堕ちる犬

四ノ瀬 了

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お前らは囲い者そのものだ。

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 衣服を身にまとう過程で、美里は皮膚の表面に昨日のねっとりとした記憶が蘇って不快感に舌打ちした。単なる不快感だけではないことが、余計に身を悩ませた。

 間宮と、彼の用意したらしい逞しい男達に囲まれている間、美里は自分の心を無くしたり、浮かび上がらせたりを繰り返していた。どす黒く臭いヘドロの中に沈んでいるような、それでもそこに少しだけ懐かしい気持ちもしないでもなく、不愉快なこと極まりないのに、不思議である。こういう役回りこそ、本来自分にふさわしいものなのではないだろうかと自嘲する。

 例えば幼児などは、自身の糞便に嫌悪感を催さず面白がり手で遊び、時に口に含むことさえもあり驚かされる、と、川名が珍しく新聞を目にしながら、幼児について語っていたことを思い出す。

 川名は、金持ちがこぞって通わせたがる名門幼稚園に30も後半にさしかかった無職の男が乗り込み幼児5人と女教諭2人を殺傷挙句の果てに警官に撃ち殺された事件の記事を眺めていた。美里は報道それ自体より、川名がその記事に何かしらの感想を持ったらしいこと、それから一体いつ、どういう気持ちで、幼児を眺めていたのかの方が気になった。

「お前は通常の手続きでは、子供が作れないようだから幸いなことだな。」

川名は記事を見ながら、美里に対して、馬鹿にするわけでもなく、憐れむでもなく、心からそのように事実を言っているようだった。

「今の時代では人工授精もあるからどうしてもというなら作れないことないが。」

 彼は新聞を汚らしく丸めて、放り捨てた。彼がそのような粗暴を行うのが意外だった。折りたたむとか破るとか丁寧に切るとか、美里に渡すとか、そういう捨て方が彼にふさわしいからだ。川名が子どもや子育てに興味があるようには一切思えない。実際彼の屋敷にそのような存在はいない。しかし、彼のことなのでどこかで女を孕ませた場合は認知して、自分は一切かかわらないまま、養育費を支払う位のことは想像できる。

 何度か本部、加賀の屋敷に川名と共に赴いた。川名がどうやって今の川名になったのかについて時々想像をめぐらす。彼が時折、仕事、今後の派閥のことも考えた上でのことか、長である忍の目に届かない場所で、屋敷の子息達と交流しているのを見かけることがあった。彼らはおおむね川名に対して好印象を抱いていた。親に対する反発もあるのかもしれない。川名には隙あらば気に入った人間を身内か養分にしようという奇癖もあるから、危険だ。
 
 彼らにとっては外の世界から愉快な話を沢山もってきてくれる謎の面白い男なのかもしれないが、実際川名はそうやって仕事の上でも人を篭絡してきた経歴があり、それを忍達が知らないわけも無いのだ。バレたら危なくないですか、と帰りぎわに川名に尋ねたが、一笑にされたのだった。

「一体何が愉しくて、いつまでもご老体共の相手をしなきゃいけない。飽き飽きさ、そんなことには。前途有望な若者と話してる方がずっといいだろ。」

 本部の子息に手を付けるのはメリットよりデメリットの方が大きいのではないだろうか。いや、そこまでわかっていて自分が愉快でやっているのだろうが。ずっといい、育てるにしても芽を摘むにしても踏みにじるにしても、ずっと愉快だってことだ。
 
 とくに下の子ども、澪については、美里も川名から紹介されていた。これが思い違いでなければ、どうも全くの他人とは思えないのだった。どこか人を寄せつかない雰囲気といい、顔つきといい、体つきといい、他の子息達と雰囲気もどこか違う。

「ああ、亮二君がくると、華やいでいいです。ほんとここは、むさくてかなわんから。」
澪は中庭で伸びをしながら、美里を振り返って目を細めた。土いじりをしていたらしく黒手袋をはめた手から青白い手首まですっかり酷く汚れていた。若者らしくない趣味だった。笑っていたが、影のある笑い方だった。
「そうですか。お役に立てて光栄です。」
「……ちぇ、なんだよ、そんなかたい態度とらなくてもいいのに。」
澪は屋敷の方に軽く目をやってから、誰も見てないんだからさ、と今度はふざけた調子で囁いた。
その時、1頭のクロアゲハが迷い込むように中庭に舞い降り、澪の周りをなつくように彷徨い始めた。
「亮二君、蝶の道って知ってますか。」
「いえ、」
澪が左腕をあげて、黒い手を広げると、アゲハチョウはその周囲を彷徨い、指の腹に止まるのだった。

