堕ちる犬

四ノ瀬 了

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へぇ、人間の体からこんな音が出るんだ、知らなかった。

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 間宮は霧野に小屋の間取りと設備を案内し終えると、さっさとさっき着ていたライダースジャケットとは違う黒革のジャケットを羽織りなおし玄関口の方へ足早に向かって言った。

「どこへ。」
「どこへってお前……」

 間宮は意外そうな顔をして霧野を振り返って微かに笑みを浮かべた。

「よっぽど疲れてるんだな。頭が回ってないぜ霧野。アリバイ工作しないとまずい。なるべく早く事務所に戻って素知らぬふりをしておかないといけない。一体どうなっているやら。なるべくすぐに戻るから、休んでな。」

「ああ、そうか……」

 ありがとう、と言うべきか、まだこちらに背を向けた男が一体何を考えているのかわからず何も言えなかった。間宮は特に気にした様子も無く出ていった。外で一度大きくエンジン音がして遠ざかっていった。無音。

 霧野が小屋の外に出てみると、一緒に乗ってきた黒い大型バイクは鍵を抜かれそのままになっていた。一瞬だけ戸惑いを覚えたが、考えてみれば、当たり前の話だ。竜胆と久瀬がバイクを見ているのだから別のバイクを用意しておいて戻るのは理にかなっている。辺りは既に薄暗くなり、すぐ近くまで森の奥から闇が迫ってくる。

 間宮が、辺りを散歩する分には問題無いが、森の奥へ行って迷ったら戻ってこれなくなるから、あまり奥まで遊びに行くなよ、と霧野に忠告していた。間宮自身、何も持たずに小屋の裏の森を散策してしばらく迷ったことがあると言っていた。バイクは相当山の奥まで走り、やはり森の奥のここまで来た。状況と間宮に抱き着いているのに必死で、道など到底覚えていない。夜も更けてきた。今自分の居場所もわからないまま、光も地図もコンパスも無しで、無作為に彷徨って下山を試みるのは自殺行為に等しい。
 まだ彼を信用したわけでは無いが、今は待つのが得策だ。間宮が戻ってこなければ、この陸の孤島から出ることは難しいのかもしれない。霧野は冷えを身に感じ、小屋の中に戻った。自由を得た、とはまだ言い難い。ある意味、これもこれで監禁状態ではある。監禁する者がすげ変わっただけだ。

 小屋の中はベッドルーム一つ、リビング一つ、こじんまりしたキッチンと風呂が奇麗に保たれていた。リビングの隅にはアウトドア用品が整理されておかれている。意外だ。人間の意外性を見るのは嫌いでは無い。霧野は部屋の隅々まで物色を続けた。これだけアウトドア用品が充実していれば、間違いなくあっても良さそうなサバイバルナイフの類は一本も置いたままになっていない。キッチンにさえ、包丁の一本、ハサミ、ピッケルのひとつさえ、とにかく少しでも武器として使えそうなものがすっかり抜きとられているのである。

 霧野は着を落ち着けるために、シャワーを借りた。タオルと衣服も借りるが、体格さがあまりないのもあり、丁度よく着られる。また、気を紛らわすために小屋の中を弄りまわす。今は何かしていないと落ち着かないのだった。何かしていないと余計なことばかり考えてしまう……。本当は考えた方が良いことも、今は考えたく、無いんだ。

 テーブルの隅に大麻の束と巻紙、マッチが置かれていた。吸いたければご自由にどうぞという加減に。

「……、……。」 

 いいだろう、少しくらい。こんな特殊な状況なんだ。
 霧野は椅子に深く腰掛け、リビングテーブルに肘をつき、ジョイントを撒いた。マッチ箱を手に取るとカラカラと空しい音がする。中にマッチは2本しかなかった。内一本で火をつけた。吸う。気分が、ああ、のんびりとしたものになってくる。瞼が自然と重くなる。夢の中に居るようだった。今までのことすべて夢で、目が覚めたら、ということは無いとはわかっているが、気分がのんびりとしているおかげで、それもあるかもしれないと前向きな思考。ふわふわと頭の回転がゆるやかになり、木々のこすれる音が、身体全体で気持ちがいい。

