堕ちる犬

四ノ瀬 了

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俺がいなくなったら、寂しいの?

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 美里が事務所に戻る頃には、そこは何事も無かったかのような、平素の状態で、人もほとんど残っていなかった。川名の部屋の中には、川名と二条と間宮だけが残って、何故か霧野の姿が無かったのだった。美里が入ってきたと同時に三つの視線が、美里の方を向いた。しかし、どこに行ってたのかとも何も、聞かれなかった。二条が「腹、減ってるだろ」とだけ言ってにやける。実に嫌な感じがした。腹は全く減っていない。それでも「はぁ」とだけ言った。

 間宮が運転する車は、狂ったような荒い運転で車線の上を跨いだり戻ったりして、とても運転を任せられるような状態ではないというのに、誰も何も言わなかった。組の贔屓の高級レストランに着いた。本来なら営業時間外のはずで、入口も明かりが付けられていないが、ほんのりと、窓の内側から明かりが漏れていた。車が急停車すると同時に外の明かりがついた。

 ここに霧野が?まさか調理された?と鈍い頭で最高にくだらないシナリオを描いてみた。まぁ、いくら何でもそこまでしないだろう、とりあえず、まだ。もしも霧野の肉体が何体もあれば別かもしれないが、オリジナルは一体しかないのだから、まだ。もし霧野がそういうことになるとなったらもちろん止めようとはすると思うが、もう絶対に阻止ができないなら、最後までつきあう。考えている内一瞬だけ下腹部の部分がぼんやりとした熱さを覚えたが、すぐに冷めた。

 そういえば、二条がサディズム極まって人を喰ったことがあるというようなくだらない噂話もある。それは彼が普段から鬼畜であるが故、尾ひれのついた噂でしかない。そんな真実も証拠も無い。四人連れ立って、灯の方へ進んだ。両開きのドアが音もたてず開いた。中は濡れた紅色に塗られた玄関が広がっている。化物の口のような入り口だった。通された先の廊下も華やかな飾りの施された回廊がどこまでも伸びている。自分達の他に客は誰もいない。

 無音。誰も口を開かないのが不気味だった。でも、言いたいことも別に思いつかない。霧野は?と聞いたところで教えてもらえるはずも無く、逆に詰められるだけである。こうやって霧野のことを考えてしまうのが嫌だった。忘れたい。最初から全部なかったことにならないだろうか。かなり以前は、つまり社会的にドロップアウトしてから川名の元に来て日の浅い頃くらいまではよく思ったのだった。全部なかったことにならないかと、つまり存在そのもの、生まれてくることさえなかったことにならないのかと。ただそ今思うのはそういうものとは、また違う。霧野が最初から居なかったことにならないかということを、思うだけだった。

 奥へ奥へと進み、四人ぽっちしかいなくても一番いい部屋を使う。広すぎる個室の中には、香草と脂と肉の濃い香りが充満しており、俗人ならそれだけで涎が出るのだろうが、美里には既にきつすぎる匂いであった。脂がてらてらと光る満漢全席さながらの料理がテーブル板が見えない程に所せましに並んでいた。霧野は結局ここにもいなかった。しかし異常な料理の量だ、宴会を彷彿とさせるほど。これから他に人が来るとでもいうのか?こんな遅くに?振り返ると同時に二条の胸板に顔面を埋めるようにして顔をぶつけてしまった。かっと身体が熱くなる。そのまま、抱き留められる、わけもなく、乱暴に首根を掴まれ叩きつけられるようにテーブルの方へと連れていかれ、勢いよく席につかされた。つんのめって目の前の料理の山に顔を埋めそうになる。そして、その時になってようやく、察した。鈍すぎるくらいだった。皆で愉しく食事しようっていうのではない。