「彼らはやみくもに飛んでるわけじゃなく、どうしてか日々同じ時間に同じルートをたどって交尾の相手を探り合う。それを蝶の道というんだ。ここも、そのルートの一つ。こいつは2週間くらい前からちょうど今くらいの時間に、ここを通るようになった。先に遊びに来ていた雌蝶をつかまえておいて、臭いをつけておくと、たまにこうして手に乗るようになった。可愛いだろ。」

 黒蝶は、澪の手の上で呼吸をするように、一定の速度で羽を開いたり閉じたりを繰り返していた。見ている内に、美里の頭の中で可愛らしいオルゴールの音が鳴りはじめた。忘れていた記憶だ。昔母が、金細工のオルゴール箱を開いて美里に見せた記憶が急激によみがえってきていた。金色のオルゴール箱の中で、オルゴールの回転にあわせて、箱の中の金属の蝶が、羽を動かすのだ。目の前の黒蝶は、あの時と同じ速さで羽を動かしていた。
 一瞬のことだった。パン!という破裂音と共に、澪の右手が左手をすっかり覆って、掌同士がぴったりと重なり合っていた。隙間から二本、触角が飛び出たままになっている。夢から、現実に引き戻され、美里は澪の顔を見た。先刻と全く変わらない表情をし、何かを推し量るように美里を眺めていた。
「……。」
「昔、自由研究の題材にしたこともあって、先生にも褒められたんだ。なつかしくて。」
澪は両手を放し、土と一緒に振り払うように手を振った。土に交じった雄蝶の残骸が周囲に散らばっていった。
「何だ、遊んでさしあげてたのか。」
振り返ると、川名が一人別の組の男を連れ立って、縁側に立って二人を見下ろしていた。
「それともお前が遊ばれてたのかな、美里。もう行くぞ。今日の用は済んだ。」
美里は澪の方は振り返らず、中庭から上がり黙って川名に追従した。

 川名が己の自由のため、組織の中枢に根を張るために、ひそかやに自分の血を加賀家に吸わせた可能性を考えないでもない。そうすれば、多少の無茶をしても許される。古典的な手段だが、隠された血族の一員になるからだ。しかし通常この世界で、誰の許可も無い状態で下の者が上の女に手を付けて、五体満足、無事でいることなどあり得ない。川名の肉体はかなり以前に付けられたらしい多少の古傷はあれど、殆どどこにも濃い裂傷や欠落がない。

 美里は、乱交と、その中で感じた自分の幼児性から川名についてまで考えを巡らせながら、さっさとホテルを後にしようとしたが、急に会計のことが気になった。勝手に予約されて泊まらされ、くだらぬ性処理までさせられ、まったく払う義理もないのだし、フロントなど無視して行けばいいのに、もし呼び止められたりしたらプライドが許さない。そして、心の奥が気持ちが悪くて受付の女に話かけた。彼女は木漏れ日のような華やかな笑みを浮かべた。一流のホテルとはそういうものだ。

「先刻出られた方が、すべてお支払い済になります。」

 先刻出られた方。それは間宮以外にありえなかった。美里は女の微笑を見ながら、この女があの部屋の惨状を見たらどのような顔をするかと思い、気の毒な感じを覚えた。それから、間宮が正気の様子で支払いをすっかりすませていたことに、軽い戸惑いを覚えた。あの脳を徹底的に壊された阿呆のことだから、会計など忘れて先ほどの衝撃で高層階から衝動的に飛び降りて自殺でもしてくれるかと思って心躍らせていたのに、面白くない。意外と理性がまだあるらしい。ホテルの外は、雲一つない清々しい朝だった。無様な転落死体も無く、何一つ面白くない。

