175 / 181
お前のための特別教材を用意して教育してやったという訳だ。
しおりを挟む
「100万ある。」
川名義孝は、自分が今こうして差し出した札束を前に、兄の川名龍一郎がどういう反応をするのか観察していた。ここ二ヶ月は口をきいていない、もっと言えば顔もまともに合わせていなかった。龍一郎の行動パターンを測るのは安易である、と、義孝は考えていたが、長期間にわたって無意識に兄を綿密に観察していた事実があることを自覚していない。兄は、札束では無く義孝の方を見て、驚くでも無く笑うでも無く、黙っていた。そして突然「どう?最近生徒会活動は楽しい?」と呑気に世間話を始めようとした。
「は?関係ないだろ、今。」
「関係あるよ。俺はお前のこと、知りたいからな。お遊戯の様子もね。」
「じゃあ余計に言いたくないな。」
沈黙。先にしびれを切らした義孝の方が「出ていってくれよ。」と言ったのだった。
「これ、やるから、さっさとこの家から、出てってくれないか。家借りる前金くらいにはなるだろ。」
ここまで言ってようやく龍一郎の表情が崩れた。微笑んだのだった。彼が微笑むと悪意がなくても、少し擦れたような目つきの悪さから、初めてこの微笑を見た人間は威圧感を覚える。だが恐れずよく見れば愛嬌が全くないわけではない。地域のボス猫のようなものだ。体躯は同年代と比較しても発達しており、ただ立っているだけでも人避けになる。全体的に精悍な印象はあった。常に腹に一物抱えているような印象を受けるのだ。
「どうしたんだそれ。高校生がポンと出せる額じゃないと思うけどね。」
「質問を質問で返すなよ。俺がタダでやるって言ってんだからお前は黙って受け取ればいいんだよ。」
「どう思うのかな、義父さんが。」
「義父さん?そりゃ、お前がいなくなれば世界中の、みんなが悦ぶ。」
「違うよ、俺の話じゃない。」
龍一郎はここでようやく札束に手を伸ばした、のではなく、札束を持っている義隆の手首を掴んで義孝ごと自分の方へ引き寄せたのだった。咄嗟のことに義孝も反応に遅れ、距離が詰まった。
「……。」
「お前が、どうやってこれを手に入れたかわかったら、お前の義父さんはどう思うのかな、って、聞いてるんだ。」
金と一緒に、身体が兄の方へ引き寄せられかけられるのを感じて、ようやく手首を振り払い、反動で後ずさった。背後の兄の部屋のドアに背中をぶつけた。その拍子に持っていた万札の束が解け、宙に舞った。
「動揺してる。」
空中をひらめいている万札の隙間から兄の悪戯っぽくにやけた猫のような口元が見えた。
「してない。」
「わかってる。」
彼は意味深なことを言って腹の立つにやけ面を義孝の方へ向けた。
「何が?」
「お前が一体どこで何をしてたか。」
龍一郎は部屋の片隅に置かれた棚の中から、写真の束を取り出した。予め用意していたらしい。彼はそれを自分の手元でパラパラ捲り眺めていたが、ふいに、写真の面を義孝の方へ向け、紙芝居のように義隆の目の前でゆっくりとめくって見せていった。そこには義孝の後ろ姿、横顔、遠くから撮ったらしい姿が写っていた。盗撮写真である。兄を尾行している途中で、見失ったことが何度かあることを思い出した、そして、「現場」の写真。路上、公園、ホテル、義孝と第三者、第三者は写真によって代わる代わるした。
「現場」とは。ここ半年ほどの、未成年淫行を装った詐欺の現場である。犯人は、姿形は高校生の見た目をしている男である。未成年淫行、男同士、誰もが隠したい汚点である。
義孝は立場のある人間を選別し狙うことに長けた。実際に事に及ぶことはなく、それらしい写真を撮影して、個人情報を抜き取って、後はゆするだけだ。効率を考えて自分以外の誰かを雇ってやらせようかとも思ったが、協力者が増えるとその分非常事態が起きた時の対応のリスクが増加する。例えば、裏切、逆にゆすられる、絶対にそのようなことをさせる訳はないが、面倒である。それで、今まで通りに、こういうグレーな事はすべて独りで完結してやることにしていた。そして一人でやるもう一つの利点、止む終えない場合、処理、すればよかった。義孝は、これは業務上やむを得ないことだから、嗜虐行為とは違うことだから、と、自分でも矛盾しているとわかっている言い訳を自分に言い聞かせて、やっていた。それでも処理するのは最終手段であって絶対に目的にはしないとは決めていた。
しかし、流石にそろそろ世間的な騒ぎになってもおかしくは無い。もともと目標は50万円だったのだから潮時、丁度よい手の引き時だと思われた。龍一郎は写真を義孝に渡すと、散らばった札束をかき集め、義孝の胸に押し付けた。しかし、義孝の手はそれを受け取らないので、龍一郎が手を離したと同時に再び義孝の足元に金がちらばった。
「いらない。お前が出てって欲しいのなら、最初からそう言ってくれれば素直に出ていったのに。金なら他の方法で貰っていく。そんな金、いらないんだよ。今回のことで、俺が思ったことは、やっぱりお前は、頭がどうかしちまっているってことだ。お前には境界線が無いんだよ。」
「境界線?なんだそれ、頭がどうかしてるって?人のことが、言えるのかよ。」
「言えるよ。少なくとも今の俺は自分を人間だと認識しているが、お前を人間だと思ったことは、無い。たまに思ったよ、俺の思い違いかもねと、もしかして、俺の方がおかしいのかも、と、何回もね。でも、今回のお前の動きで余計はっきりした。お前はどうかしてるよ。人と獣の境い目がお前には無い。我が家のご両親方は変わった人だからな、俺達の境遇を分かった上でひきとったわけだ。で、俺はね、彼らの前で、わかりやすく、自分の駄目なところまで全部出したよ。殴られた、良かった、それで、嬉しかった、だから、もっと欲しいと思った、最初の方はそれでよかったんだが、でも、そろそろ向こうも、お手上げって感じになってきて、今は、正直、すごくがっかりしてるんだ。もうだめだな、ここもと思い始めたところだ。だって、本当の家族なら、そういうところまで含めてすべて、愛してくれるはずだろうから。どれだけやったって。そうじゃなかったら、家族の資格が無いもの。家族と言うのは、自分や相手が、どれだけのことをしようと、愛情を持ち続ける、そういうものだ。異常な部分を隠してたってしょうがない、どうせ、どこかで破綻するからな。でも、お前は違う。お前は隠してばれかけては、矯正されて、哀れだと思っていた。ずぅっと猫を被って、絵なんか描き始めた時には、あーあ、しょーもな、と思ったね。で、結局俺達に隠れてまたやった。」
「さっきからキメェこと言ってんなよ、お前の言ってることはいつでも何から何までキメェんだよ。言いたいことはそれだけかよ。俺より年上の癖していつまでもガキみてぇなこと言ってんじゃねぇぞ。」
兄は、義孝の口調が汚くなったと同時に、にやにやと笑い始め義孝の言葉に重ねて「そんな行儀悪い言葉、俺の前でしか使わないよな、お前……」と言い、黙った義孝と反対に、そのまま続けた。
「……。ああ、そうだよな。俺もそう思うよ。夢見がちだよな。ところで、きょうって、水曜日だっけ?」
兄はそう呟きながら、散らばった札束を再び拾い集め始めた。
「大丈夫。お前がそんなに望むなら、週明けには俺は消えるからね、安心しな。その100万はおいおい、お前に必要になるはずだから、お前が自分のポケットに大事に、突っ込んでおくといい、大事にね。」
兄はそう言って、呆然と佇む義孝の制服のポケットに金を突っ込んだ。身体が接着する程の近さのまま、離れない龍一郎がじっと義孝の方を上から、うかがっていた。義孝は手を背後に回し小指をドアノブに引っ掛けた、その手首を上から掴まれ反射的に龍一郎を仰ぎ見た。変わらずにやけた調子だが、興奮した様子も無く、抑揚のある低い声で、物語るように続けた。龍一郎と義孝の声質はよく似ていたが、身体が大きい分もあってか更に少しだけ低い。
「7/24、水曜日。」
「……」
「お前が出てくるまで、6時間と、32分。お前の手口にしては手間取りすぎたな。何か、ミスをしたんだな。そうだな、例えば、行った先に、思いもよらなかった人物がいた、とか。ね。どうだろう?」
「……」
