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お前を使っている時、お前のことを考えたことはただの一度も無い。
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深夜の病棟に一人侵入する影があった。影はベッドの傍らに立ちポケットを弄った。
部屋の電気がついた。
「やっぱりお前か。」
部屋中煌々と照らされたことで、影は霧散し、ベッド際に立った男は眩し気に目を細め、振り返った。青い病衣姿の久瀬がドア横の壁に背を持たれて立っていた。それで、ベッドの傍らに佇んだ間宮の姿を眺めている。間宮は柔和な笑みを作った。
「なんだ、もう立てるのか、元気そうじゃないですか。」
間宮が久瀬の方へ近づこうとするのを久瀬が手で制した。
「それ以上動いたらナースコールを押す。」
「ナース?」
久瀬の手にナースコールのような小さな機械が握られていた。
「……。」
はったりにしては用意が良すぎるな。間宮はその場で足を止め、久瀬を眺めた。顔色はよくない、まるで死人のような白さ。しかし普段からよくないのだから、どこまで悪いかわからない。ただ頭は回るらしい。
「口封じしに来たんだろ。」
「ここに、ナースなんかいないだろう。あのキチガイ医者が飛んできたところで暴れている俺の前で一体何ができるんだ。たった一人で俺を完全制圧できるのなんか二条さんか霧野くらいでしょう。」
「お前、どっから入ってきた?他に控えてる人間がいないとでも?仮にも俺も幹部なんでな。一人で入院させとくってことは無いだろ、お前とは違って。」
「………。」
間宮は自分が急いて一直線に久瀬の病室に忍び込んだことを悔いた。最短距離の最速で終わらせさっさと帰る気だったのだ。見くびった。間宮はポケットから手を出し、久瀬の方へ手を開いて見せた。
「口封じ?何のことですかね。心配で見舞いに来たんじゃないですか。心外ですよ。」
「今更信用できるか。大体見舞いだったら正々堂々日中来るもんじゃないのか、今何時だと思ってる。……。完全にお前がバイクの男だと確信した。」
「ふーん……、でェ?だからァ?久瀬さん、俺とアンタの距離は軽く見積もって3メートル少し。そのおもちゃ、押したいなら押せばいい。それより前に俺はアンタを殺してこの場を去ることくらいできる。」
「もし俺がこの場で死んだら、犯人をお前だと公表する手はずは整っている。」
「……。ああ、そう、素晴らしいですね。じゃあ、何が望みです?犯人を俺と断定していて、半死半生の身体で、たった一人で俺を待ち構えるとは。なかなかの糞度胸ですよ、信じられないな。その糞度胸に免じて話くらい聴いてやりますよ。」
久瀬は壁から背を浮かせ、間宮の方に一歩近づいた。
「とりあえず、そのポケットの中の物を出して置け。気が散って話ができないだろ。」
間宮は素直に得物を取り出しベッドの上に放り投げた。
久瀬はナイフに目をやってもまだ間宮と距離を詰めないで、探るように間宮を見上げた。
しかし、なんだ?この言い知れない違和感は。ただ髪色を変えたからだとか、そういうものじゃない。普段から変装姿のまま事務所に出入りする姿くらい見ているが、その時とは雰囲気がまるで違う。お前誰だ?とさえ言ってしまいたいほどの気持ち悪さ。贋作を見ているかのような気分。顔姿かたちは間違いなく普段見かける間宮と違いない。普段から接点があるわけでもないが、久瀬の直感は当たりやすい。しかし違和感を言葉にできない。結局、久瀬はこの違和感は飲み込むことにして、計画通りに事を進めることにした。
「まず、どういうつもりなのか話を聞きたいな。何故だ?どうしてこんなことをした。美里に金でも積まれたか。」
「別に」
間宮は気だるげに言って目をそらした。
「ただそうしたかったからそうした。金は絡んでない。」
「そうしたかったから?妙だぞ。お前はアイツの凋落を見て悦んでただろ。」
「……。アンタにはわからないよ。これ以上言うことは無いし、言いたくも無いな。勝手に身体がそうした、以上。で、話は終わりか?」
「まだだ。俺はお前の弱みを1つ手に入れた。これだけで終わらせない。終わらせるわけがない。」
「弱みね。まだ、そうと決まったわけでもない。俺は人の弱みを握るのは好きでも、握られるのは嫌いなんですよ。アンタを殺って、アンタの言う控えとやらも殺る。はい、これで全て清算、最高。で、もし久瀬さんの言うことがはったりじゃなければですけど、俺が霧野を逃がした加担者だと組に情報が行くとするでしょ、そうすると俺は美里と同じ位の目に遭うでしょうけど、ま、殺されはしないんじゃないか、と思ってますよ。これでも俺も組長とはそれなりにいい付き合いなんだ。それに、俺は一応頭がおかしいことで通ってるからな、こういう時には実に都合がいい。あいつだからしょうがない、そういうことになって、許される。あはは、便利だよなぁ……。そのためだけに延々と道化を演じたって、お釣りがくる、そう思いませんか?お勧めの戦略です。」
「組長が殺すなと命じても、聞かないであろう奴を一人知っている。」
間宮は数秒の間眉を顰め沈黙したが思いついたように手を打った。
「あっ、そゆこと……、ちぇ、俺としたことが……、久瀬さん、できてるんですね?竜胆さんとォ。」
「気色悪いことを言うな。だが、アイツは多分やるね。そういう奴だから。正々堂々一対一なら五分と思うが、一対多で不意をつかれて襲われたりしたらお前に勝ち目はないと思うね。あまり人を見くびるなよ。」
「……。まあいいよ、アンタの言い分はわかりましたよ。で、俺の弱み1つ握って何をたくらんでるんですか、久瀬さん。霧野の居場所を教えろと言われてもそれは無理ですよ。今……、すごく……、いいところなんだから。俺達の邪魔をしないでくださいよね。」
間宮のわざとらしい笑い方に対して、久瀬は冷めた目を返した。間宮は口元で笑っていても目が全く笑っていない上にま、いつでも殺せるという威圧感。まだナイフとの距離も近い。状況はまだ久瀬にとってまだ不利ではあったが、焦りはなく、熱くなっている間宮を見れば見る程に、久瀬の心は落ち付いていくのであった。もとより、久瀬には、死への恐怖というものが殆ど存在しなかった。今までの自分と決別し、今いる世界に入ると決断した時に、本来の自分は死んだと思っている。
(いいところなんだから?俺”達”?何言ってんだこいつ。馬鹿なんじゃないのか?本気?大体、澤野がお前と同じ気持ちなわけがないだろ。どうせ美里と同じように澤野に良い様に操られているだけの木偶人形。”そうしたかったからそうした”、ねぇ。澤野は一体このキチガイに何を吹き込んだんだろうな。正直興味が湧く。どうせ、一旦ここまで堕ちたら、誰も、どこにも、逃げられはしないんだからな。また生きて再会する時にでもじっくり聞きたいところだ。)
久瀬はおもむろに自ら間宮の方に二三歩距離を詰めた。間宮の瞳の端に一瞬動揺が走ったのを久瀬は見逃さなかった。
「要求①、俺に手を出そうとするな、三下。さっきも言った通り、俺を殺す=お前が死ぬことになるのはほぼ確定事項。だからこれはどちらかといえば要求というより、お互いのための縛りに過ぎない。その代わり俺もお前のことを誰にも言わない。要求②、これは選択問題だから、AかB、好きな方選んでいいぜ、Aざっと3000万ほど、口止め料として寄こしてもらおうかな。内臓一つ分にしてはどう考えても安すぎるが。」
「金か。やっぱりつまんない世俗人間ですね、アンタも。もっと面白い要求してくるかと期待していたのに。俺みたいな素寒貧捕まえてむしろうとしないでくださいよ。あるわけねぇだろ、そんな金。」
「まだ話の途中だ、カリカリすんなよ、最後まで聞け、面白い要求とやらをしてやるよ。B”今いいところなんだから”だかなんだか知らないが、霧野の居場所を俺にだけ、教えろ。お前は先刻教えないと宣言したばかりだが、居場所を教えるのなら逆に、俺からお前に、3000万、やる、っていったらどうだ?”無ぇんだろ”、そんな金!喉から、手が出るほど、欲しいだろ。……どっちにする?間宮壮一君。……とどのつまり、3000万で澤野を個人的に俺に売れってことだ。それで全部ちゃらにしようってわけだぜ。」
間宮の足が自然と背後に一歩下がっていた。今までの殺気が消えて憂鬱な表情が漂い始める。
「3000万……」
「そう、3000万、貰うか、支払うか、どうする。」
