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お前には全く同じ破壊衝動があるだろう。
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屋敷の中は先ほどまでの人の熱気がなかった。穏やかな空気が流れた。
「なるほど。」
隠居は、まるで絵の向こうにもう一枚絵があるかのように絵を眺めていた。
「彼をよろしく。」
何をよろしく、何故俺に言うのだと霧野は心の中に疚しさを感じた。
「ひとつよろしいですか。」
「答えられることなら。」
「ご隠居様から見て、川名組長はどのように見えますか。」
「どう見えるか。そうだな、君達には全く想像できない領域かもしれんが、可愛らしい子どもと変わらんよ。子どもというのは、大人よりずっと豊かで創造性に富み、そして残酷の天才でもあるのだ。」
平然と残酷無礼なことを口にする胆力、躊躇わず異常行為を行える精神、重大な物事でもゲーム感覚でとらえられる感性、人を人として扱わない行動を、そうとらえるなら、霧野の感じていた物と同じであった。それは、光の当たらない世界で生きるには有利な特性だろう。実際、彼の能力だけでなく、この傍から見れば常に続く異常な精神状態、川名にっては正常の状態が、彼の組織を急激に成長させて強くしただろう。しかし、古の任侠の世界の義理人情とは時に相反することがあるのではないだろうか。だから、正統の現組長派に属さない。しかし裏を返すと、その川名を旧組長の目の前の老人が買っている。
霧野が隠居の意見に同意することを伝えようかと言う時、廊下の奥から声がした。
「じいさま。」
人影が、廊下の向こう側からこちらに曲がりかけ、老人以外にもう一人、霧野が存在することに気が付いたか、足を止めた。気配は角の向こうで止まっていた。行け、と遠回しに目配せされ、頭を下げた。
川名達は先に屋敷を出ていた。庭先や門の向こう側の駐車場には、まだいくらかの男達が残って、立ち話をしているのだった。庭の飛び石の上を歩き、門の外へ向かう。
「ユーキ君。」
南が横から顔を出した。霧野は足を止め、殴打によって軽く腫れた彼の顔面を見た。彼は傷跡とは対照的に笑みを浮かべていた。この男にはまだ、人の顔を見て笑う余裕があるようだ。余裕などなくなるほど、殴ってやればよかったのだ。あの時は、身体が戒められて制御されていたから、手を緩めたが、今ならばと思い始めると、血が沸騰する。しかし、親の屋敷の目の前で理由もなく他の組の人間と喧嘩など始めては、ことである。
そういえば、誰にも背後に付かれずに一人で外を歩くなど、どれくらいぶりだろうか。
「なあ、お前んとこやばない?」
「……そうか?」
再び歩きだす。さっきまで歩くたび、身を少しでも動かすたび、乳首と亀頭の先端をぐいぐいひっばられ、尻穴を奥まで犯され続けていた。もう、その刺激はないのだが、身体には仄かな熱と強烈な余韻が残っており、服が肉体に擦れるたびに、通常意識しない感覚が身体に仄かに立ち登るのだった。ピアスの刺激が、身体の感覚を鋭敏にする。誰かに指をかけられ引っ張られているような感覚がじんじんと、身体の三点に熱を持って残り続ける。
人体の一部が欠損すると、時に幻肢痛と言うものが起きるという。無いはずの腕が痛い、無いはずの脚が痛い。霧野の身体には最早何も施されていないのに、幻肢痛のように、引っ張られ犯され続けているような、幻快のようなものが続いていた。
痛みも快楽も、脳が生み出すものである。
はぁ、と小さく熱い息をついて、気を紛らわせた。息を吸うと、澄んだ空気に混ざって、精の香りが漂う。
余韻は、肉体はもちろんだが脳の奥深いところに楔のように残り続けていた。
川名の所作、落ち着いた手つき、指の棒を撫でる時の感じ、変わらず動じぬ目つき、結ばれた口元、しなやかな脚の組み方、太もものラインまで、すべてが頭に焼き付いたままになっていた。身体の戒めがない分、研ぎ澄まされた集中力は、脳内の想像力を加速させて思い出さなくていいことまで思い出させる。
肉体の、熟れた隙間が、ぽっかり空いたままになって、濡れている。歩くたびに、ソコが、気になる。一度気になり始めると徹底的に潰し込みたくなる霧野の癖は、ここにきても治らなかった。気にし始めると、ソコがどくんどくんと脈打ち始めて、締まる。何もないことが気になる。
『欲しいのか?』
自分、澤野の声とも、川名の声とも、わからぬ混ざり合った声がした。
「そうだぜ!どう考えたってヤバい、お前らも、お前らの頭も。」
いつの間にか横を歩いていた南に、霧野は失っていた己を取り戻して、口を開いた。
「お前のところの方が、経営的にどうかと思うけどな。だいぶ問題がある。」
「……そんな意味で言ってんじゃないよ。」
南が続きを言うのを待とうと思って、また横目で彼を見ると、彼は口ごもっていた。苦い物を口にしたようなわかりやすい顔つきになっていった。彼なりに心配しているのかもしれなかった。なんともわかりやすい男だ。
「お前のところは、いつだって変な噂が立つやないか、良い意味でも、悪い意味でも。」
「どんな場所にも良し悪しはあるだろう。それを己の推量、どこまで許容できるかで、」
霧野が淡々と返答すると南は勢いを取り戻したような顔つきに戻った。
「まーた小難しい話を俺にすんなやぁ、許容やとぉ?はは、わらけるな。」
その時、南の手が無遠慮に霧野の胸部の辺りにのびて鷲掴んだ。
乳首が、勃っていた。
霧野は足を止め、顔を拭うふりをしてあからさまに不快な顔つきになりかけるのを抑えた。彼のこの手癖は、今に始まったことでないのだ。南は以前からボディタッチが多い。特に酒を飲ませると最悪だった。が、べらべらと言っちゃいけないことまで話してくれるので助かると言えば助かる。
彼の手を拒絶、避けることもできたが、そのまま好きに触らせておいた。普段飲みの席で触らせておいて、今不自然に拒絶したら、それこそ、南の欲しい答えを、彼にあたえることになるのだ。
南の欲しい答えとは、澤野優紀が、川名達から男同士の調教を受けており、それに快楽を感じているということである。だから、普段通りを装った。装いながら、頼むから、今だけは触らないでくれ、と、心の内で震えた。どうでもよいことを考えようと思うと、頭の中に湧いて来る。川名の声が。
『雌犬!』
南は、霧野が何も言わないのをいいことに手を腰元にまで回し始めた。知らない手つきに、霧野はまた我に返る。
「おい……。」
指が、腰骨から、尻の割れ目の上の辺りをなぞっていた。
「ふーん、外したんかな。それとも、外すことを”許容”されたんかなぁ?」
さっきまで縄の食い込んでいた、痕になって赤く腫れた皮膚の上を指がなでていた。
「何を…‥?」
「あ~、知らぬふりをするぅ。」
尻に、南の指が食い込んでいた。
「……。」
霧野は、自分の瞼が徐々に重くなり、頭の奥が酷く煮えるようになると同時に冴えてくるのを感じていた。
「よせよ。」
強く言った。しかし、南が言うことを聞くはずもなく、手癖を更に悪くする。
「よせと言ってるだろうが!」
霧野は南を突き飛ばしたが、彼はわかっていたというように受け身をとって、向かってくる。さっきまで我慢してた言葉がもう我慢できなくなって、口から出ていった。
「面倒くさいなァ、さっきからよ!てめぇの方がホモ臭いじゃないか!気色の悪い場所を執拗に触りやがって。」
近くに腰ほどまでの植木があるのが見えた。身構え、向かってきた南を手近な植木の中に背負い投げ飛ばした。彼が植木の中で伸び、顔面を抑えながら笑っているのを見て、甚だ面倒になった。
「いい加減にしろよお前。」
騒ぎになる前に手早く南を助けおこすことにした。抱えながら「さっき向こうでヤッてる時にも言ったが、誰かに言いふらしたら、殺す。すぐにわかるからな。」と囁いた。わかったわかった、と南は血を流しながら笑っていた。
「……ふーん……。まだ俺にそんな顔できるかよ。屑が。」
肩を組み助け起こすふりをして、人から見えぬ角度で彼の鳩尾に拳を一発いれた。流石に笑顔を消して咳き込んで蹲りかける。
「おいおい、これじゃあ、俺が悪者に見えるだろ。立てよ。」
