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「そうだ、蒼葉。靴。走る用の。買おう」
毎日三十分と時間を決めて習慣にしているストレッチをしている最中に思い出したように旭が言い出して、蒼葉は首を傾げた。
「スニーカーあるけど」
「だから、走る用の。ソールが厚くて足に負担少なくなるやつ」
「ん-……普段からバッシュだけど、楽だよ」
「ああ、そっか。機能的だよね。じゃあ大丈夫かな。蒼葉ってさ、ポジションどこだったの」
ぐいと足首を伸ばしながら旭は珍しいことを訊いてくる。
「ポイントガード。旭さ、バスケのポジションわかんの」
「少しはね。納得した」
更に旭はそんなことを言って笑う。蒼葉には旭が笑う意味がわからない。
自分でできるストレッチには限界があって、動かなくなった分の筋肉や筋を伸ばしてほぐすことは旭に頼っている。怪我をした左足だけでなく均等にした方がいいと旭が足を伸ばしていくのにはもう慣れた。
「納得ってなに」
「蒼葉って感情的に見えて、ロジカルだから。ぼくに蒼葉のことを諦めさせなかったのも、蒼葉がぼくの計画に亀裂を入れたから。だから、こうしているんだけど。もしかしたら、ぼくは蒼葉に勝てないのかもしれないなあ」
普段はその穏やかに笑う顔のまま危ないセックスをして蒼葉の体力を奪う男が困り笑いを浮かべた。その顔を蒼葉は気に入って、鼻で笑い返した。
「旭は頑固で攻略し甲斐がある」
「そんなゲームみたいな気持ち?」
右足を強めに伸ばされて「いってえ」と思わず蒼葉は抗議した。視線の先に、悪戯に笑う旭がいる。
「ゲームの方が簡単だよなあ」と蒼葉は苦笑した。
蒼葉は旭が言うほどロジカルではない。少なくともいまは。バスケットボールをしていた頃でも、練習や試合中には先を見通して局面を考えるが、普段は気にしたことなどなかった。怪我をした後はそんな思考すら忘れていた。思い出させた当人がなにを言うのか。
「旭はさ、いい躰してんのになにやってたのかとか全然想像つかなかった。なんでだろ」
するりと矛先を変えると、旭は苦笑した。
「だって、昔やってたって言っても中学までだから本当にちょっとやってただけだし。ジムに通ってたのも体力つけるためで、結局は仕事に付随するような感じだから……最後の方はただの義務感とか仕事のサイクルの一環。だから、楽しむとはちょっと違うからじゃないかな」
「あー……走りに行くのもそういう感じ?」
前屈をしながら蒼葉はなんとはなしに訊いた。
「似ているかもね。疲れれば躰は休息を取りたがるから、ただの理屈でしかないね」
「旭って楽しいことある?」
「蒼葉がいたらいつでも楽しい」
相変わらず旭は本気なのか冗談なのかわからないことを言う。まるで他の人間などどうでもいいかのように。けれど、蒼葉の背中を押していた旭の片手がするりと胸に回って指先がシャツの上からピアスに触れた。確かめるようにシャツ越しに貫かれた乳首の先端を撫でる指に独占欲が滲む。ストーカーと監禁。そうしてまで手に入れたかった存在ならば、蒼葉に旭を否定しようがない。
少し触れて確かめただけで離れていった指先は煽情的でもなく、ただの確認だ。
たぶん、旭が楽しいと思うことに関して蒼葉は口を挟めない。社会的地位もなにもかも捨てても構わない覚悟をした旭の喜びを蒼葉は否定できない。
「蒼葉がストレッチやり始めて、欠かさないのも、嬉しいから、きっと朝早くにひとりで走るより楽しいと思う」
ぐ、と最後にひとつ前屈の背中を押して旭が笑った気配がした。毎日のストレッチのメニューは終りでいつもならその後は互いに好きなことをしている。時々、一緒に買い物に出かけることもある。
「じゃあさ、走りに行く?」
せっかくストレッチをして躰を伸ばした後で丁度いいかと蒼葉が言うと、「それは明日からにしよう」とやんわりと旭に止められた。提案してきたのは旭の方なのにと首を傾げると、説明された。
「なにも準備できてないんだよ。靴の心配はなくなったけど、毎日ストレッチしているからっていきなりそんなに長距離を走らせる気もない。でも、やっぱりぼくに付き合ってほとんど外に出ていない蒼葉がいきなり運動するのは心配だから、テーピングくらいはしてほしい。ぼくもそこまで用意がいい訳じゃないんだよ。だから、今日は買い物行こう」
「心配性だな、旭」
「無理しないこと。負担をかけないこと。焦らないこと。大事なんだよ」
「はいはい。あー……それ、怪我した時、耳にタコができるくらい聞いたな。聞きすぎて、うんざりした」
ふと思い出して蒼葉は苦笑した。
「そんでうんざりして、こっちは焦ってんのにとか思ってもどうにもなんなくて投げ出してりゃ世話ねえよなあ」
伸びをしてストレッチで軽くなった躰を確かめて蒼葉は笑う。価値観の中心が突然なくなって自棄になっていたとはいえ、まだ子どもじみていた。いまが大人かといわれれば、ただ成人して二十歳を超えただけで大きく変わっていないが、少しだけましになれたと思う。
「病院に勤めている人はね、どこの科でも同じことを言うんだよ。医師だけでなく、看護師も理学療法士も臨床心理士も介護士も同じことを言う。うんざりしてもしょうがない。怪我だけじゃなくて病気も同じで……本当のことなんだ。でも、焦る気持ちも否定できない。ままならないんだよ。医者なんて魔法使いにはなれないからね」
「あのさあ、俺、旭がいなかったらリハビリしようなんて思わないまんまだったよ。バスケのことも忘れてた。最初が監禁でも暴行でももう関係なくて、俺はあんたが好きだし、感謝してる。遠回りしたけど、後悔したってどうにもなんねえし、俺はガキだったんだよ。だから、旭。俺はあんたが大事なの」
不思議とするすると言葉が出てきて蒼葉は晴れやかに笑った。監禁も暴行も事実で覆らないけれど、そんな異常な状況からでも好きになって、前の自分よりましになっているのなら蒼葉は構わないと思う。その言葉を自分から口にすることは普段はなく、出す気もない。それでも嫌な意味ではなく、すんなりと言ったことに蒼葉自身も多少驚いた。
「錯覚の好意で満足するつもりだったのにな」
「旭ってさ、ホンモノかどうかまだ疑ってるの。だからあんなセックスするの?」
「もう疑ってないよ。セックスは……はじめはそうだった。蒼葉が気持ちいい顔を見せてくれるなんて思ってなかったから、酷いことばかりした。そうして嫌われても、錯覚の好意でもぼくはどっちでも区切りをつけれると思ってたんだけど……実際は違って。酷いのに、痛くて苦しいことも気持ちよくなっちゃった蒼葉が、いまは可愛くて仕方なくて、加減できない」
ほんの少し視線を逸らして顔を赤くして困る旭に蒼葉は満足する。旭はずっと蒼葉を可愛いと言うが、蒼葉はその可愛いを言葉通りだとは思っていない。
いわゆる可愛らしいと似ていて、少し違う。男である蒼葉を同性愛者の旭が可愛いと言うことは理解できなくもないが、もっと子どもが大事にしているものに無作為に言う言葉に似ていると思う。
「旭がさ、俺をそういう風にカスタムしたんじゃん。良くなるのは俺が勝手になったけど、そういうことを教えたのはあんただよ。駄目なもんは駄目って言ったのもあんただ。それに知ってるか? 旭、酷いって言うけどヤバイことしてる時ほど、あんたえろい顔してるから興奮すんだよ」
「蒼葉なに言ってるの!? ちゃんともっと危機感もってよ。そんな風に言っちゃ駄目だよ」
慌てて声を荒げる旭に蒼葉は不敵に笑う。
「旭に対して危機感なんてないんだよ。なあ、買い物行くんだろ。さっさと行こうぜ。遅くなる」
