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6・現実的思考
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明るいうちから普段と違うセックスをして、疲れ切った蒼葉は旭が風呂の用意をしている間にうとうとしていた。べたべたに汚れたシーツは不快だが、躰と頭がいうことをきかないくらい疲れているのに心地いい。このまま眠ってしまったらいい夢が見れそうな気がした。
「蒼葉。お風呂入るよ」
微睡みかけていた頭を撫でられても蒼葉は瞼を上げない。
「やだ。ねむい」
「わかんなくないけど、シーツ気持ち悪いでしょ」
「いいよ。寝たらわかんない」
「いい子だからおいで」
愚図る蒼葉に旭の手が伸びて軽々と起こされてしまう。確かに旭は筋肉質な躰をしているが、そんなに容易く起こすことができたのかとふと蒼葉は疑問に思った。
「じゃあ、連れてって」
試しにそう言ってみると、旭はやはり軽々と蒼葉を抱き上げて風呂まで運んでシャワーの湯で躰の汚れを流してから湯船に入れた。
ふと拘束された両手首を動かしてみると、ぎりぎりにきつくされていたベルトは一度も調整されていないのに手首がほんの少し動かせる。液体でしか食事をしていなくて他には水を飲むだけで瘦せたのかと蒼葉は自覚した。まだ学生の蒼葉には液体の栄養食品だけでは動かないとはいえ、摂取量が少ないのだろう。
「蒼葉。どうしたの」
「旭。手首、緩んでるから直して」
「外してほしいんじゃなくて、直してなの」
湯船から両手首を上げて言う蒼葉に、旭は穏やかな声のまま訊いてきた。
「外してほしいなんて、俺は言ってない」
後ろから抱かれて風呂に入っていて、顔を見られなくてよかったと蒼葉は思う。けれど、差し出した両手のベルトが緩んでいて痩せたことは旭には隠せない。
青葉の目の前で旭が手首のベルトをいったん外して、きつく締め直した。
「あとで足も見せてね」
後ろからゆるく抱かれて蒼葉は頷いた。
「……ごはん、ゆっくり戻そう。ずっと、液体しか口にしてなかったからすごくゆっくりになるけど」
「いまのままでいい。楽だし別に無理してない」
液体だけで食事を済ませることに慣れてしまった蒼葉は旭の言葉を特に考えずに拒否した。
「駄目。このままじゃ体力がなくなる。胃腸の機能も低下する。だから、ゆっくり戻して、少し筋トレもしよう。外に出れなくなる」
「なんで! そんなこと言うんだよっ……!」
監禁しておいて躰を気遣われるなど矛盾している。蒼葉はベルトを直された両手で湯船の湯を叩いて声を荒げた。好きだと言ったのに。旭の要求を満たしたはずなのに。──とても、気持ちよかったのに。蒼葉の気持ちはすぐにぐちゃぐちゃになる。
「あんた、俺をずっと閉じ込めて一緒にいるんじゃなかったのかよ!」
「ぼくはそうしたいよ。でも、蒼葉は? 学校は? 就職は? やりたいことは? ずっとぼくに繋がれたまま飼い殺しにされていいの」
「好きだって言ったのになんであんたはそんなこと言うんだ!」
「蒼葉が、ぼくを好きだって言ったからだよ」
癇癪を起す蒼葉を動けない力で抱いて、旭はぞっとするほど低い声で言った。言葉の前後が嚙み合わなくて、声に竦んで蒼葉は震えた。
「なにかの実験かって蒼葉言ったよね。実験じゃないけど、近い。監禁状態でストレスの高い状態が続くと、加害者に好意的や協力的になる現象がある。だから蒼葉がぼくを好きって言いだす可能性は高かった」
「なに、言ってんだ」
「ストックホルム症候群っていう。一時的に極限状態に追いやられた被害者が自分を守る心理的現象」
耳元で言われているはずなのに、蒼葉には旭の声が遠く聞こえた。
そんな現象で気持ちを決めつけないで欲しい。そんな現象で嘔吐していた行為を自分からするようになるというのか。躰の感覚まで騙されるのか。
「……俺の気持ちを勝手に決めるな……」
頭の中は言いたいことでいっぱいなのに、何も選べずに蒼葉はぽつりと呟いた。