今度は膝を鳩尾に入れると、膝の衝撃で内臓が人体の中で不自然な位置まで上昇する感覚に霧野は久々の快感を覚えた。膝いれは、南の身体を浮き上がらせ、本当なら、そのまま頭を掴んでちょうど植木の後ろにあるイイ感じの外壁に打ち付けて軽く割ってやりたいくらいだったが、霧野は人形のようになって起き上がった南の首を掴んで支え、顔を近づけ見降ろした。
「おい……。寝てるなよ。本当に、わかったんだろうな、南くん。」
「うう……」
二度三度と呆けた顔にビンタをかますとようやく目が合った。もっと!と思い、上げかけた手を降ろした。
「わかった、わかったってば、……揶揄って悪かったよ、」
視界の隅に川名と二条の姿があり、明らかにこちらを見ているようだった。南を置いて急ぎ彼らの方へ向かった。
「おいおい、何であれで、あのまま頭をいかないんだ?つまらねぇキャットファイトだ。」
と第一声二条が言った。つまらん、と言いつつも豪傑は笑って続けた。
「自制したのか?別にいいだろ、あんな奴ら一人や二人死のうと。」
ははは、と笑う横で、川名が咥え煙草をしながら眺めていた携帯をポケットにしまって、顔を上げた。
「遅いんだよ。」
川名は、霧野に煙草の煙を吹きかけた。霧野の周囲を紫煙が漂って纏わりつく。彼はだるそうに、霧野の背後の屋敷の方を眺めていた。
「すみません。」
「足りないのか?」
「え」
川名の視線が素早く口ごたえをした霧野の方に戻ってくる。
「あれだけして、まだ、遊び相手が足りないかと聞いてるんだ。ビッチ。」
霧野が苦笑いしたようになって返答に窮していると、「おーい、南君!」と、川名が南を呼ぶのだった。南は、さっきまでのやりとり、周囲の空気など一切気にせず、というか、本人が気にならないようで、まるで主に呼ばれた犬のようにすぐにやってきた。主は違うはずなのだが。霧野の方が、三好会の面々の様子が気にかかり内心ひやひやしたくらいであった。
「そんなにコイツのことが気になるなら、抜けて、俺のところに来たらいいのに。いくらでも世話してやる。」
川名は持っていた煙草を地面に落とし、踏みしだいた。
「え?いや、その」
川名は、呆然とする霧野をよそに、躊躇う南に向かって「そうすれば、今のようにこいつに突き放されることなく、自由にすることも叶わないでもないんだぜ。どう?どんなことでもできる。」と言って意味深に微笑んで見せたかと思うと、そのままの笑顔で「でも、今の君は仲間でも無いのに許可なく人の私物を触りまわるのもどうかとは思うな。実に不愉快だ。君『ら』には品性がないよ。」と言った。
南は、ここに来てようやく自分が霧野に触りまわったことを責められていることに気が付いて、小さく「しぶつ……、」と繰り返した。川名、二条、霧野の三人に周りから囲まれて、南の存在はどんどん小さくなっていくように見えた。
「澤野の話を聞けば、君は、奴らに不満を抱くことも多いらしいな。抜けるとなればなかなか面倒なのも承知だが、その辺は俺がなんとかしてやろう。あんなところで腐ってるよりこっちに来た方が、お得だぞ。いろんな意味でな。考えておけよ。……さあ、それだけだ、もう行っていい。」
霧野は、明け透け川名が霧野の身体を餌にして勧誘をするのに何も言えずにいた。川名は、南を見送ってから、霧野を軽く見上げ、普段仕事の話をするような調子で次のように言った。
「二条から聞いたが、今日はまだ、誰にも膣の中に出させていないんだって?雌犬。」
「……」
「おい、何を黙ってる。お前に話しかけてんだぞ。返事は?」
「う……」
霧野は、先ほど冴えた己の頭がまたどんどんとぼんやり曇っていくのを感じつつ、目の前の男にまた苛立った。
「なんだ?今更恥じてるのか?じゃあ、口の中に出された回数はァ?」
「……。そんなことを言って、これじゃ、どっちが品性が無いんだか、わかりませんよ。」
「ほぉ、自分に課せられた唯一の任務さえこなせないことは棚に上げ、俺を批判するとは良い度胸だな。」
「……」
霧野はまた川名に何かされることを覚悟したが、その場では何も起こらず、川名と二条はそれぞれ別れて、霧野は川名の方についてくるように言われた。
「二条もよく耐えたもんだな。貴様にぶち込みたくて仕方なかったはずなのに。後でご褒美でもやらないとな。なあ、お前もそう思うだろう。」
「……」
「今日は特別に、助手席に乗ると良い。」
助手席を開けられた。助手席を開けられる意味を考えた。乗り込んでから、思い至ることがあったが、それより先にあからさまに助手席に置かれた紙束が気になった。手に取ってめくり始める。車が動き出す。
「お前に会いたがっている奴らがいるからな。到着するまでに内容をよく頭に叩きこんでおけ。」
それは『偽の報告書』であった。霧野が今まで出してきた報告書の偽造、ところどころ真実で決定的な部分は嘘。木崎の失踪に始まる怪しい所業について三笠組へのなすりつけ、死体の遺棄の暗示、今後の計画について、などなど。
「面談の様子でまた、今後のお前の進退について考えてやろう。……よーくできてるだろう?それ。手書きの個所の半分は俺が字を真似てみた。お前の字は丁寧で美しいが、若干の、抑えきれない右上がりの癖がある。半分は間宮にやらせた。あれで結構いい仕事するよな、アイツ。」
彼は涼し気な笑みを浮かべて、ハンドルを切った。
◆
兄がまた血まみれで帰ってきた。ベッドに寝ころんで獣のようにいびきをかいて寝ていた。血は龍一郎本人の血もあるが、他人の血がほとんどである。
兄龍一郎は、川名義孝が物心ついたころから、そうであった。ケダモノである。ケダモノは力が人一倍強く、異臭を放ち、人の言葉や気持ちなど、一切理解しない。大きな影は夜中家の中を徘徊した。穢れの概念をそのまま人間にしたら、この男になるだろうと義孝は、いつからか思うようになっていた。
”義”両親は、幼い頃こそ、兄の資質を心配したが、成長するにつれ完全に手に負えなくなった彼の非行を諦めて、残った義孝の方に愛情を注力するようになる。しかし、義孝に全く問題が無かったわけでない。成長につれ、龍一郎ほどではないにしろ問題が現われて、このままでは兄と同じ非行を進む予感があった。
特に顕著なのは、義孝がいつまでたっても殺生に全く躊躇いがなく興味を示すことだった。小さな子どもは、蟻や蛙などを殺しても罪悪感を抱かぬが、命の尊さを学習するのと、虫を殺す行為よりもっと楽しい遊びがこの世にはあることを解して、卒業する。しかし、義孝はそうではなかった。
父母は、何度か口で「可哀そうだからやめなさい」と注意し、義孝は「わかったよ」と困ったような笑顔を浮かべて取り繕う。ただ、常識として理解はしているが、心の動きとしては、一切理解できていないのだった。
中学に上がる頃の義孝は、まるで龍一郎とは正反対であった。友人も多く、成績良好品行方正。自ら生徒会に入って自治を行い教員生徒共に支持を得たり、女生徒から手紙をもらったりと、傍から見れば全く問題ないどころか充実しているようにみえた。同じ兄弟で、こうも出来が違うとは面白いと義父母は思った。それから、義孝のことについても、以前より心配するのは止めていた。一時期、兄の影響によるのか思い詰めたようになっていた時期があったが、その傾向も失せたように義父母には見えていた。
しかし、義孝の素行は、義孝が龍一郎を激しく嫌悪した結果、反面教師にして、自分がやりたいからやったというより、意図的に逆を行った結果でしかなかった。そこに何の心も意志も無いのだった。
ついにある日、義父は家の裏で意図的に殺害解体された猫の死体を発見するに至った。それは龍一郎の破壊性を帯びた暴力とは違う、静かで猟奇性の強い暴力の発露、異常な集中力で丁寧に解体され、そのまま標本として飾っても良いほどの出来であった。さらに調べると、それが軒下から五体見つかった。解体技術は五体を通して著しく成長していた。
両親は、義孝の秘められた悪癖を何とか正そうと策を練り、彼が龍一郎とは違う点として、小さい頃から粘度遊びやお絵かきに興味を示し、成長した今でも引き続き図画工作や美術の成績がいいことに目をつけるのだった。つい最近も、美術の授業の中で描いた夏山の風景画が、学生向けコンクールに入選していた。それから、彼にこう言った。
