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5.意思疎通
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その日は夜遅くになって旭は帰ってきて、疲れたのかスーツを脱ぎ捨てるとそのままベッドに倒れ込んだ。ぐったりとしてそのまま眠りそうだったが、薬を飲んでいても上手く眠れない時があるという旭に蒼葉は「薬、飲まなくていいの」と声をかけると「飲む」と答えて服薬したあと抱き枕のように蒼葉を抱えてすぐに眠りに落ちた。
蒼葉の鼻先に知らない匂いが掠めて嫌な気分になる。
外出して半日、誰かを案内する。その間、旭がその相手と一緒にいるのは当然で、普段蒼葉と閉じこもった部屋にいる時と違う匂いがしても不思議はないけれど、嫌だと思った。
公園でテツヤたちに自分たちの関係を明かして偏見をもたれなかったことは嬉しかったが、旭が他人の匂いを纏うだけで蒼葉は不快になる。普通の生活をするようになれば、互いに別のところで働いて家に帰ってくるのだろうからそれは一方的な感情ではないはずだが、蒼葉はふと、旭は平気なのだろうかと考えた。いま旭は蒼葉を抱き枕にして眠っている。身動きが取れなくて、蒼葉もそのまま目を伏せて眠った。
朝、珍しく蒼葉が先に目覚めた。普段は旭が先に起きていることの方が多い。昨日は余程疲れたのか旭は蒼葉に緩く腕を絡めたまま無防備に眠っている。整った顔立ちをした大人なのに、どこか年よりも幼く見える寝顔に蒼葉は少し笑った。
時間を見ると六時半でベッドから出て新聞を取りに行ってコーヒーでも飲むかどうか迷ったが、蒼葉が旭より先に起きることも珍しくてそのまま寝顔を見ていることにした。かといってなにもしていないのは暇になるから枕元のスマートフォンとイヤホンを取って、気が向くまま大学の講座を聞く。老年の男が講義する淡々とした声を聞きながら、蒼葉は昨日の旭はどんな人物の案内役になってその間どんな会話をしたのだろうと思った。
蒼葉は他人と接する旭をほとんど知らない。
旭は外に出たがらなく、蒼葉以外の他人に興味を持たない。
そのせいで蒼葉はごく普通に別々に行動して知らない匂いを纏ってくる旭に不安を感じる。旭のことを疑っているのではなく、それは単純な独占欲と嫉妬だ。自分の知らない旭がいると思うと不快になる。自分のものだと首輪をつけて、ネームタグをつけないと安心できない。ふと、旭が開けた右乳首のピアスに触れて、ピアスを開けたいと言い出した気持ちを少し理解した。
旭は蒼葉の独占欲を嬉しいというが、蒼葉はその欲求をどういう形にしたらいいのかはっきりとしない。ピアスのように故意に外さない限りずっと身に着けるアクセサリーがいいのか、関係を公言することでマーキングしたいのかもわからない。少なくとも共通の知り合いに公言したところで得られる安心感はその関係性にしかないことはわかった。
閉塞した環境から生まれた気持ちが閉じこもったまま成長したから、外的環境に対する耐性がない。一般的な恋人関係の成立ではなく、特殊な環境から始まった分、心の許容範囲が極端に狭くなっている。行動範囲も感情の許容量も少しずつ広げなければ雁字搦めのまま停滞してしまう。
旭が強引にでも半日外出したのは、旭の同期だという精神科医にきっかけを与えられたのかもしれない。彼は旭の状況を蒼葉より把握している。過労と不眠で休職したこと。蒼葉を監禁したこと。その末にいま、蒼葉と一緒に南の島に転居してそれでもまだ引きこもっていること。彼は旭にリハビリと言ったが、それは蒼葉にとってもそうかもしれない。
耳で老年の男の声を聞きながら、蒼葉は旭の寝顔を見ながらぼんやりと考えていた。
怪我をしてリハビリが必要なように、心が疲れて休んでもやはり社会に戻るために段階を踏まなければならないのだろう。蒼葉自身は自分に不眠やその他の心的ストレスを抱えていなくても、旭に向けている気持ちが誰にも邪魔されないふたりだけの場所で保護されていた分、やはり積極的に外に踏み出す気になれない。
他人に背中を蹴られていると思うと癪ではあるが、事実だ。
昨晩の旭は疲れていてろくに話もしないまま眠ってしまったからどうするつもりなのか蒼葉はまだなにも知らない。けれど、蒼葉がきっかけを与えられたと感じているくらいなのだから、旭はもっと冷静な判断を下しているだろうと思う。そう思いたい。そして旭が与えられたチャンスに乗るというのであれば、蒼葉は否定したくない。嫌だというのは感情論で、それは客観的に見れば正しくないこともままある。現状を感情だけで否定するのは最適解とは言えない。