「蒼葉の、捜索願が出された。ぼくは逮捕されても構わない。そういうことをした。でも蒼葉を傷つけたくない。もう、たくさん傷つけてるのにこんなこと言うのおかしいけど」
「俺が、自分の意志でここにいるんなら、いいんじゃないの」
「じゃあ、このベルトの跡をどう説明できる?」
湯の中で旭に両手を戒めるベルトに触れられて蒼葉は返す言葉が見つからない。
「蒼葉が好きだよ。ずっと前から好きだ。ずっと閉じ込めて一緒にいたいのは変わらない。でも、できないことも知ってた。だから、男に監禁暴行された被害者になる前に蒼葉は元の居場所に帰ろう」
ゆるりと頭を撫でられて蒼葉は泣きそうな気持ちになった。
旭はセックス以外なにも強要していない。手足を拘束しているけれど、蒼葉は不自由ではない。蒼葉が旭を好きだと思ったのなら、強要したセックスだって合意にはならないのか。なにか言い返したいけれど、どう言っていいのか蒼葉にはわからない。
「……俺が、自棄酒飲んでた夜……」
「話を聞くふりをして蒼葉に近付いて飲み物に薬を混ぜて、レイプした」
「毎晩飲ませてる薬……」
「ただの睡眠剤だよ。ちゃんと眠らないと心が不安定になるから」
淡々と答える旭の言葉はちぐはぐだ。もう蒼葉にはなにもわからない。
「ひとりに、して」
かさかさの声を蒼葉は絞り出した。
「落ち着いたら、ちゃんと出ておいで」
首にキスを落として、頭を撫でてから一言いい残して旭は浴室を出ていった。脱衣所で躰を拭いている気配もなく、バスタオルだけを被って部屋に戻ったのかもしれない。
青葉は湯船の中で膝を抱えて小さくなった。旭の言うことがなに一つ理解できない。今更言葉にされたレイプという単語が嫌だ。好きだと言ったのに、セックスの後にはすぐに気持ちを否定する。だからといって旭の願望は初めから変わっていない。逮捕されても構わないとなんでもないことのように言う。自分の罪を誤魔化すためではなく、蒼葉を被害者にしないように帰れという。そうでなければ、男に監禁暴行されたなどと蒼葉に言わないだろう。
どれだけ考えても蒼葉に受け入れられるものはひとつもなくて、のぼせる前にのろのろと風呂を出た。躰を拭いて居室に戻る足が嫌に重くてふらついた。頭も痛い。
青葉は旭を見ないままベッドに倒れ込んで布団を被った。シーツが新しくなっていた。まだ外が明るいまま頭が痛くて瞼を伏せたけれど、眠れる気配はなかった。頭痛がするまま瞼を伏せていると頭の中がまたいっぱいになってぐるぐると考えてしまうけれど、相変わらず混乱が増すばかりでなにもわからない。頭痛が増して、脳みそを直接揺さぶられている様だった。
夜の食事はいらないと言って蒼葉はベッドから出なかった。旭は部屋の明かりをつけずに机の明かりだけで何かしている様子だったけれど、カチカチと音が聞こえるだけで蒼葉にはわからない。ずっと規則的に音が聞こえて眠気を誘いそうなものなのに、全然眠れない。ずっと夢を見ることもなく夜は眠っていたのが本当に旭に薬を飲まされていたためかと思うと、少し悲しくなる。
どれだけ時間が経過したのか、音が消えて衣擦れの音がしてベッドが軋んだ。明かりが消えて蒼葉の隣に旭の温度と気配がある。なのに、旭は蒼葉に触れることはなかった。どうして、と悲しくなる。
青葉はずっと頭が痛いまま、そのうちなにを考えていいのかもわからなくなってぐるぐるといびつな言葉の断片ばかりを巡らせて一睡もしなかった。頭痛のせいもあったが、眠れないという辛さを初めて体験した。レポートや試験勉強や遊びで徹夜するのではなく、単純に眠れない。眠って思考を放棄したいのにできない。
朝になって旭が起きても蒼葉はぼんやりと布団の中でうずくまっていた。動く気力がない。躰が鉛のように重い気がする。
「蒼葉。起きてるんでしょ。ごはんにしよう。昨日の晩、食べなかったし」
布団の上からぽんぽんと叩かれたが蒼葉は「いらない」と答えた。食欲などなかった。けれど、上から蒼葉に触れた気配がしたのに、旭はしゃがみこんだのか今度は同じくらいの高さから声が聞こえた。