「俺はお前が何をしているか知っているぞ。」
「……。」
義孝は父親からの指摘に、父に呼ばれてにこにこしていた顔から白けた顔に変わって「だったら何。」と言った。
「何がわかるんです。」
とさらに続け、ふてくされた。
「わかるかわからないかで言ったら、俺はお前がわからない。違う人間なのだからな、当たり前だ。」
義孝は意外そうな瞳で父を見上げたが、また猜疑的な瞳をして「ふーん、まあ血も繋がってないですしね。」と思春期相応の生意気な口をきいた。
「心配しなくてもアイツのようになる気は無いから、迷惑もかけてないし。」
アイツとは言うまでもなく、龍一郎のことであった。龍一郎は義孝が中学に上がるころには、ほとんど家にいつかなくなっていたが、たまに家に帰ってきた。義孝は、彼の靴があるのを発見すると家に上がるのを止め、外で何時間でも時間を潰した。
その理由を、義父母は単に仲が悪いと解釈しているようであったが、それ以上の問題が横たわっていた。兄弟で年が五つ六つ離れていることもあり、義孝はその概念を知る前に、事故のように巻き込まれ、ようやく思春期ともいえる最近になって己の身に起きていたこと、兄の行動の意味の全てを理解したのだった。
何度か、養父母らにこの件を言うべきなのだろうかと思って、しかし、実際善良な彼らを目の前にすると、とても口にする気は起こらず、取り繕う癖だけがうまくなる。
「本当か?お前には龍一郎と全く同じ破壊衝動があるだろう。」
義孝は、義父を見ながら、握った拳の中が湿り始めるのを感じていた。頭の奥の方がどくどくする。
その通りかもしれない。しかし、それをお前にとがめられる権利があるのか。
「今更隠さなくても良い。隠そうとするから、ああいったものを作るに至るんだ。」
「うるさい……!」
今まで聴いたことの無いような獣じみた低い声に義父は驚いたが、動揺を隠した。地の底から上がってくるようだが、妙に頭に爽やかに響き、残響する声であった。もしかしたら、この子は初めて本当の感情を見せたのかもしれないと、義父は動じながらも、その場を急ぎ去ろうとする義孝の腕を強くとって諫めた。今ここで逃したら、永遠に対話の機会が失われるように思った。
「まあ待て。別に俺はお前を辱めようとしているわけじゃない。お前はこの件とは別に、絵を描くのが好きだな。俺もたまにお前の創ったものを見るが、絵のことがわからん俺でも、いい絵だと思うし、誇らしい。」
握った手の中の腕が軽く弛緩しするのがわかった。
「お前の中のエネルギーは、常人のそれとは違うらしい。別にそれは悪でもなく、エネルギーが大きいことは使い方さえ誤らなければ、寧ろ素晴らしいことだ。だったら代替する何かにそれを注ぐのがいい。無理にやれとは言わない。大体お前の周りの連中も今、教師か親か周りの影響か、部活やスポーツに打ち込んでいるだろう。アレはなぜか?有り余るエネルギーを抑制させ、統制するためだ。わかるか?お前は自分で自分を無理に抑制しようとして奇妙な方向へ進もうとしている。だから、もし次にやりたくなったら、代わりに絵を描くか、お前の気に入っている画家、なんだったか、忘れたが、それを見て模写でもしてみるんだな。絵の中で解体してみたって良い。骨格から描くのは学びになるらしいからな。」
義父は、義孝を掴んでいた手を離した。義孝はしばらく軽く俯いたまま立ちすくんでいたが、黙ったまま静かに義父の前を去っていった。義父はその背中に声を掛けようか迷い、止めた。翌朝顔を合わせた時には何事も無かったかのようにふるまい、笑顔さえ見せた。義父は自分が言ったことが彼につたわったか不安になるのだったが、ある日、こういう画材が欲しいと相談してきた彼に幾らかの手ごたえを感じるのだった。
義父には絵がわからなかったが、彼の衝動の発露は全て褒めた。素人目に見ても精巧な絵が多く、細部まで異様なこだわりで時に部屋に何日も籠って描いていた。悪癖は一切消えたように見え、それは義父母にとって喜ばしいことであったが、絵に賭けるエネルギーが多いほど、表面には表れない彼の中身、表に現れない衝動や感情の波の大きいことを意味していた。絵は猫の解体と同様に上達する。
そうして、進路を考える頃になり高校生になった義孝は、自然と美大の受験を考え始め予備校に通っていた。その矢先、夏のことだった。数年前から所在不明となって長いこと顔も見ていない兄が破産、凶悪事件を起こした上蒸発、実家どころか一族の資産を持ち逃げし、結果として進学どころではなくなったのである。
「あの野郎……相変わらずダニだな……」
義孝は、親戚や世間からも責められて憔悴し、別人のようになってしまった両親と共に暮らすのも嫌になり、彼らが義孝に龍一郎の面影を見て嫌な気分を起こすだろうと思い、家を出た。そして、何とか稼いで彼らのために送金しようと思った。兄の蛮行を思いのほか、周囲が騒ぐ中自分一人だけが冷静に受け止めていた。あーあ、やると思った、と言う感想でしかなく、ともすれば、アレは自分であった。
絵で喰っていくつもりであったが、何の実績もない。兄のこともある。自然と脚は、背景など関係なくリスクさえ背負えれば大きく稼げてしまう裏社会に向き始めるが、まだ絵で喰いたいという気持ちと兄と同じになることを考えると、どっぷりとその世界につかることを良しとしなかった。そして、絵が描けなくなると、肉体の中、脳髄の奥底に業のようなものが溜まって苦しいのだった。
ある日、悪い仲間が、義孝のアパートを訪れた。彼は余暇に描いたイラストを見て、これを身体に彫りたいと言った。彫る、その発想は無かったが、義孝はそう言われてからと言うもの、人体に直接針を立てて血に交じって絵を描くイメージにとりつかれて、よく眠れなくなった。己の身体で練習する気は起きないが、被検体がいるのであれば、昔、本を見ながら猫を捌いた時のように、やってみてもいいかもしれない。
義孝は、用具をとりよせた。そして、悪い仲間に、見よう見まねで絵を施すことを副業とし始めた。これが良い評判となり、弟子に迎えたいという格式高い彫師まで現れ、三年ほど弟子入りの名目で人の下で働くことになる。経験の浅さから安値で請負、表面上の人当たりの良さからも裏社会の中でそこそこの名を売った。
本来やりたかった絵も続けていたが、こちらが売れる様子は一切ない。兄の名前で箔が付くのは結局裏社会だけであり、箔が付けばまだ良い方で代わりにどこそこの、顔も知らない借金業者に追われる始末で、よく偽名を使った。彫師は便利で芸名、屋号でも売れ、その方が覚えてもらえる。しかし、表に出られず、沼底に引っ張られていく感覚はどんどん大きくなった。
たとえ人の皮膚の上だとしても、好きな絵が描けるなら、そう思うが、次第に流れる血を目にし、匂いを嗅ぎ、昔昇華させ消滅させたはずの感覚が、疼くのであった。彫っている間も喉の奥が痒く、疼き、そのまま、この針を、機械を、と思うことが増え始めた。それは、義孝の狭いアパートメントに、立てかけられた絵の数々にも表れた。下の方に埋もれた絵はおだやかであるのに、上に積まれた絵程、過激なものになりつつあった。アパートの一室は一つの繭のようであった。部屋の中心で蹲っていると、心の奥底に倒れ込んでいるようだ。
真夏だった。閉め切られた部屋は蒸して油絵具の匂いに満ちてた。四方に立てかけられた欲望の発露の中心で横たわる。トクン……トクン…‥自らの心臓の動くのを感じた。昔から、今にも止まってしまうのではないかと思う程異様に遅い心拍数であった。
このままでは、どうにもならなくなる。
暗い部屋の中、黒い絵画の数々に囲まれながら、もう、弟子を止めようと思い、誰にも何も言わず、勝手に抜けた。しばらくアパートから出てホテルを転々とする。破門同然で二度と彼らに顔向けできない。それでも人づてに注文は殺到した。値段を吊り上げ、わずかな顧客だけが残った。狭い業界での評判は、最悪を極め、手のひらを返したように悪評が広まる。別に、それでよかった。それがよかった。