 「遠慮せずに食えよ。」と二条が呼びかけた。二条と川名は手をつけようとしない。横で、おそらく何もわかってないらしい、この空間にただ一人存在する阿保が悦んで食べ始めたのが救いといえば救いだが。「どうした?まさか食えないのか?」と、二条の声の圧が一段階強まった。「いえ、ありがたく、いただきます。」と、咀嚼もそぞろに流し込んでいくのだが、量があまりに大量すぎる、全く進まない。その内酒がなみなみ注がれて置かれ始めた。空になったと同時に注がれる大量の酒。固形物を酒で流していると流石に吐き気がしてくる。全身から脂汗が滲み始めた。頭が痛い。二条を伺い見る。「トイレか?まだ駄目だ。」とニコニコと言う。引きつったような笑みが、自分の穢れた口元に立ち上るのがわかった。「ま、だ、駄目。」もう一度念を押すようにゆっくり言われる。胃液と共に、せりあがってくる唾液、鼻水、涙、相当情けない顔してるに違いことが、二条が愉しそうなのを見るだけでわかった。腹が痛い。横を伺い見れば、間宮はまだ全然平気という感じなのだが、かなり発汗していた。また奥から新たな料理が運ばれてきた。見るだけで吐き気と眩暈がしてくる。しかし手を止めてはいけない。

 つまりこれはそういう「詰め」なのである。簡易にできる拷問。我々ヤクザの可愛い常套手段の内の一つである。限界を越えて喰わせる。ただ、それだけの詰め、だが、単純が故効果的。以前同席した時は、させる側で、メニューの一番上から始めるのを、ただ傍観していた。最後の1つまでできたら、チャラにしてやる、できなかったら倍額払って貰う、そんな具合に。そうして、一つずつ追加していき、債務者も債務者で死ぬ気でやっていたが半分いかずに病院送りになった。こちらもハナからそういうつもりである。余程きいたかその後想定より早く金を持ってきた。おそらく別の所から無理に借りてきたのだろうが、正しい。早くウチからは縁を切った方が、いいから。

 食べるだけとはいえ、侮ってはいけない。下手すれば臓器が破裂して死ぬ。喋っている余裕はない。少しでも咀嚼すればせりあがってくる、ゲロ。まさか自分でやることになるとは。ああ、またか、こういうの。ここまでくると流石に過去の自分に教えてやりたい、絶対信じないだろうが。過去の自分に霧野が本当は警官だってことを言ってもおそらく信じないのと、同じように。終わりが来ない、まだまだ続く。

 ここで口から戻すともっと酷いことになる。胃が、身体の中の管全部が、痙攣している。気持ち悪すぎて、器官に食物がパンパンになり呼吸が浅くなりはじめている。もう一生分の料理を食べた気分、結局、先に状況もよくわかってない上、自制が全然効かない間宮の方が椅子の上で半身を折り曲げ、蹲ってテーブルのすぐ下あたりでげぇげぇやり始めるまでに開始から一時間強だった。すぐに掃除の人間が入って臭いさえ奇麗に消された。二条が「そいつはしょうがないが、お前はわかってるよな。」と、やはりにこにことしているが目の奥が笑ってない。

 喜びが無い。また何か運ばれて、来る。次から次へ。霧野のことを考える余裕さえももう何もない。というか、そんなこと口にした時点でその開いた口の中に何か突っ込まれるだけだ。機械の様に、掬っては口に入れ、掬っては口に入れ、酒で流す。繰り返す。味?そんなもの無い。というか感じてしまったら、戻してしまうから、感じないように、食べるのでなく、飲みくだすのだ。塊を無理に中に入れ続けるだけだ。意識が、朦朧としてくる……。気が付くとゲロの中に突っ伏している、吐しゃ物でどろどろに濡れた顔、頭を掴まれて起こされ、椅子の下へ転がされそのまま真っ赤な絨毯の上で暴行を受け、ふたたび引き上げられ、座らされ、料理を出される。繰り返す。吐しゃ物が喉に詰まって呼吸困難を起こしかけると、二条にうまい具合に抱えられ背を叩かれ、詰まったものが、奇麗に出る、感動するほどの、適切で丁寧な、救命措置、現世に復帰させられる。二条は人命救護の術も上手いのだろう。そうすれば、死の淵ギリギリまで追い込んでも、救うことができるのだ、何度も。普段からそうやって遊ぶから慣れているのだろう。悪趣味だな、わからないでもない、ある意味、一人の人間として、見習うべきと思うのだが。また、意識がとびとびになる。間宮はもう許されているのか、いつの間にか全く姿が見えない。

