ニート 終末 人間兵器

沢谷 暖日

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第三章 ニートは運命に抗えない

003

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『朝七時のニュースをお送り致します。先日熊本県大牟田市を襲った空襲ですが、先ほど行われた政府からの会見によると戦闘機を飛ばした国とは既に和解済みだとのことで──』
 どうやら昼夜逆転していた僕の生活リズムは逆転したらしく、今日は早くに目が覚めた。
 食欲はないが、口にした母さんの卵焼きは相変わらず甘いと感じた。一応食べ物は胃の中に入るらしく、そうなると排泄物がどうなるか不安ではあったが、少しくらいなら大丈夫だろう。と、現在は家族揃って食卓を囲んでいる。
「…………」
 今流れているニュースの内容も気になったが、それ以上に気になるのは玲奈の様子だった。昨日が臨時登校ということで今日は休校らしいが、別に学校に行けないから悲しんでいるというわけではもちろん無いと思う。だとしたら……どうしてだろう?
「ごちそうさま」
 玲奈は食事を終えると、雑に食器をシンクに戻しリビングを後にした。
「玲奈はなにかあったのか?」
 父さんが食後のコーヒーを飲みながら、皿洗いをする母さんに問う。
「私はなにも聞いてないよ。……昨日の空襲で不安になっているとか?」
「あぁなるほど。だが政府の会見を聞く限り、怯える必要はなさそうにも思えるが」
「……そうよねぇ。昨日の学校でやっぱり何かあったのかしら」
 両親も玲奈の様子がおかしい原因については分かっていないようだった。
「うーん。玲奈は玲奈なりの悩みがあるんだろう。しばらくはそっとしておこう」
「そうね。……あ、成瀬。食器こっち持ってきてくれない?」
 突然に名前を呼ばれ、僕は「あ、うん」とテーブルに残された父さんの食器を持ってゆく。
「ありがとー」
 嬉しそうに答える母さん。
 その横顔に僕はしばし視線を固定させて思案した。
「……成瀬?」
 霧子さんによれば、僕たちは世界を救うべく兵器に改造されてしまったのだ。霧子さんは僕と笑い合う未来を見たというが、少なくとも僕らは危ない目に遭ってしまうはず。もしかすると、家族と二度と会えない、なんて状況になる可能性があるかもしれない。
 僕は昨日の夜、寝る前に自身の今後についてを色々と考えていた。
 これまで両親を心配させてきた分、出来るうちに恩返しをしたい。
 失ってからでは遅いことを僕はよく知っている。
 ただの、自己満足であっても、僕は親孝行をしたい。
 そう思えるほどに、僕の心は今、目まぐるしく変化していた。
「母さん。お皿洗うよ。最近、迷惑もかけたし」
 僕の言葉が予想外だったのだろう。
 母さんはしばらく目を丸くすると、最後ににこりと微笑んだ。
「それじゃあ、お願いしようかしら」
「うん」
 僕が頷くと、母さんは食卓に戻った。
 隣に座る父さんに何かを耳打ちした後、父さんの顔がこちらを向く。
「お。今日は成瀬が皿を洗ってくれるのか。任せたぞ」
 彼の顔もまた嬉しそうだった。
 こんな皿洗い程度で喜ばれるなんて、僕はこれまでの親不孝っぷりを思い知らされる。
 僕は苦笑を返し、皿洗いを再開させた。その間、僕は先ほどのニュースについてを考える。
 ──戦闘機を飛ばした国とは既に和解済みだとのことです。
 果たして、本当にそうなのだろうか。
 霧子さんは将来的に第三次世界大戦が発生すると言っている。
 いや、彼女の言葉を盲目的に信じすぎるのも良くないとは思うのだが、それでもあの時の彼女が嘘を吐いているようには僕は見えない。だからきっと戦争は始まるのだ。
 それを踏まえると『和解済み』だというのはいささか不可解に思えた。
 事実であるのならば、それが一番良いことなのだけど──。
 ──カシャーン。
 と。その時、僕の足元で皿が割れる音がした。
 数拍遅れて足元を見れば、今さっき洗っていた皿が割れている。
「成瀬、お皿割っちゃった? 大丈夫? 怪我は?」
 慌てて駆けつける両親は、不安げに問うと、地面に散らばったガラス片を回収し出した。
「……あ、ごめんなさい」
 僕はかなり遅れて謝罪の言葉を吐き出した。
 僕は現実を受け入れるのにかなりの時間を要していた。
 しっかり洗っていたはずなのに、落としてしまうなんて、と。
 それほどまでに、思考に意識を持っていかれていたのだろうか。
 せっかくの親孝行のつもりが結局親不孝になってしまい申し訳なく思った。
「気をつけてね。残りの皿、洗おっか?」
「ごめん、やるよ。……次からは気をつける」
 やがて僕が皿洗いを完遂させ部屋に戻ろうとすると、母さんはシンクで皿の洗い残しをチェックしていた。どうやら僕に親孝行は、まだ早かったのかもしれない。

 時刻は午前八時。
 部屋に差し込むカーテンからの朝日は、やけに気持ちいい。
 しかしその気持ちよさを掻き消すようにセミはうるさく鳴いていた。今の気温が四十三度であることを踏まえると、今の気温を嘆いているようにも聞こえてくる。
 僕は室内のクーラーの温度を少し下げると、机上にあるスマホを手に取った。
 ……霧子さんからの返信はまだない。
 代わりにネッ友のアカサタからの連絡が届いていた。
『ナル氏。最近、返信が遅くないか? 俺に内緒でバイトでも始めたか? それとも彼女か? じゃないとしたらなんだ? 俺はこれでもかなりナル氏のことを心配しているんだ』
