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現実世界には、地獄より地獄といった場所が沢山あるんだよ。俺はそういう場所を作るのも、ただ観に行くのも好きなんだ。
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「何?返せない?」
ああ、と開きかけた久瀬の口から正しい言葉が発せられることは無く、拳が顔面、続けざま身体の側面に車に衝突したかのような衝撃と何か折れる嫌な音がして部屋のふすまに背中からぶつかって倒れた。ふすまは外れ、久瀬の身体は音楽機材で散らかった隣室へ転げた。後頭部を強く床に打ち付けたせいで天井が回転して見える。
「……。」
胸倉をつかまれ上まで引き上げられた。目の前に冷めた瞳をして、額にうっすらと汗をうかべた竜胆の顔があった。普段の人を食ったような顔つきはどこにも見当たらない。
「聞き間違いかな……今、ああ、とか言いかけたように見えたけど。次が最後だって言ったよな、俺……。」
無理やり振り絞って出したような声だった、今そこにヤクザらしい凄味は一切無い。
久瀬は、竜胆と対称的に微笑を浮かべていた。ああ。もう、マジで、どうでもいいな全部よ。死ねっていうなら死ぬよ別に。自分で自分を殺す勇気が無いだけなんだからさ。ああ。自分のしょうもねぇクソ同然の才能に縋っていたいだけなんだから。それだけしかやったこなかったから今さら他にどうすればいいのかわからないんだよ。それにしても痛いな。ろっ骨が折れたかもしれないな。
「金?無ぇんだよ、そんなもん、馬鹿が。今まであったためしがあるか?無いだろうがよ!お前こそ……いい加減っ、俺の言葉なんかっ、信用するなよなっ!馬鹿なんじゃないか!?……で?ヤクザなんだろお前、保険金でもかけて俺を殺すのかよ。別にそれでいいなら、それがいいね。それともお前が俺を直接嬲り殺すという取り決めにでもなっているのかな、できるのかな?、そんなことが、お前によ……。」
久瀬の顔は痛みによって汗で濡れながら青くなっていったが、安らかな、人を馬鹿にするような表情が変化することは無かった。久瀬は、折れたのが肋骨で良かったと思っていた。ここまできて指じゃなくて良かったと思うのだからどうしようもないよな。顔を潰されるか指を折られるかなら、顔がいいと思う。
表情の険しくなる竜胆とは反対に久瀬の目元と口元に笑みは消えない。掴まれていた胸倉を離されたかと思えばまた同じ位置に蹴りが入って倒される。久瀬は、上半身を起き上がらせながら、竜胆をじぃっと上目づかった。彼の顔に普段浮かぶ笑みは今日に限っては一切消え代わりに興奮で上気している。今冷静なのは、お前ではなく俺の方。だったら、まだなんとかなるかもしれない、今までのように。久瀬はそう思った。竜胆は久瀬から、もう見ていられないというように目をそらした。
「組長に……」
竜胆はそれ以上言葉を続けられないで黙った。
「お前のところのお偉いさんに決めてもらおうっていうのか。へぇ~やっぱりできないんじゃないか。お前は自分の意志で俺を痛めつけることができないから、そうやって上の命令を待つ。指示待ち人間に過ぎないんだ。」
再び視線が久瀬の方へ戻ってくる。
「さっきから随分と偉そうだよな、お前、自分の立場わかってんの?」
「わかってるよ、俺は。お前の方がわかってないね!」
暴力。そのまま部屋の外まで連れていかれる。されるがままになっていた。アパートの外に見たことが無い外車が停まっており、運転席に一人、後部座席に一人、後部座席に竜胆とその男に挟まれ座らされて車が急発進した。
ああ、これは本当に死ぬかもしれないなぁ。と、横目で竜胆を見るが、彼は窓枠に肘をついて外を見たまま動かない。たまに親指の爪を噛んでカチカチと音を立てていた。車は彼らの事務所に向かうのかと思えばそうではなく市街地を抜け久瀬も何度か足を運んだことがある大劇場の方へと向かっていた。大ホールに通された。
「君が、久瀬光太郎君ね。」
貸切られた大劇場にピアノが一台置かれ、500席以上ある客席の内たった一席、最前列の中心に見たことの無い男が一人、座っていた。彼が竜胆のボスなのだろう一目見て分かった。広い劇場の中で彼の周囲だけ空気が淀んで見えるからだ。久瀬の感性は鋭敏に働いて、相手の姿をいつも感覚的にとらえた。座っている男の前に立たされていると、自分が彼を見降ろしているのに、見降ろされているように感じられる。
「んー、ギリだな。」
「……。何、が?」
「今から身体を売るとしたらギリギリってこと。あ、臓器の場合は別にそこまで年齢は関係ないんだ。臓器って意味じゃない。」
「そんなことしてまで生きていたくないです。保険金でもかけて殺していただいて結構なので。」
「何勘違いしてるんだ。保険金?はぁ、どうしてそんなつまらないことをしてわざわざ終わらせてやらなきゃいけないんだよ。そんな面倒なことして一体何が面白いの?”そんなことしてまで生きていたくない”?そんなこと言うなよな……余計にそうしてやりたくなるだろ。」
「……。」
久瀬は自分の立場の危うさを、この、異常の側の人間の前に立って初めて身をもって感じた。普通に会話をして話が通じるタイプの人間では無い。つい竜胆の方を横目で見るが、彼は下の方へ視線を彷徨わせていた。彼が何に焦り怯えていたのか分かったような気がした。
「俺に隠れて一体何をやってるかと思えば。俺が隠し事だとか嘘だとかが嫌いなのは知ってるよな。」
竜胆が「はい、知ってます。」といったきり黙って、見たことの無いような暗い目をして男の方を見ていた。
初めて久瀬が竜胆の家に行った時、そこは久瀬から見て、腐敗したセックス空間であり、常に4人以上の女が竜胆のために待っていた。竜胆は、実家と折り合いが悪く家を出てからというもの、根が怠惰のため女を捕まえては食わしてもらう生活、つまり、元々はヒモ同然の暮らしをしていたのが、女を一人でなく複数囲いたい思いから一念発起、喧嘩慣れした腕をかられて業界に入ったのだった。彼の囲っている女達は決して薬漬けにされ竜胆と共にいるのではなく殆ど、彼女ら自身の強い性欲と希望から、男としての見目も腕力も精力も強く勃起時間もかなり長い(薬を使えばもっと持続し耐性もある)彼と共にいるのであり、女同士の仲も、入れ替わりこそたまにあれ、まったく悪いものでは無かった。彼らによる彼らのための楽園なのである。きょうちゃん、きょうちゃん、と女の高い声が、天井を突き抜けるほどの大きさで響くこともあった。杏蘭という彼の名は、この部屋の中で異常に飛び交っており、久瀬は竜胆に自ら名乗られる前にこの部屋で彼のフルネームを知ったほどであった。
竜胆には友というものは無く、作り方も知らない。人に寄生する、人を寄生させる才能だけがずば抜けている。それで承認欲求も満たされ、闇の仕事での薬の売買にも彼の能力が生かされた。
最初、久瀬は竜胆の顧客の1人に過ぎず金銭のやり取りも行われていた。しかし、常に久瀬には金が無かった。
「もうお前から、買えない。だから店にはもう来ないでくれないか。」
売買は主に久瀬が小金を稼ぐためにしぶしぶ働いているナイトバーの裏やトイレの中で行われた。いつからだったか竜胆がわざわざ久瀬の元に通ってくるようになっていたのだった。最初こそ事務的な会話しかしない二人であったが、久瀬が勤め先として場末の酒場を転々とすることが多いので、彼の空き時間まで飲みながら待ち、流れでたまに飲むようになり、彼の出番にあたれば彼の仕事を見ながら待つという流れが出来た。久瀬は久瀬で今は、ピアノを触ること以外に興味が無かった為いつの間にか互いに最も会話、交流のある相手になっているのだった。
竜胆は「そうか、わかった」と割り切ってその日は店を去ったのだが、1週間もするとまた久瀬の前に現れるようなり、久瀬は久瀬で禁断症状に悩まされ全くなにひとつ弾けなくなって初めて人の前でボロボロと涙を流すまでに至ったのだった。
その辺りからだった。売人と顧客という関係性が崩れ始めたのは。薬の横流し、契約の無い金銭の横流しが横行。返済しきれない分の金を竜胆が陰で立て替え続け、久瀬は竜胆との友情を利用することに味をしめていた。双方、他に交友の方法がわからなかった。薬があればずば抜けた物が作れるし演奏もでき、元々才能が無いわけでは無い久瀬の評判は少しずつ広まっていった。演奏の場が広まるのはもちろんのこと、業界からサウンドクリエイトを依頼されたりと、以前に比べ多少の金を稼げるようにはなったが、竜胆が立て替えた分の金銭に比べればまだまだ象と蟻程の差があった。それがついに、久瀬の評判が広がった結果が元で、川名の前に事の全貌が露見したのである。竜胆が金を立て替えていようが、組の財産の私有化、無断の横流しは厳禁である。一度例外を許せば、組織の締まりが悪くなる。それで、久瀬が今までの横流し分全てを一顧客として自力で全額返済できれば、無かったことになるはずのところ、底辺クリエイターの久瀬がすぐさま金銭を用意できるはずも無く現在に至る。
「光太郎君はウチの竜胆と随分仲良くしてくれたらしいね。ありがとう。確かに俺達のような仕事に就いている人間は、業界の外に仲の良い人間を作ることが非常に難しい。孤独なんだよ。」
「……。」
「俺も音楽に多少の嗜みがあるから、君の演奏をまず聴いてみたいな。」
「は……、」
「……、”は”の次は”い”だぜ。光太郎君。光太郎君、君は今から、俺が良いと言うまでそれ以外の言葉を俺の前で使うなよな。使った瞬間に、今日、君をここに連れて来た男達の手で光太郎君をそのまま売りに行かせるから。どこにだって?ふふふ、現実世界には、地獄より地獄といった場所が沢山あるんだよ。俺はそういう場所を作るのも、ただ観に行くのも好きなんだ。今風に言えば、ダークツーリズムとでもいうのかな。だから、光太郎君がもしそういう地獄に行ったら俺は飽きるまで定期的に見に行くんだ。愉しみだね。」
