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7.青空
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夕方まで寝て過ごした分、普段よりも夜更かししてから寝たけれど翌日は多少遅い程度で朝のうちに目を覚ました。一度睡眠のリズムが崩れると前の蒼葉であれば簡単に生活時間もどんどん遅くなってしまいがちだったが、旭と暮らすようになってから朝型の生活にすっかり慣れてしまって崩れることもない。
特に目覚ましをセットしなくても朝の六時から八時くらいの間には起きる。起床時間に幅があるのは就寝時間の関係でしかなく、誤差の範囲だ。どちらが先に起きるかは日によるが、旭が早い場合が多い。
やけにすっきりと目が覚めると、蒼葉の隣で旭はまだ眠っていた。もう見慣れているのに、ふと蒼葉は布団の中で近い距離で見る旭の寝顔に普段よりも幼さを感じた。かわいいというのも違う。無防備なのはもちろんだが、どこかいつもより幼く見える気がする──と言っても蒼葉と旭の年齢差は十にも満たないだろう。そして、蒼葉は旭の明確な年齢や誕生日を知らないことに気付いた。
旭が一方的に蒼葉のことを知っている分、蒼葉はなにかあった時にそれを訊き返すことでしか旭のことを知らない部分がまだたくさんある。年齢、誕生日。そんな基本的なことでさえ気にする余裕がなかっただろうかと思うと蒼葉は苦笑した。転居するまでの数か月は確かに慌ただしかったが、その後は比較的のんびりとしていたはずなのに、互いに手探りであったことは確かだ。
今更そんなことに気付くなどとおかしくなって蒼葉は眠っている旭をひとつ撫でて悪戯をするようにキスをするとベッドを出てカーテンを開けた。外は天気のいい青空だ。まだ腰が少し痛むが伸びをして蒼葉は部屋着兼寝間着のまま新聞を取りに行ってコーヒーをいれる。
テレビを置いていない分、日常的なニュースはアナログではあるけれど新聞の方が情報の取捨選択が楽なのだと旭が契約しているが、蒼葉もその生活に慣れた。スマートフォンがあれば見たい番組や映画はチェックでき、面白くもない番組を惰性で流しっぱなしにしているよりもいっそうのことテレビがない方が楽だとさえいまは蒼葉も思っている。音楽を聞きたいときはイヤホンを使えば十分互いに好きなものを楽しめる。なにかを聞きながらゆっくりとしたいときには旭のパソコンかスピーカーに接続してしまえば事足りる。
青葉が旭と暮らす家は物は少ないが、ノイズが少なくていい。
ふと、蒼葉は専門学校に入り直すのであればやはり個室が必要かもしれないと新聞を斜め読みしながら考えた。専門資格を取るのだから勉強は必要であるし、そうなるとひとりの方が集中できる。
旭は蒼葉の邪魔をしないだろうが、いまのままだとリビングか寝室の一角に場所を整備することになるだろう。前に通信制大学に編入したときは大学を卒業することが目的だったから深く考えていなかった。合間にアルバイトもした。だが、専門資格を取得するというのであれば話は変わってくる。論文を提出して卒業できればいいのではない。
今になって蒼葉は転居先の家を探すときに蒼葉の部屋がないと駄目だと譲らなかった理由がわかった気がした。確かに喧嘩して顔も見たくないときも想定されていただろうが、大学を休学することになった蒼葉の今後も考慮されたのだろう。半分物置になっている、一応蒼葉の部屋の存在を思い出して、まだ視野が狭いと苦笑した。
「まず仕舞ったパソコン引っ張り出して掃除からかな」
ソファにもたれて天井を見上げながら蒼葉は呟いた。
旭は急がなくてもいいと言った。確かに来年春の入学に合わせるにはあまりにも準備が整っておらず、無理がある。半期、もしくは一年先を目標にしたとしてもまず環境を整えて腰を据えた方がいい。