「蒼葉ってさ、時々、大胆だからびっくりする」
「なあ、それ旭が言う?」
「ずっとずっと大好きになっちゃうから……困る」
ぽかんとしてから本気で困った顔をする旭を見て、今更なにを言うのかと蒼葉は思う。それでも旭はストレッチ用に敷いたマットの上に座り込んだまま片手で顔を隠している。
「なんで困るの」
「加減できないって言ったでしょ」
「いいよ。そんなんしなくて。ほら、買い物行こ」
「うん。……あのさ。現実って想像を簡単に飛び越えてくよね」
普段は穏やかな顔をしている旭が時々、蒼葉の言葉に慌てて困って顔を赤くして忙しく表情を変える。それは蒼葉が旭の想定を超えた時なのだとわかると、やっぱり笑いが込み上げた。
「旭さあ……時々、馬鹿だよな」
「いいよ馬鹿で」
少し笑って旭は立ち上がってストレッチ用のマットを畳んで蒼葉に渡してきた。マットを受け取った蒼葉はマットを仕舞って、一緒に買い物に出かけた。
翌日からストレッチの後、蒼葉は旭とランニングするようになった。左足のテーピングは旭が施した。やはり蒼葉はテーピングをしている旭の手元を見ていると、迷いがなくて惚れ惚れとする。
南の島の夏は暑いが、それ以外の季節は温暖で過ごしやすいけれど、秋には台風が来やすい。雨の日以外は夕方に走るけれど、単純に運動を避けていたこととあまり外に出ていなかったために蒼葉は慣れるまでペースが掴めずに早々に息を上げていた。
「蒼葉。早く走ろうとしなくていいんだよ。街中だし、通行人もいるから危ないし。もっとペース落としてもいい。ええと……いまの三分の一くらいの力加減でゆっくりしたら、丁度いいんじゃないかな」
ランニングコースの折り返し地点の公園でひと休みしながら呼吸を整える蒼葉の隣で旭が言った。
「旭にはそう見えんの」
「うん。ストレッチを続けているのもランニング始めたのもいいことなんだけど、蒼葉が急いでいるように見えるかな。……もっと、気晴らしくらいの気分でやればいいのに、焦ってるように見える。焦ると無理しがちになるから、良くないんだ。でも、気持ちって他人が簡単に変えられるものじゃないから難しいね」
旭の苦笑を見て、蒼葉は医者という立場は難しいのだろうと思った。
確かに蒼葉は多少焦っているのかもしれない。約四年分の体力の低下。思うように動かない躰。毎日当然のように走っていた頃を覚えているから、同じように動きたいのに怠けていた分いうことをきかない。当たり前のことだと納得していたはずなのに、走り出すと躰が記憶していた動きができなくて焦っている。
「あー……なかなか思い通りになんていかねえよなあ」
「うん。でもね、大丈夫だから」
空を見上げて蒼葉が悪態をつくと、隣で旭がそんなことを言った。慰めではない。恐らく根拠がない訳でもない。ただ、蒼葉の気持ちをゆるりと宥めた。
「あ。ボール。誰か忘れてったのかな」
空を見上げたついでに公園の一角にあるバスケットゴールの近くにぽつんと置き去りにされたボールが目に入って、蒼葉はベンチから立ってそれを拾いに行った。
正規のハーフコートよりももっと小さいサイズ感で、荒く舗装された地面に引かれたラインが掠れている。拾い上げたボールには空気がしっかり入っていて、きっと忘れものだ。手のひらに触れる表面の感触が懐かしい。両手の中で何度か弄んで、その場でふたつドリブルすると蒼葉はそのままジャンプシュートで手の中のボールを放った。
スリーポイントラインは実際のコートよりももっと近かったけれど、入るかどうかなど考えず、ただやってみたくなった。ボールの打点は低いけれど、軌跡はそう悪くない。ボードに当たったボールはリングに当たってからゴールネットの中に落ちた。
ほんの少しだけ満足して踵を返すと、旭が嬉しそうに驚いた顔をしていた。
「俺、かっこよかった?」
「うん。かっこよかったよ、蒼葉」
「入ってなかったらダサかったけどな」
「ううん。蒼葉はかっこいいよ」
どうしてか旭は蒼葉がリハビリをしたいと言い出した時と同じくらいに嬉しそうにしている。
「蒼葉がプレイしてるとこ、見たかったってぼくが言っちゃ駄目なんだけど」
眉を下げて困り笑いをする旭は時々、本音を零す。怪我をした蒼葉しか知らないから。医者だから。旭がどうやったとしても、精々記録の録画でしか見れなかった姿だから。
蒼葉はゴール下に転がるボールを拾いに行って、ふと思いついた。
「見るだけでいいの? そんなこと言うなら少し付き合えよ。ワンオンワンしよーぜ。スリーゴール取ったら勝ち。いっこ言うこときく。どう?」
「いいよ」
止められるかとも思ったが、案外あっさりと承諾した旭はベンチからコートの方へ走ってきた。と思うと、蒼葉がハーフコートの端まで来て弄んでいたボールが奪われた。
「あっ!」
開始もなにも言っていないのに、と思う反面、反射的に躰が旭を追った。小さなハーフコートではゴール下までの距離が短くて一瞬の隙が勝負を決める。シュートこそ入らなかったものの、ちり、と蒼葉の中でなにかが燃え出した。
ラインを超えたボールを拾って、ひとつふたつドリブルしながら蒼葉は考える。ワンオンワンだから当然旭は蒼葉の前で隙を狙っている。サッカーをしていたとは言っていたが旭の姿勢は隙だらけで、抜くことは簡単だ。けれど、それだけではまだ悔しい。身長は旭に分がある。
垂直ではなく後方にジャンプして蒼葉はシュートを放った。目の前の旭の身長を加味して、瞬発で反応されると弾かれるかもしれない。けれど打点は少し高くなる。
「ええ!? 蒼葉、それ狡っ」
旭はブロックしきれずに振り向いた先のゴールに吸い込まれたボールを見て悔しそうに言った。
「狡くない。先にあんたがズルしたからな」
ふん、と笑うと蒼葉はボールを拾いに向かった。蒼葉がワンゴール決めたから次は旭がボールを持つ番で、ゆるいパスを渡した。
「どうすんの、旭。あっさり俺にスリーゴール取られていいの?」
「蒼葉さ。ハンデとかないの? ぼく、未経験なんだよ?」
「ないね。さくっとスリーゴール決めてあんたのことめっちゃ困らせたくなってきた」
「あーあ……蒼葉ってさ、意地悪だよね」
ゆっくりとドリブルして進む旭と、旭の方へと歩く蒼葉の距離が縮まって互いに三歩の処で緊張感が増した。旭は未経験だというけれど、器用にボールを操っている。どこにハンデをやる必要があるのかと蒼葉は笑いたくなってしまう。隙はない。姿勢やボールさばきこそこなれてはいなくても、元来の器用さで補っているようだ。
くす、と笑って蒼葉は一歩踏み込んで手を伸ばした。さすがに簡単に奪わせてはくれずに、ボールが旭の右手から左手に移ったところを躰を捻って左手で奪った。ワンオンワンのハーフコートでゴールは常に同一方向。ディフェンスならゴールは背後で、そのままの勢いで躰を反転させてシュートを打つ。ボールはゴールネットに吸い込まれていったが、軸足にした左足首が無理をしたのかずきりと痛んだ。
「あのさー! あんたたち、見てて面白いからいいんだけど、そのボールここに転がってたやつじゃない? だったら、俺、忘れてって取りに来たんだけどー!」
ふと突然かけられた知らない声に蒼葉も旭も声の方を向くと、中学生くらいの少年が三人並んでいた。
「あー、ごめん。ちょっと借りてた。返すよ。おかげで楽しませてもらった」
ゴール下からボールを拾って蒼葉が声をかけて来たと思われる少年に返事をした。忘れ物の持ち主が現れたなら、ゲームは終了だ。手の中でボールを弄びながら汚れを払って「ありがとな」と手渡す。
「あんた上手いな。でも、見ない顔だ。今度、俺らともやんない?」