「……はい。」
「俺の想定を遥に下回るような下手糞な演奏をしやがったら竜胆ともども始末するから。」
竜胆は関係ないじゃないですか、と、言うことが出来ないから「はい」と言って、また竜胆を探り見たが、もうまったく目が合わないのである。久瀬が視線をピアノの方へやりかけた瞬間に竜胆が「あの」と声を出し、男の目がすぐさま竜胆の方をねっとりとした視線で見始めた。
「何だ?」
「ここまでする必要、あるんですかね。金は俺が全部出してます。だから組に損害を出しているわけじゃないじゃないですか。だから、堅気のそいつをそこまで責める必要はないと思います。貴方に黙っていた罪があるというなら、俺に責任があるのであって、そいつには無い。責めるべき相手が間違っています。」
男はしばらく黙っていたが口元にこの場の緊張感にそぐわないような柔和な笑みが浮かんで、久瀬は見たくないその口元から目が離せなくなっていった。竜胆とつるんでいる間、特に気心知れてからは、彼がそういう業界の人間であるということをほとんど忘れかけていたが、初めて会った頃の彼には、確かに今目の前の男に在るのと同じ、違う世界の人間の雰囲気が少しはあった。それに比べても濃度が粘度が違うのだ。近くに立っていたくない。
「なんだ、そこまでわかってるなら、もうわかりきったことじゃないか。その通りだぜ、竜胆。だから、お前が大事に思っている堅気の光太郎君を責めてるんじゃないか。」
男の視線が再び久瀬の方に戻ってきて「竜胆のためにも一肌脱いでやってくれよ」と言って微笑んだ。
「ああ、緊張して手が動かないっていうなら何でも、どんなのでも打ってやる。どうする?」
「……」
「ああ、ごめん、忘れてた、はい、しか言えないんだったな。そうだな。」
「はい。」
「竜胆、そういうわけだから一番上等で良いのをぶち込んでやれよ。それでどこまでやれるか見るから。流石に俺の目の前で不正はできないな。」
薬は効きすぎるくらいに効いた。しかしここまで効くということは、後からそのツケが回ってくるということ、地獄だ。だとしても、だとしても、だ、今この瞬間だけは、これで、乗り切るしかないんだ。ものすごく高く遠くの方、まるでこちらが海の底に沈んでいて海の上の岸辺立つ人間が発しているような程の遠さから、アア、スゴイ、テンサイダナ、タシカニ、という棒読みに近いような男の声が聞こえてくるのだが、それも、もう現実なのか非現実なのかわからない、ただ走っている。ただ自分と、もうひとりのために。
終わっていい、その言葉が微かに聞こえてた気がしたが定かではなく、誰かが自分の身体を背後から抱き留められることで終わった。それも終わって良いかわからず鍵盤にしがみつくようになっていた久瀬を、竜胆が後ろから無理やり引き剥がしたのだった。
「もう、いいでしょう。」
「……お前、相当にそいつがいいんだな。」
「無意に堅気の人間を巻き込むなと普段組長も言ってるじゃないですか。その結果がこれですか。」
「そうだ。”無意に”はな。竜胆、これは無意じゃないだろ?有意だ。明らかに。お前にとって有意なことだ。」
「俺にはそうは思えない。こんなことして……。」
川名は覗き込むようにして、竜胆の抱え込んでいる男を見た。
「光太郎君は今ほとんど意識が無いね。今の内に、お前の手で、左側の指の腱でもほんの少し切っておいてあげたらいいんじゃないか。お前がやらないっていうなら俺が指ごと一本とる、それはお前も嫌だろう?だから、お前がやれ。どちらにせよ、そうしたらもう、今回みたいなことは起きないだろ、二度と。お前にやられたことも彼にはわからない。薬の後遺症で動かなくなったと思うだろう。そう。お前だけが、永遠に責任を感じ続けるんだよ。」
「……。」
「それに、お前の言う通り、腕は確かだったな。本物だよ。音楽を特段聴かないらしいお前が良いと言うからあまり信用してなかったんだがな。プロにはなることは不可能になるとしても、まったく使い物にならなくなるわけでもあるまい。行くところが無いっていうならウチで預かってやる。そうすればお前も俺に隠れて影でコソコソと彼と会う必要も無いし、もう、二度と、離れなくて済むだろ。俺もこういうタイプの話し相手が1人くらい欲しかったんだよ。野蛮なのばっかりだからな、ウチは。」
……。
姫宮診療所から退院した久瀬は、真っすぐ竜胆のマンションに向かっていた。彼は在宅だった。Tシャツと下着姿で、無言のまま久瀬を見ていた。まだ朝も早いというのに、家の中から凄まじい性と精の匂い、ケミカルな薬品臭が漂ってきて久瀬は後ずさって咳き込んだが意を決して中へ入った。背後で扉が閉まる。いつも最初は鼻が馬鹿になりそうなのだが、慣れてしまえば何ということも無いのだ。臭いを嗅いでいるだけで、頭の中がふわふわとしてきて、直接入れてないにしても、何か身体の中に良くない成分が染み込んでいくのがわかる。
部屋の中には女が3人と少年が1人いて、肉が絡まり合って、さっきまで竜胆がいたらしいスペースが生々しくシーツが皴になって空いている。竜胆が無言で彼らの方へ戻っていくのを横目に、久瀬は勝手知った家のキッチンに足を向けコーヒーを沸かしながら、彼らと竜胆を眺めていた。
「神経までいかれてるねこれは」
「つまり?」
初めて会う姫宮医師は、顔面蒼白になりつつある久瀬に対し、愉し気な調子を崩さず淡々と続けた。
「もうくっつかないってことだよ……でも日常生活には何の問題も無いから……」
姫宮はそこで言葉を止め、探るように久瀬の瞳を覗き込んだ。値踏みでもするように。
「絶望しているんだねぇ。わかるよ。死にたいか?死にたいというなら、手伝ってあげてもいいんだよ。」
「いくら?」
「死にたいなら、そうだな、きみなら、無料で」
「いや違う。この指の治療費は幾らかと聞いているんですよ。」
久瀬は左手を無理やり動かし、余計な痛みを自分に与え続けた。一転してつまらなさげに表情を曇らせた闇医者から法外な金額を聞かされたが、すでに支払い済と言われた。誰がとは、聞くまでも無いことだ。
竜胆の部屋の中心、蒸れた場所の近くへとマグカップ片手に歩み寄って床にあぐらをかいて座り、しばらくそうしていた。肉の間から顔を出した竜胆と目が合う。彼は珍しいものを見たかというように彼は目を見開いた。普段、久瀬は竜胆が終わるのを遠くのリビングテーブルやソファに腰掛けて、ただ、遠目に無関心に見ていることはあったが決して近づくことは無かったからだ。久瀬は空になったマグカップを床に置き、立ち上がった。
「混ぜてくれよ。」
「なに……」
「俺もそこに混ぜてくれって言ってるんだ、いいだろ……別に。」
衣服に手をかけ、脱いだ。朝のひかりが、立ち上がった久瀬の全身、その輪郭を照らしていた。左手に包帯が巻かれて、他は生身のままの身体だった。
同じ女を、前と背後から共有している。触れ合ったのが女の柔らかな肉と思えば、男の節ばった腕にあたる。何がどこの誰の肉かわからないまま触れ合っている、時間の感覚も、上下の感覚も何もかも、曖昧になって沈んでいく。自分が今、口に含んでいるのが、誰の、何で、鼻腔を擽る精の芳香が、自分のか他人のか、誰の出した物か、混ざったものなのか、頭の中を満たし、他のことを考えられなくしていく。溶けていく。それでいい。それが、よかった。自らの精力を迸らせ、肉の海の中を泳ぐ、どうしてか、今この瞬間掌に触れているのが、竜胆の身体であることだけは、すぐわかる。どうしてか彼の身体に接している時だけは、わかりたくないと思う程に気が付く。考えるより先に身体が彼を敏感に把握する。神経が昂ると、思考より先に身体が周囲の環境に反応する。
久瀬の精力は、とても普段からまぐわっている彼らに敵わない、弱いものだった。そうして久瀬の身体はどんどん搾取する側からされる側へと立場を後退させられていく。極彩色の爛れた濁流に押し流されていく。川名の前にたたされたあの日と同じように自分の身体だけが海の底に沈んでいって周囲から蹂躙されていく。しかしそこは海というよりマグマの底であった。淫乱と欲望で、煮られ焼かれて、消えてしまいそう。消えていい。
久瀬は途中から殆ど自分から動くことを止め、熱せられた肉の空の中に、身の全てを任せた。常に誰かの身体が張付いて絡み、濡れた音を出しながら、互いに溶け合い、自他の境い目が失われていった。力が入らない身体は沼からもう自力で抜け出すことが出来ない。そうやって、どこまでもどこまでも淫欲の底へ自分を沈めていきたかった、底が無いのなら、それでもいい、いけるところまで、落ちてみよう。そうすれば少しくらい、寂しいお前の気持ちを、理解できるのかもしれない。指先くらいには触れられる、それくらいは、お前に近づけるのかもしれない。俺達の過ちについてお前が責任を感じることは無い。
もし今この身体を貫いているのが、お前なのだとしても俺はもう何も思わない。今日くらい。お前にやるよ。こんな不具者の身体は。いらないんだ。俺の物では無い。もういつ死んでも変わらない身体になったから何が起きても何も思わない何も怖くない何だってできるな。でも、どうしてかもう、今は、目を開きたくないんだよ。何も見たくない。聞きたくない。ただこの不具になった身体だけがここにあるということを、感覚でわかりたい。わかりたくないことだからこそ、特にお前に知らせて欲しい。