そんなことを考えていると寝室の方から寝惚けた旭の声が聞こえた。
「んー……あれ? 青葉……?」
目が覚めて蒼葉が届く場所にいなくて探しているような声に、思わず笑いが込み上げて蒼葉はソファから立って寝室へと足を向けた。
「おはよ、旭」
隣が不在のベッドを手探りしている旭の手を捕まえて蒼葉は声をかけた。捕まえた手と同時に寝返りを打った旭が蒼葉を見上げてぱちりと瞬きをすると「おはよう」が返ってきた。瞬きひとつで寝惚けてぼんやりとした表情がすっきりとして見えた。
「起こしてくれたらよかったのに」
「やだよ。あんたがよく寝てる時は起こさない」
「蒼葉がいないからまだ夢かと思っちゃった」
ふふ、と笑って起き上がった旭は蒼葉の頬にキスを落とした。思わず蒼葉は「馬鹿なの」と言うと「馬鹿でもいいよ」と返してくる。普段とさして変わらない朝だ。
午前中に旭は少しだけパソコンに向かう。本を読んでいる時間の方が長いが、毎日一時間ほどパソコンに向かっているのは情報収集やメールチェックなどのためだろう。蒼葉と旭では興味を持つニュースも必要な情報も違う。いまは仕事を休んでいても、関連するメールにも目を通さなければならないだろう。
蒼葉がスマートフォンからショッピングサイトで丁度よさそうなパソコンデスクを物色しているうちに、旭はいくつかメールの返信をしていたようだ。タイピング音とマウスの操作音が止まって、息をついた様子だったが、溜息だったかもしれない。ぎし、と椅子が軋む音がしてから蒼葉がうつ伏せで枕を抱えて寝そべるベッドのスプリングが沈んだ。
視線を向けると床に座り込んだ旭がベッドに突っ伏している。
「どうしたの」
旭は言葉を選んでいる様だった。決して言葉数が少ない方ではないが、旭は大事なことを言おうとするときに慎重になる。それを蒼葉はもう知っている。いま、旭が言葉を選ぶような大事なことなどひとつしかない。
「決めたの、旭」
「……うん。今度の水曜に契約しに行ってくる。──本当はまだ怖いと思っちゃうけど、いつまでもそんなこと言ってられないし」
「旭は大丈夫だよ。んなこと言ったって、決められたんだからさ」
突っ伏したままの旭を撫でて蒼葉は笑う。年上の分か、旭の方が結局は現実的だ。向かう先が明確であるから、蒼葉よりも迷いがない。ただ、想定外のところにいる自分に戸惑っているだけなのだ。
「あのさ、旭。俺のことも聞いて。専門学校入り直すのに、ちゃんと勉強したいから部屋、片付けたい。全部どうにかしなくていい。パソコン置いて勉強できるだけのスペース空けばいい。あんたが俺の部屋にした物置。勉強するんだったらちゃんと集中したい」
「うん。手伝うよ」
ようやく顔を上げた旭は不器用に笑った。
「専門学校なの。大学じゃなくていいの」
「ここにきて一年の差はデカいんだよ。いつまでもあんたの世話になってんのは悔しい。だから専門にする。早く働きたいけどなんでもいいとはやっぱ思えないから、あと四年近くかかるけど、旭、待って」
「なにを?」
言葉が足りなかったのか旭は首を傾げた。蒼葉は寝転がっていた躰を起こしてベッドに寄りかかった旭に手を伸ばした。
「すぐには足りないかもしんないけど、あんたが疲れても安心して休めるように、する」
「蒼葉はかっこいい……。大好き。ちょっと、プロポーズされてるみたい」
おかしそうな旭の声に、蒼葉はゆるく回した腕のまま笑った。
「旭はケッコンみたいなことしたい?」
「違うよ。でも、そんな風にも受け取れたから、嬉しくなっただけ。ぼくにはいま、蒼葉と一緒にいるだけで十分すぎるよ」
「あんたさ、もっと欲張ってもいいのに」
