ調子で河合が付いてくる。今、中村の父が、中で催事を行っているところであった。中村の住む場所は神社の中にあった。
縁日でにぎわい、ほとんどの人間が本来の目的である催事などに興味を寄せない。物好き、数少ない老人、地方の催事に興味があるキワモノライター、土地の研究者などが微かにいるくらいだ。中村自身も特別な取材を申し込まれたことがあるが父が断った。
階段の半ばで、河合が一瞬足を止めた。中村が振り返ると、河合の目に一瞬だけ理性のような輝きが見えて固まったが、すぐにうち消えて、中村を見て微笑んだ。それから一段飛ばしで階段を犬の様に駆け上がっていく。中村が河合に追いついた時には、河合は金魚すくいの金魚を無邪気に覗き込み、しゃがみこんで、もじもじとしていた。河合が水面を覗き込むと、群れになった金魚が放射線状に花火の様に散りぢりになって激しく音を立てて泳いでいき、隅の方へ群がって跳ね回る。出れるわけもないのに、壁に突っ込んで病気になったかのように、異常な跳ね方をする。河合が水に手を突っ込もうとするのを背後から留めて、金、と言った。河合は水面に突っ込もうとしていた手をポケットに入れ、素直に露店の男に金を払い、金魚すくいのポイを手わたされて、きゃっきゃと悦んでいた。
「おい、河合じゃねぇか。」
庄野だ。中村が振り向いた先に、庄野とふたりの男が立っていた。まるで大人と子供だった。河合は三人のことなどまるで無視してたのしげに金魚すくいに興じていた。これがなかなかうまくて、中村が庄野の方を振りかえった一瞬の隙に四匹も掬っていた。しかも、その内一匹はぶりぶりとして重そうな真っ黒な出目金だ。中村が感心していると、庄野たちが直ぐ近くにやってきた。
「河合。」
庄野の脛が、しゃがみ込んだ河合の尻に当たったが、河合は金魚すくいに夢中だ。庄野の太い腕が河合の頭の上にのって、まるで餅でもつくように思い切り振りかぶってから、下に突き落とした。大きな水の音がなって、河合の頭がなくなった、わけではなく、水の中に沈んで、河合がポイで掬って救出した金魚が土の上でビチビチと勢いよくはね苦しみ、それだけでなく、元々中でたゆたっていた金魚さえ、勢い四方八方に飛び散って、あたりにぴちぴちぴちぴちと激しい音が鳴る。露店の男は一瞬のことに呆気に撮られて動けず、河合は頭を水に入れたまま動かず、泡がぼこぼこと湧き出る。あまりに河合が動かないので、庄野の方が不気味気な顔をして腕を離した。腕を離しても、河合は水の中に居る。死んでいない証拠に泡がいつまでも水面に上がってきていたが、ついにその音も止まった。
中村が、河合の腕を引いて頭をあげさせた。顔を覗き込むが、何もなかったかのように、にこにこしている。人間に相手にしてもらい、遊んでもらって嬉しいらしい。河合は中村の方は愉し気に見れども、肝心の庄野の方など見向きもせず何も言わず、まるで存在しないかのように振舞い、散らばった金魚を丁寧に拾い集め始め、プラ船の中に戻していく。しかし、自分が採った金魚はしっかり見極めて、自分の持っていた器にいれた。
「アホになったというのは本当らしいな。」
庄野の声に、嘲りと少しの動揺が含まれていた。
「こうしてやる。」
庄野はまだ土の上で跳ねていた金魚を二三匹手に掴み、河合の口元に押し付けた。あ、と中村が思うと同時に命が河合の中に吸い込まれていった。流石に笑顔をやめて咳き込む河合を見て、多少留飲を下げたのか、彼らは笑いながら去っていく。河合は喉の辺りを気持ち悪そうにしながら、伺うように中村を見上げた。中村が何も言わず普段の調子で河合を見ていると、不安げな表情を元に戻し、口を開いた。舌の上で金魚が踊っている。
「兄ちゃん、それはもってっていいよ。」
関わり合いになりたくないようで身を潜めていた金魚すくい屋の男がようやく口を開き、河合はよろこんで口の中の物を器の中に吐き出した。しかし、庄野が口に運んだのは三匹のはずで、今出したのは二匹だ。金魚すくいを終えても、河合ははしゃぎ、いろいろな物を買ってまわって生き生きとしていた。神社では息がしやすいらしい。神社の境内の奥へ行けば行くほど露店は減り、火のともされた灯篭がぽつぽつと立ち並んでいた。喧騒も遠のき、静かな闇の向こう側に白い装束を着た男が立っていた。父だ。
「来たか。」
彼は、中村と河合を見据え、河合を見た時、中村にわかる程度に一瞬眉をひそめた。
「どうするんだよ、それは。」
それ、つまり、河合のことだった。中村は、父に、次のあなたにするつもりだ、でも、今すぐじゃない、と答えた。興味を持ったから、と続ける。父は、何故とも嫌とも言わず、「そうか」と言って、どこか悲し気な雰囲気を醸し出した。まだ彼にそのような感情があったことに感動を覚えた。「父」とは、もう20年ほどの付き合いになる。民俗学の若い研究者としてこの土地にやってきた彼に、中村は激しい興味を覚えた。彼の前の「父」は、老体であり、跡を継ごうという人間はしょうもない、中村の興味のわかない人間ばかりであった。神社の継承者は血縁では選ばれない仕組みだ。たとえ子がいたとして、子が見入られなければ、継承はなされない。見入られた人間には予兆が起こる。
父は、中村の方へと近づいて来る。随分と年を取った。一瞬だった、一瞬で人間という者は見目形が変わってしまう。中身は大きく損なわれないというのに不思議なことだ。父は、研究者としてそれなりに名をあげた。名をあげさせるために手伝ったこともある。そして、この土地に定着した。まだ手放すには惜しいから、そのままにしていた。