ほとぼりが冷めて、誰にでもウケそうな可愛らしいイラストを売ってギリギリ食いつなぎ、どうしても金が足りなくなった時だけ陳腐な犯罪に手を染める生活になった。犯罪をやる場合は、誰かに使われるよりも、標的のこと、全体を把握して統率するのがよく向いており、企画して仲間を集い実行する方針をとった。
人よりも倫理観というものが乏しい自覚があった。心を痛むべきところで、うまく「痛むことができない」。
それは恥ずべきことであり、それゆえ、己の欲望をそのままいく兄と違って繕うことを覚えたのだ。闇の仕事の中では、倫理観が無いがゆえに人より思い切った計画と指示ができ、誰か逃げた場合、肩代わりして実行も厭わないのだった。悲しいことにイラストを描く何十倍もかせげ、評判も高まる。
一方、絵画どころか、せっかく注文を貰ったイラストにまで、邪な欲望の影響が出始めて、部屋の中で一人呻いていた。開けてはいけない、邪門のようなものが開きそうになるの押さえつけた。誰かと組もう、徒党を組もう、事業をしよう、という話が持ち上がるが、伸し上がるというより転げ落ちるような気がして、すべて拒否した。
金にならない絵を描いている時間だけが、生きている気にさせた。しかし、それは誰にも求められない。
世の中に、生きることを許されていない。
もう、どうにもならなくなるくらいなら、このまま一生終わっていっても別に良いと思った。
犯罪で稼ぐことも自らの意思で断ち、親への送金もできずその日暮らしでいた。食うものもなく、食欲もなくなっていった。しかしペンと筆だけは動いた。身体の奥の方がドクドクとして、血が、力強く全身に供給されていく。寝もせず食べもせず描き続けて三日ほどたったある日のこと、悪い仲間づてに、本職の人間から墨の注文が届いた。すっかり名前も忘れ去られたと思っていたのに、どこで噂を聞いたのだろう。しかし、裏社会とのつながりを薄くしている最中であり、迷惑だった。
ヤクザ、本職の人間と関わると、ろくなことにならないのはわかっている。もう随分彫り物はやっておらず、腕が落ちたから、とてもできない、と、断った。しかし、悪い仲間は「断ると俺が殺されるかもしれない」と言いすがり、引き下がる様子を見せなかった。自分と同じような社会のダニ、彼の命自体はどうでもよかったが、万が一おこるかもしれない義両親への被害のことを考え、しぶしぶ承諾した。何癖付けて、断ろうと思っていた。
「一千万、ですか?」
迎えに来た車の助手席に座った男が、義孝が渋っているのを依頼者の男が既に見抜いており、一千万出すと言っているというのだ。余計に嫌になった。バックミラーに写った自分の顔を見た。食っていないせいで焦燥して顔つきが悪くなり、薄っすらと龍一郎の面影を見て、吐き気がする。
車は大きな門構えの屋敷に入り、奥の畳の部屋で待つようにと通された。待っている間、断る方法、パターンをいくつも考え時間を潰した。常人であれば、本職の人間の屋敷の奥に通されれば、緊張で頭の奥も白くなろうが、もはや一生終わろうがどうでもよいという精神性に至った義孝には、そのような緊張は一切なく、飽き飽きとした調子で、床の間の掛け軸を観察し始めた。最初何の絵かわからなかったが、よく見れば花びらを散らす真っ赤な椿の絵であった。
「なんだありゃ。酷い絵だな……」
アレだったらまだマシなものが描けるはずだ。あんなゴミが高値でやりとりされ、ヤクザの家に客間にかかっていて、己の家にある絵が売れないのは納得がいかない。消えかけていた炎がまた小さく揺らいだ。その時、川名の中の炎のゆらぎに合わせたように障子が開き、ひとり、若い和服の男が入ってきた。
「やぁ、待たせちゃったかな。」
男は色白い顔の上に、柔和な笑顔を浮かべ、のろのろとした調子で向かいに座るのだった。やわらかい雰囲気の中、本当に笑っているのかどうか、よくわからない。裏社会では笑顔というのが一番怖いのだ。また、のろのろした調子も気になった。ここまで義孝を連れてきた人間がきびきびと動くのに対して、動作がひどく緩慢で、誰にも指示されることがないであろう立場であることがわかる。
「俺のことは聞いてる?」
「いえ、なにも。」
目の前の男が誰であるか、敢えて情報が伏せられているのだろうと思った。格の違いでビビってしまうであろう若造のために、だ。
「そうか、じゃあ、そのまま黙っていようかな。」
男はにこにことしたまま、図案を見せてくれないかと言った。
「何も持ってきていません。」
「なに。」
笑顔の下で彼の顔の筋肉が強張ったのが見え、義孝は一瞬恐怖と言うより、優越感にひたりながら、顔を伏せた。今まで多くの人間を自分の思う通りにさせて来たのだろう。そう思うと、愉しくなった。
「断るつもりで来ましたから。」
少しの沈黙の間、義孝は畳の目を見ながら、向こう側に座る男の表情を空想して愉しんだ。
「そうか、それは仕方がないなぁ。」
向こう側から間延びした声が聞えて来た。伏せた顔の下に、白紙の紙とペンが投げ渡された。
「そこに何か描いてみろ。」
ペンをとり、顔も上げずに、畳の上でサラサラと散りかけた椿の絵を描いて見せた。紙を持って顔を上げた。
「そこの、下手糞の代わりです。」
そのまま、紙を持っている手の人差し指を立て、掛け軸を指さした。それから続けた。
「センスないよ。」
くくく、と久しぶりに喉の奥から笑い声が出た。数年ぶりに笑ったかもしれない。反対に目の前の男は笑顔を失った。笑顔の仮面がとれて、やけに澄んだ鋭い目つきがあらわれた。殺されてもどうだってよかった。男は、そのまま今度は表情をやわらげ呆然として「へぇ~」と言い「やっぱりお前に頼みたい。」と言うのだった。
「なに?」
「いや~俺もアレはどうかしてると思ってたんだよ。椿っていうよか肉片みたいだろ~。でも周りや親父がいいものだから、誰それの何だからと祭り上げ歴史を自慢する。だから、一応アソコに置いてあるんだ。それにこの短時間で描いたにしてもお前の絵はやっぱり俺の好みの絵だ。噂によればお前はまじめな絵も描くらしいじゃないか、見せてくれよ、俺に。」
「ですから、持ってきてないと」
「じゃあ、今からお前の家に行こう。」
おい、と口に出したのは、どちらが先だったか障子が両開き、先ほどの運転手が現われた。そうして、狭いアパートに彼とひざを突き合わせて向かい合うことになった。彼はふむふむ言いながら、勝手に部屋中漁って散らかしては、丹念に絵を眺めていた。狭いアパートに似つかわしくない和服の男、それからスーツを着込んだ巨体の運転手が玄関ドアの前に控えていた。
「良いじゃないか、言い値で買ってやる。」
「……そんなことをしたって、俺は彫りませんよ。」
「あは!別にお前の機嫌をとろうってわけじゃなく、本当に良いと思ったから言ってるんだよ。」
「……。」
義孝がいつまでも渋るので「わかったよ、今日は帰るよ。」と男は言って絵を一枚運転手の男に持たせた。
「勝手に!」
「ほら」
どさ、と、見たことないほど厚い札束が一つ目の前に堕ちてきた。
「いりません。」
札束を見たまま言った。男を見上げたくなかった。
「いらないというなら、貨幣として使わず文鎮にでも使うがいい。」
男は札束を足で川名の方へ、ずいと押し、そのまま去っていった。
男は結局名乗りもせずに、アパートを出ていった。男が選択した一枚は、義孝が自信作と思って気に入り、繰り返し上から修正を加え可愛がっていた3枚の絵の内のひとつであった。月下の荒野を、徒党を組んだオオカミの影が交わりあり合いながら走っていく。それぞれのオオカミの影は影の一部どこかしら他のオオカミと重なるように描かれて遠くから見れば、一つの生き物のようにも見えた。
義孝には、心を共にできる友、仲間というものがなかった。学生の頃の虚構の自分に付き添う人間は、表面上は友人と称したが、本当の意味の友人でも仲間ではない。今の悪の仕事仲間については憎悪軽蔑さえしていた。
どこにいても、自分一人、ケダモノであった。それは兄と同じ感性であったが、兄の仲間になることは、死ぬのと同じだった。だから、空想の中で執念を込めてケダモノの己を美しく描いてみせたのがその絵だった。それが今持ち去られてしまうと、あれだけ手元を離れろと思っていた絵が今は恋しい。
意思を込めて生み出した絵は己の半身のようなものだ。