 いつの間にか眠りに落ちていたようだった。次に目を覚ました時、部屋の中に人の気配があり。キッチンの方から匂いが漂ってきていた。帰ってきたのだ、無事。もしかしたら、間宮の所業が既にバレていて帰ってこないという可能性も考えないでもなかった。まだ大麻の効果が続いているのか、霧野の心は不自然なほど穏やかであった。口の中に大量の唾液が溢れ始めた。料理なんかできるのか、あいつ、と思いながら、それよりももっと聞くべきことがあったはずなのに、聞きたくはなし、聞くべきことが、思い浮かばない。このまま微睡んでいられたらどんなにいいか。

 間宮は皿を一抱え手に霧野の前に現れて「ああなんだ、起きたか。」と言って向かい側の席に肉塊が皿の半分を占めるカレーと思われる代物を置いた。それから、顔をしかめてしばらく霧野を見ていた。

「食欲があるなら、やるけど。」

 彼は、ずいと、スプーンの雑に突き立てられた皿を霧野の前に押し出した。口を開くより先に腹が鳴った。間宮は薄ら笑いを浮かべて席をたって自分の分をとりに戻り、再び席につくやいなや何も言わず食べ始めた。
 なんだろうか、この不思議な感じは。大麻のせいだろうか。

「少しはゆっくりできたか。」
「え?」
「……」
 間宮は手を止めて、また顔をしかめ、霧野にじっとりとした目を向けた。

「こんな単純な会話が成立しないようじゃ困る。もう相当頭までやられてるのか?」
「……お前に、違和感がある。」
「それはそうだろうな。」

 間宮は謎めいたことを言ったまま、その先を言おうとせずまた食べ始めるたが、また手をとめ、まるでしかりつけるような口調で霧野にまくしたてた。

「いつまで阿保面下げてるんだ、いい加減にしろよ!冷めるだろ。猫舌でもないくせして!」
「悪かったよ……」

 謝ってから、何でこんな奴に謝ってしまったのかと一瞬腹が立ったのだが、口の中に食べ物をいれると何もかもすべてどうでもよくなった。カレーは殆ど肉の味で占められていたが美味いか不味いかで言えばとても美味しく、身体に染みた。ようやく頭が少しずつ回り始める。

「どうなってた?事務所は。」
「大体ご想像の通り。」
「川名は……」
「居なかった。本部の方に顔を出していたらしいが、情報は行ってると思った方がいいな。」
「じゃあ美里は」
「もちろん事務所には居るわけがないな。いや、もしかしたら居たのかもしれないが、俺が見つけられなかっただけで。流石に今の状況で俺が探りまわるのも怪しすぎる。」

 間宮は、スプーンをおき、霧野の方を見すえた。

「美里がどうこうってことが、今のお前の何かを左右するのか。」

 また謎めいたことを言う。霧野が呆けたままでいると、間宮は眉間にしわを寄せ、頭を深く伏せて、はぁ~、と深いため息をついて頭をかきむしり、また勢いよく頭を上げた。

「もしかして、今のお前は俺より知能指数が低いんじゃないか。しかもお前、勝手にそこに置いておいた俺の草を吸ったな!どうりで、いつまでもぼーっとして。はあ。警官の癖して、一体何をやってるのかわかってるのかよ。もう辞職したつもりか。わかりやすく言ってやるよ。生死がどうであれ、アイツは半ば終わりだろ。それをお前がどうして今更気にする必要があるんだよ。大体、お前がアイツをそそのかして、お前の希望通りに外に出られた訳じゃないか。それ以上一体何を望む必要があるんだ。もし責任を感じて心を痛めているなら、お前は馬鹿にもほどがあるな。もっと別の理由なら、もっと馬鹿だ。」