「……う」
「は?」
2人の距離は詰まる。間宮は顔を伏せたままほとんど消え入りそうな声で「払う」と言ったのだった。久瀬は内心驚いたがそれより愉快と思う気持ちが勝つのだった。違和感の正体ひとつを見た気がした。
(今のこいつは「人」だ。少なくとも単なる二条の殺人マシンでは無い。人、竜胆も人であるからこそ、口で何を言おうが、俺のような死んだも同然の人間を、いつまでもかばおうとする。)
「ははぁ、信じられんな……一体何がお前をそうさせるのか興味があるが、追々、わかればいい……。でも、無いんだよな、今すぐ用意できる金。なら、こつこつ作るしかないなよなァ、3000万。そうだ、俺は今こんな状態で動けない、そこで早速個人的に頼みたい小さな仕事があるんだが、引き受けてくれないか?」
◆
「知り合い?」
マスターに脇をこずかれ、矢吹は振り返った。マスターはカウンターの端に座っている男を指さしはせず、目で指し示していた。
「名指しで呼ばれてるけど大丈夫?出てってもらうようにも言えるけど。」
全く知らない白髪の男がカウンターに顔を伏せて頬杖をついていた。そして目の前に白い液体、カルーアミルクか何かが入ったジョッキグラスが置かれている。捲り上げられた袖から出る腕、剥き出しの首に元の皮膚の色がわからない程刺青が入っている。誰がどう見ても反社。一度でも店に来たことがあるなら忘れるわけがないインパクトがある。反社、しばらく顔を見ていない、というか店にはもう一切来なくなり、代わりに気紛れに常に気分が悪そうな顔をして舞台裏に現れるようになった美里のことを思い出さない矢吹ではなかった。
「大丈夫です。」
矢吹はマスターに笑顔で答えた。男を目にした最初こそひるんだが、すぐその緊張も解けた。美里と身体を共にしたことが、矢吹を成長させていた。なに、大したことは無い。相手に飲まれてはいけない、こちらが飲むつもりで、行く。マスターは矢吹の瞳が肝が据わった瞳に暗く落ち込んでいくのを見ていた。矢吹は最近の活躍を舞台監督に目見込まれ、早々にテレビドラマの端役が決まったばかりだった。彼もいずれ、そう遅くない内にここから消えるだろう。それだけに、反社と関わりが彼の身を亡ぼすことを、彼自身わかていないはずはないはずだ。マスターの心配をよそに矢吹はつかつかとカウンター越しに男の前に立った。男は矢吹の気配に顔を上げた。その顔が意外にもあどけない表情をしてぽかんと矢吹を眺めていたので、矢吹はまた戸惑いを覚えかけたのを、美里との情交に比べればどうということもないな、と気を入れて男を見降ろした。
「僕に用事らしいですね。なんでしょうか。一見さんでしょ。僕のファンの方だったら嬉しいけど、どうもそうは見えないな。貴方みたいな人が客席に居たら絶対に覚えてる。」
男は表情をやわらげた。単純に顔だけ見ている分には寧ろ善良な顔つきをしていた。
「ああ、そうです。貴方と私は今日、初めて会った。ひとつ、渡したいものがあるもんですから。ある人に頼まれてね。」
「渡したい物?」
男はカウンターの下に荷物を置いているらしく一度カウンターの下に屈みこむように身を引っ込めてから、頭を出した。手に何かを握っている。男はもったいぶった手つきでゆっくりと手を開く。そこにUSBが一つのっていた。
「なんです。」
「さぁ。なんでしょうね。見てのお楽しみ。別にウィルスなんか仕込んでないけど、心配ならネカフェででも再生してごらんなさい。見ても見なくても、ご自由に。とりあえず受け取ってくれませんか。そうしないと俺の仕事が終わらない。触る分にはいいでしょう。ほら、俺がこうして触ってるんだから、毒なんかついてないよ。」
男はUSBをカウンターの上に置き、指で押しながら矢吹の方へ突き出した。
(なんだろう、この人のずれている感じ……、しかし不思議と悪意は感じない。)
矢吹が不振の目つきでUSBと男を眺めていると、男はおもむろに矢吹の手首を掴み、痛さに開かれた矢吹の掌の中にUSBを押し付け無理やり握らせ、身を引いた。矢吹が握りこぶしを作らされたまま呆然としている前で、男はもう矢吹に関心を失ったように目の前のドリンクを一気に飲み干し、携帯を見て何か打込み始めた。
「美里さんの知り合いの方ですか。」
男は携帯を弄る手を止めかけたが、俯いて携帯を弄り続けながら答えた。
「そうですよ。」
矢吹は周囲を伺って身を乗り出し、声を潜めて言った。
「その、同じ組の……?」
男は目線を上目づかって悪戯っぽく笑った。
「秘密です。」
男は気だるげに立ち上がり、金をカウンターに置き「勘定。」と吐き捨てるように言った。
「は?もう帰るんですか。」
「ああ、仕事は終わったから。」
男は完全に興味を失った目で矢吹を見降ろしていた。今まで周囲にちやほやされることが多くそのような目で人間に見られたことが無かった矢吹は胃に嫌な重さを感じ始めていた。
「くそ、なんだっていうんだ、美里さんもあんたも、おかしいぜ。」
男は矢吹が啖呵を切ってきたことに意外そうな表情を浮かべたが、すぐに無の表情になって、半身を店のドアの方に向けた。
「俺はまだマトモな方だけどな。」
「何。」
男は矢吹を見降ろした。
「別に。独り言だからアンタに言ったわけじゃない。じゃ、渡すものは渡したから。後はそれをどうしようと自由。捨ててもいいんだ。……というか、見ないでさっさと捨てろ、そんなもん。」
「は?なんだよそれ、あんたが渡してきたんだろ。」
男はそのまま去ろうとする。矢吹が客目を引くのも無視してカウンターから出、引き留めようとするのも無視。無言のまま。腕を掴んだところで軽く振り払われ相手にもならず、もう完全無視のまま店の外にさっさと出ていってしまった。つい足がそのまま店の外に出たが、男の姿はもうすっかり無いのである。
「なんなんだ……。」
握りしめたままの手が汗ばんだままでいる。見ない方が良いと言われたUSB。
矢吹はその黒い塊をポケットに滑り込ませ仕事に戻った。ポケットの底に沈んだものが気にかかったまま。仕事を終え、部屋に戻る。見ないで捨てろと言われたUSBをパソコンの横に置き小一時間迷ったあげく、矢吹は男の忠告を無視してUSBを刺した。動画ファイルが3本。
「……。」
かつて、美里の過去の姿を見た時のことがフラッシュバックして、嫌な予感がする。それでも、止めることはできない。無理だと思ったら途中で見るのを止めればいい。それだけだ。矢吹は動画ファイルを開いた。
見ないで捨てろ。忠告は確かに正しいものだった。が、矢吹は3本全ての動画を最初から最後まですべて、見終えたのだった。しばらく放心のていでパソコンの前に座り込んでいた。
映画でも見ているつもりで観ていた。そうしないと狂いそうだったから。しかし、どういうことだ?まず押し寄せる疑問。それから、これを見て、俺にどうしろっていうんだ?、また疑問。謎。遅れて、胃の奥の方から不快感が押し寄せトイレで軽く嘔吐していた。そのまま便器の前に座り込み手をかけたまま、考えている。
あの男に詳細を聞こうにも消息がつかめない。見ないで捨てろと言ったということは彼もあの中身を見たのだろう。矢吹は壁に手を突きながら立ち上がった。あのUSBと同じ空間にあること自体、つまり、家に居ることが嫌になり、朝焼けの街を行くアテも無く彷徨い始めた。酔いつぶれた若者、中年につまづきそうになりながら歩く。
「何、考えてる?」
矢吹はホテルのベッドの上にうつ伏せに寝転がったまま問いかけた。離れたソファの上に腰掛けこちらに背を向けてる男に。深夜テレビを見ながらタオル一枚腰にかけ、煙草を吸っていた美里は「話しかけるな」とは言わないが、心底嫌そうな顔をして矢吹を振り返った。
「……。お前以外のこと。」
矢吹が傷ついた表情を”作った”ことで美里は気を良くしたのか、そのまま続けた。
「お前を使っている時、お前のことを考えたことはただの一度も無い。AVでも観て、一人で抜くのと少しも変わらない。ただ手を使っているか、お前の肉を使っているか、それだけの違いでしかない。前にも言ったか。」
ってことは、特定の誰かのことを考えているんだな、とは聞かなかった。彼の逆鱗に触れるからだ。そうすると、ただの情交どころではなく、本気の暴力で応酬される。それはできれば避けたい。しかし、特定の誰かがわかれば、それを模倣することはできる。考えてみれば、一番最初の時だけだ、彼がほんの少しでも楽しそうにしていたのは。あの時は半分ゴロツキの役に入ったままだったのだった。順当に考えて、彼は組員の誰かのことを考えているに違いない。そう思うと目の前にいるこの芯のねじ曲がった男のことも、矢吹には可愛く見えてくるのだった。美里は矢吹の思惑をよそに続けた。
