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12.電車の男
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朝の九時、定刻に会社に顔を出すと今まで無視してきた社員が声を掛けてくる。適当に話を合わせるが、彼らの気持ちがわからない。
「くだらねぇ……。」
ひとりになってそう呟いて再び作業を始めた。今月周るべき会社のスケジュール調整、その隙間で新規開拓、スケジュール組をしていたのだった。こうやって一人で物事を進めていくのは好きだ。システムエンジニアの頃は、これを何人かでチームになって回していく必要があり、大体自分が足を引っ張った。
「できそうな見た目してるくせに……」
会議室に入る前に中から同じチームの女がそういったのが聞こえた。やはり向いていないんだと思った。当時の、まだ既婚者だと知らなかった頃の彼女、ヨシノは、一ノ瀬がプライベートで仕事の話をするのを嫌った。仕事のことは忘れたいと言って抱きついてくる彼女に、自分の苦しみなど何も言えなかった。朝倉は、できない人間の苦悩を知らない。そうやって社内でどんどん孤立していったのだった。
斎藤の席は空席だった。珍しく定時までずっとデスクで仕事をしていた。それでも空席だった。定時を過ぎても仕事をした。それでも空席だった。気が付くとデスクの横に、僅差で3位だった鴨居が立っていた。鴨居の後ろの壁に掛けられた時計が20時を指していた。
「珍しいじゃないか。顔採用、こんな時間まで。」
「その呼び方やめてくれませんか。」
鴨居ではなく斎藤に一言言ってやるために会社に居たのだ。これ以上ここにいる意味もない。荷物をまとめ始めても鴨居はいなくなる素振りを見せない。
「何か?」
「飲まないか?」
何故か鴨居の誘いに乗ってしまい、繁華街を歩いていた。街を歩いていると自分たちと同じようなスーツの男の群れが目立った。ただ、自分たちが歩くと軽く人混みが割れ、たまに視線を感じる。
「お前がいると人避けになっていいな。」
鴨居がそんなことを言って酔って居もいないのに声を出して笑った。品のない笑い方だ。
彼に連れられて雑居ビルの中にある小さなバーに入った。細長いつくりでカウンター席が10席しかない。そのうち5つはすでに埋まっており、店内はそこそこの盛り上がりであった。
「何を飲む?」
小さな黒板に書かれたメニューを眺めた。
「カンパリソーダがいいです。」
「可愛いもの飲むじゃないか。」
そう言って鴨居はカンパリソーダと獺祭を頼んだ。鴨居は「お前は一体どうしたんだ?」と言って笑いかけてきた。嫌な笑い方ではなかった。少なくとも馬鹿にしているわけではなさそうだ。すぐに注文がとどき、形だけの乾杯をした。さっきから鴨居しか笑っていない。
「斎藤が発破をかけたからか?」
ソーダを飲んでいた手が一瞬止まり、そのまま一気に半分ほど流し込んだ。そのまま鴨居の方を見ると彼はこちらを見ておらず、カウンターの奥にいる女性二人組をみていた。
「発破?セクハラじゃないですか。」
鴨居の目が再びこちらを向き、それから鼻で笑った。鴨居は一ノ瀬に昨日何があったかなど知らない。
ただ、鴨居は一か月前に一ノ瀬が皆の前で斎藤に恥をかかされているのをすぐ側で見ていた。たまたま一番前の席に座っていたため、部長や斎藤が一ノ瀬の顔を晒したのがよく見えてしまった。会議の後、一ノ瀬の席は空席で、自席に戻って彼のデータを調べた。彼の社員証に貼られている写真が社内サイトに載っており、全くどこかの事務所の宣材写真かと見まがうほどの完成された顔をしていた。
「まあ、そうとも言う。ああいう奴なんだ。」
鴨居は、悪意はない、と続けかけたが、それは言い過ぎだと思った。斎藤が悪意を持って徹底的にライバルを潰すところを何度か見たことがあった。多くは部署を移動するか、会社を辞め、一番最悪なのが精神を病んで再起不能になった者だった。鴨居自身はつかず離れずの付き合い方をしていた。敵だと思われると面倒だったのだ。
「まったく、最悪の人間ですね!」
突然一ノ瀬が大きな声でそう言って、残りの酒を一気に流し込み、さらに追加でもう一杯注文した。それから鴨居の目をじっと食い入るように見つめた。一ノ瀬の目の下は軽く紅潮しさっそく酔いが回っている。
「アンタもですよ。最悪な人間ですね~。俺の方が勝ってんだよ、偉そうな態度をとらないでくださいよ。」
鴨居の目の前で一ノ瀬は新しいグラスを手に取って、しばらくそれをじっと見つめていた。
そして、鴨居の方に向き直って、今まで見たことのないような微笑み方をした。ありとあらゆる人間を手玉にとってきた高級クラブの女のような愉悦と嘲笑の混ざった笑みだった。鴨居の背筋には寒気が走っていた。
「鴨居さ~ん、なんで俺なんか誘ったんですか?というか、あんなに電話してきて。あんた一体、何?」
彼の口から漏れ出た一音一音が、針で刺されたように脳に響く。
随分酔っているのかもしれない。鴨居は一瞬言葉に詰まったが、ここで動揺を見せたら「負け」と彼の本能が強く彼に警告した。この直感は仕事、交渉事でも役に立つ。
「言ったじゃないかお前の業績フォルダの様子がおかしい。それから部長がお前のことを誉めているのを聞いたんだよ。大手から最近成長してきたベンチャーまで攫ってきてすごいとな。」
「ふーん。」
一ノ瀬は鴨居から目をそらして、つまらなそうにカウンターの壁に並んだボトルを眺め始めた。
鴨居をどうにかしたところで自分に何か得があるだろうか。指先でグラス縁に刺さっているレモンを潰していき、グラスの底に沈めた。