局面に蒼葉と旭しかいなく、それだけで成り立つのならいい。しかし現実はそうもいかない。生活していく以上、外に出なければならない。働かなければならない。外部との接触は避けられない。現実の中で社会的に存在するためにいまは突破口が必要だ。少なくともこのままでは詰みになることは明確で、蒼葉がひっくり返した盤面が少しだけ延命しただけに過ぎない。
盤面のステージと環境と関係性が変化しただけで、まだゲームはクリアしていない。生きている限りその繰り返しなのだろうが、蒼葉が突然放り込まれた盤面はひっくり返ったけれど、旭のシナリオを破棄した分、その先を突破しなければならない。現実逃避からの脱却。
蒼葉は溜息をついて、考え事をしているうちに一コマ分の講義を終えて無音になったイヤホンを外して眠ったままの旭に身を寄せた。
旭がぐっすり眠っていることは珍しい。蒼葉ももう少し眠りたいと瞼を伏せた。
二度目に目覚めた時は擽ったさを感じて意識が浮上した。額に触れる指の感触がして瞼を上げるとかすむ視界の先に旭の穏やかな顔が見えた。普段と同じ柔い表情で眠っている蒼葉の前髪を弄んでいる。
「おはよ」
「おはよう、蒼葉。随分寝たね」
「二度寝だもん」
ゆるゆると旭の指に撫でられたまま蒼葉は答えた。昨日半日離れていたことがなかったかのように、普段通りで蒼葉は戸惑う。昨日のことをなかったことにしてはいけない。旭にも切り出すタイミングがあるだろうと思いながら、蒼葉は無理に言葉を引き出そうとするのを飲み込んだ。
「旭の寝顔観察してから二度寝した」
ふふ、と笑って蒼葉は旭の手を捉えた。視線の先で旭が驚いている。
「……なに驚いてんの。旭だっていまめっちゃ俺の寝顔見てたじゃん」
「そうだけど。ぼくの寝顔見てて楽しい?」
「旭は楽しそうだよ」
返事をはぐらかすと旭は顔を赤くした。いつもしている癖に今更と思いながら蒼葉はにやりと笑って続けた。
「よく旭だってしてるじゃん。旭が楽しいなら俺が同じことをしたって楽しいに決まってんだよ」
捉えた手を離さないまま蒼葉が言うと、ずっと蒼葉を見ていた旭はばたりとベッドに突っ伏して空いている方の手で頭を抱えた。
「いや。だってぼくは蒼葉のことが好きだからいくら見ていたって飽きないけど、蒼葉は……」
「旭さあ。俺が何回あんたのこと好きだって言ったら気が済むの? 旭が無防備に爆睡してるとこ見てるの、俺も楽しいし安心するんだよ」
「疑ってるわけじゃないよ。でも、安心するは初めて聞いた」
「うん。だって初めて言ったもん。あんまり、旭がいろんなこと触れて欲しくなさそうだから言わなかった」
やはり、どうしてかベッドの中で話すとすんなりと出てくる言葉がある。少なくとも蒼葉はそう感じている。すぐに触れられる距離。温度が伝わりそうな距離。そんな距離感が気持ちを解く。
「旭さ、昨日疲れてたけど、今朝めっちゃぐっすり寝てたんだよ。……だから、昨日のこと嫌じゃなかったんだろうなって思った。旭、いつも俺より先に起きてるじゃん」
特に昨日のことを探る気はなく、蒼葉はただ見て感じたことだけを言った。声に重さはなく、軽やかでさえある。昨日のことは旭が言いたくなったら聞けばいい。
「蒼葉にはそう見えたんだ」
「あんたが爆睡してたってことは単純に疲れたんだろ」
顔を上げた旭が訊いてきて、蒼葉は率直な返事をした。
旭は時々、蒼葉の言葉に驚くことがある。恐らく蒼葉のことは事細かに見ているが、自分自身に向けている関心が低いのだ。だから、蒼葉が何度好きだと言っても定期的に確認して、蒼葉の些細な言葉に驚く。
「うん。昨日は疲れた。久しぶりに長時間外に出たし、他人と一緒にいたし、案内役だったし……別の話もあったから。……でも、心地いい緊張感と疲労だった」
「行ってよかったじゃん」
深い色を湛えた目を伏し目にする旭はその気持ちを悪いと思っているのだろう。蒼葉はぐしゃぐしゃと旭の髪を撫でまわした。
「だって、蒼葉をひとりにして出かけたのに」
蒼葉の手の下で旭は困惑した声で言う。
「そんなん、いつまでもこうしてられないのわかってんじゃん。旭は旭のしたいようにすればいいよ。別に突き放してるんじゃない。ただ、俺と旭が同じタイミングで外に向かわなくちゃなんない訳じゃないってだけじゃん」
「だって、蒼葉」
感情を横にしたことを言う蒼葉を旭は引き寄せて強く抱き締めた。痛いくらいに抱かれて蒼葉は目を丸くする。旭の声が同じくらいに痛く蒼葉の耳に届いた。蒼葉に旭の気持ちが理解できる分、腕の強さも声の痛々しさも苦しい。
「旭はさ、離れたら俺がいなくなると思ってんの」
「……思ってない……」
「旭が俺を理由に引きこもってんじゃないんだったら、なにがあんたを迷わせてんの」
既に旭は矛盾したことを言っていることに気付いていない。蒼葉は旭の感情が自分に向かう時だけ冷静さをなくすことをもう知っている。