「仕事帰りのサラリーマンひとり待っている予定が、そうじゃなかった、予定にないお前の知らない奴らが8人もまちかまえていて、入口を塞がれ、退路を断たれて、こう聞かれたんじゃないか?『今から、肉体的に殺されるか、精神的に殺されるか、どっちがいいか選べ。』ってな。俺がそう言えって言っておいたから、そう言ったはずだ。それで、お前は、後者を選ぶ。もちろん、当たり前だ、お前は自分が生き残る為なら、なんだってできる、強いのだから。お前は自分が生きる為なら、自分の身体の一部はもちろん人を犠牲にしようが何もかもどうだっていいんだ。大体後者を選んだところでお前にはダメージなんか、無いのだろ、どうせ。この化物。だって、平気な顔をして帰ってきて俺とあの人たちと夕飯囲みながらありもしない学校であったしょうもない作り話なんかしてたもんな。俺が口元の痣について聞いても実に鮮やかな嘘をついてたしな。一瞬やっぱり俺がこの目で見て来たことが全部幻だったんじゃないかと思う程、自然にね。俺がなんで珍しく家族での夕食に顔を出したのかお前は疑問にさえ思わず、いつも以上に器用に偽って、明るく、話し続けたね。俺は少し、期待して待ってたんだよ、お前が少しでも、本性を出すかと、それなのに」
「出ていけ……」
「ん?」
「週明けじゃなく、今すぐ出ていけ……、この、鬼。」
「どうした?急に人間らしい振舞を見せつけて。人間ごっこか?たのし?思うに、被害者の皆さんからすればお前の方が俺よりもよほど鬼だし社会悪だろ。しかもお前は俺の知る限り少なくとも既に3人は殺している。だから実際の被害者はもっと多い。お前は利を優先するためリスクがあるにもかかわらず家族がいる人間もターゲットにしていたな。できないんだよ、普通、そんなこと。義孝、お前、人の気持ちって考えたことある?無いんだろうな。たぶん。だから俺が止めたんだよ。下に居るお前の両親がお前の本質を見逃しちゃんと教育できていないから、わかってるお兄ちゃんが代わりにお前のための特別教材を用意して教育してやったという訳だ。わかった?しかも無料。」
龍一郎に掴まれたままの腕が、はがれない、それならば、と、突き飛ばしたがそれでも手離れずに二人もつれ合って部屋の中心に転がった。そこからは、取っ組み合い、殴り合いの久しぶりの兄弟喧嘩が始まった。部屋どころか、家が揺れんばかりに、龍一郎の整理された部屋の家具が、どれだけめちゃくちゃになっていっても、問題無い。今、家には二人以外誰もいないからどちらも気を使わないのだった。体格差で多少有利不利はあるが、義孝もこの数年間ただ兄の蛮行を黙って見ていたわけでは無く、運動神経も悪くない、身体も発達、それなりに鍛え、多少の荒事、絡まれようが自分の力だけでどうとでもなるようになっていた。というか、していた。素人4人くらいまでなら1人でもさばける。ただ、その力量さえも龍一郎にあらかじめ測られていて、あのホテルに8人も集められていたのだ、と思うと、久しぶりに、ドス黒い感情が噴き出てくるというものだ。
1ルーム、狭い空間では対格差は寧ろ小さいほうが動き回ることが出来、有利なこともある。喧嘩は思いの他長く続いた。1ルームという環境と互いの力量もあったが、龍一郎は、義孝の本来なら空ぶったであろう打撃を含めて全て、いちいち受けていたからというのもある。真っすぐ顔面を狙っても軽く顔をかわして急所をずらして、必ず全部当たってくる。そうかと思えば獣のような素早さで視界から消えたかと思うと、ゆっくり戻ってくる揶揄っているようなムーブをする。揶揄われている。妙だ。本気でやってたら、普通、そうはならない。よけようと思って当たる、というより、始めから当たりに来ている。なめられてる。そう思うと余計に珍しく義孝の中に義憤が起こり、普段以上の力を発揮して喧嘩はより苛烈になった。龍一郎が攻撃を進んで受けがちだからと言って、防戦一方という訳でもなく、龍一郎ももちろん手を出してくる。しかし、どこか力が抜けている。壁にはどちらが開けたかわからぬ穴がぼこぼこあいて、龍一郎が暇つぶしに作ったらしいプラモデルの数数がバラバラになり、その破片が靴下を履いている弟と対称的に裸足の兄の足の裏に刺さり、動くたびに床を血の筋を作って濡れるのも気にしない。比較的闘いに慣れているはずの龍一郎の挙動が義孝の目にやけに遅く見えるもの妙である。最初は興奮して気が付かなかったが、さっきから、ワザと隙を作っている。じゃあ、と、望み通りそこを打ってやる。と、まるでコーチに導かれるかのように打撃していても、気持ちいい程きれいにあたり、ちゃんと呻いてキマる。龍一郎はその間もずっと張り付いたようににゃぁにゃぁと気味悪く笑っており、打撃が決まった時だけ一瞬本物の苦痛の表情をするのだ。義孝も義孝で気分が最悪な感じの”ハイ”になりつつあり、頭を振った。
もういい、別に、殺そう、どうせ、正当防衛に持ち込める、今なら丁度身体も傷物だ。使える。寧ろ好材料である。ところで何か、不意を突いて、使える物は無いだろうか、と、視線を兄の部屋の家具の方に彷徨わせていると、死角から顔面にフックが飛んできたのを直受けしてしまい、身体ごと吹っ飛んだ。何が起きたか理解するより前に上から頭を思い切り蹴り上げられ、痛みと共に世界がぐわーんぐわーんと、歪み、倒れた。手を伸ばした先に、ボールペンがあった。これで、奴の目を刺せ、そのまま脳まで、貫通させて、殺すのだ、脳を揺らされて視界くらむだけでなく、自分の血が目に入って視界が悪いのだった、手さぐりで、指先にようやく硬いものが当たったと同時に、それは謀ったようにタイミングよく蹴り飛ばされ、回転しながら壁にあたってどこかへ行ってしまった。見ていたのだ、上から。人が必死になってるのを、傍観していたのだ。
「……のに、」
「なんだって?」
マウントをとられ、上から、跨られた。上から来る拳を、辛うじて手で受け、上に持ち上げる。双方の腕が震えて、上からぼたぼたと汗が降り注いできて、全てがウザい。
「殺してやろうと、思ったのに。」
上から体重をかけられ、腕が流石にもちこたえられなくなってくる。兄の顔がすぐ目の前に近づいて、耐え切れなくなった腕が落ちると同時に、頭の両サイドに兄の太い腕、肘がついたのだった。激しくなった息遣いが混ざり合って気分が悪くなった。熱い息と黒髪の先端が顔を擽った。
「殺してやろうと、思った、だって?どうぞどうぞ、やってみろよ。」
龍一郎は途端に生き生きとしはじめた。素人ならまだ何とかなる可能性があったが、相手は普段から暴行慣れして体格差のある兄である。あがく程に圧迫と殴打への容赦が無くなる。とどめに頭突きをされると、耳の奥がキーンとしてくる、「う……」「ほらほら、大丈夫ゥ?殺すんじゃないのォ?」左から思い切り衝撃、彷徨いかけていた意識が戻ってきて、目の前の男の顔に焦点を結ぶ。血が、目が、染みた。龍一郎の指がこちらの目の方へ延びてきて思わず顔を背けるのだが、彼は流れた血を指で拭って見せたのだった。龍一郎の額も出血しており、その血が一滴、義孝の頬を掠めた。その時一滴の水が、水面に波紋を作って揺らすように、義孝の身体の奥が、ささやかに、ざわめいた。
「お前が俺に殺意を抱いているのは知ってる。なぁんでしかけてこないのか、とても不思議だった。待っていたのに。それが、一番最悪、金で穏便に済まそうとして来るとは、最もお前らしくない。結局、この家に迷惑をかけることを避けようとしたんだよな、つまりお前のお義父さんお義母さんがネックだったというわけだ。そうなんだろ。」
「……。」
「さっき、お前のタガが外れかけたのを見て、安心した。やっぱりお前はそういう奴なのだ。そういうことなら俺にも、考えがある。」
「よせ……。」
「何だ、俺はまだなんにも言ってないじゃないか。」
「言わなくてもわかる。大体お前は、あの人たちに対して感謝も何も、無いのか、感情が、無いのかよ。」
「何言ってるんだ、あるよ、あるに決まってるじゃないか、おそらく、”人間ごっこ遊び”しているお前よりも、ずっとね。でも、それ以上にお前のことを心配してるんだよ、俺は、兄として」
「うるさい、兄として?何だよそれ。お前に何がわかるって言うんだよ。」
「脈拍が多少上がってきたな。熱いだろう。」
兄の手が、さっきまでの粗暴さとは対照的に丁寧な手つきで制服のボタンに手をかけていくのだった。
「……。へぇ、結局、未だ、こんなことが愉しいのかよ?」