「鴨居さんって斎藤と仲いいんですか?”ああいう奴”ってことは、擁護してますよね?」
「何回かこんな感じで飲んだことはあるな。」
「ふたりきりで?」
「いや、大体三人か四人だな。男二人でつるんでもつまらないとあいつが言うから。」
一ノ瀬は思わず吹き出してしまい、丁度飲んでいた酒が喉の奥に入り、軽くむせた。
”男二人でつるんでもつまらない”とは笑えてくる。鴨居に昨日のことを全て話してやろうかと思ったが、とても信じないかこっちが酔っているか、斎藤に嫉妬しすぎて適当言っていると思われるのが関の山だろう。
「鴨居さんは男二人でつるむの平気なんですか。俺みたいなのと飲んで何がいいんだか。」
そう言ってグラスを空にしてトイレに立った。
戻ると上品な黄金色をしたスパークリングワインが二つカウンターの上に乗っていた。
「店長がサービスだって。」
スツールに座り、そこから湧き出る泡をじっと眺めていた。酔っているのと違う緊張感のある脈拍の上がり方をし始めた。斎藤のせいだ。あれさえなければ……。
「……。」
そっとシャンパングラスに指をかけて鴨居の方に押し出し、鴨居の前にあったものを自分の前に持ってきた。鴨居は特に何も言わず、一ノ瀬の挙動を見ていた。
「念のためですよ、念のため。」
ワザとらしく笑い、口をつけた酒は美味しく、身体に染み込んだ。鴨居も同じようにグラスに口をつけ、それからすっかり黙り込むようになってしまった。酔うと静かになるタイプ、一ノ瀬とはまったく逆だった。
「え?あれ、どうしたんですか、鴨居さん。俺から話すのキツいから、何か話題出してくださいよ。」
「俺が薬でも盛ったと思ったのか?」
鴨居の声はさっきまでより一段階低く、こちらと目を合わせようとしない。
「そうですね。ま、たまにあることなんで。気分悪くさせたらすみませんね。鴨居さんだからとか、そういうのじゃないです。」
「たまに?そんなにあるもんかね。」
こちらを向いた彼の目は、キツイ、仕事中と同じ目をしていた。それを見ていると、腹が立ってきて何でもいいから彼を驚かせるようなことを言って負かしたくなった。彼のそういう、絶望したような顔を見たくなった。
一ノ瀬は、上司から叱られて困っており、相談するような調子で言った。
「鴨居さん、俺はね、斎藤から昨日レイプされてるんですよ。酷くないですか?セクハラというレベルを超えていると思いません?ま、別にいいんだ。初めてでもない。」
「……」
鴨居は何か聞き間違えたかのような怪訝な顔をしてこちらを見ていた。
「車には詳しくないんですけど、男二人であんな揺れても全然余裕、斎藤さんの車初めて乗ったけどあんな中が広いとはね。乗ったことあります?すごいですよ。」
「お前、さっきから何を言ってんだ。いくらアイツが嫌いだからってつまんない冗談だぞ」
「だから……」
それ以上目の前にいる人間に、何を言えばいいのかわからなかった。「最後は、AVさながら敗北アクメキメさせられましたよ。笑えますね。」とでも下品に冗談を言い直したらいいのか?営業マンの内輪ノリはいつだって下品で最低だ。初めて自分1人笑えてくるのに、鴨居は笑いさえしてくれない。
鴨居は仕事中とプライベートの中間あたりのよく分からない顔をしていた。負かすにしてもこんな顔見ても何も面白くない。不愉快だ。言わなければよかった。人に助けを求めて何になる。助け?何を助けてもらうというのか。
一ノ瀬はそのまま席を立ち、グラスに残った液体を一気に飲み干し、鞄を手に取った。
「帰ります。」
後ろで鴨居が何か言っていたが、そのまま店を出た。
◆
鴨居と別れた後、一人で飲みなおそうか迷ったが、そんなことよりもっと仕事をしたかった。自宅に帰りそのままPCの前に座った。酔った頭で変態サイトを見ていた。
「ははは、なんの捻りもない名前だな。」
乾いた笑いと共に独り言ちた。ハンドルネーム「電車男」という人間がいた。彼は随分昔からこのサイトに出入りして、痴漢プレイばかり募集しているようだった。繰り返し応募する、しかも数年間もやっているということは、何回かに1回かは釣れる。しかし、特定の相手と長続きしないタイプの男だ。人格に欠落があるか、本命は別にいて本命にはまともな面を見せ、性的倒錯はこういう場所で探すタイプ。あるいは両方か。
気になるのはこの男の正体だ。例のリストの中でも特に高額の電子コインを使って手に入れた情報、その中に鉄道会社の男がいたのを思い出したのだった。彼がそういったプレイを好み、高い地位にあるために逮捕をされないという。流石に罵詈雑言の類、眉唾物だろうと思っていた。
面識のある管理人にメールで連絡してみると、すぐに軽い返事が来た。
「イニシャルだけ教えてやるよ、M島だよ♡」
殆ど答えを言っているじゃないか、法令違反だぞ。と思ったが、
「ありがと♡♡」とだけ返した。すぐにお礼に一発などとメールが返ってきたので無視した。今は相手をしている余裕がない。
向島 満
それが鉄道会社、北部鉄道 最高顧問の息子で、現役員の男の名前だった。これは当たりかもしれない。ハズレならハズレでも別にいい。失うものなど何も無いから。しかし、考えれば考えるほどわからない。裕福で順風満帆な人生が約束された人間が何故、異常な性癖になってしまうのか。
1歩間違えば全てを失うというのに。寧ろそれが快?少し考えてから、専門分野ではないと考えるのを辞めた。専門分野は身体を張って男を懐柔することである。精神科医のオトモダチでも作ってみようか。
電車男とコンタクトをとった。返事は恐ろしいほどすぐに来た。ハンドルネームは彼に合わせてエルメスにした。ダサくて仕方がないが、他に浮かぶものもない。大体、電車男はエルメスを助けるんじゃなかったか?