精神的に追い詰められた末とはいえ、面識のない状態の蒼葉を監禁するほどの独占欲を旭は持っている。この閉じこもった生活から抜け出す決心をすることが難しいことは想像に難くない。理性では判断できても感情がブレーキをかけてしまうことはままあって、旭はいまその狭間で揺れているのだろう。ただでさえ、いまの状態が旭の想定を超えたところにある。
「一年近くなにもしていないから、復職するのが怖い。まだぼくを前のままで評価されると、違うと思う。それにぼくは犯罪を犯している。そんな人間が倫理観を求められるところにいていいと思えない」
強く抱かれたまま蒼葉の耳に届く声は震えていた。旭が言う犯罪は蒼葉を監禁したことだとは明白だ。言葉の前半部分は蒼葉にはどうしようもないが、そのことだけは否定できる。
「旭。あんたのことを犯罪者じゃないって言い切れない。でも、あんたは俺を監禁したけど、ぼんやり適当に生きてた俺をいい方向に変えた。それにもっと無理矢理で酷いやり方で俺を捻じ曲げることはきっとできたのに、しなかった。あんたに必要な倫理観がないと思わない。あんたは、追い詰められて全部なくそうとしただけだ。それも、俺を巻き込んで無理心中しようとしたわけでもない。あんたのシナリオは、俺を被害者にして加害者は捕まるはずだった。予定通りなら俺はここにいないし、旭はそうやって悩んでない。俺があんたを好きになったからだ。あんたが倫理観もクソもないクズだったら、好きにならなかった」
「蒼葉に励まされると、ぼくでもいいのかなって思える」
耳に触れる旭の声はさっきよりも緊張していないけれど、抱き締める腕の強さは変わらなかった。蒼葉が絶対に言えるのは旭の不安の後半部分でしかない。前半部分はただの憶測になってしまう。けれど、旭は蒼葉の言葉を欲しているように思えた。
「じゃあさ、これからは俺のただの考え。一般論かも。でもさ、復職っていつかしなきゃなんない。旭が過大評価されていようとどうだろうと関係なくて、単純に働かないと食っていけないから。それを怖がってたらいつか俺たち共倒れになるんだよ。んで、シューショクもなんもしないであんたの世話になってる俺が言えた義理じゃないんだけど、旭のことをまだ買ってくれる人がいるんだったら乗らない手はない。旭が本当にもう医者やりたくないって言うならほかの仕事探すしかないけど、違うんだろ。あんたは難しい仕事に就いてる。俺がなりたいって言っても無理な仕事だ。そういう仕事に就く努力をしたんだと思うし、そうなんだろ。それで本当に嫌になったなら仕方ないけど、あんたが休職したのはミスをする前に休む選択だろ。じゃあ、仕事自体が嫌になったんじゃないはずだ」
「うん。そうだね」
溜息交じりの声が穏やかに緩んで蒼葉はほっとした。抱き締める腕も緩んで、旭はぎゅうぎゅうに抱いた蒼葉に緩い腕を回したまま顔が見えるところまで距離を取った。蒼葉の目に旭の困り顔が映った。
「蒼葉と離れたくなくて甘えちゃうんだ。情けなくてごめんね」
「あんた、それで納得するんだったら俺の口車に乗せられやすすぎ」
「いいよ、それでも」
困った顔のまま笑って旭は蒼葉の頬を撫でる。
「ぼくは、蒼葉の言いなりでもならないと動けないかもしれないから」
「じゃあ、俺のことも聞いて。んで、あんたはどう思うのか言ってよ」
「うん」
外に向かう話をしたからちょうどいいと旭が蒼葉のことはどう考えているのか聞きたくなった。このまま旭が納得するのであれば、旭は昨日の話にいい返事をするだろう。そうしたら、蒼葉はいよいよ自分の身の振り方をどうにかしなければならない。
「俺はまだシューショクとか何になりたいのとか、はっきりしてない。旭と一緒にいるって口実で一年近く俺はなんもしてなくて、いまだにどうしていいのかわかんない。適当にリーマンやるんだったらできるだろうけど、そんな適当さで仕事決めたくない。検索条件一、あんたと離れないこと。つまり、遠距離の転勤がないこと。検索条件二、人の役に立ちたい。すごくぼんやりしたこと言うけど、俺がいまから医者になれなくても、近い仕事だったらいいかもってなんとなく思ってる。でもいまの俺じゃたったこれだけの条件を満たす仕事がなんなのかわからない。色々資格とかあるのはわかってるけど、どれが自分に向いてるのかがわかんない」
自分で進路も決められないなど情けないと思う。蒼葉が相談できる相手も頼りにできる相手も旭しかいなく、真面目な顔で訊ねた。
「蒼葉はさ、元々なんにでもまっすぐで真面目なんだよ。大学に戻るのも戻らないまま仕事を探すのも、このままぼくに依存していればなんでもよくていいのに」
「それは嫌。あんたにずっと養ってもらうとか、そういうのはムカつく。それにあんたがまた仕事を休むことにならないって保証はない。だから俺は俺でちゃんとしたいんだ」