「お前は心底つまらない。代用品にしても三級。二級以上の奴が見つかったらお前にはもう会わない。ああ、そうだ、使用料金位払ってやるよ。ほら。」
美里は財布から札束を取り出しテーブルの上に投げ置いた。10万程。いらない。
「三級?俺の、何がつまらない。」
「……。」
美里は不意に立ち上がり、腰にかけていたタオルが床に落ち、その全貌が矢吹の前に露になった。神々しい程の肉体が迫ってきて圧倒されるその間に、それが、矢吹を押し倒すようにして上にのしかかってくる。見かけによらない重さが彼の隠された筋肉量と身体能力を意味する。気が付けば、首元に手をやられ、締められている、されるがまま、呼吸が浅くなり、目の前がかすむ、体温が上昇し、喘ぐようなり、それが呼吸のできないせいか、目の前にせまってくる彼のせいか、わからない。堕ちる、というところで手が緩み、どすんと胸元に膝が落ちて来、心臓が一瞬止まったようになる。呼吸が詰まり、溺れるような身体で、ベッドの端を掴む。が、追い詰めるように二撃三撃が脇腹に蹴りが入りベッドから転げ落ちそうになるところを、頭を掴まれ引き戻され、朦朧としている頭を思い切り横から叩かれ「なんだ、もう壊れたか。」とかなり遠くから声が聞こえる。うつ伏せにされ、背中に膝をのせられ、徐々に胸を圧迫されていき、肺がつぶれていく。パキ、パキ、と骨が音を鳴らす。
「ぅぅぅー……」
「聞こえてるか~?」
声が少しずつ近くなってきて、ぁぁ、と言おうにも呻き声が出るだけ。ふいに、重みがどいた。
「こういうとこ……、わかったァ???やってて、だんだん可哀想になってきちまうんだからな……。たったこれだけのことで死にそうじゃねぇか、少しの反撃もできねぇで、骨だって折れそう、貧弱、貧弱、話にならない。萎えんだよ、お前とやっても。上がらない……、俺の熱量は。それから、お前のっ、その顔が、気に喰わない、とりつくろい、演技する媚びた様子を見ていると無性に、苛々するんだよ……。しかし、顔はお前の商売道具、怒られるだろうな、だから手も出せない。」
美里はベッドから飛び降り、ホテルの奥の風呂場へ消えてしまった。追っていく気力も、もう無い。テーブルの上に10万の束が置いたまま。それきり一度も口を開かず、矢吹を置いて帰ったのだ。それきり美里の姿を見ていなかった。10万は使わずにもったままでいる。なめやがって。貰う義理が無い。次に会ったら返す。
その美里が、かつて見たような彼の若い頃の作り物の凌辱でなく、おそらく本物の暴力と凌辱を受けている長回しの映像三本。それがUSBに入っていた物の全てであった。美里と矢吹の関係性を知っている人間は、矢吹の周りにはいないはずだった。一緒にいるところを舞台裏で演劇仲間には観られてはいるが、友人だと言っているし、マスターもその認識のままでいる。誰かにはられているのか?しかし何のために。何の目的で?全くわからない。
街をさまよっている間も、突如頭の中にPTSD患者のように、蘇る。無理やり花束を乱れ散らしたような壮絶な凌辱と暴行。再び胃からせり上げてくるものを吐いていた。すっかり胃の中が空になる。棲んでいる世界が違う、とは本人の口からきいていたが、それにしても、酷すぎる。無理やり映画だと思い込んでみなければ、頭がどうにかなっていたかもしれない。それでも、最後まで見てしまったのは、結局のところ、彼に対する優越感でも、報復感情があるでもなく、ただ、美しかったからだった。スナッフビデオすれすれの代物を美しいと思う自分の感情をおかしいとは思わない。ある程度狂っていなければ、演劇などという稼げない道化仕事を選ばない。やる資格も無い。その点、反社の彼とも似た部分を矢吹は勝手に感じていたが、向こうはサラサラ嫌だろうこともわかっている。それに、これを見て美しいという感情を抱かれたこと自体、また彼を怒らせる。しかし、彼の感情の発露を見ることは嫌いでは無いのだ。普段、無の状態が大体を占める彼が怒り出すと、その場の空気ごと、色がついたように変わるのが良い。悪いと思っていながら、良いと思ってしまう。グロテスクを極めた映像だからこその美しさがある。正常と異常の間で矢吹は正気を保とうと歩き続け、思考を続けた。
映像に残されていることが全てでは無いだろう。3本とも中途半端な始まり方と終わり方をしている点からしても、長い拷問の途中経過をほんの少し撮ってみたというところ。あんなことを長く続けていたら常人ならすぐ死ぬ。今まさに死んでいてもおかしくない。もしかしたらすでに殺されているかもしれない。死……、もう二度と会えないというのか。それは嫌だな、あのふざけたゴミ、10万円も返していないのに。
救えるか?……いや、どう考えたって、無理だ。一般人に過ぎない自分が単独、事情も知らないまま彼の事務所に乗り込むことなど、仮に乗り込んだところで何ができる。それに今、とても大事な時なんだ、交友関係に慎重になるべき時だとわかっている。美里が会いに来てくれなくなって寧ろ良かったとさえ思っていた。関係性をすっぱ抜かれなくても、反社と関わりがある時点で業界の中では限りなく終わりに近づく。
朝焼けの街をさまよっている内に、矢吹は今度は自分に対して腹が立ってきているのに気が付いた。大事な時だから、なんなんだよ?最初に彼を裏切ったのは俺だぞ、これで精算、清々した、良かった、とはならない、なってたまるか、絶対。一生腹に気持ちの悪いものを抱えたまま生きていくことになる。
あの映像は彼に対する報復の映像、組織内で何かあったのだ。だから、身内の中から彼を救うということは、ほとんど不可能。おそらくUSBを渡してきた男は彼に何かしら同情心を抱いていた。だから捨てろとさえ言ったのだ。もしやあの男こそ、美里の思う人その本人ではないか。部外者が口を出せる問題ではないが、部外者だからこそできることは何か無いのか。もう一度あの男を探し出して何か協力することはできないだろうか。
◆
「調べるほど最低だね、二条って男は。」
「俺の前で堂々と彼の悪口を言うなよな。」
「いや、言うね。だって嫌いだから。」
黒木はコンビニのレジ越しに白井を見降ろしていた。どうしてか、会いたくなったのだ。
白井は壁時計を見上げ、黒木に笑顔を向けた。
「もうすぐ上がりだから、少し裏で話そうか。ちょっと外で待っててくれ。あと15分位かな。」
コンビニ裏の空き地で白井を待っている間、家に置いて来た霧野のことを考えていた。朝から生意気言っていたからベッドに縛り上げて俺の代わりの物で遊ばせてやっている。帰る頃にどうなっているか見ものだな。
仕事を終えてゴスい姿をした白井が黒木の前に現れた。
「なぁ黒木、こういうのはどう?そっちの組を抜けてウチに来ないか?そうすればもう嫌でも奴から離れられるし、お前を守ってやれるんだよ。誰にも手を出させない。」
「ウチっていうのは、お前の実家のことだな。こっちもお前のことを調べさせてもらった。調べなきゃよかったと思ったよ。知らないままあっているのと知っていて会ってるのではワケが違うからな。でもお前、家には長く帰ってないんだろ、というか、帰りたくないからこんなバイトしてそんな格好してぐれてんだろ。どちらにせよ、今のところ答えはNOだな。誰かに守ってもらう必要無し。」
「金払いだってよくなるんだよ。」
「ああ……買収しようって?くくく…、余計、嫌になっちゃったな。金は魅力的だが、今の俺は金で動くことはできても金で人を切れる人間ではないんだな。利権の話はもうやめ、あーあ、こんなこと話すために会いに来たわけじゃなかったのにな。駄目だな。悪いけど今日はもう帰るよ。」
何か言いたげな白井をよそに黒木は霧野の真っている家を目指した。遊ばせていた霧野を元に戻し、夕飯を作っていると例のごとく奥からのそのそと現れ、非難がましい目をしてこちらを見ている。が、それを無視して夕食の支度を続けているが、しつこいほどの視線を感じ、やれやれと言った体で黒木は霧野の方を見やった。
「なんだ?何か言いたいことがあるなら言えよ。」
「今日の、収穫、は、」
(なんだ、まだ息が上がってふらふらじゃないか、可哀そうに。いつまでもそんな可哀想な面をしないでくれ。もっと、酷くしたくなるだろ。して欲しいんだろ。)
