堕ちる犬

四ノ瀬 了

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人体に、虐待を加えられる爪が、指が、合計たった20本ぽっちしかないことを、残念に思ったか?それとも良いことと思ったか?

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 青年の下半身に大きな穴が開いていた。青年の身体は歪に下半身から裂け、明らかにそれは死んでいた。
 テレビ画面の中に、溶岩のような大きな穴が映し出されている。

 DVDは終始無音だった。冒頭、青年の身体は打たれた痕にまみれており、死んだように動かなくなっていたが胸が微かに上下しているのでまだその時点で生きているのがわかった。肛門に異物を挿入されても抵抗する力も無いか、動かない。もし音が入っていたなら、呻き声を出していたかもしれない。ベッドの上に、場違いに小さな赤い花びらが散乱していた。しかし、よく見ればそれは花びらではなく、人間の爪だった。赤いのは血のせいだ。

 異物は最後彼の中で爆発した。文字通り爆発したのだ。
 肛門に爆発物を挿入し直腸内で起爆させた。それで、彼の股座に大穴が開いて、3分ほど同じ角度、彼の全身を下半身の側から、長写ししてある。千切れかけた片方の睾丸。ブラウン管の中の映像はぶつりと唐突に終わる。

「……。」

 薫はDVDをデッキから取り出し、指で両端を摘まむ。割ろうと思って歪ませては、元のように水平に戻す動作を何度か続けて、ケースの中に静かに納めた。DVDディスクの表面は真っ白で何も書かれていない。手にびっしょりと汗をかいていた。5回見て5回同じように割ろうとして、ケースの中に閉まった。それから……。

 双月を通して、例の黒いハンカチの男から贈られたDVDだった。双月は中身は見ていないと言った。見ていたら渡さなかっただろう。薫は1週間放っておいて、見ないまま捨てるべきか悩み、結局見て、後悔し、男と自分を恨んだ。

 DVDのケースの中には1枚、上質な紙に電話番号らしき数字の羅列が記載されたものが入っていた。数字だけだが、美しい字体で乱れがなく痣のような青黒インクが使われていた。あの男の連絡先だろうが、どうして、こちらからかけることがあるだろう。

 警察に通報すべきかと思ったが、できなかった。したところで、こちらが追求され、双月にも迷惑がかかる。それに素性のわからぬあの男が、何をしてくるかわからない。
 男からは時々、そうした贈り物が直接郵送で届くようになっていた。送り主の名は無い。彼に関してわかるのは、最初に贈られたDVDの中にある電話番号だけだ。双月に聞けばもっと様々なことがわかるだろうが、こちらから進んで知りたくない、進んで知ろうとしていることをあの男にバレたくない。薫は贈り物を段ボール箱に無造作に何でもないもののように突っ込む。段ボール箱の中身が徐々に黒い物で満たされていく。

 薫は2回生、壮一は4回生になっていた。夏を過ぎても、壮一は院に進む勉強も就職活動もしていない。
 プロレス研で薫は時々OBとして現れる壮一の相手をする。薫は既に壮一から部をまとめるように長の地位をたくされていた。就職活動にも有利になるからと壮一から譲られた立場。しかし、最初は興味の無かったプロレスそれ自体に面白みを感じていた。そして、薫は会の人間から慕われるようになっていた。最初は反感を持っていた男達も薫の実力を見ている内に、殆どいなくなった。どうしても気に喰わない者は自ら去っていった。

 壮一のと関係は続いていたが、元々多かった喧嘩の数が増え、プレイで消化するたびに苛烈さを増した。

 このままでは、壮一を殺しかねない。時々そう思って手を緩めるのが壮一に伝わり、プレイの過激を極めている頂点に達する時「いいんだ……っそのままヤレよ……っ、いい、お前ならいい……」と彼を叫ばせた。

 いつからか壮一には、被殺の傾向が出始め、それが薫の殺意から伝染したのか、元からあったものなのかわからない。プレイ中の盛り上げとして時に良かったが、だんだんとその声が気に迫っているように感じられた。本気で言っているように聞こえ始め、夢にまで出てくるようになり夢の中で願いを達成し夢精し、絶望した。

 もう、終わりだ、と薫は思っていた。自分の下劣な欲望に従って、人一人を殺して、自分の将来を台無しにしたくはない。薫はだんだんと冷めた目で壮一を見るようになった。俺ならお前の相手を勤められると最初にそう言った。確かにそうだった。彼の言葉に嘘はない。彼が嘘をついたことは無い。