やはり旭は蒼葉に無理に働けとは言わない。
「旭は俺がひとりで外に出たら帰ってこなくなると思う? あのさ。俺、昨日公園でランニングの休憩中にテツヤたちと会ってひとりだったから旭のこと訊かれたんだけど、あいつら旭のこと兄貴かなんかだと思ってたらしくて、彼氏だってバラした。別に気持ち悪いとかそういう反応されなくて、納得してた。ガキだからかな。でも、俺は嬉しかったしあんたも喜ぶんじゃないかと思った」
昨日、蒼葉がひとりの時のことを言うと旭は何度か瞬きを繰り返して驚いていた。蒼葉にはそのことが驚くほどのことかどうかはわからない。けれど、蒼葉は第三者に自分たちの関係を隠すつもりはなく、訊かれたから答えたことを単純に話しただけだ。
他人に関係を明示することは、簡単にいなくなる気はないことを遠回しに主張してもいた。
「……そっか。うん。それはぼくも嬉しい」
ぽつりと旭は少し照れた様子で呟いた。蒼葉は同性愛者がどのような扱いを受けるものなのか知らないが、最初旭のことを同性愛者だと気付いて恐怖した自分のことは知っている。
なにかしらの偏見を持たれても不思議はないが、少なくとも蒼葉と旭の周りには偏見を持たずにふたりの存在を認識している人間がひとりとひとグループいる。旭に薬を処方している同僚だという医師と、テツヤたち。旭の同僚の医師は、旭の行動を把握した上で復職させようとしてくれている。充分恵まれた環境だと蒼葉は思う。
「その話はついでなんだけどさ。んで、俺は俺でちゃんとシューショクしたいの。でも、なんになりたいかはっきりしない。旭は俺のこと、俺より知ってるじゃん。俺に向いてるショクギョーってなんだと思う? 言っとくけど、参考までに訊いてるだけだからな」
蒼葉が念を押すと、旭は「んー……」と声を出してしばらく考えていた。
「蒼葉の条件は遠くへの転勤がないことと、医療に近しい仕事。それだけなら資格は必要だけどいろんな仕事がある。中には働きながら資格を取れる仕事だって。介護福祉士、保健師、ケアマネージャー、理学療法士、心理士、看護師、柔道整復師……ほかにもあるかな。ほとんどの医療関連の資格は医師の指示がないと医療行為ができないけれど、柔道整復師は脱臼や骨折に関する医療行為が単独で認められている。怪我のリハビリをしたり、ストレッチやトレーニングの指導をしたり……蒼葉には耳の痛いことかもしれないけど、ぼくは向いていると思う。蒼葉は自分も怪我をしたから、患者の気持ちがきっとわかる。それに、咄嗟の時に医師の指示がないと許された範囲での応急処置しかできないような仕事は、きっと蒼葉には歯がゆいんじゃないかな」
ゆっくりした口調で旭は思いつくことを並べて、その中からひとつに関してくわしく話した。蒼葉はじっと旭の言葉を聞いていた。初めて聞く資格ではない。蒼葉も調べたが、なにが向いているのか結局わからなかったのだ。
「じゃあさ、これは仮定の質問。もし俺がそういう仕事に就きたいって言ったらこれまで大学にいた分は全部パーになって、専門学校なり大学なりに入り直さなきゃなんない。二年? 三年? 四年? まあ、長くて四年。その間、バイトはする気あるけど俺は相変わらずあんたに頼っちゃうんだけど、それでもいい?」
「もちろんいいよ。蒼葉が蒼葉らしい方がぼくは嬉しい。だから四年くらい全然平気だよ。それに、その分ぼくがここから動けなくなる言い訳にもなるから、いい」
ふふ、と悪戯そうに旭は笑った。
「旭。それって」
「まだ決めてない。でも、蒼葉が先のこと決めるならぼくもちゃんとしないとって思っただけ」
ゆるりと抱く旭の腕に蒼葉は捕まった。片手が頭を抱えて撫でられる。
「……蒼葉はすごいな……ぼくは選択肢を挙げただけなのに、もう行動に移してしまいそう。蒼葉を見ていると、立ち止まっていられないって思っちゃう。すごいよ」
しかもどこか誇らし気に言う旭に、蒼葉は照れて躰を突き飛ばした。
「なにも凄くねえよ。ひとりじゃ自分のことも決めらんねんねえんだよ」
蒼葉がつっけんどんに反論すると、突き飛ばしてもなお旭に撫でられた。
「それでも凄いよ。先のことを見ようとしている。わからなかったら人に意見を求められる。ちゃんと自分で決めたいと思ってるから、助言を求めるんだ。だから、蒼葉はそのままで大丈夫。とてもかっこいい」
「馬鹿。もういい加減起きんぞ」
照れ隠しに馬鹿と言って蒼葉はベッドを降りた。キッチンに向かってコーヒーを入れに行く。
「旭、コーヒー飲む?」
「うん」
キッチンでケトルに水を注ぎながら声をかけると、普段通りの旭の声が返ってきた。旭の飲むコーヒーにはミルクをいれるから、カップに半分注いだ牛乳を蒼葉はレンジに突っ込む。蒼葉が勝手にそうしている。そして、蒼葉も同じくミルクをいれたコーヒーを飲む習慣がついた。
