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14.妻子持ちの男
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今月分の振込を終えた。今月は営業中に男達からもらったお小遣いから出すだけで良かった。こんなに簡単な話だったとは。
口の中を血の味で溢れさせ、顔面を真っ赤に血濡れにしてATMに行ったことがあるだろうか?アメリカの話ではない。それは、一ノ瀬の人生経験の中で最悪の部類に入る経験のひとつであった。ヨシノの夫が会社の前に現れ問答無用で殴打され、車に乗せられてそのままATMでお金を引き出すように脅されたのである。慰謝料の一部だ。一週間後に退職を控えていたというのにタイミングが悪い。
「お前のその顔がむかつくんだよ。」
「まあ、造りが違うからな。」
さらに1発腹に深いパンチがきまった。ヨシノがなぜ浮気などしたのかよくわかった。彼女を許す気は無いが同情はする。
現代日本では、既婚者が浮気しそれを原因に離婚に至った場合、民事裁判へ持ち込めば浮気をした者と間男つまり一ノ瀬両方に慰謝料支払い課せられる。一ノ瀬がヨシノが既婚者だと知らなかったことで情状酌量もあり、減額はされたがそれでも200万円の支払いがかせられた。ヨシノはすぐさま一括で金を「元」夫に渡し、今も会社に「居座って」いる。夫と別れたいがための不倫だったのか?と聞く前に会社を出ることになってしまった。
一方の一ノ瀬にはそもそも貯金もなく、度々ヨシノから金を借りていたくらいなので、人に渡す金などない。
「映画の撮影ですか?」
呑気な女が血濡れで歩いている一ノ瀬に話しかけてきて、無性に腹が立ち、殺してやろうかと思った。女などもう懲り懲りだと思い、睨み返すがそれでも人は無遠慮に自分に注目した。
水野ホールディングスに営業として来訪することを再三申し入れたが、他社から乗り換える気がないの一点張りで名刺さえ受け取ってもらえなかった。高層ビルの下から、何度か彼がいるであろう階を見上げた。窓のきらめきが目に刺して、まぶしい。人の姿など見えるわけもないのに。
もし、齋藤であれば門前払いされようが、何かしら上手い手を使いとりいるのであろうか。経営幹部の榊原伸二という男が例のリストに乗っているのだが、彼に繋がる道が見つからない。
そう思っていた矢先、彼の妻のSNSを発見した。彼は立派な妻子持ちである。
頬杖をつきながら彼女のSNSを眺めていた。加工された写真の中の彼女、友達、夫、子ども、ペットのダックスフンド、万華鏡でも覗いているかのように写真の一枚一枚が作りこまれていた。すべてどうでもいい。お前の夫は本当はゲイだ。嘘家庭が。知っていてそれを隠すように派手にコラージュされたSNSを作っているなら本気で笑えてくる。何故人はこんなにも外側に拘るのだろうか。外側を見られて何が楽しいと言うのか。くだらない。
飲んでいた缶ビールの缶を潰して後ろに放り投げると、うるさい音を立てた。振り向くとろくに掃除もしていない部屋の中にアルコールの瓶や缶が散乱していて、そろそろハウスクリーニングでも頼まなければと思った。昔から部屋の掃除は苦手なのだ。部屋だけではない、人間関係の掃除も。
「山波クッキングスタジオ」にその女はいた。榊原恵である。[熟成ローストビーフを1から作ろう]というテーマで、全12名の参加者のうち、男は一ノ瀬と西条という学生風の男だけだった。こういった場ではただ突っ立っているだけで人から声をかけられるので足早に、榊原恵の隣のキッチンスペースを確保した。奮起だけ作って適当な会話、適当な表情をすれば女は勝手にしゃべり始めた。相手に適当に話をさせておくのが楽だ。彼女に限ったことではない。話すべきことが見当たらないのだ。それに比べて人と「行為」することはなんて楽なんだろう。