旭の耳にキスをすると蒼葉はゆるく抱いた腕と躰を離した。そんなことを言う旭をかわいいと思うけれど、セックスに誘いたい訳ではないからそれ以上はしない。それでも現状を十分すぎると言う旭はかわいくて笑みが零れる。想定を超えたところにいることに、旭はまだ慣れていない。そんなところがいい。
「パソコン置く場所だけ確保できればいいんだけどさ。だから、片付けるって言っても、まあ、簡単にでいいんだけど」
「んー……でも、座り方が悪いと良くないよ。姿勢悪いと色々痛めてしまうから、ちゃんと机も椅子も選んだほうがいい」
「そう?」
「うん。机はそんなに気にしなくても大丈夫だけど、椅子は大事」
元の話題に戻って、必要最低限の場所だけ確保できればいいと言うと、旭は大真面目に返事を寄こした。確かに旭の使っている椅子は座り心地がいい。
「じゃ、さ。椅子選ぶの手伝ってよ。俺じゃどれがいいとかわかんないし」
「うん」
「でも、今日すっげ天気いいからさあ、散歩行こ。ストレッチとランニングサボったから後でやるけど、昼の方があったかいし気持ちいいじゃん」
話をころころ変える蒼葉に旭はくすくすと笑って「うん」と返してきた。
「もうさあ、ずっとここに住んでいたいよね。台風はちょっと嫌だけど、冬は寒くないし海は綺麗だし、のんびりしていていい」
「それさ、いずれ戻る前提で言ってんじゃん。無理だってわかってるからそんなこと言うんじゃん」
「ああ……そっか。でもまだ嫌だし、戻るとしても蒼葉が学校卒業してからだよ。だけど、戻るってことも少しは考えてるのかもしれないなあ……」
ぐい、と伸びをしてから旭は躰を緩めてほんのりと笑って言った。
「ゆっくりでいいじゃん。まだ仕事だってこれから契約しに行くんじゃん? そんな先のこと、まだいいよ。旭ってせっかちなの」
散歩に行くぐらいだからと部屋着の上にもう一枚羽織っただけで、財布とスマートフォンだけをポケットに入れた準備をして蒼葉は旭をからかう。同じような軽装の準備で玄関に向かう旭は「せっかちなつもりはないけど」と言いながら、その先の言葉を考えている様だった。
玄関を出ると外は晴天で雲一つない空が広がっている。冬に差し掛かろうとしているのに半袖のTシャツに上着を羽織ってしまえば十分な気候は確かに過ごしやすい。温暖な気候のせいか、旭の言う通りのんびりとした風習が根付いている。蒼葉もこの土地を好きだと思うし、過ごしやすいと思う。けれど、南の島に移住したのは他に知り合いのひとりもいない場所に逃避したかったからであって、一時的な休憩と旭との関係を邪魔されたくなかった為だ。少なくとも蒼葉はそう考えている。
ふらりと普段の散歩コースに足を向けて、南の島なのに利便性を優先したせいで海がすぐ近くでもない場所に住んでいることをおかしく感じた。
「どうせならさ、もっと逃避行っぽいとこに住んでればよかったかな。玄関出たら五分で海みたいな、さ」
「その方がよかったかもね」
なんとなく呟いた蒼葉の言葉に旭は笑って返事をした。
「たぶん……なんだけどさ、ぼくは結局、現実逃避が上手くないんだよ。利便性とか、将来とか考えてしまうし。なのに、現実逃避したくて蒼葉とずっとふたりでいたくて、矛盾しているんだ。ずっと、ぼくが想定していなかったことを一年くらいしていて……現実感が薄くて……だけど、仕事に復職することがきっかけかな、少し現実味が増したっていうか……ぼくが蒼葉と一緒にいて、夢じゃなくて、これからも一緒に生きてくよっていうのがやっと腑に落ちたっていう感じが、する」
ぽつぽつとそんなことを言う旭は珍しい。自分のことを話すことが苦手だというのに、自発的に言葉を選びながらでも不器用に内面を蒼葉に伝えている。
ゆっくりと並んで歩きながら旭の言葉を聞いていた蒼葉は、隣にある手をぎゅ、と握った。
「現実だよ、全部」