飲みすぎというほど頻繁に飲まなくてもカフェインが不眠に良くないことは蒼葉でもわかる。ほんの些細な蒼葉なりの気遣いだが、恐らく旭はわかっていてなにも言わない。ただ、穏やかに蒼葉のいれたコーヒーを嬉しそうにする。
蒼葉の鼻先に知らない匂いが掠めて嫌な気分になる。
外出して半日、誰かを案内する。その間、旭がその相手と一緒にいるのは当然で、普段蒼葉と閉じこもった部屋にいる時と違う匂いがしても不思議はないけれど、嫌だと思った。
公園でテツヤたちに自分たちの関係を明かして偏見をもたれなかったことは嬉しかったが、旭が他人の匂いを纏うだけで蒼葉は不快になる。普通の生活をするようになれば、互いに別のところで働いて家に帰ってくるのだろうからそれは一方的な感情ではないはずだが、蒼葉はふと、旭は平気なのだろうかと考えた。いま旭は蒼葉を抱き枕にして眠っている。身動きが取れなくて、蒼葉もそのまま目を伏せて眠った。
朝、珍しく蒼葉が先に目覚めた。普段は旭が先に起きていることの方が多い。昨日は余程疲れたのか旭は蒼葉に緩く腕を絡めたまま無防備に眠っている。整った顔立ちをした大人なのに、どこか年よりも幼く見える寝顔に蒼葉は少し笑った。
時間を見ると六時半でベッドから出て新聞を取りに行ってコーヒーでも飲むかどうか迷ったが、蒼葉が旭より先に起きることも珍しくてそのまま寝顔を見ていることにした。かといってなにもしていないのは暇になるから枕元のスマートフォンとイヤホンを取って、気が向くまま大学の講座を聞く。老年の男が講義する淡々とした声を聞きながら、蒼葉は昨日の旭はどんな人物の案内役になってその間どんな会話をしたのだろうと思った。
蒼葉は他人と接する旭をほとんど知らない。
旭は外に出たがらなく、蒼葉以外の他人に興味を持たない。
そのせいで蒼葉はごく普通に別々に行動して知らない匂いを纏ってくる旭に不安を感じる。旭のことを疑っているのではなく、それは単純な独占欲と嫉妬だ。自分の知らない旭がいると思うと不快になる。自分のものだと首輪をつけて、ネームタグをつけないと安心できない。ふと、旭が開けた右乳首のピアスに触れて、ピアスを開けたいと言い出した気持ちを少し理解した。
旭は蒼葉の独占欲を嬉しいというが、蒼葉はその欲求をどういう形にしたらいいのかはっきりとしない。ピアスのように故意に外さない限りずっと身に着けるアクセサリーがいいのか、関係を公言することでマーキングしたいのかもわからない。少なくとも共通の知り合いに公言したところで得られる安心感はその関係性にしかないことはわかった。
閉塞した環境から生まれた気持ちが閉じこもったまま成長したから、外的環境に対する耐性がない。一般的な恋人関係の成立ではなく、特殊な環境から始まった分、心の許容範囲が極端に狭くなっている。行動範囲も感情の許容量も少しずつ広げなければ雁字搦めのまま停滞してしまう。
旭が強引にでも半日外出したのは、旭の同期だという精神科医にきっかけを与えられたのかもしれない。彼は旭の状況を蒼葉より把握している。過労と不眠で休職したこと。蒼葉を監禁したこと。その末にいま、蒼葉と一緒に南の島に転居してそれでもまだ引きこもっていること。彼は旭にリハビリと言ったが、それは蒼葉にとってもそうかもしれない。
耳で老年の男の声を聞きながら、蒼葉は旭の寝顔を見ながらぼんやりと考えていた。
怪我をしてリハビリが必要なように、心が疲れて休んでもやはり社会に戻るために段階を踏まなければならないのだろう。蒼葉自身は自分に不眠やその他の心的ストレスを抱えていなくても、旭に向けている気持ちが誰にも邪魔されないふたりだけの場所で保護されていた分、やはり積極的に外に踏み出す気になれない。
他人に背中を蹴られていると思うと癪ではあるが、事実だ。
昨晩の旭は疲れていてろくに話もしないまま眠ってしまったからどうするつもりなのか蒼葉はまだなにも知らない。けれど、蒼葉がきっかけを与えられたと感じているくらいなのだから、旭はもっと冷静な判断を下しているだろうと思う。そう思いたい。そして旭が与えられたチャンスに乗るというのであれば、蒼葉は否定したくない。嫌だというのは感情論で、それは客観的に見れば正しくないこともままある。現状を感情だけで否定するのは最適解とは言えない。
局面に蒼葉と旭しかいなく、それだけで成り立つのならいい。しかし現実はそうもいかない。生活していく以上、外に出なければならない。働かなければならない。外部との接触は避けられない。現実の中で社会的に存在するためにいまは突破口が必要だ。少なくともこのままでは詰みになることは明確で、蒼葉がひっくり返した盤面が少しだけ延命しただけに過ぎない。