「お若いのに趣味が料理?」
型通りの会話だ。
「家で友達と飲むこととか多いんです、大皿料理のレパートリー増やしておいた方が楽じゃないですか。」
「そう!私も同じ、それで……」
恵は勝手に共感を覚えて始めているようだった。それはそうだろう。一ノ瀬は恵のSNS出みた光景そのままを話しているだけだった。今の家に友達など呼んだことは1度もないし、呼べるような部屋でもない。ああ唯一斎藤が家の前までわざわざ車で来てくれたか。
恵と話していると、繕っているわけではなく、本当にSNS通りの人と話すことが楽しく知的好奇心の高い女性であることが分かってきて多少の罪悪感と夫の伸二についての苛立ちが増してくる。一ノ瀬はそれとなく自分が大手商社の営業マンであり、社会的地位があることを会話の節々に混ぜた。別れがけに連絡先を交換し、連絡を取り合っている内に結婚20周年パーティーに呼ばれることになった。ようやく伸二の顔を拝めるわけである。
◆
パーティーは彼女らの家ではなく、ホテルの大部屋を借りて開催された。会場に着くや否や華やかな雰囲気で、クリーニングから帰ってきたばかりの馬鹿高いスーツを着てきて正解であった。給士からカクテルグラスを渡されて何かも確認せずに受け取った。ここでなら、最悪恵達が駄目でも別の伝手も見つけることができるかもしれない。回遊魚のように会場をふらふらと彷徨うと時折視線を感じた。
恵が、窓際にいる一ノ瀬が一ノ瀬であると気が付くのに、数秒のタイムラグがあった。料理教室にいた青年からは二重にも三重にも色気を増した彼を見つけて、一度目を見張ったが、ごまかすようにして親しみを込めた笑みをたたえて、彼の方に近づいたのだった。一言、二言話している内に、奥から名前を呼ばれた。
「じゃあ、ごゆっくり、出入りも自由だから、つまらなくなったら帰っていいからね。」
一ノ瀬は曖昧に微笑んで「そうします。」といった。帰るわけがない。何故ならまだ肝心の伸二が出てきさえしないのだ。代わりに遅れて子どもたちがやってくる始末。彼女らには三人の子どもがいた。19になる息子と16の娘、そして10歳の末息子である。
一ノ瀬が会場について一時間、ようやく伸二がやってきた。写真に比べて実物は良い年の取り方をしていると思った。若い頃はさぞモテたのではないかと言う雰囲気が漂っている。体格は筋肉質とまではいかないが、無駄な部分が全くないすらりとした体躯である。ラフなポロシャツを着て妻や一番下の息子と話している様子はまさに良い父親である。41歳にして大企業の幹部とは出世としては速い方だろう。それに結婚も、最初の息子が生まれるのも早い。素晴らしき哉余生をめがけた完ぺきな人生設計。素晴らしい。
横目で家族のだんらんを見ながら、テーブルに飾りのように置かれた切られた色とりどりのフルーツの山を崩していく。フルーツをこんもりと盛った皿を持って適当なテーブルに座る。まともな料理を食べられただけでも来てよかったのかもしれない。口の中でブドウを一粒転がして、下唇を舐めた。部屋が蒸し暑く、ジャケットを脱いで袖をまくり、ボタンをいくらか大胆に外した。
一番初めに一ノ瀬に視線を注いできたのは、伸二の娘であった。一ノ瀬は彼女に微笑みかけた。
「どういう関係の方?母の知り合い?」
彼女は無邪気を装い一ノ瀬の元に歩み寄る。用意してきた言葉、彼女の母親との背景、職場、職位の話など聞かれるままに話した。目の前のテーブルにはお手製のアラビアータが大皿に盛られていた。娘がアラビアータをとりわけて自分と一ノ瀬の前に置いた。