◆
待ち合わせの電車
北部新宿線 下り電車 18時8分 最後尾車両の4番ドア
新宿発のひとつ先の駅から乗れば座れず、押し込まれることになる。
一ノ瀬の目印はワインレッドのネクタイとわかりやすく左手の小指に金のリングを嵌めておいた。混雑でよく見えず密着した状態でも、手に触れればわかる。手に触れるくらいでは痴漢にもならない。男でピンキーリングを、スーツ姿で付けている男は少ないだろう。
駅のホームの半分が人で埋まっていた。できるだけ待ち行列の最期に着くようして、一番最後に乗り込んで、ドアに密着できる位置を陣取った。もう彼は乗っているのだろうか。
電車の扉の高い位置に手を開いてついて、どこからでも左手が見えるようにしながら何も考えないで外を見ていた。夕焼けが街を赤く照らして、何事もなく一日の終わりを告げていた。たまに窓に映る自分の顔と目が合うと、嫌な気分になった。「お前は何をしてるんだ。」と語りかけてくるようだ。
数駅通過して、電車が河川の上の橋を渡っているときだった。ドンッという軽い音がして、一ノ瀬のすぐ左上に一回り大きい手が張り付いていた。バイオハザードを思い出した。演出として窓に音を立てて攻撃者がぶつかってきてプレイヤーを驚かし、襲うのである。
電車が橋を渡りきりカーブに突入すると、電車の車体が大きく揺れ、何人かがバランスを崩し、バタバタと車内が騒がしくなった。下半身に何か硬いものが揺れと一緒に押し付けられ、カーブが終わると共に離れていく。
きた。電車男だ。タイミングを熟知したプロだ。左手で軽くピースサインを作る。「自分がエルメスです。」の意味。掲示板上で打ち合わせたことだから、実際にやってみたが馬鹿みたいだ。すぐに手を元に戻した。
窓ガラス越しに男を確認すると、真っ暗な瞳と目が合い、一瞬だけ背筋が寒くなった。しかし熱い身体を押し当てられると、所詮彼も1匹の欲情する雄でしかないことが理解出来、大した恐怖もなくなってくる。
冷静になってよく見れば、男は曇った双眸を除けば端正な、曲がったことが嫌いなスポーツマンのような顔立ちをしていた。明るい日差しの芝の上にでも立てば爽やかなアメフト選手のようだ。
橋を渡りきってから、カーブや揺れのポイントが多く、そのタイミングにそって彼は彼流の行為を進め始めた。
臀を撫でまわし、窪みにずっといきり立った雄を押し付けながら、一ノ瀬のベルトを外しにかかった。
「へー。随分と大胆っすね。」
一ノ瀬が小声でそう言うと爽やかな顔つきに似合わない気味の悪い、邪悪な小さな笑い声が返ってきただけで、何も言わない。むず痒さを感じて視線を下げると、さっそく彼の大きく温かい手が一ノ瀬の物を掴みあげ、ごしごしと遠慮なく扱き上げていた。
「うっ……」
流石に気持ちが良くないことはなく、俯いたまま黙ってされるがままになっていると、どんどんと勃起していく。背後の物も同じだ。腰を擦り付けるようにして誘うと、そのまま服の上から熱い固まりを擦り付けられる。
後ろの男が露出してるのを悟り、左手を窓についたまま右手で後ろをさぐった。生暖かい弾力のある肉が指先に辺る。それを掴みあげてもっと自分の腰の辺りに擦り付けた。そうすると、後ろで気味悪く笑っていただけの声がたまに野太い声を出すようになった。手にぬるりとした物がまとわりつき、精臭が漂い始めた。
周囲は何事も無かったかのようにスマホを見、あるいは眠っている者ばかりだ。
『次は武蔵小杉、武蔵小杉』
鰻のように手から肉棒が逃げ消えて、熱かった雄の気配がどんどんと冷め、日常の景色を取り戻していく。一ノ瀬ひとりだけ熱を帯び、電車の中でくらくらしていた。手にはべったりと大量の精液がついていた。
◆
「おい、待てよ。」
駅のホームを人混みに紛れて男はどんどん歩いていく。通い慣れた駅なのか、一ノ瀬が人に揉まれているのに一人すいすいと階段を登っていく。しかし大きな体躯に上品なスーツを着た男は遠くからでも目立ち、離れてしまっても視界の端でとらえ続けることが出来た。
もみくちゃにされてしまえば、一ノ瀬であっても人以下のただの物、誰も気を使わない。それはそれで面白くもあるが、今はそれどころではない。改札を出る直前でようやく追いつき、ジャケットの袖を掴むと彼はようやくこちらを振り向いた。まるでゴミを見るような冷徹な目付きだった。
「……なんでしょうか。」
「冷たいじゃないですか、ちょっとくらい」
「なんだ?、初心者かお前。」
男はそう言って、蝿を追い払うように手を動かして背を向け、改札を通ってしまう。続いて改札を通るが残金不足で豪快なブザーと共に改札がしまった。
「向島」
最後の切り札を使うと彼は足を止めてゆっくりと振り向いた。ゴミの中でも最下級のゲロを見るような目で。
「誰だお前。いいよ、おもしろい。待っててやるから金払ってこい。」
急いで不足金をチャージして改札を抜けると、男は言葉通り改札から少し離れた場所に立ち、携帯を眺めていた。
「おまたせ。」
デートの待ち合わせのように明るく言ってみても、向島は一切目を合わせようとせず陰気な目で携帯を眺め、ゆっくり画面をこちらに向けた。
「お前の痴態だ。俺を脅す気ならこれも撒くぞ。」
そこには先程の動画が流れており露出した向島のペニスの場面からじょじょに一ノ瀬の下半身上半身に向かっていき、窓ガラスに写った2人の顔が映し出された。
「ははは、なんだこりゃ、向島さんの痴態でもあるじゃないか。思い出作りか?」
携帯を握る手首を掴んで彼を見上げた。