盤面のステージと環境と関係性が変化しただけで、まだゲームはクリアしていない。生きている限りその繰り返しなのだろうが、蒼葉が突然放り込まれた盤面はひっくり返ったけれど、旭のシナリオを破棄した分、その先を突破しなければならない。現実逃避からの脱却。
蒼葉は溜息をついて、考え事をしているうちに一コマ分の講義を終えて無音になったイヤホンを外して眠ったままの旭に身を寄せた。
旭がぐっすり眠っていることは珍しい。蒼葉ももう少し眠りたいと瞼を伏せた。
二度目に目覚めた時は擽ったさを感じて意識が浮上した。額に触れる指の感触がして瞼を上げるとかすむ視界の先に旭の穏やかな顔が見えた。普段と同じ柔い表情で眠っている蒼葉の前髪を弄んでいる。
「おはよ」
「おはよう、蒼葉。随分寝たね」
「二度寝だもん」
ゆるゆると旭の指に撫でられたまま蒼葉は答えた。昨日半日離れていたことがなかったかのように、普段通りで蒼葉は戸惑う。昨日のことをなかったことにしてはいけない。旭にも切り出すタイミングがあるだろうと思いながら、蒼葉は無理に言葉を引き出そうとするのを飲み込んだ。
「旭の寝顔観察してから二度寝した」
ふふ、と笑って蒼葉は旭の手を捉えた。視線の先で旭が驚いている。
「……なに驚いてんの。旭だっていまめっちゃ俺の寝顔見てたじゃん」
「そうだけど。ぼくの寝顔見てて楽しい?」
「旭は楽しそうだよ」
返事をはぐらかすと旭は顔を赤くした。いつもしている癖に今更と思いながら蒼葉はにやりと笑って続けた。
「よく旭だってしてるじゃん。旭が楽しいなら俺が同じことをしたって楽しいに決まってんだよ」
捉えた手を離さないまま蒼葉が言うと、ずっと蒼葉を見ていた旭はばたりとベッドに突っ伏して空いている方の手で頭を抱えた。
「いや。だってぼくは蒼葉のことが好きだからいくら見ていたって飽きないけど、蒼葉は……」
「旭さあ。俺が何回あんたのこと好きだって言ったら気が済むの? 旭が無防備に爆睡してるとこ見てるの、俺も楽しいし安心するんだよ」
「疑ってるわけじゃないよ。でも、安心するは初めて聞いた」
「うん。だって初めて言ったもん。あんまり、旭がいろんなこと触れて欲しくなさそうだから言わなかった」
やはり、どうしてかベッドの中で話すとすんなりと出てくる言葉がある。少なくとも蒼葉はそう感じている。すぐに触れられる距離。温度が伝わりそうな距離。そんな距離感が気持ちを解く。
「旭さ、昨日疲れてたけど、今朝めっちゃぐっすり寝てたんだよ。……だから、昨日のこと嫌じゃなかったんだろうなって思った。旭、いつも俺より先に起きてるじゃん」
特に昨日のことを探る気はなく、蒼葉はただ見て感じたことだけを言った。声に重さはなく、軽やかでさえある。昨日のことは旭が言いたくなったら聞けばいい。
「蒼葉にはそう見えたんだ」
「あんたが爆睡してたってことは単純に疲れたんだろ」
顔を上げた旭が訊いてきて、蒼葉は率直な返事をした。
旭は時々、蒼葉の言葉に驚くことがある。恐らく蒼葉のことは事細かに見ているが、自分自身に向けている関心が低いのだ。だから、蒼葉が何度好きだと言っても定期的に確認して、蒼葉の些細な言葉に驚く。
「うん。昨日は疲れた。久しぶりに長時間外に出たし、他人と一緒にいたし、案内役だったし……別の話もあったから。……でも、心地いい緊張感と疲労だった」
「行ってよかったじゃん」
深い色を湛えた目を伏し目にする旭はその気持ちを悪いと思っているのだろう。蒼葉はぐしゃぐしゃと旭の髪を撫でまわした。
「だって、蒼葉をひとりにして出かけたのに」
蒼葉の手の下で旭は困惑した声で言う。
「そんなん、いつまでもこうしてられないのわかってんじゃん。旭は旭のしたいようにすればいいよ。別に突き放してるんじゃない。ただ、俺と旭が同じタイミングで外に向かわなくちゃなんない訳じゃないってだけじゃん」
「だって、蒼葉」
感情を横にしたことを言う蒼葉を旭は引き寄せて強く抱き締めた。痛いくらいに抱かれて蒼葉は目を丸くする。旭の声が同じくらいに痛く蒼葉の耳に届いた。蒼葉に旭の気持ちが理解できる分、腕の強さも声の痛々しさも苦しい。
「旭はさ、離れたら俺がいなくなると思ってんの」
「……思ってない……」
「旭が俺を理由に引きこもってんじゃないんだったら、なにがあんたを迷わせてんの」
既に旭は矛盾したことを言っていることに気付いていない。蒼葉は旭の感情が自分に向かう時だけ冷静さをなくすことをもう知っている。
精神的に追い詰められた末とはいえ、面識のない状態の蒼葉を監禁するほどの独占欲を旭は持っている。この閉じこもった生活から抜け出す決心をすることが難しいことは想像に難くない。理性では判断できても感情がブレーキをかけてしまうことはままあって、旭はいまその狭間で揺れているのだろう。ただでさえ、いまの状態が旭の想定を超えたところにある。