 清々しい天気と身体の不調のせいで、一体誰のせいでこんな目に!!、と、つい、苛立ちが立ち現われたが、苛立ちと同時にまた昨日の泥の記憶が火のようによみがえり、つい太陽の下で頭を抱えて唸った。間宮じゃないんだから、しっかりしなければ、と面を上げると、女が色目を使ってこちらを見ていた。世界全てが不愉快だった。全てが不愉快のこの感じは久しぶりのことだ。全てが不愉快だと他の人間の苦しみに癒しを求めるしかないのだ。

 日の光がこんなに五月蠅いことってあるか。せめて今が夜なら良いのに。叫び出しそうだ、誰のせいで!こうなってると!思ってる!頭の中に、奴の自信に満ちた精悍な横顔と淫靡なこちらに媚びるような視線を送ってくる姿とが交互に現われた。想像の中で彼が美里の足をしゃぶっていた。ぞくぞくとつま先から何か皮膚の泡立ち脳まで昇ってくる感覚にわななきそうになる。その感触は明らかに昨日の暴力とは別の感覚を美里に巻き起こした。想像の中で足元の霧野の目にまた自信が満ち、美里の身体の上を這い登ってこようとする。犬が。
 
 誤魔化すように、「貴様のせいだぞ!」また、誰に言うでもなく口の中で呪詛するように叫んだ。それ以上思い浮かぶ言葉も、答える者もなく、原因となった人物が颯爽と目の前に現れるわけもなく、代わりに頭に一気に血が上ったせいで、よけいに気持ち悪くなり、大混乱をきわめた。

 全身が気持ち悪くてやりきれない。昨日の夜のことは、決して暴力、報復、凌辱などではなく、単なる遊び、お遊戯、お楽しみに過ぎない。あの程度のことでどうにかなるのならとうの昔に死んでいるのだ。間宮の化物だけは、アレだけの種類の男が並んでていてすぐにわかるのだから面白い。奇形児。

 間宮は美里をいたぶる間中、愉快そうな表情を装っていはいたが、その実、酷く不愉快なものを見る目で美里を見るのだった。そして、その瞬間だけは普段ない理性が彼の瞳に宿っていたのだ。なぜ?どうして?口に出しはしないが間宮は明らかに美里にそう問いかけていた。そして、愉快と不快の間を行ったり来たりしていた。じゃあもうやめたら?と美里は言いたかったが、言わなかった。それで間宮が苦しむのなら、黙っていたほうがいい。先に間宮の方が悲鳴を上げた。

「いい加減……!やめてほしければ、いつだって言っていいんだぜ!何を意固地になってんだよお前!」

 顔を覆われて、背後から無作為に肉棒を突き刺されていても、すぐに間宮だってわかる。腰の動きが、まるで童貞のように必死だった。言動全てが必死。滑稽で、無様で、笑えた。霧野にもそうやっているのか、そう思うと、思わず吹き出してしまい、すると意外にも、間宮の手が背中を優しく這いまわるのだ。その手つきは妙に優しく、まるで猫を撫でるようで初めてのことだった。

「別にお前から霧野さんを取り上げようなんて言ってないじゃないかよ……。外と繋がってるのバレたところで、多少キツイことをされるだろうが、別にすぐに殺されやしないよ、少なくとも、霧野さんの方は。」

 間宮がそういって急に姿勢を変えたので、体内で身体を抉り続ける巨鉾がぐるりと中をのたうつように回転し、思わず、嘔吐きそうになるのを抑え、半身彼の方に身体を向けた。そして、何か言う代わりに、笑いかけてあげた。目の前の男が、哀れだったからだ。流石に腹が立ったらしく、きついのを腹に入れられてすぐに笑っていられなくなった。そのまま倒れ込むようにして、頭を枕に埋めたが、その間中も誰かのナニかがずっと体のどこかに触れていた。哀れと思うと同時に殺意が芽生えた。

「教えてほしい……」

美里は枕に顔を埋めながら、瞼を半分閉じ、闇の中で囁いた。
間中ずっと、闇の中で祈るように考えていることについて。

「俺だってなぜだか教えてほしいもんだよ……」

祈るように特定個人のことを考えると、何故だか苦痛の気持ちも和らぐこともある。嬲られる程に。
逆に激情が抑えきれなくなることもある。地獄からましな地獄を探して渡り歩いて辿り着いた先がここか。
日々の中でやりきれない感情に苛まれても、何か一つ救いを見つけられれば生きていくことができる。