 しかしこのままでは二人最悪の結末を迎えるだけだ。自分はもちろん、壮一の将来を台無しにする気も無い。壮一に先のことを聞くと曖昧なことしか答えない。今、お前との時間があれば良いという。それは嘘では無いだろう、本心だからこそ、一度距離を置けば、彼も目を覚まして自分の将来を真剣に見据え始めるだろうと思ったのだ。
 元々できの悪い人間ではない。寧ろ社会的に見れば卓越した存在だ。

 彼に説明した。一度、距離を置かないかと。彼の部屋で話をした。壮一の反応は、取り乱すこともなく冷静で「わかった。」とはっきり言った。それから彼は、細くカーテンの開いた窓の方に行き、しばらく外を眺めていた。そして、薫に背を向けたまま「出てってくれ。」と言った。

 それ以上一言も発さず、口を固く結んでいるようだった。薫は脚が床に張り付いたようになって動かないのを、自分が言いだしたことだろ!と自分を奮い立たせ何とか浮かせた。まるで誰かが脚にすがりついているかのように重い。こんなに脚が重いことは今まで無かった。柔道やプロレスの苛烈な試合や練習の走り込みの後でさえ、これほど身体を重く感じたことは無い。

 ドアノブに手をかけてから、最後になるかもしれないからと、もう一度壮一を振り返った。窓の外を見ていたはずの彼が、こちらに横顔を向けており、ハッとした顔をした。それから口を開きかけるのを見た。もし、今、何か彼の口から出た言葉を聞いたら、瞬間、今、口にした全てを撤回して、嘘だとすがってしまう、薫は全身の力を振り絞って重いドアを開け放ち、閉めもせず、学生寮の廊下を走っていた。前もこうして彼の前から逃げたことがあったが、今度は、背後から追ってくる声は無かった。
 
 一度決めたことだ。距離を置く。会えないのではない。しかし、壮一は会にも姿を現さなくなった。興行にも大学祭にも見物人としてさえ姿を現さない。行く先を失った足が学生寮の周囲を徘徊していることがある。無意識に目が彼を探していることは、薫を絶望させた。

 彼の完全にいなくなった会は、薫にとって墓場に近い場所だった。居るだけで時に辛い場所になったが、彼の残していった場所や人間を放っておくことは、彼への裏切りになる。それはできない。薫は最後まで勤めを終え、国家公務員試験にもめでたく合格した。壮一の言った通り、会で長を勤め上げ成績を残したことは気骨があると、面接官達、直属の国の中枢に人間達に薫に対して良い印象を与えた。

 その間にも、何人かと関係を結ぶこともあったが、やはり一夜だけか、一か月以上長く続くことは無く、薫は性行為それ自体にも飽き飽きしていた。
 SMを好むと自称する人間達とも会ったが、足りない。壮一と深いところまで降りていった世界には到底到達し得ない。そうして双月達の棲むSMの世界から自然と足が遠のいていった。リングの上で闘っている方がまだ欲望を満たせるほどである。
 あるいは……定期的に例の男から届けられる他では見ることのできないDVDの方が。薫は何度も段ボール箱ごとそれらをアパートの庭先で焼くことを試みたが、できなかった。届き続けるDVDも、受け取り続けた。贈り物は薫が大学を出てからも間をあけながらも定期的に、どこで知ったのか住処を変えても郵送で、やはり送り人の名前無しで届けられ続けた。

 社会人プロレス団体に所属しようかとも考えたが、国家官僚として働き始めれば余興をやっている余裕も無い。0時を過ぎてタクシーで帰るのが当たり前の世界だ。そうして瞬く間に3年の時が過ぎた。

 その間も薫は壮一のことを、忘れたのでは無かった。一番に思い浮かぶ場面は学園祭で彼と闘った時のこと、その日の打ち上げの後の夜のこと、それから約半年の最も濃密な、蜜月と言える時期のこと。思い返すと昂るが、やはり我々は異常だったと、冷静に俯瞰できる。それでも恋しくはなる。だから、もしもう一度会えば、我慢していた全てが台無しになる予感があり、連絡しようと思えど、連絡ができない。ただ時間だけが過ぎた。壮一の卒業後のことも、敢えて、知らないままでいた。
 