黒木は机の上に置いておいたUSBとノートパソコンを指さした。
「美里が今どんなことになっているのか、そこに一部が入っている。見たければ勝手に見ろ。お前にとってそれは収穫でも何でもない、ゴミカス同然の糞情報に過ぎないだろうけどな。」
「……。」
霧野はちらと机の方を見て、顔を伏せ手で覆い始めた。
「お前、美里をそそのかしてどこまで行くつもりだったんだ?どこか行くアテがあったのか。」
「……。」
霧野は顔から手をどけ、赤らんだ顔でしばらく視線を床の方に彷徨わせてソファに腰掛けていたが、ふいに黒木の方を見、また顔を伏せて言った。
「アテはあった。関西方面だ。しかし、美里がいないと意味が無い。繋がらない。」
「関西?上は知らないが俺達とは殆ど交流が無いだろ。美里の奴がそんなところにコネがあると思えない。」
「まぁ、元々望み薄、行ったところで救われる可能性は五分もあるかどうか、しかし五分でも全然良い。何もないよりマシ。駄目だったらまたその場で考える。そこに川名の兄にあたる男がいるんだよ。そことコネがある。」
「なるほど。どうやら離反しているらしいしな、そこの二人は。そこに一時かくまってもらうつもりだったというわけか。で、どうするんだ。その望みも今は断たれた。じゃ、……ここで俺と暮らそうか?」
「馬鹿言うなよ。」
「馬鹿?割と本気で誘ってるんだけどな。愉しいだろ。ここでの、俺との、暮らしは。」
霧野はおもむろに顔を上げ立ち上がり、黒木の方に歩み寄った。掴みかからんばかりである。
「愉しい?それはてめぇだけだろっ、監禁同然じゃねぇかっ、こんなもん…っ、」
「……はぁ、何ひとりで熱くなってんだ?他の奴らの監禁に比べたら俺のなんか随分緩いだろ。今日だって、昼間一人で勝手に何回射精した?帰ってきてドア開けた瞬間から小屋中獣臭いし、今だって人間の臭いしてないぞ。自覚あるか?無いんだろうな。無いから俺にそんなえらそうな態度をとれる。恥ずかしい奴だよお前は。俺はお前を犬に見立てる悪趣味はないが、本当にデカい犬一頭飼ってる気分になる程だ。これが俺じゃなかったからそれだけで死ぬほど責められ焼かれてたぜお前。お前はそれくらいの方がもっと気持ちいいかもしれないから、もしかして、今もまた、そうやって煽って俺を誘おうとしているのかな、ビッチ警官君。どちらにせよ気持ちよかったくせによ。夜だってまんざらでもない、気持ちよさそうにしてるじゃないか。それで、俺だけが愉しいって?笑えるよなぁ。」
「……、……」
「何も言えないだろ、図星だからな。何か、ほんの少しでも俺が間違ったこと言ってるなら、挙手でもして割り込んで指摘してくれて構わない。どうだ?……。何も言わないな。今のところ相違なしという理解で良いな。次、そもそも監禁同然、というのもおかしい話。お前が何か策を練るなら俺は協力する気でいたのに、何の策も思いつかず、葉っぱ吸って俺とセックスセックス、思考放棄。ほんと、どうしようもないよなお前。お前がそういう暮らしを自分で選んでいるのを、今度は人のせいにする。自分は悪くない、自分は被害者、いつまで自分中心でいる気だよ、お前の悪い癖が出てるぜ、ダサいな。人のせいにしとく方が自分は救われるからな。いいよ、それでお前の気がまぎれるのなら、勝手に俺のことを好きなだけ恨めば。人に恨まれるのには慣れてるからな、俺には何のダメージも無い。」
黒木は霧野を一人にした方が良いだろうと、キッチンの方に向かった。プライドの高い奴のことだ、今の説教でこたえたはず。発破をかけてやったのだ。これを反動にして何か策を思いつくかどうかだな。黒木が支度をして戻る頃、テーブルの上のPCの画面がついたまま、そしてUSBが刺さったままになって、使われていたことがわかる。本人は居ない。
確かに相当な映像だが、そんなに衝撃を受けることだろうか。自分が受けてきた折檻の方が相当きつかったはず。それのほんの1/100程の映像でしかないはずだ。食卓に料理を並べている内に、霧野が戻ってきた。さっきまでの上気した様子も、反対に青くなった様子も無い。
黒木が飯にしようぜと誘う前に、霧野が毅然とした面構えで黒木の方を見据えたかと思うと今度はにやにやと笑い始めた。それにしても、もう少し”一般受けする”笑顔の練習をした方が良い。
笑いの表情は元を威嚇の表情を源にするという。進化の過程の中で、人は孤ではなく、共同生活をすることで生きる選択をするようになった。そこで、協調を示す表情をつくる必要が出てきた。共同生活以前に生まれた孤が身を守るために行う威嚇の表情が和らいでいき、共同生活を送る動物特有の、敵意が無い表情を作り上げていったのだ。だから、通常、人間の生得的反応として、例えば仲間内で挨拶する際など、瞳と眉の間の間隔が開き、視線が和らぎ、微笑みを作る。それは、双方の警戒を解く合図となる。はずなのだが、その生得的反応が出来ないのが、今まで見て来た反社の人間には多かった。どこか初めから人という種の生物として、壊れている証の一つである。笑顔ひとつとっても原初的な動物に近い、威嚇から離れられない。黒木は霧野をよく見ているからこれが愉しくて笑っていると理解できるが初対面の人間には決してそうは映らない。
「なんだ?何ニヤニヤしてんだよ。キモイな……。」
「みっつ、しっかり、考えたぜ、間宮……。」
「……何?」
「ひとつめ、お前と二人で関西に行く。それで事情を話し、身の安全を保障してもらえるよう交渉する。しかし、これはほとんど望み薄。そもそも彼らと線が繋がらない可能性の方が高いからだ。ふたつめ、俺の上司神崎さんのところへ身を預ける。が、これも望み薄。そもそも神崎さん自体川名達に見張られている可能性が高い。一番初めに俺が行きそうなところだからな。だから合流する前に捕まって俺もお前も終わりになる。もっとひどいのは神崎さんまで巻き込んでしまうことだ。川名のこと、何癖付けて神崎さんまでこの邪悪な遊びの対象に巻き込みかねない。だからこれは避けたい。もう、俺のせいで他の誰かに、これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。」
霧野はそこで話を切って椅子に座り、乱暴にPCを横にどけ、肘をついた。
「みっつ、こいつを」
霧野は黒木の目の前でUSBを引き抜き、手の中に握り込んだ。
「こいつを連れだして、もう一度初めからやり直す。今度は失敗しない。今の俺なら運転だって代われるし、守ってやれる。」
黒木は黙ったまま霧野の向かいに座り、頬杖をついてしばらく黙っていたが、霧野を上目づかった。
「急に正義漢ごっこか、霧野。どうしちゃったんだ?らしくないな。悪徳警官の癖に。」
「正義?違うね、こいつがいないと、一番いけそうな作戦に乗れないんだ。だからやむを得ないことだ。」
黒木は「ああ、そうですか。」と言いながら、霧野から目をそらした。久瀬から貰ったUSBのデータをコピーして持ってきたのは間違ってなかった。この傲慢で自己中心的な男は、絶対に、口が裂けても、美里を救いたいなどと言うわけがない、が、難癖付けて救わざる得ないから救うという可能性はあるかもしれないと思った。
しかし、この策③、他と比較して、難易度は高い。しかし、失敗した時のリスクは、ある意味一番少ないと考える。①②で失敗した場合、霧野も指摘した通り、霧野ともども黒木自身も責任を問われるかつ関西系組織や警察関係者などの部外者にまで悪影響が及ぶ。対してこの③、失敗したとしても、全て身内で閉じる。全てが、ただ、元に戻るだけということに尽きる。ただ、全てが元に戻った時、霧野への仕打ちが今まで以上に苛烈になる可能性は大いにある。しかし、それはどのパターンで失敗しても同じこと。結局リスクを負うのは霧野ただ一人。だから霧野がやりたいのをやればいい。今の楽な生活を捨ててまでそうしたいなら、そうすればいい。美里は霧野の代わりに今の折檻を受けているのだ。だから、結局③を実行すれば、成功しようがしまいが解放されることも少しは見込まれる。
「じゃあ、3を決行する準備をするわけだ、いいよ、できる範囲で協力してやる。」
「何故だ?」
「あ?」
黒木は顔を上げて霧野の方を見た。
「お前怪しいぞ。何か企んでいて、途中で裏切る気じゃないだろうな。例えば明日にでも二条に告げ口するとか。」
黒木はひとしきり声を上げて笑った後、霧野を向き直った。