 その本気で心配してくれていそうな文面に、僕は思わず笑みがこぼれる。
 最近全く構ってやれていなかったが、僕とアカサタはかなり仲が良い。
 同年代ということもあるだろうが、それ以上に僕と彼は趣味が合うのだ。
 僕がニートをしている際、心をそれほど病まなかったのは彼の存在が大きい。
 彼もニートなのに、やけに達観している。ある意味ですごいやつなのだ。
 彼は東京住みなので会うことは叶わないが、いつか東京に行く機会があれば会ってみたい。
『ごめんごめん。最近色々立て込んでていてさ。今日は多分、ずっと暇だよ』
 返信をすると既読はすぐについた。……ほら、ほんとにある意味ですごいやつだ。
『今日はやけに早起きじゃないか。いやそれとも徹夜明けか?』
『なんと今日は早起き。さっきまで皿洗いしてたよ』
『ほう。つまるところそれは親孝行だな?』
『まぁ僕の親孝行もどきに、一枚の皿が犠牲になったんだけど』
『気にするな。親孝行に優先されるのは己の気持ちの方さ。ナル氏の両親も喜んでくれたことだろう。……しかし、ナル氏が連絡を入れてきてくれて嬉しい。最近妹氏の暴言が酷いと言っていたからな。自害の可能性も心のどこかで考えていてしまったんだ』
 ドキリとする。霧子さんが崖に落ちた僕を助けてくれなければ、不慮の事故とはいえ、あれは自害としてアカサタに伝わっていたのかもしれない。
『まぁ確かに妹の暴言は酷かったな。……だけど昨日を境に妹は落ち着いたよ』
『妹氏になにか心の変化でもあったのか?』
『いや分からない。そもそも落ち着いたってより「変」って言った方が正しいかも』
『変か。……なるほど、それはどのような風にだ?』
『まぁ、暗いかな。暴言が全然飛んでこないし、ご飯もあまり食べられてないみたい』
『なるほどな。ふむ。ならば、考えられる可能性はこうだ』
 アカサタは少しのためを入れると、ズバリ言ってのけた。
『女の子の日、だな』
 んな訳なかった。
『日にち関わりなく、妹はいつもキレてるよ』
 僕が指摘すると、アカサタは『違う違う』と前置きをして──。
『逆だ。女の子の日が来なかったんだ』
 もっとんな訳なかった。
 アカサタは察しが良いやつではあるが異性が絡むとポンコツになる。
 そもそも玲奈は恋愛にうつつを抜かすような性格ではない。彼氏がいるにしても学生のうちは常識の範囲内で恋愛をするはずだ……と思う。が、少し不安になってもくる。
 玲奈のことは家族なのである程度知っている気ではいたが、考えてみると最近の彼女についてはあまり理解ができていないのかもしれない。人の性格なんて二、三年あれば簡単に変わる。だからもしかするとアカサタが指摘したような可能性もあり得るかもしれなかった。
『たしかに考え出すと心配だな。……ちょっと様子を見てくるよ』
 僕はアカサタにメッセージを送り、妹の部屋へ歩みを寄せた。
 これはもしかすると、余計なお世話ってやつなのかもしれない。
 まぁ嫌がられた時はその時だ。聞いてみるだけ聞いてみよう。
 家族孝行はいつまでもできると限らないのだから。
 と、僕は玲奈の部屋の前でピタリと足を止めた。
「…………」
 玲奈の部屋に入るのは、中学生の時以来だろう。僕が義母さんに拾われた当時は随分と懐いていてくれたことを思い出す。だが彼女が思春期に入ってからはあまり僕とは関わらなくなり、無関心的な目で僕を見るようになった。それが今や家に住み着くゴキブリのような目で見るようになっているので、そもそも部屋に入られることを望んでいないのでは、と嫌な考えがよぎる。ここで帰るか、部屋に入るか、どちらを選べば後悔しないかをしばし自問自答し、少し自己中的かもと思いつつも、僕は玲奈の部屋のドアをノックした。
「玲奈。……すこし、いいか? 大事なことなんだ」
 数秒後ドア越しから、くぐもった声で「うん」と返ってきた。
 門前払いを覚悟していたので、それは意外な返事だった。
 僕は緊張した思いで「入るよ」と部屋のドアを開く。
 一瞬、玲奈の姿はどこにもないように見えた。
 だが次に、ベッドの上にできた大きな繭を見つける。
 どうやら玲奈は毛布にくるまっているらしい。
 その様子から、彼女に何か嫌なことがあった、というのは明白だった。
「なに? 大事なことって」
 顔も見せないまま、くぐもった声を僕によこす。
 僕は慎重に言葉を選んでから、できる限りの優しい声をかけた。
「いつもと様子が違うから。なにかあったのかなって、思ってさ」
 ぴくりと、丸まった毛布が動く。どうやら的を得てるらしい。
「僕でよければ、何があったのか教えてほしい。いや……自分で解決できることなら言わなくてもいい。……だけど、僕にでも解決できそうなことであれば──」
「もう、どうにもなんない」
 僕の声を、玲奈の冷ややかな声が遮った。
 毛布がもぞもぞと動き出して、玲奈は顔を見せる。
 目は充血し、涙の流れた跡がくっきりと頬に残っていた。
「私の──たった一人の友達が、隕石に殺された」
 玲奈は表情は、そしてすぐに決壊した。
「…………」
 僕はその時ようやく、隕石によって変貌させられた日常を見た気がした。
 同時に、僕たちが考えていた可能性がいかに馬鹿馬鹿しいものだったか思い知らされる。
「……玲奈」
 そうだ。
 僕の周りが何も変わっていないからと、僕は今の状況が普段と変わらないと感じていた。
 隕石が二つも日本に落ちて、熊本に空襲が訪れているというのに、普段と変わらない?