 その日も仕事を終え、丸の内線の地下鉄のホームで終電を待っていた。終電に間に合うのは久しぶりのことだ。金曜の夜で、明日は休み。一週間の激務による疲労のため、一日寝たきりになるだろう。薫は殆どの休日を疲労回復のため、無為にやり過ごしていた。

「……君、もしかして二条君じゃないか?」
 身に覚えのある声がして、振り返った。
「覚えてる?」

 久しぶりに、自分の心臓が歪な音を立てるの聞いた。血の臭い。丁度その時、滑り込むように電車がホームにやってきて生ぬるい風が顔を撫でた。薫は「覚えてない」と嘘を言って、地下鉄の方へ延ばしかけた足を止めて、もう一度男を振り返った。男の髪は、艶やかなまま後ろで束ねられて垂れ下がり、以前より爽やかな印象を薫に与えたが、倦怠はそのまま、細面で、どこか冷ややかな顔つきも変わっていない。地下鉄のドアはまだ開いている。今ならまだ、乗れる。男は親し気な笑みを浮かべた。

「この後一杯どう?俺は明日休みだし、朝まで開いている良い店ならいくらでも知ってる。それから、俺も君も金に困ることは無く、使い道に困っている。そうだろう。」
 
 最終電車のドアは音を立てながら目の前で閉まった。薫は自分の手が汗ばんでいるのに気が付いた。
 タクシーに乗っている間中、学生寮の壮一の隣の部屋の奇妙な住人、今では医師になった姫宮和紗カズサは、軽快な口調で話し続けていた。よく口のまわる男だ。彼は一方的に仕事の愚痴、近所の人間の愚痴を言い続けて学生時代の話を持ち出すのを敢えて避けているようだった。薫は自分の脈拍が徐々に落ち着いていくのを感じていた。

 姫宮と赤坂の店を梯子する。彼の案内する店の味は良く、酒も良かった。徹底した仕事人間となって国の中枢で成果を上げることだけに身をささげていた薫の中に、久しぶりに忘れていた享楽が漲ってくる。午前も2時をすぎて、最初の緊張感は薄れ、薫もぽつぽつと口にする気も無かった仕事や近況を姫宮に語るようになった。彼は精神異常者のカウンセリングを受け持つ医師さながら妙に優しい目つきで薫と向かい合っていた。

 姫宮はにこやかに薫の話を聞き終え、グラスに一度口をつけてから、腕時計を見、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「少し変わった場所に行ってみないか。」
「変わった場所?風俗なら興味ありませんよ。」
 姫宮は軽快な声を出して笑って口を拭ってから「ちがうちがう」と言って会計を呼んだ。
「騙されたと思ってついてきなよ。今日だけ、一晩付き合ってくれ。」

 姫宮はもしかして自分と寝たいのだろうかと一瞬考えたが、無いだろう。そういう気は今まで一切会話の中にも仕草の中にも無かった。タクシーは赤坂を出て、夜の街の方へと向かった。

 錆びれた入口もよくわからない程の奥まったビル。入口で身分証の提示を求められ、運転免許証を見せた。
 中は、想像以上に広大で、薄汚れたビルの外観からはまったく想像できない豪奢な装飾。一階から三階までが吹き抜けになっており、二階席、三階席からは一階のホールが見下ろせた。
 
 一階のホールの中央に舞台があり、そこで身体中に花びらをまとった裸女が狂ったように踊り、周囲に男達が少し離れたところに女達がぽつぽつといた。洒落た身なりの者は二階席や三階席に多く陣取り、姫宮は二階席の奥まったソファに薫を連れて行った。紅いソファの上に二人の身体が寄り添うように沈んだ。

「なんです?ここは。」

 ようやく口を開いた薫に姫宮は「ダンスホールさ」と笑いながら言った。しかし躍っているのは舞台の上の女と、唯一光に照らされた舞台のすぐ側まで接近して共に狂乱して踊っている男や女だけではないか。

「狂人のダンスホール。」

 たいして面白くも無い。舞台の上の女が一礼して去っていくと、音楽がクラシックなものに変わって人々の談笑する声が大きくなった。酔いが回っていて音が頭に変な響き方をする。

 また舞台の上に違う、今度は男が2人現れた。薫は、はじめぼんやりと舞台を眺めていたが、だんだんと目の前の景色がはっきりと異常に色づき始め、自分の口からしばらくなかったような荒れた呼吸が出かかるのに気が付いて、意志で息を留めたが、身体が酒を飲んでいた時よりも、ずっとはるかにはやく脈打ち、発汗し、極彩色を帯びたその舞台から目が背けられない。