嘲笑的にそう問いかけると、兄の手が緩んだ。義孝は、今だ、と、右ポケットに忍ばせていたカッターナイフを取り出した。刃を出しながら、躊躇うことも無く、真っすぐ龍一郎の首を狙ったのだった。しかし兄は、こちらの瞳を見たまま、素早く左手を出し、その、”刃の部分”を掌で掴み、そして、握った。
握っては再度強く、握りなおす。ブチっブチっブチブチブチっ……といやな音がして、握られた拳の間から大量の血が流れ、ぼたぼたぼた……っと義孝の目を見開いた顔の上に、大量の血液が滴って真っ赤になった。
「ぁ……」
疲れて、喘ぎ喘ぎしていた義孝の口の中にまで極彩の龍一郎の血が、龍一郎の血液が、流れ込んでくる、鉄の味、粘液が、溺れるほど、咳き込みそうな程流れ込んでくる。眩しい。刃は未だ龍一郎の肉に強く食い込んだままだ。
(どうして、敢えて、刃の部分を握るんだ。何故だ……、柄でも手でも腕でも、とれたはず、刃を握る、意味が無い、ところで、どうしたんだろう、身体が、沈んでいきそうと、同時に、浮いていきそうな……。)
龍一郎は空いている方の右手で、カッターの柄を握る義孝の手首をとって、彼自身の血に濡れた手をゆっくりと刃から離し、義孝の手からカッターを黙って奪い取った。兄の開いた右手が、義孝の方に伸びて来て、撫でた。顔から首筋までを一面真っ赤になった、血の匂いだけで、横溢しそうなほどであった。
「これでお前も愉しいだろ?」
今度は、兄がそう問いかけてきた。答えられない。血を噴き流し続ける兄の腕。止血もせずに彼は再び義孝の身体に触れた。明らかに、さっきまでと皮膚の温度と感度が変わってきてしまっているのに、義孝は自覚的になった。思わず顔面を覆って震えながら唸っていた。覆った手に血が、血が、血を見ると、思い出す。他人の苦痛を、最後の時の、表情を。そして、さっきまでの龍一郎の、苦痛を。
「駄目だ……」
「弱気になるのか?お前らしくないよ。」
龍一郎は自分の手を開いて、ひらひらとさせ血の飛沫を飛ばしながら、顔を近づけ自分の掌を見た。「うーん、10針はいったな、これじゃ。まあ別にいい。これくらいのことは。全く全然大した問題じゃないな。」といいながら、何をするかと思えばもう一度カッターで深く自分の手を抉って、拳を強く握ったのだった。再び激しく、まるでジュースのように絞り出された血が、義孝のいつからか半開きになっていた口の中に滴り落ちていくのだった。口は無意識に、熱を帯びた息に濡れながら、獣のように、裂けるように開いていった。口角がひきつって、舌が出る。全身のぬめりが、汗によるものなのか、血によるものなのか、精によるものなのか、境い目は最早あってないようなものだった。互いに混ざり合っていく内、夕日の鮮烈な赤が一瞬、部屋全体を照らした。世界が赤に、煌めいていた。すぐに日は堕ちて、夜はそのまま、更けていく。
「返事はどうした?愉しいのだろ。素直に言ってみな。愉しいと。」
気が付くと暗くなった部屋の、暗闇の中から兄の声だけが浮かび上がるように聞こえた。彼の目の奥の淀んだ煌めきと血の滴り、のしかかられたままの下半身、声のする位置に向かって手を振りかぶって打った。いい音がして闇の中で双眸が見開かれた後震えながら細くなったのが見えた。猫の瞳が暗闇でも光るようにどうしてか兄の瞳の輝きだけが闇の中に浮かんで見える。血の飛沫が義孝の顔にまた降りそそいでくる。もう一度反対側を同じように打つと上に乗っていた兄のバランスが崩れかけ、彼と上下を逆転させた。今度は兄が下になった。その、喉を突いた。人間から出てはいけない音がなった。ごくごくと潤いを求めいやらしい音を立てる喉仏の上下に動くのを指の腹で撫で愛でいつでも潰せるのだと感じている内、双方の下半身の熱量が同じほどになって、境目がなくなり蕩けそうだ。締めた。殺したっていい、さっきまでそういう気持ちだったんだから、やればいい、のに、でも、手は途中で緩む、何度もやりたいから、何度もやりたい、何度も殺したい、闇の中で熱の方へ耳を近づけ、兄の苦しさを感じている。頭の奥でじんじん感じている内、また、上下が逆転する。濡れる、血と精に、濡れる。逆転する、逆転する、逆転する……。
朝、兄の部屋のベッドの中で目を覚ました時、もう、兄は居なかった。
視界の端に大量の血に濡れたシーツがくしゃくしゃになっているのが見えた途端、頭の隅で水に落とされた墨が拡がっていくように一切の記憶が蘇り、自分がこの口で「出てけ」と彼に言ったことを思い出した時には弾かれたようにベッドを飛び出、階段を駆け下りたすぐ下、開けっぱなしのリビングで呆然とした顔でこちらを見据える両親、その向かいに兄の背中が見え、ほっとした途端、最悪な気分になった。
「てめぇ……、出てけって、言ったじゃねぇかよ……、なんで、ここに、いるんだよ……」
兄は何か口にほお張りながら振り向いて何か言おうとしたが、口の中の物を飲み込めないでまた前を向いた。一瞬見えたその顔にある痣とひっかき傷を見て昨日のことが現実であったと理解した。その向こう側で、両親があきれたような顔をしていた。なんだ?この平和ボケしたリビングは。兄はコップに入っていた何かを一気飲みすると立ち上がって、リビングの入口に立ちすくんだ義孝を無理やり押し出すようにして洗面所に連れて行って鏡を見せた。
「まず顔を洗うところからだ。それから今日一日は顔が腫れてるだろうから学校は休んだらいいよ。俺は今から病院に行く。お前のは見かけほど大したことは無い。冷やしておけば大丈夫、すぐ腫れは引く。病院に行くほどでもない。」
酷い顔である。酷いがゆえに、様々なことが、誤魔化されているとも言える。
「あの人たちには俺からしょうもない理由で喧嘩したことを説明して謝っておいた。」
「……、病院に行って、………、それ、で?」
「別に俺の勝手だな。出てけって言ったの、誰だっけ。」
「………、………。」
兄はにやにやと薄ら笑いをしながら義孝の背後から姿を消した。しばらく呆然としていたが、蛇口をひねった。ようやく段々と身体が痛み始める。昨日のなごり。リビングに戻ると、一人分の朝食が用意されており、兄はとっくに家を出たという。兄がどのように説明したかわからないが義母から軽い注意を受けながら朝食を口の中に流し込んでいた。味がしなかったし、まったく頭が冴えてこず、にわか返事をしていたら、さらに怒られた。どうでもいい。部屋に戻ると、テーブルに上に写真が一枚置いてあった。唯一失敗した、あのホテルの写真である。蒸し返す気か、と写真を破り捨てようと捻った時、裏面に兄の筆跡でマジックで何か書かれていることに気がついた。
8人の男の名前、電話番号、住所である。あの時の男達の個人情報に違いなかった。
「あの野郎………。」
もとより自分の手で調べつくして、報復するつもりだったのを、さっそく出鼻をくじかれた気分だ。
ここで、この男達におめおめと手を出したら、それこそ兄の手の中で踊らされていることになるじゃないか。
別に利用して悪いというわけではない。しかし……。
これも、教育とでもいうつもりなのだろうか。ああ、阿保らしい。
義孝は写真を手に、外に出て、庭で焼いた。それですべて忘れることにした。
全てなかったことにする。
あのホテルも無かったし、あのことも無かった、最初から無かった。
燃えて縮んみ歪んでいく写真、全て灰になって飛んでいく。
兄は夜遅く、帰ってきた。帰ってきて廊下を歩いて自分の部屋に入っていく音を聞いた。そんな日々が、一週間は続いた。連日、隣室からうめき声が聞こえた。うるせぇな、と、壁を殴ると止むのだが、また少し間を開けて唸る。夜中に兄の部屋を訪れるのは気が引けたが、どうしてか今は、身体が彼の部屋に向かう。
ドアノブに手をかけると鍵はかかっておらず、ほんの少しドアを開き中を覗いた。兄はベッドの上に寝ていた。しばらく観察していると、眼を閉じたまま歯ぎしりし、時折獣のような呻き声を上げていた。うめき声は睡眠中の無意識の声だったらしい。義孝は兄が寝ていることを確認すると、兄の部屋に身を滑りこませすぐ近くまでいって上から覗き込んだ、全身が寝汗で濡れて、苦しんでいた。普段の人を馬鹿にしたような顔からは想像できなような見たことのない苦しげに紅潮した表情で喘ぎ喘ぎ身体を寝返りうっては、夜な夜な、一人で、鳴いていたのだった。