 そんな馬鹿な訳が無い。僕が知らないだけ、玲奈のような思いをしている人はきっと何万人もいる。そんな簡単なことに、僕は気付くことが出来ずにいた。
 今僕たちは、命の危機はすぐ隣にある状態で生きている。普通の日常というのは簡単に崩れてしまうことを、僕は過去から学んだはずだったのに……失念していた。
「……出てって」
 玲奈は再び毛布にくるまると、吐き捨てるように言った。


『ということらしい。……余計に妹のこと傷付けたかもしれないです』
 僕は部屋に戻り、アカサタに事の顛末を伝えた。『嫌なことを考えてしまっていたな』とアカサタは申し訳なさげなメッセージを送った後に『だが』と続けた。
『会者定離さ。世の中は無常、永遠不変のものなんて存在し得ない』
 会者定離、か。
 まさかここでアカサタからその言葉を聞くとは。
『妹氏のそれは時間が解決してくれるものさ。ナル氏が妹氏の話を聞いてあげただけでも、それは彼女のためになったと俺は思う。気に病む必要はない』
『はは。アカサタは優しいね。うん、今は妹のことはそっとしておくよ』
 アカサタのメッセージに僕の心は軽くなる。彼は相変わらず良いやつだった。
 『俺は今から仮眠するよ』とアカサタから届いたところで会話は一旦終了する。
 と、その時、暇になったタイミングを見計らうように誰かから電話がかかってきた。
 電話をかけた人物が霧子さんであることを確認すると、僕はすぐに応答した。
「もしもし」
『あ、成瀬くん。もしもし、霧子です。今時間あるかな?』
「うん、全然大丈夫。ところで昨日は急に帰ったけど、あれってやっぱり……」
『うん。成瀬くんの想像通りだよ。会者定離システムで連れてかれたの』
「……なにかされたの? 大丈夫だった?」
『大丈夫。あれはメンテナンスだから』
「メンテナンス?」
『そう。そのことについて成瀬くんに伝え忘れていたことがあるの?』
 僕は固唾を飲んで、彼女の言葉を待った。
『えっとね、私たちの体には不定期にメンテナンスが施されるの。そのために突然、体を操られて施設に連れてかれる。成瀬くんの体にも、もうじきメンテナンスが来ると思う』
「…………それは」
 酷いな、と思う。
 もう僕に自由はないのだろう。
 なら尚更、やるべきことは今のうちにやっておかないと、と思わされる。
 親孝行も、自分自身がやりたいことも。
『……ごめんね。成瀬くん。ほんとに申し訳ないって思ってるの』
 彼女の声に、昨日のような感情の起伏はさして感じられなかった。
 だけど、僕も彼女の心の内は知っているつもりだ。
 今更、彼女を咎める理由なんて何一つ存在しない。
「気にしないで。僕、結構今の現実を受け入れられてきてるから」
『ありがとう。ほんとに、成瀬くんでよかった』
「いや、はは。別になにも大したことは……」
『んーん。普通の人じゃきっとこうはいかない。……だからさ、お詫びと言ってはなんだけど、成瀬くんのお願いなんでも聞いてあげる。私にできることなら、だけど』
 ん? 今、なんでもって?