「これより、もっといい思い出作らせてやるよ。」
彼は胡散臭そうな目でこちらを見ている。
「もっといい思い出?たとえば?」
「向島さんみたいな変態は、普通にホテルに行っても萎えるんだろ。この近くにでかい公園がある。そこで続きをしようよ。」
向島の顰められていた顔が少しずつ緩み始め、電車の中で見た変態じみた笑みとは違う、悪い笑い方をした。
「へぇ、面白なエルメス君。いいよ、野外は久しぶりだ。でかい声出して警察呼ぶなよ。」
向島と横に並んで歩き始めた。さっきまでの精の臭いを全く感じさせない、精悍で爽やかな姿。むしろ隣で歩いている一ノ瀬の方が夜の雰囲気を漂わせ、どういう関係なのか傍から見て怪しがらせる要素を持っていた。
「エルメス君、金が欲しいのか?」
駅から出ると涼しい夜風が顔に当った。湿った木の匂いが漂ってくる。すぐ近くの公園の香りだ。
「金?まぁ金は欲しいけど、もっと欲しいものがある。」
「なんだ?」
「後で教えてあげますよ。」
◆
公衆便所の裏、人目につきそうでつきづらい茂みの奥深くで、仰向けになり、シャツはだけ、下は下着1枚になった一ノ瀬の上に向島がのしかかっていた。風が吹くと肌を直接擽って、何もしていないのに息が高まっていく。
「いい肌だ、気持ちがいい。君みたいなのがこんな場所で、ダメだろう。」
「逆にいいんじゃないですか?」
向島の手が下着に延び、それから下着のゴムの縁あたりを指でひっかけ探り始めた。少しして彼は一ノ瀬がパンツに仕込んでいた物を探り当て、手に取った。
「本当は電車の中で取らせるつもりだったのに、向島さんたら、俺のケツに夢中で気がついてないのかと思ってたよ。」
名刺と簡易な契約書を織り込んでいれていた。
向島は冷めた目でそれを見さげていたが、徐々に口角を上げそれから笑い始めた。
「一ノ瀬リョウ君、君は凄まじいブラック会社に勤めてるんだな。社員をこんなふうに使い潰すとは。」
彼は声を上げて笑った。彼の背後に異様に大きな月が輝いていた。月明かりの下、公園内はしんとして、風で木や草が揺れる音と土のにおい、一ノ瀬と向島の息遣いがする以外何もない。
「使い潰す?好きでやってんだよ。」
雑音がないせいで、声が良く響いた。
笑い声が止まった。月明かりの中で双眸がさっきまでと違った細まり方をした。哀れみの目だった。
「あ、そ。契約書までそんなところにいれて用意してきて、で何?初期契約で32億5000万?そんな高額なの最初から吹っかけてくる奴がどこにいるんだよ。」
「鉄道会社なんて何かと入り用だろ。被ってんなら、他の会社との契約を解除してうちに乗り換えてよ。」
彼は冷めた顔をして手の中で、簡易的に契約内容が記載された紙きれを元のように小さく折り込み、名刺に重ねて破くような仕草をした。
「やめろよ。」
手を伸ばして手首を掴むと、その手首の熱さ、脈の速さが伝わってくる。
「俺に痴漢された時は余裕な顔して、こんな小さい紙切れを破かれようとしたら、急にムキになる。逆だろ普通。壊れてるよお前。」
湿った地面の上に名刺と契約書が打ち捨てられた。
「……。」
向島の言う通り、それ自体何の意味もない紙切れだ。会社だって、ムキになってこんなことをしているが、金を貰う以外何の意味もない。契約書を握りつぶすようにして、土の上に手をついて体を起こした。そのまま彼を上目遣いで見上げた。
「壊れてる?そうだよ。向島さんとおそろいだよ。でもここには俺と向島さんしかいないんだから。壊れてる方がマジョリティ、正常なくらいだ。もしそこの道を犬の散歩でもしたおっさんが通りかかってもここではソイツの方がマイノリティの異常者だ。混ぜて仲間にしてやってもいいぜ、何人でもな。」
地面に置き捨てられたジャケットのポケットからライターを取り出した。手の中で火が揺らめき始める。揺らめく炎の向こう側で向島が一瞬動揺した目を見せたのが見えた。
ライターで名刺と契約書に火をつけた。薄い紙切れ一枚すぐ火が回り、小さな炎が燃え上がった。笑いながら、ゆっくり向島の方に目をやると、その瞳の中で同じように炎が揺れていた。
ライターを放り投げて、彼の背中に手を回し抱きついた。いっそう脈拍と体温、それから荒れた息遣いが伝わってくる。耳元に口を持っていった。彼は何の反応もせず、黙っていた。
こいつは背徳的であればあるほど高まるタイプだとすぐにわかった。変態は単純で楽だ。
「いいよ、こんなの無視してしようよ。くだらない。あなたの言う通りだ。」
抱き着いたまま身体の力を抜いて、再び一緒に地面に倒れ込んだ。仰向けになってすぐ近くに向島の顔を見上げた。
焦げた臭いと共に契約書の残骸が風に乗って飛んでいく。もう炎はないはずなのに、向島の瞳の奥に炎の揺らめきのようなものが消えずに残っていた。
◆
数日後、自宅のベッドの中、電話の社用携帯の着信音で目を覚ました。
身体がだるく、悪態をつきながら散らかった部屋を探る。どこに電話があるのか見つけるまでに随分時間をかけた。
「はい……」
『何回掛けたと思ってるんだ!』
上司の篠崎の叱責だった。寝ぼけ眼で着信履歴を見ると篠崎からの五回目の着信だった。
「すみません、電源切ってました。」
気の抜けた返事をしながら欠伸をした。先月は誰もいない空間に向かって頭を下げて電話をしていた記憶がある。
『お前をご指名で北部鉄道の方から電話があったぞ、名刺を交換し忘れたんだって?何をやってるんだ。』
「……」
『今から言う電話番号にすぐにかけなおせよ。』
電話をかけた先は思った通り彼だった。