「まだ、完全な自由を得たわけじゃない、」
「完全な自由?そんなもの、あるわけないじゃないか。これでもまだ不満足というわけか、はぁ、贅沢だな。」
「お前、俺をどうしようっていうんだよ。」

 間宮は霧野の質問に、虚を突かれたような表情になったが、その表情も徐々に消え失せ、その顔に見慣れた薄気味悪い笑みが立ち戻ってきた。

「霧野さんは、俺に、どうしてほしいの?」



 三島は川名に伴われて本部の加賀邸を訪れていた。何故自分が、という疑問はすぐに解けた。

 通された奥の和室で老人と子ども、と言っても自分とそう年は離れていなそうな少年が将棋を打っていたのだった。三島は事前に、川名から隠居と孫に会うつもりだから、お前が相手してやるんだなと言われていた。

「降参、もう俺では敵わなくなった。負け越しだな。」

 老人、加賀徹は朗らかに笑いながら言って、訪れた二人の方を向き直った。澪は二人の訪れたのを無視したまましばらくの間将棋盤をつまらなそうな目で見降ろしていたが、ようやく川名の方に重たげに目をやって、それから三島を一瞬見、また将棋盤に向き直った。

「なぁんだ、美里君じゃないんだ、つまらない。残念だな。また俺の知らないガキを連れて来て。」
「……。」 
 三島は、てめぇの方がガキじゃねぇか生言ってんじゃねぇぞこのクソガキ。と白けた目をして川名のすぐ後ろから澪を見降ろしていた。

「多少は張り合えると思いますよ。」

 川名は澪にそう言って徹の方に向き直り「奥で少し、話しましょうか。」と手を差し伸べた。三島は、随分距離が近いなと思った。川名が徹を伴って部屋を出ていくすれ違いざま「手抜きするなよ、面倒臭いから。」と囁いて意味深な笑みを浮かべるのだった。

 部屋に残された三島は、挨拶もそぞろにとりあえず頭を下げ、さっきまで徹の座っていた位置に座った。途中で終わったままになっている。ここから勝とうと思うと徹がさじを投げただけあって相当に難しいが……。
 澪は指を一本立てて、黙ったままでいる。

「何です?」
「ここからやるなら10万、最初からやるなら1万賭けてやりましょうよ。」

 澪はゆっくりと視線を三島の方へ上目遣い、子どもっぽく笑った。

「どうします?」
「………じゃ、ここからやる………」
 澪はそうでなくては、と、目で語って、どうぞと手の平を三島の方へ向けた。
 徹の投げだしたゲームに乗って駒を進めていく。

「誰も俺に媚びてこない。」
「あ?」
「川名さんとこの奴は誰も俺に媚びてこない、だから好き。」

 澪の瞳が三島の方をじっとりとみて、三島は見ていたくないな、と直感的に感じた。

「へぇ、そう、でも、俺の顔じゃなくて盤を見といたほうがいいんじゃないすか。そんな余裕あんの?」
「……、……。」

 形勢はじりじりと三島の方に傾いていく。打つ速度が澪がゆっくり打つのに対して三島は待ち構えていたかのように数秒の間もおかず駒を返す。澪が声に出し唸り出し悩みだしたところでようやく三島は澪の顔を正面からしっかり見た。
 なるほど、先刻見た徹に似ているところもあるが、武骨な彼に比べれば随分線が細く、顔のつくりも薄く、一見飄々として見える。しかし、目の奥の、どろりとした何を考えているのかわからぬところなど、同年代の人間には珍しい。生来の血生臭さが隠しきれていない。野蛮な毒々しい気配がある。でも、今はこっちが圧している分、何も怖くない。これがヤクザの本物の子息というものか。出自がこの家では、可哀想と言えば可哀そうだ。
 三島は再び盤の方へ目を落とした。