 いくら姿かたちが変わって居ようと、すぐにわかった。彼だ。
 横で姫宮が何か話しているが、全く耳に入ってこない。姫宮も途中から黙って静かにソファに身を沈めて舞台の上を眺めるようになった。

 舞台の上で、壮一と壮年の男がSMショーを演じていた。壮一の身体は以前より幾らか痩せてしまって、見た覚えのない彫り物まではいって、身体に何か煌めいていたが、元々舞台の上で映える身体は、リングの上で舞っていた時と同じように輝いて、男から縄と鞭を受け、切られて、血を流していた。二階席からは細かい表情までははっきり見えないが、彼の身体が段々、斑に赤らんでくるのは、見えた。以前薫の腕の中で色づいていった身体と同じように、彼の身体は色を変え、輝いた。鳴り響く音楽の隙間に彼の喘ぐ声が聞えた。心の奥底に封じ込めていた質量を持った記憶が、景色だけでなく、身体全体に蘇る、彼の肉体と触れ合った記憶のすみずみまでもがありありと、身体全体を浸す。手の中に彼の触れた時の体温が蘇る。それは素晴らしい夢であり、悪夢であり、薫は夢と目の前の絶望の景色の間を行ったり来たりした。

 ショーは15分程のものだったはずだが、1時間、いやそれ以上に長く感じた。薫は肉体がいつかのように泥のように重くなって、彼らの姿が見えなくなっても、何も考えることができないままでいた。震える手が目の前でグラスを掴もうとして手を滑らせ、大きな音を立てて倒れた。なみなみと注がれていた液体が手、そしてテーブルや服、床まで濡らした。手が冷やされた刺激で、少しだけ意識がはっきりした。

 姫宮が「あらあら、しょうがないなぁ、もう……」と赤子をあやすように言って周囲を片付けている。

「なるほど、最初からそういうつもりか。」

 薫は自分の足元に屈みこんで後始末をしている姫宮に言った。声には怒気が含まれていた。姫宮は片づけを終えるまで黙っていたが、ゆっくりとした仕草で横に座り、悪びれた様子もなく、またクライアントを見る精神科医の顔つきで薫を見た。薫はこの男の胸倉を掴んでテーブルに顔面を叩きつけてやろうかと動きかけた腕を抑えた。

「気になってただろ。間宮君のこと。君ら、随分仲良かったもん。何で続かなかったの?」

 耳の中に声がはりついて離れない、この感じ。薫は姫宮は、全てわかっていて聞いているのだと思った。薫自身の口から言わせたいか、葛藤して、苦悶している表情を見たいのだろうとすぐにわかる。

 薫はつとめて冷ややかな目で姫宮を見つめ返した。さっき軽く取り乱した自分を見て、このキチガイ医者はきっと自分の思った通りの反応を見れたと悦に浸って心の中でほくそ笑んだではなかろうか。

 ああ、ムカつく。何て野郎だ。だが、こういう感じで腹が立ってくると、少しは意識がはっきりしていい。この男に腹を立てて利用しろ。壮一に対する思い、興奮を、恋慕を薄めろ。大体、たかがショーだろ、しかも、昔の人間のことじゃないかよ。こんな目の前の下衆野郎に、自分の内面を見透かされてはいけない、穢されてはいけない。
 姫宮は薫が黙っているのをしばらく眺め一瞬感嘆したような目をして、微笑んだ。

「俺もね、気になってたのさ。君が順調にエリートキャリアを邁進していることは最初からわかっていたが、間宮君の方がなかなか捕まらなくてね、少し根気をもって彼の消息を追ってみたんだ。それで、見つけた。彼は2年くらい前からここに出てくるようになったらしい。本業は知らない。ここから一方的に見てるだけで、直接喋ってないからな。舞台からこの席は見えないはずだ。いつもさっきと同じ男と一緒にやってる。彼が今の主と言うわけだろう。もしかしたらビジネスパートナーという可能性も消しきれないが、俺の見た感じでは、多分そうじゃないだろう。俺としては君とのほうがよく似合っていたと思ったね。」