身体が弛緩していく、誰かの口の中にあった違法の、久瀬の身体にもよく馴染んだタブレットが、舌と絡まり合って、口の中で溶けていった。いつからか身体を上と下から貫かれながら、身体全体に柔らかいものがまとわりついていた。やわらかい交通事故。身体が事故にあったような衝撃を受けがくがくんと揺れるのに、刺激全てが痛みではなく大きな快楽となって、身体を満たすのだった。体内と脳内で下半身の奥底から湧き出る肉欲の塊が熱くなって、自分の意志と関係なくはねまわって暴れ、人間とは思えぬ声があがっていて、それが自分の身体から発せられていることに、気が付けない。視界がぐるぐる回った。今自分の顔を見ても自分と決して認識できないだろう、と思ううち、顔に何か生臭くて生暖かいものがぼたぼたと零れながら口内から喉の奥へ下がっていく、全身がべとべとする、そして、中まで、裏返るように、自分ではなくなっていく。自分ではない男や女が、今、自分を作り替えていくのだ。身体を突き抜ける衝撃が、まともに考えることを放棄させる、それでいい、今から俺は俺であることを放棄する。
とうに尽きた体力や精力など無視して、積極的に身体は飲み込むように受け入れる、暴飲暴食に似ている。どんどんと精神と肉体の輪郭が壊されて、ただ、内部にこだまする淫靡な熱、単なる雄、生物としての高まり、腹の上に出された鮭の精子のような大量の自分自身の精液とその臭い、自分の中にまだこんなにも性の源が残っているとは、ぬるぬるが身体をつたいベッドに染みて、誰かの体液と混ざり合った。とくとくとく、と身体の内部が、魚のはねるように痙攣して、ドスンドスンという重みが身体の中を通過した、痙攣の度電気のような快楽が巡る。中に卵でも産みつけられているようだ。今度は誰かの中に入っていく。薄目を開いてみれば自分の身体の上で女がドスンドスンと乳を上下に揺らしながら動いているのが、まるで映画でも見ているように映って不思議だった。体重が降ってくるたびに、嘔吐しそうになるその開いた口に、上に居る女とは別の舌が、口の中で絡まっていく。
しばらくして瞳が勝手にお前の姿を探しはじめた。お前の気配が無いことに気が付いたから。何もわからない馬鹿のようになっているのに、なぜそれだけは、気がつけるのだろう。不思議だ。それで、俺がいつも座って遠目にお前達を眺めている場所に反対にお前が座ってこちらを見つめているのを見つけた。目が合った。お前は笑いながら何か言っていたが、何も聞き取れず、俺は幼児のようになってただ周囲の世話を受けているだけ。お前は、再び、以前のような笑みを取り戻して、立ち上ってこの俺達の作った熱源の海の底へ、再び潜り込んでくる。お前一人加わっただけで、全体の熱量が倍に、いや、もっとになった。お前の姿が見えなくても、お前が今どこで何をしていて俺に何を望んでいるか、わかる。今だけは。
◆
霧野は美里の手札を背後から覗きながら、負けるだろうな、と思った。口出ししても良かったが、口出しするとこの男は逆のことをするし、見越して逆のことを言うとそれは何故か持ち前の目敏さで見破られるので黙っていた。カジノを閉めた後の内輪の金をかけたお遊びである。
博才が一人抜けている三島が参加すると、ゲームバランスが狂うので、三島は見に回り、既に3回ほど勝って充分稼いでいた霧野も抜けて見に回って、美里を含めた若い衆だけでポーカーは続いていた。三島も霧野と殆ど同じことを考えていたらしく目だけで微笑んでいた。捨てれば勝てる、が、美味しい、そのキーカードの1枚をいつも捨てることが出来ないのが美里の癖である。結局二人の思った通りにゲームは進み、彼は20万円程負け越していた。
霧野は金が好きではあったが、賭博で得たあぶく銭を長く持っていることを好まなかった。翌日は霧野も美里も非番であったこともあり、顔には出さないが明らかに沈んでいるらしい美里を伴ってそのまま飲みに行くことにした。三島も同行したがったが、霧野がお前は明日もあるだろうと言うと彼は空気を読んで大人しく引き下がり、それ以上美里の機嫌を損ねることも無かった。
「お前が博打で生きていくのは無理だな。毎回同じ負け方じゃないか。少しは学習したらどうだよ。」
「は~?博打で喰う~?考えてもみなかったな。あんなのはお遊びだからテキトーでいいんだよ別にっ……。熱くなる方が馬鹿みてぇだぜ。ああ、今言ったのはお前のことだからな。わかる?」
テキトーと言いながらも、美里の博打の癖は常に同じなので、三島や霧野はほぼ100%の確率で彼に勝つことが出来た。癖は本人のこだわりである。とても「テキトーに打っている」とは言い難い。第一、さっきから言葉の節々に恨みがましさがにじみ出ているし、霧野が奢ると言った酒を飲む手が止まらず饒舌になっている始末である。確かに美里の指摘通り、霧野は負けが越すと熱くなる癖があるが、美里とは違って自覚していた。だから、最初から負け越さなければいい。最初から勝つ。
「じゃあ他に何でなら食っていけると思うんだ。今の仕事以外で。」
「考えたことも無いね、そんなの。」
「じゃあ、今、考えてみろ。」
美里はめんどくさいから嫌と言いながらも「肉体労働と接客以外、それでいて超楽、頭使わないやつ」と早口に呟いた。そんな仕事はないぞ、と言いかけ止めた。
「接客は悪くないんじゃないか?お前はカタギの連中とうまくやれてるじゃないか。」
「あんなのは接客と呼ばないね。ただ愉しく会話してやってるだけ。誰だってできるよ。」
「俺にはそれができないから。」
「それはお前のコミュニケーション能力に著しい難があるからだぜ。お前がおかしいんだよ。俺みたいのが見ててそう思うんだから、他の奴はもっとそう思ってるだろうぜ、あはは!」
「……、……。」
「お、なんだァ?的を射られて怒ったんか?」
急に愉快気に気色を変えて美里は目をぎらぎらとさせ始めた。霧野に兄弟はいなかったが、美里と接していると、もし弟か妹がいれば、こんな感じなんだろうかと思わせるところがあった。結局、そのまま飲み続けて朝になって、彼を家まで送っていく。あがってけば?という美里だが、今にも眠りに落ちそうで、大きな欠伸をして目を擦っていた。あがったところで彼が寝落ちするのを見届けるだけだ。
「いや、この後少しだけ事務所によるからやめておくよ。」
「……。今から……?どうかしてるんじゃないか……まぁ止めねぇけど。じゃ、勝手にすれば。」
美里は扉を自らの身体を扉に寄りかからせるようにながら乱暴に閉めた。霧野は美里の家を後にした。非番ではあったがどうしても片づけたい仕事を一つ残してきたことを思い出したのだ。事務所に出、結局なんやかんやで午前いっぱいでかかってしまい、眠気眼のまま昼前に帰り支度をしていた。
「ヤッたか?」
振り返ると眠たげな眼をした竜胆がポケットに手を突っ込んで立っていた。
「何?」
「ようやくアイツとヤッたかって聞いてんだよ。朝帰りらしいじゃん。どこに泊めた?お前の家?」
世間話でもするような調子で、竜胆は話しかけてくる。眠たかった頭が、覚めてくる。
「……、おい、冗談にしても面白くないぞ。」
「ふーん、噂通り本当にシロなんだな。面白くない、いや一周まわって面白い。」
「お前のような性欲異常者と一緒にするなよな。興味ない。」
「酷いこと言うなぁ。嫁がたった5人いるだけで何でそんなことお前に言われなきゃいけないんだよ。どうして多夫多妻制度にならないんだろうかと常々疑問だ。ま、俺や政治のことはどうでもいいんだ。俺が知りたいのはお前のことだ。アイツと組んだ奴でヤッてない奴なんか今まで一人だって居ないんだから。お前が特殊なのさ。誘われなかったのか?アイツに。」
「……。俺は今、非常に気分が悪いんだ、そういう話がしたいなら、他の奴としてくれよ。」
◆
川名が去ってから、またしばらくの間、美里の頭の中の音楽は続いた。二人は口をきかなかった。
川名が去った部屋はやけに広く感じられる。余韻と力の抜け伏している霧野と美里は部屋に二人残されて、美里は霧野をそのままに立ち上がり、川名から渡されていた紙袋を霧野の方へ黙って静かに寄せた。そして、部屋の中を歩き回りながら残された残留物を眺めて回ってから、入口の方の壁に背を預けもたれて目を伏せた。紙袋の中には川名が、霧野のために仕立て直した服が一式、入れてあることを知っている。紙袋の横に、霧野の首から取り外した黒い首輪が置かれたままになっている。
霧野の立ち上がる気配に目を上げた。こちらに背を向けたまま袋の中から衣服を取り出している。その姿を見ていられなくて、所在なく視線を彷徨わせていた。心が落ち着いてくるのを待って、また彼に目を向けた。彼は立ち上がり、ジャケットを羽織っているところだった。二足でしっかり立っているのを久しぶりに見た。彼が振り向くとまず最初に、首元にいつまでも付けているそれが目についた。鋭さのある眼光が言い訳がましく一瞬視線がぶれたが、芯のある瞳が戻ってきた。
彼に背を向けて黙って部屋を出ると、後ろから素直についてくる気配があり、何かこちらに話しかけようと言う気配もあるが、そのままずんずんと足早に屋敷の廊下を進んでいった。書斎にいる川名のところへ顔を出す。彼は机の上から目を上げ、美里ではなく、後ろ、背後の方に目をやって意味深な微笑みを浮かべてから目を伏せた。
「じゃあ、連れていきますから、失礼します。」
「その恰好で連れて帰ることにしたんだな。」
川名からは、犬のように連れ帰っても、着替えさせても好きなようにしたらいいよ、と言われて渡された紙袋だった。犬のように連れ帰って多少後ろに立っているド屑を辱めることはできようが、この家の中では、川名の模倣にしかならない。屋敷の外に出ると、腕を掴まれ振り向いた。彼は口を開き掛け、言い淀み、それから「外してくれないか。」と言って、犬のように頭を美里の方に寄せた。首輪のことだった。
「似合っているんだから良いじゃないか。そのままにしてろよ。それに、そうしてチェーンの側を前にしている分にはアクセサリーと変わらないぜ。」
美里は自分の首にかかっている細い金鎖で作られたアクセサリーを指で弄った。
「お前には良いけど俺には」
「そもそも、その首輪には初めから鍵なんかついてないんだぜ、霧野。お前がどうしてもいやなら、外したいなら自分でいつでも勝手に外せよな。」
霧野は顔を赤らめ手を首元に持っていき、指をかけたが、その手を降した。