 僕としては願ってもない提案だが、霧子さんはいいのだろうか。
 考える。なにか彼女にして欲しいことはないか。
 以前の僕であればすぐに思いつきそうなところだが、なんでもと言っても限度があることは分かっている。僕は今したいことを含めて考え、やがて一つを思いついた。
「霧子さん。今から会える?」

「おじゃまします」
 電話から約一時間後、霧子さんは僕の家にやってきた。
 僕が彼女に提案したのは『一緒に料理をしよう』というお願いだった。
 霧子さんは『本当にいいの?』とむしろ怪訝そうに問うたが、僕の提案はただの料理ではなく、家族全員分の料理を作ることだ。つまり僕の家族孝行、あるいは余計なお世話に無理やり付き合わせるということになる。だから僕にとっては十分すぎるお願いだったのだ。
「上がって上がって。材料はさっきに買い足してきたから安心してよ」
 僕は霧子さんはリビングにまで案内する。
 両親はもう仕事に出掛けていた。こんな世紀末な状況であれ普通に仕事があることに、若干違和感を抱くが、だけどそうでもしない限り社会は回らないのだろう。
「うん。でもまた突然だね、料理がしたいだなんて」
「やっぱりそう思うよね。……けどさ、こんな体になってしまった以上、もう僕はまとまな生活を続けられることはできないんじゃないかって。だからそうなる前にせめて、家族に感謝の気持ちを伝えたいんだ。……そのために、今日の晩御飯を作ろうって」
 僕が自らの心情を吐き出すと、霧子さんは申し訳なさげに「そう」と言った。
 慌てて僕は「僕は別に、この体になったことを後悔していないから」と弁明する。やはり霧子さんは未だ気にしているのかもしれない。
「……分かった。それで、なにを作るの?」
「無難にカレーライスかな」
「あの、成瀬くん。別にそれなら一人で作れるんじゃない?」
「それが、料理経験なんて今まで一切ないから、簡単な料理でも不安で……」
「なるほど。それなら任せてよ。私、一応趣味が料理だから」
 と、半袖なのに腕まくりのポーズを霧子さんはとる。
「頼もしいよ。それじゃあ、よろしくね、霧子さん」
 ということで、霧子さんのカレー作り講座が始まった──のだが……。
「成瀬くん、玉ねぎを切るのに水泳ゴーグルはいらない」
「それは猫の手じゃなくて握り拳」
「人参を千切りにしてどうするの?」
 ……と散々な言われように、散々な料理技術だった。
 だけど『初めてにしてはいいと思うよ』と(真顔で)慰めてくれたので、そこまでダメージは受けずに済んだ。もし霧子さんに依頼をせず一人で料理をしていれば、確実に酷いできのカレーが完成したことは火を見るより明らかだっただろう。ここまでグダグダなのは間違いなかったが、野菜を切り終わってからは順調に進んだ。
「うん。とろみがつくまで混ぜれば、もう完成だね」
 既に目の前には、どこに出しても恥ずかしくないカレーが出来上がっていた。
 相変わらず匂いは一つもしなかったが、味見をすると美味しいのが分かる。その事実に達成感を覚えながらカレーをかき混ぜていると、霧子さんは思い出したように「そういえば」と口にした。
「今って多分、食欲とかがないよね?」
「うん。……なんなら便意とかもない」
「だよね。別に食べ物は口にしていいの。だけど、食べすぎないでね。推測でしか無いけど、腹にモノが溜まるとメンテナンスの頻度が多くなると思うから」
 なるほど、と僕は頷く。
 不定期に行われるという僕たちの体のメンテナンスは、身体の中にある不純物等を取り除くために行われるものなのかもしれない。そう考えると確かに納得がいく。
「気をつけるよ。なるべく食べないようにする」
 と言いながら僕はなんとなしに時計を見やる。時刻は既に十一時を回っていた。
 一食分を作るだけでこれだけの手間がかかってしまうのだから、毎日毎日ご飯を作ってくれる母さんの苦労を感じる。その苦労を思うと、これからも出されるであろう母さんの手料理はしっかりと食べないといけないと思う。同時に、これまで晩御飯を度々残していたことが申し訳なく思えてきた。だけどその苦労を感じることができただけ、今日は収穫があったんじゃないだろうか。僕は改めて霧子さんに「今日はありがとう」と伝える。
「これくらい全然。……もうそろそろ、とろみがついてきたんじゃないかな」
「あ、そうだね。えっと、これに蓋をして冷蔵庫にしまえば完成?」
「うん。夜に食べるときはそれを同じ用量で温めればいいだけだから」
 分かった、と僕は頷いてから、完成したカレーの鍋を冷蔵庫に仕舞い込んだ。
 僕はようやく一息を吐いて「霧子さんはこれからどうする?」と問いを投げる。
 霧子さんは少し悩んだ素振りを見せると「成瀬くん、まだ時間ある?」と首を傾げた。
「もちろん。えっと、また何か料理を教えてくれるとか?」
「いや。あ、別に料理を教えてもいいんだけど、家に帰りたくなくて……。もう少し成瀬くんと一緒にいたいって思って。迷惑じゃなければ……だけど」
「全然、大丈夫だよ」霧子さんといられるのは、僕も嬉しいから。