「馬鹿だなぁ、しねぇよ、今更、そんなもったないこと。つまらないじゃん、ただ、見届けていたいだけだ。お前の行きつく先を。策が実を結ぼうが結ぶまいが、どっちでもいい。どうせもう時間も無いんだし。」
部屋の電気がついた。
「やっぱりお前か。」
部屋中煌々と照らされたことで、影は霧散し、ベッド際に立った男は眩し気に目を細め、振り返った。青い病衣姿の久瀬がドア横の壁に背を持たれて立っていた。それで、ベッドの傍らに佇んだ間宮の姿を眺めている。間宮は柔和な笑みを作った。
「なんだ、もう立てるのか、元気そうじゃないですか。」
間宮が久瀬の方へ近づこうとするのを久瀬が手で制した。
「それ以上動いたらナースコールを押す。」
「ナース?」
久瀬の手にナースコールのような小さな機械が握られていた。
「……。」
はったりにしては用意が良すぎるな。間宮はその場で足を止め、久瀬を眺めた。顔色はよくない、まるで死人のような白さ。しかし普段からよくないのだから、どこまで悪いかわからない。ただ頭は回るらしい。
「口封じしに来たんだろ。」
「ここに、ナースなんかいないだろう。あのキチガイ医者が飛んできたところで暴れている俺の前で一体何ができるんだ。たった一人で俺を完全制圧できるのなんか二条さんか霧野くらいでしょう。」
「お前、どっから入ってきた?他に控えてる人間がいないとでも?仮にも俺も幹部なんでな。一人で入院させとくってことは無いだろ、お前とは違って。」
「………。」
間宮は自分が急いて一直線に久瀬の病室に忍び込んだことを悔いた。最短距離の最速で終わらせさっさと帰る気だったのだ。見くびった。間宮はポケットから手を出し、久瀬の方へ手を開いて見せた。
「口封じ?何のことですかね。心配で見舞いに来たんじゃないですか。心外ですよ。」
「今更信用できるか。大体見舞いだったら正々堂々日中来るもんじゃないのか、今何時だと思ってる。……。完全にお前がバイクの男だと確信した。」
「ふーん……、でェ?だからァ?久瀬さん、俺とアンタの距離は軽く見積もって3メートル少し。そのおもちゃ、押したいなら押せばいい。それより前に俺はアンタを殺してこの場を去ることくらいできる。」
「もし俺がこの場で死んだら、犯人をお前だと公表する手はずは整っている。」
「……。ああ、そう、素晴らしいですね。じゃあ、何が望みです?犯人を俺と断定していて、半死半生の身体で、たった一人で俺を待ち構えるとは。なかなかの糞度胸ですよ、信じられないな。その糞度胸に免じて話くらい聴いてやりますよ。」
久瀬は壁から背を浮かせ、間宮の方に一歩近づいた。
「とりあえず、そのポケットの中の物を出して置け。気が散って話ができないだろ。」
間宮は素直に得物を取り出しベッドの上に放り投げた。
久瀬はナイフに目をやってもまだ間宮と距離を詰めないで、探るように間宮を見上げた。
しかし、なんだ?この言い知れない違和感は。ただ髪色を変えたからだとか、そういうものじゃない。普段から変装姿のまま事務所に出入りする姿くらい見ているが、その時とは雰囲気がまるで違う。お前誰だ?とさえ言ってしまいたいほどの気持ち悪さ。贋作を見ているかのような気分。顔姿かたちは間違いなく普段見かける間宮と違いない。普段から接点があるわけでもないが、久瀬の直感は当たりやすい。しかし違和感を言葉にできない。結局、久瀬はこの違和感は飲み込むことにして、計画通りに事を進めることにした。
「まず、どういうつもりなのか話を聞きたいな。何故だ?どうしてこんなことをした。美里に金でも積まれたか。」
「別に」
間宮は気だるげに言って目をそらした。
「ただそうしたかったからそうした。金は絡んでない。」
「そうしたかったから?妙だぞ。お前はアイツの凋落を見て悦んでただろ。」
「……。アンタにはわからないよ。これ以上言うことは無いし、言いたくも無いな。勝手に身体がそうした、以上。で、話は終わりか?」
「まだだ。俺はお前の弱みを1つ手に入れた。これだけで終わらせない。終わらせるわけがない。」
「弱みね。まだ、そうと決まったわけでもない。俺は人の弱みを握るのは好きでも、握られるのは嫌いなんですよ。アンタを殺って、アンタの言う控えとやらも殺る。はい、これで全て清算、最高。で、もし久瀬さんの言うことがはったりじゃなければですけど、俺が霧野を逃がした加担者だと組に情報が行くとするでしょ、そうすると俺は美里と同じ位の目に遭うでしょうけど、ま、殺されはしないんじゃないか、と思ってますよ。これでも俺も組長とはそれなりにいい付き合いなんだ。それに、俺は一応頭がおかしいことで通ってるからな、こういう時には実に都合がいい。あいつだからしょうがない、そういうことになって、許される。あはは、便利だよなぁ……。そのためだけに延々と道化を演じたって、お釣りがくる、そう思いませんか?お勧めの戦略です。」
「組長が殺すなと命じても、聞かないであろう奴を一人知っている。」
間宮は数秒の間眉を顰め沈黙したが思いついたように手を打った。
「あっ、そゆこと……、ちぇ、俺としたことが……、久瀬さん、できてるんですね?竜胆さんとォ。」
「気色悪いことを言うな。だが、アイツは多分やるね。そういう奴だから。正々堂々一対一なら五分と思うが、一対多で不意をつかれて襲われたりしたらお前に勝ち目はないと思うね。あまり人を見くびるなよ。」
「……。まあいいよ、アンタの言い分はわかりましたよ。で、俺の弱み1つ握って何をたくらんでるんですか、久瀬さん。霧野の居場所を教えろと言われてもそれは無理ですよ。今……、すごく……、いいところなんだから。俺達の邪魔をしないでくださいよね。」
間宮のわざとらしい笑い方に対して、久瀬は冷めた目を返した。間宮は口元で笑っていても目が全く笑っていない上にま、いつでも殺せるという威圧感。まだナイフとの距離も近い。状況はまだ久瀬にとってまだ不利ではあったが、焦りはなく、熱くなっている間宮を見れば見る程に、久瀬の心は落ち付いていくのであった。もとより、久瀬には、死への恐怖というものが殆ど存在しなかった。今までの自分と決別し、今いる世界に入ると決断した時に、本来の自分は死んだと思っている。
(いいところなんだから?俺”達”?何言ってんだこいつ。馬鹿なんじゃないのか?本気?大体、澤野がお前と同じ気持ちなわけがないだろ。どうせ美里と同じように澤野に良い様に操られているだけの木偶人形。”そうしたかったからそうした”、ねぇ。澤野は一体このキチガイに何を吹き込んだんだろうな。正直興味が湧く。どうせ、一旦ここまで堕ちたら、誰も、どこにも、逃げられはしないんだからな。また生きて再会する時にでもじっくり聞きたいところだ。)
久瀬はおもむろに自ら間宮の方に二三歩距離を詰めた。間宮の瞳の端に一瞬動揺が走ったのを久瀬は見逃さなかった。
「要求①、俺に手を出そうとするな、三下。さっきも言った通り、俺を殺す=お前が死ぬことになるのはほぼ確定事項。だからこれはどちらかといえば要求というより、お互いのための縛りに過ぎない。その代わり俺もお前のことを誰にも言わない。要求②、これは選択問題だから、AかB、好きな方選んでいいぜ、Aざっと3000万ほど、口止め料として寄こしてもらおうかな。内臓一つ分にしてはどう考えても安すぎるが。」
「金か。やっぱりつまんない世俗人間ですね、アンタも。もっと面白い要求してくるかと期待していたのに。俺みたいな素寒貧捕まえてむしろうとしないでくださいよ。あるわけねぇだろ、そんな金。」
「まだ話の途中だ、カリカリすんなよ、最後まで聞け、面白い要求とやらをしてやるよ。B”今いいところなんだから”だかなんだか知らないが、霧野の居場所を俺にだけ、教えろ。お前は先刻教えないと宣言したばかりだが、居場所を教えるのなら逆に、俺からお前に、3000万、やる、っていったらどうだ?”無ぇんだろ”、そんな金!喉から、手が出るほど、欲しいだろ。……どっちにする?間宮壮一君。……とどのつまり、3000万で澤野を個人的に俺に売れってことだ。それで全部ちゃらにしようってわけだぜ。」
間宮の足が自然と背後に一歩下がっていた。今までの殺気が消えて憂鬱な表情が漂い始める。
「3000万……」
「そう、3000万、貰うか、支払うか、どうする。」
「……う」
「は?」
2人の距離は詰まる。間宮は顔を伏せたままほとんど消え入りそうな声で「払う」と言ったのだった。久瀬は内心驚いたがそれより愉快と思う気持ちが勝つのだった。違和感の正体ひとつを見た気がした。