 下卑た淫猥な界隈から足を洗って川名の元で働き始め、しばらくした際に食らった罰の時のことを思い出さないわけにはいかない。かつて働いていた場所で、懇意にしていた女がひとりいて、それは朝陽と言った。地獄を耐えた仲であり、当時は、恋慕といより友情に近い物で結ばれていたと思う。夜は忙しく、たまに互いが相まみえた短い、朝露が残る、ほんの短い朝の時間に、二人で何度か海を観に行く習慣ができていたのだった。朝凪の浜辺をただ歩いたり、座ったり、どうでもいいことを話したり、それから、それから本来の手順を踏むところ、美里は自分の呪われた身体がもう、女というものに、いくら気持ちがあろうが、最早一切うまく機能されなくされていたのを悟っていたし、それ以上、何も望むことは無かった。

 朝陽も、何も言わなかった。仲を深めようとするほどに傷つくことに気が付き、しだいに美里の方から彼女から引いていったのだった。しかし、嫌いになったのではなく、いつまでも儚い友情のような物を感じていた。それを壊したくも無かった。この世の地獄の中で、ささやかな奇麗な記憶を穢さぬまま、そのままにしておきたかった。

 先に美里が川名の手によってその地獄から一抜ける段取りになった時、いろいろなことを思ったが、その中にいつか彼女を救おうという思いも入っていた。朝陽には、何も言わず出ていった。しかし時はすぐ流れ、美里は余りの忙しさと新しい仕事の快楽に忙殺され、朝陽のことなどほとんど忘れていたのだった。それに彼女ならば美里が手を差し伸べるまでもなく、彼女の力で何とでもなるはずで、向こうだってこんな男のこと等、忘れているはず、寧ろ先に足抜けした分、さっさと忘れたい憎い存在にちがいないのだと心の中で思うようになっていた。

 そして、全く別の仕事の要件で最早川名組のものとなっていたその地に再び足を踏み入れた時、彼女はまだそこに居たのだ。朝陽には、もう地獄から抜け出せる程の十分のたくわえがあるはずなのに、まだそこにいた。しかし、雰囲気は随分と大人びてさっぱりとし、余裕もあり、以前よりずっと美しくなっていた。

 以前は今にも手折られそうなカスミソウのような儚い雰囲気をしていたのに、今や、少しのことでは折れぬ大樹にたわわに永遠に枯れない華を咲かせているような、強い雰囲気があった。華やかに大人ぶって着飾った美里よりもずっと落ち着いて美しく見えた。店側、組側も有能な彼女を手放す理由がなく、至れり尽くせりであり、扱いもまるで王であり、どちらがどちらに雇われているのかわからなかった。

 川名に、朝陽のことを電話で聞こうかと思った。自分が関わらない間に一体何があったか、彼なら把握している。彼は何もかも把握している。でも、聞けなかった。

「また海を観に行かない?」

 朝陽は美里にただそれだけを、見目が変わったのに、まったく昔のような距離感のまま言うのだった。同じだった。美里の連れてきていた舎弟は、朝日に見惚れるばかりだった。美里は、ひとり黙って、買ったばかりのきらきらした車を出した。ただきらきらしただけの、玩具のような車だ。朝陽を横に載せるなら、もっとぼろい車が良かった。アクセルを踏み込むたび、身体から、どうしてか、どんどん力が抜けていくのを感じた。いつも体の中にある苛立ちが今だけは、無いのだ。

「逃げ出したい?」
先にそう聞いたのは、美里ではなく朝陽の方だった。
「逃げたいんでしょ、本当は。」
黙っていた。左手に見えてきた海さえもう見たくなかった。

「良いよ、何も言わなくて。今代わりに私が言ったんだから。絶対言えない貴方の代わりに。今日貴方が来るの、知ってたの私。あ、まだだめ、そのままずっと真っすぐ行って。ずっと、まっすぐ。」

 女を横に乗せ、何時間も車を走らせていた。最初の一時間携帯が鳴りっぱなしだったが、電源を落とした。朝陽はあの場所から出れなかったのではなく、出なかったのだ。待っていたのだ。

