堕ちる犬

四ノ瀬 了

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ちゃんと自分の仕事ができてえらいじゃないか。褒めてやるよ。

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 常に視線を感じている。見られている、見張られている。

 霧野のことで直接川名と言い合ってから、いやそれ以前からずっと監視をつけられている。気分が落ち着くことなどない。家に入り、ドアを閉めても同じだ。監視カメラや盗聴器が無いか調べた結果3台見つかって破壊した。実際はまだ発見していないものもあるかもしれない。これを逆手にとって、川名の組の末端構成員を検挙するという手も無くは無いが、所詮はトカゲのしっぽ切、誤魔化され、流されるだけなのは目に見えている。

 もっと決定的な何かが必要だった。霧野は自力でどこかへ逃げ失せ、美里とは連絡が付かない。神崎は鞄をソファに投げ、シャツのボタンを外し始めた時、視線を感じ背後を振り見た。誰もいない。気のせい、いや、しかし今の状況で考えすぎて悪いことは無い。

 ベッドルームに続く廊下の闇の向こう側にドアが誘うように少しだけ開かれている。閉め忘れただけ?いや、違う、絶対にあり得ない。第三者に侵入されても気が付くようドアや窓は全て閉める習慣にしているからだ。

 神崎はキッチンからナイフを手にとって後ろポケットに入れ、廊下を進んでいった。歩きながら、恐怖よりも苛立ちが大きくなり、口元に強張った笑みが浮かんだ。最初気配を感じた時に上がった心拍数はもうすっかり元の通りだ。

 敢えて侵入しているぞ見ているぞと言うメッセージを示すためにわずかに開けておいた扉、その”いやらしさ”。川名ならやりそうな手口だ。ただメッセージを残し、圧をかけているだけで、誰もいない可能性もあるが、警戒するに越したことは無い。ドアノブに手をかけて大きく開く。部屋の対角線上、窓のカーテンの側に人影があり、隠れるつもりも無く、影が一つ、立って待ち構えている。神崎が入ってきても、全く動かず立って無言である。目線を何者かに留めたまま、明かりのスイッチを手さぐりで押した。

「誰だ。」
 光の中に立っていた者を見て、神崎は目を疑った。
「おかえりなさい。遅かったじゃないですか。」
「……」
「もしかして今日も俺のこと探してくれてたんですか。」
   部屋の隅に霧野が立っていた。カジュアルな衣服に身を包んでいたこともあり、一瞬空き巣か別人かと思ったが間違いなくその顔は霧野である。変装のつもりだろうか。普段着ないような革ジャンを羽織りジーパンを履いていた。
「どうやって入った?」
 神崎が動揺するのが面白いのか、霧野は無表情だった顔を若干崩して、笑っているらしかった。同時に神崎の中で納まりかけていた苛立ちがまた噴出し、つい自然に手がナイフの方に向くのを誤魔化すように腰の上に手を滑らせた。霧野の視線が冷たく神崎の動きを追っている。

「ピッキングして、入りました。」

 霧野は悪びれた様子も無くそう言って、ポケットから小さな機材を取り出した。

「玄関の鍵は流石に変えたみたいですけど、裏口はガバガバですね、替えた方が良いすよ、俺でも開けられるんだから。でも良い事前練習になりましたよ。」とぺらぺらと何故か意気揚々と喋り始めた。「あと、よからぬ虫がいたので、のしてあります。裏のゴミ捨て場に行けば見れます。しばらく起きないでしょうね。名前?なんだっけ、忘れたな。」

 見れば、霧野の拳は汚れたままだった。神崎は、おや、と思ったが今指摘すべきは、そこではないと思った。

「事前練習……なんのだ?」
「ええ、そうです。今から事務所のカギを開けて侵入しないといけない。」
「お前、さっきから、何言ってんだ?まず病院に」

 神崎がそう口走った瞬間、霧野は顔色をサッと変え真顔になって「何で?」とやや震えを押し殺したような声を出しかけ、明らかに動揺を隠しきれてない。さっきまで鋭かった目つきが、急に暗く淀んだ。しかしすぐ、「ああ、大丈夫、全然大したことされてないですからね。」と白々しく開き直るのだった。そして、誤魔化すように、にやにやと声に出さずに、笑い始めるのだった。笑うのをよせ、本当の顔を見せろ、とは、流石に口に出して言えない。

 その笑みを見ているうちに、最初はじわじわとしかし最後には噴き出すように、今まで忘れようと努力していた、美里や川名から見せつけられた霧野の痴態が神崎の脳裏に鮮明に花火のように咲き踊り始めた。頭の奥、臓腑の奥が不自然に震え始めた。

「……!……!」

 神崎は咄嗟に顔を伏せた。今彼に悟られては、ことというか、もう二度とこの男は自分の前に姿を現すことが無くなるに違いなかった。それでも生で、こうして対峙すると、もう以前とは随分違ったふうに見えてしまう。顔が上げられない。霧野が強がれば強がるほどに、狂いそうな感情を覚える。

「神崎さんが思っているより全然平気っすね、だから、事務所にちょっと用事を思い出して寄ろうという気にもなるんだよ。だってそうだろ、そんな死ぬほど酷い目にあわされたってなら忘れ物なんかとりいってる場合じゃない、そうでしょ?」


 神崎は霧野の言葉を半分流すようにして聞いていた。ホモセクシャルを見下した発言を再三していた癖して散々男から無理やりレイプそれ以上の暴行凌辱をされて一体何が平気なのか。いや、もしや、本当に、”いい”、ってのか?川名の言う通り、なのか?いや、そんなわけない。無いよな。

「………なぁ、一体何しにあんな奴のところに戻るって言うんだ。今すぐにでも保護手続きを」

「あ?保護ォ~?」

 保護といった途端霧野はヤクザじみた下品なドスの効いた声を出した。人によってはそれだけで萎縮するだろうが今の神崎には何故だか笑えるのだった。顔には出さないが。

「はァ~?何言ってんだ、今更、保護だなんてできんの?遅いんだよ全部よ何もかも。そんなことよりもな、今は救わないといけない人が居る。これはもう俺が自分で決めたことだから。でもその前の予防線、万が一失敗して帰ってこれなくなった時のために俺は貴方に会いに来てみたというわけです。もし俺が戻ってこれたら、帰りにここに立ち寄るか、何らかの手段で貴方に、連絡を取ります。連絡が無ければ、俺は事務所にはいったまま出て来てないということ。そう判断してもらっていいです。予定ではそう時間はかからないはずだから。」