「降参?」
「まだ、っ……」
「これ以上やっても無駄かと思いますが。」
「五月蠅い。」

 あ、そう。じゃあ勝手にあがいて勝手に死ね。上から見ててやるから。お前が死ぬのを。

 泥仕合は続く。川名が一人で戻ってきた頃、ようやく澪が白旗を上げたのだった。

「どうだ。なかなか面白かっただろ。」

 川名が三島と澪の間に胡坐をかいて座った。川名は盤を見て「あーあ、酷いなぁ~……」とわざと馬鹿にするような作った半笑いで言った。澪は無言で立ち上がって勢いよく障子をあけ部屋を出ていった。どすどすと乱暴な調子で足音が遠ざかっていった。

「命令通り、手加減してやらなかったか。」
「組長のお言葉もそうですが、金がかかってるんで。」
「そうだったな。」

 また障子が行き酔いよく開き、札束を生で掴んで戻ってきた澪が、盤の上に金をゴミの様に投げ散らかし「もう一回やろう。」と言った。川名は微笑まし気に澪を見ていた。三島は横目で川名の方を伺うが、川名は「別に時間はあるから、つきあってやれよ。」と言う。

「わかりました。が……次やるなら、倍にしないと。」
「何?」
「掛け金を倍にしないなら、やらないって言ってるんですよ。わかりましたか、お坊ちゃん。」
「……何故」
「だってどうして、俺が勝てることが確定している勝負で、同じ金額でやる必要があるんですかァ?ねぇ、組長。」

 川名は黙ったまま何も言わず、成り行きを見ているようだった。澪は三島の前に再び腰を下ろし、冷え冷えとした瞳で三島を見るのだった。

「ふーん、いいよ。じゃあ、お前が勝ったらお前の希望通り二十万やるよ。その代わり俺が勝ったら、俺は金なんかいらない、俺の前で裸になって三回まわって吠えろよ。」

 三島は澪の目を真っすぐ見つめ、初めて笑みを浮かべた。

「ああ、いいですよ、あなたがそれでいいなら、それで。」

 結果、先刻の三倍の速さで澪の負けが確定したのだった。
 三島にとって賭け事とは、リスク、リターンが大きければ大きい程、力が発揮されるものである。
 川名は、盤を覗き込み、そして澪の方を覗きこんだ。

「全然だめだな。なんだこれは、酷い、惨敗も惨敗じゃないか。素人の俺が見てもわかるぞ。」

 川名は澪に顔を近づけ、目を細めた。

「勝負運無し、人を見る目無し、情に流されすぎ、下の下の、つまらん試合だ。あんまり馬鹿みたく無駄遣いするなよな、澪。忍の馬鹿と同じになるぞ。」
「…………。」

 川名は身を引き、未だ俯いたままでいる澪の横顔を見ていたが、川名のポケットの中で携帯が鳴った。川名は黙ったまま立ち上がって相手を確認し、電話に出た。

 川名はしばらく黙ったまま電話の向こうの声を聴いていた。ごり、ごり、と音がする。三島は川名の左足の指が畳を引っ掻くようにしてつきたって、畳を削るような動作を繰り返しているの見た。

「で?」

 さっきまでの調子とは違う冷え冷えとしたいつもの声が川名の喉から出、三島は急に空気が寒くなったように感じた。澪も同じなのか、いつの間にか川名の方をじっと見上げていた。
 また、電話の向こうから、ぼそぼそと声が続くが、川名の顔色自体は電話に出る前から変わらず、涼しげであり、「ああ、そうか。」と言って、髪をかき上げた。