 導かれるままに着いたのは、空港だった。久しぶりの再会というのに、車の中で美里は一言も話さず、ただずっと震えていた。ほとんど前を見て、朝陽のことも見ていなかった。

 車を停車させ、俯いていると、目の前に海外行の飛行機の搭乗券を2枚差し出された。「まずアメリカに行こうと思う。」それはNY行の航空券である。朝陽の目を見れない。それから朝陽は、世界を放浪し、住みたい場所があれば住み、そうして、マルタ島にまで行ってみるという。マルタ島がどこにあるかなんてことは知ったことじゃないし、聞く気もしなかった。大体何でマルタ島なんだよ、昔の自分なら無邪気にそう言って朝陽と会話できたに違いないが、できなくなっていた。今の自分にそのような軽口をたたく権利がない。

「行けるわけないだろ。俺が。」
 ようやく言えた一言がそれだった。朝陽の方を見られなかったが、彼女は横でおそらく微笑んだように思う。
「そう。貴方は残るんだね。私は行く。」

 止めなければいけなかった。それが仕事だから。
 助手席の上に1枚残された搭乗券を見ながら、朝陽のことと川名のことを交互に考え続けた。身体は、いつまでも車のシートに沈んだようになって動かないのだ。

 朝陽にはわかっている。このまま共に行かないということが、美里にとってどういう意味になるかを身をもってよくわかって、一人で行こうとしている。そのためだけに辛抱強く、退屈なはずのあの場所で、待っていたのだ。美里はようやく頭をあげて、遠く小さくなった彼女がいっさいふりむかず、巨大な建物の中に消えていくのを見守った。

 駐車場に止めた車の中で座席を倒して、一度も乗ったことない飛行機が、飛んでいくのを眺めていた。考えることを止めていたはずのこと、これからのことや未来このことをほんの少しだけ考えた。やはり、考えたところで、無駄だった。考えないことのありがたさを、古巣は教えてくれる。

 女を勝手に逃がしたことは、予想するまでもなく、すぐさま大問題になった。女が自主的に仁義を通した上で、足を洗い、勝手にどこにでも飛び立っていれば、これは最初から起こらないことだった。もしくは、あの時途中で車を止め、店に戻り、そのまま女を置いて帰っても、これは起こらないことだった。朝陽に、戻ると言えば彼女は承諾しただろうが、そうは言わないだろうところまで彼女は読んでいたに違いなかった。

「もう一回、ぜんぶ、最初からやり直すか?」

 川名から強めに詰められるのも至極当たり前のことだった。それでもいいです、と言った。

 その時は、本当にもう何もかもどうでも良かったのだ。川名は美里の潔さ良さを気に入ったのか、もう一回最初から全部やり直すようなことはさせなかったが、償わされたのは仕方なかった。

 地獄の中でかつて、朝陽を思うことで気をはらしたのと同じことが、いや、それ以上のことが、また美里の身に起きようとしていた。そのことが言葉にならないまま、異常な苛立ちになるのだった。間宮たちの手によって久々に嬲られている間中ずっとそうだった。気が狂いそうだった。朝陽の時は、自分が朝陽と一緒に行けなかったこと、行く勇気の一つもない惨めな自分に対する、その罰だと思えばよかったからだった。

 美里はホテルから、一度家に帰り、大学生じみた服装から普段の仕事用の派手な身なりに整えた。それだけで周りの見る目も異なり、少しはおかしくなった気分も変わると言うものだ。弱い自分は嫌いだ。

 しかし、今一番の問題の男は、診療所にも事務所にもいなかった。どこまで行っても、何もない空疎な空間が広がっているのだった。今までに無いほど、世界がどこまでも空疎で静かだった。ただ身体の内側だけが五月蠅い。こんなことってあるだろうか。仕事をする気もしない。意味もない。頭がガンガンしていた。もう似鳥じゃなくていいから、竜胆に何かもらうか。そうだ、竜胆を探そう。