「そうだね。ずっと、長いこと想像の中の蒼葉ばかり好きだったから、強引なことをしたのはぼくなのに、ぼくの方が追い付けていなかったんだよね」
繋いだ手を握り返して旭が苦笑した。
「現実なんだよ、最初から全部! 夢の方がよかったことなんてねえよ。ぜーんぶ、旭がやったことも俺が情けなかったことも現実。夢じゃないからリセット不可能。だからさ、諦めていい加減どうにかしようぜ。俺も、あんたも、さ」
「うん。現実だって悪いことばかりじゃないしね。だって、蒼葉がいる」
ふふ、と笑って旭は頷く。
「あのさあ。もしまたあんたが疲れたりなんかしてぶっ壊れても、大丈夫だよ。旭が追い詰められてまで欲しかった俺は、もういるじゃん? 俺には旭がまたどうにかなったとしても、理性ぶっ飛ばして欲しがるもの、俺以外に思い当んないし、もしそうじゃなかったらマジで俺が先にあんたのことどうにかする」
「蒼葉はそうやって物騒な言い方する」
「本気だから」
青葉は旭を見上げると真顔で言った。その言葉に嘘や誇張はひとつもなかった。自信がある訳ではない。ただ、蒼葉から見た旭はそうだという事実だ。
「物騒な言い方だけど……そういう蒼葉が好き。愛してるよりもっと大事にされてると感じるから、ぼくはどうやったら蒼葉に同じくらいの気持ちを伝えられるのかってずっと、考えてる」
そう言われて蒼葉はにやりと不敵に笑って、手を繋いだまま旭よりも一歩先を行った。手を引かれた旭が驚いた顔をしている。
「好きやかわいいだけでも悪くないけど、旭がそうやって考えて悩んでる原因が俺なの、気分いい! めっちゃ迷ってろよ。そのうち、旭の想像の中の俺なんて消してやる」
「ああ……ぼくの中の蒼葉も想像から段々現実に塗り替えられていくから、目まぐるしくて、ぼくが追い付けないから、どうやって言葉にしていいのかわからなくなっちゃうんだ」
「旭が困ってるの、気分いいからゆっくり考えろよ」
部屋着に上着を羽織っただけの散歩道。財布とスマートフォンだけの軽装で、普段とさして変わらない日常。雲一つない冬に差し掛かる秋の終わりの青空。南の島の温暖な気候。現実逃避から、次第にゆっくりと時間をかけて現実に近づいていった。
特に目覚ましをセットしなくても朝の六時から八時くらいの間には起きる。起床時間に幅があるのは就寝時間の関係でしかなく、誤差の範囲だ。どちらが先に起きるかは日によるが、旭が早い場合が多い。
やけにすっきりと目が覚めると、蒼葉の隣で旭はまだ眠っていた。もう見慣れているのに、ふと蒼葉は布団の中で近い距離で見る旭の寝顔に普段よりも幼さを感じた。かわいいというのも違う。無防備なのはもちろんだが、どこかいつもより幼く見える気がする──と言っても蒼葉と旭の年齢差は十にも満たないだろう。そして、蒼葉は旭の明確な年齢や誕生日を知らないことに気付いた。
旭が一方的に蒼葉のことを知っている分、蒼葉はなにかあった時にそれを訊き返すことでしか旭のことを知らない部分がまだたくさんある。年齢、誕生日。そんな基本的なことでさえ気にする余裕がなかっただろうかと思うと蒼葉は苦笑した。転居するまでの数か月は確かに慌ただしかったが、その後は比較的のんびりとしていたはずなのに、互いに手探りであったことは確かだ。
今更そんなことに気付くなどとおかしくなって蒼葉は眠っている旭をひとつ撫でて悪戯をするようにキスをするとベッドを出てカーテンを開けた。外は天気のいい青空だ。まだ腰が少し痛むが伸びをして蒼葉は部屋着兼寝間着のまま新聞を取りに行ってコーヒーをいれる。
テレビを置いていない分、日常的なニュースはアナログではあるけれど新聞の方が情報の取捨選択が楽なのだと旭が契約しているが、蒼葉もその生活に慣れた。スマートフォンがあれば見たい番組や映画はチェックでき、面白くもない番組を惰性で流しっぱなしにしているよりもいっそうのことテレビがない方が楽だとさえいまは蒼葉も思っている。音楽を聞きたいときはイヤホンを使えば十分互いに好きなものを楽しめる。なにかを聞きながらゆっくりとしたいときには旭のパソコンかスピーカーに接続してしまえば事足りる。