なんて面白いんだろう。どうして今までこんなに面白いことに気がつかなかったのだろうか。しかし考えてみれば、こんなことは初めてなのである。もともと所作行動全てが五月蠅い男だが、記憶中でのこの男は、寝ることに関しては死んだようによく寝入るはずで、寝つきの良くない義孝は羨ましいと思ったことが何度もある。しかし、今のこの兄の姿を見ていると、反対に、よく寝れそうな気がしてくるのだった。気が付くと、身体を兄のすぐ側に、身を横たえていた。そして、自分はそのまますとんと堕ちるように気持ちよく眠りについていたのだった。こんなにすぐに、そして、よく寝られたのは初めてかもしれなかった。
次目覚めた時、やはり兄はベッドにはいなかったが、椅子に座り、脚を机にのせて大層行儀の悪い様子で指の爪を切り、やすりで丁寧に削っていた。一欠片飛んできた詰めの破片が、義孝の目についた。ドス黒い。これは何かが爪と肉の間にはさまってできた汚れ。義孝も同じように爪を切る。特に何かしてきた後ほど、入念にした。
義孝は何も言わずベッドを這い出て、自分の部屋に戻った。向こうも何も言わない。写真を焼いたことを少し後悔した。写真の裏にある情報が残っていれば、兄に直接聞かずとも、今頭の中で想像していることが当たっているかどうか一人で確認できたはずだからだ。迷った末、もう一度兄の部屋に行き、後ろ手に扉を閉めた。そして、さっきと寸分変わらぬ調子で神経質に爪にヤスリをかけている男の背中に声をかけた。
「……、なぁ、一体、何をやってんだ?」
俺に黙って、と言う言葉を飲み込んで、兄の後ろ姿を見ていた。
「爪切り。」
兄はやはり背を向けたまま言う。
「その汚れ、血じゃないか?」
「そうかもね。俺はよく喧嘩をするから。」
「喧嘩?違うな。……。殺しだろ。」
「……。どっちでもいいよね。お前がそう思うならそうなんだろ。」
「どうやって処理した。」
「……。国道降りてすぐの山に穴掘って埋めてる。」
「最悪だ。下手糞が……。すぐにばれるぞ。今週末は雨だから。具合を見てやるから、連れてけよ。」
ようやく兄は机から脚を降し、椅子を回転させて義孝の方を向き直り、無邪気な笑みを見せた。
「……。へぇ、珍し、お前がお兄ちゃんを誘うとはね。」
「誘ってない。お前が犯罪者として大々的に検挙されると、俺や両親に迷惑がかかるからだ、阿保。」
「あ、そう。じゃあそういうことにしておいてやるよ。」
兄の中古車で死体があるらしい山に辿り着くまで、どちらも口をきかなかった。
兄に導かれ、森の中に不自然に一本黄色いスコップが突き刺さっている場所に辿りつく。車道から100メートルも離れてない。中途半端に掘られた穴の中に、中途半端に処理された死体を4体見つけた。本当に殺していたらしい。しゃがみ込んでよく見てみる。腐敗が進んでいて、3体については見られたものでは無いが、一番最近持ってこられた死体は多少膨張をはじめて虫が這い臭いを発しているがまだ原形をとどめている。昨日の夜頃にここに捨てたのだろう。まだ虫に食われず残されたうつろな瞳がひとつだけがあらぬ方向を抜いて白く濁っていた。頭の中に焼き付けておいた8人、あの8人の内の1人だということが、すぐにわかった。他の3体も服装や骨格が似ており、頭の中で照合する。義孝は後ろに立っているはずの兄に声をかけた。
「だめだこれじゃ、俺が薬品を持ってきたからそれを使おう、とりいそぎ応急処置だ。車の後ろに道具積んであるから、持って来てくれ。」
反応が無い。というか、いつの間にか気配さえ無い。
振り返ると本当に兄がいないことに気が付いた。え?と思ってあたりを見渡すと自分の車の運転席に戻って文字通り片手団扇で顔を仰ぎながら、優雅に煙草をふかしているのだった。流石に視線に気が付いたか、義孝の方にゆっくりと頭を向け「近づきたくないんだ!!気持ち悪いから!!」と叫んで返すのだった。
「だったら最初からやるな!!」
売り言葉に買い言葉になるかと思ったが、兄は何も返してこず、視線を逸らすのだった。全く意味不明。そもそも、兄に人殺しの経験は無い、自分の知る限り今回が初めてのはずである。兄はやれやれといった調子で車を降り荷物を降し義孝の方へ運んだ。そして、「戻っていいか?」と引きつった笑みで聞いてくる。視線を義孝の背後にある物の方へ一切向けようとしない。虐めてやろうかと思ったが、そんなことをしていると、またいつかのように、時間が歪む。義孝は追い払うように手をひらひらさせ、自分の仕事にとりかかった。
義孝は処理の準備している内に、改めて死体の様相を見て、ほくそ笑んだ。一番新しい死体を見ると、どうやら死ぬ直前まで相当に手ひどく嬲られていたらしい。一番新しい死体の損傷の主原因は腐敗かと思っていたが、よく見れば、ただ単に外傷による損傷が酷すぎるのだ。あの特徴的な男性器が見当たらないと思っていたのだが、それは腐敗したのではなく、生きている内に抜かれたようだった、そして今死体の胃袋の中にあるとか、あり得ることだ。解剖して拝見してみたいが、場所が悪すぎるし不衛生だ。いや、しかしそもそもこの男達は、兄に雇われていた男のはずなのだ、つまり、兄の身内、それを、追って自ら殺めるとは。しかも兄は自分とは違って嗜癖として殺人を行うことはないはずだった。ではどういう利害があってこうなったのだろうか、追加で金を要求された?いや、それで殺すのは安直すぎるし兄らしくない。兄は粗暴だが馬鹿では無いのだ。俺を嵌めるくらいだから。
ここ最近の夜の様子は慣れない殺しをやったせいだったと考えれば納得がいく。俺の為?いや、だとしたらおかしい。だったら最初から8人も人を雇って俺を痛めつけるなんてことしなければいいはずなのだから。それが後からに気に喰わなくなったのか?あまりに感情的すぎはしないだろうか。そんなに理性が無い男だろうか。やはり、理解できない生物だ。
「残りの4人はどうする気?」
全ての処理を義孝が終えた頃には、すっかり夜になっていた。車中で兄にそう聞いても、何も答えず、ただ暑さに汗にまみれて、あー、と曖昧な声を出して喉をふるわせていた。吸いかけの煙草を渡された。その兄の左掌に、大きな傷が縫い跡を残して未だ生々しく十字に肉が盛り上がっている。窓を開け、受け取ったそれを、そのまま吸った。苦い。でも、味がする。
兄は、少しの沈黙の後「後の4人も俺が片付けるから、始末だけ、お前やれよ。」とかなんとか、喘ぐように、言うのだった。恥ずかしい男だ、しかし、その横顔が、嫌いじゃなかった。何故?どうして?なんでこんなことしてるんだ?と聞くのは野暮だ、そして、恥ずかしいことだと思ったから、「じゃ、終わったら言えよ。」とだけ言って吸い殻を車の外に投げ捨てた。赤い点が、闇の中を転がって、無になった。
川名義孝は、自分が今こうして差し出した札束を前に、兄の川名龍一郎がどういう反応をするのか観察していた。ここ二ヶ月は口をきいていない、もっと言えば顔もまともに合わせていなかった。龍一郎の行動パターンを測るのは安易である、と、義孝は考えていたが、長期間にわたって無意識に兄を綿密に観察していた事実があることを自覚していない。兄は、札束では無く義孝の方を見て、驚くでも無く笑うでも無く、黙っていた。そして突然「どう?最近生徒会活動は楽しい?」と呑気に世間話を始めようとした。
「は?関係ないだろ、今。」
「関係あるよ。俺はお前のこと、知りたいからな。お遊戯の様子もね。」
「じゃあ余計に言いたくないな。」
沈黙。先にしびれを切らした義孝の方が「出ていってくれよ。」と言ったのだった。
「これ、やるから、さっさとこの家から、出てってくれないか。家借りる前金くらいにはなるだろ。」
ここまで言ってようやく龍一郎の表情が崩れた。微笑んだのだった。彼が微笑むと悪意がなくても、少し擦れたような目つきの悪さから、初めてこの微笑を見た人間は威圧感を覚える。だが恐れずよく見れば愛嬌が全くないわけではない。地域のボス猫のようなものだ。体躯は同年代と比較しても発達しており、ただ立っているだけでも人避けになる。全体的に精悍な印象はあった。常に腹に一物抱えているような印象を受けるのだ。
「どうしたんだそれ。高校生がポンと出せる額じゃないと思うけどね。」