 薫は代わりに運ばれてきたグラスに黙って口をつけ、舞台を見下ろしていた。
 舞台の上にはまだ少し、血痕が残っていた。壮一の血だった。
 下へ降りようか、と思った時には男が数人舞台にあがり、すっかり奇麗に舞台を磨き上げてしまっていた。

 その後もショーが続き、薫はソファの上で時計が朝の4時半を指すのを見た。
「そろそろ始発も出るので、帰らせてもらいます。お誘いいただき、どうもありがとう。」
「こちらこそ、いいもの見れたから。また飲もうね。俺の連絡先は大学の時から変わってないから。いつでも気軽に声かけてくれよ。きっと君の方が忙しいだろ。もしくは、俺はたまにここに来るから、ここに来れば会える。」
 しばらくは絶対会いたくないね死ね下衆医者、という言葉を心にしまい、ビルを出た。

 ビルを出たと同時に、朝陽が目に痛んだ。久しぶりの土曜の朝帰りだったが、薫の身体には、昨夜丸ノ内線のホームに立っていた時に激しく感じていたはずの眠気というものが全く無くなっていた。薫はその日から、壮一の消息について、可能な限り調べることにしたのだった。その間も仕事は粛々とこなした。休日とほんのわずかな隙間の時間を無って、役人の地位を利用して少し黒い手や黒い金も使った。少しだけだが彼の現況が把握できた。

 SMショーの男は雇われたプロであり、彼と関係、調教こそしているようだが、本当の主ではない。本当の主は某大企業の会長の男、Yであり、壮一は職にはついておらず、彼の元で「飼育」されているらしかった。「飼育」と言う言葉を使うのは憚られたが、可能な限り集めた情報をまとめただけでも、最早そうとしか表現できないのだ。囲われているという生易しいものではない。明らかに壮一は自らの手で自分の人生を破壊しに、終わらせに行っていた。

「馬鹿だ……本当に、馬鹿だよお前。何やってるんだよ……俺の知らないところで……」

 いや、そもそも知ろうとしなかったのは自分では無いか。
 もしあの時、もしあのまま、自分が上手く自分の欲望と折り合いをつけて壮一と続けていられたら?
 カーテンの隙間から照らされた光に濡れた横顔、開きかけた口が何度も目の前に蘇った。
「……、……。」
 あの時お前は何を言おうとしていた?
 いや、そもそも、俺との関係がはじめから無かったなら、お前はそんなところに行かなかったのではないか。
 マトモな暮らし……マトモな人生を……俺が……

 Yは時折会社と家の往復をリムジンに乗って行い、殆ど世俗とのかかわりを断っている。ショーの時は、三階のVIP席に現れる。VIP席には特殊な会員証が無ければ入れず、入口も一般入場口とは異なる。会員証の発行ルールは不明だが、薫がおいそれと簡単に手に入れられる代物ではないことだけはわかった。薫は姫宮に連れられた日から一度もまだあのビルに足を踏み入れていなかった。薫は自分でやれることは、もう現状が全てで、それ以上の行動もできないことがわかった。

 薫は部屋の奥にしまい込んでいる段ボール箱、いっぱいになった段ボール箱の底、闇の底を探っていた。
 黒いインクで番号の刻まれた紙片は、全く経年劣化の様子もなく真っ白のまま、最後に見た時のまま、薫が再び目にすることを待ちわびていたように、美しく差し込まれたままになっていた。

 男はすぐに電話に出た。電話の向こう側が異様に静かなの気味が悪い。
 数年ぶりに聞く男の声は、どこか優しかった。

 詳細は伝えず、直接会って話したいことがあると伝えた。断られたら断られたらで良かったが、未だにあの贈り物は二条の元に定期的に届けられ続けていた。数年の間、ずっと、途切れることもなく。だから、きっと断らない。
 次にこちらに来るときに会うという簡単な約束がとりつけられ、電話は切れた。

 昼間の喫茶店で待ち合わせた。現れた男は上等なスーツ姿で、帽子は被っていなかった。数年の時を経たが、顔つきは以前会った時から全く変わっておらず、反対に薫の方が多忙の中で顔に年齢を重ねていた。彼が目の前に座ると、その周囲だけが温度が下がったような、海の底に沈んでいるような冷ややかな雰囲気になった。真っ昼間というのに目の前に深い闇が横たわっている。