「蒼葉、覚えてる? ごはん食べなくてもなんとかなるけど、水飲まないと人間は簡単に死んじゃうよって前に言ったよ。また無理矢理口移しにされたいの」
「してって言ったらしてくれるの」
怠い躰で繋がれた両手で布団を除けて蒼葉が掠れた声で問い返すと、旭は困った顔をした。無理矢理口移しでものを与えることが蒼葉にとって屈辱的な行為ではなくなっていると気付いたようだ。
ベッドの脇に膝をついて蒼葉を見ている旭の表情が暗い。昨日のことも今までのことも嘘のようだ。旭は蒼葉に絶対的優位であったはずなのに。両手を伸ばして蒼葉は旭の手に触れる。ひやりとして気持ちよかった。
「口移しなら水でもなんでも飲ませられるじゃん。ずっと頭痛いんだよ。すごく怠いんだ。だから、なにも欲しくない」
薄く笑って蒼葉が言うと、困った顔をしていた旭は蒼葉の手に触れ直してから額に手を伸ばしてきた。前髪を分けて触れる手のひらが冷たくて気持ちいい。そんなものでさえ。
「蒼葉、頭痛いのっていつから? 昨日最後に水飲んだの、いつ」
「頭痛は風呂からあがってから。水はたぶん……昼に腹壊した後?」
額に触れる手を気持ちいいと思いながら、蒼葉はぼんやりと答えた。触れている手を気持ちいいと感じる気持ちも嘘なのかと、どこかで虚しく感じている。
「ほかに具合悪いとこは? なんでもいいから教えて」
「めっちゃ怠い。あと眩しい」
「うん。教えてくれてありがとう」
余裕のない返事が返ってきて、旭はキッチンの方へと急いで行った。どうしたのだろうと蒼葉はぼんやりしたままだ。しばらくして戻ってきた旭はいろんなものを持ってきた。
タオルに包まれた氷枕を頭の下に敷かれて、ベッドの脇に何かを引っ張ってきてなにかしていたかと思うと、両手を拘束していた皮ベルトを外して右腕の関節を慎重に触って一点を押さえるとひやりとした感覚の後、ちくりと一瞬痛んだけれどすぐに気にならなくなった。けれど蒼葉はなにをされたのかわからない。
「今度はなにしたの、旭」
嫌な言い方だなと言ってから蒼葉は気付いた。気持ちが混乱しているから、旭のすることを全部素直に信用できない。心配そうな顔色さえも判別できない。
「脱水症状だから、点滴入れた。一時間くらいで終わるから、あまり腕動かさないで」
そう言われて蒼葉は両手の拘束を外されていることに遅れて気付いた。
「なんで、手、解いたの」
脱水だと言われても蒼葉は先に拘束を解かれたことを気にする。
「水飲んでなさすぎるから、点滴の方が効果が早い。水分不足と頭痛と発熱、たぶん眩暈。きっと昨日、寝てないのも影響してる。重篤になったら本当に命を落としてしまうんだよ、蒼葉。そんな時に、拘束なんて……馬鹿げてる」
「なんでこんなもん持ってんの。なんでそんなことすぐわかるの。なんでこんなことできるの」
「医者だから。なのに、気付けなかった。ごめん」
蒼葉よりもよほど具合悪そうな口調で言った旭の顔が青ざめていると蒼葉はようやく気付いた。たったそれだけで脱水などなるのかという気持ちと、危ういバランスで旭が蒼葉の様子を見ていたのかもしれないと思う気持ちが湧いた。
旭はそれ以上無言のまま足元の布団をめくって足のベルトも外した。じゃらり、と金属音が虚しく鳴る。
「蒼葉。ごめんね」
聞いている方が痛くなる声で旭は呟いてベッドの傍を離れようとした。
「あさひ」
かさかさの声で蒼葉が呼ぶと、それでも旭の動きは止まった。
「終わるまで動くなって言ったじゃん。居てよ。旭の手、冷たくて気持ちよかったから」
片手はもう自由なのだから手を伸ばせばいいのに、蒼葉には発想がなくて言葉でなんとか旭を繋ぎとめようとする。旭の表情は蒼葉からは見えない。ただ、蒼葉を振り払うこともできずに、繋げもできないで迷っているように見える。昨日、風呂で話した時の旭もそんなだっただろうかと蒼葉は感じた。無理矢理に突き放そうとするのに、徹しきれない。
「あのさ。俺は旭が好きだから居て欲しいんだけど、旭は嘘だって言うの?」
「一時的な錯覚だよ」
「でも、いまはまだ好きだよ」