「そうだな、そうしてろよ。気持ち悪くなったら言えよ、俺の手で外してやる。」
屋敷の外にカローラが一台停まっているのが闇の中に浮いていた。
「あ?、何だ?、こんなのダサいので俺を迎えに来たのかよ、お前。どういうことだ?」
霧野は、美里にやられた分をやり返すような口をきいた。そのまま美里が言い返す前に「金欠か?」と今までの痴態を誤魔化すつもりか、虚勢を張って、笑いさえしたのだった。俺がやった首輪なんか着けてるくせに、犬が。美里が黙っていると彼はそのままの顔で助手席に素直に乗り込み、ドアを勢いよく閉めた。辺りは静まり返っている。
「……。」
美里は車で来た道を振り返った。電信柱が並んでいる。あそこの一本にでも突っ込んでハンドルを切って助手席ごと捻り潰してやりたい。そうすればいい加減”わかる”だろう。
美里は運転席に乗り込み、黙りこくったまま車を発進させた。どちらも何も言わず、ラジオや音楽をかけるでもなく、沈黙が続いていた。30分程走ったところで、霧野がふいに助手席の窓を開けた。風が車の中に吹き込んで、ごうと音を立て始めた。彼は窓枠に肘をかけ、身を乗り出すようにして窓から今しがた走ってきた道の方向を見た。そして、また助手席に腰を下ろし、美里の方を見た。
「遠ざかってるけど?大丈夫か?」
「……。」
「一向に事務所の方向に向かわないから、よもや俺の家にでも連れっていって逃がしてくれる気なのかなァと期待したけど、そういうわけでもなく、じゃ、お前の家に行くのかと思えば、そうでもなく、ようやく事務所の前の道へ来たと思ったら、いきおいよく前を素通りし、いつまでも同じような場所をうろうろと。どこへ行く気なんだ。」
「今のお前は人間では無く、荷物と同じなんだから。行き先を気にする必要なんか権利なんか無いんだよ。」
「そうはいかないな。何故なら組長は「荷物である俺」を、事務所にでも戻しておけとお前に命令したのだから、それを破るってことは。言うまでも無いことだな。さっきから何迷ってるんだ?」
「……。」
「当ててやろうか。」
霧野の愉し気な口調が耳を擽った。美里は、苛立ちながら横に座る男を無視して車を走らせ続けていた。有料道路へ入る。さらに一時間近くが経過していた。
「今のところ、俺の予想に近い方角へ車は進んでいる気がする。しかし、」
霧野はそう言って、車のバックミラーに目をやった。美里も気が付いていないわけでは無かった。一台、少し離れた位置からずっとつけてきている車が一台あるのだ。霧野が再び口を開きかける前に、美里が思い切りアクセルを踏み込むとカローラが大きく振動して、彼の口を閉ざさせた。本来の美里の自家用車であれば、雑な動きもせず、うるさくもなく、無音に近い。今はこの雑音があって良い。あった方が良い。美里はようやく口を開いた。
「……。お前って本当に、最悪だよ。頼むからさ、もうしばらく、ほんの、少しでもいい、……黙っていて、くれないかな。俺の気が変わらない内は、お前のその最悪の予想通りに動いてやるかもしれないけど、もし、次に勝手に口聞いたらすぐにでもUターンして事務所に戻るんだから…‥」
美里の声が小さく、最後の方は聞き取れない程小さくなっていく。
車内を照らすデジタル時計は0時を過ぎた。有料道路を降りて車はラブホテルの駐車場に滑り込んだ。
「ここなら中まで奴らも入ってこないだろう。」
霧野は「またか。」と言って美里を見た。
「それはどうだろう。今までの傍若無人を考えると、一概にそうとは言えないぜ。」
「じゃあ何か、俺に、寝ずに運転を続けろってのか。」
「運転を変わってやってもいいよ。どこに行くつもりか、もしも俺と考えが同じなら。」
「今のお前に運転を任せるだって?そんなことできるわけねぇだろ。ああ、もう面倒くさい。わかったよ。」
美里は再び車を出した。
夜の間中、無言のままハイウェイを車は進んでいった。疲労が目に見えて美里の顔に浮かんでいた。
「疲れただろ、変わるよ。なんだか運転もおぼつかないぜ。」
「……、……うるさい……、黙ってろ、…‥。……いつまでたってもうぜぇんだから、寝てれば。」
有料道路を降りる頃には朝になっていた。今ならまだ、戻れはする。
川名の手が届かない唯一の場所、それは龍一郎の所だった。
◆
『……。ああ、なんだ……誰かと思えば、お前か。』
電話口の向こう側で美里の声に特に驚いた様子も無く、実父、龍一郎は冷めた声で応えた。
「お前の居場所が分かったぜ、今から殺しに行ってやるからよ、そこを動かず待ってろよ…‥」
『ああそう。勝手に来い、しばらくは特に引っ越す気も無いからな。』
彼は驚いた様子も無く淡々と言い放ち、沈黙した。
「……。なんだ、俺が、できないとでも、思ってんのかよ……。」
美里が言い終えると同時に電話の向こう側で、大きな笑い声が聞こえた。笑い声はしばらくの間続く。
『逆だよ、逆なんだよ、涼二、……お前ができると思ってるから、こうして、待ってるんじゃないか。』
龍一郎はそう言ってまた堪えきれないというように笑い始めた。
「馬鹿にしやがって!」
美里が逆上するのと反対に龍一郎は笑いをおさめた。
『馬鹿に?……そんなわけないだろう。どうして実の父親である俺が実の子どものお前を馬鹿にするんだよ。やっぱり逆なんだよ、涼二。俺なんかが直接育てないで良かったんだ。それにしても、遅すぎるな。もう殆どお前に期待なんかしていなかったところだったのに。』
「お前が何を言いたいか、さっぱりわからない。それじゃ、てめぇが、まるで俺に殺されたがってるみてぇじゃねぇか。そんなことってあるかよ。」
『そうだな。その通りだ。』
「……。」
まるで調子が狂う。電話の向こう側の人間が、何を考えているのか一切わからない。
それは、どこか川名にも似ているのだった。
『お前今、義孝なんかのところに居るんだって?難儀なもんだよな。アイツもなかなかどうして、俺以上にタチが悪いと思うけどな。』
「お前にそんなこと言う権利があるのか?川名さんがいなければ、俺は」
『もっと不幸になっていた?』
「誰のせいで……」
『そう、俺のせいだな。間違いなく俺のせいだな、弁明の余地一切無し。だって、俺がそうしたくてそうしたのだからな。』
電話の向こう側で男は笑いながら楽し気に続けた。
『でもさぁ……、よく考えてみろよ、涼二。何でアイツはお前なんかを手元に置いておきたがるんだよ?おかしいと思わないか。本当はうすうす気が付いてるんじゃないのか。わかりたくないだけなんじゃないのか。ん?』
「知ったような口聞くなよ。それにさっきから馴れ馴れしく俺の名前を呼ぶんじゃねぇ。」
『涼二、その名前を考え、お前に名を付けたのは俺なんだよ。それを呼んじゃいけないのかよ。まあいいさ、何はともあれ、一度、遊びに来たらどうだよ。さっきから言っている通り、俺を殺したいなら殺せばいいんだ。話したくも無いってなら対面直後に会話もせず、脳天ぶち抜いてもらっても良いぜ、別に。安心しろ、お前が俺に手を出したからと言ってお前が損害を被ることは一切ない、寧ろお得なことばかりだ。皆にもそう伝えてあるし、今更俺の方からお前に何かしてやろうという気も無い、今のところはな。』
「……。今のところは?」
『そうだよ。お前がやる気になっている内は。』
「やる気って、なんだよ、それ」
『とにかく一度こっちに来いよ。それとも、来ないなら来ないで、こっちから出向いてやろうか?』
また笑い声が聞こえる気配にこちらから電話を切った。汗ばんだ手が携帯を投げつけていた。
◆
もう、このまま目的地など目指さず、あてもなく車を走らせ続けてちゃダメなのか。
警察、そっちに今から……、いや、今更無理だろ、そんなのは。
何も考えたく、ないな。
車道の真ん中に猫が飛び出した。反射的に、ハンドルを切った。
◆
轟音と共に勢い車が電信柱に突っ込んだ。霧野は全身を強く打ち付けたが、電信柱がめり込んでいるのは、助手席側ではなく、助手席側はガラスの1枚も割れていなかった。しかし今の衝撃から考えて、車のどこか一部が大破しているのは間違いない。打ち身で全身が痛むが、身体の動かない所はひとつも無い。キーンとする頭をなんとか持ち上げた。ちょうどバックミラーに、背後で停車した車、そこから降りてくる見たことのある顔が見えた。彼らが近づいてくるのを呆然と霧野は眺め続けた。そしてすぐ横、潰れただろう運転席の方を見れないで、心拍数だけがただ、どんどんと上がっていく。濃い血の匂い。身体が、震え始めた。
その時、小さな呻き声が聞こえて、ようやく霧野はおそるおそる視線を横に向けた。電信柱がフロントガラスまでめり込んで硝子が割れ散っていたが、美里の身体自体はつぶれておらず、頭を強くぶつけて切ったか大量の血に濡れて顔面が殆ど赤濡れてシャツまで真っ赤に染まっているのだった。その中で唯一の白い部分が、朦朧とした視線が、ふらふらと彷徨い動いて、霧野を見つけると微笑んで、消えた。
霧野が手を伸ばしかけた時、勢いよく車のドアが外から開けられ身体を掴まれ、まだ力の真ともに入らない霧野の身体は引きずり出され、道路に尻もちをつくようにして転がった。久瀬と竜胆が立っていた。久瀬が呆れた調子で霧野を見下ろしていた。
「あーあ、何やってんだ、お前らは。どこに行くつもりなのか愉しみに見守ってたのに、まさか事故るとは。」
未だ衝撃が抜けきれず立てない霧野の横で、竜胆が車の中を覗き込んだ。車からはもうもうと煙が出て、周囲の煙たさに久瀬がだるそうに腕を振るった。
「ああ、臭いな、爆発するんじゃないか、これ。危ないからとっととずらかろうぜ。」
竜胆はさらに身体を車の奥の方へ突っ込んで、「あ?……」と不可解な声を出してから、出てきた。竜胆は久瀬の横に立って伸びをしながら普段のような剣吞な口調で言った。
「ああ~面倒だなぁ~どうしよこれ、美里ちゃん死んでんじゃないの?」
”死んでんじゃないの?”