ようやく本命の男が近づいてくる。娘にいいよる悪い虫を追い払うかのように、作った笑顔で。一ノ瀬も負けずに作った笑顔で返した。こわばっていた男の表情に一瞬だけほころびが見えたのを見逃さない。
「すみません、お嬢さんを独占してしまいました。見逃してください。私こういうものです。もしなにかご縁があれば。」
伸二は名刺を一瞥し、ポケットにしまい、改めて一ノ瀬を見た。見降ろす伸二の視線からは、汗ばみ、健やかに発達した一ノ瀬の身体、胸部がシャツの隙間からよく見えるはずだった。本来ならば「出て行ってもらいたい」と言いたいのだろう、しかし、何か口元に葛藤の後が見え、それから、「香苗、お父さんは一ノ瀬君と仕事の話をしたいから少し向こうに行っていなさい。」と言った。
「どういうつもりだね、君。ふさわしくない格好だ。」
「え?ああ、すみません、つい暑かったもので。」
一ノ瀬は手を首元に持っていったが、ボタンは閉めずにシャツ同士を軽く重ね合わせ、じっと挑発的な視線で伸二を見た。
「きれいな娘さんですね。奥様に似て。」
「香苗の方から寄っていくのを見てたよ。私にはろくによってこないというのに、なかなか君はモテるだろう。まさかとは思うが、家内とは何もないだろうね。」
「まさか、あり得ませんよ。」
一ノ瀬は再びシャツから手を離し、シャツをバタバタさせて仰ぎ始めた。
「僕は余り女性には興味がないんです。」
じっとりした視線を送ると、伸二はあれほど娘の前で堂々としていたとは思えないような動揺を見せた。見せまいとしているが、肩眉が上がったまま動かない。
「最近アレにも飽きたんじゃない。」
一ノ瀬は、親指を立てて振り向かないまま背後を指した。彼の愛人かと思われる若い男が窓際に立っていた。時折感じる視線は彼である。それからアラビアータをフォークでくるくるとまいて口に入れた。咀嚼しながら、無遠慮に伸二の目を見据えていた。こういう時はなるべき何も考えない方がミステリアスに見えていいのだ。一ノ瀬はパスタの味に集中した。こんなに美味い食べ物は久しぶりだなと思った。三口食べたところで、唇の端から飛び出たパスタの端から赤い汁が飛んでシャツの胸元を汚した。
「あっ……」
シャツの染みを見た。それから黒目だけを伸二の方にじっとりと向けて微笑んだ。
◆
復讐、復讐。伸二の上で上下に動いていると何故か脳裏に復讐の二文字が貫かれるたびに浮かんだ。目元の苦悶の表情とは反対に、気分がよく、口の端があがっていた。一ノ瀬の下で伸二は若々しくいつまでの固く隆起し、跳ね上げるように一ノ瀬を突き上げていたのだった。一ノ瀬は汗ばんだ手を彼の胸のあたりに這わせて彼の端正な顔を覗き込み、感じ入っては、背骨をそるようにして天井を見ていた。お洒落な傘の電灯が揺れていた。否、揺れているのは自分である。とろけた頭が視界を歪ませるが、自分以上に自分の下で雄々しく唸っている男の方がもっとすさまじいだろう。中を締めあげるようにしながら腰を落とし、こすり付けた。何度も何度も踊るようにつづけた。
「ノ……ヨシノ、俺は……」
急に頭の中に彼女の顔がチラつき、中指と薬指先を強く噛で黙った。そのまま伸二を見下げる。一ノ瀬の黒目がじっと点から伸二を見降ろした。伸二は強い雄の眼差しをして一ノ瀬を一身に見あげていた。探るように結合部から太もも、へその下、胸のあたりに節ばった年齢を感じさせる手が這った。武骨な手と反対に優しくシルクで撫で上げられているような手つきである。強い雄馬の様な眼差しだというのになんとも哀れな一匹の雄だった。その哀れな様子をくみ取ると一層一ノ瀬の身体は底なし沼に飲み込まれ、緩やかに窒息死していくような苦しい快楽を覚えるのであった。