「ああ……わかった、これからすぐ戻る。」 

 川名は電話を切ってポケットに滑り込ませながら澪を見降ろした。

「悪いな澪、本当はもう少しいるつもりだったが、急な用事が出来た。三島、帰るぞ。」

 有無を言わせない、川名が三島達に使うのと全く同じ支配的な口調。川名は澪の返事も聞かず背を向けさっさと部屋を出ていこうとする。澪は立ち上がって何か言いかけたが、黙って座りなおし「また来いよ……」と小さく呟いた。糞生意気なガキだと思っていたが、川名に対しては、素直な子供のようである。

 廊下を歩きながら「ついにやったぞあいつ。」と川名が言った。珍しく声色にさっきよりもさらに愉し気な雰囲気があるのは気のせいだろうか。そういう時は嫌なことが起こることが多い。組長の気が上がるということは、そういうことなのだ。

「何ですか?」
「ついに逃げたんだよ。」
「……逃げたって……まさか。」
「そうだ、霧野だよ。」

 三島は、何をやってるんですか!霧野さん!と内心激しく動揺しながら黙って川名に追従して歩いた。しかし同時に、流石です澤野さん……という憧憬の思いも無いでもないのだった。ただ、ゲームが始まるのはここからだということだ。本物の鬼ごっこである。




 意識が途切れ途切れに、覚醒したり、落ちたり、を繰り返し、断片的な会話、景色が目の前を巡っては消えた。

 美里が、次にはっきり意識を取り戻した時、辺りは殆ど漆黒の深い闇、黒一色に包まれていた。意識の上昇と共に、じりじりと燃えるようにな痛みが肉体に戻ってくるが、致命的な痛みは無かった。あばらが痛む。あれだけの事故だ、もっと痛んでもおかしくないが…‥。

 美里は闇の中で横たえられた身体を動かしてみるが、身体は思った通り動いてくれる。コツコツと板に身体が当たる音で、自分が固い板の上にいることはわかる。しかし、何も見えない。目がいかれたか、と目元を擦るうちに微かな光がぼんやりと見えてくる。それは、小さな、光の点である。

「……、……。」

 美里はごくりと唾を飲み込んだ。心拍数が急劇に上がり始め、耳元でどくどくと自分の強く脈打つ血の音が轟音のように聞こえ始めた。全身がじっとりと汗で濡れ始め、美里は自分の考えていることの真偽を確かめるように、腕を、恐る恐る自分の寝ている板に沿って這わせていった。密着するほどすぐ身体の横に、同じ手触りの板の壁がある。反対側の腕も同じようにすぐ、板にあたった。板についた手をそのまま這わせていくと、板は直角に曲がって、自分のすぐ真上に板の天上がある。そのまま反対側でまた直角に折り曲がる。蹴るようにして足を上げようとすると膝が天井にあたり、どん、と鈍い音がした。手を頭の上へやると、そこにもしっかりとした板の壁がある。身体をほんの少し下にずり下げると靴の底が、ごつんと壁にあたった。

「……、……。」

 全身に大量の冷や汗が流れ始めた。痛みが消えていってうすら寒くなり、身体ががくがくと震え始めた。

 棺だ、これは。

 身体を更に動かして回ったが、出口は無い。あるわけない。棺の中に自分がいて、微かに見える穴、それは棺に開けられ、地上に向けて突き出ているに違いない空気穴なのだ。天井を探るうちに穴の突き出た筒に指先が当たった。まだ状況を完全に飲み込めずに、呼吸が早くなるのが止まらないが、無理にでも冷静にならないといけない。あまり早く呼吸しすぎると棺内の酸素濃度が下がって、この小さな穴だけでは、対処できなくなる。つまり酸欠を起こし、死ぬのだ。落ち着け、落ち着くことだ。暴れてはいけない。

「……、……。」

 考えろ。美里は棺の中に蹲りながら、震えを抑えるように腕を強く掴み、呼吸をなるべく浅くすることに集中した。大丈夫、今すぐ、どうこうと、いう、わけじゃ、ないんだ……。

 以前、事務所の庭の隅に、竹が不自然に三本突き立っていた景色が脳裏に浮かんでくる。
 そこに誰が埋められているか、何故埋められたのか、組の全員が知っていた。見せしめでもあるからだ。
 竹が立って、三日ほどした頃だった。