それが初めて誰かに持ち去られて、不思議な空虚感と充実感が交互に生まれては消えるのだった。
「なるほど。」
隠居は、まるで絵の向こうにもう一枚絵があるかのように絵を眺めていた。
「彼をよろしく。」
何をよろしく、何故俺に言うのだと霧野は心の中に疚しさを感じた。
「ひとつよろしいですか。」
「答えられることなら。」
「ご隠居様から見て、川名組長はどのように見えますか。」
「どう見えるか。そうだな、君達には全く想像できない領域かもしれんが、可愛らしい子どもと変わらんよ。子どもというのは、大人よりずっと豊かで創造性に富み、そして残酷の天才でもあるのだ。」
平然と残酷無礼なことを口にする胆力、躊躇わず異常行為を行える精神、重大な物事でもゲーム感覚でとらえられる感性、人を人として扱わない行動を、そうとらえるなら、霧野の感じていた物と同じであった。それは、光の当たらない世界で生きるには有利な特性だろう。実際、彼の能力だけでなく、この傍から見れば常に続く異常な精神状態、川名にっては正常の状態が、彼の組織を急激に成長させて強くしただろう。しかし、古の任侠の世界の義理人情とは時に相反することがあるのではないだろうか。だから、正統の現組長派に属さない。しかし裏を返すと、その川名を旧組長の目の前の老人が買っている。
霧野が隠居の意見に同意することを伝えようかと言う時、廊下の奥から声がした。
「じいさま。」
人影が、廊下の向こう側からこちらに曲がりかけ、老人以外にもう一人、霧野が存在することに気が付いたか、足を止めた。気配は角の向こうで止まっていた。行け、と遠回しに目配せされ、頭を下げた。
川名達は先に屋敷を出ていた。庭先や門の向こう側の駐車場には、まだいくらかの男達が残って、立ち話をしているのだった。庭の飛び石の上を歩き、門の外へ向かう。
「ユーキ君。」
南が横から顔を出した。霧野は足を止め、殴打によって軽く腫れた彼の顔面を見た。彼は傷跡とは対照的に笑みを浮かべていた。この男にはまだ、人の顔を見て笑う余裕があるようだ。余裕などなくなるほど、殴ってやればよかったのだ。あの時は、身体が戒められて制御されていたから、手を緩めたが、今ならばと思い始めると、血が沸騰する。しかし、親の屋敷の目の前で理由もなく他の組の人間と喧嘩など始めては、ことである。
そういえば、誰にも背後に付かれずに一人で外を歩くなど、どれくらいぶりだろうか。
「なあ、お前んとこやばない?」
「……そうか?」
再び歩きだす。さっきまで歩くたび、身を少しでも動かすたび、乳首と亀頭の先端をぐいぐいひっばられ、尻穴を奥まで犯され続けていた。もう、その刺激はないのだが、身体には仄かな熱と強烈な余韻が残っており、服が肉体に擦れるたびに、通常意識しない感覚が身体に仄かに立ち登るのだった。ピアスの刺激が、身体の感覚を鋭敏にする。誰かに指をかけられ引っ張られているような感覚がじんじんと、身体の三点に熱を持って残り続ける。
人体の一部が欠損すると、時に幻肢痛と言うものが起きるという。無いはずの腕が痛い、無いはずの脚が痛い。霧野の身体には最早何も施されていないのに、幻肢痛のように、引っ張られ犯され続けているような、幻快のようなものが続いていた。
痛みも快楽も、脳が生み出すものである。
はぁ、と小さく熱い息をついて、気を紛らわせた。息を吸うと、澄んだ空気に混ざって、精の香りが漂う。
余韻は、肉体はもちろんだが脳の奥深いところに楔のように残り続けていた。
川名の所作、落ち着いた手つき、指の棒を撫でる時の感じ、変わらず動じぬ目つき、結ばれた口元、しなやかな脚の組み方、太もものラインまで、すべてが頭に焼き付いたままになっていた。身体の戒めがない分、研ぎ澄まされた集中力は、脳内の想像力を加速させて思い出さなくていいことまで思い出させる。
肉体の、熟れた隙間が、ぽっかり空いたままになって、濡れている。歩くたびに、ソコが、気になる。一度気になり始めると徹底的に潰し込みたくなる霧野の癖は、ここにきても治らなかった。気にし始めると、ソコがどくんどくんと脈打ち始めて、締まる。何もないことが気になる。
『欲しいのか?』
自分、澤野の声とも、川名の声とも、わからぬ混ざり合った声がした。
「そうだぜ!どう考えたってヤバい、お前らも、お前らの頭も。」
いつの間にか横を歩いていた南に、霧野は失っていた己を取り戻して、口を開いた。
「お前のところの方が、経営的にどうかと思うけどな。だいぶ問題がある。」
「……そんな意味で言ってんじゃないよ。」
南が続きを言うのを待とうと思って、また横目で彼を見ると、彼は口ごもっていた。苦い物を口にしたようなわかりやすい顔つきになっていった。彼なりに心配しているのかもしれなかった。なんともわかりやすい男だ。
「お前のところは、いつだって変な噂が立つやないか、良い意味でも、悪い意味でも。」
「どんな場所にも良し悪しはあるだろう。それを己の推量、どこまで許容できるかで、」
霧野が淡々と返答すると南は勢いを取り戻したような顔つきに戻った。
「まーた小難しい話を俺にすんなやぁ、許容やとぉ?はは、わらけるな。」
その時、南の手が無遠慮に霧野の胸部の辺りにのびて鷲掴んだ。
乳首が、勃っていた。
霧野は足を止め、顔を拭うふりをしてあからさまに不快な顔つきになりかけるのを抑えた。彼のこの手癖は、今に始まったことでないのだ。南は以前からボディタッチが多い。特に酒を飲ませると最悪だった。が、べらべらと言っちゃいけないことまで話してくれるので助かると言えば助かる。
彼の手を拒絶、避けることもできたが、そのまま好きに触らせておいた。普段飲みの席で触らせておいて、今不自然に拒絶したら、それこそ、南の欲しい答えを、彼にあたえることになるのだ。
南の欲しい答えとは、澤野優紀が、川名達から男同士の調教を受けており、それに快楽を感じているということである。だから、普段通りを装った。装いながら、頼むから、今だけは触らないでくれ、と、心の内で震えた。どうでもよいことを考えようと思うと、頭の中に湧いて来る。川名の声が。
『雌犬!』
南は、霧野が何も言わないのをいいことに手を腰元にまで回し始めた。知らない手つきに、霧野はまた我に返る。
「おい……。」
指が、腰骨から、尻の割れ目の上の辺りをなぞっていた。
「ふーん、外したんかな。それとも、外すことを”許容”されたんかなぁ?」
さっきまで縄の食い込んでいた、痕になって赤く腫れた皮膚の上を指がなでていた。
「何を…‥?」
「あ~、知らぬふりをするぅ。」
尻に、南の指が食い込んでいた。
「……。」
霧野は、自分の瞼が徐々に重くなり、頭の奥が酷く煮えるようになると同時に冴えてくるのを感じていた。
「よせよ。」
強く言った。しかし、南が言うことを聞くはずもなく、手癖を更に悪くする。
「よせと言ってるだろうが!」
霧野は南を突き飛ばしたが、彼はわかっていたというように受け身をとって、向かってくる。さっきまで我慢してた言葉がもう我慢できなくなって、口から出ていった。
「面倒くさいなァ、さっきからよ!てめぇの方がホモ臭いじゃないか!気色の悪い場所を執拗に触りやがって。」
近くに腰ほどまでの植木があるのが見えた。身構え、向かってきた南を手近な植木の中に背負い投げ飛ばした。彼が植木の中で伸び、顔面を抑えながら笑っているのを見て、甚だ面倒になった。
「いい加減にしろよお前。」
騒ぎになる前に手早く南を助けおこすことにした。抱えながら「さっき向こうでヤッてる時にも言ったが、誰かに言いふらしたら、殺す。すぐにわかるからな。」と囁いた。わかったわかった、と南は血を流しながら笑っていた。
「……ふーん……。まだ俺にそんな顔できるかよ。屑が。」
肩を組み助け起こすふりをして、人から見えぬ角度で彼の鳩尾に拳を一発いれた。流石に笑顔を消して咳き込んで蹲りかける。
「おいおい、これじゃあ、俺が悪者に見えるだろ。立てよ。」
今度は膝を鳩尾に入れると、膝の衝撃で内臓が人体の中で不自然な位置まで上昇する感覚に霧野は久々の快感を覚えた。膝いれは、南の身体を浮き上がらせ、本当なら、そのまま頭を掴んでちょうど植木の後ろにあるイイ感じの外壁に打ち付けて軽く割ってやりたいくらいだったが、霧野は人形のようになって起き上がった南の首を掴んで支え、顔を近づけ見降ろした。