「質問を質問で返すなよ。俺がタダでやるって言ってんだからお前は黙って受け取ればいいんだよ。」
「どう思うのかな、義父さんが。」
「義父さん?そりゃ、お前がいなくなれば世界中の、みんなが悦ぶ。」
「違うよ、俺の話じゃない。」
龍一郎はここでようやく札束に手を伸ばした、のではなく、札束を持っている義隆の手首を掴んで義孝ごと自分の方へ引き寄せたのだった。咄嗟のことに義孝も反応に遅れ、距離が詰まった。
「……。」
「お前が、どうやってこれを手に入れたかわかったら、お前の義父さんはどう思うのかな、って、聞いてるんだ。」
金と一緒に、身体が兄の方へ引き寄せられかけられるのを感じて、ようやく手首を振り払い、反動で後ずさった。背後の兄の部屋のドアに背中をぶつけた。その拍子に持っていた万札の束が解け、宙に舞った。
「動揺してる。」
空中をひらめいている万札の隙間から兄の悪戯っぽくにやけた猫のような口元が見えた。
「してない。」
「わかってる。」
彼は意味深なことを言って腹の立つにやけ面を義孝の方へ向けた。
「何が?」
「お前が一体どこで何をしてたか。」
龍一郎は部屋の片隅に置かれた棚の中から、写真の束を取り出した。予め用意していたらしい。彼はそれを自分の手元でパラパラ捲り眺めていたが、ふいに、写真の面を義孝の方へ向け、紙芝居のように義隆の目の前でゆっくりとめくって見せていった。そこには義孝の後ろ姿、横顔、遠くから撮ったらしい姿が写っていた。盗撮写真である。兄を尾行している途中で、見失ったことが何度かあることを思い出した、そして、「現場」の写真。路上、公園、ホテル、義孝と第三者、第三者は写真によって代わる代わるした。
「現場」とは。ここ半年ほどの、未成年淫行を装った詐欺の現場である。犯人は、姿形は高校生の見た目をしている男である。未成年淫行、男同士、誰もが隠したい汚点である。
義孝は立場のある人間を選別し狙うことに長けた。実際に事に及ぶことはなく、それらしい写真を撮影して、個人情報を抜き取って、後はゆするだけだ。効率を考えて自分以外の誰かを雇ってやらせようかとも思ったが、協力者が増えるとその分非常事態が起きた時の対応のリスクが増加する。例えば、裏切、逆にゆすられる、絶対にそのようなことをさせる訳はないが、面倒である。それで、今まで通りに、こういうグレーな事はすべて独りで完結してやることにしていた。そして一人でやるもう一つの利点、止む終えない場合、処理、すればよかった。義孝は、これは業務上やむを得ないことだから、嗜虐行為とは違うことだから、と、自分でも矛盾しているとわかっている言い訳を自分に言い聞かせて、やっていた。それでも処理するのは最終手段であって絶対に目的にはしないとは決めていた。
しかし、流石にそろそろ世間的な騒ぎになってもおかしくは無い。もともと目標は50万円だったのだから潮時、丁度よい手の引き時だと思われた。龍一郎は写真を義孝に渡すと、散らばった札束をかき集め、義孝の胸に押し付けた。しかし、義孝の手はそれを受け取らないので、龍一郎が手を離したと同時に再び義孝の足元に金がちらばった。
「いらない。お前が出てって欲しいのなら、最初からそう言ってくれれば素直に出ていったのに。金なら他の方法で貰っていく。そんな金、いらないんだよ。今回のことで、俺が思ったことは、やっぱりお前は、頭がどうかしちまっているってことだ。お前には境界線が無いんだよ。」
「境界線?なんだそれ、頭がどうかしてるって?人のことが、言えるのかよ。」
「言えるよ。少なくとも今の俺は自分を人間だと認識しているが、お前を人間だと思ったことは、無い。たまに思ったよ、俺の思い違いかもねと、もしかして、俺の方がおかしいのかも、と、何回もね。でも、今回のお前の動きで余計はっきりした。お前はどうかしてるよ。人と獣の境い目がお前には無い。我が家のご両親方は変わった人だからな、俺達の境遇を分かった上でひきとったわけだ。で、俺はね、彼らの前で、わかりやすく、自分の駄目なところまで全部出したよ。殴られた、良かった、それで、嬉しかった、だから、もっと欲しいと思った、最初の方はそれでよかったんだが、でも、そろそろ向こうも、お手上げって感じになってきて、今は、正直、すごくがっかりしてるんだ。もうだめだな、ここもと思い始めたところだ。だって、本当の家族なら、そういうところまで含めてすべて、愛してくれるはずだろうから。どれだけやったって。そうじゃなかったら、家族の資格が無いもの。家族と言うのは、自分や相手が、どれだけのことをしようと、愛情を持ち続ける、そういうものだ。異常な部分を隠してたってしょうがない、どうせ、どこかで破綻するからな。でも、お前は違う。お前は隠してばれかけては、矯正されて、哀れだと思っていた。ずぅっと猫を被って、絵なんか描き始めた時には、あーあ、しょーもな、と思ったね。で、結局俺達に隠れてまたやった。」
「さっきからキメェこと言ってんなよ、お前の言ってることはいつでも何から何までキメェんだよ。言いたいことはそれだけかよ。俺より年上の癖していつまでもガキみてぇなこと言ってんじゃねぇぞ。」
兄は、義孝の口調が汚くなったと同時に、にやにやと笑い始め義孝の言葉に重ねて「そんな行儀悪い言葉、俺の前でしか使わないよな、お前……」と言い、黙った義孝と反対に、そのまま続けた。
「……。ああ、そうだよな。俺もそう思うよ。夢見がちだよな。ところで、きょうって、水曜日だっけ?」
兄はそう呟きながら、散らばった札束を再び拾い集め始めた。
「大丈夫。お前がそんなに望むなら、週明けには俺は消えるからね、安心しな。その100万はおいおい、お前に必要になるはずだから、お前が自分のポケットに大事に、突っ込んでおくといい、大事にね。」
兄はそう言って、呆然と佇む義孝の制服のポケットに金を突っ込んだ。身体が接着する程の近さのまま、離れない龍一郎がじっと義孝の方を上から、うかがっていた。義孝は手を背後に回し小指をドアノブに引っ掛けた、その手首を上から掴まれ反射的に龍一郎を仰ぎ見た。変わらずにやけた調子だが、興奮した様子も無く、抑揚のある低い声で、物語るように続けた。龍一郎と義孝の声質はよく似ていたが、身体が大きい分もあってか更に少しだけ低い。
「7/24、水曜日。」
「……」
「お前が出てくるまで、6時間と、32分。お前の手口にしては手間取りすぎたな。何か、ミスをしたんだな。そうだな、例えば、行った先に、思いもよらなかった人物がいた、とか。ね。どうだろう?」
「……」
「仕事帰りのサラリーマンひとり待っている予定が、そうじゃなかった、予定にないお前の知らない奴らが8人もまちかまえていて、入口を塞がれ、退路を断たれて、こう聞かれたんじゃないか?『今から、肉体的に殺されるか、精神的に殺されるか、どっちがいいか選べ。』ってな。俺がそう言えって言っておいたから、そう言ったはずだ。それで、お前は、後者を選ぶ。もちろん、当たり前だ、お前は自分が生き残る為なら、なんだってできる、強いのだから。お前は自分が生きる為なら、自分の身体の一部はもちろん人を犠牲にしようが何もかもどうだっていいんだ。大体後者を選んだところでお前にはダメージなんか、無いのだろ、どうせ。この化物。だって、平気な顔をして帰ってきて俺とあの人たちと夕飯囲みながらありもしない学校であったしょうもない作り話なんかしてたもんな。俺が口元の痣について聞いても実に鮮やかな嘘をついてたしな。一瞬やっぱり俺がこの目で見て来たことが全部幻だったんじゃないかと思う程、自然にね。俺がなんで珍しく家族での夕食に顔を出したのかお前は疑問にさえ思わず、いつも以上に器用に偽って、明るく、話し続けたね。俺は少し、期待して待ってたんだよ、お前が少しでも、本性を出すかと、それなのに」
「出ていけ……」
「ん?」
「週明けじゃなく、今すぐ出ていけ……、この、鬼。」
「どうした?急に人間らしい振舞を見せつけて。人間ごっこか?たのし?思うに、被害者の皆さんからすればお前の方が俺よりもよほど鬼だし社会悪だろ。しかもお前は俺の知る限り少なくとも既に3人は殺している。だから実際の被害者はもっと多い。お前は利を優先するためリスクがあるにもかかわらず家族がいる人間もターゲットにしていたな。できないんだよ、普通、そんなこと。義孝、お前、人の気持ちって考えたことある?無いんだろうな。たぶん。だから俺が止めたんだよ。下に居るお前の両親がお前の本質を見逃しちゃんと教育できていないから、わかってるお兄ちゃんが代わりにお前のための特別教材を用意して教育してやったという訳だ。わかった?しかも無料。」