「真ん中のは、もういいかな。」

 川名は美里に「詰めてこい」と言った。竹は、地面から抜くには深く突き刺さりすぎている。深く埋められた棺に突き刺さっているのだから、引っ張って抜くのは難しい。美里は真ん中につき立ってる竹を地面すれすれの根元から切った。そして地面にほんの小さな穴ができる。羽化を迎えた蝉の幼虫が這い出てくるほどの小さな穴だ。
 最初、その穴に向かって脚で周辺の土をかけて埋めていったが、砂が吸い込まれていくだけで、なかなか穴が埋まらずイライラし、最終的に濡らした布をぎゅうぎゅうに詰め、放置した。

 さらに二日経った。真ん中にあった竹はもう無い。布は筒の奥に詰まり、上から土がかぶさって、初めからそこには何も無かったかのような更地になっていた。美里は、二本の竹の間に突っ立ってしばらく煙草を吸いながら自分の足の下にあるものについて考えたが、何も感じるものは無かった。

 それよりも、一体いつまでこんな目立つ、不格好な竹を刺しておくつもりなんだろうか、邪魔なんだから、はやく後の二本もさっさと”狩り取って”しまえばいいのにと思うくらいであった。見せしめのためだろうが、視界に入る度に愉快というより不愉快な気持ちなるのだ。

 美里は暇つぶしに残っている竹の近くに立って足元の下のことを考え始めた。すると、さっきまで、事務所に来るたび視界の端に移って不愉快と思っていた気持ちが、反対に、なんともいえない愉悦に変わり始めた。まだ生きているだろう。ここに人が立っていることが、わかるのだろうか。

 美里は、きまぐれに、その、空気穴に指を入れたり、抜いたりを、繰り返す内に、微かに、その、底の見えない穴の奥からうめき声が聞こえた気がした。指先1つで人の生死を左右できる。吸い終えた煙草の吸殻を火が付いたまま穴から落としたら、土の中から聞いたことの無い素晴らしい、まるで音楽のような音が聞えたのだった。分厚い板と分厚い土の層にはばまれているせいで、耳をよくすませなければほとんど聞こえない、ほんの微かな絶望の絶叫音だったが、美里の耳から入ったその音は頭の中で大きく反響して、盛大に響きわたるのだった。へぇ…………人間の体からこんな音が出るんだ………知らなかった……。

 身体中に、生き生きとした血が回り始めるのを感じた。美里はいつのまにかその場にしゃがみ込んで顔を伏せ、震えていた。あははは!まだ生きてやがるんだ、この状況で、一体どんな気持ちなんだろうか。笑いがこみあげて、止まらないのだ。ここ三か月くらい笑った記憶が無かったが、今とても愉しいんだ。心から笑えてしまうんだ。美里は更に煙草に火をつけて半分くらいまで吸ってから、耐え切れず穴の中に落とし、すぐさま指を突っ込んだ。声の振動が竹を伝わってきて、こちらの身体が気持ちよさに震えてくる。

 もっと啼いていいよ……。それが俺の沈んだ気分を紛らわせ、落ち付かせるから……。

 この不浄な世界で唯一愉しい。それが良くないことだろうなと思う程、もっと愉しいんだ。どうしようもないね。美里はふたたび地面の上にしゃがみ込んで余韻をあじわっていたが、勢い立ち上がってその周辺を野良猫のように悪戯にうろうろとし始めた。振動が響くだろうか。