「おい……。寝てるなよ。本当に、わかったんだろうな、南くん。」
「うう……」
二度三度と呆けた顔にビンタをかますとようやく目が合った。もっと!と思い、上げかけた手を降ろした。
「わかった、わかったってば、……揶揄って悪かったよ、」
視界の隅に川名と二条の姿があり、明らかにこちらを見ているようだった。南を置いて急ぎ彼らの方へ向かった。
「おいおい、何であれで、あのまま頭をいかないんだ?つまらねぇキャットファイトだ。」
と第一声二条が言った。つまらん、と言いつつも豪傑は笑って続けた。
「自制したのか?別にいいだろ、あんな奴ら一人や二人死のうと。」
ははは、と笑う横で、川名が咥え煙草をしながら眺めていた携帯をポケットにしまって、顔を上げた。
「遅いんだよ。」
川名は、霧野に煙草の煙を吹きかけた。霧野の周囲を紫煙が漂って纏わりつく。彼はだるそうに、霧野の背後の屋敷の方を眺めていた。
「すみません。」
「足りないのか?」
「え」
川名の視線が素早く口ごたえをした霧野の方に戻ってくる。
「あれだけして、まだ、遊び相手が足りないかと聞いてるんだ。ビッチ。」
霧野が苦笑いしたようになって返答に窮していると、「おーい、南君!」と、川名が南を呼ぶのだった。南は、さっきまでのやりとり、周囲の空気など一切気にせず、というか、本人が気にならないようで、まるで主に呼ばれた犬のようにすぐにやってきた。主は違うはずなのだが。霧野の方が、三好会の面々の様子が気にかかり内心ひやひやしたくらいであった。
「そんなにコイツのことが気になるなら、抜けて、俺のところに来たらいいのに。いくらでも世話してやる。」
川名は持っていた煙草を地面に落とし、踏みしだいた。
「え?いや、その」
川名は、呆然とする霧野をよそに、躊躇う南に向かって「そうすれば、今のようにこいつに突き放されることなく、自由にすることも叶わないでもないんだぜ。どう?どんなことでもできる。」と言って意味深に微笑んで見せたかと思うと、そのままの笑顔で「でも、今の君は仲間でも無いのに許可なく人の私物を触りまわるのもどうかとは思うな。実に不愉快だ。君『ら』には品性がないよ。」と言った。
南は、ここに来てようやく自分が霧野に触りまわったことを責められていることに気が付いて、小さく「しぶつ……、」と繰り返した。川名、二条、霧野の三人に周りから囲まれて、南の存在はどんどん小さくなっていくように見えた。
「澤野の話を聞けば、君は、奴らに不満を抱くことも多いらしいな。抜けるとなればなかなか面倒なのも承知だが、その辺は俺がなんとかしてやろう。あんなところで腐ってるよりこっちに来た方が、お得だぞ。いろんな意味でな。考えておけよ。……さあ、それだけだ、もう行っていい。」
霧野は、明け透け川名が霧野の身体を餌にして勧誘をするのに何も言えずにいた。川名は、南を見送ってから、霧野を軽く見上げ、普段仕事の話をするような調子で次のように言った。
「二条から聞いたが、今日はまだ、誰にも膣の中に出させていないんだって?雌犬。」
「……」
「おい、何を黙ってる。お前に話しかけてんだぞ。返事は?」
「う……」
霧野は、先ほど冴えた己の頭がまたどんどんとぼんやり曇っていくのを感じつつ、目の前の男にまた苛立った。
「なんだ?今更恥じてるのか?じゃあ、口の中に出された回数はァ?」
「……。そんなことを言って、これじゃ、どっちが品性が無いんだか、わかりませんよ。」
「ほぉ、自分に課せられた唯一の任務さえこなせないことは棚に上げ、俺を批判するとは良い度胸だな。」
「……」
霧野はまた川名に何かされることを覚悟したが、その場では何も起こらず、川名と二条はそれぞれ別れて、霧野は川名の方についてくるように言われた。
「二条もよく耐えたもんだな。貴様にぶち込みたくて仕方なかったはずなのに。後でご褒美でもやらないとな。なあ、お前もそう思うだろう。」
「……」
「今日は特別に、助手席に乗ると良い。」
助手席を開けられた。助手席を開けられる意味を考えた。乗り込んでから、思い至ることがあったが、それより先にあからさまに助手席に置かれた紙束が気になった。手に取ってめくり始める。車が動き出す。
「お前に会いたがっている奴らがいるからな。到着するまでに内容をよく頭に叩きこんでおけ。」
それは『偽の報告書』であった。霧野が今まで出してきた報告書の偽造、ところどころ真実で決定的な部分は嘘。木崎の失踪に始まる怪しい所業について三笠組へのなすりつけ、死体の遺棄の暗示、今後の計画について、などなど。
「面談の様子でまた、今後のお前の進退について考えてやろう。……よーくできてるだろう?それ。手書きの個所の半分は俺が字を真似てみた。お前の字は丁寧で美しいが、若干の、抑えきれない右上がりの癖がある。半分は間宮にやらせた。あれで結構いい仕事するよな、アイツ。」
彼は涼し気な笑みを浮かべて、ハンドルを切った。
◆
兄がまた血まみれで帰ってきた。ベッドに寝ころんで獣のようにいびきをかいて寝ていた。血は龍一郎本人の血もあるが、他人の血がほとんどである。
兄龍一郎は、川名義孝が物心ついたころから、そうであった。ケダモノである。ケダモノは力が人一倍強く、異臭を放ち、人の言葉や気持ちなど、一切理解しない。大きな影は夜中家の中を徘徊した。穢れの概念をそのまま人間にしたら、この男になるだろうと義孝は、いつからか思うようになっていた。
”義”両親は、幼い頃こそ、兄の資質を心配したが、成長するにつれ完全に手に負えなくなった彼の非行を諦めて、残った義孝の方に愛情を注力するようになる。しかし、義孝に全く問題が無かったわけでない。成長につれ、龍一郎ほどではないにしろ問題が現われて、このままでは兄と同じ非行を進む予感があった。
特に顕著なのは、義孝がいつまでたっても殺生に全く躊躇いがなく興味を示すことだった。小さな子どもは、蟻や蛙などを殺しても罪悪感を抱かぬが、命の尊さを学習するのと、虫を殺す行為よりもっと楽しい遊びがこの世にはあることを解して、卒業する。しかし、義孝はそうではなかった。
父母は、何度か口で「可哀そうだからやめなさい」と注意し、義孝は「わかったよ」と困ったような笑顔を浮かべて取り繕う。ただ、常識として理解はしているが、心の動きとしては、一切理解できていないのだった。
中学に上がる頃の義孝は、まるで龍一郎とは正反対であった。友人も多く、成績良好品行方正。自ら生徒会に入って自治を行い教員生徒共に支持を得たり、女生徒から手紙をもらったりと、傍から見れば全く問題ないどころか充実しているようにみえた。同じ兄弟で、こうも出来が違うとは面白いと義父母は思った。それから、義孝のことについても、以前より心配するのは止めていた。一時期、兄の影響によるのか思い詰めたようになっていた時期があったが、その傾向も失せたように義父母には見えていた。
しかし、義孝の素行は、義孝が龍一郎を激しく嫌悪した結果、反面教師にして、自分がやりたいからやったというより、意図的に逆を行った結果でしかなかった。そこに何の心も意志も無いのだった。
ついにある日、義父は家の裏で意図的に殺害解体された猫の死体を発見するに至った。それは龍一郎の破壊性を帯びた暴力とは違う、静かで猟奇性の強い暴力の発露、異常な集中力で丁寧に解体され、そのまま標本として飾っても良いほどの出来であった。さらに調べると、それが軒下から五体見つかった。解体技術は五体を通して著しく成長していた。
両親は、義孝の秘められた悪癖を何とか正そうと策を練り、彼が龍一郎とは違う点として、小さい頃から粘度遊びやお絵かきに興味を示し、成長した今でも引き続き図画工作や美術の成績がいいことに目をつけるのだった。つい最近も、美術の授業の中で描いた夏山の風景画が、学生向けコンクールに入選していた。それから、彼にこう言った。
「俺はお前が何をしているか知っているぞ。」
「……。」
義孝は父親からの指摘に、父に呼ばれてにこにこしていた顔から白けた顔に変わって「だったら何。」と言った。