人懐こいのか、ボールを受け取った少年は蒼葉にそう言ってきた。
嬉しい誘いではある。けれど。
蒼葉は旭を振り返った。そんなに遠い距離でもないが、旭は少年たちと距離を取ったままだった。
「旭ー。今度バスケしよって誘われたんだけどー! いい?」
「いいよ。無理しちゃ駄目だからね」
旭は少し笑っていたようだった。
返事を聞いてから蒼葉は少年に向き直って「いいよ」と返事した。
「あっちの人はあさひさん? あんたは?」
「蒼葉。あ。今日スマホとか持ってきてないや。ここさ、ランニングの途中の休憩ポイントなんだ。だいたいこの時間にあっちのベンチで休憩してるから。今度見かけたら声かけるよ。お前らの名前は?」
「俺がテツヤで、こっちがアキラで、そっちはユウキ」
「おっけ。じゃ、またな」
名前の確認だけして蒼葉は手を振ってから旭の方へと戻った。
「旭。拗ねてんの?」
「拗ねてないよ。蒼葉は凄いね」
柔らかく笑う旭に違和感を覚えて蒼葉は並んで歩きながら「嫌だった?」と訊いた。
「嫌だったらぼくはいいよなんて言わない。蒼葉がぼくのことを気にしているなら、原因はわかってるんじゃないのかな。さっきもぼくは言ったよ。無理しちゃ駄目って。……ぼくからボール取ってシュートした時、足、痛かったでしょ」
「ああー……そっち? そんで、バレてんだ?」
「わかるよ。どう無理がかかったのかまではわからなくても、蒼葉が痛い顔したらわかるよ。だから、今日はもう走らなくていいからゆっくり帰ろう」
「うん」
溜息をついて蒼葉は頷いた。片道だけ走った距離をゆっくり歩いて帰る。左足が痛んだのは一瞬で、もう痛みはないけれど、確かにその時蒼葉は怖いと思った。旭が焦るな、負担をかけるなと言い、しっかりテーピングをしていたのに、日常的な動きではない負荷をかけると簡単に痛んでしまうのだと言葉の重さを知った。
久しぶりにボールに触ったのに、思うように動けないというのは想像以上に辛い。
「蒼葉はさ。簡単に友達を増やせて凄いね」
「楽しかったんだよ。んで、あいつらが誘ってくれたから、嬉しかった。でも、本当にあいつらとバスケするかはわかんない」
「やればいいよ。ぼくじゃ蒼葉の相手になれないのはわかったでしょ」
ぽん、と頭の上に手のひらを乗せられて、蒼葉は気持ちを見透かされている気分になる。
「蒼葉は無理しないで。それだけ約束して。ぼくはぼくが蒼葉にしてあげられることをする。蒼葉が楽しそうにしているとぼくも嬉しいんだよ」
「ん。ありがと」
俯きがちになってしまう顔を無理矢理上げて蒼葉が不器用に笑うと、旭はほっとしたような顔を見せた。
大方、旭はこのままリハビリを投げ出さないかとか、蒼葉が簡単に他人と親しくすることに不安を感じているとかしているのだろう。旭の独占欲は強くて、蒼葉はそういう旭のことを好きだと言っても他人が関わってくると簡単にはいかない。
「旭さあ、俺、別にちょっとくらい足痛くなったってリハビリやめねえよ? いままでほったらかしてたツケだろ。それなら俺の自業自得じゃん。んで、俺が誰かと話したり親しくなったりすんの嫌なら、俺はそういうことしないよ。旭の方が大事だから」
帰り道をゆっくり歩いて蒼葉は伸びをしながら言う。夕暮れ時の空が薄い青からピンクとオレンジに混ざっていて、温暖な気候は夏が過ぎても名残をずっと残している。ちらりと隣の旭に視線を向けると、普段の穏やかなままの顔をしていた。
「そんな無理しなくても大丈夫だよ。ぼくは蒼葉が大好きだから、蒼葉が楽しそうにしている方が嬉しい。さっきも言ったよ」
「独占欲の塊の癖に」
「うん。そうだよ。蒼葉のことは誰にも渡さないよ。誰かがぼくから蒼葉を奪うなら、絶対に許さない。でも、蒼葉が友達を作ることはそうじゃないでしょ」
蒼葉の悪態に旭は少し笑って否定もしない。多少物騒なことを言っている気がしないではないが、そういうことをすんなり言う旭を蒼葉は好きだ。
「あんたがいいなら、いいんだけどさあ。なーんかムカつくんだよな。なんだろうな」
「蒼葉はなにが嫌なの」
「まだわかんねえけど、なんかムカつく」
蒼葉は頭の後ろで手を組んで考えながら答えた。
はっきりとしない苛立ちが残る。旭は蒼葉の問いかけに明確な返事をしているのに、どこか引っ掛かる。たぶん、旭が悪い訳ではない。単純に蒼葉がその答えをどこか気に入らないと感じているだけだ。
「忘れるかもしれないし、なにがムカついてんのかわかるかもしんない。でもいまはまだよくわかんねえから、旭は忘れていいよ。あんたと険悪になりたい訳じゃない」
自分でもはっきりしない感情を引きずってもいいことはないと蒼葉はあっさりと切り替えた。旭はそれに「うん」と答えてその後は普段通りに雑談をしながら帰った。
家事は交代制で料理と洗濯、掃除を分担している。掃除は元々、本が多いくらいで物が少ない分そう負担にはならない。洗濯機を回している間に掃除はだいたい完了する。蒼葉も旭もものを散らかさない性質が似ていた。
料理は蒼葉の方が得意だった。転居してから旭は真面目な顔でレシピ本を読んで試行錯誤しているが、過労で休職していたくらいなのだから食事も栄養が摂れればいいくらいに考えていたのだろう。まともに一緒に暮らしだして旭の料理の腕前がいいわけではないことはすぐに発覚した。
その日は蒼葉が食事当番で旭が掃除洗濯当番だった。
早めの夕食を済ませて食休みをして、洗い物を済ませてテレビを見るわけでもなくのんびりと過ごす。そもそも家にテレビは置いていない。旭は疲れるから苦手なのだと言った。転居する前の旭の家にもテレビはなかった。蒼葉は特にそのことに不便を感じていない。自由になるスマートフォンさえあればだいたいの娯楽も情報収集も買い物もまかなえる。
いまの生活は外に出なければならない必要性が低い。
けれど、蒼葉は元々躰を動かすことが好きな性質だ。ストレッチだけをしていた時は特に気にならなかったが、ランニングをするようになって、久しぶりにボールに触れて楽しさを思い出してしまった。あまり外に出ない旭とは対極だ。
ランニングまでは旭にも悪いことではないからと言い訳ができても、それ以上のことを蒼葉は躊躇う。確かに、成人した男がふたりして常に一緒にいる必要はない。けれど、蒼葉は旭が休んでいるうちは傍にいたいと思っている。ひとりにしたくない。旭に危険性があるとは思っていないが、疲れたと言う旭の傍にいたい。それがなんの役に立つのかまではわからないが、気休めにでもなればいいと思っている。
そして蒼葉はふと気付いた。
このままの生活がずっと続けばいいのにと願っている自分に。
自分はこの先どうしたらいいのかと迷ったまま、旭にもずっと仕事に復職などしてほしくない。なにもないふたりだけの穏やかな日が続けばいいのにと願っている。雁字搦めのまま、ほかになにもない生活のままがいい。そんなことは無理だと知っていても、いつの間にかそんな願いが蒼葉の中に芽吹いていた。
「なあ、旭。シよ」
片耳で聞いていた講座の内容は少しも頭に入ってこなくて、イヤホンを外して蒼葉は旭の座る椅子に背中を預けていた頭を上げた。唐突な言葉に旭が蒼葉を見下ろして「急だね」と柔らかに言った。片手が蒼葉の頬を撫でていって、拒否されている訳ではない。
「シたくなった。あんたがめちゃくちゃえろい顔してんの見たい」
セックスで気持ちを確認するなど安直ではあるが、最中には感情が剥き出しになって誤魔化しがきかない。それは蒼葉も旭も同じで、常識もなにもなくぐちゃぐちゃな時にしか見えないものもある。