一ノ瀬はそのまま彼の顔を抱えるようにして身体を前に倒し、抱き合った。
「恵さんの前でっ、そんな顔、できないだろ。」
怒れと思ったが伸二は怒らなかった。
「愛情と欲情は別の話だからな、君に対して愛情はない。」
「……。ああ。俺もそうですよ。」
一ノ瀬が急に冷めたようなはっきりとした口調で言ったことに、伸二は一瞬だけ動揺を見せたようだった。一ノ瀬は動きを止めて、手を伸ばす伸二の腕を軽く振り払い、ベッドの上で立ち上がった。下で哀れな男性器だけが元気に天井に向かって立っていて笑えた。
「帰るかな。」
「どうして、怒ったのか?まさか、こんなところでやめるんじゃないだろうな。」
大人げなく怒気が混じり始めた伸二を無視しそのままワイシャツを手に取る。しかしワイシャツはすぐにむしり取られた。
「ここにはクリーニングサービスがある。だしておいてやるから、乾くまでここにいるといい。」
伸二は大部屋以外に休憩用の部屋をひとつとっていた。休憩用といいつつ、恵、いや、愛人と利用するためにとっていたのではという邪念が働いた。
「ここにいて欲しいのか?」
「……」
「伸二さんの口から言ってもらわないとな。いてほしいと。じゃなきゃ俺は帰るよ。」
伸二は呆れたような顔つきになりながらも小さな声で「……いてほしい」と言った。穏やかな落ち着いた声だった。一ノ瀬は「そうでないといけないな。伸二さんはモノを見る目があるのだから」と笑いながらつづけた。
「モノを見る目ついでに、ウチの商品も見てよ。」
伸二はやはり怒るでもなく「なるほど。」と呟き、自嘲気味に笑った。
「……いいだろう、が、買うとは言ってない。」
「物分かりがよくていいですね。良いんだよ、見てくれるだけで。絶対買いたくなるんだから、俺から。……洗濯、行ってくれば?恵さんと鉢合わせて何か言われないようにな。」
一ノ瀬はベッドに座り込むと枕を抱いて寝ころんだ。気持ちのいい抱きごこちだった。伸二のような父親のように年の離れた人間には甘え抱き着いていくのが無効にもよいし、こちらも悪い気はしないのだ。しかし、抱き着きすぎると自分の甘ったれた感覚に嫌気がさす。だから代わりに枕を抱くのだ。
伸二は立ったまましばらくそこにいたが、一ノ瀬が彼に背を向けるようにして寝返りを打つと、部屋から出ていった。ふいに、一ノ瀬は、もしうまくいかなければ、恵とも寝てやろうという気になった。
◆
一ノ瀬が水野ホールディングスとの契約が取れたことは営業二課を震撼させていた。飛ぶ鳥を落とす勢いで難関企業を攻略していく一ノ瀬だが、会社に姿を現すことは無かった。榊原から、それよりもウチの会社で働くのはどうかともちかけられていた。今の給料よりよく、福利厚生も良く、成果主義すぎず、何より榊原の直属付きで過酷な仕事を課さないというのである。
一瞬だけ惹かれたが、お断りであった。理由は四つある。第一に下手をすれば生涯榊原の奴隷となりかねないこと、第二に既に一度愉快犯的に恵と関係を持ったためバレた時に面倒なこと、第三に彼の娘ではなく息子までも一ノ瀬に興味を持ち始めたこと、血は争えないというのか、第四に今この時にいなくなれば斎藤から逃げたとみなされることである。最後の一つ、これだけは許せない。
一ノ瀬は自宅のベッドに寝ころびながら、枕を抱えていた。「そんなにいいなら同じのを買ってやる」ともらった高級枕である。家族全員のお気に入りのオーダーメイドメーカーのものだという。一瞬だけ伸二のことを思い出してしまうこと以外は最高の枕である。