「酷い顔色だな。」
廊下で背後から呼び止められた。久瀬だった。
「お前じゃねぇんだよなぁ……」

美里は頭をかきながら、小さくぼやき、久瀬を振り向いた。そういう本人も普段からいい顔色をしていない。彼が立っていると外が晴れていても雨のような気がするのだった。美里は気丈を振舞って久瀬を見すえた。久瀬は弱みに付け込むように、「奴ならしばらく戻ってこないぞ。」と静かに秘密めかしていうのだった。何か知ってるそぶりを見せたが、彼にすがりたくも、答えを求めたくもなかった。

「あ、そう。」
「それだけ?他に、何か聞こうとかないのか?」

 久瀬が明らかに美里を揶揄している気配を感じ、美里は目を細めて、しばらく目の前の、雨のように湿った男をじっと眺めていた。ひそやかに人より優位な立場になるのが好きな男なのだ。そうしている内に、美里のすっかり萎えていた心中に小さな火の粉が巻きあがりはじめた。

「別にお前なんかに聞きたいことは無いな。だって、そうだ、別に俺には、霧野だけじゃないんだから。他のことでも忙しいんだから。」

 美里は自分の口元が歪むのを感じた。久瀬の暗い瞳の奥の方をじっと見た。

 矢吹が、美里のしなやかな体躯の下で組み敷かれて、舞台の上では表せないような声を上げ悶えるのを思い出す。ただ思い出すだけでは退屈で、久瀬の前で思い出すから、面白いのだった。

「……久瀬、矢吹の腰の、右下ところには小さい黒子が二つ並んでるんだぜ。知ってた?」

 久瀬のいつも引き締まっている口元、その下唇が小さく一瞬戸惑うように開きかけ、閉じた。
 美里は久瀬の口元を見、矢吹を思い出した。

 勢いよく、背後から矢吹のよく引き締まった双肉の間に挿入すると、肉が引っ張られて、突くたびに黒子が動いて近づいたり離れたりするようになるので、正しく高まってくるまで、しばらく、それをずっと見ていることにしていた。矢吹のことなど、すこぶるどうでもよく、果たせぬ欲望によって荒ぶる股間の肉を収めるための、もう一つの雄の肉の場所、その場所だけがしっかりわかっていれば、それでよかった。息が上がる。息が上がり、呼吸が浅くなればまた、何も難しいことは考えなくて済んだ。

 矢吹とのことは、感触だけが大切であり、矢吹の人間性など全てまったくもって邪魔だった。しかし、矢吹は天性の演じる能力で美里の欲しい物に近い物を、与えてくれたのだのだった。美里は応酬した。応酬、肉筒の硬く湿った往復をいく度いく度繰り返す内に、下から微かに、雄の高い唸り声が上がり、震えあがり、静かに果てた。時間の流れが狂っていった。奇しくも、あの間宮が海堂を二条に見立てたのと同じことを美里は矢吹にしていた。追って、激しい嫌悪感が美里の身体を襲い、闇に包まれたようになった。暗いホテルの中で、矢吹を軽く拳で嬲ってみるが、ただ肉を突くのとは違って、何一つ面白くない。全く違う。辱めて遊んでやろうとも思わない。つまらない男だ。

 目の前で久瀬の顔が白紙のようになっていくのを、美里は白々とした表情で見届けた。

 久瀬が霧野をいたぶるのもそもそも気にらないのだ。もともとペアを組んでいた自分が霧野をいたぶるのは正しくとも、なんでもない久瀬や竜胆が霧野をいたぶるのは、玩具を横取りされるようで気に喰わないのだ。同じことをやっただけだ。怒られる筋合いも何もないはずだ。美里は口元を歪めたまま続けた。

「あれで、なかなかこっちの希望に沿うように”演じてくれる”から助かるんだよな。ほんの数刻だが、確かに霧野に似てたぜ。一瞬だけどな。全然違う作りのはずなんだが、俺の目から見れば出来損ないだが、たしかにお前の言う通りの演技派なのかもしれない、奴は。お前も紹介してやろうか。3Pでもいいぞ。見ててやるよ。てめぇが奥さん差し置いて、馬鹿みてぇにオスガキに欲情してる様子をな。ビデオにとっておいて送ってやろうか!自宅によ。お子さんとご鑑賞会でも開きなさると良い!」