「ぼくは蒼葉が可愛い顔してるの、いつでも見たいよ」
椅子から蒼葉を見下ろした旭の指先が唇をなぞった。蒼葉の視線の先で旭が穏やかさの下に独占欲を滲ませて笑っている。頭を上げていて都合がよかったから、蒼葉は指が触れている唇をそのまま開いた。その姿勢だと喉の奥まで指が届きやすいことを知っている。
「旭の顔、見やすくていいな」
「見ている余裕あるの?」
「ないよ。たぶん」
くす、と笑う旭にあっさりと蒼葉は返事した。指が喉奥まで触れれば苦しくて目を開けていられなくなる。それでもぎりぎりまでぼやける視界に映る旭の顔は普段よりも見やすい。
ゆるゆると唇に触れていた指が開いたままの口の中に侵入してくる。旭はどこかうっとりとした顔をして蒼葉を見下ろしていた。口から喉まで届きやすくなっているのに、旭の指はゆっくりと蒼葉の上顎を撫でてすぐに深いところまで触れない。じわじわとした快感に蒼葉は言葉にならない声を零す。
上顎を撫でられると口が大きく開かれて喉が開くと期待が隠せないけれど、急かしたいのにままならない。喉を塞がれていないうちはまだ声を上げられるが、深く指が届くと声にもならない呻きにしかならなくなる。なのに旭は殊更焦らすように上顎を撫でて指を深くまで挿入しない。
「あ、さひ……きもち、い……もっと」
辛うじて舌を押さえつけられていない分、なんとか強請る言葉を絞り出すと薄い視界の先で旭は嬉しそうに笑っている。
「蒼葉、可愛いね。とっても、可愛いいい子だよ。だから気持ちよくてとても可愛い顔いっぱい見せて。ゆっくり、気持ちよくて苦しくなって」
額を押さえつけるのではなく、撫でるように空いた手で触れて旭はうっとりと嬉しそうに蒼葉の口の中を指で愛撫する。上顎をゆるく撫でていた指が舌を押さえつけるようにして撫でられて、蒼葉は唾液を嚥下を奪われじわりと苦しくなる。同時に言葉を発せなくなった。ひくりと躰が震える。
「う、ぐ……」
「うん。苦しくなっちゃったね、蒼葉。ゆっくりするからいつもより苦しいよ。でも、蒼葉が気持ちいいこといっぱいしてあげる」
上を向いていて下がる舌を強く押さえられて撫でつけられると、まだ指は喉に届いていないのに唾液にじわじわと喉が塞がれて呼吸が苦しくなる。飲み下せない唾液が次第に溜まってぐちゃぐちゃな音を立てて溺れそうなのに、苦しくて気持ちいい。なんとか酸素を取り込もうとする短い呼吸が蒼葉の感覚を鋭くする。
「蒼葉。苦しいのに気持ちいい顔、とても可愛いよ。大好き」
呼吸が難しくなるともう目など開けていられなくて、耳に届く旭の声と音と感覚しか頼りにならないが、蒼葉には旭の嬉しそうな顔が浮かぶ。普段見せるその顔とは明らかに違う種類の喜びを浮かべた旭の顔。
ぐちゃ、と唾液の溜まった口内の舌をゆっくりと撫でる音に蒼葉の興奮は煽られる。苦しさは増すけれど、苦しくされることに興奮する。
けれど、躰は嚥下できない唾液が溜まっていくことに耐えられずに舌を押さえつけられたまま咽てしまう。ごぼ、と喉が収縮して咳もできず唾液を吐きたがるが、上を向いているせいで吐くこともできない。苦しさに躰が痙攣する。旭はその度に指を深くして、何度か蒼葉が唾液を吐きそうになってようやく指の届く一番深くに触れた。
舌の根が押さえられて、指が喉奥に侵入しただけで蒼葉は身を硬くして軽く達した。苦しくて危ない場所を撫でつけられているということが快感になって、ゆっくりと喉奥を撫でられるといつもよりも敏感になった。じわじわと苦しさは増して長く続いて、同じように快感も増す。躰が勝手に硬直と弛緩を繰り返して、苦しい中で達するけれど、満足しきれない。指使いがゆっくりでずっと苦しくて気持ちいいけれど、もっと良くなれることを知っている。
「まだ物足りないかな。苦しくて気持ちいいところ、もっと欲しい? ねえ、蒼葉。欲しかったらぼくのこと見て?」
舌の根を押さえつけながら喉の前まで指を引いて旭が柔い声で訊いてくる。返事はできないから瞑ってしまっている視線を寄こせと言われて、蒼葉は瞼を上げた。視界に蒼葉の顔を覗き込んでいる旭が映る。嫣然と笑って、濃い色の目に悦びを湛えている。
声が出せない代わりに蒼葉は額を押さえている方の腕に手を絡めて旭を引き寄せた。セックスの最中、旭は何度も吐精するわけではないのに常に満足そうな顔をしている。どんなことをしていても──例え常識では危ないことでも──愛おしいものを撫でて可愛がって大事にしているように、うっとりと嬉しそうに笑う。
「いい子だね、蒼葉。とっても気持ちよくなろうね。いっぱい苦しくて気持ちよくて可愛い顔見せてね」
愛おしそうに額を撫でると、旭は口内に差し込んだ指を一番深くした。びくりと蒼葉の躰が震える。
喉が塞がれて呼吸ができないけれど、喉奥を擦られると気持ちよくて上を向いている分、舌が気道を余計に塞いで普段よりも苦しい。行き場のない唾液がぐちゃぐちゃな音を立てて口から零れる。
苦しくて、気持ちよくて、苦しい。
旭の腕を掴んだ手に力が入って、蒼葉は何度か痙攣してから大きく震えて硬く硬直して深く達した。喉奥にまだ旭の指を咥え込んで、呼吸を奪われたままいつまでたっても躰が弛緩しなくて、ずっと絶頂の中に漂っていたい。なのに、ゆっくりと喉を塞いだ指が引き抜かれていって蒼葉の額に乗っていた手が離れてキスが落ちた。
「……可愛いね、蒼葉……」
ゆるりと旭の両腕が蒼葉に回って、うっとりと囁かれた。
まだ喉奥を撫でられて達した余韻に浸っている蒼葉はなされるがままだが、触れる温度も声も心地いい。呼吸の自由が戻って、喉が痛くなるほど息を繰り返すけれど、全身が熱くなってしまって躰全部で感じて絞り取りたくなる。
「もっと、シよ。痛いのも苦しいのも危ないのも、全部シよ。旭が気持ちよくなることも、シよ」
「蒼葉は全部気持ちよくなっちゃうからなあ」
「旭、なんかヤリたいのに我慢してんの?」
「我慢ではないかな」
椅子の上から抱き締めたまま、旭は蒼葉の耳元でくすりと笑った。片手が蒼葉の胸と腹を伝って、まだ衣服に包まれている陰茎に触れた。
「最近の蒼葉、こっち、あんまり欲しがらないね? いらないの?」
「ケツのが、気持ちいい」
「今度、普通じゃないことしていい?」
旭の声にほの暗い欲望が垣間見えて、蒼葉はぞくりとする。それは知らないことへの期待。
「なに、それ」
少し硬く反応している陰茎を服の上から撫でられて、絶頂のすぐ後で蒼葉はひくりと震えて返事した。
旭の手が陰茎を包んで、衣服の上から先端を指先で撫でて刺激する。
「ここ。細い専用の器具を入れてもいい? 怖い?」
尻から直腸に指や陰茎を挿入するのですら当然になってしまった蒼葉でも、旭の言葉にすぐには頷けなかった。蒼葉が旭の言うことを全く理解しないのではなく、想像の範疇外でそうされた時の予想もつかない。
「……ぼくはどんどん、危ないことを蒼葉にしたくなってしまう……。痛いこと、苦しいこと、危ないこと、全部してしまってそれでも蒼葉がぼくを嫌がらないか、まだ試して、きっときりがない。蒼葉はぼくがおかしくてもいい?」
触れる声に耳を傾けて、蒼葉はゆっくりと息をついた。躰を緩めて旭の腕に頬をぺとりとつける。
「いいよ。あんたがすることなら、怖くない。イケるかどうかなんて、やったことねえからわかんないけど、あんたがしたいならいい。なんでもしろよ。あんたがおかしいとかおかしくないとか、そんなんどうでもいい。旭が俺を好きならいい」
思いついた言葉を言って、蒼葉はふとなにかに気が付いたけれど、それがなにかまではつかめないまま衣服を脱ぎ捨ててキスを絡めながらベッドに移った。