「一年近くなにもしていないから、復職するのが怖い。まだぼくを前のままで評価されると、違うと思う。それにぼくは犯罪を犯している。そんな人間が倫理観を求められるところにいていいと思えない」
強く抱かれたまま蒼葉の耳に届く声は震えていた。旭が言う犯罪は蒼葉を監禁したことだとは明白だ。言葉の前半部分は蒼葉にはどうしようもないが、そのことだけは否定できる。
「旭。あんたのことを犯罪者じゃないって言い切れない。でも、あんたは俺を監禁したけど、ぼんやり適当に生きてた俺をいい方向に変えた。それにもっと無理矢理で酷いやり方で俺を捻じ曲げることはきっとできたのに、しなかった。あんたに必要な倫理観がないと思わない。あんたは、追い詰められて全部なくそうとしただけだ。それも、俺を巻き込んで無理心中しようとしたわけでもない。あんたのシナリオは、俺を被害者にして加害者は捕まるはずだった。予定通りなら俺はここにいないし、旭はそうやって悩んでない。俺があんたを好きになったからだ。あんたが倫理観もクソもないクズだったら、好きにならなかった」
「蒼葉に励まされると、ぼくでもいいのかなって思える」
耳に触れる旭の声はさっきよりも緊張していないけれど、抱き締める腕の強さは変わらなかった。蒼葉が絶対に言えるのは旭の不安の後半部分でしかない。前半部分はただの憶測になってしまう。けれど、旭は蒼葉の言葉を欲しているように思えた。
「じゃあさ、これからは俺のただの考え。一般論かも。でもさ、復職っていつかしなきゃなんない。旭が過大評価されていようとどうだろうと関係なくて、単純に働かないと食っていけないから。それを怖がってたらいつか俺たち共倒れになるんだよ。んで、シューショクもなんもしないであんたの世話になってる俺が言えた義理じゃないんだけど、旭のことをまだ買ってくれる人がいるんだったら乗らない手はない。旭が本当にもう医者やりたくないって言うならほかの仕事探すしかないけど、違うんだろ。あんたは難しい仕事に就いてる。俺がなりたいって言っても無理な仕事だ。そういう仕事に就く努力をしたんだと思うし、そうなんだろ。それで本当に嫌になったなら仕方ないけど、あんたが休職したのはミスをする前に休む選択だろ。じゃあ、仕事自体が嫌になったんじゃないはずだ」
「うん。そうだね」
溜息交じりの声が穏やかに緩んで蒼葉はほっとした。抱き締める腕も緩んで、旭はぎゅうぎゅうに抱いた蒼葉に緩い腕を回したまま顔が見えるところまで距離を取った。蒼葉の目に旭の困り顔が映った。
「蒼葉と離れたくなくて甘えちゃうんだ。情けなくてごめんね」
「あんた、それで納得するんだったら俺の口車に乗せられやすすぎ」
「いいよ、それでも」
困った顔のまま笑って旭は蒼葉の頬を撫でる。
「ぼくは、蒼葉の言いなりでもならないと動けないかもしれないから」
「じゃあ、俺のことも聞いて。んで、あんたはどう思うのか言ってよ」
「うん」
外に向かう話をしたからちょうどいいと旭が蒼葉のことはどう考えているのか聞きたくなった。このまま旭が納得するのであれば、旭は昨日の話にいい返事をするだろう。そうしたら、蒼葉はいよいよ自分の身の振り方をどうにかしなければならない。
「俺はまだシューショクとか何になりたいのとか、はっきりしてない。旭と一緒にいるって口実で一年近く俺はなんもしてなくて、いまだにどうしていいのかわかんない。適当にリーマンやるんだったらできるだろうけど、そんな適当さで仕事決めたくない。検索条件一、あんたと離れないこと。つまり、遠距離の転勤がないこと。検索条件二、人の役に立ちたい。すごくぼんやりしたこと言うけど、俺がいまから医者になれなくても、近い仕事だったらいいかもってなんとなく思ってる。でもいまの俺じゃたったこれだけの条件を満たす仕事がなんなのかわからない。色々資格とかあるのはわかってるけど、どれが自分に向いてるのかがわかんない」
自分で進路も決められないなど情けないと思う。蒼葉が相談できる相手も頼りにできる相手も旭しかいなく、真面目な顔で訊ねた。
「蒼葉はさ、元々なんにでもまっすぐで真面目なんだよ。大学に戻るのも戻らないまま仕事を探すのも、このままぼくに依存していればなんでもよくていいのに」
「それは嫌。あんたにずっと養ってもらうとか、そういうのはムカつく。それにあんたがまた仕事を休むことにならないって保証はない。だから俺は俺でちゃんとしたいんだ」
やはり旭は蒼葉に無理に働けとは言わない。
「旭は俺がひとりで外に出たら帰ってこなくなると思う? あのさ。俺、昨日公園でランニングの休憩中にテツヤたちと会ってひとりだったから旭のこと訊かれたんだけど、あいつら旭のこと兄貴かなんかだと思ってたらしくて、彼氏だってバラした。別に気持ち悪いとかそういう反応されなくて、納得してた。ガキだからかな。でも、俺は嬉しかったしあんたも喜ぶんじゃないかと思った」