(今のこいつは「人」だ。少なくとも単なる二条の殺人マシンでは無い。人、竜胆も人であるからこそ、口で何を言おうが、俺のような死んだも同然の人間を、いつまでもかばおうとする。)
「ははぁ、信じられんな……一体何がお前をそうさせるのか興味があるが、追々、わかればいい……。でも、無いんだよな、今すぐ用意できる金。なら、こつこつ作るしかないなよなァ、3000万。そうだ、俺は今こんな状態で動けない、そこで早速個人的に頼みたい小さな仕事があるんだが、引き受けてくれないか?」
◆
「知り合い?」
マスターに脇をこずかれ、矢吹は振り返った。マスターはカウンターの端に座っている男を指さしはせず、目で指し示していた。
「名指しで呼ばれてるけど大丈夫?出てってもらうようにも言えるけど。」
全く知らない白髪の男がカウンターに顔を伏せて頬杖をついていた。そして目の前に白い液体、カルーアミルクか何かが入ったジョッキグラスが置かれている。捲り上げられた袖から出る腕、剥き出しの首に元の皮膚の色がわからない程刺青が入っている。誰がどう見ても反社。一度でも店に来たことがあるなら忘れるわけがないインパクトがある。反社、しばらく顔を見ていない、というか店にはもう一切来なくなり、代わりに気紛れに常に気分が悪そうな顔をして舞台裏に現れるようになった美里のことを思い出さない矢吹ではなかった。
「大丈夫です。」
矢吹はマスターに笑顔で答えた。男を目にした最初こそひるんだが、すぐその緊張も解けた。美里と身体を共にしたことが、矢吹を成長させていた。なに、大したことは無い。相手に飲まれてはいけない、こちらが飲むつもりで、行く。マスターは矢吹の瞳が肝が据わった瞳に暗く落ち込んでいくのを見ていた。矢吹は最近の活躍を舞台監督に目見込まれ、早々にテレビドラマの端役が決まったばかりだった。彼もいずれ、そう遅くない内にここから消えるだろう。それだけに、反社と関わりが彼の身を亡ぼすことを、彼自身わかていないはずはないはずだ。マスターの心配をよそに矢吹はつかつかとカウンター越しに男の前に立った。男は矢吹の気配に顔を上げた。その顔が意外にもあどけない表情をしてぽかんと矢吹を眺めていたので、矢吹はまた戸惑いを覚えかけたのを、美里との情交に比べればどうということもないな、と気を入れて男を見降ろした。
「僕に用事らしいですね。なんでしょうか。一見さんでしょ。僕のファンの方だったら嬉しいけど、どうもそうは見えないな。貴方みたいな人が客席に居たら絶対に覚えてる。」
男は表情をやわらげた。単純に顔だけ見ている分には寧ろ善良な顔つきをしていた。
「ああ、そうです。貴方と私は今日、初めて会った。ひとつ、渡したいものがあるもんですから。ある人に頼まれてね。」
「渡したい物?」
男はカウンターの下に荷物を置いているらしく一度カウンターの下に屈みこむように身を引っ込めてから、頭を出した。手に何かを握っている。男はもったいぶった手つきでゆっくりと手を開く。そこにUSBが一つのっていた。
「なんです。」
「さぁ。なんでしょうね。見てのお楽しみ。別にウィルスなんか仕込んでないけど、心配ならネカフェででも再生してごらんなさい。見ても見なくても、ご自由に。とりあえず受け取ってくれませんか。そうしないと俺の仕事が終わらない。触る分にはいいでしょう。ほら、俺がこうして触ってるんだから、毒なんかついてないよ。」
男はUSBをカウンターの上に置き、指で押しながら矢吹の方へ突き出した。
(なんだろう、この人のずれている感じ……、しかし不思議と悪意は感じない。)
矢吹が不振の目つきでUSBと男を眺めていると、男はおもむろに矢吹の手首を掴み、痛さに開かれた矢吹の掌の中にUSBを押し付け無理やり握らせ、身を引いた。矢吹が握りこぶしを作らされたまま呆然としている前で、男はもう矢吹に関心を失ったように目の前のドリンクを一気に飲み干し、携帯を見て何か打込み始めた。
「美里さんの知り合いの方ですか。」
男は携帯を弄る手を止めかけたが、俯いて携帯を弄り続けながら答えた。
「そうですよ。」
矢吹は周囲を伺って身を乗り出し、声を潜めて言った。
「その、同じ組の……?」
男は目線を上目づかって悪戯っぽく笑った。
「秘密です。」
男は気だるげに立ち上がり、金をカウンターに置き「勘定。」と吐き捨てるように言った。
「は?もう帰るんですか。」
「ああ、仕事は終わったから。」
男は完全に興味を失った目で矢吹を見降ろしていた。今まで周囲にちやほやされることが多くそのような目で人間に見られたことが無かった矢吹は胃に嫌な重さを感じ始めていた。
「くそ、なんだっていうんだ、美里さんもあんたも、おかしいぜ。」
男は矢吹が啖呵を切ってきたことに意外そうな表情を浮かべたが、すぐに無の表情になって、半身を店のドアの方に向けた。
「俺はまだマトモな方だけどな。」
「何。」
男は矢吹を見降ろした。
「別に。独り言だからアンタに言ったわけじゃない。じゃ、渡すものは渡したから。後はそれをどうしようと自由。捨ててもいいんだ。……というか、見ないでさっさと捨てろ、そんなもん。」
「は?なんだよそれ、あんたが渡してきたんだろ。」
男はそのまま去ろうとする。矢吹が客目を引くのも無視してカウンターから出、引き留めようとするのも無視。無言のまま。腕を掴んだところで軽く振り払われ相手にもならず、もう完全無視のまま店の外にさっさと出ていってしまった。つい足がそのまま店の外に出たが、男の姿はもうすっかり無いのである。
「なんなんだ……。」
握りしめたままの手が汗ばんだままでいる。見ない方が良いと言われたUSB。
矢吹はその黒い塊をポケットに滑り込ませ仕事に戻った。ポケットの底に沈んだものが気にかかったまま。仕事を終え、部屋に戻る。見ないで捨てろと言われたUSBをパソコンの横に置き小一時間迷ったあげく、矢吹は男の忠告を無視してUSBを刺した。動画ファイルが3本。
「……。」
かつて、美里の過去の姿を見た時のことがフラッシュバックして、嫌な予感がする。それでも、止めることはできない。無理だと思ったら途中で見るのを止めればいい。それだけだ。矢吹は動画ファイルを開いた。
見ないで捨てろ。忠告は確かに正しいものだった。が、矢吹は3本全ての動画を最初から最後まですべて、見終えたのだった。しばらく放心のていでパソコンの前に座り込んでいた。
映画でも見ているつもりで観ていた。そうしないと狂いそうだったから。しかし、どういうことだ?まず押し寄せる疑問。それから、これを見て、俺にどうしろっていうんだ?、また疑問。謎。遅れて、胃の奥の方から不快感が押し寄せトイレで軽く嘔吐していた。そのまま便器の前に座り込み手をかけたまま、考えている。
あの男に詳細を聞こうにも消息がつかめない。見ないで捨てろと言ったということは彼もあの中身を見たのだろう。矢吹は壁に手を突きながら立ち上がった。あのUSBと同じ空間にあること自体、つまり、家に居ることが嫌になり、朝焼けの街を行くアテも無く彷徨い始めた。酔いつぶれた若者、中年につまづきそうになりながら歩く。
「何、考えてる?」
矢吹はホテルのベッドの上にうつ伏せに寝転がったまま問いかけた。離れたソファの上に腰掛けこちらに背を向けてる男に。深夜テレビを見ながらタオル一枚腰にかけ、煙草を吸っていた美里は「話しかけるな」とは言わないが、心底嫌そうな顔をして矢吹を振り返った。
「……。お前以外のこと。」
矢吹が傷ついた表情を”作った”ことで美里は気を良くしたのか、そのまま続けた。
「お前を使っている時、お前のことを考えたことはただの一度も無い。AVでも観て、一人で抜くのと少しも変わらない。ただ手を使っているか、お前の肉を使っているか、それだけの違いでしかない。前にも言ったか。」
ってことは、特定の誰かのことを考えているんだな、とは聞かなかった。彼の逆鱗に触れるからだ。そうすると、ただの情交どころではなく、本気の暴力で応酬される。それはできれば避けたい。しかし、特定の誰かがわかれば、それを模倣することはできる。考えてみれば、一番最初の時だけだ、彼がほんの少しでも楽しそうにしていたのは。あの時は半分ゴロツキの役に入ったままだったのだった。順当に考えて、彼は組員の誰かのことを考えているに違いない。そう思うと目の前にいるこの芯のねじ曲がった男のことも、矢吹には可愛く見えてくるのだった。美里は矢吹の思惑をよそに続けた。