毎日三十分と時間を決めて習慣にしているストレッチをしている最中に思い出したように旭が言い出して、蒼葉は首を傾げた。
「スニーカーあるけど」
「だから、走る用の。ソールが厚くて足に負担少なくなるやつ」
「ん-……普段からバッシュだけど、楽だよ」
「ああ、そっか。機能的だよね。じゃあ大丈夫かな。蒼葉ってさ、ポジションどこだったの」
ぐいと足首を伸ばしながら旭は珍しいことを訊いてくる。
「ポイントガード。旭さ、バスケのポジションわかんの」
「少しはね。納得した」
更に旭はそんなことを言って笑う。蒼葉には旭が笑う意味がわからない。
自分でできるストレッチには限界があって、動かなくなった分の筋肉や筋を伸ばしてほぐすことは旭に頼っている。怪我をした左足だけでなく均等にした方がいいと旭が足を伸ばしていくのにはもう慣れた。
「納得ってなに」
「蒼葉って感情的に見えて、ロジカルだから。ぼくに蒼葉のことを諦めさせなかったのも、蒼葉がぼくの計画に亀裂を入れたから。だから、こうしているんだけど。もしかしたら、ぼくは蒼葉に勝てないのかもしれないなあ」
普段はその穏やかに笑う顔のまま危ないセックスをして蒼葉の体力を奪う男が困り笑いを浮かべた。その顔を蒼葉は気に入って、鼻で笑い返した。
「旭は頑固で攻略し甲斐がある」
「そんなゲームみたいな気持ち?」
右足を強めに伸ばされて「いってえ」と思わず蒼葉は抗議した。視線の先に、悪戯に笑う旭がいる。
「ゲームの方が簡単だよなあ」と蒼葉は苦笑した。
蒼葉は旭が言うほどロジカルではない。少なくともいまは。バスケットボールをしていた頃でも、練習や試合中には先を見通して局面を考えるが、普段は気にしたことなどなかった。怪我をした後はそんな思考すら忘れていた。思い出させた当人がなにを言うのか。
「旭はさ、いい躰してんのになにやってたのかとか全然想像つかなかった。なんでだろ」
するりと矛先を変えると、旭は苦笑した。
「だって、昔やってたって言っても中学までだから本当にちょっとやってただけだし。ジムに通ってたのも体力つけるためで、結局は仕事に付随するような感じだから……最後の方はただの義務感とか仕事のサイクルの一環。だから、楽しむとはちょっと違うからじゃないかな」
「あー……走りに行くのもそういう感じ?」
前屈をしながら蒼葉はなんとはなしに訊いた。
「似ているかもね。疲れれば躰は休息を取りたがるから、ただの理屈でしかないね」
「旭って楽しいことある?」
「蒼葉がいたらいつでも楽しい」
相変わらず旭は本気なのか冗談なのかわからないことを言う。まるで他の人間などどうでもいいかのように。けれど、蒼葉の背中を押していた旭の片手がするりと胸に回って指先がシャツの上からピアスに触れた。確かめるようにシャツ越しに貫かれた乳首の先端を撫でる指に独占欲が滲む。ストーカーと監禁。そうしてまで手に入れたかった存在ならば、蒼葉に旭を否定しようがない。
少し触れて確かめただけで離れていった指先は煽情的でもなく、ただの確認だ。
たぶん、旭が楽しいと思うことに関して蒼葉は口を挟めない。社会的地位もなにもかも捨てても構わない覚悟をした旭の喜びを蒼葉は否定できない。
「蒼葉がストレッチやり始めて、欠かさないのも、嬉しいから、きっと朝早くにひとりで走るより楽しいと思う」
ぐ、と最後にひとつ前屈の背中を押して旭が笑った気配がした。毎日のストレッチのメニューは終りでいつもならその後は互いに好きなことをしている。時々、一緒に買い物に出かけることもある。
「じゃあさ、走りに行く?」
せっかくストレッチをして躰を伸ばした後で丁度いいかと蒼葉が言うと、「それは明日からにしよう」とやんわりと旭に止められた。提案してきたのは旭の方なのにと首を傾げると、説明された。
「なにも準備できてないんだよ。靴の心配はなくなったけど、毎日ストレッチしているからっていきなりそんなに長距離を走らせる気もない。でも、やっぱりぼくに付き合ってほとんど外に出ていない蒼葉がいきなり運動するのは心配だから、テーピングくらいはしてほしい。ぼくもそこまで用意がいい訳じゃないんだよ。だから、今日は買い物行こう」
「心配性だな、旭」
「無理しないこと。負担をかけないこと。焦らないこと。大事なんだよ」
「はいはい。あー……それ、怪我した時、耳にタコができるくらい聞いたな。聞きすぎて、うんざりした」
ふと思い出して蒼葉は苦笑した。
「そんでうんざりして、こっちは焦ってんのにとか思ってもどうにもなんなくて投げ出してりゃ世話ねえよなあ」
伸びをしてストレッチで軽くなった躰を確かめて蒼葉は笑う。価値観の中心が突然なくなって自棄になっていたとはいえ、まだ子どもじみていた。いまが大人かといわれれば、ただ成人して二十歳を超えただけで大きく変わっていないが、少しだけましになれたと思う。
「病院に勤めている人はね、どこの科でも同じことを言うんだよ。医師だけでなく、看護師も理学療法士も臨床心理士も介護士も同じことを言う。うんざりしてもしょうがない。怪我だけじゃなくて病気も同じで……本当のことなんだ。でも、焦る気持ちも否定できない。ままならないんだよ。医者なんて魔法使いにはなれないからね」
「あのさあ、俺、旭がいなかったらリハビリしようなんて思わないまんまだったよ。バスケのことも忘れてた。最初が監禁でも暴行でももう関係なくて、俺はあんたが好きだし、感謝してる。遠回りしたけど、後悔したってどうにもなんねえし、俺はガキだったんだよ。だから、旭。俺はあんたが大事なの」
不思議とするすると言葉が出てきて蒼葉は晴れやかに笑った。監禁も暴行も事実で覆らないけれど、そんな異常な状況からでも好きになって、前の自分よりましになっているのなら蒼葉は構わないと思う。その言葉を自分から口にすることは普段はなく、出す気もない。それでも嫌な意味ではなく、すんなりと言ったことに蒼葉自身も多少驚いた。
「錯覚の好意で満足するつもりだったのにな」
「旭ってさ、ホンモノかどうかまだ疑ってるの。だからあんなセックスするの?」
「もう疑ってないよ。セックスは……はじめはそうだった。蒼葉が気持ちいい顔を見せてくれるなんて思ってなかったから、酷いことばかりした。そうして嫌われても、錯覚の好意でもぼくはどっちでも区切りをつけれると思ってたんだけど……実際は違って。酷いのに、痛くて苦しいことも気持ちよくなっちゃった蒼葉が、いまは可愛くて仕方なくて、加減できない」
ほんの少し視線を逸らして顔を赤くして困る旭に蒼葉は満足する。旭はずっと蒼葉を可愛いと言うが、蒼葉はその可愛いを言葉通りだとは思っていない。
いわゆる可愛らしいと似ていて、少し違う。男である蒼葉を同性愛者の旭が可愛いと言うことは理解できなくもないが、もっと子どもが大事にしているものに無作為に言う言葉に似ていると思う。
「旭がさ、俺をそういう風にカスタムしたんじゃん。良くなるのは俺が勝手になったけど、そういうことを教えたのはあんただよ。駄目なもんは駄目って言ったのもあんただ。それに知ってるか? 旭、酷いって言うけどヤバイことしてる時ほど、あんたえろい顔してるから興奮すんだよ」
「蒼葉なに言ってるの!? ちゃんともっと危機感もってよ。そんな風に言っちゃ駄目だよ」
慌てて声を荒げる旭に蒼葉は不敵に笑う。
「旭に対して危機感なんてないんだよ。なあ、買い物行くんだろ。さっさと行こうぜ。遅くなる」
「蒼葉ってさ、時々、大胆だからびっくりする」
「なあ、それ旭が言う?」
「ずっとずっと大好きになっちゃうから……困る」