「くだらねぇ……。」
ひとりになってそう呟いて再び作業を始めた。今月周るべき会社のスケジュール調整、その隙間で新規開拓、スケジュール組をしていたのだった。こうやって一人で物事を進めていくのは好きだ。システムエンジニアの頃は、これを何人かでチームになって回していく必要があり、大体自分が足を引っ張った。
「できそうな見た目してるくせに……」
会議室に入る前に中から同じチームの女がそういったのが聞こえた。やはり向いていないんだと思った。当時の、まだ既婚者だと知らなかった頃の彼女、ヨシノは、一ノ瀬がプライベートで仕事の話をするのを嫌った。仕事のことは忘れたいと言って抱きついてくる彼女に、自分の苦しみなど何も言えなかった。朝倉は、できない人間の苦悩を知らない。そうやって社内でどんどん孤立していったのだった。
斎藤の席は空席だった。珍しく定時までずっとデスクで仕事をしていた。それでも空席だった。定時を過ぎても仕事をした。それでも空席だった。気が付くとデスクの横に、僅差で3位だった鴨居が立っていた。鴨居の後ろの壁に掛けられた時計が20時を指していた。
「珍しいじゃないか。顔採用、こんな時間まで。」
「その呼び方やめてくれませんか。」
鴨居ではなく斎藤に一言言ってやるために会社に居たのだ。これ以上ここにいる意味もない。荷物をまとめ始めても鴨居はいなくなる素振りを見せない。
「何か?」
「飲まないか?」
何故か鴨居の誘いに乗ってしまい、繁華街を歩いていた。街を歩いていると自分たちと同じようなスーツの男の群れが目立った。ただ、自分たちが歩くと軽く人混みが割れ、たまに視線を感じる。
「お前がいると人避けになっていいな。」
鴨居がそんなことを言って酔って居もいないのに声を出して笑った。品のない笑い方だ。
彼に連れられて雑居ビルの中にある小さなバーに入った。細長いつくりでカウンター席が10席しかない。そのうち5つはすでに埋まっており、店内はそこそこの盛り上がりであった。
「何を飲む?」
小さな黒板に書かれたメニューを眺めた。
「カンパリソーダがいいです。」
「可愛いもの飲むじゃないか。」
そう言って鴨居はカンパリソーダと獺祭を頼んだ。鴨居は「お前は一体どうしたんだ?」と言って笑いかけてきた。嫌な笑い方ではなかった。少なくとも馬鹿にしているわけではなさそうだ。すぐに注文がとどき、形だけの乾杯をした。さっきから鴨居しか笑っていない。
「斎藤が発破をかけたからか?」
ソーダを飲んでいた手が一瞬止まり、そのまま一気に半分ほど流し込んだ。そのまま鴨居の方を見ると彼はこちらを見ておらず、カウンターの奥にいる女性二人組をみていた。
「発破?セクハラじゃないですか。」
鴨居の目が再びこちらを向き、それから鼻で笑った。鴨居は一ノ瀬に昨日何があったかなど知らない。
ただ、鴨居は一か月前に一ノ瀬が皆の前で斎藤に恥をかかされているのをすぐ側で見ていた。たまたま一番前の席に座っていたため、部長や斎藤が一ノ瀬の顔を晒したのがよく見えてしまった。会議の後、一ノ瀬の席は空席で、自席に戻って彼のデータを調べた。彼の社員証に貼られている写真が社内サイトに載っており、全くどこかの事務所の宣材写真かと見まがうほどの完成された顔をしていた。
「まあ、そうとも言う。ああいう奴なんだ。」
鴨居は、悪意はない、と続けかけたが、それは言い過ぎだと思った。斎藤が悪意を持って徹底的にライバルを潰すところを何度か見たことがあった。多くは部署を移動するか、会社を辞め、一番最悪なのが精神を病んで再起不能になった者だった。鴨居自身はつかず離れずの付き合い方をしていた。敵だと思われると面倒だったのだ。
「まったく、最悪の人間ですね!」
突然一ノ瀬が大きな声でそう言って、残りの酒を一気に流し込み、さらに追加でもう一杯注文した。それから鴨居の目をじっと食い入るように見つめた。一ノ瀬の目の下は軽く紅潮しさっそく酔いが回っている。
「アンタもですよ。最悪な人間ですね~。俺の方が勝ってんだよ、偉そうな態度をとらないでくださいよ。」
鴨居の目の前で一ノ瀬は新しいグラスを手に取って、しばらくそれをじっと見つめていた。
そして、鴨居の方に向き直って、今まで見たことのないような微笑み方をした。ありとあらゆる人間を手玉にとってきた高級クラブの女のような愉悦と嘲笑の混ざった笑みだった。鴨居の背筋には寒気が走っていた。
「鴨居さ~ん、なんで俺なんか誘ったんですか?というか、あんなに電話してきて。あんた一体、何?」
彼の口から漏れ出た一音一音が、針で刺されたように脳に響く。
随分酔っているのかもしれない。鴨居は一瞬言葉に詰まったが、ここで動揺を見せたら「負け」と彼の本能が強く彼に警告した。この直感は仕事、交渉事でも役に立つ。
「言ったじゃないかお前の業績フォルダの様子がおかしい。それから部長がお前のことを誉めているのを聞いたんだよ。大手から最近成長してきたベンチャーまで攫ってきてすごいとな。」
「ふーん。」
一ノ瀬は鴨居から目をそらして、つまらなそうにカウンターの壁に並んだボトルを眺め始めた。
鴨居をどうにかしたところで自分に何か得があるだろうか。指先でグラス縁に刺さっているレモンを潰していき、グラスの底に沈めた。
「鴨居さんって斎藤と仲いいんですか?”ああいう奴”ってことは、擁護してますよね?」
「何回かこんな感じで飲んだことはあるな。」
「ふたりきりで?」
「いや、大体三人か四人だな。男二人でつるんでもつまらないとあいつが言うから。」