枕に顔をうずめた。
「俺もアンタの家族の一員というわけですか。なんですかね、家族って。」
口の中を血の味で溢れさせ、顔面を真っ赤に血濡れにしてATMに行ったことがあるだろうか?アメリカの話ではない。それは、一ノ瀬の人生経験の中で最悪の部類に入る経験のひとつであった。ヨシノの夫が会社の前に現れ問答無用で殴打され、車に乗せられてそのままATMでお金を引き出すように脅されたのである。慰謝料の一部だ。一週間後に退職を控えていたというのにタイミングが悪い。
「お前のその顔がむかつくんだよ。」
「まあ、造りが違うからな。」
さらに1発腹に深いパンチがきまった。ヨシノがなぜ浮気などしたのかよくわかった。彼女を許す気は無いが同情はする。
現代日本では、既婚者が浮気しそれを原因に離婚に至った場合、民事裁判へ持ち込めば浮気をした者と間男つまり一ノ瀬両方に慰謝料支払い課せられる。一ノ瀬がヨシノが既婚者だと知らなかったことで情状酌量もあり、減額はされたがそれでも200万円の支払いがかせられた。ヨシノはすぐさま一括で金を「元」夫に渡し、今も会社に「居座って」いる。夫と別れたいがための不倫だったのか?と聞く前に会社を出ることになってしまった。
一方の一ノ瀬にはそもそも貯金もなく、度々ヨシノから金を借りていたくらいなので、人に渡す金などない。
「映画の撮影ですか?」
呑気な女が血濡れで歩いている一ノ瀬に話しかけてきて、無性に腹が立ち、殺してやろうかと思った。女などもう懲り懲りだと思い、睨み返すがそれでも人は無遠慮に自分に注目した。
水野ホールディングスに営業として来訪することを再三申し入れたが、他社から乗り換える気がないの一点張りで名刺さえ受け取ってもらえなかった。高層ビルの下から、何度か彼がいるであろう階を見上げた。窓のきらめきが目に刺して、まぶしい。人の姿など見えるわけもないのに。
もし、齋藤であれば門前払いされようが、何かしら上手い手を使いとりいるのであろうか。経営幹部の榊原伸二という男が例のリストに乗っているのだが、彼に繋がる道が見つからない。
そう思っていた矢先、彼の妻のSNSを発見した。彼は立派な妻子持ちである。
頬杖をつきながら彼女のSNSを眺めていた。加工された写真の中の彼女、友達、夫、子ども、ペットのダックスフンド、万華鏡でも覗いているかのように写真の一枚一枚が作りこまれていた。すべてどうでもいい。お前の夫は本当はゲイだ。嘘家庭が。知っていてそれを隠すように派手にコラージュされたSNSを作っているなら本気で笑えてくる。何故人はこんなにも外側に拘るのだろうか。外側を見られて何が楽しいと言うのか。くだらない。
飲んでいた缶ビールの缶を潰して後ろに放り投げると、うるさい音を立てた。振り向くとろくに掃除もしていない部屋の中にアルコールの瓶や缶が散乱していて、そろそろハウスクリーニングでも頼まなければと思った。昔から部屋の掃除は苦手なのだ。部屋だけではない、人間関係の掃除も。
「山波クッキングスタジオ」にその女はいた。榊原恵である。[熟成ローストビーフを1から作ろう]というテーマで、全12名の参加者のうち、男は一ノ瀬と西条という学生風の男だけだった。こういった場ではただ突っ立っているだけで人から声をかけられるので足早に、榊原恵の隣のキッチンスペースを確保した。奮起だけ作って適当な会話、適当な表情をすれば女は勝手にしゃべり始めた。相手に適当に話をさせておくのが楽だ。彼女に限ったことではない。話すべきことが見当たらないのだ。それに比べて人と「行為」することはなんて楽なんだろう。
「お若いのに趣味が料理?」