 男は手早くウェイターを呼んでブレンドを頼み、お前は?と言う目で、薫をあの黒い瞳で見た。そこにどこか親しみを覚えないでもないのが、薫には不思議だった。最初に会った時は敵意しか感じられなかったというのに。

「私も同じものを。」

 ウェイターが去っていく。同時に男の電話が鳴り、彼は席を外すというジェスチャーをして一度席を立った。彼が居なくなった空間が、妙に空虚で、それは、それほど彼の存在の圧が大きいことを意味した。やはり彼は、一般社会の人間では無いのだという気にさせる。彼が戻ってくる頃にちょうど珈琲が2つ運ばれてきた。彼は緩慢な動作でソファに腰掛けた。

「それで、」
 男は煙草にマッチで火をつけながら、テーブルに腕を突き、紫煙と共に口を開いた。
「何が望み?」

 鼻腔を甘い香りがくすぐる。男の、薫の内側まで覗き込むような目を見ていると、本当は既に全て知っていて、薫が何を言いだすか全てわかったまま、目の前に座っているのではないかという気にさせられる。彼は紫煙を吐きながら口元に軽い笑みを讃えていた。薫は全てを男に話していた。男は話を聞き終えて、カップに口をつけ、言った。

「ま、5億だな。」
「何がですか?あなたに支払えと?」
 男は虚を突かれた顔をしてそれから俯いたかと思うと、肩を揺らし、笑い始めた。
「君には俺がそんな鬼に見えるのか!まいったな!俺は君に親しみを感じてるから、君の前では大人しいつもりでいるのに。」
 見えるよ、と薫は思ったが黙っていた。男は顔を上げ、微笑を残したままの顔で続けた。

「話を総合すると、君は権力と金だけはある老人からお友達を救い出したい。そのために爛れたクラブのVIP権が欲しい。で、そこに行ってその老体と話をつけたい。そういうことだな。そうだな、VIP権を手に入れることくらい、はっきりいって俺には簡単だ。ここから電話一本すれば済む。一時間もしない内に会員証までここに届くだろう。それを君に、俺からの少し遅い卒業祝い就職祝いとしてあげてもいい。でも、二条君、君わかってないよ。全然わかってない。老い先少ない成金ジジィがおいそれと自分の貴重な財産を手放すもんかい。君は自分の頭脳、そして交渉術に自信があるかもしれないが、君みたいな若造、話さえさせてもらえないし、逆に消されるかもしれないぜ。しかもお前、役人なんかになったらしいね。そうなるともっと話は厄介だ。お前のキャリアはすぐさま潰されることになるだろう。最初はさりげなく、じょじょに、一生コピー機の前でコピーをとるような仕事に従事させられうる。それくらい危ない話ってことさ。5億っていったのは、万に一つそのジジイがお前に提示してくる可能性のあるお友達の買取最低額さ。最初から手放す気なんかないから、戯れで言ってくるんじゃないかという俺の予想だ。」

「……別に職なんていくらでもまだ見つかります。キャリアの話は……、今はいい。後で考える。」
「ふーん、全て、捨ててまでなんとかしたいんだな。覚悟のある人間は好きだ。とてもいいよ。……。」

 男は煙草を灰皿の上でもみ消し、テーブルの上で指を組んだ。傷、穢れ一つない癖の無い指だ。

「ところで、二条君、俺の贈り物は、君の気にいったか?」

 急な質問に薫は答えに窮して、男からカップに視線を移し替えた。男の低い揺らぎある声が上から降ってくる。

「YESかNOだけいいよ。もしくは首を縦か横に軽くふるだけでもいい。……。二条君、最初に断っておくと、俺は嘘をつかれるのがとても嫌いなんだよ。おべっかも嫌いだ。だから役人も政治家も、好きじゃない。気を遣わずに素直に答えてくれないか。君と友人になるにしろ、仕事をするにしろ、これは非常に大事な問題だ。」