龍一郎に掴まれたままの腕が、はがれない、それならば、と、突き飛ばしたがそれでも手離れずに二人もつれ合って部屋の中心に転がった。そこからは、取っ組み合い、殴り合いの久しぶりの兄弟喧嘩が始まった。部屋どころか、家が揺れんばかりに、龍一郎の整理された部屋の家具が、どれだけめちゃくちゃになっていっても、問題無い。今、家には二人以外誰もいないからどちらも気を使わないのだった。体格差で多少有利不利はあるが、義孝もこの数年間ただ兄の蛮行を黙って見ていたわけでは無く、運動神経も悪くない、身体も発達、それなりに鍛え、多少の荒事、絡まれようが自分の力だけでどうとでもなるようになっていた。というか、していた。素人4人くらいまでなら1人でもさばける。ただ、その力量さえも龍一郎にあらかじめ測られていて、あのホテルに8人も集められていたのだ、と思うと、久しぶりに、ドス黒い感情が噴き出てくるというものだ。
1ルーム、狭い空間では対格差は寧ろ小さいほうが動き回ることが出来、有利なこともある。喧嘩は思いの他長く続いた。1ルームという環境と互いの力量もあったが、龍一郎は、義孝の本来なら空ぶったであろう打撃を含めて全て、いちいち受けていたからというのもある。真っすぐ顔面を狙っても軽く顔をかわして急所をずらして、必ず全部当たってくる。そうかと思えば獣のような素早さで視界から消えたかと思うと、ゆっくり戻ってくる揶揄っているようなムーブをする。揶揄われている。妙だ。本気でやってたら、普通、そうはならない。よけようと思って当たる、というより、始めから当たりに来ている。なめられてる。そう思うと余計に珍しく義孝の中に義憤が起こり、普段以上の力を発揮して喧嘩はより苛烈になった。龍一郎が攻撃を進んで受けがちだからと言って、防戦一方という訳でもなく、龍一郎ももちろん手を出してくる。しかし、どこか力が抜けている。壁にはどちらが開けたかわからぬ穴がぼこぼこあいて、龍一郎が暇つぶしに作ったらしいプラモデルの数数がバラバラになり、その破片が靴下を履いている弟と対称的に裸足の兄の足の裏に刺さり、動くたびに床を血の筋を作って濡れるのも気にしない。比較的闘いに慣れているはずの龍一郎の挙動が義孝の目にやけに遅く見えるもの妙である。最初は興奮して気が付かなかったが、さっきから、ワザと隙を作っている。じゃあ、と、望み通りそこを打ってやる。と、まるでコーチに導かれるかのように打撃していても、気持ちいい程きれいにあたり、ちゃんと呻いてキマる。龍一郎はその間もずっと張り付いたようににゃぁにゃぁと気味悪く笑っており、打撃が決まった時だけ一瞬本物の苦痛の表情をするのだ。義孝も義孝で気分が最悪な感じの”ハイ”になりつつあり、頭を振った。
もういい、別に、殺そう、どうせ、正当防衛に持ち込める、今なら丁度身体も傷物だ。使える。寧ろ好材料である。ところで何か、不意を突いて、使える物は無いだろうか、と、視線を兄の部屋の家具の方に彷徨わせていると、死角から顔面にフックが飛んできたのを直受けしてしまい、身体ごと吹っ飛んだ。何が起きたか理解するより前に上から頭を思い切り蹴り上げられ、痛みと共に世界がぐわーんぐわーんと、歪み、倒れた。手を伸ばした先に、ボールペンがあった。これで、奴の目を刺せ、そのまま脳まで、貫通させて、殺すのだ、脳を揺らされて視界くらむだけでなく、自分の血が目に入って視界が悪いのだった、手さぐりで、指先にようやく硬いものが当たったと同時に、それは謀ったようにタイミングよく蹴り飛ばされ、回転しながら壁にあたってどこかへ行ってしまった。見ていたのだ、上から。人が必死になってるのを、傍観していたのだ。
「……のに、」
「なんだって?」
マウントをとられ、上から、跨られた。上から来る拳を、辛うじて手で受け、上に持ち上げる。双方の腕が震えて、上からぼたぼたと汗が降り注いできて、全てがウザい。
「殺してやろうと、思ったのに。」
上から体重をかけられ、腕が流石にもちこたえられなくなってくる。兄の顔がすぐ目の前に近づいて、耐え切れなくなった腕が落ちると同時に、頭の両サイドに兄の太い腕、肘がついたのだった。激しくなった息遣いが混ざり合って気分が悪くなった。熱い息と黒髪の先端が顔を擽った。
「殺してやろうと、思った、だって?どうぞどうぞ、やってみろよ。」
龍一郎は途端に生き生きとしはじめた。素人ならまだ何とかなる可能性があったが、相手は普段から暴行慣れして体格差のある兄である。あがく程に圧迫と殴打への容赦が無くなる。とどめに頭突きをされると、耳の奥がキーンとしてくる、「う……」「ほらほら、大丈夫ゥ?殺すんじゃないのォ?」左から思い切り衝撃、彷徨いかけていた意識が戻ってきて、目の前の男の顔に焦点を結ぶ。血が、目が、染みた。龍一郎の指がこちらの目の方へ延びてきて思わず顔を背けるのだが、彼は流れた血を指で拭って見せたのだった。龍一郎の額も出血しており、その血が一滴、義孝の頬を掠めた。その時一滴の水が、水面に波紋を作って揺らすように、義孝の身体の奥が、ささやかに、ざわめいた。
「お前が俺に殺意を抱いているのは知ってる。なぁんでしかけてこないのか、とても不思議だった。待っていたのに。それが、一番最悪、金で穏便に済まそうとして来るとは、最もお前らしくない。結局、この家に迷惑をかけることを避けようとしたんだよな、つまりお前のお義父さんお義母さんがネックだったというわけだ。そうなんだろ。」
「……。」
「さっき、お前のタガが外れかけたのを見て、安心した。やっぱりお前はそういう奴なのだ。そういうことなら俺にも、考えがある。」
「よせ……。」
「何だ、俺はまだなんにも言ってないじゃないか。」
「言わなくてもわかる。大体お前は、あの人たちに対して感謝も何も、無いのか、感情が、無いのかよ。」
「何言ってるんだ、あるよ、あるに決まってるじゃないか、おそらく、”人間ごっこ遊び”しているお前よりも、ずっとね。でも、それ以上にお前のことを心配してるんだよ、俺は、兄として」
「うるさい、兄として?何だよそれ。お前に何がわかるって言うんだよ。」
「脈拍が多少上がってきたな。熱いだろう。」
兄の手が、さっきまでの粗暴さとは対照的に丁寧な手つきで制服のボタンに手をかけていくのだった。
「……。へぇ、結局、未だ、こんなことが愉しいのかよ?」
嘲笑的にそう問いかけると、兄の手が緩んだ。義孝は、今だ、と、右ポケットに忍ばせていたカッターナイフを取り出した。刃を出しながら、躊躇うことも無く、真っすぐ龍一郎の首を狙ったのだった。しかし兄は、こちらの瞳を見たまま、素早く左手を出し、その、”刃の部分”を掌で掴み、そして、握った。
握っては再度強く、握りなおす。ブチっブチっブチブチブチっ……といやな音がして、握られた拳の間から大量の血が流れ、ぼたぼたぼた……っと義孝の目を見開いた顔の上に、大量の血液が滴って真っ赤になった。
「ぁ……」
疲れて、喘ぎ喘ぎしていた義孝の口の中にまで極彩の龍一郎の血が、龍一郎の血液が、流れ込んでくる、鉄の味、粘液が、溺れるほど、咳き込みそうな程流れ込んでくる。眩しい。刃は未だ龍一郎の肉に強く食い込んだままだ。
(どうして、敢えて、刃の部分を握るんだ。何故だ……、柄でも手でも腕でも、とれたはず、刃を握る、意味が無い、ところで、どうしたんだろう、身体が、沈んでいきそうと、同時に、浮いていきそうな……。)
龍一郎は空いている方の右手で、カッターの柄を握る義孝の手首をとって、彼自身の血に濡れた手をゆっくりと刃から離し、義孝の手からカッターを黙って奪い取った。兄の開いた右手が、義孝の方に伸びて来て、撫でた。顔から首筋までを一面真っ赤になった、血の匂いだけで、横溢しそうなほどであった。
「これでお前も愉しいだろ?」