「……で?連絡なかったら俺に助けに来いって?お前、ふざけてんのか?それで俺がうんと言って行くとでも思ってるのか。都合の良いことばっかり言ってるなよ。力づくでも今のお前を行かせたくないな。」

「ふふふ、ま、そうでしょうね、神崎さんならそう言うと思いました。でも、神崎さんってなんだかんだ俺に甘いんだよ、なんだかんだ言って許してくれるんだろ、だから、来たんだ。もし俺が帰ってこなかったら、澤野名義で偽の逮捕状を出して神崎さん一人で事務所へ来てくれませんかね。できれば独りでね。そうすれば事務所に入る口実ができるし、川名も断らないでしょう。重点的に探すべきは川名の部屋か地下室だ。そこにいなかったらもう手遅れ、おそらく川名の家にいることになる。もしそうなったらなったで俺が頑張るだけだから、別にもう、そこまで、しなくていいですよ。俺なんかのために。迷惑かけてるのは知ってるから。」

「さっきから勝手なこと言って」
 
 神崎はようやく頭を上げ、霧野と対峙した。彼は薄ら笑いを浮かべていた。その時だった、パチ、と何か頭の奥の方で火花のような赤が散って目の前が、紅くなったのは。神崎の中で強く鼓動が蠢いたのは。かつて自分の中には常に満ち溢れていたサディスティックな衝動が今急に水面下までやってきたのだった。自分でもどうしてなのかわからず戸惑いを隠せずにいる神崎だが、霧野はそれを霧野自身の発言に対する戸惑いと勝手に解釈してくれるのだった。

「力づくでも行かせたくないというさっきの発言はどうやら本当らしいですね。でもね、神崎さん、じゃあ言い返させてもらうけどよ、なんで最初の段階で止めねぇんだよ?え?人を左遷させといて、今更なんだっていうんだ。あ?言い返せるもんなら言い返してみろ。」

「……、……」

「ほら、こういえば貴方は俺に何も言えないんだよな。別に止めようっていうなら、戦ったっていいですけど、どうせ俺が勝つだけですよ。そんな小賢しいナイフ一本で今の俺を止められると思うなよ。隠し持ってるだろ。」

 神崎の中の一つの杯が赤くなみなみと満ちた時、神崎は急に普段の冷静さを取り戻した。盃の中にあるもの、それはそれとして受け止めよう。そう思うと、普段通りの容態を作ることが出来る。
 器の中身をこぼさないよう、彼の”一教育者”として彼を詰めるための言葉を選びながら口を開いた。

「救わないといけない人というのは、美里のことか。お前あいつと、友達にでも、なったつもりか。」

「………………。」

 今度は霧野の自信に満ち溢れた表情が微かに曇った。その時、神崎の器の真っ赤な血のような液体の表面が揺らぎ、こぼれそうになるの堪え、また、丁寧に言葉を選択することで、冷静になる。

「なんだお前、一人前に人付き合いができるようになったんじゃないか。素晴らしいな。それだけでもお前があそこに行っていた価値はあるよ。以前のお前だったら、人助けなど建前でやってもリスクをとってまで本気ではやらなかったもんな、ある意味、ぬるくなったもんだ。なぁ、自分でもそう思うだろ。なぁ、答えてみろよ。おい。」

「………………。」

 霧野の表情が珍しく真実を物語り薄笑いが消えている。あと一押しか。

「それこそ、別にお前が一人で行く必要無いだろ。俺や他の連中と」
「駄目なんだそれじゃ。」

 彼は急に勢いづいて噛み付くように言った。神崎はしばらくの間さめざめとした瞳で自分の教え子を見ていた。

「へぇ、それは、何故?お前なりの論理を、聞かせてもらおうか。」

「俺がただ一人。自分でケジメをつけないと意味が無いからだ。最低限の対等に、ならないから。本当はここに立ち寄るかも相当迷いました。これ以上人を巻き込んでもとね。とにかく俺は今から一人で行くんだ。ついて来るっていうなら誰であろうとどんな理由であろうが、ぶちのめす。これは俺の問題だから。流儀に反する。もし、もし俺からの連絡が無くてもアンタが動きたくなければ動かなくても全然いい、そう、俺は心配しているだろう貴方のためにたちよっただけだ。偽の逮捕状なんて簡単にいいましたが普通に犯罪ですからね一人で背負うリスクとしてはデカすぎます、やらなくていい。というか別にもう見限ってもらっても結構、全然良いんだよ。じゃあ何で来たんだって……察しが良い貴方なら、わかるでしょ、どうせ。」

 霧野は神崎の方へ、つまり扉の方へと歩み寄ってくる。すれ違いざまに声をかける。

「お前の意見はわかった。でもその前に、シャワーでも浴びてから行ったらどうだ。急いでないんだろ。ひどく疲れて見えるぞ。それに」

 神崎は素早く霧野の手首をとって汚れた手を見て「酷く汚れてる。らしくない。」と言った。

「……。じゃあ、お言葉に甘えて、シャワー借りてから行きます。」

 霧野は思いのほか神崎がすぐさま引き下がったことに喜んだのか、微かに浮足立った足音を立てて奥に消えていった。犬みたいだ。

 霧野がシャワーを浴びている間、神崎は落ち着かず部屋の中をうろついたあげく、脱衣所の扉を軽く開け、向こうから死角になる場所に立ち、それを、待っていた。曇りガラスの向こう側から出てきたそれを、見た。さっきから線香花火のようにチリチリと燻っていた火の珠が大きく膨らんだ、堕ち、熱が、ふつふつ、と、身体を満たしていく。

 雄が、滾っていた。神崎に同性に性的な気を向けたことは今までほとんど存在しなかったといって正しい。少なくとも本人の意識の上に昇ったことは一度もないのである。霧野と同じく体育会系特有のパワハラセクハラじみたホモセクシャリティな冗談も激しく嫌悪していた。あまりにもあほらしいから。そのためには、なめられないことが必須条件と言える。神崎は、自分から腑抜けた同僚とは縁を切っていった。媚びるのも性に合わない。それで出世したとしたら、その相手に一生頭を上げられないことになるのだ、そんなことは、とても耐えられない。ただ舐められないための努力、実力を磨く努力だけはできてしまうがゆえ、孤立していた。しかし孤立していることが苦かといえば、これほど居心地の良いものはないと思っていた。自由だからだ。そして、自分から付き合いたい仲間を選択することが出来た。神崎には、人を見る目があった。彼の周りには自然有能な人間が集まる、しかしその都度、今まで彼ら彼女らの能力を見くびっていたどこかしらの上の部署に引き抜かれていくのである。客観的に見れば同期と比べて大した出世頭でもないが、別にそこで争ってきたわけでもないし、争う意味も感じられない。