 薫は数秒の間を開けて、俯いたまま軽く頷いた。YES。ふふふ、と笑い声。

「だと思った。君の気に入りそうなのを選んだから。お前は人体が内部から爆破され破壊され溶岩穴になった部分に激しく興奮しただろうな。抜いたか?どのくらい出した?どうせ、たっぷり出しただろうな。やはり派手な方がより好みか?お前自身の手で起爆したいと思ったか?もっと太いのを。その前にもっと、いたぶりたいと思ったか?犯したいと思ったか?三日三晩?一週間?それとももっと長期的に?単独で?複数で?どういう拷問を想像できた?どんな器具を使う?或いは作りあげる?人体に、虐待を加えられる爪が、指が、合計たった20本ぽっちしかないことを、男の男根がひとつ、睾丸が二つしかないことを、臓器が一つ或いは一つずつしかなく、脆いことを、生きたまま砕くことのできる骨の本数に限りがあることを、残念に思ったか?それとも良いことと思ったか?アレらは死んでいいものだから、何も気に病むことは無い。むしろ俺達の気を良くするために最後に大切に使われて良かったくらいなんだ。せめてもの貢献なのだから。」

 薫は、やはりこの男を呼び出したのは間違いだったとテーブルの下で汗ばんだ手を握った。
 少しの沈黙を経て、男は落ち付いた調子で再び話し始めた。

「二条君、俺は素直に答えてくれたお前にならば、2つの提案ができる。1つ目、すぐさまVIP権を取り寄せてお前に手渡すこと。これはお祝いとしてお前にあげるから、謝礼不要。でもおそらくお前がどれほど策を練ろうが、さっき言った通りの展開になる。この世界はお前が思っているよりずっと汚くて腐っているから。2つ目。仕事として俺に全てを委ね依頼、契約すること。全てというのは、結果の事だ。お前は自分の手は一切汚さず、結果だけ手に入れることができる。お前の前に五体満足でお友達を連れてきてあげる。これは仕事だからそれなりの労力を要するし、仕事ならば俺達は完璧にやり遂げる。それなりの謝礼も必要になってくる。」

「謝礼……それは、5億か?それ以上か?」

  男は答えない。薫はようやく顔を上げて男を見た。彼はさっきと打って変わって表情を消していて、そちらが本当の顔のように思える。視線が交錯すると、後悔と期待と恐怖もあるが、やはり親近感、懐かしい物を見ているような気にさせられる。俺の中にあるもの、それから、おそらく、壮一の中にも、あったもの。

「これからも俺と付き合い続けてくれ。無視せず、逃げずに。それが謝礼だ。」
 男は軽い口調でそう言って唇を軽く舐めた。薫は表情を曇らせた。
「どういう……定期的に会う、そういうことですか?それだけ、ですか?」
「そうだ、その理解で良い。それで俺が差し出したお友達とのことを聞かせてくれ。細かい点も言える範囲で。君のお役人という立場のこともある。会う場所は配慮する。」

 ほとんどタダのような物だ。しかし、タダより怖い物は無い。
 何故だろう、金よりも、なにかずっと大事なものを失うような予感があるのは。
 悪魔は、人間の魂を食う。

「それから、これは仕事だから、お前の依頼、要望通りに事を行うけれど、お友達の意思はわかっているのか?」
「意志?」
「そう、意志だ。お前は、勝手にお友達を被害者のように扱ってまるで”救出”しようという勢いだが、どうもおかしくないか?彼は自ら望んでそういう立場にいるんだよ。お前に会いたくないのかもしれない。お前の事なんかもう忘れているかもしれない。過去の事、どうでもいいことと思っている。そして、その老人をどういう意味であれ、今は愛しているのかもしれない。それを無理やり俺と言う穢い手を使って引き離そうとしているんだぜ、お前は。自分の都合、身勝手で。憎まれるかもよ?恨まれるかもしれないぜ。お前の無駄で身勝手な善意が、お前が大事に思う人を傷つけることになるかもしれない。そこまで考えてるかって意味だ。良いか二条、もしお前がヒトならば、ヒトの幸福は他者が決めるものじゃない、自分が自分の欲望に従って決めるものだ。もしかしたら彼は今、ヒトでなくなって、誰かの意志の元に作られた彼の意志の中で、幸福なのかもしれない。それでも、今回はお前の意思を、お前の欲望をそのまま、通す、それでいいんだな。」

 数分の後、二条薫は、目の前の男、川名義孝と契約を結んだ。
 川名は音楽でも聴いているかのように頷いてテーブルに手をつき、立ち上がった。

「一週間後、同じ時間に、またここで。」

 彼の煙草と香水の残り香が薫の周囲に漂い、半分残った冷めた珈琲が残されていた。
 彼の残り香が消えるまで、海の底に沈んでいるような冷ややかな感覚が薫の周囲に漂っていた。ようやく耳に周囲のざわめきが戻ってくる。身体に入っていた力が抜けていった。
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