 心の中で、勝手に続きの文章が綴られていた。心の内のことなのに、そんな恋愛脳なことを考えていたことが恥ずかしくって僕は「さぁいこっか」と彼女の顔も見ずに歩き出す。

 小学生の頃も霧子さんは度々家に帰りたくないと言っていて、学校の裏山で二人してお話をしていたことを思い出す。その頃はなにも考えなくったって話題はポンポン浮かんでいたのだけど、今となってはそれも難しくなっていた。彼女を退屈させるわけにはいかないと心のどこかで焦りを覚えながらも、僕たちの間を現在は沈黙が流れている。
「…………」
 帰りたくない、というのが彼女の望みならば無理に話す必要もないとは思うが、それだと僕の胃が持ちそうにない。何を話そうか話題の選択を試みるが、今の彼女が僕に何を求めているのかが分からないので、なんとなく話も切り出し辛かった。
 と。その時、僕は彼女と目が合った。というより、彼女の顔に視線を向けると、自然と目が合ってしまっていた。彼女は無言で、僕の顔をじーっと見つめていたのだ。
「……霧子さん?」
 僕はとうとう口を開いた。
「……成瀬くん」
「うん。どうしたの、僕の顔に何かついてたりする?」
「いやついてない。……ごめん、ちょっと確かめたいことがあったの」
「確かめたいこと?」
 霧子さんの不可解な発言に首を傾げると、彼女はゆっくりと頷きを返す。
「今日で確信した。……私は、おかしくなっている」
「おかしく? それって?」
 結局、彼女の発言は不可解なままだった。
 僕の問い返しにも彼女は反応しない。
 だけど、その代わりと言ったように僕に距離を詰め寄ってくる。
「ねぇ成瀬くん。少し、いい? 嫌だったら言っていいから」
 霧子さんは僕の両肩を頼りなく掴んだ。
 そして彼女の顔が僕に急接近をする。
 目と鼻の先、とはまさにこのことだった。
 それこそ、一つでも間違えればキスでもされそうな距離。
 僕の心臓は否応無しに高鳴った。顔が簡単に紅潮し、一瞬に耳まで熱が伝わる。うまく焦点が定まらず、嗅覚を失ったはずの鼻がくすぐられるような感覚すらも覚えてしまう。
 仮にも霧子さんは、僕の初恋相手。そんな彼女にこんな距離まで迫られてしまったら、もう僕は正気では済まない。呼吸をすることすら申し訳なく感じ、つい息も止まってしまう。
「……き、霧子さん? どうしたの?」
 声が上擦る。
 霧子さんの片手が僕の手に添えられた。
 そのまま僕の手は、彼女の胸に押し当てられる。当然、柔らかい感触を覚えた。
 刹那、困惑と高揚が入り混じった奇妙な感情が僕の脳内に作り出される。
 限界だった。彼女が何をしたいのか、僕には一つしか理由が見つからない。
 だけど、彼女の僕を見つめる目からは何を考えているのか読み取れなかった。
 僕は自らの衝動を必死に抑えて、彼女の答えを待つ。
「ねぇ、聞こえる?」
 なにがだろうか。
 と、聞こうとしたところで、僕は瞬間的に理解した。
「…………」
 心臓が鳴っていなかった。
「こんなことをしても、全然ドキドキしないの」
 霧子さんは微笑むと、僕の体を抱き締めた。
「私、これでも小学生の頃、成瀬くんのこと好きだったんだよ?」
 その告白は、僕にとって嬉しいもののはずなのに、僕はもう上の空になっている。
「なのに、全然嬉しいって感じない。このことに、悲しいとすらも感じられない」
 ぎゅっと、僕を抱擁する彼女の力が強められる。
「だから私、もう完全に人じゃないんだ」
 僕は彼女を抱き返した。
 背中を強く撫でながら「大丈夫」と根拠のない言葉を投げる。
「私、知らなかった。予知夢では、こんなことになるって気付けなかった。……不定期に入るメンテナンスの度、私は何かを失い続けているんだって」
 僕はただ、彼女の背中を撫で続けた。
「嗅覚、食欲、便意、尿意。痛覚、触覚、味覚。睡眠欲、性欲。そして心の一部」
 彼女の背中を撫で続けた。
「次は何を失っちゃうのかな?」
 彼女は泣いているようだった。悲しいとすらも感じないというのに、泣いていた。
「………………………………」
 僕は知らなかった。彼女が今、それほどまでに多くのものを失っているということを。
 そして僕は理解した。遊園地で僕の手が触れた時、どうして彼女は何も反応しなかったのかを。料理中にどうして彼女が味見をしなかったのかを。今日ずっと、どうして一回も笑わなかったのかを。僕は理解してから、ゆっくりと飲み込んで、受け入れた。
 確かに僕自身も心境の変化については感じていた。前までの自分ならこの事実でさえも受け入れられず逃げ出したい思いになっていはずだ。今回受け入れられることができたのは、僕自身の心が失われつつあるから、というのなら簡単に納得がいく。
「……霧子さん。大丈夫。僕がいるから。僕が守るから」
 口を衝いたクサイ台詞も、今だけは無臭に思えた。
「…………私、分かった。私が真に兵器になるのは、もうすぐなんだって。私が人としての全てを失った時、ようやく兵器として戦場に送られてしまうんだって」
 同じことを僕も薄々感じていた。
 僕たちに残された時間は少ない。このままでいけば、きっと先に霧子さんにタイムリミットが訪れる。僕はその時、心を失っても正気でいられることができるだろうか?