 神崎は、霧野のように嫌悪の対象になる他者を、はじめから見下し激しく否定することも無く、無関係のこととして無関心でいた。これも最初から身についていたスキルと言うわけでもない。神崎はたまに霧野の中に自分の若い時の気性に近いものを垣間見る。だから誰も引き取りたがらなかった問題児であろうと、寧ろ引き取って高めてやりたかった。実力はありすぎるほどある。それも自分以上にずっとあるだろうと、わかった。もっと上へ、伸びしろだってある。ただ、性格、気質と素行に問題がありすぎた。指示、使い方の問題なのだと思った。自分なら霧野に嫌悪感情を抱かれることも無いだろう、それは正しかった、霧野の口から、ココで唯一マトモな人間と言わせたほどである。ただ正しく導いてやれていたかと言えばまだ、道半ばと言うところだった。せめて後一年いや半年でも引き留めることが出来ればと思うことも無かったが、全ては運命であると諦めるしかなかった。

 霧野は、神崎に見られていることも気が付かないようで無防備な姿で身体をぬぐい鏡で全身を神経質なほど細かく眺めまくっていたので、神崎の視線や、その下で行われている”運動”には、より一層気が付くことが無かった。ナイフを隠していたのには気が付いたのに、裸になった霧野は普段と比べても全てがあまりにも無防備に過ぎた。霧野が気が付いたのは、ただトイレの流される音を聞いたこと、それだけだった。



 神崎の危惧していた通り、霧野は帰ってこなかった。連絡も無かった。

 「じゃあ」と言って出ていく背中を見送った時、既に、無理だろうな、とわかってしまった。しかし、止めると言ったら「誰であろうとぶちのめす」と彼が宣言している以上、いい、もう、好きにさせよう。今この瞬間に霧野とやるとなったら怪我をさせてまで止めようとしてしまうだろう。つまり、本気で刺すことも厭わないということ、まかり間違って殺す可能性もある、こちらもその位の気持ちでいない止まらないのだから。

 それに、今ここで、つまらない小競り合いをすることで、それが追々、彼の成長を止めてしまうのが嫌だった。霧野が他人のためにどうこうしようとはっきり口に出したのは初めてのことだった。別に自分が懲戒解雇にされようと神崎はその点に最早こだわりは無かった。いつ辞めたっていい。ただ、自分が教育した人間のことは最後まで行く末を見守る義務がある。そう思っていた。神崎はこうして一教育者、教官としての自分、教育対象である霧野のことを、立場の上で冷静に考える内、あの、夜の、不自然な熱い滾りのことは、忘れていった。

「ま、座ったらどうです。」

 神崎は一人、川名組の事務所を訪れていた。偽の逮捕状を早急に作成して。早々に川名の部屋に通されることはわかっていた。川名は神崎のことをいつまでも気に入っている。何をしても喜ぶのだ。本当に気持ちが悪い。

 入口に見張り二人、川名の部屋のローテーブルを挟んで向かい合ったソファの方を川名は示した。

「奥の方のソファに座ってください。もてなしたい客人ですから、貴方は。」

 ソファに座る。ソファは豪奢な見た目に対して思ったより身体が沈まず、身体をきっちり受け止める。座りごこちの悪く無いソファだった。身を乗り出してテーブルの上に偽の逮捕状を差し出す。川名はテーブルを挟んだ対面のソファに足を組んで座り、数枚に渡る逮捕状を手にとって眺め始めた。

「器物破損、業務上過失傷害、暴行、窃盗、他、余罪多数。なるほど、そうですか。」

 川名は逮捕状から目を上げ、目を細めた。眼から下は逮捕状に隠れて、見えない。

「でもねぇ、神崎さん、この前会った時に僕、言ったでしょ。彼は俺の元から逃げ出したまま、まだ捕まってないんだよ。だから、ここには、いない。協力してあげたいのはやまやまなんだけど、ごめんね。」
「少し事務所の中を探させてもらってもいいか。」
「もちろん。ただし、ガサ入れというより、これは人探しだろ。そこを考えてやってくださいよ。子棚の隅から隅までがちゃがちゃやられちゃ、こっちの仕事に差し支える。常識の範囲内でならどこをどう探してもらっても別に構いませんよ。そこの若いのを案内につけますから。」
「下から見て、戻ってくる。このビルには地下室があるよな、そこから見て良いか。」

 川名は書類をテーブルの上において、顔を上げた。薄ら笑みを浮かべていた。何を考えているか、わからない。
 神崎は「地下室」と言う言葉を出したことで、川名が少しは表情を崩すことを期待したがしかし彼は「もちろん。どうぞ。」と一層ほほ笑むだけであった。

 見張りに連れられて、地下室から一室ずつ見て回る。地下室には、人が入れる程度の道具箱やロッカーの類がある。念のため開いてみるが、中は空かもしくはおぞましい道具が収まっているだけだ。人はいない。この部屋では何らかの暴行や拷問が恒常的に行わている、その痕跡が隠されもせず残っているが、今はその調査をしている時ではない。徒労である。霧野だけでなく、美里の姿さえ、無いではないか。結局一室一室見て回り、川名の部屋に戻ってきた時、川名は何故か、さっきまで神崎が座っていた場所に座ってコーヒー片手にまだ逮捕状を興味深げに眺めていたのだったが、入ってきた神崎に気が付くと席を立って、自分の座っていた場所を譲ってそのまま部屋の中を猫のようにうろつき始めた。

「どお?見つかったぁ?見つかったなら俺にも教えて欲しいくらいだぜ。疲れただろ、座れよ。」
「お前の家に」
 川名は逮捕状から目を上げ、神崎を眺めた。さっきまでと一変し、眼が据わっていた。
「座れと言ったのが聞えなかったか、俺が座れと言ったらお前は座るんだ。それとももう、帰ることにするか?」
「……」

 ああ、帰らしてもらうね。と状況が状況でなければ勇み足でさっさと帰るところだが、今は我慢だ。それに、今は、自分では無く、霧野のために動いているのだ。自分の事だったらこんな我慢する必要なく、目の前の気持ち悪い男をぶちのめして帰ればいい。それをしないのは、霧野の為だから、全ては。神崎は当てつけるように勢いよくソファに跳ねるようにドスンと座った。ぎ、ぎぃ、とアンティーク調の高級ソファが軋むような音をたてて湿った喘ぎ声を出した。神崎は「ほら、座ってやったよ。」と川名に声をかけた。川名は、神崎の方を見て何やらじっとりした瞳をして、何か言おうかどうか珍しく迷うように唇を動かしていた。そこに向かって神崎は大きな声を出した。