青葉が旭と暮らす家は物は少ないが、ノイズが少なくていい。
ふと、蒼葉は専門学校に入り直すのであればやはり個室が必要かもしれないと新聞を斜め読みしながら考えた。専門資格を取るのだから勉強は必要であるし、そうなるとひとりの方が集中できる。
旭は蒼葉の邪魔をしないだろうが、いまのままだとリビングか寝室の一角に場所を整備することになるだろう。前に通信制大学に編入したときは大学を卒業することが目的だったから深く考えていなかった。合間にアルバイトもした。だが、専門資格を取得するというのであれば話は変わってくる。論文を提出して卒業できればいいのではない。
今になって蒼葉は転居先の家を探すときに蒼葉の部屋がないと駄目だと譲らなかった理由がわかった気がした。確かに喧嘩して顔も見たくないときも想定されていただろうが、大学を休学することになった蒼葉の今後も考慮されたのだろう。半分物置になっている、一応蒼葉の部屋の存在を思い出して、まだ視野が狭いと苦笑した。
「まず仕舞ったパソコン引っ張り出して掃除からかな」
ソファにもたれて天井を見上げながら蒼葉は呟いた。
旭は急がなくてもいいと言った。確かに来年春の入学に合わせるにはあまりにも準備が整っておらず、無理がある。半期、もしくは一年先を目標にしたとしてもまず環境を整えて腰を据えた方がいい。
そんなことを考えていると寝室の方から寝惚けた旭の声が聞こえた。
「んー……あれ? 青葉……?」
目が覚めて蒼葉が届く場所にいなくて探しているような声に、思わず笑いが込み上げて蒼葉はソファから立って寝室へと足を向けた。
「おはよ、旭」
隣が不在のベッドを手探りしている旭の手を捕まえて蒼葉は声をかけた。捕まえた手と同時に寝返りを打った旭が蒼葉を見上げてぱちりと瞬きをすると「おはよう」が返ってきた。瞬きひとつで寝惚けてぼんやりとした表情がすっきりとして見えた。
「起こしてくれたらよかったのに」
「やだよ。あんたがよく寝てる時は起こさない」
「蒼葉がいないからまだ夢かと思っちゃった」
ふふ、と笑って起き上がった旭は蒼葉の頬にキスを落とした。思わず蒼葉は「馬鹿なの」と言うと「馬鹿でもいいよ」と返してくる。普段とさして変わらない朝だ。
午前中に旭は少しだけパソコンに向かう。本を読んでいる時間の方が長いが、毎日一時間ほどパソコンに向かっているのは情報収集やメールチェックなどのためだろう。蒼葉と旭では興味を持つニュースも必要な情報も違う。いまは仕事を休んでいても、関連するメールにも目を通さなければならないだろう。
蒼葉がスマートフォンからショッピングサイトで丁度よさそうなパソコンデスクを物色しているうちに、旭はいくつかメールの返信をしていたようだ。タイピング音とマウスの操作音が止まって、息をついた様子だったが、溜息だったかもしれない。ぎし、と椅子が軋む音がしてから蒼葉がうつ伏せで枕を抱えて寝そべるベッドのスプリングが沈んだ。
視線を向けると床に座り込んだ旭がベッドに突っ伏している。
「どうしたの」
旭は言葉を選んでいる様だった。決して言葉数が少ない方ではないが、旭は大事なことを言おうとするときに慎重になる。それを蒼葉はもう知っている。いま、旭が言葉を選ぶような大事なことなどひとつしかない。
「決めたの、旭」
「……うん。今度の水曜に契約しに行ってくる。──本当はまだ怖いと思っちゃうけど、いつまでもそんなこと言ってられないし」
「旭は大丈夫だよ。んなこと言ったって、決められたんだからさ」