 夢中になって遊んでいる内に、視線に気が付き顔を上げると、事務所の窓から川名がこちらを見降ろしていたのだった。ゆっくりと、興奮を隠すようにして、川名の元に戻った。

「右のも、もういいかな。」

 美里はすぐさまとってかえして、今度は穴から水を注ぎこんでいった。それで死ぬとは思わない、というか、死ななくていいよ、まだ死ぬな、面白くねぇからよ!あははは!中がどうなっているのか想像するだけで身体がぞわぞわしてたまらないんだから……!!!血が、下半身の方に、さっきもめぐりかけていたが、また、血が、溜まっていく。いつの間にか、勃起していた。そうやってしばらく遊んで、遊んで、同じように、終わりにして、竹はあと一本だけになった。どうしようかな、どうしようかな、と止まらないドキドキと共にそわそわと、地面の中の、半死半生の肉塊のことを思っている内、また3日がたった。

 翌日、美里が事務所行くと竹のあった場所に、大きな穴がぽっかりと、人一人寝れる分空いていたのだった。

 許されたのだ。美里は顔を伏せて、自分が激しく歯噛みしていることに気が付いた。おもちゃを取り上げられたような気分になったのだ。彼だけが唯一許され、彼は未だ川名の元に居るが、すっかり性格は変わってしまった。

 まさか自分が同じ目に遭わされる日が来ようとは。

 思い切り太ももに力を込めて板を蹴り上げてみた。鈍い音がするだけで手ごたえの一つも無い。わかっていたことだが、わかりたくなかった。
 
 自力では絶対に脱出不可能の牢獄である。
 
 このまま、殺す気だろうか。耳をすますとさっきまで、自分の高まっていた血の音で聞こえなかった音が微かに聞こえるようになった。自分の上を、人が歩いている音がする。ああ!一瞬空気を大きく吸い込んで口を開きかけたが、ため息と共に吐き出す。叫んだっておそらくほとんど聞こえであろうし、寧ろ、上に居る奴を愉快な気分にさせるだけだ。命乞いなどしたら、余計に、そうなる。だって俺がそうだったんだから。気紛れに穴を塞がれるかもしれない。

「くそ……」

 狭い棺の中で、身体を動かし仰向けから何とか姿勢を横向きに腕を枕にして横たわった。仰向けのままでいると光が五月蠅いし、本当に埋葬されているような気分になり、焦りが増す。楽な横向きなって、瞼を伏せ、考える。考えることしか、やれることがないからだ。どうしようもない。

 しかし、あれだけの事故で手足の骨の一本もイッて無かったのは奇跡だな。もぞもぞと横たわった身体を動かしている内、ところどころ手当のあとがあることに気が付かされる。おそらく、あそこで意識を失ってから連れ戻され、応急処置をされた上での生き埋め処置になったのである。であればまだ、希望はあるのではないだろうか。いや、そういう希望を持たせておいて、永遠、つまり衰弱死するまでここに居れておくつもりなのかもしれない。事故であのまま逝ったほうが……ああ、そう考えると、また、狂いそうになるが、駄目なのだ。考えない方がいいのか?しかし……。

 美里はいつの間にか自分の手が棺の板をガリガリと無意味に引っ掻いていることに気が付いた。指先が熱く痛い。爪がはがれたかもしれないが、それさえ目視できない。さわるとぬるぬるとして熱い。笑えた。まだ生きてるってことはわかる。痛みがそれをわからせてくれる、残酷に。時の流れさえ、わからない。ここに入ってどれくらい経っているのか。しかし、小さな穴から差し込んでいた光が徐々に小さくなることで、地上が夜に差し掛かっていることがわかる。完全な闇が、もうすぐくる。

「ぁぁ……」

 ついに、光が無くなった。それだけで息がつまった。それが塞がれたものなのかどうか、自然呼吸を大きくして確かめている自分がいた。何も見えない闇の中の恐怖で、叫び出したくなる。が、駄目だ。一度恐怖に飲み込まれたら終わりなんだ。息はできる。穴は塞がったわけでは無く、ただ、夜が来たのだ。何夜、数えればいいのだろうか。乾く。しかし水も食料も何もない。ライター、そう思ってポケットを探るが、持ち物は全て没収されているようだった。いいじゃねぇか、火くらい。しかし、ライターを使いすぎても酸素が減るし、ライターの光に縋りすぎて、切れた時、発狂しかねない。だからむしろ良かったと考えるべき。……、……。