「霧子さん……いま、不安?」
 僕の問いに、霧子さんは一言「分からない」と答えた。
 なのに涙は止まっていない。彼女の頬を濡らした涙が、僕を伝って流れている。
 それは止まることもなく、止まる気配すらも感じさせない量の涙だった。
 彼女に涙を流させているのは、きっと本能なのだろうと思う。
「きっと、大丈夫だよ。霧子さんは」
 大丈夫の根拠はまだ見つからない。
 だけど僕は似たような慰めの言葉を彼女に与え続ける。
 僕はその時、本心で思った。彼女がこれから何を失おうが、僕のことを忘れてしまおうが、彼女の全身が機械に乗っ取られてしまおうが、僕は彼女を守ってやりたいと。
 これが恋だと気付くのに、さして時間は掛からなかった。

 霧子さんはしばらく泣き続けると、午後も四時を回る頃に、ごめんと立ち上がった。
 しばらくいてもいいよ、と僕は言ったが、大丈夫と彼女は迎えの車で帰宅する。
「…………」
 数時間も彼女は泣いていた。
 結局僕は慰めの言葉をかけることしかできなかった。
 ……僕は、霧子さんが好きだ。別に今更、この気持ちを彼女に伝えて結ばれたい、という欲求があるわけではない。僕はただ、彼女を守って、救ってやりたいだけなのだ。それは庇護欲とかではなく、明確な愛情によるものだと思う。だけど彼女を守るにしても、その方法は一切思い付かない。もしかするとこれは、どうしようもない案件なのだろうか。
 本当に何も術が無いとして、僕には何ができるだろう。思案してみる。
「…………」
 少なくとも分かるのは、僕もいずれ今の霧子さんのようになる、ということである。そうなれば、自身の感情ですらもいずれ忘れてしまうのだ。であるのならば、もしその時が訪れた時のために、僕はメモを残しておこうと決めた。忘れたくないこと、忘れてはならないこと、それら全てをノートに記し、体に記憶させる。
 小一時間ほどそれを続けていると、母さんが帰宅した。
「ただいまー」
 階下からの声に、僕はおかえりを返す。
 僕は、そうだ。とペンを机に置き、母さんの元へ向かった。
 リビングに辿り着くと、案の定、母さんは台所の洗い物を見ながら不思議そうな顔をしている。
「あ、ただいま。成瀬。……えっと、なにか料理でもしたの?」
「うん。……えっと、今日の晩御飯を作ってみたんだけど。……どうかな?」
 僕の言葉が母さんは理解できなかったのか、数秒間フリーズする。
 無言のまま冷蔵庫を覗いて、中にある鍋の蓋を空けて「え!」とようやく声を出した。
「カレー作ってくれたの!? え、すごい!」
 すごい、のだろうか、これは。
 だが少なくとも喜んではいるみたいで安堵する。
「うん。友達の力を借りてだけどね。……最近迷惑かけっぱなしだから、恩返し。……いや、こんな恩返し、与えられた恩に比べればまだまだなんだけど……」
「ううん。嬉しい。ほんとに、夢みたいに嬉しいよ、成瀬」
 母さんは見たことないくらい嬉しそうに目を細めた。その今にも涙しそうなテンションに少し困惑するが、親孝行をした心地になる。料理をする選択をとってよかったと、僕は心からにしてそう思った。
「喜んでくれてよかった。味に関しても、多分大丈夫だと思う。ご飯も今日は僕が炊くから、母さんはゆっくりしててほしい」
「あらあら。……ほんと、成瀬は優しいね」
「そんなこと、ないよ。……ほんとうに」
 僕はそう答えると、すぐにお米の支度を始めた。
 米炊きに関しては何度か経験があるので大丈夫……だと信じたい。

 お米は見事に炊け、晩御飯の時間は思ってる以上にすぐ訪れた。
 父さんも母さん同様に、僕の作ったカレーということで驚愕し、それ以上に喜んでいた。
 玲奈の感想も気になったが、今日は部屋で食べるらしい。三人で囲まれる食卓は僕にとったらいつもよりも平和で、今日は幸い嫌なニュースも流れていないので尚更そう感じた。両親は共にカレーのおかわりをしてくれて、それが気遣いだとしても僕にとってはすごく嬉しかった。二日分作ったので明日もカレーなのだが、今日で飽きないでくれるとありがたい。
「ごちそうさま! おいしかったよ、成瀬」
 こんなに楽しい晩御飯は久しぶりだと思うと同時にふと、僕にもいずれ味覚が無くなるタイミングが訪れることを思い出す。けれどまぁ、その時はその時だと思う。少なくとも今日はとても楽しかったと、そう感じられてよかったと、僕はそう考えることにする。
「皿洗いは僕にさせてよ」
 朝に続いて、夜の皿洗いも引き受けた。そうなると玲奈のお皿も洗わないといけないので「玲奈の様子見てくる」と僕は二階に上がり、部屋のドアをノックする。
「玲奈、お皿回収しに来たよ、入っていい?」
 数秒遅れで扉の向こうから「うん」と声がした。
 部屋に入ると、玲奈は朝と同じ状態で毛布にくるまっている
 玲奈は恐らく一日中こうしていたのだと思う。それほどまでに玲奈の唯一の友達は、彼女にとって大きな存在だったのだ。玲奈の気持ちは痛いほど伝わってくる。
「……玲奈。明日は無理に学校に行かなくていいんじゃない?」
「いくよ……。母さんたちに心配はかけられない」
 玲奈は強い子だと思う。僕の弱さが浮き彫りにされるようだ。
 玲奈がそれで大丈夫だというのなら、僕にこれ以上止める理由はない。
「……けど、無理はしないで」
「うるさい……。ほっといてよ。なんで今更……かまわないでよ」