その言葉が霧野の中でぐるぐると回って、何も考えられなくなってくる。呆然として立つことも忘れている霧野と対称的に、二人は淡々としたまま表情一つ変えない。久瀬が、携帯をいじりながらだるそうに口を開いた。
「動かないならそれはそれで俺達が楽でいいじゃないか。とにかく、澤野、お前には事務所に戻ってもらう。後の処理は俺達が」
久瀬が言い終わるかどうかというところだった。三人と車のに大型バイクが爆音と共に滑りこんで来、二人は反射的に後ずさり、霧野はようやく痛む身体のままふらふらと立ち上がらせた。漆黒のフルフェイスを被った男が、バイクにまたがったまま、三人の方を見降ろしていた。突然のことに全員がしばし呆気にとられていた。
男はバイクのエンジンをかけたままにして降りた。そして車の中に上半身を入れ覗き込んだかと思うと、素早い動作で三人の方を振り返った。振り返ったその右手にいつの間にか釘抜きハンマーが握られ、反射的に竜胆が懐に手を突っ込んだのを見越した男が勢いよく竜胆と距離を詰めてその腕に向かって躊躇いなく大きく振りかぶったハンマーを振り下ろした。鈍い音。
拳銃が、地面に回転しながら転がっていくのを男は足で踏みとめ拾い上げ、自分のズボンの後ろ側に慣れた手つきで差し込んだ。男の身体はすぐ久瀬に向き、頭、顎のあたりを狙って回し蹴りをくらわし、路肩の方へ飛ばした。そのまま飛び跳ねるように距離を詰め久瀬にのしかかり、獲物を食らう熊のように乱暴に懐を漁って刃物の類と携帯を回収、これもまた自らの衣服に格納して立ち上がった。
血相を修羅のように変えた竜胆が腕を抑えながら、久瀬と男の間に割り込み、無事な方な腕で掴みかかろうとする。呻き声ひとつ上げないが、効き腕がだらんと垂れ、霧野が一目に見ても、確実に折れているのがわかる。竜胆は久瀬を自分の背後にかばう様にしたまま男に挑みかかり、油断していたか、いくらか打撃を食らった男も二三あどずさったが、利き腕の壊れた竜胆の、かばうことのできない右側を狙って鳩尾に深く拳を突き入れた。衝撃で竜胆の身体が崩れ落ちる度、その度に深く拳を突き入れる行為を入念に三度繰り返した。そこまでしてようやく久瀬の前で膝をついて動かなくなった竜胆を、男は久瀬に重ねるようにして路肩に足蹴に転がした。
竜胆からも同じように携帯を回収し終え去ろうとしたが、わずかに動きかけた久瀬に目ざとく気が付き、素早く大股で歩み戻り、踵落としをくらわし蹴り飛ばし、久瀬の身体は美里の廃車に叩きつけられるようにして転がってこちらに背を向けたままほとんど動かなくなった。男はその上に屈みしばらく様子を見ていたが、これ以上動かないと判断したのか、ハンマーをズボンにしまいながら立ち上がった。
この間20秒もかかっておらず、一言の会話も無かった。
フルフェイスの男は終始無言のまま、竜胆から奪い取った拳銃をとりだし、安全装置を外した。それを二人の方に向けながら後退、霧野のすぐ真横に立った。すぐ近くに、今すぐにでも発進できるバイクがある。
「後ろ乗りな。」
フルフェイスの中からくぐもった、聞き知った声が聞こえた。
「悪いけど1人までしか乗せらんないからな、美里君は置いていくしかない。本人にもそう伝えたから。あ。」
フルフェイスの男、間宮は、竜胆と久瀬がもう向かってこないと判断すると拳銃をしまい、道の隅の方で留まったままでいる猫を拾い上げた。そして、はやくしろ、という風に霧野を手で招いた。霧野には、彼に従う以外の選択肢は無かった。霧野が、もう一度、車の中を覗き込もうと大破した車の方へ足を向けかけると、信じられない程強い力で腕を引き寄せられ、無理やり猫を胸に押し付けられ、すぐ目の前に指を突きつけられる。
「ぐずぐずしない。話は後。」
大型バイクは法定速度を優に越えて田舎道を驀進する。轟音と揺れとで間宮と霧野とその間に挟まった猫が鳴く声が掻き消され、大破した車と煙幕が、霧野達の背後に遠ざかっていく。
ああ、と開きかけた久瀬の口から正しい言葉が発せられることは無く、拳が顔面、続けざま身体の側面に車に衝突したかのような衝撃と何か折れる嫌な音がして部屋のふすまに背中からぶつかって倒れた。ふすまは外れ、久瀬の身体は音楽機材で散らかった隣室へ転げた。後頭部を強く床に打ち付けたせいで天井が回転して見える。
「……。」
胸倉をつかまれ上まで引き上げられた。目の前に冷めた瞳をして、額にうっすらと汗をうかべた竜胆の顔があった。普段の人を食ったような顔つきはどこにも見当たらない。
「聞き間違いかな……今、ああ、とか言いかけたように見えたけど。次が最後だって言ったよな、俺……。」
無理やり振り絞って出したような声だった、今そこにヤクザらしい凄味は一切無い。
久瀬は、竜胆と対称的に微笑を浮かべていた。ああ。もう、マジで、どうでもいいな全部よ。死ねっていうなら死ぬよ別に。自分で自分を殺す勇気が無いだけなんだからさ。ああ。自分のしょうもねぇクソ同然の才能に縋っていたいだけなんだから。それだけしかやったこなかったから今さら他にどうすればいいのかわからないんだよ。それにしても痛いな。ろっ骨が折れたかもしれないな。
「金?無ぇんだよ、そんなもん、馬鹿が。今まであったためしがあるか?無いだろうがよ!お前こそ……いい加減っ、俺の言葉なんかっ、信用するなよなっ!馬鹿なんじゃないか!?……で?ヤクザなんだろお前、保険金でもかけて俺を殺すのかよ。別にそれでいいなら、それがいいね。それともお前が俺を直接嬲り殺すという取り決めにでもなっているのかな、できるのかな?、そんなことが、お前によ……。」
久瀬の顔は痛みによって汗で濡れながら青くなっていったが、安らかな、人を馬鹿にするような表情が変化することは無かった。久瀬は、折れたのが肋骨で良かったと思っていた。ここまできて指じゃなくて良かったと思うのだからどうしようもないよな。顔を潰されるか指を折られるかなら、顔がいいと思う。
表情の険しくなる竜胆とは反対に久瀬の目元と口元に笑みは消えない。掴まれていた胸倉を離されたかと思えばまた同じ位置に蹴りが入って倒される。久瀬は、上半身を起き上がらせながら、竜胆をじぃっと上目づかった。彼の顔に普段浮かぶ笑みは今日に限っては一切消え代わりに興奮で上気している。今冷静なのは、お前ではなく俺の方。だったら、まだなんとかなるかもしれない、今までのように。久瀬はそう思った。竜胆は久瀬から、もう見ていられないというように目をそらした。
「組長に……」
竜胆はそれ以上言葉を続けられないで黙った。
「お前のところのお偉いさんに決めてもらおうっていうのか。へぇ~やっぱりできないんじゃないか。お前は自分の意志で俺を痛めつけることができないから、そうやって上の命令を待つ。指示待ち人間に過ぎないんだ。」
再び視線が久瀬の方へ戻ってくる。
「さっきから随分と偉そうだよな、お前、自分の立場わかってんの?」
「わかってるよ、俺は。お前の方がわかってないね!」
暴力。そのまま部屋の外まで連れていかれる。されるがままになっていた。アパートの外に見たことが無い外車が停まっており、運転席に一人、後部座席に一人、後部座席に竜胆とその男に挟まれ座らされて車が急発進した。
ああ、これは本当に死ぬかもしれないなぁ。と、横目で竜胆を見るが、彼は窓枠に肘をついて外を見たまま動かない。たまに親指の爪を噛んでカチカチと音を立てていた。車は彼らの事務所に向かうのかと思えばそうではなく市街地を抜け久瀬も何度か足を運んだことがある大劇場の方へと向かっていた。大ホールに通された。
「君が、久瀬光太郎君ね。」
貸切られた大劇場にピアノが一台置かれ、500席以上ある客席の内たった一席、最前列の中心に見たことの無い男が一人、座っていた。彼が竜胆のボスなのだろう一目見て分かった。広い劇場の中で彼の周囲だけ空気が淀んで見えるからだ。久瀬の感性は鋭敏に働いて、相手の姿をいつも感覚的にとらえた。座っている男の前に立たされていると、自分が彼を見降ろしているのに、見降ろされているように感じられる。
「んー、ギリだな。」
「……。何、が?」
「今から身体を売るとしたらギリギリってこと。あ、臓器の場合は別にそこまで年齢は関係ないんだ。臓器って意味じゃない。」
「そんなことしてまで生きていたくないです。保険金でもかけて殺していただいて結構なので。」
「何勘違いしてるんだ。保険金?はぁ、どうしてそんなつまらないことをしてわざわざ終わらせてやらなきゃいけないんだよ。そんな面倒なことして一体何が面白いの?”そんなことしてまで生きていたくない”?そんなこと言うなよな……余計にそうしてやりたくなるだろ。」
「……。」
久瀬は自分の立場の危うさを、この、異常の側の人間の前に立って初めて身をもって感じた。普通に会話をして話が通じるタイプの人間では無い。つい竜胆の方を横目で見るが、彼は下の方へ視線を彷徨わせていた。彼が何に焦り怯えていたのか分かったような気がした。
「俺に隠れて一体何をやってるかと思えば。俺が隠し事だとか嘘だとかが嫌いなのは知ってるよな。」
竜胆が「はい、知ってます。」といったきり黙って、見たことの無いような暗い目をして男の方を見ていた。
初めて久瀬が竜胆の家に行った時、そこは久瀬から見て、腐敗したセックス空間であり、常に4人以上の女が竜胆のために待っていた。竜胆は、実家と折り合いが悪く家を出てからというもの、根が怠惰のため女を捕まえては食わしてもらう生活、つまり、元々はヒモ同然の暮らしをしていたのが、女を一人でなく複数囲いたい思いから一念発起、喧嘩慣れした腕をかられて業界に入ったのだった。彼の囲っている女達は決して薬漬けにされ竜胆と共にいるのではなく殆ど、彼女ら自身の強い性欲と希望から、男としての見目も腕力も精力も強く勃起時間もかなり長い(薬を使えばもっと持続し耐性もある)彼と共にいるのであり、女同士の仲も、入れ替わりこそたまにあれ、まったく悪いものでは無かった。彼らによる彼らのための楽園なのである。きょうちゃん、きょうちゃん、と女の高い声が、天井を突き抜けるほどの大きさで響くこともあった。杏蘭という彼の名は、この部屋の中で異常に飛び交っており、久瀬は竜胆に自ら名乗られる前にこの部屋で彼のフルネームを知ったほどであった。
竜胆には友というものは無く、作り方も知らない。人に寄生する、人を寄生させる才能だけがずば抜けている。それで承認欲求も満たされ、闇の仕事での薬の売買にも彼の能力が生かされた。
最初、久瀬は竜胆の顧客の1人に過ぎず金銭のやり取りも行われていた。しかし、常に久瀬には金が無かった。
「もうお前から、買えない。だから店にはもう来ないでくれないか。」
売買は主に久瀬が小金を稼ぐためにしぶしぶ働いているナイトバーの裏やトイレの中で行われた。いつからだったか竜胆がわざわざ久瀬の元に通ってくるようになっていたのだった。最初こそ事務的な会話しかしない二人であったが、久瀬が勤め先として場末の酒場を転々とすることが多いので、彼の空き時間まで飲みながら待ち、流れでたまに飲むようになり、彼の出番にあたれば彼の仕事を見ながら待つという流れが出来た。久瀬は久瀬で今は、ピアノを触ること以外に興味が無かった為いつの間にか互いに最も会話、交流のある相手になっているのだった。
竜胆は「そうか、わかった」と割り切ってその日は店を去ったのだが、1週間もするとまた久瀬の前に現れるようなり、久瀬は久瀬で禁断症状に悩まされ全くなにひとつ弾けなくなって初めて人の前でボロボロと涙を流すまでに至ったのだった。
その辺りからだった。売人と顧客という関係性が崩れ始めたのは。薬の横流し、契約の無い金銭の横流しが横行。返済しきれない分の金を竜胆が陰で立て替え続け、久瀬は竜胆との友情を利用することに味をしめていた。双方、他に交友の方法がわからなかった。薬があればずば抜けた物が作れるし演奏もでき、元々才能が無いわけでは無い久瀬の評判は少しずつ広まっていった。演奏の場が広まるのはもちろんのこと、業界からサウンドクリエイトを依頼されたりと、以前に比べ多少の金を稼げるようにはなったが、竜胆が立て替えた分の金銭に比べればまだまだ象と蟻程の差があった。それがついに、久瀬の評判が広がった結果が元で、川名の前に事の全貌が露見したのである。竜胆が金を立て替えていようが、組の財産の私有化、無断の横流しは厳禁である。一度例外を許せば、組織の締まりが悪くなる。それで、久瀬が今までの横流し分全てを一顧客として自力で全額返済できれば、無かったことになるはずのところ、底辺クリエイターの久瀬がすぐさま金銭を用意できるはずも無く現在に至る。
「光太郎君はウチの竜胆と随分仲良くしてくれたらしいね。ありがとう。確かに俺達のような仕事に就いている人間は、業界の外に仲の良い人間を作ることが非常に難しい。孤独なんだよ。」
「……。」
「俺も音楽に多少の嗜みがあるから、君の演奏をまず聴いてみたいな。」
「は……、」
「……、”は”の次は”い”だぜ。光太郎君。光太郎君、君は今から、俺が良いと言うまでそれ以外の言葉を俺の前で使うなよな。使った瞬間に、今日、君をここに連れて来た男達の手で光太郎君をそのまま売りに行かせるから。どこにだって?ふふふ、現実世界には、地獄より地獄といった場所が沢山あるんだよ。俺はそういう場所を作るのも、ただ観に行くのも好きなんだ。今風に言えば、ダークツーリズムとでもいうのかな。だから、光太郎君がもしそういう地獄に行ったら俺は飽きるまで定期的に見に行くんだ。愉しみだね。」
「……はい。」
「俺の想定を遥に下回るような下手糞な演奏をしやがったら竜胆ともども始末するから。」
竜胆は関係ないじゃないですか、と、言うことが出来ないから「はい」と言って、また竜胆を探り見たが、もうまったく目が合わないのである。久瀬が視線をピアノの方へやりかけた瞬間に竜胆が「あの」と声を出し、男の目がすぐさま竜胆の方をねっとりとした視線で見始めた。
「何だ?」
「ここまでする必要、あるんですかね。金は俺が全部出してます。だから組に損害を出しているわけじゃないじゃないですか。だから、堅気のそいつをそこまで責める必要はないと思います。貴方に黙っていた罪があるというなら、俺に責任があるのであって、そいつには無い。責めるべき相手が間違っています。」
男はしばらく黙っていたが口元にこの場の緊張感にそぐわないような柔和な笑みが浮かんで、久瀬は見たくないその口元から目が離せなくなっていった。竜胆とつるんでいる間、特に気心知れてからは、彼がそういう業界の人間であるということをほとんど忘れかけていたが、初めて会った頃の彼には、確かに今目の前の男に在るのと同じ、違う世界の人間の雰囲気が少しはあった。それに比べても濃度が粘度が違うのだ。近くに立っていたくない。
「なんだ、そこまでわかってるなら、もうわかりきったことじゃないか。その通りだぜ、竜胆。だから、お前が大事に思っている堅気の光太郎君を責めてるんじゃないか。」
男の視線が再び久瀬の方に戻ってきて「竜胆のためにも一肌脱いでやってくれよ」と言って微笑んだ。
「ああ、緊張して手が動かないっていうなら何でも、どんなのでも打ってやる。どうする?」
「……」
「ああ、ごめん、忘れてた、はい、しか言えないんだったな。そうだな。」
「はい。」
「竜胆、そういうわけだから一番上等で良いのをぶち込んでやれよ。それでどこまでやれるか見るから。流石に俺の目の前で不正はできないな。」
薬は効きすぎるくらいに効いた。しかしここまで効くということは、後からそのツケが回ってくるということ、地獄だ。だとしても、だとしても、だ、今この瞬間だけは、これで、乗り切るしかないんだ。ものすごく高く遠くの方、まるでこちらが海の底に沈んでいて海の上の岸辺立つ人間が発しているような程の遠さから、アア、スゴイ、テンサイダナ、タシカニ、という棒読みに近いような男の声が聞こえてくるのだが、それも、もう現実なのか非現実なのかわからない、ただ走っている。ただ自分と、もうひとりのために。
終わっていい、その言葉が微かに聞こえてた気がしたが定かではなく、誰かが自分の身体を背後から抱き留められることで終わった。それも終わって良いかわからず鍵盤にしがみつくようになっていた久瀬を、竜胆が後ろから無理やり引き剥がしたのだった。
「もう、いいでしょう。」
「……お前、相当にそいつがいいんだな。」
「無意に堅気の人間を巻き込むなと普段組長も言ってるじゃないですか。その結果がこれですか。」
「そうだ。”無意に”はな。竜胆、これは無意じゃないだろ?有意だ。明らかに。お前にとって有意なことだ。」
「俺にはそうは思えない。こんなことして……。」
川名は覗き込むようにして、竜胆の抱え込んでいる男を見た。
「光太郎君は今ほとんど意識が無いね。今の内に、お前の手で、左側の指の腱でもほんの少し切っておいてあげたらいいんじゃないか。お前がやらないっていうなら俺が指ごと一本とる、それはお前も嫌だろう?だから、お前がやれ。どちらにせよ、そうしたらもう、今回みたいなことは起きないだろ、二度と。お前にやられたことも彼にはわからない。薬の後遺症で動かなくなったと思うだろう。そう。お前だけが、永遠に責任を感じ続けるんだよ。」
「……。」
「それに、お前の言う通り、腕は確かだったな。本物だよ。音楽を特段聴かないらしいお前が良いと言うからあまり信用してなかったんだがな。プロにはなることは不可能になるとしても、まったく使い物にならなくなるわけでもあるまい。行くところが無いっていうならウチで預かってやる。そうすればお前も俺に隠れて影でコソコソと彼と会う必要も無いし、もう、二度と、離れなくて済むだろ。俺もこういうタイプの話し相手が1人くらい欲しかったんだよ。野蛮なのばっかりだからな、ウチは。」
……。
姫宮診療所から退院した久瀬は、真っすぐ竜胆のマンションに向かっていた。彼は在宅だった。Tシャツと下着姿で、無言のまま久瀬を見ていた。まだ朝も早いというのに、家の中から凄まじい性と精の匂い、ケミカルな薬品臭が漂ってきて久瀬は後ずさって咳き込んだが意を決して中へ入った。背後で扉が閉まる。いつも最初は鼻が馬鹿になりそうなのだが、慣れてしまえば何ということも無いのだ。臭いを嗅いでいるだけで、頭の中がふわふわとしてきて、直接入れてないにしても、何か身体の中に良くない成分が染み込んでいくのがわかる。
部屋の中には女が3人と少年が1人いて、肉が絡まり合って、さっきまで竜胆がいたらしいスペースが生々しくシーツが皴になって空いている。竜胆が無言で彼らの方へ戻っていくのを横目に、久瀬は勝手知った家のキッチンに足を向けコーヒーを沸かしながら、彼らと竜胆を眺めていた。
「神経までいかれてるねこれは」
「つまり?」
初めて会う姫宮医師は、顔面蒼白になりつつある久瀬に対し、愉し気な調子を崩さず淡々と続けた。
「もうくっつかないってことだよ……でも日常生活には何の問題も無いから……」
姫宮はそこで言葉を止め、探るように久瀬の瞳を覗き込んだ。値踏みでもするように。
「絶望しているんだねぇ。わかるよ。死にたいか?死にたいというなら、手伝ってあげてもいいんだよ。」
「いくら?」
「死にたいなら、そうだな、きみなら、無料で」
「いや違う。この指の治療費は幾らかと聞いているんですよ。」
久瀬は左手を無理やり動かし、余計な痛みを自分に与え続けた。一転してつまらなさげに表情を曇らせた闇医者から法外な金額を聞かされたが、すでに支払い済と言われた。誰がとは、聞くまでも無いことだ。
竜胆の部屋の中心、蒸れた場所の近くへとマグカップ片手に歩み寄って床にあぐらをかいて座り、しばらくそうしていた。肉の間から顔を出した竜胆と目が合う。彼は珍しいものを見たかというように彼は目を見開いた。普段、久瀬は竜胆が終わるのを遠くのリビングテーブルやソファに腰掛けて、ただ、遠目に無関心に見ていることはあったが決して近づくことは無かったからだ。久瀬は空になったマグカップを床に置き、立ち上がった。
「混ぜてくれよ。」
「なに……」
「俺もそこに混ぜてくれって言ってるんだ、いいだろ……別に。」
衣服に手をかけ、脱いだ。朝のひかりが、立ち上がった久瀬の全身、その輪郭を照らしていた。左手に包帯が巻かれて、他は生身のままの身体だった。
同じ女を、前と背後から共有している。触れ合ったのが女の柔らかな肉と思えば、男の節ばった腕にあたる。何がどこの誰の肉かわからないまま触れ合っている、時間の感覚も、上下の感覚も何もかも、曖昧になって沈んでいく。自分が今、口に含んでいるのが、誰の、何で、鼻腔を擽る精の芳香が、自分のか他人のか、誰の出した物か、混ざったものなのか、頭の中を満たし、他のことを考えられなくしていく。溶けていく。それでいい。それが、よかった。自らの精力を迸らせ、肉の海の中を泳ぐ、どうしてか、今この瞬間掌に触れているのが、竜胆の身体であることだけは、すぐわかる。どうしてか彼の身体に接している時だけは、わかりたくないと思う程に気が付く。考えるより先に身体が彼を敏感に把握する。神経が昂ると、思考より先に身体が周囲の環境に反応する。
久瀬の精力は、とても普段からまぐわっている彼らに敵わない、弱いものだった。そうして久瀬の身体はどんどん搾取する側からされる側へと立場を後退させられていく。極彩色の爛れた濁流に押し流されていく。川名の前にたたされたあの日と同じように自分の身体だけが海の底に沈んでいって周囲から蹂躙されていく。しかしそこは海というよりマグマの底であった。淫乱と欲望で、煮られ焼かれて、消えてしまいそう。消えていい。
久瀬は途中から殆ど自分から動くことを止め、熱せられた肉の空の中に、身の全てを任せた。常に誰かの身体が張付いて絡み、濡れた音を出しながら、互いに溶け合い、自他の境い目が失われていった。力が入らない身体は沼からもう自力で抜け出すことが出来ない。そうやって、どこまでもどこまでも淫欲の底へ自分を沈めていきたかった、底が無いのなら、それでもいい、いけるところまで、落ちてみよう。そうすれば少しくらい、寂しいお前の気持ちを、理解できるのかもしれない。指先くらいには触れられる、それくらいは、お前に近づけるのかもしれない。俺達の過ちについてお前が責任を感じることは無い。
もし今この身体を貫いているのが、お前なのだとしても俺はもう何も思わない。今日くらい。お前にやるよ。こんな不具者の身体は。いらないんだ。俺の物では無い。もういつ死んでも変わらない身体になったから何が起きても何も思わない何も怖くない何だってできるな。でも、どうしてかもう、今は、目を開きたくないんだよ。何も見たくない。聞きたくない。ただこの不具になった身体だけがここにあるということを、感覚でわかりたい。わかりたくないことだからこそ、特にお前に知らせて欲しい。
身体が弛緩していく、誰かの口の中にあった違法の、久瀬の身体にもよく馴染んだタブレットが、舌と絡まり合って、口の中で溶けていった。いつからか身体を上と下から貫かれながら、身体全体に柔らかいものがまとわりついていた。やわらかい交通事故。身体が事故にあったような衝撃を受けがくがくんと揺れるのに、刺激全てが痛みではなく大きな快楽となって、身体を満たすのだった。体内と脳内で下半身の奥底から湧き出る肉欲の塊が熱くなって、自分の意志と関係なくはねまわって暴れ、人間とは思えぬ声があがっていて、それが自分の身体から発せられていることに、気が付けない。視界がぐるぐる回った。今自分の顔を見ても自分と決して認識できないだろう、と思ううち、顔に何か生臭くて生暖かいものがぼたぼたと零れながら口内から喉の奥へ下がっていく、全身がべとべとする、そして、中まで、裏返るように、自分ではなくなっていく。自分ではない男や女が、今、自分を作り替えていくのだ。身体を突き抜ける衝撃が、まともに考えることを放棄させる、それでいい、今から俺は俺であることを放棄する。
とうに尽きた体力や精力など無視して、積極的に身体は飲み込むように受け入れる、暴飲暴食に似ている。どんどんと精神と肉体の輪郭が壊されて、ただ、内部にこだまする淫靡な熱、単なる雄、生物としての高まり、腹の上に出された鮭の精子のような大量の自分自身の精液とその臭い、自分の中にまだこんなにも性の源が残っているとは、ぬるぬるが身体をつたいベッドに染みて、誰かの体液と混ざり合った。とくとくとく、と身体の内部が、魚のはねるように痙攣して、ドスンドスンという重みが身体の中を通過した、痙攣の度電気のような快楽が巡る。中に卵でも産みつけられているようだ。今度は誰かの中に入っていく。薄目を開いてみれば自分の身体の上で女がドスンドスンと乳を上下に揺らしながら動いているのが、まるで映画でも見ているように映って不思議だった。体重が降ってくるたびに、嘔吐しそうになるその開いた口に、上に居る女とは別の舌が、口の中で絡まっていく。
しばらくして瞳が勝手にお前の姿を探しはじめた。お前の気配が無いことに気が付いたから。何もわからない馬鹿のようになっているのに、なぜそれだけは、気がつけるのだろう。不思議だ。それで、俺がいつも座って遠目にお前達を眺めている場所に反対にお前が座ってこちらを見つめているのを見つけた。目が合った。お前は笑いながら何か言っていたが、何も聞き取れず、俺は幼児のようになってただ周囲の世話を受けているだけ。お前は、再び、以前のような笑みを取り戻して、立ち上ってこの俺達の作った熱源の海の底へ、再び潜り込んでくる。お前一人加わっただけで、全体の熱量が倍に、いや、もっとになった。お前の姿が見えなくても、お前が今どこで何をしていて俺に何を望んでいるか、わかる。今だけは。
◆
霧野は美里の手札を背後から覗きながら、負けるだろうな、と思った。口出ししても良かったが、口出しするとこの男は逆のことをするし、見越して逆のことを言うとそれは何故か持ち前の目敏さで見破られるので黙っていた。カジノを閉めた後の内輪の金をかけたお遊びである。
博才が一人抜けている三島が参加すると、ゲームバランスが狂うので、三島は見に回り、既に3回ほど勝って充分稼いでいた霧野も抜けて見に回って、美里を含めた若い衆だけでポーカーは続いていた。三島も霧野と殆ど同じことを考えていたらしく目だけで微笑んでいた。捨てれば勝てる、が、美味しい、そのキーカードの1枚をいつも捨てることが出来ないのが美里の癖である。結局二人の思った通りにゲームは進み、彼は20万円程負け越していた。
霧野は金が好きではあったが、賭博で得たあぶく銭を長く持っていることを好まなかった。翌日は霧野も美里も非番であったこともあり、顔には出さないが明らかに沈んでいるらしい美里を伴ってそのまま飲みに行くことにした。三島も同行したがったが、霧野がお前は明日もあるだろうと言うと彼は空気を読んで大人しく引き下がり、それ以上美里の機嫌を損ねることも無かった。
「お前が博打で生きていくのは無理だな。毎回同じ負け方じゃないか。少しは学習したらどうだよ。」
「は~?博打で喰う~?考えてもみなかったな。あんなのはお遊びだからテキトーでいいんだよ別にっ……。熱くなる方が馬鹿みてぇだぜ。ああ、今言ったのはお前のことだからな。わかる?」
テキトーと言いながらも、美里の博打の癖は常に同じなので、三島や霧野はほぼ100%の確率で彼に勝つことが出来た。癖は本人のこだわりである。とても「テキトーに打っている」とは言い難い。第一、さっきから言葉の節々に恨みがましさがにじみ出ているし、霧野が奢ると言った酒を飲む手が止まらず饒舌になっている始末である。確かに美里の指摘通り、霧野は負けが越すと熱くなる癖があるが、美里とは違って自覚していた。だから、最初から負け越さなければいい。最初から勝つ。
「じゃあ他に何でなら食っていけると思うんだ。今の仕事以外で。」
「考えたことも無いね、そんなの。」
「じゃあ、今、考えてみろ。」
美里はめんどくさいから嫌と言いながらも「肉体労働と接客以外、それでいて超楽、頭使わないやつ」と早口に呟いた。そんな仕事はないぞ、と言いかけ止めた。
「接客は悪くないんじゃないか?お前はカタギの連中とうまくやれてるじゃないか。」
「あんなのは接客と呼ばないね。ただ愉しく会話してやってるだけ。誰だってできるよ。」
「俺にはそれができないから。」
「それはお前のコミュニケーション能力に著しい難があるからだぜ。お前がおかしいんだよ。俺みたいのが見ててそう思うんだから、他の奴はもっとそう思ってるだろうぜ、あはは!」
「……、……。」
「お、なんだァ?的を射られて怒ったんか?」
急に愉快気に気色を変えて美里は目をぎらぎらとさせ始めた。霧野に兄弟はいなかったが、美里と接していると、もし弟か妹がいれば、こんな感じなんだろうかと思わせるところがあった。結局、そのまま飲み続けて朝になって、彼を家まで送っていく。あがってけば?という美里だが、今にも眠りに落ちそうで、大きな欠伸をして目を擦っていた。あがったところで彼が寝落ちするのを見届けるだけだ。
「いや、この後少しだけ事務所によるからやめておくよ。」
「……。今から……?どうかしてるんじゃないか……まぁ止めねぇけど。じゃ、勝手にすれば。」
美里は扉を自らの身体を扉に寄りかからせるようにながら乱暴に閉めた。霧野は美里の家を後にした。非番ではあったがどうしても片づけたい仕事を一つ残してきたことを思い出したのだ。事務所に出、結局なんやかんやで午前いっぱいでかかってしまい、眠気眼のまま昼前に帰り支度をしていた。
「ヤッたか?」
振り返ると眠たげな眼をした竜胆がポケットに手を突っ込んで立っていた。
「何?」
「ようやくアイツとヤッたかって聞いてんだよ。朝帰りらしいじゃん。どこに泊めた?お前の家?」
世間話でもするような調子で、竜胆は話しかけてくる。眠たかった頭が、覚めてくる。
「……、おい、冗談にしても面白くないぞ。」
「ふーん、噂通り本当にシロなんだな。面白くない、いや一周まわって面白い。」
「お前のような性欲異常者と一緒にするなよな。興味ない。」
「酷いこと言うなぁ。嫁がたった5人いるだけで何でそんなことお前に言われなきゃいけないんだよ。どうして多夫多妻制度にならないんだろうかと常々疑問だ。ま、俺や政治のことはどうでもいいんだ。俺が知りたいのはお前のことだ。アイツと組んだ奴でヤッてない奴なんか今まで一人だって居ないんだから。お前が特殊なのさ。誘われなかったのか?アイツに。」
「……。俺は今、非常に気分が悪いんだ、そういう話がしたいなら、他の奴としてくれよ。」
◆
川名が去ってから、またしばらくの間、美里の頭の中の音楽は続いた。二人は口をきかなかった。
川名が去った部屋はやけに広く感じられる。余韻と力の抜け伏している霧野と美里は部屋に二人残されて、美里は霧野をそのままに立ち上がり、川名から渡されていた紙袋を霧野の方へ黙って静かに寄せた。そして、部屋の中を歩き回りながら残された残留物を眺めて回ってから、入口の方の壁に背を預けもたれて目を伏せた。紙袋の中には川名が、霧野のために仕立て直した服が一式、入れてあることを知っている。紙袋の横に、霧野の首から取り外した黒い首輪が置かれたままになっている。
霧野の立ち上がる気配に目を上げた。こちらに背を向けたまま袋の中から衣服を取り出している。その姿を見ていられなくて、所在なく視線を彷徨わせていた。心が落ち着いてくるのを待って、また彼に目を向けた。彼は立ち上がり、ジャケットを羽織っているところだった。二足でしっかり立っているのを久しぶりに見た。彼が振り向くとまず最初に、首元にいつまでも付けているそれが目についた。鋭さのある眼光が言い訳がましく一瞬視線がぶれたが、芯のある瞳が戻ってきた。
彼に背を向けて黙って部屋を出ると、後ろから素直についてくる気配があり、何かこちらに話しかけようと言う気配もあるが、そのままずんずんと足早に屋敷の廊下を進んでいった。書斎にいる川名のところへ顔を出す。彼は机の上から目を上げ、美里ではなく、後ろ、背後の方に目をやって意味深な微笑みを浮かべてから目を伏せた。
「じゃあ、連れていきますから、失礼します。」
「その恰好で連れて帰ることにしたんだな。」
川名からは、犬のように連れ帰っても、着替えさせても好きなようにしたらいいよ、と言われて渡された紙袋だった。犬のように連れ帰って多少後ろに立っているド屑を辱めることはできようが、この家の中では、川名の模倣にしかならない。屋敷の外に出ると、腕を掴まれ振り向いた。彼は口を開き掛け、言い淀み、それから「外してくれないか。」と言って、犬のように頭を美里の方に寄せた。首輪のことだった。
「似合っているんだから良いじゃないか。そのままにしてろよ。それに、そうしてチェーンの側を前にしている分にはアクセサリーと変わらないぜ。」
美里は自分の首にかかっている細い金鎖で作られたアクセサリーを指で弄った。
「お前には良いけど俺には」
「そもそも、その首輪には初めから鍵なんかついてないんだぜ、霧野。お前がどうしてもいやなら、外したいなら自分でいつでも勝手に外せよな。」
霧野は顔を赤らめ手を首元に持っていき、指をかけたが、その手を降した。
「そうだな、そうしてろよ。気持ち悪くなったら言えよ、俺の手で外してやる。」
屋敷の外にカローラが一台停まっているのが闇の中に浮いていた。
「あ?、何だ?、こんなのダサいので俺を迎えに来たのかよ、お前。どういうことだ?」
霧野は、美里にやられた分をやり返すような口をきいた。そのまま美里が言い返す前に「金欠か?」と今までの痴態を誤魔化すつもりか、虚勢を張って、笑いさえしたのだった。俺がやった首輪なんか着けてるくせに、犬が。美里が黙っていると彼はそのままの顔で助手席に素直に乗り込み、ドアを勢いよく閉めた。辺りは静まり返っている。
「……。」
美里は車で来た道を振り返った。電信柱が並んでいる。あそこの一本にでも突っ込んでハンドルを切って助手席ごと捻り潰してやりたい。そうすればいい加減”わかる”だろう。
美里は運転席に乗り込み、黙りこくったまま車を発進させた。どちらも何も言わず、ラジオや音楽をかけるでもなく、沈黙が続いていた。30分程走ったところで、霧野がふいに助手席の窓を開けた。風が車の中に吹き込んで、ごうと音を立て始めた。彼は窓枠に肘をかけ、身を乗り出すようにして窓から今しがた走ってきた道の方向を見た。そして、また助手席に腰を下ろし、美里の方を見た。
「遠ざかってるけど?大丈夫か?」
「……。」
「一向に事務所の方向に向かわないから、よもや俺の家にでも連れっていって逃がしてくれる気なのかなァと期待したけど、そういうわけでもなく、じゃ、お前の家に行くのかと思えば、そうでもなく、ようやく事務所の前の道へ来たと思ったら、いきおいよく前を素通りし、いつまでも同じような場所をうろうろと。どこへ行く気なんだ。」
「今のお前は人間では無く、荷物と同じなんだから。行き先を気にする必要なんか権利なんか無いんだよ。」
「そうはいかないな。何故なら組長は「荷物である俺」を、事務所にでも戻しておけとお前に命令したのだから、それを破るってことは。言うまでも無いことだな。さっきから何迷ってるんだ?」
「……。」
「当ててやろうか。」
霧野の愉し気な口調が耳を擽った。美里は、苛立ちながら横に座る男を無視して車を走らせ続けていた。有料道路へ入る。さらに一時間近くが経過していた。
「今のところ、俺の予想に近い方角へ車は進んでいる気がする。しかし、」
霧野はそう言って、車のバックミラーに目をやった。美里も気が付いていないわけでは無かった。一台、少し離れた位置からずっとつけてきている車が一台あるのだ。霧野が再び口を開きかける前に、美里が思い切りアクセルを踏み込むとカローラが大きく振動して、彼の口を閉ざさせた。本来の美里の自家用車であれば、雑な動きもせず、うるさくもなく、無音に近い。今はこの雑音があって良い。あった方が良い。美里はようやく口を開いた。
「……。お前って本当に、最悪だよ。頼むからさ、もうしばらく、ほんの、少しでもいい、……黙っていて、くれないかな。俺の気が変わらない内は、お前のその最悪の予想通りに動いてやるかもしれないけど、もし、次に勝手に口聞いたらすぐにでもUターンして事務所に戻るんだから…‥」
美里の声が小さく、最後の方は聞き取れない程小さくなっていく。
車内を照らすデジタル時計は0時を過ぎた。有料道路を降りて車はラブホテルの駐車場に滑り込んだ。
「ここなら中まで奴らも入ってこないだろう。」
霧野は「またか。」と言って美里を見た。
「それはどうだろう。今までの傍若無人を考えると、一概にそうとは言えないぜ。」
「じゃあ何か、俺に、寝ずに運転を続けろってのか。」
「運転を変わってやってもいいよ。どこに行くつもりか、もしも俺と考えが同じなら。」
「今のお前に運転を任せるだって?そんなことできるわけねぇだろ。ああ、もう面倒くさい。わかったよ。」
美里は再び車を出した。
夜の間中、無言のままハイウェイを車は進んでいった。疲労が目に見えて美里の顔に浮かんでいた。
「疲れただろ、変わるよ。なんだか運転もおぼつかないぜ。」
「……、……うるさい……、黙ってろ、…‥。……いつまでたってもうぜぇんだから、寝てれば。」
有料道路を降りる頃には朝になっていた。今ならまだ、戻れはする。
川名の手が届かない唯一の場所、それは龍一郎の所だった。
◆
『……。ああ、なんだ……誰かと思えば、お前か。』
電話口の向こう側で美里の声に特に驚いた様子も無く、実父、龍一郎は冷めた声で応えた。
「お前の居場所が分かったぜ、今から殺しに行ってやるからよ、そこを動かず待ってろよ…‥」
『ああそう。勝手に来い、しばらくは特に引っ越す気も無いからな。』
彼は驚いた様子も無く淡々と言い放ち、沈黙した。
「……。なんだ、俺が、できないとでも、思ってんのかよ……。」
美里が言い終えると同時に電話の向こう側で、大きな笑い声が聞こえた。笑い声はしばらくの間続く。
『逆だよ、逆なんだよ、涼二、……お前ができると思ってるから、こうして、待ってるんじゃないか。』
龍一郎はそう言ってまた堪えきれないというように笑い始めた。
「馬鹿にしやがって!」
美里が逆上するのと反対に龍一郎は笑いをおさめた。
『馬鹿に?……そんなわけないだろう。どうして実の父親である俺が実の子どものお前を馬鹿にするんだよ。やっぱり逆なんだよ、涼二。俺なんかが直接育てないで良かったんだ。それにしても、遅すぎるな。もう殆どお前に期待なんかしていなかったところだったのに。』
「お前が何を言いたいか、さっぱりわからない。それじゃ、てめぇが、まるで俺に殺されたがってるみてぇじゃねぇか。そんなことってあるかよ。」
『そうだな。その通りだ。』
「……。」
まるで調子が狂う。電話の向こう側の人間が、何を考えているのか一切わからない。
それは、どこか川名にも似ているのだった。
『お前今、義孝なんかのところに居るんだって?難儀なもんだよな。アイツもなかなかどうして、俺以上にタチが悪いと思うけどな。』
「お前にそんなこと言う権利があるのか?川名さんがいなければ、俺は」
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「誰のせいで……」
『そう、俺のせいだな。間違いなく俺のせいだな、弁明の余地一切無し。だって、俺がそうしたくてそうしたのだからな。』
電話の向こう側で男は笑いながら楽し気に続けた。
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「……。今のところは?」
『そうだよ。お前がやる気になっている内は。』
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『とにかく一度こっちに来いよ。それとも、来ないなら来ないで、こっちから出向いてやろうか?』
また笑い声が聞こえる気配にこちらから電話を切った。汗ばんだ手が携帯を投げつけていた。
◆
もう、このまま目的地など目指さず、あてもなく車を走らせ続けてちゃダメなのか。
警察、そっちに今から……、いや、今更無理だろ、そんなのは。
何も考えたく、ないな。
車道の真ん中に猫が飛び出した。反射的に、ハンドルを切った。
◆
轟音と共に勢い車が電信柱に突っ込んだ。霧野は全身を強く打ち付けたが、電信柱がめり込んでいるのは、助手席側ではなく、助手席側はガラスの1枚も割れていなかった。しかし今の衝撃から考えて、車のどこか一部が大破しているのは間違いない。打ち身で全身が痛むが、身体の動かない所はひとつも無い。キーンとする頭をなんとか持ち上げた。ちょうどバックミラーに、背後で停車した車、そこから降りてくる見たことのある顔が見えた。彼らが近づいてくるのを呆然と霧野は眺め続けた。そしてすぐ横、潰れただろう運転席の方を見れないで、心拍数だけがただ、どんどんと上がっていく。濃い血の匂い。身体が、震え始めた。
その時、小さな呻き声が聞こえて、ようやく霧野はおそるおそる視線を横に向けた。電信柱がフロントガラスまでめり込んで硝子が割れ散っていたが、美里の身体自体はつぶれておらず、頭を強くぶつけて切ったか大量の血に濡れて顔面が殆ど赤濡れてシャツまで真っ赤に染まっているのだった。その中で唯一の白い部分が、朦朧とした視線が、ふらふらと彷徨い動いて、霧野を見つけると微笑んで、消えた。
霧野が手を伸ばしかけた時、勢いよく車のドアが外から開けられ身体を掴まれ、まだ力の真ともに入らない霧野の身体は引きずり出され、道路に尻もちをつくようにして転がった。久瀬と竜胆が立っていた。久瀬が呆れた調子で霧野を見下ろしていた。
「あーあ、何やってんだ、お前らは。どこに行くつもりなのか愉しみに見守ってたのに、まさか事故るとは。」
未だ衝撃が抜けきれず立てない霧野の横で、竜胆が車の中を覗き込んだ。車からはもうもうと煙が出て、周囲の煙たさに久瀬がだるそうに腕を振るった。
「ああ、臭いな、爆発するんじゃないか、これ。危ないからとっととずらかろうぜ。」
竜胆はさらに身体を車の奥の方へ突っ込んで、「あ?……」と不可解な声を出してから、出てきた。竜胆は久瀬の横に立って伸びをしながら普段のような剣吞な口調で言った。
「ああ~面倒だなぁ~どうしよこれ、美里ちゃん死んでんじゃないの?」
”死んでんじゃないの?”
その言葉が霧野の中でぐるぐると回って、何も考えられなくなってくる。呆然として立つことも忘れている霧野と対称的に、二人は淡々としたまま表情一つ変えない。久瀬が、携帯をいじりながらだるそうに口を開いた。
「動かないならそれはそれで俺達が楽でいいじゃないか。とにかく、澤野、お前には事務所に戻ってもらう。後の処理は俺達が」
久瀬が言い終わるかどうかというところだった。三人と車のに大型バイクが爆音と共に滑りこんで来、二人は反射的に後ずさり、霧野はようやく痛む身体のままふらふらと立ち上がらせた。漆黒のフルフェイスを被った男が、バイクにまたがったまま、三人の方を見降ろしていた。突然のことに全員がしばし呆気にとられていた。
男はバイクのエンジンをかけたままにして降りた。そして車の中に上半身を入れ覗き込んだかと思うと、素早い動作で三人の方を振り返った。振り返ったその右手にいつの間にか釘抜きハンマーが握られ、反射的に竜胆が懐に手を突っ込んだのを見越した男が勢いよく竜胆と距離を詰めてその腕に向かって躊躇いなく大きく振りかぶったハンマーを振り下ろした。鈍い音。
拳銃が、地面に回転しながら転がっていくのを男は足で踏みとめ拾い上げ、自分のズボンの後ろ側に慣れた手つきで差し込んだ。男の身体はすぐ久瀬に向き、頭、顎のあたりを狙って回し蹴りをくらわし、路肩の方へ飛ばした。そのまま飛び跳ねるように距離を詰め久瀬にのしかかり、獲物を食らう熊のように乱暴に懐を漁って刃物の類と携帯を回収、これもまた自らの衣服に格納して立ち上がった。
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竜胆からも同じように携帯を回収し終え去ろうとしたが、わずかに動きかけた久瀬に目ざとく気が付き、素早く大股で歩み戻り、踵落としをくらわし蹴り飛ばし、久瀬の身体は美里の廃車に叩きつけられるようにして転がってこちらに背を向けたままほとんど動かなくなった。男はその上に屈みしばらく様子を見ていたが、これ以上動かないと判断したのか、ハンマーをズボンにしまいながら立ち上がった。
この間20秒もかかっておらず、一言の会話も無かった。
フルフェイスの男は終始無言のまま、竜胆から奪い取った拳銃をとりだし、安全装置を外した。それを二人の方に向けながら後退、霧野のすぐ真横に立った。すぐ近くに、今すぐにでも発進できるバイクがある。
「後ろ乗りな。」
フルフェイスの中からくぐもった、聞き知った声が聞こえた。
「悪いけど1人までしか乗せらんないからな、美里君は置いていくしかない。本人にもそう伝えたから。あ。」
フルフェイスの男、間宮は、竜胆と久瀬がもう向かってこないと判断すると拳銃をしまい、道の隅の方で留まったままでいる猫を拾い上げた。そして、はやくしろ、という風に霧野を手で招いた。霧野には、彼に従う以外の選択肢は無かった。霧野が、もう一度、車の中を覗き込もうと大破した車の方へ足を向けかけると、信じられない程強い力で腕を引き寄せられ、無理やり猫を胸に押し付けられ、すぐ目の前に指を突きつけられる。
「ぐずぐずしない。話は後。」
大型バイクは法定速度を優に越えて田舎道を驀進する。轟音と揺れとで間宮と霧野とその間に挟まった猫が鳴く声が掻き消され、大破した車と煙幕が、霧野達の背後に遠ざかっていく。
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