「お前は心底つまらない。代用品にしても三級。二級以上の奴が見つかったらお前にはもう会わない。ああ、そうだ、使用料金位払ってやるよ。ほら。」
美里は財布から札束を取り出しテーブルの上に投げ置いた。10万程。いらない。
「三級?俺の、何がつまらない。」
「……。」
美里は不意に立ち上がり、腰にかけていたタオルが床に落ち、その全貌が矢吹の前に露になった。神々しい程の肉体が迫ってきて圧倒されるその間に、それが、矢吹を押し倒すようにして上にのしかかってくる。見かけによらない重さが彼の隠された筋肉量と身体能力を意味する。気が付けば、首元に手をやられ、締められている、されるがまま、呼吸が浅くなり、目の前がかすむ、体温が上昇し、喘ぐようなり、それが呼吸のできないせいか、目の前にせまってくる彼のせいか、わからない。堕ちる、というところで手が緩み、どすんと胸元に膝が落ちて来、心臓が一瞬止まったようになる。呼吸が詰まり、溺れるような身体で、ベッドの端を掴む。が、追い詰めるように二撃三撃が脇腹に蹴りが入りベッドから転げ落ちそうになるところを、頭を掴まれ引き戻され、朦朧としている頭を思い切り横から叩かれ「なんだ、もう壊れたか。」とかなり遠くから声が聞こえる。うつ伏せにされ、背中に膝をのせられ、徐々に胸を圧迫されていき、肺がつぶれていく。パキ、パキ、と骨が音を鳴らす。
「ぅぅぅー……」
「聞こえてるか~?」
声が少しずつ近くなってきて、ぁぁ、と言おうにも呻き声が出るだけ。ふいに、重みがどいた。
「こういうとこ……、わかったァ???やってて、だんだん可哀想になってきちまうんだからな……。たったこれだけのことで死にそうじゃねぇか、少しの反撃もできねぇで、骨だって折れそう、貧弱、貧弱、話にならない。萎えんだよ、お前とやっても。上がらない……、俺の熱量は。それから、お前のっ、その顔が、気に喰わない、とりつくろい、演技する媚びた様子を見ていると無性に、苛々するんだよ……。しかし、顔はお前の商売道具、怒られるだろうな、だから手も出せない。」
美里はベッドから飛び降り、ホテルの奥の風呂場へ消えてしまった。追っていく気力も、もう無い。テーブルの上に10万の束が置いたまま。それきり一度も口を開かず、矢吹を置いて帰ったのだ。それきり美里の姿を見ていなかった。10万は使わずにもったままでいる。なめやがって。貰う義理が無い。次に会ったら返す。
その美里が、かつて見たような彼の若い頃の作り物の凌辱でなく、おそらく本物の暴力と凌辱を受けている長回しの映像三本。それがUSBに入っていた物の全てであった。美里と矢吹の関係性を知っている人間は、矢吹の周りにはいないはずだった。一緒にいるところを舞台裏で演劇仲間には観られてはいるが、友人だと言っているし、マスターもその認識のままでいる。誰かにはられているのか?しかし何のために。何の目的で?全くわからない。
街をさまよっている間も、突如頭の中にPTSD患者のように、蘇る。無理やり花束を乱れ散らしたような壮絶な凌辱と暴行。再び胃からせり上げてくるものを吐いていた。すっかり胃の中が空になる。棲んでいる世界が違う、とは本人の口からきいていたが、それにしても、酷すぎる。無理やり映画だと思い込んでみなければ、頭がどうにかなっていたかもしれない。それでも、最後まで見てしまったのは、結局のところ、彼に対する優越感でも、報復感情があるでもなく、ただ、美しかったからだった。スナッフビデオすれすれの代物を美しいと思う自分の感情をおかしいとは思わない。ある程度狂っていなければ、演劇などという稼げない道化仕事を選ばない。やる資格も無い。その点、反社の彼とも似た部分を矢吹は勝手に感じていたが、向こうはサラサラ嫌だろうこともわかっている。それに、これを見て美しいという感情を抱かれたこと自体、また彼を怒らせる。しかし、彼の感情の発露を見ることは嫌いでは無いのだ。普段、無の状態が大体を占める彼が怒り出すと、その場の空気ごと、色がついたように変わるのが良い。悪いと思っていながら、良いと思ってしまう。グロテスクを極めた映像だからこその美しさがある。正常と異常の間で矢吹は正気を保とうと歩き続け、思考を続けた。
映像に残されていることが全てでは無いだろう。3本とも中途半端な始まり方と終わり方をしている点からしても、長い拷問の途中経過をほんの少し撮ってみたというところ。あんなことを長く続けていたら常人ならすぐ死ぬ。今まさに死んでいてもおかしくない。もしかしたらすでに殺されているかもしれない。死……、もう二度と会えないというのか。それは嫌だな、あのふざけたゴミ、10万円も返していないのに。
救えるか?……いや、どう考えたって、無理だ。一般人に過ぎない自分が単独、事情も知らないまま彼の事務所に乗り込むことなど、仮に乗り込んだところで何ができる。それに今、とても大事な時なんだ、交友関係に慎重になるべき時だとわかっている。美里が会いに来てくれなくなって寧ろ良かったとさえ思っていた。関係性をすっぱ抜かれなくても、反社と関わりがある時点で業界の中では限りなく終わりに近づく。
朝焼けの街をさまよっている内に、矢吹は今度は自分に対して腹が立ってきているのに気が付いた。大事な時だから、なんなんだよ?最初に彼を裏切ったのは俺だぞ、これで精算、清々した、良かった、とはならない、なってたまるか、絶対。一生腹に気持ちの悪いものを抱えたまま生きていくことになる。
あの映像は彼に対する報復の映像、組織内で何かあったのだ。だから、身内の中から彼を救うということは、ほとんど不可能。おそらくUSBを渡してきた男は彼に何かしら同情心を抱いていた。だから捨てろとさえ言ったのだ。もしやあの男こそ、美里の思う人その本人ではないか。部外者が口を出せる問題ではないが、部外者だからこそできることは何か無いのか。もう一度あの男を探し出して何か協力することはできないだろうか。
◆
「調べるほど最低だね、二条って男は。」
「俺の前で堂々と彼の悪口を言うなよな。」
「いや、言うね。だって嫌いだから。」
黒木はコンビニのレジ越しに白井を見降ろしていた。どうしてか、会いたくなったのだ。
白井は壁時計を見上げ、黒木に笑顔を向けた。
「もうすぐ上がりだから、少し裏で話そうか。ちょっと外で待っててくれ。あと15分位かな。」
コンビニ裏の空き地で白井を待っている間、家に置いて来た霧野のことを考えていた。朝から生意気言っていたからベッドに縛り上げて俺の代わりの物で遊ばせてやっている。帰る頃にどうなっているか見ものだな。
仕事を終えてゴスい姿をした白井が黒木の前に現れた。
「なぁ黒木、こういうのはどう?そっちの組を抜けてウチに来ないか?そうすればもう嫌でも奴から離れられるし、お前を守ってやれるんだよ。誰にも手を出させない。」
「ウチっていうのは、お前の実家のことだな。こっちもお前のことを調べさせてもらった。調べなきゃよかったと思ったよ。知らないままあっているのと知っていて会ってるのではワケが違うからな。でもお前、家には長く帰ってないんだろ、というか、帰りたくないからこんなバイトしてそんな格好してぐれてんだろ。どちらにせよ、今のところ答えはNOだな。誰かに守ってもらう必要無し。」
「金払いだってよくなるんだよ。」
「ああ……買収しようって?くくく…、余計、嫌になっちゃったな。金は魅力的だが、今の俺は金で動くことはできても金で人を切れる人間ではないんだな。利権の話はもうやめ、あーあ、こんなこと話すために会いに来たわけじゃなかったのにな。駄目だな。悪いけど今日はもう帰るよ。」
何か言いたげな白井をよそに黒木は霧野の真っている家を目指した。遊ばせていた霧野を元に戻し、夕飯を作っていると例のごとく奥からのそのそと現れ、非難がましい目をしてこちらを見ている。が、それを無視して夕食の支度を続けているが、しつこいほどの視線を感じ、やれやれと言った体で黒木は霧野の方を見やった。
「なんだ?何か言いたいことがあるなら言えよ。」
「今日の、収穫、は、」
(なんだ、まだ息が上がってふらふらじゃないか、可哀そうに。いつまでもそんな可哀想な面をしないでくれ。もっと、酷くしたくなるだろ。して欲しいんだろ。)
黒木は机の上に置いておいたUSBとノートパソコンを指さした。
「美里が今どんなことになっているのか、そこに一部が入っている。見たければ勝手に見ろ。お前にとってそれは収穫でも何でもない、ゴミカス同然の糞情報に過ぎないだろうけどな。」