 スプーンを手から滑り落とした。テーブルの下に屈むと、暗闇の中に獣が蠢いているのが見えた。いつの間にか居なくなったと思っていた間宮が二条の足もとに座りこんでいた。そして、二条の太ももの間に頭を埋めていた。全て察する。間宮はもう随分前から居なかったはずだし、二条は度々平然と川名と話したりこちらに声をかけたりしてきていたはずなのだが、その間中も、ずっとああなってた、ああされてた、ってこと????

 美里が何も見なかったことにしようと朦朧と頭を上げた時、一緒に間宮の頭が、向かい側、つまり二条のすぐ横に現れたのだった。二条はテーブルの上に居並ぶ料理の一部を手が付けられていようがいまいが構わず雑に腕で払いどかし、周囲にてんこもりの贖罪のある中で、間宮をテーブルの上に押し倒し犯し始めたのだった。最初、美里は自分が追い込まれたせいで気が違って、幻覚でも見ているのかと思ったが、陰茎が抜き差しされる度にガコガコとテーブルというか部屋全体が揺れるような勢いなので、現実だと理解する。遠くなった耳の節々に耳障りなクソデカ悦び交じりの喘ぎ声と微かな笑い声が聞こえてきて、最悪な気分。家でやれよ。料理がテーブルクロスごと勢いよく引っ張られて移動し、場所が悪かった料理は皿ごと落下して割れ、床に零れ落ち、そこにまた掃除人が静かに飛んでくる。暴力的で粘着質な音が響き渡る中、川名の方を見ると涼しい顔をして何か飲んでいて、全く意に介していない。

 もう、二人のことを視界に入れないようにしながら自分の仕事を刑罰を遂行していくのだが、ガコガコとテーブルが揺れ、飛沫が料理の上に飛び、間宮から出た汁が料理の上に盛大にこぼれその量の多さといったら、北海道でよく見られる、もったいぶらずにとにかく下品に漏れる分だけ盛れる、あの零れ落ちそうな程のいくら丼のようだ。

 どろどした生絞り精液が、ビュー!!!と勢いよく牝牛の乳しぼりの様に発射、生臭い香りが充満する。不愉快。テーブルクロスの深紅の上に垂れた白染みが、目立つ。まるで最初から白ソースがかかっていたような大皿料理ができあがった。そして、その料理が二条の自然な手つきで美里の目の前に回されてくるのだった。精液製造工場からほかほか直輸入、ってか?もう全部最悪である。喰えるわけねぇだろ、こんなゴミ、とは、言えない。喰うしかないのだ。味が無い塊から生臭い匂いだけを感じ取ってしまい、間宮の精子の味だとはっきりわかって気持ち悪く、車やホテルでの出来事が頭をフラッシュバックして全身鳥肌だった。でも、二条に気に入られるには、許されるには、これはゆっくりおこなった方が良い。ちゃんとあじわってくったかよ?ともう一度やらされるまでわかる。というか自分だったらそうやって責めるからわかるだけなのだが。また間宮がテーブルの上で乱痴気痴呆喘ぎ喘ぎして噴きやがり地獄である。川名は相変わらず顔色変えずに情交の様子を眺めていたがのだが、つい美里と目があった。ダイジョブ?と川名の唇が動いた。大丈夫なわけねぇだろ。と口に出さない代わりにだらだらと汗が出て、川名がうっすら微笑んだのが見えた。そしてまた視線を獣同士の野蛮セックスの方に戻して、そっちの方が面白いから、という様相。ふざけんなよ。