今度は、兄がそう問いかけてきた。答えられない。血を噴き流し続ける兄の腕。止血もせずに彼は再び義孝の身体に触れた。明らかに、さっきまでと皮膚の温度と感度が変わってきてしまっているのに、義孝は自覚的になった。思わず顔面を覆って震えながら唸っていた。覆った手に血が、血が、血を見ると、思い出す。他人の苦痛を、最後の時の、表情を。そして、さっきまでの龍一郎の、苦痛を。
「駄目だ……」
「弱気になるのか?お前らしくないよ。」
龍一郎は自分の手を開いて、ひらひらとさせ血の飛沫を飛ばしながら、顔を近づけ自分の掌を見た。「うーん、10針はいったな、これじゃ。まあ別にいい。これくらいのことは。全く全然大した問題じゃないな。」といいながら、何をするかと思えばもう一度カッターで深く自分の手を抉って、拳を強く握ったのだった。再び激しく、まるでジュースのように絞り出された血が、義孝のいつからか半開きになっていた口の中に滴り落ちていくのだった。口は無意識に、熱を帯びた息に濡れながら、獣のように、裂けるように開いていった。口角がひきつって、舌が出る。全身のぬめりが、汗によるものなのか、血によるものなのか、精によるものなのか、境い目は最早あってないようなものだった。互いに混ざり合っていく内、夕日の鮮烈な赤が一瞬、部屋全体を照らした。世界が赤に、煌めいていた。すぐに日は堕ちて、夜はそのまま、更けていく。
「返事はどうした?愉しいのだろ。素直に言ってみな。愉しいと。」
気が付くと暗くなった部屋の、暗闇の中から兄の声だけが浮かび上がるように聞こえた。彼の目の奥の淀んだ煌めきと血の滴り、のしかかられたままの下半身、声のする位置に向かって手を振りかぶって打った。いい音がして闇の中で双眸が見開かれた後震えながら細くなったのが見えた。猫の瞳が暗闇でも光るようにどうしてか兄の瞳の輝きだけが闇の中に浮かんで見える。血の飛沫が義孝の顔にまた降りそそいでくる。もう一度反対側を同じように打つと上に乗っていた兄のバランスが崩れかけ、彼と上下を逆転させた。今度は兄が下になった。その、喉を突いた。人間から出てはいけない音がなった。ごくごくと潤いを求めいやらしい音を立てる喉仏の上下に動くのを指の腹で撫で愛でいつでも潰せるのだと感じている内、双方の下半身の熱量が同じほどになって、境目がなくなり蕩けそうだ。締めた。殺したっていい、さっきまでそういう気持ちだったんだから、やればいい、のに、でも、手は途中で緩む、何度もやりたいから、何度もやりたい、何度も殺したい、闇の中で熱の方へ耳を近づけ、兄の苦しさを感じている。頭の奥でじんじん感じている内、また、上下が逆転する。濡れる、血と精に、濡れる。逆転する、逆転する、逆転する……。
朝、兄の部屋のベッドの中で目を覚ました時、もう、兄は居なかった。
視界の端に大量の血に濡れたシーツがくしゃくしゃになっているのが見えた途端、頭の隅で水に落とされた墨が拡がっていくように一切の記憶が蘇り、自分がこの口で「出てけ」と彼に言ったことを思い出した時には弾かれたようにベッドを飛び出、階段を駆け下りたすぐ下、開けっぱなしのリビングで呆然とした顔でこちらを見据える両親、その向かいに兄の背中が見え、ほっとした途端、最悪な気分になった。
「てめぇ……、出てけって、言ったじゃねぇかよ……、なんで、ここに、いるんだよ……」
兄は何か口にほお張りながら振り向いて何か言おうとしたが、口の中の物を飲み込めないでまた前を向いた。一瞬見えたその顔にある痣とひっかき傷を見て昨日のことが現実であったと理解した。その向こう側で、両親があきれたような顔をしていた。なんだ?この平和ボケしたリビングは。兄はコップに入っていた何かを一気飲みすると立ち上がって、リビングの入口に立ちすくんだ義孝を無理やり押し出すようにして洗面所に連れて行って鏡を見せた。
「まず顔を洗うところからだ。それから今日一日は顔が腫れてるだろうから学校は休んだらいいよ。俺は今から病院に行く。お前のは見かけほど大したことは無い。冷やしておけば大丈夫、すぐ腫れは引く。病院に行くほどでもない。」
酷い顔である。酷いがゆえに、様々なことが、誤魔化されているとも言える。
「あの人たちには俺からしょうもない理由で喧嘩したことを説明して謝っておいた。」
「……、病院に行って、………、それ、で?」
「別に俺の勝手だな。出てけって言ったの、誰だっけ。」
「………、………。」
兄はにやにやと薄ら笑いをしながら義孝の背後から姿を消した。しばらく呆然としていたが、蛇口をひねった。ようやく段々と身体が痛み始める。昨日のなごり。リビングに戻ると、一人分の朝食が用意されており、兄はとっくに家を出たという。兄がどのように説明したかわからないが義母から軽い注意を受けながら朝食を口の中に流し込んでいた。味がしなかったし、まったく頭が冴えてこず、にわか返事をしていたら、さらに怒られた。どうでもいい。部屋に戻ると、テーブルに上に写真が一枚置いてあった。唯一失敗した、あのホテルの写真である。蒸し返す気か、と写真を破り捨てようと捻った時、裏面に兄の筆跡でマジックで何か書かれていることに気がついた。
8人の男の名前、電話番号、住所である。あの時の男達の個人情報に違いなかった。
「あの野郎………。」
もとより自分の手で調べつくして、報復するつもりだったのを、さっそく出鼻をくじかれた気分だ。
ここで、この男達におめおめと手を出したら、それこそ兄の手の中で踊らされていることになるじゃないか。
別に利用して悪いというわけではない。しかし……。
これも、教育とでもいうつもりなのだろうか。ああ、阿保らしい。
義孝は写真を手に、外に出て、庭で焼いた。それですべて忘れることにした。
全てなかったことにする。
あのホテルも無かったし、あのことも無かった、最初から無かった。
燃えて縮んみ歪んでいく写真、全て灰になって飛んでいく。
兄は夜遅く、帰ってきた。帰ってきて廊下を歩いて自分の部屋に入っていく音を聞いた。そんな日々が、一週間は続いた。連日、隣室からうめき声が聞こえた。うるせぇな、と、壁を殴ると止むのだが、また少し間を開けて唸る。夜中に兄の部屋を訪れるのは気が引けたが、どうしてか今は、身体が彼の部屋に向かう。
ドアノブに手をかけると鍵はかかっておらず、ほんの少しドアを開き中を覗いた。兄はベッドの上に寝ていた。しばらく観察していると、眼を閉じたまま歯ぎしりし、時折獣のような呻き声を上げていた。うめき声は睡眠中の無意識の声だったらしい。義孝は兄が寝ていることを確認すると、兄の部屋に身を滑りこませすぐ近くまでいって上から覗き込んだ、全身が寝汗で濡れて、苦しんでいた。普段の人を馬鹿にしたような顔からは想像できなような見たことのない苦しげに紅潮した表情で喘ぎ喘ぎ身体を寝返りうっては、夜な夜な、一人で、鳴いていたのだった。
なんて面白いんだろう。どうして今までこんなに面白いことに気がつかなかったのだろうか。しかし考えてみれば、こんなことは初めてなのである。もともと所作行動全てが五月蠅い男だが、記憶中でのこの男は、寝ることに関しては死んだようによく寝入るはずで、寝つきの良くない義孝は羨ましいと思ったことが何度もある。しかし、今のこの兄の姿を見ていると、反対に、よく寝れそうな気がしてくるのだった。気が付くと、身体を兄のすぐ側に、身を横たえていた。そして、自分はそのまますとんと堕ちるように気持ちよく眠りについていたのだった。こんなにすぐに、そして、よく寝られたのは初めてかもしれなかった。
次目覚めた時、やはり兄はベッドにはいなかったが、椅子に座り、脚を机にのせて大層行儀の悪い様子で指の爪を切り、やすりで丁寧に削っていた。一欠片飛んできた詰めの破片が、義孝の目についた。ドス黒い。これは何かが爪と肉の間にはさまってできた汚れ。義孝も同じように爪を切る。特に何かしてきた後ほど、入念にした。
義孝は何も言わずベッドを這い出て、自分の部屋に戻った。向こうも何も言わない。写真を焼いたことを少し後悔した。写真の裏にある情報が残っていれば、兄に直接聞かずとも、今頭の中で想像していることが当たっているかどうか一人で確認できたはずだからだ。迷った末、もう一度兄の部屋に行き、後ろ手に扉を閉めた。そして、さっきと寸分変わらぬ調子で神経質に爪にヤスリをかけている男の背中に声をかけた。
「……、なぁ、一体、何をやってんだ?」