ぽかんとしてから本気で困った顔をする旭を見て、今更なにを言うのかと蒼葉は思う。それでも旭はストレッチ用に敷いたマットの上に座り込んだまま片手で顔を隠している。
「なんで困るの」
「加減できないって言ったでしょ」
「いいよ。そんなんしなくて。ほら、買い物行こ」
「うん。……あのさ。現実って想像を簡単に飛び越えてくよね」
普段は穏やかな顔をしている旭が時々、蒼葉の言葉に慌てて困って顔を赤くして忙しく表情を変える。それは蒼葉が旭の想定を超えた時なのだとわかると、やっぱり笑いが込み上げた。
「旭さあ……時々、馬鹿だよな」
「いいよ馬鹿で」
少し笑って旭は立ち上がってストレッチ用のマットを畳んで蒼葉に渡してきた。マットを受け取った蒼葉はマットを仕舞って、一緒に買い物に出かけた。
翌日からストレッチの後、蒼葉は旭とランニングするようになった。左足のテーピングは旭が施した。やはり蒼葉はテーピングをしている旭の手元を見ていると、迷いがなくて惚れ惚れとする。
南の島の夏は暑いが、それ以外の季節は温暖で過ごしやすいけれど、秋には台風が来やすい。雨の日以外は夕方に走るけれど、単純に運動を避けていたこととあまり外に出ていなかったために蒼葉は慣れるまでペースが掴めずに早々に息を上げていた。
「蒼葉。早く走ろうとしなくていいんだよ。街中だし、通行人もいるから危ないし。もっとペース落としてもいい。ええと……いまの三分の一くらいの力加減でゆっくりしたら、丁度いいんじゃないかな」
ランニングコースの折り返し地点の公園でひと休みしながら呼吸を整える蒼葉の隣で旭が言った。
「旭にはそう見えんの」
「うん。ストレッチを続けているのもランニング始めたのもいいことなんだけど、蒼葉が急いでいるように見えるかな。……もっと、気晴らしくらいの気分でやればいいのに、焦ってるように見える。焦ると無理しがちになるから、良くないんだ。でも、気持ちって他人が簡単に変えられるものじゃないから難しいね」
旭の苦笑を見て、蒼葉は医者という立場は難しいのだろうと思った。
確かに蒼葉は多少焦っているのかもしれない。約四年分の体力の低下。思うように動かない躰。毎日当然のように走っていた頃を覚えているから、同じように動きたいのに怠けていた分いうことをきかない。当たり前のことだと納得していたはずなのに、走り出すと躰が記憶していた動きができなくて焦っている。
「あー……なかなか思い通りになんていかねえよなあ」
「うん。でもね、大丈夫だから」
空を見上げて蒼葉が悪態をつくと、隣で旭がそんなことを言った。慰めではない。恐らく根拠がない訳でもない。ただ、蒼葉の気持ちをゆるりと宥めた。
「あ。ボール。誰か忘れてったのかな」
空を見上げたついでに公園の一角にあるバスケットゴールの近くにぽつんと置き去りにされたボールが目に入って、蒼葉はベンチから立ってそれを拾いに行った。
正規のハーフコートよりももっと小さいサイズ感で、荒く舗装された地面に引かれたラインが掠れている。拾い上げたボールには空気がしっかり入っていて、きっと忘れものだ。手のひらに触れる表面の感触が懐かしい。両手の中で何度か弄んで、その場でふたつドリブルすると蒼葉はそのままジャンプシュートで手の中のボールを放った。
スリーポイントラインは実際のコートよりももっと近かったけれど、入るかどうかなど考えず、ただやってみたくなった。ボールの打点は低いけれど、軌跡はそう悪くない。ボードに当たったボールはリングに当たってからゴールネットの中に落ちた。
ほんの少しだけ満足して踵を返すと、旭が嬉しそうに驚いた顔をしていた。
「俺、かっこよかった?」
「うん。かっこよかったよ、蒼葉」
「入ってなかったらダサかったけどな」
「ううん。蒼葉はかっこいいよ」
どうしてか旭は蒼葉がリハビリをしたいと言い出した時と同じくらいに嬉しそうにしている。
「蒼葉がプレイしてるとこ、見たかったってぼくが言っちゃ駄目なんだけど」
眉を下げて困り笑いをする旭は時々、本音を零す。怪我をした蒼葉しか知らないから。医者だから。旭がどうやったとしても、精々記録の録画でしか見れなかった姿だから。
蒼葉はゴール下に転がるボールを拾いに行って、ふと思いついた。
「見るだけでいいの? そんなこと言うなら少し付き合えよ。ワンオンワンしよーぜ。スリーゴール取ったら勝ち。いっこ言うこときく。どう?」
「いいよ」
止められるかとも思ったが、案外あっさりと承諾した旭はベンチからコートの方へ走ってきた。と思うと、蒼葉がハーフコートの端まで来て弄んでいたボールが奪われた。
「あっ!」
開始もなにも言っていないのに、と思う反面、反射的に躰が旭を追った。小さなハーフコートではゴール下までの距離が短くて一瞬の隙が勝負を決める。シュートこそ入らなかったものの、ちり、と蒼葉の中でなにかが燃え出した。
ラインを超えたボールを拾って、ひとつふたつドリブルしながら蒼葉は考える。ワンオンワンだから当然旭は蒼葉の前で隙を狙っている。サッカーをしていたとは言っていたが旭の姿勢は隙だらけで、抜くことは簡単だ。けれど、それだけではまだ悔しい。身長は旭に分がある。
垂直ではなく後方にジャンプして蒼葉はシュートを放った。目の前の旭の身長を加味して、瞬発で反応されると弾かれるかもしれない。けれど打点は少し高くなる。
「ええ!? 蒼葉、それ狡っ」
旭はブロックしきれずに振り向いた先のゴールに吸い込まれたボールを見て悔しそうに言った。
「狡くない。先にあんたがズルしたからな」
ふん、と笑うと蒼葉はボールを拾いに向かった。蒼葉がワンゴール決めたから次は旭がボールを持つ番で、ゆるいパスを渡した。
「どうすんの、旭。あっさり俺にスリーゴール取られていいの?」
「蒼葉さ。ハンデとかないの? ぼく、未経験なんだよ?」
「ないね。さくっとスリーゴール決めてあんたのことめっちゃ困らせたくなってきた」
「あーあ……蒼葉ってさ、意地悪だよね」
ゆっくりとドリブルして進む旭と、旭の方へと歩く蒼葉の距離が縮まって互いに三歩の処で緊張感が増した。旭は未経験だというけれど、器用にボールを操っている。どこにハンデをやる必要があるのかと蒼葉は笑いたくなってしまう。隙はない。姿勢やボールさばきこそこなれてはいなくても、元来の器用さで補っているようだ。
くす、と笑って蒼葉は一歩踏み込んで手を伸ばした。さすがに簡単に奪わせてはくれずに、ボールが旭の右手から左手に移ったところを躰を捻って左手で奪った。ワンオンワンのハーフコートでゴールは常に同一方向。ディフェンスならゴールは背後で、そのままの勢いで躰を反転させてシュートを打つ。ボールはゴールネットに吸い込まれていったが、軸足にした左足首が無理をしたのかずきりと痛んだ。
「あのさー! あんたたち、見てて面白いからいいんだけど、そのボールここに転がってたやつじゃない? だったら、俺、忘れてって取りに来たんだけどー!」
ふと突然かけられた知らない声に蒼葉も旭も声の方を向くと、中学生くらいの少年が三人並んでいた。
「あー、ごめん。ちょっと借りてた。返すよ。おかげで楽しませてもらった」
ゴール下からボールを拾って蒼葉が声をかけて来たと思われる少年に返事をした。忘れ物の持ち主が現れたなら、ゲームは終了だ。手の中でボールを弄びながら汚れを払って「ありがとな」と手渡す。
「あんた上手いな。でも、見ない顔だ。今度、俺らともやんない?」
人懐こいのか、ボールを受け取った少年は蒼葉にそう言ってきた。
嬉しい誘いではある。けれど。