一ノ瀬は思わず吹き出してしまい、丁度飲んでいた酒が喉の奥に入り、軽くむせた。
”男二人でつるんでもつまらない”とは笑えてくる。鴨居に昨日のことを全て話してやろうかと思ったが、とても信じないかこっちが酔っているか、斎藤に嫉妬しすぎて適当言っていると思われるのが関の山だろう。
「鴨居さんは男二人でつるむの平気なんですか。俺みたいなのと飲んで何がいいんだか。」
そう言ってグラスを空にしてトイレに立った。
戻ると上品な黄金色をしたスパークリングワインが二つカウンターの上に乗っていた。
「店長がサービスだって。」
スツールに座り、そこから湧き出る泡をじっと眺めていた。酔っているのと違う緊張感のある脈拍の上がり方をし始めた。斎藤のせいだ。あれさえなければ……。
「……。」
そっとシャンパングラスに指をかけて鴨居の方に押し出し、鴨居の前にあったものを自分の前に持ってきた。鴨居は特に何も言わず、一ノ瀬の挙動を見ていた。
「念のためですよ、念のため。」
ワザとらしく笑い、口をつけた酒は美味しく、身体に染み込んだ。鴨居も同じようにグラスに口をつけ、それからすっかり黙り込むようになってしまった。酔うと静かになるタイプ、一ノ瀬とはまったく逆だった。
「え?あれ、どうしたんですか、鴨居さん。俺から話すのキツいから、何か話題出してくださいよ。」
「俺が薬でも盛ったと思ったのか?」
鴨居の声はさっきまでより一段階低く、こちらと目を合わせようとしない。
「そうですね。ま、たまにあることなんで。気分悪くさせたらすみませんね。鴨居さんだからとか、そういうのじゃないです。」
「たまに?そんなにあるもんかね。」
こちらを向いた彼の目は、キツイ、仕事中と同じ目をしていた。それを見ていると、腹が立ってきて何でもいいから彼を驚かせるようなことを言って負かしたくなった。彼のそういう、絶望したような顔を見たくなった。
一ノ瀬は、上司から叱られて困っており、相談するような調子で言った。
「鴨居さん、俺はね、斎藤から昨日レイプされてるんですよ。酷くないですか?セクハラというレベルを超えていると思いません?ま、別にいいんだ。初めてでもない。」
「……」
鴨居は何か聞き間違えたかのような怪訝な顔をしてこちらを見ていた。
「車には詳しくないんですけど、男二人であんな揺れても全然余裕、斎藤さんの車初めて乗ったけどあんな中が広いとはね。乗ったことあります?すごいですよ。」
「お前、さっきから何を言ってんだ。いくらアイツが嫌いだからってつまんない冗談だぞ」
「だから……」
それ以上目の前にいる人間に、何を言えばいいのかわからなかった。「最後は、AVさながら敗北アクメキメさせられましたよ。笑えますね。」とでも下品に冗談を言い直したらいいのか?営業マンの内輪ノリはいつだって下品で最低だ。初めて自分1人笑えてくるのに、鴨居は笑いさえしてくれない。
鴨居は仕事中とプライベートの中間あたりのよく分からない顔をしていた。負かすにしてもこんな顔見ても何も面白くない。不愉快だ。言わなければよかった。人に助けを求めて何になる。助け?何を助けてもらうというのか。
一ノ瀬はそのまま席を立ち、グラスに残った液体を一気に飲み干し、鞄を手に取った。
「帰ります。」
後ろで鴨居が何か言っていたが、そのまま店を出た。
◆
鴨居と別れた後、一人で飲みなおそうか迷ったが、そんなことよりもっと仕事をしたかった。自宅に帰りそのままPCの前に座った。酔った頭で変態サイトを見ていた。
「ははは、なんの捻りもない名前だな。」
乾いた笑いと共に独り言ちた。ハンドルネーム「電車男」という人間がいた。彼は随分昔からこのサイトに出入りして、痴漢プレイばかり募集しているようだった。繰り返し応募する、しかも数年間もやっているということは、何回かに1回かは釣れる。しかし、特定の相手と長続きしないタイプの男だ。人格に欠落があるか、本命は別にいて本命にはまともな面を見せ、性的倒錯はこういう場所で探すタイプ。あるいは両方か。
気になるのはこの男の正体だ。例のリストの中でも特に高額の電子コインを使って手に入れた情報、その中に鉄道会社の男がいたのを思い出したのだった。彼がそういったプレイを好み、高い地位にあるために逮捕をされないという。流石に罵詈雑言の類、眉唾物だろうと思っていた。
面識のある管理人にメールで連絡してみると、すぐに軽い返事が来た。
「イニシャルだけ教えてやるよ、M島だよ♡」
殆ど答えを言っているじゃないか、法令違反だぞ。と思ったが、
「ありがと♡♡」とだけ返した。すぐにお礼に一発などとメールが返ってきたので無視した。今は相手をしている余裕がない。
向島 満
それが鉄道会社、北部鉄道 最高顧問の息子で、現役員の男の名前だった。これは当たりかもしれない。ハズレならハズレでも別にいい。失うものなど何も無いから。しかし、考えれば考えるほどわからない。裕福で順風満帆な人生が約束された人間が何故、異常な性癖になってしまうのか。
1歩間違えば全てを失うというのに。寧ろそれが快?少し考えてから、専門分野ではないと考えるのを辞めた。専門分野は身体を張って男を懐柔することである。精神科医のオトモダチでも作ってみようか。
電車男とコンタクトをとった。返事は恐ろしいほどすぐに来た。ハンドルネームは彼に合わせてエルメスにした。ダサくて仕方がないが、他に浮かぶものもない。大体、電車男はエルメスを助けるんじゃなかったか?