「何がわかるんです。」
とさらに続け、ふてくされた。
「わかるかわからないかで言ったら、俺はお前がわからない。違う人間なのだからな、当たり前だ。」
義孝は意外そうな瞳で父を見上げたが、また猜疑的な瞳をして「ふーん、まあ血も繋がってないですしね。」と思春期相応の生意気な口をきいた。
「心配しなくてもアイツのようになる気は無いから、迷惑もかけてないし。」
アイツとは言うまでもなく、龍一郎のことであった。龍一郎は義孝が中学に上がるころには、ほとんど家にいつかなくなっていたが、たまに家に帰ってきた。義孝は、彼の靴があるのを発見すると家に上がるのを止め、外で何時間でも時間を潰した。
その理由を、義父母は単に仲が悪いと解釈しているようであったが、それ以上の問題が横たわっていた。兄弟で年が五つ六つ離れていることもあり、義孝はその概念を知る前に、事故のように巻き込まれ、ようやく思春期ともいえる最近になって己の身に起きていたこと、兄の行動の意味の全てを理解したのだった。
何度か、養父母らにこの件を言うべきなのだろうかと思って、しかし、実際善良な彼らを目の前にすると、とても口にする気は起こらず、取り繕う癖だけがうまくなる。
「本当か?お前には龍一郎と全く同じ破壊衝動があるだろう。」
義孝は、義父を見ながら、握った拳の中が湿り始めるのを感じていた。頭の奥の方がどくどくする。
その通りかもしれない。しかし、それをお前にとがめられる権利があるのか。
「今更隠さなくても良い。隠そうとするから、ああいったものを作るに至るんだ。」
「うるさい……!」
今まで聴いたことの無いような獣じみた低い声に義父は驚いたが、動揺を隠した。地の底から上がってくるようだが、妙に頭に爽やかに響き、残響する声であった。もしかしたら、この子は初めて本当の感情を見せたのかもしれないと、義父は動じながらも、その場を急ぎ去ろうとする義孝の腕を強くとって諫めた。今ここで逃したら、永遠に対話の機会が失われるように思った。
「まあ待て。別に俺はお前を辱めようとしているわけじゃない。お前はこの件とは別に、絵を描くのが好きだな。俺もたまにお前の創ったものを見るが、絵のことがわからん俺でも、いい絵だと思うし、誇らしい。」
握った手の中の腕が軽く弛緩しするのがわかった。
「お前の中のエネルギーは、常人のそれとは違うらしい。別にそれは悪でもなく、エネルギーが大きいことは使い方さえ誤らなければ、寧ろ素晴らしいことだ。だったら代替する何かにそれを注ぐのがいい。無理にやれとは言わない。大体お前の周りの連中も今、教師か親か周りの影響か、部活やスポーツに打ち込んでいるだろう。アレはなぜか?有り余るエネルギーを抑制させ、統制するためだ。わかるか?お前は自分で自分を無理に抑制しようとして奇妙な方向へ進もうとしている。だから、もし次にやりたくなったら、代わりに絵を描くか、お前の気に入っている画家、なんだったか、忘れたが、それを見て模写でもしてみるんだな。絵の中で解体してみたって良い。骨格から描くのは学びになるらしいからな。」
義父は、義孝を掴んでいた手を離した。義孝はしばらく軽く俯いたまま立ちすくんでいたが、黙ったまま静かに義父の前を去っていった。義父はその背中に声を掛けようか迷い、止めた。翌朝顔を合わせた時には何事も無かったかのようにふるまい、笑顔さえ見せた。義父は自分が言ったことが彼につたわったか不安になるのだったが、ある日、こういう画材が欲しいと相談してきた彼に幾らかの手ごたえを感じるのだった。
義父には絵がわからなかったが、彼の衝動の発露は全て褒めた。素人目に見ても精巧な絵が多く、細部まで異様なこだわりで時に部屋に何日も籠って描いていた。悪癖は一切消えたように見え、それは義父母にとって喜ばしいことであったが、絵に賭けるエネルギーが多いほど、表面には表れない彼の中身、表に現れない衝動や感情の波の大きいことを意味していた。絵は猫の解体と同様に上達する。
そうして、進路を考える頃になり高校生になった義孝は、自然と美大の受験を考え始め予備校に通っていた。その矢先、夏のことだった。数年前から所在不明となって長いこと顔も見ていない兄が破産、凶悪事件を起こした上蒸発、実家どころか一族の資産を持ち逃げし、結果として進学どころではなくなったのである。
「あの野郎……相変わらずダニだな……」
義孝は、親戚や世間からも責められて憔悴し、別人のようになってしまった両親と共に暮らすのも嫌になり、彼らが義孝に龍一郎の面影を見て嫌な気分を起こすだろうと思い、家を出た。そして、何とか稼いで彼らのために送金しようと思った。兄の蛮行を思いのほか、周囲が騒ぐ中自分一人だけが冷静に受け止めていた。あーあ、やると思った、と言う感想でしかなく、ともすれば、アレは自分であった。
絵で喰っていくつもりであったが、何の実績もない。兄のこともある。自然と脚は、背景など関係なくリスクさえ背負えれば大きく稼げてしまう裏社会に向き始めるが、まだ絵で喰いたいという気持ちと兄と同じになることを考えると、どっぷりとその世界につかることを良しとしなかった。そして、絵が描けなくなると、肉体の中、脳髄の奥底に業のようなものが溜まって苦しいのだった。
ある日、悪い仲間が、義孝のアパートを訪れた。彼は余暇に描いたイラストを見て、これを身体に彫りたいと言った。彫る、その発想は無かったが、義孝はそう言われてからと言うもの、人体に直接針を立てて血に交じって絵を描くイメージにとりつかれて、よく眠れなくなった。己の身体で練習する気は起きないが、被検体がいるのであれば、昔、本を見ながら猫を捌いた時のように、やってみてもいいかもしれない。
義孝は、用具をとりよせた。そして、悪い仲間に、見よう見まねで絵を施すことを副業とし始めた。これが良い評判となり、弟子に迎えたいという格式高い彫師まで現れ、三年ほど弟子入りの名目で人の下で働くことになる。経験の浅さから安値で請負、表面上の人当たりの良さからも裏社会の中でそこそこの名を売った。
本来やりたかった絵も続けていたが、こちらが売れる様子は一切ない。兄の名前で箔が付くのは結局裏社会だけであり、箔が付けばまだ良い方で代わりにどこそこの、顔も知らない借金業者に追われる始末で、よく偽名を使った。彫師は便利で芸名、屋号でも売れ、その方が覚えてもらえる。しかし、表に出られず、沼底に引っ張られていく感覚はどんどん大きくなった。
たとえ人の皮膚の上だとしても、好きな絵が描けるなら、そう思うが、次第に流れる血を目にし、匂いを嗅ぎ、昔昇華させ消滅させたはずの感覚が、疼くのであった。彫っている間も喉の奥が痒く、疼き、そのまま、この針を、機械を、と思うことが増え始めた。それは、義孝の狭いアパートメントに、立てかけられた絵の数々にも表れた。下の方に埋もれた絵はおだやかであるのに、上に積まれた絵程、過激なものになりつつあった。アパートの一室は一つの繭のようであった。部屋の中心で蹲っていると、心の奥底に倒れ込んでいるようだ。
真夏だった。閉め切られた部屋は蒸して油絵具の匂いに満ちてた。四方に立てかけられた欲望の発露の中心で横たわる。トクン……トクン…‥自らの心臓の動くのを感じた。昔から、今にも止まってしまうのではないかと思う程異様に遅い心拍数であった。
このままでは、どうにもならなくなる。
暗い部屋の中、黒い絵画の数々に囲まれながら、もう、弟子を止めようと思い、誰にも何も言わず、勝手に抜けた。しばらくアパートから出てホテルを転々とする。破門同然で二度と彼らに顔向けできない。それでも人づてに注文は殺到した。値段を吊り上げ、わずかな顧客だけが残った。狭い業界での評判は、最悪を極め、手のひらを返したように悪評が広まる。別に、それでよかった。それがよかった。
ほとぼりが冷めて、誰にでもウケそうな可愛らしいイラストを売ってギリギリ食いつなぎ、どうしても金が足りなくなった時だけ陳腐な犯罪に手を染める生活になった。犯罪をやる場合は、誰かに使われるよりも、標的のこと、全体を把握して統率するのがよく向いており、企画して仲間を集い実行する方針をとった。