昨日、蒼葉がひとりの時のことを言うと旭は何度か瞬きを繰り返して驚いていた。蒼葉にはそのことが驚くほどのことかどうかはわからない。けれど、蒼葉は第三者に自分たちの関係を隠すつもりはなく、訊かれたから答えたことを単純に話しただけだ。
他人に関係を明示することは、簡単にいなくなる気はないことを遠回しに主張してもいた。
「……そっか。うん。それはぼくも嬉しい」
ぽつりと旭は少し照れた様子で呟いた。蒼葉は同性愛者がどのような扱いを受けるものなのか知らないが、最初旭のことを同性愛者だと気付いて恐怖した自分のことは知っている。
なにかしらの偏見を持たれても不思議はないが、少なくとも蒼葉と旭の周りには偏見を持たずにふたりの存在を認識している人間がひとりとひとグループいる。旭に薬を処方している同僚だという医師と、テツヤたち。旭の同僚の医師は、旭の行動を把握した上で復職させようとしてくれている。充分恵まれた環境だと蒼葉は思う。
「その話はついでなんだけどさ。んで、俺は俺でちゃんとシューショクしたいの。でも、なんになりたいかはっきりしない。旭は俺のこと、俺より知ってるじゃん。俺に向いてるショクギョーってなんだと思う? 言っとくけど、参考までに訊いてるだけだからな」
蒼葉が念を押すと、旭は「んー……」と声を出してしばらく考えていた。
「蒼葉の条件は遠くへの転勤がないことと、医療に近しい仕事。それだけなら資格は必要だけどいろんな仕事がある。中には働きながら資格を取れる仕事だって。介護福祉士、保健師、ケアマネージャー、理学療法士、心理士、看護師、柔道整復師……ほかにもあるかな。ほとんどの医療関連の資格は医師の指示がないと医療行為ができないけれど、柔道整復師は脱臼や骨折に関する医療行為が単独で認められている。怪我のリハビリをしたり、ストレッチやトレーニングの指導をしたり……蒼葉には耳の痛いことかもしれないけど、ぼくは向いていると思う。蒼葉は自分も怪我をしたから、患者の気持ちがきっとわかる。それに、咄嗟の時に医師の指示がないと許された範囲での応急処置しかできないような仕事は、きっと蒼葉には歯がゆいんじゃないかな」
ゆっくりした口調で旭は思いつくことを並べて、その中からひとつに関してくわしく話した。蒼葉はじっと旭の言葉を聞いていた。初めて聞く資格ではない。蒼葉も調べたが、なにが向いているのか結局わからなかったのだ。
「じゃあさ、これは仮定の質問。もし俺がそういう仕事に就きたいって言ったらこれまで大学にいた分は全部パーになって、専門学校なり大学なりに入り直さなきゃなんない。二年? 三年? 四年? まあ、長くて四年。その間、バイトはする気あるけど俺は相変わらずあんたに頼っちゃうんだけど、それでもいい?」
「もちろんいいよ。蒼葉が蒼葉らしい方がぼくは嬉しい。だから四年くらい全然平気だよ。それに、その分ぼくがここから動けなくなる言い訳にもなるから、いい」
ふふ、と悪戯そうに旭は笑った。
「旭。それって」
「まだ決めてない。でも、蒼葉が先のこと決めるならぼくもちゃんとしないとって思っただけ」
ゆるりと抱く旭の腕に蒼葉は捕まった。片手が頭を抱えて撫でられる。
「……蒼葉はすごいな……ぼくは選択肢を挙げただけなのに、もう行動に移してしまいそう。蒼葉を見ていると、立ち止まっていられないって思っちゃう。すごいよ」
しかもどこか誇らし気に言う旭に、蒼葉は照れて躰を突き飛ばした。
「なにも凄くねえよ。ひとりじゃ自分のことも決めらんねんねえんだよ」
蒼葉がつっけんどんに反論すると、突き飛ばしてもなお旭に撫でられた。
「それでも凄いよ。先のことを見ようとしている。わからなかったら人に意見を求められる。ちゃんと自分で決めたいと思ってるから、助言を求めるんだ。だから、蒼葉はそのままで大丈夫。とてもかっこいい」
「馬鹿。もういい加減起きんぞ」
照れ隠しに馬鹿と言って蒼葉はベッドを降りた。キッチンに向かってコーヒーを入れに行く。
「旭、コーヒー飲む?」
「うん」
キッチンでケトルに水を注ぎながら声をかけると、普段通りの旭の声が返ってきた。旭の飲むコーヒーにはミルクをいれるから、カップに半分注いだ牛乳を蒼葉はレンジに突っ込む。蒼葉が勝手にそうしている。そして、蒼葉も同じくミルクをいれたコーヒーを飲む習慣がついた。
飲みすぎというほど頻繁に飲まなくてもカフェインが不眠に良くないことは蒼葉でもわかる。ほんの些細な蒼葉なりの気遣いだが、恐らく旭はわかっていてなにも言わない。ただ、穏やかに蒼葉のいれたコーヒーを嬉しそうにする。
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