 そうだ……、霧野は、無事に行っただろうか。もしかしたら、横に同じように埋められている可能性もあるよな。何本この竹は立っているのだろうか。あの時の再現みたく、三本並んで立っていたらマジ笑えるな。いや、笑えないか?美里はいつの間にか自分が声を上げて笑っていることに気が付き、そっと顔を伏せ、また呼吸を整えるのに集中し、唇をきつく噛んだ。
 
 もし横にお前が埋まってたら、そうしたら、俺はもしかしたら救われるかもしれない。何故なら、俺がお前を埋葬するために救われるからだ。笑える話だな。もし無事に行ったとして、俺はこんなところで、一体何をやっているのだろうか。俺のやったことは間違っていたのだろうか。ああ、そう、こうやって考える時間だけは無駄にあるから、中の奴は発狂するんだな。よくわかった。でも、他にどうしろっていうんだよ。後悔しているかどうかで言えば、している。でも、他にどうしようもなかった。だから、別にいいんだ。

「……」

 アレは、おそらく間宮だったろうな。

「……」

 霧野と間宮が自由になって、何故俺がこんなところにいなければいけないんだ。足が棺の壁を勢いよく蹴っていた。大体あの猫はなんだ?!!俺が寝不足だったのもあるが、奴が、わざと狙ってあそこに離したんじゃないのか!!?あの野郎!!!善人面して美味しいところだけ持っていきやがった!殺してやる!ここから出たら真っ先に殺しにいってやるからよ!!!いや待て……横に埋まっててくれたら嬉しいかもしれない、なんて、あまりに惨めすぎるか。三本だったら本当にあの時の再現だな。棺の中が蒸れ、急に温度が上がっていった。

 焦り、狂気、苛立ち、恐怖、まどろみと覚醒を繰り返し、いつの間にかまた小さな光の穴が開く。
 朝が来たのだ。いつから埋められているのか知らないが、とりあえず一夜は越えた。

「やっぱり……」

 殺すべきは川名なんじゃないのか。あの時直感的に思ったことに、間違いはない。俺をこんな目に遭わせて、……もう二度と顔もみれない可能性も考えれば、あの時、屋敷で見せつけられた時に、勢いに任せてそのままぶっ殺していれば良かったと思う。そうすれば……いや、あの状況の俺はその判断はできない。

 しかし、手当までして、すぐにこうして、殺さないでいると決めているのも、あの男なのだ。今自分の存在すべてをあの男に握られているのだ。今までもうそうだったが、今が最もそう感じる、感じざるを得ない。代わりにもっと忠誠を誓うか?誓わされるのか?また人が自分の上を通る気配。その度に心拍数が跳ね上がる。しかし、慣れさせなければいけない。無になれ。いつものようにやるんだ。冷静と狂気の狭間で、冷静の側に重さを置いておくのに集中しなければ。そうでなければ、もし掘り返されることがあった時に、判断を誤る。どきどきする、身体が、妙な、生暖かさが下半身にある。失禁?発汗?わからない。狂いそうだからか。また発汗している。水分を無駄遣いしてはいけないのに。考える程に、焦りで頭の中が発火したようになって、また脈拍が上がり、叫びたくなる口を押え、目をきつく閉じた。ジブンガヤッタコトヲ、コウカイシテイルカ?川名の特徴的な低い声が脳の奥から響いて聞こえるような気がする。いつまでも俺の脳を支配するな。

 あの男が、こんなつまらない方法で俺を殺すだろうか。やるならもっと酷い方法をとるんじゃないか。これはまだ序。だから大丈夫。「死んだほうがマシと思わせるような目に遭わせる」、川名が霧野に言った言葉だ。
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