型通りの会話だ。
「家で友達と飲むこととか多いんです、大皿料理のレパートリー増やしておいた方が楽じゃないですか。」
「そう!私も同じ、それで……」
恵は勝手に共感を覚えて始めているようだった。それはそうだろう。一ノ瀬は恵のSNS出みた光景そのままを話しているだけだった。今の家に友達など呼んだことは1度もないし、呼べるような部屋でもない。ああ唯一斎藤が家の前までわざわざ車で来てくれたか。
恵と話していると、繕っているわけではなく、本当にSNS通りの人と話すことが楽しく知的好奇心の高い女性であることが分かってきて多少の罪悪感と夫の伸二についての苛立ちが増してくる。一ノ瀬はそれとなく自分が大手商社の営業マンであり、社会的地位があることを会話の節々に混ぜた。別れがけに連絡先を交換し、連絡を取り合っている内に結婚20周年パーティーに呼ばれることになった。ようやく伸二の顔を拝めるわけである。
◆
パーティーは彼女らの家ではなく、ホテルの大部屋を借りて開催された。会場に着くや否や華やかな雰囲気で、クリーニングから帰ってきたばかりの馬鹿高いスーツを着てきて正解であった。給士からカクテルグラスを渡されて何かも確認せずに受け取った。ここでなら、最悪恵達が駄目でも別の伝手も見つけることができるかもしれない。回遊魚のように会場をふらふらと彷徨うと時折視線を感じた。
恵が、窓際にいる一ノ瀬が一ノ瀬であると気が付くのに、数秒のタイムラグがあった。料理教室にいた青年からは二重にも三重にも色気を増した彼を見つけて、一度目を見張ったが、ごまかすようにして親しみを込めた笑みをたたえて、彼の方に近づいたのだった。一言、二言話している内に、奥から名前を呼ばれた。
「じゃあ、ごゆっくり、出入りも自由だから、つまらなくなったら帰っていいからね。」
一ノ瀬は曖昧に微笑んで「そうします。」といった。帰るわけがない。何故ならまだ肝心の伸二が出てきさえしないのだ。代わりに遅れて子どもたちがやってくる始末。彼女らには三人の子どもがいた。19になる息子と16の娘、そして10歳の末息子である。
一ノ瀬が会場について一時間、ようやく伸二がやってきた。写真に比べて実物は良い年の取り方をしていると思った。若い頃はさぞモテたのではないかと言う雰囲気が漂っている。体格は筋肉質とまではいかないが、無駄な部分が全くないすらりとした体躯である。ラフなポロシャツを着て妻や一番下の息子と話している様子はまさに良い父親である。41歳にして大企業の幹部とは出世としては速い方だろう。それに結婚も、最初の息子が生まれるのも早い。素晴らしき哉余生をめがけた完ぺきな人生設計。素晴らしい。
横目で家族のだんらんを見ながら、テーブルに飾りのように置かれた切られた色とりどりのフルーツの山を崩していく。フルーツをこんもりと盛った皿を持って適当なテーブルに座る。まともな料理を食べられただけでも来てよかったのかもしれない。口の中でブドウを一粒転がして、下唇を舐めた。部屋が蒸し暑く、ジャケットを脱いで袖をまくり、ボタンをいくらか大胆に外した。
一番初めに一ノ瀬に視線を注いできたのは、伸二の娘であった。一ノ瀬は彼女に微笑みかけた。
「どういう関係の方?母の知り合い?」
彼女は無邪気を装い一ノ瀬の元に歩み寄る。用意してきた言葉、彼女の母親との背景、職場、職位の話など聞かれるままに話した。目の前のテーブルにはお手製のアラビアータが大皿に盛られていた。娘がアラビアータをとりわけて自分と一ノ瀬の前に置いた。
ようやく本命の男が近づいてくる。娘にいいよる悪い虫を追い払うかのように、作った笑顔で。一ノ瀬も負けずに作った笑顔で返した。こわばっていた男の表情に一瞬だけほころびが見えたのを見逃さない。