 言葉遣いは、ほとんどいつもの玲奈だったが、やはりその声に力は無かった。
「ごめん、玲奈。邪魔したよ」
 僕は綺麗に食べられた食器を持って部屋を後にした。




 夜の皿洗いは、無事皿を落とすこともなく終了し、そこで思ったのが、僕が朝に皿を落としてしまったのは、僕の触覚がおかしくなっていたからではないかということだ。別に過ぎたことなのでどうでもよくはあるのだが、もしかしたら僕は次に触覚や痛覚を失ってしまうかもしれない。だからその時のために、僕は覚悟だけはしておいた。
 夜も十時になる頃、アカサタと連絡を取っていると霧子さんから連絡が届いた。
『会いたい』
 たったそれだけのメッセージ。
 もちろん僕に断る理由なんてない。
 彼女といられるなら、むしろ僕からお願いしたいくらいだ。
『もちろん。霧子さんは今、どこにいるの?』
『成瀬くんの家の前』
『分かった。すぐ出るよ』
 最初から断られると思っていなかったのか、僕と話す未来を彼女は見ていたからなのか、どっちにせよ窓の外を見れば玄関前に霧子さんは立っていた。僕は身支度もほどほどに外へ出て「こんばんは」と呼びかけたところで、僕は霧子さんの違和感に気が付く。
 片頬が異様に赤い。怪我をしているように見えた。
 どうしたの、そう口を開く前に、霧子さんが先手をとる。
「私、未来が見えなくなった」
 それはまるで、つまらない世間話でもするような口ぶりだった。
「…………」
 僕は、まるで何も返せなかった。
 もしかすると今の彼女の発言は僕の聞き間違いなのではないか、現実から目を背けるように微かな可能性に縋って、それでも彼女の言葉は耳にこべりついている。
 霧子さんは確かに口にした。『未来が見えなくなった』と。
「今の私は睡眠欲が無くて、麻酔で無理やり眠らされたとしても、もう予知はできなくなった。親にそれを伝えたら、叩かれた。……ごめん、それだけ」
 霧子さんは踵を返す。彼女はしばらく、僕に背中を見せ続けた。
 僕は彼女に何を言えばいいだろう。何を言えば彼女の気は楽になるだろう。そう思ったが、今の霧子さんからは感情といったものはおおよそ取り除かれている。ならば何をいっても無駄なのかもしれない。と僕はその時ふと脳裏に疑問がよぎった。
「両親は、霧子さんが見る未来を知っているんだよね。……なら、霧子さんが未来が見えなくなるっていう未来は知っていたんじゃないの?」
 そう。霧子さんによると、彼女の両親は霧子さんが未来で見たことをシステムを利用して聞き出しているらしいじゃないか。未来が見えなくなるという未来を彼女の両親が知っていたとしたら、分かっていながら彼女を叩いたということになる。それは許せなかった。
 だが、僕の予想とは裏腹に彼女は首を横に振る。
「……私が予知できるのは、この目で見た未来だけ。だから、私も誰も分かり得なかった」
 霧子さんはそう答えると、再び僕の方を向いた。そのまま僕に近付くと、昼の時のように霧子さんは僕を抱きしめた。僕の手は恐る恐るながらも、彼女の背中に伸ばされる。
 強い抱擁だった。感じない感触を、無理矢理にでも覚えるような虚しさが感じられた。
「…………」
 しばらくして、ポケットのスマホが鳴った。何度も鳴っていた。
 通知を切ろうとスマホを取り出せば、届いた通知は緊急警報だった。
 ──福岡市内にミサイル着弾の見込み。住民はすぐに避難を。
 驚かなかった。僕はすぐにスマホをしまうと、僕は再び霧子さんを抱き締めた。
 彼女の体は、まるで死体のように冷たく、そして弱々しく、僕はその時、彼女の両親に明確な怒りを覚えた。どうして自分らの娘をこうしたのか、自衛隊の人だからとどうして国の平和を優先したのか。自分らの身勝手で、霧子さんは今こうなっているんだ、と。
 だが今、怒りを向けたってどうにもならないことなんて分かりきっていた。今、僕は、僕ができることを考えなければならない。でも……そう思っているのに、何一つとして思い浮かばない。会者定離システム──それさえ、存在しなければ。と、そう思った時、僕の頭に一つの映像が降りてきた。それは僕が二日前に施設で見た、巨大な機械の光景だった。
 たしかあの巨大な機械そのものが、会者定離システムだったはずだ。
 僕は湧いた疑問を一つにまとめ、端的に彼女に問うた。
「会者定離システムを停止することはできないの?」
 施設にあった巨大な機械には、コントロールパネルのようなものがついていたと記憶している。あの時は数字の羅列にしか目に入らなかったが、あれが僕らを操っている機械ならば、きっと機能停止ボタン等がついているんじゃないか? 会者定離システムは一種の催眠のようなものだと霧子さんは言っていた。ならば機能を停止できたら、彼女は普通の女の子に戻れるのではないかと、僕は考えつく。
「できると思う」
 彼女の返答に、僕は一筋の光を見た。
 だけど継がれた言葉に、その光はすぐに閉ざされることになる。
「でも、私は少なくとも、会者定離システムを止める未来は見ていない」
 そっか、と僕は頷いた。もしかしたら偶然見ていないだけなのでは、とそんな都合の良い可能性がよぎったが彼女が見ていないのなら、きっと起こり得ないことなのだろう。
 やはり、霧子さんは完全に兵器の体になるという道しか残されていないのか?