突っ伏したままの旭を撫でて蒼葉は笑う。年上の分か、旭の方が結局は現実的だ。向かう先が明確であるから、蒼葉よりも迷いがない。ただ、想定外のところにいる自分に戸惑っているだけなのだ。
「あのさ、旭。俺のことも聞いて。専門学校入り直すのに、ちゃんと勉強したいから部屋、片付けたい。全部どうにかしなくていい。パソコン置いて勉強できるだけのスペース空けばいい。あんたが俺の部屋にした物置。勉強するんだったらちゃんと集中したい」
「うん。手伝うよ」
ようやく顔を上げた旭は不器用に笑った。
「専門学校なの。大学じゃなくていいの」
「ここにきて一年の差はデカいんだよ。いつまでもあんたの世話になってんのは悔しい。だから専門にする。早く働きたいけどなんでもいいとはやっぱ思えないから、あと四年近くかかるけど、旭、待って」
「なにを?」
言葉が足りなかったのか旭は首を傾げた。蒼葉は寝転がっていた躰を起こしてベッドに寄りかかった旭に手を伸ばした。
「すぐには足りないかもしんないけど、あんたが疲れても安心して休めるように、する」
「蒼葉はかっこいい……。大好き。ちょっと、プロポーズされてるみたい」
おかしそうな旭の声に、蒼葉はゆるく回した腕のまま笑った。
「旭はケッコンみたいなことしたい?」
「違うよ。でも、そんな風にも受け取れたから、嬉しくなっただけ。ぼくにはいま、蒼葉と一緒にいるだけで十分すぎるよ」
「あんたさ、もっと欲張ってもいいのに」
旭の耳にキスをすると蒼葉はゆるく抱いた腕と躰を離した。そんなことを言う旭をかわいいと思うけれど、セックスに誘いたい訳ではないからそれ以上はしない。それでも現状を十分すぎると言う旭はかわいくて笑みが零れる。想定を超えたところにいることに、旭はまだ慣れていない。そんなところがいい。
「パソコン置く場所だけ確保できればいいんだけどさ。だから、片付けるって言っても、まあ、簡単にでいいんだけど」
「んー……でも、座り方が悪いと良くないよ。姿勢悪いと色々痛めてしまうから、ちゃんと机も椅子も選んだほうがいい」
「そう?」
「うん。机はそんなに気にしなくても大丈夫だけど、椅子は大事」
元の話題に戻って、必要最低限の場所だけ確保できればいいと言うと、旭は大真面目に返事を寄こした。確かに旭の使っている椅子は座り心地がいい。
「じゃ、さ。椅子選ぶの手伝ってよ。俺じゃどれがいいとかわかんないし」
「うん」
「でも、今日すっげ天気いいからさあ、散歩行こ。ストレッチとランニングサボったから後でやるけど、昼の方があったかいし気持ちいいじゃん」
話をころころ変える蒼葉に旭はくすくすと笑って「うん」と返してきた。
「もうさあ、ずっとここに住んでいたいよね。台風はちょっと嫌だけど、冬は寒くないし海は綺麗だし、のんびりしていていい」
「それさ、いずれ戻る前提で言ってんじゃん。無理だってわかってるからそんなこと言うんじゃん」
「ああ……そっか。でもまだ嫌だし、戻るとしても蒼葉が学校卒業してからだよ。だけど、戻るってことも少しは考えてるのかもしれないなあ……」
ぐい、と伸びをしてから旭は躰を緩めてほんのりと笑って言った。
「ゆっくりでいいじゃん。まだ仕事だってこれから契約しに行くんじゃん? そんな先のこと、まだいいよ。旭ってせっかちなの」
散歩に行くぐらいだからと部屋着の上にもう一枚羽織っただけで、財布とスマートフォンだけをポケットに入れた準備をして蒼葉は旭をからかう。同じような軽装の準備で玄関に向かう旭は「せっかちなつもりはないけど」と言いながら、その先の言葉を考えている様だった。