「すみません、お嬢さんを独占してしまいました。見逃してください。私こういうものです。もしなにかご縁があれば。」
伸二は名刺を一瞥し、ポケットにしまい、改めて一ノ瀬を見た。見降ろす伸二の視線からは、汗ばみ、健やかに発達した一ノ瀬の身体、胸部がシャツの隙間からよく見えるはずだった。本来ならば「出て行ってもらいたい」と言いたいのだろう、しかし、何か口元に葛藤の後が見え、それから、「香苗、お父さんは一ノ瀬君と仕事の話をしたいから少し向こうに行っていなさい。」と言った。
「どういうつもりだね、君。ふさわしくない格好だ。」
「え?ああ、すみません、つい暑かったもので。」
一ノ瀬は手を首元に持っていったが、ボタンは閉めずにシャツ同士を軽く重ね合わせ、じっと挑発的な視線で伸二を見た。
「きれいな娘さんですね。奥様に似て。」
「香苗の方から寄っていくのを見てたよ。私にはろくによってこないというのに、なかなか君はモテるだろう。まさかとは思うが、家内とは何もないだろうね。」
「まさか、あり得ませんよ。」
一ノ瀬は再びシャツから手を離し、シャツをバタバタさせて仰ぎ始めた。
「僕は余り女性には興味がないんです。」
じっとりした視線を送ると、伸二はあれほど娘の前で堂々としていたとは思えないような動揺を見せた。見せまいとしているが、肩眉が上がったまま動かない。
「最近アレにも飽きたんじゃない。」
一ノ瀬は、親指を立てて振り向かないまま背後を指した。彼の愛人かと思われる若い男が窓際に立っていた。時折感じる視線は彼である。それからアラビアータをフォークでくるくるとまいて口に入れた。咀嚼しながら、無遠慮に伸二の目を見据えていた。こういう時はなるべき何も考えない方がミステリアスに見えていいのだ。一ノ瀬はパスタの味に集中した。こんなに美味い食べ物は久しぶりだなと思った。三口食べたところで、唇の端から飛び出たパスタの端から赤い汁が飛んでシャツの胸元を汚した。
「あっ……」
シャツの染みを見た。それから黒目だけを伸二の方にじっとりと向けて微笑んだ。
◆
復讐、復讐。伸二の上で上下に動いていると何故か脳裏に復讐の二文字が貫かれるたびに浮かんだ。目元の苦悶の表情とは反対に、気分がよく、口の端があがっていた。一ノ瀬の下で伸二は若々しくいつまでの固く隆起し、跳ね上げるように一ノ瀬を突き上げていたのだった。一ノ瀬は汗ばんだ手を彼の胸のあたりに這わせて彼の端正な顔を覗き込み、感じ入っては、背骨をそるようにして天井を見ていた。お洒落な傘の電灯が揺れていた。否、揺れているのは自分である。とろけた頭が視界を歪ませるが、自分以上に自分の下で雄々しく唸っている男の方がもっとすさまじいだろう。中を締めあげるようにしながら腰を落とし、こすり付けた。何度も何度も踊るようにつづけた。
「ノ……ヨシノ、俺は……」
急に頭の中に彼女の顔がチラつき、中指と薬指先を強く噛で黙った。そのまま伸二を見下げる。一ノ瀬の黒目がじっと点から伸二を見降ろした。伸二は強い雄の眼差しをして一ノ瀬を一身に見あげていた。探るように結合部から太もも、へその下、胸のあたりに節ばった年齢を感じさせる手が這った。武骨な手と反対に優しくシルクで撫で上げられているような手つきである。強い雄馬の様な眼差しだというのになんとも哀れな一匹の雄だった。その哀れな様子をくみ取ると一層一ノ瀬の身体は底なし沼に飲み込まれ、緩やかに窒息死していくような苦しい快楽を覚えるのであった。
一ノ瀬はそのまま彼の顔を抱えるようにして身体を前に倒し、抱き合った。