 可能性を模索するが、やはり簡単には見つからない。
「………………」
 スマホがまた震えていた。
 次は一体何があったのか。だが見る気力は起きない。
 今度は一体ミサイルで何人が亡くなってしまうのだろう。と、今福岡で起きていることをどこか他人事に思ってしまっている自分が、ひどく愚かに思えた。ミサイルが落ちて、人が死んで、そして今日の玲奈のように悲しんでしまう人がたくさんいるのを分かっておきながらも、僕は僕の身の回りの人が生きていればいいか、と自分のことしか考えていない。
 これは結局、霧子さんの両親と何も変わらないのだろう。彼もきっと自分たちが一番大事だから、霧子さんを、僕を兵器に改造した。そう思うと吐き気が込み上げる。
 それでもやっぱり、僕は自分のことが一番大事なのだ。
「…………成瀬くん」
 名前が呼ばれ、意識は一気に現実に引きずり戻される。
 僕は少し震えた声で「な、なに?」と返した。
 その瞬間、僕を抱き締める霧子さんの力がふっと抜ける。
「もう。時間がない。私はすぐにでも、戦場に送り出される」
 機械音声のように命の無い声だった。
 今日の朝と比べても、彼女に生気は宿っていない。時間が経過する毎に何かを失っているように見えた。その事実に気が付きたくなくて、僕は彼女を力いっぱいに抱き締める。
 その時ふと、ぽろりと僕の口から想いが漏れた。
「……好きです。霧子さん」
 頬を涙が伝う。しまったと思ったが、霧子さんは何も聞こえていないようだった。
 僕はもう一度「好きです」と告げた。それでもやっぱり、霧子さんは何も言わなかった。
「…………」
 僕は今更ながらにして、どうして霧子さんが僕の元に来て、そして僕を抱き締めたのか疑問に思った。人間としての機能の多くを失ったのに、なんでだろうと。そして考えたのは、霧子さんは僕に何かを求めていた。だから、会いに来てくれたのだ、ということ。
「霧子さん。家、上がっていきなよ」
 今の僕にできるのは、彼女を家に帰さないことだった。
 酷い親の元へ帰したくない、そういう思いももちろんあったが、本心は『ここで霧子さんを家に帰せば、もう二度と霧子さんに会えない気がしたから』だった。相変わらず僕は自己中心的だと思う。それでも僕は、もうどうしようもないことが分かっていたとしても、彼女に何かをしてやりたかった。……けれど、それも僕が後悔しないためにやっていることで、結局は自分のことを第一に考えた結果だったのだと思う。だからもう考えないことにした。
「母さん。……ちょっと今日は友達を泊めるから」
 母さんは僕が女の子を家に泊めることにえらい驚いていた。対する父さんは、僕に関心したような視線を送った。加えて「ミサイルが福岡に落ちたらしい」とも。僕は「怖いよね」とできるだけ感情を込めた返しをして、部屋に向かった。
 霧子さんをベッドに案内して「今日は寝ようか」と僕は床に寝転んだ。
 だけど、もちろん眠れるわけがなかった。
 霧子さんは睡眠欲を失っているのだ。
 僕が眠ってしまえば、きっと彼女に心細い思いをさせてしまうかもしれない。
 僕はむくりと起き上がって、ベッドに寝転ぶ霧子さんの隣に腰を降ろした。
「そういえば今日のカレー、みんな喜んでくれたよ」
 僕は他愛もない会話をしようと、彼女に不安をさせないような話題を選択する。
「だけど妹からの感想は聞けてないな~。だけど全部食べてくれたよ、だから──」
「成瀬くん。聞こえる?」
 僕の声に霧子さんは突如として割って入った。
「……どうしたの? 聞こえるけど──」
 僕が肯定の返事を与えるところで、また霧子さんは口を挟む。
 僕はその時、悟った。彼女が家の前で言った『時間がない』という言葉の意味を。
「私は何も、聞こえない」
 霧子さんは聴覚を失っていた。


 それから僕はスマホでの筆談を試みた。
 だけど、それも長くは続かなかった。
 霧子さんの感情は生きていたが、ほとんど思うように指を動かせなくなっていたからだ。だから僕はもう筆談もやめようと、ただ彼女の側に居続けた。
 深夜も二時を回る頃にはとてつもない眠気が僕を襲ってきていた。五杯目のコーヒーを飲んでも僕の眠気はちっともなくならない。少し前の僕であれば深夜の二時なんて最も活発な時間帯だったのに、なんて思ってしまう。いよいよ限界が訪れたが、僕はそれでも目を開けていて、霧子さんの背中を安心させるようにさすり続けた。
 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。
 ずっと。ずっと────。
          ※
 カーテンの隙間から覗く朝日により、僕は目を覚ました。
「───────っ!!」
 そしてすぐに跳ねるように起き上がる。
 霧子さんは──すでに、僕の部屋からは消えていた。
 丁寧に被せられた毛布をのけて、僕はスマホを開く。
 様々な通知がいっぺんに襲いかかるのを無視して、僕は霧子さんに電話をかけた。
 だが、当然のように霧子さんは電話には出なくて、もし出てくれたとしても今の彼女には意味がないことに気が付いて、僕は無力感から声を上げて泣いた。
「霧子さん……あぁ。……あぁぁああっ!」
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