◆
待ち合わせの電車
北部新宿線 下り電車 18時8分 最後尾車両の4番ドア
新宿発のひとつ先の駅から乗れば座れず、押し込まれることになる。
一ノ瀬の目印はワインレッドのネクタイとわかりやすく左手の小指に金のリングを嵌めておいた。混雑でよく見えず密着した状態でも、手に触れればわかる。手に触れるくらいでは痴漢にもならない。男でピンキーリングを、スーツ姿で付けている男は少ないだろう。
駅のホームの半分が人で埋まっていた。できるだけ待ち行列の最期に着くようして、一番最後に乗り込んで、ドアに密着できる位置を陣取った。もう彼は乗っているのだろうか。
電車の扉の高い位置に手を開いてついて、どこからでも左手が見えるようにしながら何も考えないで外を見ていた。夕焼けが街を赤く照らして、何事もなく一日の終わりを告げていた。たまに窓に映る自分の顔と目が合うと、嫌な気分になった。「お前は何をしてるんだ。」と語りかけてくるようだ。
数駅通過して、電車が河川の上の橋を渡っているときだった。ドンッという軽い音がして、一ノ瀬のすぐ左上に一回り大きい手が張り付いていた。バイオハザードを思い出した。演出として窓に音を立てて攻撃者がぶつかってきてプレイヤーを驚かし、襲うのである。
電車が橋を渡りきりカーブに突入すると、電車の車体が大きく揺れ、何人かがバランスを崩し、バタバタと車内が騒がしくなった。下半身に何か硬いものが揺れと一緒に押し付けられ、カーブが終わると共に離れていく。
きた。電車男だ。タイミングを熟知したプロだ。左手で軽くピースサインを作る。「自分がエルメスです。」の意味。掲示板上で打ち合わせたことだから、実際にやってみたが馬鹿みたいだ。すぐに手を元に戻した。
窓ガラス越しに男を確認すると、真っ暗な瞳と目が合い、一瞬だけ背筋が寒くなった。しかし熱い身体を押し当てられると、所詮彼も1匹の欲情する雄でしかないことが理解出来、大した恐怖もなくなってくる。
冷静になってよく見れば、男は曇った双眸を除けば端正な、曲がったことが嫌いなスポーツマンのような顔立ちをしていた。明るい日差しの芝の上にでも立てば爽やかなアメフト選手のようだ。
橋を渡りきってから、カーブや揺れのポイントが多く、そのタイミングにそって彼は彼流の行為を進め始めた。
臀を撫でまわし、窪みにずっといきり立った雄を押し付けながら、一ノ瀬のベルトを外しにかかった。
「へー。随分と大胆っすね。」
一ノ瀬が小声でそう言うと爽やかな顔つきに似合わない気味の悪い、邪悪な小さな笑い声が返ってきただけで、何も言わない。むず痒さを感じて視線を下げると、さっそく彼の大きく温かい手が一ノ瀬の物を掴みあげ、ごしごしと遠慮なく扱き上げていた。
「うっ……」
流石に気持ちが良くないことはなく、俯いたまま黙ってされるがままになっていると、どんどんと勃起していく。背後の物も同じだ。腰を擦り付けるようにして誘うと、そのまま服の上から熱い固まりを擦り付けられる。
後ろの男が露出してるのを悟り、左手を窓についたまま右手で後ろをさぐった。生暖かい弾力のある肉が指先に辺る。それを掴みあげてもっと自分の腰の辺りに擦り付けた。そうすると、後ろで気味悪く笑っていただけの声がたまに野太い声を出すようになった。手にぬるりとした物がまとわりつき、精臭が漂い始めた。
周囲は何事も無かったかのようにスマホを見、あるいは眠っている者ばかりだ。
『次は武蔵小杉、武蔵小杉』
鰻のように手から肉棒が逃げ消えて、熱かった雄の気配がどんどんと冷め、日常の景色を取り戻していく。一ノ瀬ひとりだけ熱を帯び、電車の中でくらくらしていた。手にはべったりと大量の精液がついていた。
◆
「おい、待てよ。」
駅のホームを人混みに紛れて男はどんどん歩いていく。通い慣れた駅なのか、一ノ瀬が人に揉まれているのに一人すいすいと階段を登っていく。しかし大きな体躯に上品なスーツを着た男は遠くからでも目立ち、離れてしまっても視界の端でとらえ続けることが出来た。
もみくちゃにされてしまえば、一ノ瀬であっても人以下のただの物、誰も気を使わない。それはそれで面白くもあるが、今はそれどころではない。改札を出る直前でようやく追いつき、ジャケットの袖を掴むと彼はようやくこちらを振り向いた。まるでゴミを見るような冷徹な目付きだった。
「……なんでしょうか。」
「冷たいじゃないですか、ちょっとくらい」
「なんだ?、初心者かお前。」
男はそう言って、蝿を追い払うように手を動かして背を向け、改札を通ってしまう。続いて改札を通るが残金不足で豪快なブザーと共に改札がしまった。
「向島」
最後の切り札を使うと彼は足を止めてゆっくりと振り向いた。ゴミの中でも最下級のゲロを見るような目で。
「誰だお前。いいよ、おもしろい。待っててやるから金払ってこい。」
急いで不足金をチャージして改札を抜けると、男は言葉通り改札から少し離れた場所に立ち、携帯を眺めていた。
「おまたせ。」
デートの待ち合わせのように明るく言ってみても、向島は一切目を合わせようとせず陰気な目で携帯を眺め、ゆっくり画面をこちらに向けた。
「お前の痴態だ。俺を脅す気ならこれも撒くぞ。」
そこには先程の動画が流れており露出した向島のペニスの場面からじょじょに一ノ瀬の下半身上半身に向かっていき、窓ガラスに写った2人の顔が映し出された。
「ははは、なんだこりゃ、向島さんの痴態でもあるじゃないか。思い出作りか?」
携帯を握る手首を掴んで彼を見上げた。
「これより、もっといい思い出作らせてやるよ。」
彼は胡散臭そうな目でこちらを見ている。