蒼葉は旭を振り返った。そんなに遠い距離でもないが、旭は少年たちと距離を取ったままだった。
「旭ー。今度バスケしよって誘われたんだけどー! いい?」
「いいよ。無理しちゃ駄目だからね」
旭は少し笑っていたようだった。
返事を聞いてから蒼葉は少年に向き直って「いいよ」と返事した。
「あっちの人はあさひさん? あんたは?」
「蒼葉。あ。今日スマホとか持ってきてないや。ここさ、ランニングの途中の休憩ポイントなんだ。だいたいこの時間にあっちのベンチで休憩してるから。今度見かけたら声かけるよ。お前らの名前は?」
「俺がテツヤで、こっちがアキラで、そっちはユウキ」
「おっけ。じゃ、またな」
名前の確認だけして蒼葉は手を振ってから旭の方へと戻った。
「旭。拗ねてんの?」
「拗ねてないよ。蒼葉は凄いね」
柔らかく笑う旭に違和感を覚えて蒼葉は並んで歩きながら「嫌だった?」と訊いた。
「嫌だったらぼくはいいよなんて言わない。蒼葉がぼくのことを気にしているなら、原因はわかってるんじゃないのかな。さっきもぼくは言ったよ。無理しちゃ駄目って。……ぼくからボール取ってシュートした時、足、痛かったでしょ」
「ああー……そっち? そんで、バレてんだ?」
「わかるよ。どう無理がかかったのかまではわからなくても、蒼葉が痛い顔したらわかるよ。だから、今日はもう走らなくていいからゆっくり帰ろう」
「うん」
溜息をついて蒼葉は頷いた。片道だけ走った距離をゆっくり歩いて帰る。左足が痛んだのは一瞬で、もう痛みはないけれど、確かにその時蒼葉は怖いと思った。旭が焦るな、負担をかけるなと言い、しっかりテーピングをしていたのに、日常的な動きではない負荷をかけると簡単に痛んでしまうのだと言葉の重さを知った。
久しぶりにボールに触ったのに、思うように動けないというのは想像以上に辛い。
「蒼葉はさ。簡単に友達を増やせて凄いね」
「楽しかったんだよ。んで、あいつらが誘ってくれたから、嬉しかった。でも、本当にあいつらとバスケするかはわかんない」
「やればいいよ。ぼくじゃ蒼葉の相手になれないのはわかったでしょ」
ぽん、と頭の上に手のひらを乗せられて、蒼葉は気持ちを見透かされている気分になる。
「蒼葉は無理しないで。それだけ約束して。ぼくはぼくが蒼葉にしてあげられることをする。蒼葉が楽しそうにしているとぼくも嬉しいんだよ」
「ん。ありがと」
俯きがちになってしまう顔を無理矢理上げて蒼葉が不器用に笑うと、旭はほっとしたような顔を見せた。
大方、旭はこのままリハビリを投げ出さないかとか、蒼葉が簡単に他人と親しくすることに不安を感じているとかしているのだろう。旭の独占欲は強くて、蒼葉はそういう旭のことを好きだと言っても他人が関わってくると簡単にはいかない。
「旭さあ、俺、別にちょっとくらい足痛くなったってリハビリやめねえよ? いままでほったらかしてたツケだろ。それなら俺の自業自得じゃん。んで、俺が誰かと話したり親しくなったりすんの嫌なら、俺はそういうことしないよ。旭の方が大事だから」
帰り道をゆっくり歩いて蒼葉は伸びをしながら言う。夕暮れ時の空が薄い青からピンクとオレンジに混ざっていて、温暖な気候は夏が過ぎても名残をずっと残している。ちらりと隣の旭に視線を向けると、普段の穏やかなままの顔をしていた。
「そんな無理しなくても大丈夫だよ。ぼくは蒼葉が大好きだから、蒼葉が楽しそうにしている方が嬉しい。さっきも言ったよ」
「独占欲の塊の癖に」
「うん。そうだよ。蒼葉のことは誰にも渡さないよ。誰かがぼくから蒼葉を奪うなら、絶対に許さない。でも、蒼葉が友達を作ることはそうじゃないでしょ」
蒼葉の悪態に旭は少し笑って否定もしない。多少物騒なことを言っている気がしないではないが、そういうことをすんなり言う旭を蒼葉は好きだ。
「あんたがいいなら、いいんだけどさあ。なーんかムカつくんだよな。なんだろうな」
「蒼葉はなにが嫌なの」
「まだわかんねえけど、なんかムカつく」
蒼葉は頭の後ろで手を組んで考えながら答えた。
はっきりとしない苛立ちが残る。旭は蒼葉の問いかけに明確な返事をしているのに、どこか引っ掛かる。たぶん、旭が悪い訳ではない。単純に蒼葉がその答えをどこか気に入らないと感じているだけだ。
「忘れるかもしれないし、なにがムカついてんのかわかるかもしんない。でもいまはまだよくわかんねえから、旭は忘れていいよ。あんたと険悪になりたい訳じゃない」
自分でもはっきりしない感情を引きずってもいいことはないと蒼葉はあっさりと切り替えた。旭はそれに「うん」と答えてその後は普段通りに雑談をしながら帰った。
家事は交代制で料理と洗濯、掃除を分担している。掃除は元々、本が多いくらいで物が少ない分そう負担にはならない。洗濯機を回している間に掃除はだいたい完了する。蒼葉も旭もものを散らかさない性質が似ていた。
料理は蒼葉の方が得意だった。転居してから旭は真面目な顔でレシピ本を読んで試行錯誤しているが、過労で休職していたくらいなのだから食事も栄養が摂れればいいくらいに考えていたのだろう。まともに一緒に暮らしだして旭の料理の腕前がいいわけではないことはすぐに発覚した。
その日は蒼葉が食事当番で旭が掃除洗濯当番だった。
早めの夕食を済ませて食休みをして、洗い物を済ませてテレビを見るわけでもなくのんびりと過ごす。そもそも家にテレビは置いていない。旭は疲れるから苦手なのだと言った。転居する前の旭の家にもテレビはなかった。蒼葉は特にそのことに不便を感じていない。自由になるスマートフォンさえあればだいたいの娯楽も情報収集も買い物もまかなえる。
いまの生活は外に出なければならない必要性が低い。
けれど、蒼葉は元々躰を動かすことが好きな性質だ。ストレッチだけをしていた時は特に気にならなかったが、ランニングをするようになって、久しぶりにボールに触れて楽しさを思い出してしまった。あまり外に出ない旭とは対極だ。
ランニングまでは旭にも悪いことではないからと言い訳ができても、それ以上のことを蒼葉は躊躇う。確かに、成人した男がふたりして常に一緒にいる必要はない。けれど、蒼葉は旭が休んでいるうちは傍にいたいと思っている。ひとりにしたくない。旭に危険性があるとは思っていないが、疲れたと言う旭の傍にいたい。それがなんの役に立つのかまではわからないが、気休めにでもなればいいと思っている。
そして蒼葉はふと気付いた。
このままの生活がずっと続けばいいのにと願っている自分に。
自分はこの先どうしたらいいのかと迷ったまま、旭にもずっと仕事に復職などしてほしくない。なにもないふたりだけの穏やかな日が続けばいいのにと願っている。雁字搦めのまま、ほかになにもない生活のままがいい。そんなことは無理だと知っていても、いつの間にかそんな願いが蒼葉の中に芽吹いていた。
「なあ、旭。シよ」
片耳で聞いていた講座の内容は少しも頭に入ってこなくて、イヤホンを外して蒼葉は旭の座る椅子に背中を預けていた頭を上げた。唐突な言葉に旭が蒼葉を見下ろして「急だね」と柔らかに言った。片手が蒼葉の頬を撫でていって、拒否されている訳ではない。
「シたくなった。あんたがめちゃくちゃえろい顔してんの見たい」
セックスで気持ちを確認するなど安直ではあるが、最中には感情が剥き出しになって誤魔化しがきかない。それは蒼葉も旭も同じで、常識もなにもなくぐちゃぐちゃな時にしか見えないものもある。
「ぼくは蒼葉が可愛い顔してるの、いつでも見たいよ」