「ソイツの何が気に入った。」
父はあからさまに怒りをむき出しにしていた。珍しいことで、昔のことを思い出し、一瞬愉快になったが、中村は答えなかった。答えないまま、父の身体を通り抜け、社の方へ向かう。仔犬の様について来る河合に、本尊を見せてやろうと思った。ずっと河合を見ていた分、河合にも自分を見て欲しい。
社の中で河合はいままで、人間社会の中で大人しくしていた我慢を発散するように、裸になって吠えて四ツばいになってぐるぐる本尊の前をまわっていた。庄野に噛みつかなかったことを誉めたが、もはや、理解ができないようで恍惚とした瞳で、中村の方を見て声をあげて楽しそうに笑った。
河合を、彼の親よりもすぐ側で見ていてわかったこと、それは、彼が人間という物に極めて疲れているということだった。人からよく見られるため、なめられないため、褒められるため、好かれるため、河合の行動のすべてはここから来ていた。いじめも本心からやっていたことではない。はじめは「やらされ」ていた。周りの流れに流されて、やらされている内に、己の内なるストレス解消と同一化したのだろう。器用さはいじめのやり方にもふんだんに使われ、皆を愉しませた。と、同時に、河合は常に次は自分なのではないかという恐怖にかられ、いつの間にか降りられなくなってしまったようだった。他人都合でしか動けない河合の、その中心に無垢な魂が震えて眠っていた。無垢なゆえに、どうすればよいかわからず、無垢さが捨てきれず、自分の意志が確立されず、今の複雑な河合が、無垢さを守るように何重も道がくねり曲がったの迷路のように構築されていたのだ。上空から巨大迷路を眺めると、それは美しい一枚の絵だ。しかし、中に入り込んで、常に誰かに追われているならば、休まる暇はない。河合の心の中の迷路は、存在しない敵から逃げ回るために、幾度も増築され巨大化し、複雑になっていた。心の底、迷路の中心に眠る無垢さは、愛嬌として、河合に表面的な輝く魅力を与えたようだが、迷路に嵌り込んで、悲鳴を上げ続けているようだった。彼の無垢さ、周辺に構築された邪悪さ、中村はそれを万華鏡を光に透かして回して見るように、愉しんだ。
「神様。」
社の外からささやき声がした。どたどたと騒ぎまわっていた河合が、ぴた、と、脚を止めて床に座り込み、声のする方を向いた。風のない社の中で蝋燭に灯った炎がゆらゆらと揺れた。揺れた光が社の外に漏れた。
「いらっしゃるのですね。」
ああ、いるよ、と中村は答えたが、自分が神なのかはわかっていなかった。気がついたら家がつくられ、気がついたら供物を当てられ、気がついたらここに居ただけなのだから。
「ありがとうございます。」
透き通った声が震えていた。中村はその声も奪ってしまいたいほどに好きだった。
「僕のために。」
しかし、真壁には、河合にかなう程の魅力は無かった。真壁の心は河合と反対に極めて単純にできて面白みに欠けた。彼の家の周りに花を咲かせてみても、彼の出かける日に空に虹をかけてみても、気が付きもしない。河合は、そうではなかった。微笑みかけ、周りに誰もいないのを確認して、もう一度しっかりとほほ笑み、それから少し顔をしかめる癖があった。対して真壁は、周囲の些末な変化には気が付かない。そして、嫌なものは嫌、好きなものは好き、と見た目と同じくはっきりしている。河合にもはっきりと嫌いだと言っただろう。我が強く、だからこそ上手くやらなければ、長い間いじめの対象になってしまう。中村は対価として、真壁の声を貰おうかとも考えはしたが、もういらなかった。今回のこともあって、真壁はより自分の気持ちに正直に生きるようになるだろう。最後のプレゼントをあげよう、君にも見せてあげる、と、中村は社の扉を開いた。
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ユタエンシスさん
コメントありがとうございます。嬉しいです。
確かに縁日なのにあまり華やかな感じはありませんね。どうしても薄暗い描写を好んで描くきらいがあります。余談ですが筆者の地元の方も割とこのような感じですね。
河合が神社で暮らすかというと、河合にも家族がいるため、中村も家には帰らせるでしょう(今は)。河合はアホになったと言われてからも、言われているということは目撃証言があるわけで、家から学校には普通にかよっています。想像される地獄、どんなでしたでしょうか。確かに現時点でも庄野に相当なことをされても平気な無邪気な素振りを見せていますからかなりの耐性はありますね。
じょじょに中村や河合、世界観に違和感が出るような造りにしてみました。こういう話は二回目が愉しかったりしますよね。犬の反応とか金魚の反応とか。
真壁は河合が神社で事故に遭ったと聞いた時は、喜びと驚きと恐怖で舞い上がったでしょうね。真壁にとって河合が絶対上位者だったかというと、いじめやカーストの中。周囲から見たらそうなのですが、真壁って性格的に確実に河合のことを見下していたと思うので、精神的には絶対上位者だったかというと怪しいですね。真壁は、おそらく学校に行けるようになっていると思うので、学校に来ているアホになった河合も見ているかと思います。そして最上位の存在を感じている人間でもありますね。中村も河合も真壁も庄野も父も、それぞれ思うことはあるので、話は拡げられそうです。