「恵さんの前でっ、そんな顔、できないだろ。」
怒れと思ったが伸二は怒らなかった。
「愛情と欲情は別の話だからな、君に対して愛情はない。」
「……。ああ。俺もそうですよ。」
一ノ瀬が急に冷めたようなはっきりとした口調で言ったことに、伸二は一瞬だけ動揺を見せたようだった。一ノ瀬は動きを止めて、手を伸ばす伸二の腕を軽く振り払い、ベッドの上で立ち上がった。下で哀れな男性器だけが元気に天井に向かって立っていて笑えた。
「帰るかな。」
「どうして、怒ったのか?まさか、こんなところでやめるんじゃないだろうな。」
大人げなく怒気が混じり始めた伸二を無視しそのままワイシャツを手に取る。しかしワイシャツはすぐにむしり取られた。
「ここにはクリーニングサービスがある。だしておいてやるから、乾くまでここにいるといい。」
伸二は大部屋以外に休憩用の部屋をひとつとっていた。休憩用といいつつ、恵、いや、愛人と利用するためにとっていたのではという邪念が働いた。
「ここにいて欲しいのか?」
「……」
「伸二さんの口から言ってもらわないとな。いてほしいと。じゃなきゃ俺は帰るよ。」
伸二は呆れたような顔つきになりながらも小さな声で「……いてほしい」と言った。穏やかな落ち着いた声だった。一ノ瀬は「そうでないといけないな。伸二さんはモノを見る目があるのだから」と笑いながらつづけた。
「モノを見る目ついでに、ウチの商品も見てよ。」
伸二はやはり怒るでもなく「なるほど。」と呟き、自嘲気味に笑った。
「……いいだろう、が、買うとは言ってない。」
「物分かりがよくていいですね。良いんだよ、見てくれるだけで。絶対買いたくなるんだから、俺から。……洗濯、行ってくれば?恵さんと鉢合わせて何か言われないようにな。」
一ノ瀬はベッドに座り込むと枕を抱いて寝ころんだ。気持ちのいい抱きごこちだった。伸二のような父親のように年の離れた人間には甘え抱き着いていくのが無効にもよいし、こちらも悪い気はしないのだ。しかし、抱き着きすぎると自分の甘ったれた感覚に嫌気がさす。だから代わりに枕を抱くのだ。
伸二は立ったまましばらくそこにいたが、一ノ瀬が彼に背を向けるようにして寝返りを打つと、部屋から出ていった。ふいに、一ノ瀬は、もしうまくいかなければ、恵とも寝てやろうという気になった。
◆
一ノ瀬が水野ホールディングスとの契約が取れたことは営業二課を震撼させていた。飛ぶ鳥を落とす勢いで難関企業を攻略していく一ノ瀬だが、会社に姿を現すことは無かった。榊原から、それよりもウチの会社で働くのはどうかともちかけられていた。今の給料よりよく、福利厚生も良く、成果主義すぎず、何より榊原の直属付きで過酷な仕事を課さないというのである。
一瞬だけ惹かれたが、お断りであった。理由は四つある。第一に下手をすれば生涯榊原の奴隷となりかねないこと、第二に既に一度愉快犯的に恵と関係を持ったためバレた時に面倒なこと、第三に彼の娘ではなく息子までも一ノ瀬に興味を持ち始めたこと、血は争えないというのか、第四に今この時にいなくなれば斎藤から逃げたとみなされることである。最後の一つ、これだけは許せない。
一ノ瀬は自宅のベッドに寝ころびながら、枕を抱えていた。「そんなにいいなら同じのを買ってやる」ともらった高級枕である。家族全員のお気に入りのオーダーメイドメーカーのものだという。一瞬だけ伸二のことを思い出してしまうこと以外は最高の枕である。
枕に顔をうずめた。
「俺もアンタの家族の一員というわけですか。なんですかね、家族って。」
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