「もっといい思い出?たとえば?」
「向島さんみたいな変態は、普通にホテルに行っても萎えるんだろ。この近くにでかい公園がある。そこで続きをしようよ。」
向島の顰められていた顔が少しずつ緩み始め、電車の中で見た変態じみた笑みとは違う、悪い笑い方をした。
「へぇ、面白なエルメス君。いいよ、野外は久しぶりだ。でかい声出して警察呼ぶなよ。」
向島と横に並んで歩き始めた。さっきまでの精の臭いを全く感じさせない、精悍で爽やかな姿。むしろ隣で歩いている一ノ瀬の方が夜の雰囲気を漂わせ、どういう関係なのか傍から見て怪しがらせる要素を持っていた。
「エルメス君、金が欲しいのか?」
駅から出ると涼しい夜風が顔に当った。湿った木の匂いが漂ってくる。すぐ近くの公園の香りだ。
「金?まぁ金は欲しいけど、もっと欲しいものがある。」
「なんだ?」
「後で教えてあげますよ。」
◆
公衆便所の裏、人目につきそうでつきづらい茂みの奥深くで、仰向けになり、シャツはだけ、下は下着1枚になった一ノ瀬の上に向島がのしかかっていた。風が吹くと肌を直接擽って、何もしていないのに息が高まっていく。
「いい肌だ、気持ちがいい。君みたいなのがこんな場所で、ダメだろう。」
「逆にいいんじゃないですか?」
向島の手が下着に延び、それから下着のゴムの縁あたりを指でひっかけ探り始めた。少しして彼は一ノ瀬がパンツに仕込んでいた物を探り当て、手に取った。
「本当は電車の中で取らせるつもりだったのに、向島さんたら、俺のケツに夢中で気がついてないのかと思ってたよ。」
名刺と簡易な契約書を織り込んでいれていた。
向島は冷めた目でそれを見さげていたが、徐々に口角を上げそれから笑い始めた。
「一ノ瀬リョウ君、君は凄まじいブラック会社に勤めてるんだな。社員をこんなふうに使い潰すとは。」
彼は声を上げて笑った。彼の背後に異様に大きな月が輝いていた。月明かりの下、公園内はしんとして、風で木や草が揺れる音と土のにおい、一ノ瀬と向島の息遣いがする以外何もない。
「使い潰す?好きでやってんだよ。」
雑音がないせいで、声が良く響いた。
笑い声が止まった。月明かりの中で双眸がさっきまでと違った細まり方をした。哀れみの目だった。
「あ、そ。契約書までそんなところにいれて用意してきて、で何?初期契約で32億5000万?そんな高額なの最初から吹っかけてくる奴がどこにいるんだよ。」
「鉄道会社なんて何かと入り用だろ。被ってんなら、他の会社との契約を解除してうちに乗り換えてよ。」
彼は冷めた顔をして手の中で、簡易的に契約内容が記載された紙きれを元のように小さく折り込み、名刺に重ねて破くような仕草をした。
「やめろよ。」
手を伸ばして手首を掴むと、その手首の熱さ、脈の速さが伝わってくる。
「俺に痴漢された時は余裕な顔して、こんな小さい紙切れを破かれようとしたら、急にムキになる。逆だろ普通。壊れてるよお前。」
湿った地面の上に名刺と契約書が打ち捨てられた。
「……。」
向島の言う通り、それ自体何の意味もない紙切れだ。会社だって、ムキになってこんなことをしているが、金を貰う以外何の意味もない。契約書を握りつぶすようにして、土の上に手をついて体を起こした。そのまま彼を上目遣いで見上げた。
「壊れてる?そうだよ。向島さんとおそろいだよ。でもここには俺と向島さんしかいないんだから。壊れてる方がマジョリティ、正常なくらいだ。もしそこの道を犬の散歩でもしたおっさんが通りかかってもここではソイツの方がマイノリティの異常者だ。混ぜて仲間にしてやってもいいぜ、何人でもな。」
地面に置き捨てられたジャケットのポケットからライターを取り出した。手の中で火が揺らめき始める。揺らめく炎の向こう側で向島が一瞬動揺した目を見せたのが見えた。
ライターで名刺と契約書に火をつけた。薄い紙切れ一枚すぐ火が回り、小さな炎が燃え上がった。笑いながら、ゆっくり向島の方に目をやると、その瞳の中で同じように炎が揺れていた。
ライターを放り投げて、彼の背中に手を回し抱きついた。いっそう脈拍と体温、それから荒れた息遣いが伝わってくる。耳元に口を持っていった。彼は何の反応もせず、黙っていた。
こいつは背徳的であればあるほど高まるタイプだとすぐにわかった。変態は単純で楽だ。
「いいよ、こんなの無視してしようよ。くだらない。あなたの言う通りだ。」
抱き着いたまま身体の力を抜いて、再び一緒に地面に倒れ込んだ。仰向けになってすぐ近くに向島の顔を見上げた。
焦げた臭いと共に契約書の残骸が風に乗って飛んでいく。もう炎はないはずなのに、向島の瞳の奥に炎の揺らめきのようなものが消えずに残っていた。
◆
数日後、自宅のベッドの中、電話の社用携帯の着信音で目を覚ました。
身体がだるく、悪態をつきながら散らかった部屋を探る。どこに電話があるのか見つけるまでに随分時間をかけた。
「はい……」
『何回掛けたと思ってるんだ!』
上司の篠崎の叱責だった。寝ぼけ眼で着信履歴を見ると篠崎からの五回目の着信だった。
「すみません、電源切ってました。」
気の抜けた返事をしながら欠伸をした。先月は誰もいない空間に向かって頭を下げて電話をしていた記憶がある。
『お前をご指名で北部鉄道の方から電話があったぞ、名刺を交換し忘れたんだって?何をやってるんだ。』
「……」
『今から言う電話番号にすぐにかけなおせよ。』
電話をかけた先は思った通り彼だった。
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