「おい!!いい加減にしろよ、しらばっくれやがってよ!!てめぇの家にいるんじゃねぇのか!!??」

 椅子や部屋までビリビリと震える程の声であった。控えていた舎弟さえ珍しく圧倒される中、川名一人だけが嬉しそうに浮足立って神崎の向かい側のソファを通り越し、神崎のすぐ横に身体を滑り込ませるように座り、ソファが奇妙な音を立てた。神崎が「きもちわりぃんだよてめぇは!!」と立ち上がるかけるのを袖を掴んで止め、無理やり横に座らせ、上に、圧し掛かってくるのだった。その身体のどこにそんな力があるのかと言う程強く。二人はソファの上で軽くもみ合いになり、先にマウントをとられた神崎が下になったまま、それは続いた。

「俺の家に?!俺の家に、だって!?俺が嘘をついてまでかくまってるていうの?!それは一体!……何のためだ?!何のために仕事でミスをした一構成員をわざわざ家に連れて帰るような真似をするって言うの?教えてくれよ、わからないから、馬鹿だからさ、俺……。」

「お前が……、」

 ”かわいがるため”、とは、言えない。川名はしばらく神崎を覗き込むようにしていたが、身を起こし横に座りなおした。今のもみあいで握りしめてぐしゃぐしゃになった逮捕状をテーブルの上にごみでも捨てるように投げ置いた。そしてしばらく何か思案するように黙っていたが、彼が指を軽く左右に動かすと、部屋の中に居た、二人の奇行に顔を青くしていた他の人間が出ていって、二人きりになった。最悪な気分だ。

「おい、神崎、俺の家に足を踏み入れたい、と、遠回しに俺を誘っているのだろ。そういうことなら、喜んでお招きしてもいいんだ。プライベートでこそこそ隠れて会おうじゃないか。互いの立場のために。」
「……。」
 神崎は視線を下に向けた。気持ちが悪かった。
「”霧野”がもし見つかったら、俺もアンタも嬉しい、俺の家で一緒に家で暮らしたって良いね。」
「お前さっきから何言ってんだ?頭おかしいのか?俺は嫌だぜ、そんな」
「”霧野”が居ても?」
「……は?」
「一生、死ぬまで、お前は、俺に監視されながら、独りであんなウサギ小屋のようなボロ家に住むのだ。それより、ずぅーっといいと思わないか。それでも、アンタは俺と一緒には住みたくない、それは知ってる、でも、霧野がいるのだったら、話は違うんじゃないか。お前が欲しいものは何でも買ってやるし与えてやる、それと、同じことだ。」
「お前が何を言ってるのか、何考えてるのか、全く理解できない。」

 川名は笑いながら「あ、そう。」と言って立ち上がった。

「似てるな。結局お前も理解できないのではなく、理解したくないだけなのだ。」
 
 そして神崎を見降ろし、続けた。

「前にアンタに予告状を送ったよな。俺が先に霧野のことは捕まえておくから、安心して遊びに来ていいぜ。」

 神崎が言い返すより前に、まるではかったように部屋の扉が開いて、若い衆が五人もまとまって入ってきて神崎の周囲を取り囲むのだった。



 川名は、神崎達が出ていった部屋の中心にしばらく立ちすくんでいたが、踵を返し、さっきまで自分たちが座っていたソファの前に立った。

「どうだ?気分は。」

 川名はソファに向かって話しかけていた。もちろんソファから返答などあるはずなく、第三者が見れば川名の気が狂ったようにしか見えないのである、が、よくよく耳をすませば、何か聞こえるものがあるはずだ。それは呻き声のようあり喘ぎ声のようであり、ソファの中から微かに聞こえるようなのである。

 川名はソファの座面を足で掬うようにして開き、手で掴み傍らに投げた。むわぁと熱気が漂う。座面を全てどかすと、そこに神崎が今の今まで探していたものが、つまり、霧野が居た。ソファの中に、人の座る面に対し、背を上にして、うつ伏せにされ、閉じ込められていたのだった。

 このソファ家具は、中のクッションがすっかり抜かれており、何も入っていない状態で上に人が座ると、どこまでも沈みこんでしまいソファとしての役目を成さない。しっかりと芯をいれないと使い物にならない、人が上に座れない構造になっている。ではその芯となる素材とは何か?それには一人分の人間の肉体が必要である。神崎が効いた軋みは、確かにソファの素材の音。ソファの素材にされていた霧野の、肉体の音である。普段このソファは主である川名が座る。

 つまり、また、いつか霧野の入ったスーツケースの上に座っていた時と同じように神崎は、知らぬ間に懲罰中の霧野の上に座る役目をやらされ、意識せず霧野を虐めていたのだった。しかも最後の方は、神崎が上で大きく身体を動かし、更に川名と二人分の体重がかかった結果、霧野の身体に大きな負荷をかけ、悶絶せしめていたのだった。

 今、ようやく外側を剥かれて、霧野厚いほんのり赤い艶々と濡れた背中が見えてくる、鞭打ちの蚯蚓腫れが赤赤と目立つ濡れた背が、尻が、見えた。うつ伏せにされ、両脚を折り込まれて固定され、口を開かされ、喉まで筒状に押し込む形式の口枷を押し込まれた口から涎が滴って、手足は縛られソファ内にとりつけられたフックに括られ固定されて、浮き、吊られて、少しも身動きがとれない。とれては駄目なのだ。素材、川名の家具のパーツに過ぎないのだから。つまりソファの中に、ブランコが一つあるようなものなのだ。板材が霧野で出来ていて、誰かが上に座った時その全体重が吊り下げられた霧野の肉体にかかるようになっている。

 首輪の背面に回された輪っかから、銀の鉄紐が伸びていた。それは、霧野の肉厚な背の背骨の上を真っすぐ通ってその先に輝く1キロの重量アナルフックの淵に結び付けられていた。アナルフックは太く重く深々と分厚い肉溝の間に深々突き刺さって絶対に抜けない、霧野の肉蕾も刺激を受けることで負けず劣らず筋スジでぎゅんぎゅんと引き締まるので、ネジ穴にネジが奥までぴったりとはまりこんだように、絶対抜けないのである。抜こうとあがく程、奥を強く穿つ。

 アナルフックこと、金属調教用曲棒は、余裕なくぴっちりと霧野の柔らかな肉筒の中、筋をはちきれんばかりに拡張し嵌りこんで、霧野の身体が少しでも動く度にぐぼぐぼと柔らかな肉壺の奥をえぐりえぐりし、突き弄び犯しまくる仕組みであった。ぐちっぬちっという粘着質な音は、霧野の耳にだけ聞こえる。