俺に黙って、と言う言葉を飲み込んで、兄の後ろ姿を見ていた。
「爪切り。」
兄はやはり背を向けたまま言う。
「その汚れ、血じゃないか?」
「そうかもね。俺はよく喧嘩をするから。」
「喧嘩?違うな。……。殺しだろ。」
「……。どっちでもいいよね。お前がそう思うならそうなんだろ。」
「どうやって処理した。」
「……。国道降りてすぐの山に穴掘って埋めてる。」
「最悪だ。下手糞が……。すぐにばれるぞ。今週末は雨だから。具合を見てやるから、連れてけよ。」
ようやく兄は机から脚を降し、椅子を回転させて義孝の方を向き直り、無邪気な笑みを見せた。
「……。へぇ、珍し、お前がお兄ちゃんを誘うとはね。」
「誘ってない。お前が犯罪者として大々的に検挙されると、俺や両親に迷惑がかかるからだ、阿保。」
「あ、そう。じゃあそういうことにしておいてやるよ。」
兄の中古車で死体があるらしい山に辿り着くまで、どちらも口をきかなかった。
兄に導かれ、森の中に不自然に一本黄色いスコップが突き刺さっている場所に辿りつく。車道から100メートルも離れてない。中途半端に掘られた穴の中に、中途半端に処理された死体を4体見つけた。本当に殺していたらしい。しゃがみ込んでよく見てみる。腐敗が進んでいて、3体については見られたものでは無いが、一番最近持ってこられた死体は多少膨張をはじめて虫が這い臭いを発しているがまだ原形をとどめている。昨日の夜頃にここに捨てたのだろう。まだ虫に食われず残されたうつろな瞳がひとつだけがあらぬ方向を抜いて白く濁っていた。頭の中に焼き付けておいた8人、あの8人の内の1人だということが、すぐにわかった。他の3体も服装や骨格が似ており、頭の中で照合する。義孝は後ろに立っているはずの兄に声をかけた。
「だめだこれじゃ、俺が薬品を持ってきたからそれを使おう、とりいそぎ応急処置だ。車の後ろに道具積んであるから、持って来てくれ。」
反応が無い。というか、いつの間にか気配さえ無い。
振り返ると本当に兄がいないことに気が付いた。え?と思ってあたりを見渡すと自分の車の運転席に戻って文字通り片手団扇で顔を仰ぎながら、優雅に煙草をふかしているのだった。流石に視線に気が付いたか、義孝の方にゆっくりと頭を向け「近づきたくないんだ!!気持ち悪いから!!」と叫んで返すのだった。
「だったら最初からやるな!!」
売り言葉に買い言葉になるかと思ったが、兄は何も返してこず、視線を逸らすのだった。全く意味不明。そもそも、兄に人殺しの経験は無い、自分の知る限り今回が初めてのはずである。兄はやれやれといった調子で車を降り荷物を降し義孝の方へ運んだ。そして、「戻っていいか?」と引きつった笑みで聞いてくる。視線を義孝の背後にある物の方へ一切向けようとしない。虐めてやろうかと思ったが、そんなことをしていると、またいつかのように、時間が歪む。義孝は追い払うように手をひらひらさせ、自分の仕事にとりかかった。
義孝は処理の準備している内に、改めて死体の様相を見て、ほくそ笑んだ。一番新しい死体を見ると、どうやら死ぬ直前まで相当に手ひどく嬲られていたらしい。一番新しい死体の損傷の主原因は腐敗かと思っていたが、よく見れば、ただ単に外傷による損傷が酷すぎるのだ。あの特徴的な男性器が見当たらないと思っていたのだが、それは腐敗したのではなく、生きている内に抜かれたようだった、そして今死体の胃袋の中にあるとか、あり得ることだ。解剖して拝見してみたいが、場所が悪すぎるし不衛生だ。いや、しかしそもそもこの男達は、兄に雇われていた男のはずなのだ、つまり、兄の身内、それを、追って自ら殺めるとは。しかも兄は自分とは違って嗜癖として殺人を行うことはないはずだった。ではどういう利害があってこうなったのだろうか、追加で金を要求された?いや、それで殺すのは安直すぎるし兄らしくない。兄は粗暴だが馬鹿では無いのだ。俺を嵌めるくらいだから。
ここ最近の夜の様子は慣れない殺しをやったせいだったと考えれば納得がいく。俺の為?いや、だとしたらおかしい。だったら最初から8人も人を雇って俺を痛めつけるなんてことしなければいいはずなのだから。それが後からに気に喰わなくなったのか?あまりに感情的すぎはしないだろうか。そんなに理性が無い男だろうか。やはり、理解できない生物だ。
「残りの4人はどうする気?」
全ての処理を義孝が終えた頃には、すっかり夜になっていた。車中で兄にそう聞いても、何も答えず、ただ暑さに汗にまみれて、あー、と曖昧な声を出して喉をふるわせていた。吸いかけの煙草を渡された。その兄の左掌に、大きな傷が縫い跡を残して未だ生々しく十字に肉が盛り上がっている。窓を開け、受け取ったそれを、そのまま吸った。苦い。でも、味がする。
兄は、少しの沈黙の後「後の4人も俺が片付けるから、始末だけ、お前やれよ。」とかなんとか、喘ぐように、言うのだった。恥ずかしい男だ、しかし、その横顔が、嫌いじゃなかった。何故?どうして?なんでこんなことしてるんだ?と聞くのは野暮だ、そして、恥ずかしいことだと思ったから、「じゃ、終わったら言えよ。」とだけ言って吸い殻を車の外に投げ捨てた。赤い点が、闇の中を転がって、無になった。
84
お気に入りに追加
1,355
あなたにおすすめの小説
【R18】奴隷に堕ちた騎士
蒼い月
BL
気持ちはR25くらい。妖精族の騎士の美青年が①野盗に捕らえられて調教され②闇オークションにかけられて輪姦され③落札したご主人様に毎日めちゃくちゃに犯され④奴隷品評会で他の奴隷たちの特殊プレイを尻目に乱交し⑤縁あって一緒に自由の身になった両性具有の奴隷少年とよしよし百合セックスをしながらそっと暮らす話。9割は愛のないスケベですが、1割は救済用ラブ。サブヒロインは主人公とくっ付くまで大分可哀想な感じなので、地雷の気配を感じた方は読み飛ばしてください。
※主人公は9割突っ込まれてアンアン言わされる側ですが、終盤1割は突っ込む側なので、攻守逆転が苦手な方はご注意ください。
誤字報告は近況ボードにお願いします。無理やり何となくハピエンですが、不幸な方が抜けたり萌えたりする方は3章くらいまでをおススメします。
※無事に完結しました!
陵辱クラブ♣️
るーな
BL
R-18要素を多分に含みます。
陵辱短編ものでエロ要素満載です。
救いなんて一切ありません。
苦手な方はご注意下さい。
非合法な【陵辱クラブ♣️】にて、
月一で開かれるショー。
そこには、欲望を滾せた男たちの秘密のショーが繰り広げられる。
今宵も、哀れな生け贄が捧げられた。
犬用オ●ホ工場~兄アナル凌辱雌穴化計画~
雷音
BL
全12話 本編完結済み
雄っパイ●リ/モブ姦/獣姦/フィスト●ァック/スパンキング/ギ●チン/玩具責め/イ●マ/飲●ー/スカ/搾乳/雄母乳/複数/乳合わせ/リバ/NTR/♡喘ぎ/汚喘ぎ
一文無しとなったオジ兄(陸郎)が金銭目的で実家の工場に忍び込むと、レーン上で後転開脚状態の男が泣き喚きながら●姦されている姿を目撃する。工場の残酷な裏業務を知った陸郎に忍び寄る魔の手。義父や弟から容赦なく責められるR18。甚振られ続ける陸郎は、やがて快楽に溺れていき――。
※闇堕ち、♂♂寄りとなります※
単話ごとのプレイ内容を12本全てに記載致しました。
(登場人物は全員成人済みです)
膀胱を虐められる男の子の話
煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ
男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話
膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)
新しいパパは超美人??~母と息子の雌堕ち記録~
焼き芋さん
BL
ママが連れてきたパパは超美人でした。
美しい声、引き締まったボディ、スラリと伸びた美しいおみ足。
スタイルも良くママよりも綺麗…でもそんなパパには太くて立派なおちんちんが付いていました。
これは…そんなパパに快楽地獄に堕とされた母と息子の物語…
※DLsite様でCG集販売の予定あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる