堕ちる犬

四ノ瀬 了

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どこまでも自分を見失って、仕方のない奴だな。いいよ、そのままどこまでも、墜ちてゆけ。

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 川名の屋敷に来てからというもの、霧野は地下室に居た時とまるで同じように、首輪を除けば着衣をさせられないまま、立って歩くことも、人の言葉を発することを許されなかった。許されていることを数え上げる方が難しいくらいだ。常に尻尾が垂らされていた。ノアが引っ張って外してしまわない限り、排便する時、挿入目的で使う時以外は。

 「俺の屋敷の中で、お前に架したルール、約束事を少しでも破ったり、少しでも俺の琴線に触れるようなことをしてみろ、調教が苛烈に、扱いをもっと酷くすることは当たり前として、改めて言うまでもないが、目に余る場合、お前の大事な者から順に殺す。始めからそういう決め事になっていたな。部屋の掃除はしっかりできているようだな、今日は出してやるから、中で自由にしていていい。」

 檻から出されて、屋敷の中にあげられ、自由にして良いと言われても、人間としての権利を全て剥奪された姿では、1人で自由にされていることが、如何に逆にか、霧野は身をもって感じた。

 屋敷の中に居る者は、川名の設けたルールに従って霧野をそのように扱うようになる。誰も、霧野を澤野として見ないのはもちろんのこと、霧野として見る者もいない。呼ぶときがあれば、ソレとかお前とか、よくて、ハルと呼ぶのだった。

 屋敷の中に自由に放されて、最初こそ1人の間に何かできることはないかと、屋敷の中を屈辱的な姿でうろついてみていたが、嘲笑、好奇の視線が常に注がれるのに気が付かない訳にはいかない。事務所と違ってあからさまに暴力に訴えかけてくる者や罵声を浴びせかけてくる者はいないが、余計に耐えられなくて、結局広い屋敷の中を川名を探し這いまわった。

「なんだ、おひとりか。俺も一人だから、暇つぶしに遊んであげますよ。野球やってたんすよ、俺」

 川名は、屋敷の他の人間にも、霧野をそれなりに扱って良いということにしていた。

 巻に捕まって、庭でとってこいをさせられた。他の使用人達も時折足を止めて自分達を見ていた。彼はゴムボールを、屋敷の塀の壁の方まで投げる。藪の中まで野良犬のように泥だらけになって探しに這って行かなければいけなかった。身体に異物を入れられながら、いつまで続くかわからない屈従的な運動を続けるのと中の擦れでだんだん身体が溶けるようになって、息が不自然に獣のごとく荒くなる。

 ようやくボールを見つけ、咥え戻るのが遅くなった。巻は軒先に立ったまま「次今より遅くなったら、組長にお前のこと使っていいか一応聞いてきますね」と真顔で言ったかと思うと、また、腕を大きく振りかぶってボールを行きおいよく投げ放った。それから軒先の上から霧野を見下ろして「…‥なんか勃ってるけど、大丈夫?」と言った。

 川名ならまだしも、こんなよく知らない小僧に……!また急ぎ咥えて戻ってくると、奥の方から川名が現われた。彼は、何を言うでもするでもなく黙って皆の後ろで立っていて、この遊びを、眺めていた。またボールが放られた。川名はボールを目で追って、霧野の方に目をやった。目が合って、彼は薄っすらと微笑んだが、ボールはあっちだぞというように顎で庭の方を指し、再び奥に消えてしまった。

 だから、屋敷の中で自由にされてると言っても、川名の後ろをついて回るのが一番楽だった。まるで、自らの意志で川名の側に彼に付き従っているように見えてしまうのが厭だったが、今はそれが一番マシに思えた。彼だって日がな一日霧野の相手をしているわけでもないし、霧野が黙ってついてくる分には、何も言わない。せめて何か仕事が与えられれば、それに没頭もできるが、屋敷の中では与えらない。だから自分で役割を見つけなければいけなかった。
 
 霧野が来てから、川名はたまには外に出たが、家に居る時間が多かった。事務所の方は一体どうなっているのだろう。澤野になって彼に聞いてみたかったが、今は澤野の役目さえ与えられていない。霧野になって、神崎のことを聞いてみたかったが、それも無理だ。

 日の高い内に調教を受ける日もあれば、深夜に受ける日もある。時に、川名の夜床に呼ばれた。
 夜床に呼ばれる。それは川名と床を共にすることを意味しなかった。

 女、時に男が川名と床を共にするのを、霧野は尻尾の他にも貞操帯を嵌められて、部屋の隅の方で「伏せ」の姿勢のまま、股間を痛ませながら、見せられていた。そのまま終わる時もあれば、彼から「来い」と呼ばれれば彼らの側によって、彼らを手伝わされる。いつか似鳥が言った通りになったと思いながら、彼らに仕えた。しっかりと彼らを見ていなかった時、上手く仕えられなかった時、相手を帰した後に、指導されることになる。

「何のためにお前をそこへ置いてやっていると思ってる。自分の役割も果たせないで。」

 時に二条を呼ばれ、一層しごかれた。しかし、そこには役割があった。だから段々と、人間同士の情交の犬としての手伝い方も上達していった。上達したくなくても、勝手に上達した。元々霧野はそういうふうにできていた。

 特に蓉子は、川名が霧野を床の中で性具として使うのを最初から特に嫌がらず、一見3Pの様相になったが、霧野は男性器を使うどころか晒すこともまず無い。川名も霧野が居る時に、完全に衣服を脱ぐことは無い。霧野の使われるべき場所は限られる。すぐ近くで蓉子の濡れた肌を目の前に晒されると雄としての身体が反応してしまう。川名の相手が蓉子の時、川名は蓉子に見せるようにして、霧野を戯れに背後から犯すことがあった。

 手の届く位置に見知った女を置かれ、指一本触れられないまま、もどかしさの頂点の中で、その女の目の前で背後から男に犯されていると、自然と霧野の顔つきから高慢さが消し飛んでいくのだった。男だけの空間でいたぶられているとはまた違った屈辱があった。それに蓉子はただの女ではない。

「あ゙……っ、ぁ……!!」

 屋敷の中で川名に犯されるのは、今のところ、この時だけなのだった。自慰をしても良かったが、常に誰かの視線を感じる中で、自慰などすればすぐにそれが川名に伝わって、仕置きされるに違いない。歪み凝り固まった性感を弄繰り回され、濁り溜まっていた恥辱の欲溝の奥の濡れたところを、がんがんと突かれる、一突きされる毎に、理性が蒸気のようになって吹きこぼれ、汗と共に部屋の甘い空気の中に霧散して、耐えた分だけ情けない声が漏れ出た。

「み゙ないで……っ、みないでくださ、い、俺を゛ッ、そんな目で……ッぁぁ……っ」

 視線をどこへやっていいかわからず、目を閉じてただ震え耐えた。それでも、2人の笑い声が絡みついて内から外から犯される。川名が霧野の腕をぐいと引っ張ると嬌声と共に霧野の肉が引き締まりながらふやけ、川名の雄が中へ中へと深く突き進んでは戻り、潮の満ち引きのように、霧野の身体の中を卑しい快楽が駆け巡った。

「ん゛……っ!、ぁぐ……」

 肉がまた痙攣して川名を愉しませる。貞操帯の穴から零れ出た汁が布団の上にみるみる染みを作って濡れた。精神が、汁と共に出ていくみたいだった。頭の中がぼーっとして、痛みと快楽に、浸されていく。射精、射精したい。

「ぁぁぁ゛…ぁぁぁ…、って、外して…くださ…、‥‥‥だし…たい…っ、」
「蓉子を前にしてよくそんな情けない声でねだれるな。」
「ぐ……ぅ゛っ、くぅ、」
「一層身体が熱くなったな。え?他に何か言うことは無いのか?今夜は口をきいていいことにしてるんだから、俺を満足させるような気の利いたことを言ってくれよ。澤野のように。」
「ぁぁ゛……はぁっ、はぁ……、先に、ご満足、させますから…‥、っ」
 霧野は川名を上目遣いに見やったと思うと、一方的に穿たれていた肉体を自ら動かし始め、意識的に雄膣を引き締めて、動いた。そしていいところを見ず絡みつけて、頭の中の獣が、欲望にかぶりつき、理性を糞として外に放出させ、ドスンドスンと身体を動かすのが止まらず、獣じゃれつくように川名に跨り、頭の奥の方がスパーク、昇天しそう。味わうように自ら舌を噛んで、狂ったようにのけぞって身体を動かしていた。
「…!!‥…!!!!……!!!!!!」
「何だ…‥重いなぁ……いいにはいいが…‥、お前の方が余程。満足しているように見えるぞ。でも、いいよ、お前がそんなになって俺の上に悶えるのを見るのも珍しい、また一興だ。……聞こえてないか。どこまでも自分を見失って、仕方のない奴だな。いいよ、そのままどこまでも、墜ちてゆけ。」

 貞操帯が徐に外されて、いきり勃った霧野の雄は勢い射精、川名の身体まで穢したのだった。
 しかし、川名は珍しくそのまま獣を遊ばせておいた。
 追って後日、霧野の理性がしっかり戻ってきたのを見計らってから、今夜の話を持ち出して厳しく躾けた方が精神によく効くと思ったのだ。狂乱の夜は続く。

 それから数日の間を開けて、また別の夜、呼ばれた夜床で、霧野は久しぶりに犬のマスクをすっぽり被せられて、首輪をリードされて、部屋の隅の柱にくくられた状態で床の隅で待たされていた。廊下に男女の話声が響いているのを聞き、霧野は一瞬、犬が耳を立てるように頭を上げ、また素早く伏せた。死にかけていた感性が、その声に激しく揺さぶられ、これから起こる災厄について考えを巡らせ、叫び出しそうになっていた。逃げ出したかったが、それをさせないための今日のリードだったし、一体どこへ逃げる、逃げられるというのか。尻尾を咥えた下の口がみるみる引き締まった。襖が開いた音、伏せたまま目を、そちらに向けた。ああ。川名様のおやりになりそうなこと、と犬の部分の霧野が呟いた。

 由紀。川名と愉し気に入ってきたのは、元恋人の由紀だったのだった。由紀は川名を見て、川名の視線だけが、霧野の方に愉悦の感を讃えて向いている。由紀は、川名に合わせるように一瞬だけ霧野を見おろした。ソレが霧野と認識できるわけもなく、ただ、汚物を見たような嫌悪の表情を示し「話には聞いてたけど気味が悪いよ。」とかつての調子で言いはなってもう霧野の方を見るのを、一切止めた。

 彼らは親し気に何か話していたが、その間霧野は頭の中が真っ白になって、虚脱しかけていた。記憶と目の前の情景が混同し、目の前がかすみ、そして由紀の、由紀は元々性格が強かったが、それにしても、今まで自分に向けられたことが無いような、侮蔑の言葉とまるでゴミを見るような表情を思い出しては心臓に何か刺さったような痛み、心と体のざわつき、股間が反応し、身体が燃える。死んでいた者も蘇る程の熱が湧いた。

 口はきけるが、そんな男と寝るなとも、何故ここにきたとも、ここに居るのが一体誰であるかとも、言い出せるわけがなかった。声だけでも、彼女なら、勘付くかもしれなかった。だから静かに、命じられたこと、見ることを、していた。川名に命じられるまでもなく、目が離せない。憎しみと怒りと屈辱と、それから疼きと。

 口に何か嵌められていたなら唸り声の1つも出せて、この出口の無い感情を、出せたかもしれないのに、それを川名は見越しいて、敢えて嵌めない。何も、出せないで、伏せっていることしかできないのか。一層もう、この感情に身を任せてみようと思っても、川名のすぐ目の前に無防備な姿でいる女は同時に人質でもあるのだ。口の中に血の味がしてきた。口の中を無意識に噛みすぎて、また出血を起こしていた。話には聞いていた、と言ったか、川名お前、由紀に何を話したんだ。

 情交。男女の戯れが目の前で行われているようだ。あまりに非現実的すぎて、隠された霧野の口元に歪んだ笑みが浮かび始めた。映画でも見せられているようだ。わかっていても、目の前で起きていることを、頭が理解できない。したくない。下半身がマゾヒスティックな興奮の閾値を越え、異常に、根元からじんじん強く痛み、身体の中の異物を感じて、内から濡れてくる。何てザマだ。つい畳にこすり付けるように身体を動かしてしまってから、世界で一番最悪な気分になった。何故、無理やり別れてきた女が、別の、しかもこの世界で最も憎い男と寝てるのを見せられて、こんなふうに男根を痛ませながら、惨めに床に這って肛門を異物で犯され続けなければいけない。息が上がってくる。
 
 他にもっと痛むべきところが、心、魂が、身体より、痛い。下半身の脈打つ。思想がバラバラに散っては、戻り。狂いそうだ。頼むから、今日だけは、手伝え、など、と、決して言わないでくれ。他のことなら何でもするからっ。本当に壊れてしまうっ。身体が、前のめりになって、腕を伸ばしかけ、すとんと落ちた。気が付くとたわんでいたはずのリードが張って、自ら首輪で首を絞めるような姿勢になりながら、霧野は自然と伏せていた目を上げた。目が合った、川名と。川名の視線は、由紀には気が付かれないような体勢で、ほとんど常に霧野の方に合っているのだった。今までもそうだったが、今夜は特別そうだった。彼の瞳の奥の方に火が灯って燃えるのが霧野からは見えた。首が締る。彼に絞められていると錯覚する。喉の奥が鳴る。どくどくと。涎が。
 
 川名は、今までも、目の前に居る男や女に対して本当は殆ど無関心で、霧野と目を合わせることで燃えていた。その様子を相手の男や女に上手く見せて、まるで興奮しているように見せかけているのだった。霧野にだけは、それが、よくわかった。だから、行為の手伝いにも、後始末も耐えられた。最中、ずっと彼を感じていた。川名が何を考えているのかを誰よりもずっと近く感じられた。

 川名は、自分が目の前で犯している相手よりも、霧野の反応に興味と興奮を示して、行為しているのだと、わかってから、嗚呼、可哀そうな人だ、と、そう思って、無理やり見下し、無理やり気を紛らわせることも普段はできた。しかし、今夜に限っては、全くできない。川名が由紀を特定して、偶然を装って親しくなるくらいするかもしれないとは考えていたが、まさか目の前に連れてくるとは。しかも、寝るところまで持ってい来るとは。自分から、別れた、女だろ、どうでもいい、と言い聞かせつつも、まるで無理だった。

 殺す。殺してやる。川名がこちらを見て、普段より昂ってるのがわかる。この場に俺がいるから、奴は激しく勃っている。俺が殺意に燃えていると、燃えれば燃える程、奴も激しく燃えるのだ、だから、殺意を押さえるんだ。無になれ。でも、それができない。

 一度目の行為が終わり、浴衣をはだけた川名が、由紀を布団の中に置いたまま立ち上がってこちらにやってきた。柱からリードを解いて首を引いた。その時、冷ややかな声が響いた。

「そんなもの、こっちによこさないで。」

 二人の男が同時に由紀の方を見た。由紀は川名を見上げて、霧野の存在を完全にないモノとして扱っていた。霧野は股間の奥の方がじんじんと痒いような快楽とと共に痛むのを感じ息を荒げた。それが余計に由紀を不愉快な表情にさせたのだが、その顔を眺めていると霧野は、頭の奥の方が、ぼんやりとして、川名と由紀の両方から責めを受けている気分が強まっていくのだった。そして由紀の冷徹の態度がある意味霧野を救ったのだった。彼女に蓉子にされるように構われたら、たまったものではなく発狂しただろう。勿論彼女に触れたい、話したい、もっと近くで、よく見たい。懐かしさに胸が痛み、自分の本分を思い出させる。でも、今のこの惨めな姿では、決していけない。

「それになにかさせようっていうなら、私もう、帰ります。」
「ああ、そう。」

 川名は完全に由紀から興味を失ったように、由紀から目をそらして、由紀ではなく、霧野を見降ろし、言った。霧野にだけ、由紀には、いや他の誰にも見せないだろう、川名の本当の表情が見えた。

「じゃ、帰れよ、送らせる。」

 由紀が居なくなった部屋の中で、川名が屈んで霧野のマスクを剥ぎとった。

「どうだ?今日の趣向は。良かっただろう。お前の素行を見て、彼女をちゃんと生かしていることも証明できたわけだ。」
「……」
「話していいよ。声が出ないか?」
「……。別に。何とも思っていない。……、何も、感じていない。」
「お前の目は、全くそう言ってないが。でもまあ、お前がそう言うんじゃあ、戯れに結婚でもしようかな。」
「由紀が、まさか、了承するわけないだろ……」
「さぁ、それはどうかな。のこのこと俺の屋敷までやってきて、お前の目の前で、お前のことに気が付かず、この俺と寝るような女だぞ。お前、あの女を過大評価しすぎなんじゃないのか。人は、想像の中で相手を美化する。お前は今まで苦しい時にきっと、あの女のことを何度か思い起こして救われたのだろうし、俺もよく脅しに使ってきたな。その中で、あの女はお前にとってただの女じゃなくなっていったというだけ、どこにでもいるような大したことも無い、つまらない女だ。ただ、お前の未練のある女という点、その点だけが唯一俺にとって面白い。それだけだ。」
「……」
「もしも立場が逆、つまり俺があの女だったなら、お前を交えて三人で遊ぶね、間違いなく。」
「それは、由紀が大したことない女だからでは無く、アンタの頭がおかしいからだよ。」
「うん。それはそうかもしれないが、お前も、人のことが、言えるのか?」
 川名の視線が霧野の頭から下の方に向いて、戻ってくる。
「今夜はお前に近づいただけで、空気が、違って、熱かった。怒り、憎悪、殺意、それだけじゃないな。いや、それがあるからこそ、余計にイイのだろ。予想外に彼女が早く退場してしまったし、久しぶりにゆっくり遊んでやろう。お前も、遊んでほしいだろう。何も言うな。言わなくてもわかる。」

 彼は優し気な口調で語りかけ、霧野の頭を撫でた。

「ハル。」

 そういえば由紀もまた霧野を遥、ハル君、そしてハルと呼んだ。



 川名は起きがけに頭痛を覚え、両の手で目元を覆った。しばらくすると潮の引くように頭痛はひいた。おかげで思考がクリアになっていく。夢を見ていたのだろうと思った。いつも夢を見たことだけが身体に残っていて内容を覚えていない。夢の中で自分の中の混沌が整理され名残が頭痛になって、抜けていくのだと思う。

 川名の屋敷には寝室がいくつかあったが、その日は、屋敷奥の洋室の寝室を使っていた。ベッドの下から音がする。おや、起きているらしい。ベッドの下に大きな生き物一頭をいれられる特注のケージを作ってあった。たまにそこに物をいれて、自分は上に寝る。

 下に居る者は感じるし、上に居る者も感じる。
 
 川名はベッドから降り、ケージの方は無視したまま、隣の部屋に行った。屋敷の中でも仕事部屋に使っている書斎だった。パソコンを起動させ、配下の人間から届けられていた情報に目を通していった。

 組織も大きくなった。何事もそうだが、最初は一人から始まった。

「正式にうちで働くことになったらしいな。最低限身を守る術、殺す術を学んだほうがいい。お前はこれから、内にも外にも敵を多くつくるだろう。今でさえそうなんだ。お前のようなあまのじゃくでも厳しく訓練してくれる良い人間を紹介してやるから、しばらくそこに行ってくるといい。お前は汐様とよく銃遊びをしていたが、それだけじゃ足りない。」

 高橋から名刺を受け取り一応ポケットに忍ばせたが、川名はやる気ない調子で高橋に言い返した。

「今生きている意味も分からないですし、別に、殺してもらって結構。その方がよっぽど愉しいかもしれない、ははは、どうせろくな死に方をしないから、どうやって自分が死ぬのか是非とも見てみたいものです。」

「何を言ってる。犬死にするために、殺されに戻ってきたわけじゃないんだろ。汐様の意志を」

「汐の意志を継ぎたければ勝手に高橋さんがやればよろしい。高橋さん、何か勘違いしているみたいだから、アンタにだけは、恩義もあるし、俺の気持ちの一端を、伝えておこうかと思う。俺はね、汐に恩義など一切感じていない。今までも、これからも、全く、これっぽちもだ。あの、にやけ面した、時の止まった遺影を見るたび、つくづく、冷めた気分になります。墓の前に立つたび、お前の骨などこんな上等な場所じゃなく、犬にでも喰われればいい、と、常に思います。汐と渚の遺した物はもちろん、使わせてもらう。俺にはその権利があります。何故なら、奴がくたばりかけていた俺を救わなければ、少なくとも俺は人間のまま、もしくは人間もどきのまま、この生を終われていたんですよ。それをアイツが邪魔をして、俺を余計に人間から遠い地点へと引き摺り下ろしてしまったんだ。その賠償です。それは俺に気持ちがいい程俺によく馴染み息ができた、だからこそ、拒絶していたのです。」

 高橋に、川名が普段誰にも言わないで秘めていたことの一端を語っている内に、だんだんと川名の気は整理されて、変わっていった。殺されるにしても、どうでもいい人間でなく、せっかくなら愉しい相手が良い。それに、雑な死は、つまらない。そして、汐が残したものや彼らの意志を無為に破壊するのと同じだった。それで、一通りの訓練を受け、それはそれでなかなか面白い学びや出会いがあったものだった。

 最初の仕事で手にした金で、シェパード犬を3頭飼って調教した。自分の食費より、3頭の食費の方が高くついた。汐と渚に因んでドイツ語で海に関連する名を与えた。一頭目、一番賢く物覚えもよかったヴィアベルは、刺客に狙われた川名の前に飛び出し、死んだ。二頭目、メーアは、臆病者だったが慎重で仕事はこなせたし、何より一番愛嬌があって、川名以外にも時々尻尾を振った。川名に恨みを持つ人間に殺されて、死んだ。三頭目、シュトロームは、一番の乱暴者で、メーアとは反対に川名以外の全てを敵と思って常に暴れた。その性質のおかげで寿命を全うした。寿命とはいえ、平均寿命よりはずっと短かった。その犬が、歴代の中で一番人を殺し、食べた。シュトロームといた日々は、川名が最も精力的に自ら手を汚した時期でもある。
 
 最初の頃、常に3頭、入れ替わりながら、身の回りを犬を侍らせていた。本部に行くのにも連れて行っていて、忍は嫌な顔をしたが、澪が喜ぶのと、澪を可愛がる徹の目があるので、黙認していた。犬は、川名にとって価値の無い人間を、より一層彼に寄り付かせないようにさせた。その内、犬が側に居なくても、人を寄せ付けない雄の空気が以前に増して身に馴染んだ。彼は時に社交的に、時に紳士的に、時に精力的な人間の真似事をして振舞ったが、スイッチを切ってしまえば、すぐに彼の周りには人間というより別の獣のような雰囲気が漂い始めるのだった。



 間宮に誘われて3日目の夜、美里と間宮の2人は川名の屋敷に入ることに決めた。時間は深夜3時を回る頃で、霧野が屋敷で由紀と邂逅してから5日目の夜でもあった。間宮は屋敷の前でトランシーバーを美里に投げてよこした。

「使ったことあるかな。まあ、無いだろうな。試しに今繋がるかテストしてみろ。玩具みたいなものだから、誰でも使える。半径500Mくらいなら繋がるから、これで十分。」
 間宮に使い方を教わって通じることを確認した。
「何かあれば使えばいいし、何も無ければ使わず終わっていい。保険みたいなものさ。」
 
 間宮は美里に対して、ヘマを踏んだら置いていくと言っていた割には親切だった。彼はトランシーバーをこなれた様子でベルトに挟みこんで、伸びをした。長身な身体がぐぐっと伸びあがり月明かりの中で影が伸びる。彼は伸びをした姿勢のまま裏戸の方に進んでいき、今度は素早くかがみこんだ。それから美里にライトで手元をを照らすように頼んだ。光の中で彼の指が機材を使って鍵穴をカチカチ鳴らしていた。

「霧野さん達は、一体何をしてるのかね。夜伽の最中だったら天井裏から最後まで見守ってから帰ろうかな。」
「……。」
「そういや、俺は組長のペニスをしっかりと見たことないんだよ。どんなもんなのか気になると言えば気になる。君は見たことあるだろうな。きっと。どんなだった?形は?長さは?味は?」
「……。」
「そもそも組長はセックスにご興味が」
 
 口よりも手を動かせよ、と美里の口から出かかった時、カチ、鍵が開く音がして、裏戸が開いた。間宮は機材をポケットに滑り込ませ立ち上がった。手元を見つめ、それから美里の方を見て親し気な笑みを浮かべた。

「日が出る前にはここを出た方がいい。1時間だ。初手は、手短にやるに限る。無計画に長時間彷徨うのはよくない。俺も何度か川名屋敷にきたが、頭の中に地図ができていない場所がいくつかあるから、今夜はそこも見てくるつもりだ。4時には出て、ここを閉める。一緒に観て回る方が安全だが、お前は俺なんかとは別行動したいだろうし、俺も精確な地図作りをしたいから、君の面倒を見ている暇はない。だから、別働で行く。中で何を見たとしても、時間だけは守れ。早く出て勝手に帰る分には良い。……じゃ、俺は先に入るから、少し間を開けて入るんだ。もし、やっぱり入るのが厭になったら止めて、ここに居ていいし、帰ってもいい。見たく無いものをわざわざ見る必要はない。何か話せるようなことがあれば、話してやるから。それでもやはり、入ると決めたなら、鍵を内から閉めるのを忘れずに。ではでは。」

 間宮が手を振りながら、闇に紛れて消えた。美里は煙草を吸って考えていた。この行為は明らかに、川名に対する裏切りである。川名に直接状況をきくのが筋だ。間宮は川名に対して、便宜上の忠誠は在れど、真の忠誠は別の人間に捧げている。だから、行為に遠慮が一切無いのだ。

 間宮の二条に対する一方的にも見える忠誠を馬鹿にしていたが、人をそこまで崇拝、信用できるということは、本当は凄いことで、力を得られることだ。川名に忠誠を誓いながら今、自分がやろうとしていることは、死にぞこないの馬鹿を、主を裏切ってまで探し出そうとしているのだから。間宮とどっちが馬鹿だろうか。

 煙草を吸い終わり、持って来ていた消臭剤で身体の臭いを消した。その間に闇に眼も慣れた。

 庭の中に忍び込み、後ろ手に鍵を閉め、庭木にまぎれ、姿勢を低くした。野良猫にでもなったような気分。こういうは小さい頃、母親がいた頃以来かもしれない。その頃には、ともだち、と言える者がいたような気もするが、もう名前も顔も思い出せなかった。草の匂いに混じって獣の臭いがする。ノアの臭いだろう。美里は屋敷の方には近づかないで広い庭を塀に沿って歩いていった。

 間宮は上手くやるだろう。彼は屋敷の中を探ると言った。だったら別働としては、外を探るのがいいし、難易度も低い。つんとした獣の臭いが強くなる。ノアに吠えられるとまずい。しかし、ノアは親しい人間には吠えない。臭いを消したとはいえ、人間には臭わなくても、犬には臭う。ノアはもう、こちらの存在に気が付いているかもしれなかった。檻が見えた。そしてその中の様子は、月明かりの中で、少し離れた位置、美里の潜んでいる茂みの中からでもよく見えた。美里は思わず低い唸り声を上げそうになるのを、唇を噛み、こらえた。

 口の中が、自分の息使いが耳に五月蠅くなっていって、口元を覆った。続いて吐気がする。

「う……」

 檻の中で蠢くもの。ノアと霧野の、ノアのペニスを使用した直接的な性行為を直接見たのは、屋敷に居る人間と、似鳥だけだった。美里はまぐわいの様子を今、初めて目にしたのだった。燃えるような殺意が全身を巡って身体が熱くなって、身体が茂みから飛び出そうとするのを、抑えつけた。それで、殺そう。と思って、誰を?と後からよくわからなくなった。感情的になると、頭が悪くなる。とにかく、許されない、なんとかしなければいけない、と思った。考えがまとまらないまま、目を離せばいいのに離せず、何もできないでいる。今感情的になって、あそこに駆け寄ったとして、見つかって、最悪、同じ目に遭わされるだけだ。

 美里は目を伏せ、小さく息をついた。身体の記憶が蘇ってきた。物好きの金持ちが大金を積んだことで戯れに人間と獣と両方のいる場所で情交させられた時のことを。全身に鳥肌が立ち、脚が震え始めようとするのを耐え、記憶をまた奥に仕舞い込もうとするが、ノアと霧野の濃い気配が、そうさせてくれない。

 霧野はどのくらいの間、まさかずっとあそこに居るのだろうか。なぜ、もっと早く確認しに来なかったんだ。甘かった、川名に対する認識が。未だにゾッとさせられることばかりじゃないか。ゾッとしても、すぐに、そういうものだから、と感情を切り分けて彼と同じになろうとしてきて、慣れてきたつもりだった。実際慣れた。素質もあるだろうと思う、川名もそう言って目をかけてくれるのだ。でも、今回ばかりは、もう駄目だ、貴方と同じになれない。初めてそういう感情が湧いた。いや、本当はもっと前から。

 美里は再び闇の中から目を凝らして、見たくないものを、じっと見ていた。その中で、霧野の脚の辺りに鮮やかな紅が広がっているのが見え、一瞬ノアの雄根に抉られているせいで、出血しているのかと思ったが、そうではない。闇の中で白い身体の上にやけに鮮やかに紅くてらてらとして見える。美里はそれが何かわかった時、ああ……、と小さく震えた声を出した。

 椿だ。右足の太腿にかけて、白彫りの華の横に大輪の血のような紅の椿が重なるようにして、二輪、滲んで咲いていた。彫ったのだ!あの男が!そのための確認の電話だったのだ。俺が言ったから。
 それで、それを俺に見せて、……。

 気が遠くなってきた。しかし、美里は残りの時間全て、目を見開いたまま、闇の内に、見たくないものを、目に焼き付けるために、無理やり見続けることにした。

 感情を尖らせる必要があるからだ。もっと、鋭く。研ぐのだ。全身にびっしょりと汗をかいていた。

 その内にだんだんと美里の中に黒い変化が起きた。心の闇の奥で、なぁんだ、良い眺めじゃないか、一体何を畏れているんだ、犬同士性交させて当たり前なんだ、もっと数を増やして見世物にでもしてやれば愉しいのにな、と川名に似た血の疼きが湧きが始まった。びっしょり汗に濡れた顔の中で、口元に笑みまで立ち昇りかけていた。しかし、自分の身を目の前の男に投影して昔の記憶と重ねれば、最初の常人らしい嫌悪の気持ちに戻った。川名には理解できない部分が、まだ理解できる。

 普段なら、常識なんて言葉を使うのは避けるが、今だけはその言葉にも縋りたい。もし、自分が川名の立場だったら、ノアと霧野を並べて仲良く散歩させて餌をやって遊ばせ、可愛がるくらいのことは当然、やるだろう。しかし、今目の前で行われているようなことは決してさせない。どちらの肉体にも負担があまりに大きすぎ、長く使えず、病気にもなろう。スペアがあるならいくらでも非道をしていいが、霧野は、この世にひとつしかないのだ。いくら霧野のような身体と精神を持っていたって壊れてしまう。

 川名にしても二条にしても加減を知らない。霧野にしても、元々、彼の気質から、たとえ肉体が限界を迎えていても精神でやってしまう、耐えてしまえるところがある。
 だからこそ余計にタチが悪い。最悪に最高、最高に最悪な相性ってことだ。
 だから、手綱を持つ側が、手綱をかけられる側の理性の飛びを、管理してやらなくてはいけないんだ。

 誰一人川名を止めることはできない。警察以外で彼を完全に抑制できる人物がいるとしたら、本部の人間くらいだろうが、美里は本部にツテなど持っていなかった。今更ながら、川名の言う通り、組の政治に関与してコネを持っておけば良かったと思う。
 
 彼が飽きるのを待つ?その前に殺される?いや、俺が、殺さないでくれと言ったせいで、こうなってるんだから、飽きたところで殺さないまま、死んだほうが良いっていう目に遭わされるだけで、俺が殺してやってくれと言えるかと言えば、もう言えない。そんなこと言う位だったら俺が殺す。それ以外に方法が無いのなら。でも、今ならまだ、他の道がある。

 時間ぎりぎりになって、美里はその場を後にした。ひとつの地獄の情景を、脳裏にしっかりと焼き付けて。
 間宮が先に外に出て待っていた。

「遅かったな。随分長いこと愉しんでいたようだね。あと1分だよ。てっきりどんくさいことして捕まったんじゃないかと思った。……ああ、勘違いしないでほしいから、一応先に言っとくけど、別に、君のことを心配してたわけじゃ全然ないんだからな。もし捕まる様なヘマ踏んでたら、今度は遠慮なく、君のことを非公式じゃなく、公式に虐められていいな、と、どうやって虐めてやろうかな、と、考えてたのさ、だから今、戻ってきた君を見て、残念な気分なんだよ。」

 間宮の軽口が今は心地よかった。美里が光で彼の手元を照らすと、彼は鍵を閉める作業に取り掛かった。開ける時と違って今度は彼は全く口をきかなかった。何か言ってくれよ。お前は何か見たのか?と聞こうと思って止めた。きっと見ただろう。聞かないから、言わないだけだ。
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