 饗宴は続く続く。
 そして、また、ブラックアウトしていく滲んだ視界……。濃い精子の味で爛れる食道。
 何皿も、何皿も。酸欠。

 何故か、ふいに良かったと思った、全然よくないはずなのだが、戻ってきて良かった、戻らなかったら……。駄目だ、気持ち悪い。ごめん……。謝ってる?俺が?誰に?……。

 ………。

 気が付くと身体に人肌の温度のお湯が滴って、辺り一面檜の香りに、溢れているのだった。
 夢?死んだか?
 黒く磨かれた石の感触、指が動いた。生きている。ここには前にも来たことがある。川名の家のやたらと広い風呂だ。全裸で倒れている美里の上に、川名が上からシャワーをかけている。川名は浴衣を着たままであった。濡れるのを気にしてないのか、そのまま美里のすぐ横に立って身体を流しているのだった。美里はなんとか身を起こし、やはり広大な風呂の淵に手をかけながら起き上がった。顔にもろにお湯が当たって思わず顔をしかめ咳き込んだ。

「そんなに霧野と一緒が良いのか。」
 川名の声が浴室に響いていた。
「え……。」

 美里は探るように視線を上げていった。川名の表情からは何も読み取れなかった。それはお互い様なのかもしれない。美里は、シャワーから逃げるように、湯船の中に身を滑らせた。シャワーがとまった。川名は、疲れた、と言いながら、美里が湯船に頭まで沈めんでいくのを見ていた。泡があがってきて、顔を出す。美里はそれを何度か繰り返して、湯船の淵に腕をかけた。真正面の透明な湯の中に自分の白い肢体が伸び、揺れている。

「……寂しい?」
 美里は真正面を向いたまま川名問いかけた。
「……、何だって?」

 美里はもう一度湯船の底の方へ身体全体を滑らせて、川名の視界から消えた。息を限界まで吐いて、もう一度あがり、今度は湯を滴らせた頭を俯せまま「俺がいなくなったら、寂しいの?」と問うた。いつまで待っても返事が無いので、顔を上げるともうそこには、誰の姿も無いのだった。

 風呂から上がると使用人が、着替えを手渡し、美里を客間に案内した。そこに一人分の寝床が用意されていた。身を整え、明かりを消し一人で横になっていた。静かだった。誰の気配も無い。まだ軽く胃がムカつくこともあるが、殆ど本調子で、何時間前のことかもわからないが、先刻の地獄が遠い昔のことのように思えた。全部、もう、すべて夢ということにならないだろうか。結局彼は、何も言わないで風呂を出ていったきり、また姿を見せなくなった。気紛れだった。人のことを言えないが。何を考えているのか、わからない。うつらうつらしている内に、夢を見た。

 第三者の視点で、自分と霧野が何か言い争っているのを、俯瞰で見ていた。言い争いは別段珍しいことでは無かった。そして口で勝てたことは一度も無かった。だからと言って手を出して、単純な肉弾戦で勝てるとも、思ってない。こちらがむきになればなるほどに、霧野の目元にうっすら赤みがさし始めるのだった。彼がこちらの言葉に怒りを感じている証左だと思っていたが、どうにも違うのだった。それは怒りなどでは無く寧ろ愉悦や嗜虐からくる悦びの血の赤なのだとこうして当事者から離れて冷静に見ればわかる。霧野は薄ら笑いを浮かべていた。

『そう、熱くなるなよ。お前らしくないな。どうして俺にあたるんだ。俺にあたったって、どうしようもないだろ、今更。お前が勝手に俺に期待して勝手について来ただけじゃないか。何か間違ったこと言ってるなら、指摘してみろよ。なぁ。俺は自分に与えられた仕事を粛々とこなしていただけだ。騙すも仕事の内、仲良くするのも仕事の内、必要だから、やっていただけ。それ以上でも以下でもないだろ。お前だって似たようなことしてきた癖して、一体何様のつもりなんだよ。』



 次に美里が目を覚ました時、身体が、動かなかった。
 最初疲労からかと思ったが肉体をよじり動かせば動かす程、違う、とはっきりわかるのだった。
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