 霧野の身体は自分で藻掻く時より、上に座られた時の方が、その予期せぬ重みで強制的に動く。その上乳首と貞操帯の先からはみ出たピアスが重力に従って下へ下へと敏感な部分を引っ張り身体が揺れる度、刺激が詰まれる。

 上から下から太い無機物で犯され、突起の先端もちくちくと刺激され、目の前は闇。自分の臭気で満ち満ちた狭い空間で皮膚が家具と擦れるだけで、思わずうなってしまう、そうすると喉が絞られ、今度は喉で感じる、どうあがいても絶頂の寸前、だが鋼鉄の貞操帯のせいで、勝手な射精はできず、ただとじこめられて、自分の「役割」をこなしている。座としての役割を。

 家具の一部品として、決して家具の他の部品を穢さぬように、鉄の貞操帯が股間の一物を戒めてはいるのだが、熱さと欲情で全身は汗で濡れ、前述のように涎が滲み、貞操帯のおかげで精液が漏れ出るのは防げても我慢汁で濡れ、サウナのようになった家具の中の空洞は、霧野の汗で湿り、我慢汁の臭いで充満し、一面濡れていた。

 開けた瞬間川名が若干顔をしかめたのも当たり前の事であったし、ずっとその中に漬けられている霧野本人が一番よくわかって、喘ぐような必死の呼吸のそのたびに、自分の精の匂いを嗅ぐ度気が狂わんばかりである。
 でも、息を止めようと思っても、無理がある。

 ソファには、ほとんどの場合川名が座る。もちろんソファになんかに話しかけるわけがないから、黙って何も言わず座る。さらには他に人を入れて、そのまま会議や話など行う。今の霧野の状況、つまり霧野の居場所を知っているのは、川名と、二条と、間宮だけである。他は誰も川名が霧野の調教を行っていることさえしりえないし、霧野が川名に奉仕活動をしてることを知り得ない。

 ソファは、ニンゲンに座られると、重みで自然と器官が圧迫させられ、呼吸管が狭まる。だから、どれだけ臭かろうと息を止めているどころではなく、そんな無駄なことをしては、ただ単に、死ぬのである。いっぱい呼吸をする、そうすると、痛みと屈辱、苦しさで、また精が高まる、重くなる。唯一の救いは、ソファがかなりの防音仕様となっていることだ。塞がれた喉の奥でいくら叫ぼうと、殆ど音が漏れない。あとは、舌を噛もうと思っても噛めない。

 川名が座ったまま、少し姿勢を変えただけで、霧野にはわかったし、全身で感じるのである。軽く靴の踵でソファの側面を、別になんということもなく癖のように、コツ、と叩く行為だけで、身体が揺れ、中に突き刺さっている凶器が、ぐぐぐぐぐ……と、軋みながら、更に押し込まれ、人知れず濡れた身体が跳ねた。くるしいいいい゛、と思っても、伝えたくとも、声や視線どころか、そもそも、その様態すら決して誰にも見られることは、無いのである。

 そして、川名や二条、間宮がそのまま忘れてしまえば、永久にそのままで、死ぬのである。何故なら部品でしかないから。人間の座るソファの一部でしかないから。刺激が長く続き、犯され、眼球が上にいって、死ぬ゛死ぬ、イク゛イク、ゥ……と思っていても、死ねず、もちろん、イケず、ただ、高まり続け絶望する、でも、イケなくて良かったとも思う、こんなところでこんな風な状況で射精など……。精子と一緒に理性が完全にぶっ飛んでいくに違いないから。

 しかし、密閉されていないとはいえ、中で興奮して呼吸の回数が多くなると、必然的に内部の酸素濃度が低くなるのだった。だから本当に死ぬこともあり得る。霧野も段々とそのことを察し、なるべく、誰も座っていない時は息を浅くし、微弱な快楽の中で、次に誰かに座られた時のために心がまえ、備えることにしていた。これは一家具としては最高の正しい挙動である。家具にされる中で霧野が自主的に学んでいったこと。従として最低限のことを学べない者はただ、この中で死ぬ。川名もそれをわかっていて最初からそう言う仕組みで設えた家具である。

 それでも、酸素能動が低いと段々頭が酩酊したようになり、明晰な思考力というのは堕ちてくる。しかしそれは家具に求められていないから、別にいいのだ。自分は家具、自分は家具、川名様の家具、意志なんかない、今だけは、何もない、ただ感じている、そうして、家具として自分が、居ることに対し、何か恍惚な感じに濡れてきて、頭の奥が、いやに甘ったるく重みを増してった。それから川名の尻の形や座った時の癖までも、はっきり知覚、理解できるようなってきた。他が座れば、背中でわかる。また、川名に座られた。真っ暗な視界の中に、チカつきが始まり、ぐぐぐぅ、と喉が、震え、身体が内から、濡れ、硬く滾る。川名が座った場合とそうでない場合で、身体の反応も自然、変わってくる。誰にも聞こえない唸り。ただの、ソファの軋みにしか、聞こえない。人間が上からどいてしまうと、身体にかかる負荷、肉孔への強烈な責めへも弱まる、あっ。と、一瞬、ほんの一瞬と思いたいが、寂しさ、そしてまた、誰かに、座ってほしい、という惨めな希望のようなキモイ炎が生まれかけては、そんなわけない、と、無理やりかきけすのだが、それを揶揄するように身体の中に埋め込まれた鉄棒や貞操帯の中で膨らんでたまらない雄が暴れて、気持ち悪い気持ちよさを延々と感じさせ、霧野に人間以下の存在としての在り方を教え込ませるのである。

 光、明るさ、そして、久しぶりに空気を感じる背中の向こう側に川名が立っているのが見ずともわかる。どうだ?気分は。じゃねぇ、最悪だよ、悪趣味め、と伏せられた、あげられない頭の喉の奥の方で唸り声をあげてみるが、まだ、頭が、ぼんやりとして、何にも、ならない。それに、何もできない。背中が急に涼しくなったことで身が引き締まったのか、何故か、余計にケツでじんじんと、感じてしまう。見られている。ケツの中が発火したように熱くなり、白目をむきそうな程貞操帯の中が、痛い、外せ、外せよ、もう、ゆる…‥、とにかく、最悪だった。さっきまで神崎と更に川名に上に散々座られたせいで、霧野の身体はかなりほくほくにできあがって、射精もじさないほどになって、むわむわとして、もう、たまらなかった。

 上に乗る人間が動く程、上が重い程、アナルを深掘りされる上、背骨に体重がかかることで全身が熱く痛み犯される。そして、向こう側の声は聞こえても、こちら側の声は聞こえない。

 川名だけでなく神崎が座ったことが、霧野を妙な感覚に高まらせて狂わせていた。

 霧野は契約書に最悪な押印したその日の夜から今までこのソファの中に監禁され続けていたのだった。時間の感覚も狂っていた。ただ、長く待っている時間もある、長すぎるくらい長く。だから、上に座られることで、人間が活動している時間かどうか、川名が出勤しているかどうか、それがわかる。それだけで、良い(可)、そして、”イイ”、ということだ。お前が今理解することはそれだけでいいということ。

 他の構成員は、川名から、また澤野は特別出張仕事をしているのだと説明されていた。アナルフックの食い込む肉の隙間、肛門側から栄養チューブを挿入されており、点滴パックを変えるようにそこから定期的に最低限の栄養が入れられ続け36時間弱が経過している。川名が手袋をして点滴パックを交換しているのだろうことを身体の中に通されたチューブの微かなくすぐったい動きで理解した。本来はこういうことは美里がやるのだろうが、美里の姿はあの日の夜の途中から、見ていない。肛門から栄養をいれることについては、二条と姫宮に医学的知見があるため、限界まで続行することが可能である。

「う゛………んう゛ぅう……っ」

 何か訴えられる時間は、今しかない。しかし、伝える手段が、無い。
 今の霧野が自分の意志で何か示すことは不可能である。顔さみてもらえないのだから。

「まだまだ全然大丈夫そうだな。ちゃんと自分の仕事ができてえらいじゃないか。褒めてやるよ。ほら。」
「…………。」

 頭の上を何か硬いものが擦って嗅ぎ慣れた革と脂の匂いがしたのだった。川名が靴裏で頭を踏み撫でていると理解した瞬間熱された身体が更に熱くなり音を立てた。もがいてももがいても、余計に身体を弄ばれるだけで、感じてしまう。また、陰り始める。再び上で蓋がぴったりと閉められようとしているのだ、やめてくれ、もう、出して、ほかのことなら、なんでもするから、もういやだ、なんでも、という思いは一つも伝わらない。というか、ハナから求められない。権利もない。だって、糞みたいな契約書に押印したばかりだろ。押印も、欄が何故二つ設けられているかと言えば、指と”肛門”で押させられたからである。意味不明だった。しかし、なんで、と聞くのも野暮、つまりどこまでも人を辱めたいだけなのだ。それが彼ら、そしてかつての自分の悦楽でもあったからわかる。指で血判を押した後肛門に朱を塗られそのままとられたものを目の前で見せられ屈辱のあまり歯を食いしばっていると「わ~霧野さんは奇麗なアナルしてるねぇ~」と間宮が間延びした呑気な声で褒めるのであった。奴はおそらく芯から褒めているのが余計にタチが悪かった。

 家具をどうするかは、家具の持ち主が決めることであって家具には何も決定権は無い。また暗闇に一人残されたかと思うと、ぼすん、と上に川名の身体がのったのを身体全身で感じた。身体が啼いた。何も言うことも、示すことも許されず、ただ身体を家具として提供することだけを求められた。暗闇。目隠しされているのと変わらない程の暗さが、余計に身体を鋭敏にさせる。

 神崎に座られた時、霧野はもう、気が狂わんばかりであり、彼らの会話の全てが、霧野の気を狂わせそうになったが、上で2人で何かやりはじめてからは、身体が犯される刺激で、二人から直接犯される以上の、もっと特別な調教を川名からだけでなく、川名と神崎の2人から直に受けさせられているようなか感覚を、自覚せずにはおれなかった。発狂しそうな、自分の苦悶の声の隙間に聞こえる、断片的言葉、一緒に暮らす、今この状況がまさに川名が望んでいる家族的な状況なのだろうか。だとしたら、その時、神崎はどう振舞うのだろう。

 二人が会話する度、会話によっておこる振動が、霧野の身体にバイブレーションのように伝わって痺れさせた。あ゛あああああ…っ、叫ぼうが、軋みになるだけだ。神崎が、そして川名が珍しく大声を出した際には、彼らの真下で、失神しそうであった。しかし、気を失ったら、死ぬ、必死の形相で霧野は耐えていた。うなり声が、外まで上がっていたが、家具の軋みでしかない。

 霧野は神崎の後でまるで事後のようなぼんやりとした頭のまま、また、川名を身体で感じながら、川名と共に、客人を迎えていた。神崎とのことで大きすぎるほどの刺激を受けたおかげか、さっきより随分冷静になって、川名と客人の会話を、川名に心身共に犯されながらも、聞く余裕が出来ていた。ソファにされてからというもの、理性が吹っ飛んでいる時間と、割と冷静を保てる時間とを行ったり来たりしていた。

 全く誰からも人間扱いされていないという屈辱の中で、理性を保てるようになってきたのは、封じ込められてから、大分後になってからなのだが、元に戻されることがあった時、川名に助言の1つや二つでもしてやらないと、また、ソファに戻されるだろうと思った。いや、逆にそこを買われて、一生川名のソファ兼盗聴器になる可能性もあり得なくない、川名が自分に対してやる鬼畜行為として、無きにしも非ずなのだ。

 それでも、もし、今自分が川名の後ろに立っている役目なら、こう助言するのに、こう立ち振る舞うのに、と思うことが多々あるのだった。自分より役に立たない阿保がしゃしゃりでてくると、イライラした。そんな立ち回りでは駄目だ。ぐ、と川名の体重のかけ方が変わった。やっぱり、川名も今、俺と、同じことを考えてるんだ、俺が居れば違うのに……と、濡れたソファの内で、そう思った。



 XX年前

 深夜12時も近い頃、広場は灯に照らされて、薄明かりの中で一つの舞台のようであった。公園の広場の中心に男が一人寝ころんでいた。その光景は遠目に見ても、妙である。公園は当時、駐車場も含めて全く施錠管理もされておらず、時間帯問わず誰でも中に入ることが出来た。

 一警察官として配属されたばかりの神崎大和は、当直夜間勤務中に仕事を抜け出しその公園を訪れていた。一緒に勤務するはずであった上司が急に体調を崩して当欠。補充要員もおらず神崎一人でも問題無いだろうという当の上司のお墨付きで一人勤務をしていたのだが、兎に角何も起こらず暇であった。……サボろう、別に行く場所はどこだってかまわないし後でパトロールしていたとも言い訳ができる。神崎は私服に着替え、できるだけ人が居なそう且つ私服警官としてパトロールと言い逃れできそうな場所として件の公園を選んだ。ただそれだけだった。

 神崎は広場の中心に横たわっている男を最初、浮浪者かと思った。一応職務質問でもしておこうかと近づいていく内、どうにも様子が変だと気が付いた。男は浮浪者どころか神崎が遠目に見てわかる程、場違いに上等なスーツを見に纏っていた。普通なら少しでも汚れるのを嫌うほどのスーツだ。芝生の上に寝転がるなどもってのほか。神崎は近づく速度を緩めて自然と暗がりの方へと身を寄せていた。少しして男は軽く身を起こした。その瞬間、暗がりから、巨大な塊が勢いよく三つ、飛び出した。

 ヴォウヴォウ!空気の振動を皮膚で感じる程の野蛮な声を出して三頭の獣が動き回っていた。暗い、そして、動きが速すぎて初めそれが何かわからなかったが、それらが男のすぐ側に集まって落ち着くと三頭の巨大な三角耳をした成犬の形になった。そして、今度は甘い声を出しながら男の身体にまとわりつき、舐めはじめるのだった。巨大な三頭の犬。シェパード犬だ。警察犬としても良く使われる犬種の犬である。それにしても三頭とも立派過ぎるほど立派であり、座っている男の座高よりも体高が大きくも見える。男は一頭の首に腕を回しながらおきあがり座って、鼻と鼻を突き合わせ口を、大きく開いた。その異様さは、まるで彼を人間ではない別の者に一瞬見まがう程である。

 男はリードも付けていない巨大犬を広場で遊ばせているらしかった。深夜だから良いものの、日中帯だったら即苦情、即追い出しになるだろう。その時、神崎は、自分の所属とは別の生活課にいる同期から「やばい犬好きがいるんだよなぁ…‥」という愚痴を聞いたのを思い出していた。彼がその人物かは不明だが、所謂一般的な善良の市民では無い。公園の入り口には警告文として犬の散歩のマナーについての掲示がある。神崎は、考えた。①面倒だから無視する、②一応職業的義務として注意してみる、③ただ好奇心の蠢くままに男に近づいてみる。

 一頭がふいに、頭をもたげ、神崎が居る暗がりへ、目を向け、ふん、と鼻を鳴らした。気づかれたな、と思ったが、もうおそい。すぐに残りの二頭の眼も神崎をまっすぐ捕え、身体ごとこちらを向き、姿勢を低く構え始めた。自然、飼い主らしき男も座ったまま神崎の潜む闇の方にゆっくりと頭を向けた。神崎は背中にうっすらと汗をかくのを感じたと同時に気持ちが大きくなるのを感じた。冷汗は武者震いに代わる。来るならくればいい。面白い事件の気配。直観、あの男は少なくとも一般的な市民ではない、なにかが突出している人間、もしくは欠落している人間、その両方か。あそこからは、罪の香りがする。昔から、神崎の勘は当たることが多い、試験で山をはって外したことが無いことから、カンニングを疑われたほどである。目の前の男は別に今犯罪を犯しているわけではない、ただルール違反をしているだけ。しかし、ルール違反常習者は、倫理尺度も緩い傾向にある。それが犯罪嗜好に繋がっている。
 
 ③、だな、これは③の案件だ。

 神崎の口角は無意識に上がっていた。暗がりから足を、身体を、出し、光の当たる道を真っすぐ、男の方に近づいていった。犬が、姿勢をさらに低く地獄の底から響いて来るような低い声を出している。でも、もう全然関係ないね。怖くもない。もし今、目の前の男が襲えと言ったら襲うのだろう。少し見るだけでもよく訓練されていることがわかる。まるで警察犬のように。だが、だとしても、関係ないのだ。向かって来たら、迷わず殺すから。犬なら、別に構わないだろう。正当防衛だ。ちょうど今パトロール中だから銃の携帯も許されている。射撃には自信がある。脳天を真っすぐぶち抜いて三頭まとめて殺してやる。ただ、ニュースになることは確実だから、あくまで最終手段ではあるが。無為に目立つことをするのは嫌いだ。悪目立ちして人に見られるのが嫌いだ。

 神崎は三頭と一人のすぐ真横にたって腰に手を当て見降ろし、声をかけた。

「この公園内で犬を遊ばせる場合、ドッグラン以外の場所ではリードをつけることが義務化されるって知ってるか?表にクソデカイ看板が立ってたはずだが。もしかして字が読めないのか?」

 男はぼんやりとこちらを見上げていた。灯のせいで影になって顔半分が良く見えないが、よく見れば自分とさほど年の変わらないか下位の、細身の男であった。なんだよ、ガキじゃん、そうすると余計に、自分と比べても身なりが良すぎるのが気になってくる。常識知らずのボンボンか?いや、そんな感じもしない。ボンボンにしては、あまりに雰囲気が退廃的にすぎる。闇の塊があるようだ。ここだけ温度が低い気がする。ダークスーツ。闇の中に微かに閃いている二つの白光、生気の感じられない、瞳。彼は動じる気配も無く、白々しい顔をして神崎を見上げていた。

「ああ、あれね、はいはい、もちろん、知ってますよ。」

 妙に落ち着きが過ぎる、低い声であった。

「だって、あんな品性が無い看板って、珍しいから。誰が作ったんだろうと、ここに来るたびに、呆れた気分になるんです。」

 男はそう言って、初めて笑みを作った。嘲笑では無く、甘い微笑みである。しかし、口元だけの微笑だった。眼の奥に異常な淀み、そして、鋭い険がある。犯罪者の中にさえあまり見たこと無い程の、鋭利な印象。神崎で無ければ、この笑みを好青年の親しみの笑みととるかもしれないが、神崎はこの人物が普通の若者ではないことをここで確信に変えた。同時に、神崎にはめずらしく出世の二文字が脳裏に浮き上がった。当時の神崎はまだ若く大した仕事を任される時期では無かった。この男をマークしていれば、何か面白い事件に辿り着けるかもしれず、面白い事件の多い部署にいけるかもしれなかった。上に行く、下に行く、にはそんなに興味は無いが、いつまでも末端警官では、面白い事件にはありつけない。まぁ、深夜特有のテンションの上りがあり得ないファンタジー、アドベンチャーな気分にさせているだけだとしても、とりあえず今今はこの男と話していれば、暇はつぶせそうである。

「じゃあ、わかるよな。」

「でも、それは人に危害を加える可能性があるからですよね。今はどう見ても俺以外に人が、ああ、あなたがいるけど、その他にはいないし、誰にも迷惑をかけていない。それにこいつらは絶対俺の命令を聞きます。大体、あんな注意書き馬鹿げていると思いませんか。自分がどこまで犬をコントロールできるかは飼い主が一番わかるわけですからね。自分の犬をコントロールできない馬鹿はそもそも外に出てくるべきじゃない。というか、撤去してくれません?なんかアンタならできそうな気がするけれどね。引き抜いて来てよ。」

 男は神崎から犬の方へ目をうつした。三頭は男の神崎への態度から警戒を解いたらしく、ぐるぐると男と神崎の周りを楽し気にまわったり、そして、男にじゃれ付いたりして再び遊び始めるのだった。なんだか調子が崩れた。

「お兄さん犬、好きでしょう。これだけでかいと普通、犬好きを名乗ってる人間でも近づくのには躊躇するからね。お兄さんが良ければ触ってあげてよ、危害は加えさせない、絶対。」

 男のペースにのまれていて腹が立つなと、思うことはあるが、三頭の内一頭は特に神崎にじゃれつく姿勢を見せ、腹さえ見せた。男は「ああ、めずらしい。お兄さんがとても気に入ったらしいよ。メーアっていうんだ。かわいいだろう。」と言った。確かに、犬を見ているとささくれ立っていた心が癒される。

 神崎はようやく男と同じ目線になるように渋々と言った調子でしゃがみこみ、一番人懐っこい性格らしい犬のメーアを撫でてやった。くぅんと可愛い声で、啼いた。なるほど、よく手入れされていて、毛の中に手を埋めるとパンのような匂いがするのだった。突然、メーアは前脚を神崎に引っ掛け、体重をかけてじゃれるようにする。おっと、と、そのまま押し倒されてやると、尻尾を振り回し、上にのしかかって神崎を思う存分舐め回しはじめた。視界の八割がメーアに覆われ、端の方で男がさっきとは違う、表面的でない人懐っこい笑みで、にこにこと、こちらを覗き込んでいた。そこに他の二頭の顔もくわわって、男は両腕でその犬達の首を抱きながら撫でていた、二頭の裂いたように開いた口から垂れた舌から零れる涎が神崎の身体にまで堕ちてくる。

「こっちはウィアベル、シュトローム。こいつらもアンタが気に入ったらしい。犬に好かれるタイプだね。珍しい。シュトロームは特に俺以上に人間嫌いなはずなんだけど。」
「重い。どかしてくれないかコイツ。」
「コイツじゃない、メーアだ。」
「……、わかった、メーアをどかしてくれ。」
「別にいいけど。アンタ愉しいんでしょ、今。もう少し遊んでやれば。だってさっきより随分とマシな顔してるよ。さっきまで滅茶苦茶怖い顔してたよアンタ。ガタイも良いしヤクザ者かと思っちゃったよ。ふふふ。」
「……。」

 男はメーアを呼び戻し、神崎は仰向けになっていた身体を起こし男のすぐ横に座っていた。その周りを犬が楽しそうに遊んでおり、まるで現実感が無かった。男はさっきより警戒心を解いた様子で神崎を上目遣い笑いながら言った。

「俺はね、この時間が今、一番愉しいんだよ。日中は正直愉しいどころじゃない、夜も忙しくて時間とれることってそんなにないんだ。今日は久々に羽のばしてたんだよ、だからさ、いいだろ。許してよ。ニンゲンの作ったルールの中でニンゲンといるとすごく疲れるんだよな。ずっと檻の中に閉じ込められているような気分になるんだよ。」

 男はそう言って、シュトロームを抱いてみせた。上等なスーツには芝の他に大量の犬家と涎が付着してクリーニング代がいったいいくらいになることやら、といらぬ心配までしてしまう。

「そんなに忙しいって、普段何してるんだ?」

 男は言った。

「会社の経営。わかりやすくいえば社長ってことだよ。子会社だから一応上は居るんだけどさ、めんどうなんだ、これが、俺の経営方針の全てが気に入らないらしいから。じゃあ最初から裁量権なんか渡すなって話だ。出てくっていうとまたこじれて面倒くさい。はぁ。ね、今度は兄さんの番だよ、アンタは何してんの?こんな時間にふらついて不審なのはお互い様だろ。もし仕事あぶれてんなら、俺がやとってあげようか?……兄さんなら、いいよ。こんなにこいつらが懐くことってないから絶対にうまくやっていけるよ。身なりからしても、大した給料もらってないんだろ。俺なら、そうだな同年代の10倍の給料を払ってやれるぜ、どう。まあ、今すぐじゃなくても良いけどな。」

 なるほどその年で経営者かよ、どうりで身なりが無駄にいいわけだ。

「随分失礼な奴だな、お前、初対面だぜ。社長?はいそうですかと信じられるか、確かに身なりは良さそうだが、一体何で儲けてるって言うんだ、この不景気に。」

「ふふ、何だと思う?」

「少なくともお前がマトモじゃないってことは俺でもわかる。奴隷貿易とかか?……コレは冗談だけどな。」

「あはは、面白い、面白いな。ところで、俺がマトモじゃないって?そうか。そいつは奇遇だな。俺もお兄さんを初めて見た時から、全く同じ印象を抱いていたからな。もしかしたら、ここじゃない別の場所で近々顔を合わせることになるかもしれないね。そうなっても別に俺は驚かないと思うよ。」

 男は犬を抱き寄せて顔を埋めていた。メーアが再び神崎に身体を密着させ、遊ぼう遊ぼうと尻尾を振る。どれほどの時間か、月光の下、仄かに風がそよぐ中で、二人と三頭は同じ時を過ごした。そろそろ行かないと、と先に言ったのは男の方だった。

「今から仕事がある。」
「今から?そいつらはどうするんだ。」
「もちろん連れていく。俺の大事な仕事仲間だからな。でもまだまだ空きがあるから、さっきも言ったように、仕事に困るようなら俺のところに来い。俺ならお前の力を存分に引き出せるような仕事を、お前に与えてやることが出来るはずだ、……なんてな。また時々こうやってたまにここで遊んでるだろうからさ。気が向いたら来いよ。」
「……」
「兄さんもいつまでも浮浪者してないで、家帰ったほうがいいだろ。職務質問されそうなナリだぜ。」
「うるせぇな。一言いや二言三言多いよお前。」
「ああごめんごめん、久々に人と普通にしゃべったもんだから、つい。自覚はあるんだけど、治せない性分なんだ。結構努力したんだけどな。とにかく、いい気分転換になったよ。ありがとう。じゃ、……また。」

 男はそう言って三頭の犬を周囲に伴いながら、光の当たらない方へと消えていく。
 その姿は完全に夜闇と同化して、すっかり見えなくなった。
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