玄関を出ると外は晴天で雲一つない空が広がっている。冬に差し掛かろうとしているのに半袖のTシャツに上着を羽織ってしまえば十分な気候は確かに過ごしやすい。温暖な気候のせいか、旭の言う通りのんびりとした風習が根付いている。蒼葉もこの土地を好きだと思うし、過ごしやすいと思う。けれど、南の島に移住したのは他に知り合いのひとりもいない場所に逃避したかったからであって、一時的な休憩と旭との関係を邪魔されたくなかった為だ。少なくとも蒼葉はそう考えている。
ふらりと普段の散歩コースに足を向けて、南の島なのに利便性を優先したせいで海がすぐ近くでもない場所に住んでいることをおかしく感じた。
「どうせならさ、もっと逃避行っぽいとこに住んでればよかったかな。玄関出たら五分で海みたいな、さ」
「その方がよかったかもね」
なんとなく呟いた蒼葉の言葉に旭は笑って返事をした。
「たぶん……なんだけどさ、ぼくは結局、現実逃避が上手くないんだよ。利便性とか、将来とか考えてしまうし。なのに、現実逃避したくて蒼葉とずっとふたりでいたくて、矛盾しているんだ。ずっと、ぼくが想定していなかったことを一年くらいしていて……現実感が薄くて……だけど、仕事に復職することがきっかけかな、少し現実味が増したっていうか……ぼくが蒼葉と一緒にいて、夢じゃなくて、これからも一緒に生きてくよっていうのがやっと腑に落ちたっていう感じが、する」
ぽつぽつとそんなことを言う旭は珍しい。自分のことを話すことが苦手だというのに、自発的に言葉を選びながらでも不器用に内面を蒼葉に伝えている。
ゆっくりと並んで歩きながら旭の言葉を聞いていた蒼葉は、隣にある手をぎゅ、と握った。
「現実だよ、全部」
「そうだね。ずっと、長いこと想像の中の蒼葉ばかり好きだったから、強引なことをしたのはぼくなのに、ぼくの方が追い付けていなかったんだよね」
繋いだ手を握り返して旭が苦笑した。
「現実なんだよ、最初から全部! 夢の方がよかったことなんてねえよ。ぜーんぶ、旭がやったことも俺が情けなかったことも現実。夢じゃないからリセット不可能。だからさ、諦めていい加減どうにかしようぜ。俺も、あんたも、さ」
「うん。現実だって悪いことばかりじゃないしね。だって、蒼葉がいる」
ふふ、と笑って旭は頷く。
「あのさあ。もしまたあんたが疲れたりなんかしてぶっ壊れても、大丈夫だよ。旭が追い詰められてまで欲しかった俺は、もういるじゃん? 俺には旭がまたどうにかなったとしても、理性ぶっ飛ばして欲しがるもの、俺以外に思い当んないし、もしそうじゃなかったらマジで俺が先にあんたのことどうにかする」
「蒼葉はそうやって物騒な言い方する」
「本気だから」
青葉は旭を見上げると真顔で言った。その言葉に嘘や誇張はひとつもなかった。自信がある訳ではない。ただ、蒼葉から見た旭はそうだという事実だ。
「物騒な言い方だけど……そういう蒼葉が好き。愛してるよりもっと大事にされてると感じるから、ぼくはどうやったら蒼葉に同じくらいの気持ちを伝えられるのかってずっと、考えてる」
そう言われて蒼葉はにやりと不敵に笑って、手を繋いだまま旭よりも一歩先を行った。手を引かれた旭が驚いた顔をしている。
「好きやかわいいだけでも悪くないけど、旭がそうやって考えて悩んでる原因が俺なの、気分いい! めっちゃ迷ってろよ。そのうち、旭の想像の中の俺なんて消してやる」
「ああ……ぼくの中の蒼葉も想像から段々現実に塗り替えられていくから、目まぐるしくて、ぼくが追い付けないから、どうやって言葉にしていいのかわからなくなっちゃうんだ」
「旭が困ってるの、気分いいからゆっくり考えろよ」
部屋着に上着を羽織っただけの散歩道。財布とスマートフォンだけの軽装で、普段とさして変わらない日常。雲一つない冬に差し掛かる秋の終わりの青空。南の島の温暖な気候。現実逃避から、次第にゆっくりと時間をかけて現実に近づいていった。
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