久瀬は美里の方に2歩3歩と近づいて来る。
「いい加減にしろよてめぇは……」
「なんだ?一体何を怒ってんだよ。俺が隠れホモであるお前の目にかなう若者を、斡旋、仲介してやろうというのに。……あの、売女をな。」
バ、イ、タ、の部分を囁くように、ゆっくりと、矢吹に似せて言うと、久瀬の指の先端がピクリと動いた。

 美里は、開いたり閉じたりして所在ない久瀬の手をしばらく冷めた目で見下していた。左手の薬指と小指の動きがぎこちない。美里はそのまま続けた。

「俺じゃないんだ、向こうから先に誘ってきたんだから。そうじゃなきゃどうしてこの俺が、好き好んであんなのと寝るんだよ。俺の好みも考えてほしいぜ。……おい、久瀬。何かしらねぇけど、カリカリしてきてるようだから、言っておくが、俺は、お前にだから、こんな秘密の話をしてやってるんだぜ。お前だから。俺は芸術一般には興味ないし、才もないが、霊験というのには興味があるよ。俺が矢吹にそういうのを与えてやってるんだよ。心当たりがあるだろう。お前もそうやってあるものに狂って、確かに何か、得るものがあったんじゃないのかな。どうだ?」

 美里は素早い仕草で、久瀬の左手の手首の辺りを軽く握った。手はすぐに引っ込められ、嫌悪の表情が久瀬の中に立ち上っていた。

 久瀬の、彼の左手の薬指と小指はもう、うまく動かないようになっているのだ。握力は残っており、日常生活を送るには何の支障もないのだが。以前、素面の竜胆から聞いたから、確かな話だ。全く素面の竜胆程、信頼できるものもない。

「久瀬、矢吹はな、そう、俺に何の気持ちもなくとも、奴は俺と寝ることによってある種の力を得られるんだよ。見てろ。きっといい演技するようになるからな。俺は興味がないし観に行く気も無いが。お前はそういうことに見識眼があるから、みてりゃわかるだろうよ。矢吹がどう変わっていくか、その過程を見届けることができる。お前にとっても興味深いことじゃねぇか?俺は矢吹のためにやってるんだよ。」

久瀬は美里を睨むように見ていたが、ふいに馬鹿にしたように笑いはじめた。

「思いあがるのもいい加減しろよ。売女?お前のことだろうが。気持ち悪い。」
「いくらでも何とでも言うと良い。今更そんなので傷つかない。それでお前の気が済むなら。いくらでもいいな。」

久瀬はしばらく黙っていたかと思うと、自分の右手で自分の左手首辺りを覆って撫でるような仕草をした。

「彼を破滅させる気だな。何故だ。何故彼なんだ。」

久瀬は、かつて美里によって滅ぼされたアクの強い構成員たちを思い返しているようだった。しかし、久瀬もそのことについては美里ではなく、相手が悪いと思っていたようである。久瀬には良識があった。

「どうかな。どちらにせよ別に。意味なんてないよ。ああ……強いて言えば愉快だからだ。……、お前が奴のパトロンにでもなって俺から守ってやるか?アイツもカタギのくせにヤクザ者二人から囲われて大変なこったな。」
 
 美里は久瀬の精神をいたぶっている内に、心の内に再び温かな血が流れるのを感じ、いつの間にか頭痛も和らいできているのに気が付いた。

「囲う、……囲い者ねぇ。」

久瀬は手を動かしながら、意味深な調子でそう言って笑って顔を上げた。怒りの調子は無くなっていた。

「いいさ、お前のような悪魔がそういうなら俺が矢吹を囲ってやっても。お前と違って手も出さないし、別に俺の姿も別に彼の前に見せる必要もないんだ。金だけはあるからな。しかし、俺や矢吹と違い、お前”ら”は囲い者そのものだ。ら、というのは、お前だけでなく、澤野も名実ともに残念ながらそうなったということだ。」

「お前が勝手に何想像しようが俺達をしょうもない妄想で揶揄しようがマジでどうでもいいが、なるほど霧野は、川名さんのところに居るんだな。よくわかった、教えてくれてありがとう。ここに居る奴らは大概どうかしているがその中でも、相変わらずお前って親切だよな。仏のようだぜ。」
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