「……。」
霧野はちらと机の方を見て、顔を伏せ手で覆い始めた。
「お前、美里をそそのかしてどこまで行くつもりだったんだ?どこか行くアテがあったのか。」
「……。」
霧野は顔から手をどけ、赤らんだ顔でしばらく視線を床の方に彷徨わせてソファに腰掛けていたが、ふいに黒木の方を見、また顔を伏せて言った。
「アテはあった。関西方面だ。しかし、美里がいないと意味が無い。繋がらない。」
「関西?上は知らないが俺達とは殆ど交流が無いだろ。美里の奴がそんなところにコネがあると思えない。」
「まぁ、元々望み薄、行ったところで救われる可能性は五分もあるかどうか、しかし五分でも全然良い。何もないよりマシ。駄目だったらまたその場で考える。そこに川名の兄にあたる男がいるんだよ。そことコネがある。」
「なるほど。どうやら離反しているらしいしな、そこの二人は。そこに一時かくまってもらうつもりだったというわけか。で、どうするんだ。その望みも今は断たれた。じゃ、……ここで俺と暮らそうか?」
「馬鹿言うなよ。」
「馬鹿?割と本気で誘ってるんだけどな。愉しいだろ。ここでの、俺との、暮らしは。」
霧野はおもむろに顔を上げ立ち上がり、黒木の方に歩み寄った。掴みかからんばかりである。
「愉しい?それはてめぇだけだろっ、監禁同然じゃねぇかっ、こんなもん…っ、」
「……はぁ、何ひとりで熱くなってんだ?他の奴らの監禁に比べたら俺のなんか随分緩いだろ。今日だって、昼間一人で勝手に何回射精した?帰ってきてドア開けた瞬間から小屋中獣臭いし、今だって人間の臭いしてないぞ。自覚あるか?無いんだろうな。無いから俺にそんなえらそうな態度をとれる。恥ずかしい奴だよお前は。俺はお前を犬に見立てる悪趣味はないが、本当にデカい犬一頭飼ってる気分になる程だ。これが俺じゃなかったからそれだけで死ぬほど責められ焼かれてたぜお前。お前はそれくらいの方がもっと気持ちいいかもしれないから、もしかして、今もまた、そうやって煽って俺を誘おうとしているのかな、ビッチ警官君。どちらにせよ気持ちよかったくせによ。夜だってまんざらでもない、気持ちよさそうにしてるじゃないか。それで、俺だけが愉しいって?笑えるよなぁ。」
「……、……」
「何も言えないだろ、図星だからな。何か、ほんの少しでも俺が間違ったこと言ってるなら、挙手でもして割り込んで指摘してくれて構わない。どうだ?……。何も言わないな。今のところ相違なしという理解で良いな。次、そもそも監禁同然、というのもおかしい話。お前が何か策を練るなら俺は協力する気でいたのに、何の策も思いつかず、葉っぱ吸って俺とセックスセックス、思考放棄。ほんと、どうしようもないよなお前。お前がそういう暮らしを自分で選んでいるのを、今度は人のせいにする。自分は悪くない、自分は被害者、いつまで自分中心でいる気だよ、お前の悪い癖が出てるぜ、ダサいな。人のせいにしとく方が自分は救われるからな。いいよ、それでお前の気がまぎれるのなら、勝手に俺のことを好きなだけ恨めば。人に恨まれるのには慣れてるからな、俺には何のダメージも無い。」
黒木は霧野を一人にした方が良いだろうと、キッチンの方に向かった。プライドの高い奴のことだ、今の説教でこたえたはず。発破をかけてやったのだ。これを反動にして何か策を思いつくかどうかだな。黒木が支度をして戻る頃、テーブルの上のPCの画面がついたまま、そしてUSBが刺さったままになって、使われていたことがわかる。本人は居ない。
確かに相当な映像だが、そんなに衝撃を受けることだろうか。自分が受けてきた折檻の方が相当きつかったはず。それのほんの1/100程の映像でしかないはずだ。食卓に料理を並べている内に、霧野が戻ってきた。さっきまでの上気した様子も、反対に青くなった様子も無い。
黒木が飯にしようぜと誘う前に、霧野が毅然とした面構えで黒木の方を見据えたかと思うと今度はにやにやと笑い始めた。それにしても、もう少し”一般受けする”笑顔の練習をした方が良い。
笑いの表情は元を威嚇の表情を源にするという。進化の過程の中で、人は孤ではなく、共同生活をすることで生きる選択をするようになった。そこで、協調を示す表情をつくる必要が出てきた。共同生活以前に生まれた孤が身を守るために行う威嚇の表情が和らいでいき、共同生活を送る動物特有の、敵意が無い表情を作り上げていったのだ。だから、通常、人間の生得的反応として、例えば仲間内で挨拶する際など、瞳と眉の間の間隔が開き、視線が和らぎ、微笑みを作る。それは、双方の警戒を解く合図となる。はずなのだが、その生得的反応が出来ないのが、今まで見て来た反社の人間には多かった。どこか初めから人という種の生物として、壊れている証の一つである。笑顔ひとつとっても原初的な動物に近い、威嚇から離れられない。黒木は霧野をよく見ているからこれが愉しくて笑っていると理解できるが初対面の人間には決してそうは映らない。
「なんだ?何ニヤニヤしてんだよ。キモイな……。」
「みっつ、しっかり、考えたぜ、間宮……。」
「……何?」
「ひとつめ、お前と二人で関西に行く。それで事情を話し、身の安全を保障してもらえるよう交渉する。しかし、これはほとんど望み薄。そもそも彼らと線が繋がらない可能性の方が高いからだ。ふたつめ、俺の上司神崎さんのところへ身を預ける。が、これも望み薄。そもそも神崎さん自体川名達に見張られている可能性が高い。一番初めに俺が行きそうなところだからな。だから合流する前に捕まって俺もお前も終わりになる。もっとひどいのは神崎さんまで巻き込んでしまうことだ。川名のこと、何癖付けて神崎さんまでこの邪悪な遊びの対象に巻き込みかねない。だからこれは避けたい。もう、俺のせいで他の誰かに、これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。」
霧野はそこで話を切って椅子に座り、乱暴にPCを横にどけ、肘をついた。
「みっつ、こいつを」
霧野は黒木の目の前でUSBを引き抜き、手の中に握り込んだ。
「こいつを連れだして、もう一度初めからやり直す。今度は失敗しない。今の俺なら運転だって代われるし、守ってやれる。」
黒木は黙ったまま霧野の向かいに座り、頬杖をついてしばらく黙っていたが、霧野を上目づかった。
「急に正義漢ごっこか、霧野。どうしちゃったんだ?らしくないな。悪徳警官の癖に。」
「正義?違うね、こいつがいないと、一番いけそうな作戦に乗れないんだ。だからやむを得ないことだ。」
黒木は「ああ、そうですか。」と言いながら、霧野から目をそらした。久瀬から貰ったUSBのデータをコピーして持ってきたのは間違ってなかった。この傲慢で自己中心的な男は、絶対に、口が裂けても、美里を救いたいなどと言うわけがない、が、難癖付けて救わざる得ないから救うという可能性はあるかもしれないと思った。
しかし、この策③、他と比較して、難易度は高い。しかし、失敗した時のリスクは、ある意味一番少ないと考える。①②で失敗した場合、霧野も指摘した通り、霧野ともども黒木自身も責任を問われるかつ関西系組織や警察関係者などの部外者にまで悪影響が及ぶ。対してこの③、失敗したとしても、全て身内で閉じる。全てが、ただ、元に戻るだけということに尽きる。ただ、全てが元に戻った時、霧野への仕打ちが今まで以上に苛烈になる可能性は大いにある。しかし、それはどのパターンで失敗しても同じこと。結局リスクを負うのは霧野ただ一人。だから霧野がやりたいのをやればいい。今の楽な生活を捨ててまでそうしたいなら、そうすればいい。美里は霧野の代わりに今の折檻を受けているのだ。だから、結局③を実行すれば、成功しようがしまいが解放されることも少しは見込まれる。
「じゃあ、3を決行する準備をするわけだ、いいよ、できる範囲で協力してやる。」
「何故だ?」
「あ?」
黒木は顔を上げて霧野の方を見た。
「お前怪しいぞ。何か企んでいて、途中で裏切る気じゃないだろうな。例えば明日にでも二条に告げ口するとか。」
黒木はひとしきり声を上げて笑った後、霧野を向き直った。
「馬鹿だなぁ、しねぇよ、今更、そんなもったないこと。つまらないじゃん、ただ、見届けていたいだけだ。お前の行きつく先を。策が実を結ぼうが結ぶまいが、どっちでもいい。どうせもう時間も無いんだし。」
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