椅子から蒼葉を見下ろした旭の指先が唇をなぞった。蒼葉の視線の先で旭が穏やかさの下に独占欲を滲ませて笑っている。頭を上げていて都合がよかったから、蒼葉は指が触れている唇をそのまま開いた。その姿勢だと喉の奥まで指が届きやすいことを知っている。
「旭の顔、見やすくていいな」
「見ている余裕あるの?」
「ないよ。たぶん」
くす、と笑う旭にあっさりと蒼葉は返事した。指が喉奥まで触れれば苦しくて目を開けていられなくなる。それでもぎりぎりまでぼやける視界に映る旭の顔は普段よりも見やすい。
ゆるゆると唇に触れていた指が開いたままの口の中に侵入してくる。旭はどこかうっとりとした顔をして蒼葉を見下ろしていた。口から喉まで届きやすくなっているのに、旭の指はゆっくりと蒼葉の上顎を撫でてすぐに深いところまで触れない。じわじわとした快感に蒼葉は言葉にならない声を零す。
上顎を撫でられると口が大きく開かれて喉が開くと期待が隠せないけれど、急かしたいのにままならない。喉を塞がれていないうちはまだ声を上げられるが、深く指が届くと声にもならない呻きにしかならなくなる。なのに旭は殊更焦らすように上顎を撫でて指を深くまで挿入しない。
「あ、さひ……きもち、い……もっと」
辛うじて舌を押さえつけられていない分、なんとか強請る言葉を絞り出すと薄い視界の先で旭は嬉しそうに笑っている。
「蒼葉、可愛いね。とっても、可愛いいい子だよ。だから気持ちよくてとても可愛い顔いっぱい見せて。ゆっくり、気持ちよくて苦しくなって」
額を押さえつけるのではなく、撫でるように空いた手で触れて旭はうっとりと嬉しそうに蒼葉の口の中を指で愛撫する。上顎をゆるく撫でていた指が舌を押さえつけるようにして撫でられて、蒼葉は唾液を嚥下を奪われじわりと苦しくなる。同時に言葉を発せなくなった。ひくりと躰が震える。
「う、ぐ……」
「うん。苦しくなっちゃったね、蒼葉。ゆっくりするからいつもより苦しいよ。でも、蒼葉が気持ちいいこといっぱいしてあげる」
上を向いていて下がる舌を強く押さえられて撫でつけられると、まだ指は喉に届いていないのに唾液にじわじわと喉が塞がれて呼吸が苦しくなる。飲み下せない唾液が次第に溜まってぐちゃぐちゃな音を立てて溺れそうなのに、苦しくて気持ちいい。なんとか酸素を取り込もうとする短い呼吸が蒼葉の感覚を鋭くする。
「蒼葉。苦しいのに気持ちいい顔、とても可愛いよ。大好き」
呼吸が難しくなるともう目など開けていられなくて、耳に届く旭の声と音と感覚しか頼りにならないが、蒼葉には旭の嬉しそうな顔が浮かぶ。普段見せるその顔とは明らかに違う種類の喜びを浮かべた旭の顔。
ぐちゃ、と唾液の溜まった口内の舌をゆっくりと撫でる音に蒼葉の興奮は煽られる。苦しさは増すけれど、苦しくされることに興奮する。
けれど、躰は嚥下できない唾液が溜まっていくことに耐えられずに舌を押さえつけられたまま咽てしまう。ごぼ、と喉が収縮して咳もできず唾液を吐きたがるが、上を向いているせいで吐くこともできない。苦しさに躰が痙攣する。旭はその度に指を深くして、何度か蒼葉が唾液を吐きそうになってようやく指の届く一番深くに触れた。
舌の根が押さえられて、指が喉奥に侵入しただけで蒼葉は身を硬くして軽く達した。苦しくて危ない場所を撫でつけられているということが快感になって、ゆっくりと喉奥を撫でられるといつもよりも敏感になった。じわじわと苦しさは増して長く続いて、同じように快感も増す。躰が勝手に硬直と弛緩を繰り返して、苦しい中で達するけれど、満足しきれない。指使いがゆっくりでずっと苦しくて気持ちいいけれど、もっと良くなれることを知っている。
「まだ物足りないかな。苦しくて気持ちいいところ、もっと欲しい? ねえ、蒼葉。欲しかったらぼくのこと見て?」
舌の根を押さえつけながら喉の前まで指を引いて旭が柔い声で訊いてくる。返事はできないから瞑ってしまっている視線を寄こせと言われて、蒼葉は瞼を上げた。視界に蒼葉の顔を覗き込んでいる旭が映る。嫣然と笑って、濃い色の目に悦びを湛えている。
声が出せない代わりに蒼葉は額を押さえている方の腕に手を絡めて旭を引き寄せた。セックスの最中、旭は何度も吐精するわけではないのに常に満足そうな顔をしている。どんなことをしていても──例え常識では危ないことでも──愛おしいものを撫でて可愛がって大事にしているように、うっとりと嬉しそうに笑う。
「いい子だね、蒼葉。とっても気持ちよくなろうね。いっぱい苦しくて気持ちよくて可愛い顔見せてね」
愛おしそうに額を撫でると、旭は口内に差し込んだ指を一番深くした。びくりと蒼葉の躰が震える。
喉が塞がれて呼吸ができないけれど、喉奥を擦られると気持ちよくて上を向いている分、舌が気道を余計に塞いで普段よりも苦しい。行き場のない唾液がぐちゃぐちゃな音を立てて口から零れる。
苦しくて、気持ちよくて、苦しい。
旭の腕を掴んだ手に力が入って、蒼葉は何度か痙攣してから大きく震えて硬く硬直して深く達した。喉奥にまだ旭の指を咥え込んで、呼吸を奪われたままいつまでたっても躰が弛緩しなくて、ずっと絶頂の中に漂っていたい。なのに、ゆっくりと喉を塞いだ指が引き抜かれていって蒼葉の額に乗っていた手が離れてキスが落ちた。
「……可愛いね、蒼葉……」
ゆるりと旭の両腕が蒼葉に回って、うっとりと囁かれた。
まだ喉奥を撫でられて達した余韻に浸っている蒼葉はなされるがままだが、触れる温度も声も心地いい。呼吸の自由が戻って、喉が痛くなるほど息を繰り返すけれど、全身が熱くなってしまって躰全部で感じて絞り取りたくなる。
「もっと、シよ。痛いのも苦しいのも危ないのも、全部シよ。旭が気持ちよくなることも、シよ」
「蒼葉は全部気持ちよくなっちゃうからなあ」
「旭、なんかヤリたいのに我慢してんの?」
「我慢ではないかな」
椅子の上から抱き締めたまま、旭は蒼葉の耳元でくすりと笑った。片手が蒼葉の胸と腹を伝って、まだ衣服に包まれている陰茎に触れた。
「最近の蒼葉、こっち、あんまり欲しがらないね? いらないの?」
「ケツのが、気持ちいい」
「今度、普通じゃないことしていい?」
旭の声にほの暗い欲望が垣間見えて、蒼葉はぞくりとする。それは知らないことへの期待。
「なに、それ」
少し硬く反応している陰茎を服の上から撫でられて、絶頂のすぐ後で蒼葉はひくりと震えて返事した。
旭の手が陰茎を包んで、衣服の上から先端を指先で撫でて刺激する。
「ここ。細い専用の器具を入れてもいい? 怖い?」
尻から直腸に指や陰茎を挿入するのですら当然になってしまった蒼葉でも、旭の言葉にすぐには頷けなかった。蒼葉が旭の言うことを全く理解しないのではなく、想像の範疇外でそうされた時の予想もつかない。
「……ぼくはどんどん、危ないことを蒼葉にしたくなってしまう……。痛いこと、苦しいこと、危ないこと、全部してしまってそれでも蒼葉がぼくを嫌がらないか、まだ試して、きっときりがない。蒼葉はぼくがおかしくてもいい?」
触れる声に耳を傾けて、蒼葉はゆっくりと息をついた。躰を緩めて旭の腕に頬をぺとりとつける。
「いいよ。あんたがすることなら、怖くない。イケるかどうかなんて、やったことねえからわかんないけど、あんたがしたいならいい。なんでもしろよ。あんたがおかしいとかおかしくないとか、そんなんどうでもいい。旭が俺を好きならいい」
思いついた言葉を言って、蒼葉はふとなにかに気が付いたけれど、それがなにかまではつかめないまま衣服を脱ぎ捨ててキスを絡めながらベッドに移った。
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