人よりも倫理観というものが乏しい自覚があった。心を痛むべきところで、うまく「痛むことができない」。
それは恥ずべきことであり、それゆえ、己の欲望をそのままいく兄と違って繕うことを覚えたのだ。闇の仕事の中では、倫理観が無いがゆえに人より思い切った計画と指示ができ、誰か逃げた場合、肩代わりして実行も厭わないのだった。悲しいことにイラストを描く何十倍もかせげ、評判も高まる。
一方、絵画どころか、せっかく注文を貰ったイラストにまで、邪な欲望の影響が出始めて、部屋の中で一人呻いていた。開けてはいけない、邪門のようなものが開きそうになるの押さえつけた。誰かと組もう、徒党を組もう、事業をしよう、という話が持ち上がるが、伸し上がるというより転げ落ちるような気がして、すべて拒否した。
金にならない絵を描いている時間だけが、生きている気にさせた。しかし、それは誰にも求められない。
世の中に、生きることを許されていない。
もう、どうにもならなくなるくらいなら、このまま一生終わっていっても別に良いと思った。
犯罪で稼ぐことも自らの意思で断ち、親への送金もできずその日暮らしでいた。食うものもなく、食欲もなくなっていった。しかしペンと筆だけは動いた。身体の奥の方がドクドクとして、血が、力強く全身に供給されていく。寝もせず食べもせず描き続けて三日ほどたったある日のこと、悪い仲間づてに、本職の人間から墨の注文が届いた。すっかり名前も忘れ去られたと思っていたのに、どこで噂を聞いたのだろう。しかし、裏社会とのつながりを薄くしている最中であり、迷惑だった。
ヤクザ、本職の人間と関わると、ろくなことにならないのはわかっている。もう随分彫り物はやっておらず、腕が落ちたから、とてもできない、と、断った。しかし、悪い仲間は「断ると俺が殺されるかもしれない」と言いすがり、引き下がる様子を見せなかった。自分と同じような社会のダニ、彼の命自体はどうでもよかったが、万が一おこるかもしれない義両親への被害のことを考え、しぶしぶ承諾した。何癖付けて、断ろうと思っていた。
「一千万、ですか?」
迎えに来た車の助手席に座った男が、義孝が渋っているのを依頼者の男が既に見抜いており、一千万出すと言っているというのだ。余計に嫌になった。バックミラーに写った自分の顔を見た。食っていないせいで焦燥して顔つきが悪くなり、薄っすらと龍一郎の面影を見て、吐き気がする。
車は大きな門構えの屋敷に入り、奥の畳の部屋で待つようにと通された。待っている間、断る方法、パターンをいくつも考え時間を潰した。常人であれば、本職の人間の屋敷の奥に通されれば、緊張で頭の奥も白くなろうが、もはや一生終わろうがどうでもよいという精神性に至った義孝には、そのような緊張は一切なく、飽き飽きとした調子で、床の間の掛け軸を観察し始めた。最初何の絵かわからなかったが、よく見れば花びらを散らす真っ赤な椿の絵であった。
「なんだありゃ。酷い絵だな……」
アレだったらまだマシなものが描けるはずだ。あんなゴミが高値でやりとりされ、ヤクザの家に客間にかかっていて、己の家にある絵が売れないのは納得がいかない。消えかけていた炎がまた小さく揺らいだ。その時、川名の中の炎のゆらぎに合わせたように障子が開き、ひとり、若い和服の男が入ってきた。
「やぁ、待たせちゃったかな。」
男は色白い顔の上に、柔和な笑顔を浮かべ、のろのろとした調子で向かいに座るのだった。やわらかい雰囲気の中、本当に笑っているのかどうか、よくわからない。裏社会では笑顔というのが一番怖いのだ。また、のろのろした調子も気になった。ここまで義孝を連れてきた人間がきびきびと動くのに対して、動作がひどく緩慢で、誰にも指示されることがないであろう立場であることがわかる。
「俺のことは聞いてる?」
「いえ、なにも。」
目の前の男が誰であるか、敢えて情報が伏せられているのだろうと思った。格の違いでビビってしまうであろう若造のために、だ。
「そうか、じゃあ、そのまま黙っていようかな。」
男はにこにことしたまま、図案を見せてくれないかと言った。
「何も持ってきていません。」
「なに。」
笑顔の下で彼の顔の筋肉が強張ったのが見え、義孝は一瞬恐怖と言うより、優越感にひたりながら、顔を伏せた。今まで多くの人間を自分の思う通りにさせて来たのだろう。そう思うと、愉しくなった。
「断るつもりで来ましたから。」
少しの沈黙の間、義孝は畳の目を見ながら、向こう側に座る男の表情を空想して愉しんだ。
「そうか、それは仕方がないなぁ。」
向こう側から間延びした声が聞えて来た。伏せた顔の下に、白紙の紙とペンが投げ渡された。
「そこに何か描いてみろ。」
ペンをとり、顔も上げずに、畳の上でサラサラと散りかけた椿の絵を描いて見せた。紙を持って顔を上げた。
「そこの、下手糞の代わりです。」
そのまま、紙を持っている手の人差し指を立て、掛け軸を指さした。それから続けた。
「センスないよ。」
くくく、と久しぶりに喉の奥から笑い声が出た。数年ぶりに笑ったかもしれない。反対に目の前の男は笑顔を失った。笑顔の仮面がとれて、やけに澄んだ鋭い目つきがあらわれた。殺されてもどうだってよかった。男は、そのまま今度は表情をやわらげ呆然として「へぇ~」と言い「やっぱりお前に頼みたい。」と言うのだった。
「なに?」
「いや~俺もアレはどうかしてると思ってたんだよ。椿っていうよか肉片みたいだろ~。でも周りや親父がいいものだから、誰それの何だからと祭り上げ歴史を自慢する。だから、一応アソコに置いてあるんだ。それにこの短時間で描いたにしてもお前の絵はやっぱり俺の好みの絵だ。噂によればお前はまじめな絵も描くらしいじゃないか、見せてくれよ、俺に。」
「ですから、持ってきてないと」
「じゃあ、今からお前の家に行こう。」
おい、と口に出したのは、どちらが先だったか障子が両開き、先ほどの運転手が現われた。そうして、狭いアパートに彼とひざを突き合わせて向かい合うことになった。彼はふむふむ言いながら、勝手に部屋中漁って散らかしては、丹念に絵を眺めていた。狭いアパートに似つかわしくない和服の男、それからスーツを着込んだ巨体の運転手が玄関ドアの前に控えていた。
「良いじゃないか、言い値で買ってやる。」
「……そんなことをしたって、俺は彫りませんよ。」
「あは!別にお前の機嫌をとろうってわけじゃなく、本当に良いと思ったから言ってるんだよ。」
「……。」
義孝がいつまでも渋るので「わかったよ、今日は帰るよ。」と男は言って絵を一枚運転手の男に持たせた。
「勝手に!」
「ほら」
どさ、と、見たことないほど厚い札束が一つ目の前に堕ちてきた。
「いりません。」
札束を見たまま言った。男を見上げたくなかった。
「いらないというなら、貨幣として使わず文鎮にでも使うがいい。」
男は札束を足で川名の方へ、ずいと押し、そのまま去っていった。
男は結局名乗りもせずに、アパートを出ていった。男が選択した一枚は、義孝が自信作と思って気に入り、繰り返し上から修正を加え可愛がっていた3枚の絵の内のひとつであった。月下の荒野を、徒党を組んだオオカミの影が交わりあり合いながら走っていく。それぞれのオオカミの影は影の一部どこかしら他のオオカミと重なるように描かれて遠くから見れば、一つの生き物のようにも見えた。
義孝には、心を共にできる友、仲間というものがなかった。学生の頃の虚構の自分に付き添う人間は、表面上は友人と称したが、本当の意味の友人でも仲間ではない。今の悪の仕事仲間については憎悪軽蔑さえしていた。
どこにいても、自分一人、ケダモノであった。それは兄と同じ感性であったが、兄の仲間になることは、死ぬのと同じだった。だから、空想の中で執念を込めてケダモノの己を美しく描いてみせたのがその絵だった。それが今持ち去られてしまうと、あれだけ手元を離れろと思っていた絵が今は恋しい。
意思を込めて生み出した絵は己の半身のようなものだ。
それが初めて誰かに持ち去られて、不思議な空虚感と充実感が交互に生まれては消えるのだった。
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