念を押すと、旭はベッドの端に座って点滴の針を刺している方の蒼葉の手を握ってきた。蒼葉はほっとしてゆるくその手を握り返した。
「旭はさあ、まだ俺のこと好き?」
「好きだよ。ずっと好きなんだ。だから万一こんなことになっても大丈夫なようにしていた。本当は、こんなもの無駄になればよかったのに」
ぎゅっと強い力で蒼葉の手を握って、旭は片手で顔を隠している。けれど、声が痛々しくて蒼葉は疑う気にもならない。
「ずっとっていつから。あんた俺のストーカーだったの」
「そうかもね。蒼葉、高校三年の春に左足を怪我したでしょ。ちゃんとリハビリすれば競技は無理でもスポーツだってできるって言ったのに、しなかった」
「え……? どうして」
「いま、なにかスポーツしてる?」
「してない」
「やっぱりやめちゃったんだ」
一方的に蒼葉さえも忘れかけていた昔のことを旭の口から聞いて、驚きが隠せない。確かに蒼葉は高校三年の春に左足を怪我した。三年の春で、夏は高校最後の大会なのに怪我のせいで蒼葉の出場は無理になった。その後は受験もあって、落ち込んで自棄になった蒼葉にリハビリなど無駄で拒否した分、今でも天気が悪いと時々、痛む。それからスポーツはひとつもしていない。
「あれ?」
ずっと嫌な思い出で忘れようとしていた記憶を辿ると、一度だけ診察を担当した研修医が旭と同じようなことを言って、熱心にリハビリをすすめてきたことに思い当たる。
「蒼葉は、嫌なことがあると自棄になるのは変わってないのかな」
確かに、恋人に去られて蒼葉は自棄酒をくらって前後不覚になっていた。そして、旭の言うことが本当ならきっと酔っぱらって、飲み物に薬を混ぜられたことにも気付かずに犯されたのだろう。犯されたかどうかは定かではないとしても、少なくともここに連れられて拘束された。
「……なんねん……」
「少なくとも三年以上。ぼくが気持ち悪くなったかい、蒼葉」
「もしかして、左足を拘束しなかったのって」
「圧迫したら、痛むよね」
自分を嘲笑って、寂しそうに旭は言葉を零す。
「旭ぃ……」
なにを言ったらいいのか蒼葉はまたわからなくなって、握られた手を離さないように握り返して、それでもぐちゃぐちゃの情けない顔を見られたくなくて片手で頭まで布団を被った。ほかに方法はなかったのかというのは、きっと愚問だ。旭は同性愛者で、蒼葉は女と付き合ったことしかない。価値観が違いすぎる。もうなってしまった過去を変えることもできない。
「……あんた、馬鹿だろ……」
布団の中でくぐもった声で言うと、旭は少し笑った。
「そうかもね」
「蒼葉。お風呂入るよ」
微睡みかけていた頭を撫でられても蒼葉は瞼を上げない。
「やだ。ねむい」
「わかんなくないけど、シーツ気持ち悪いでしょ」
「いいよ。寝たらわかんない」
「いい子だからおいで」
愚図る蒼葉に旭の手が伸びて軽々と起こされてしまう。確かに旭は筋肉質な躰をしているが、そんなに容易く起こすことができたのかとふと蒼葉は疑問に思った。
「じゃあ、連れてって」
試しにそう言ってみると、旭はやはり軽々と蒼葉を抱き上げて風呂まで運んでシャワーの湯で躰の汚れを流してから湯船に入れた。
ふと拘束された両手首を動かしてみると、ぎりぎりにきつくされていたベルトは一度も調整されていないのに手首がほんの少し動かせる。液体でしか食事をしていなくて他には水を飲むだけで瘦せたのかと蒼葉は自覚した。まだ学生の蒼葉には液体の栄養食品だけでは動かないとはいえ、摂取量が少ないのだろう。
「蒼葉。どうしたの」
「旭。手首、緩んでるから直して」
「外してほしいんじゃなくて、直してなの」
湯船から両手首を上げて言う蒼葉に、旭は穏やかな声のまま訊いてきた。
「外してほしいなんて、俺は言ってない」
後ろから抱かれて風呂に入っていて、顔を見られなくてよかったと蒼葉は思う。けれど、差し出した両手のベルトが緩んでいて痩せたことは旭には隠せない。
青葉の目の前で旭が手首のベルトをいったん外して、きつく締め直した。
「あとで足も見せてね」
後ろからゆるく抱かれて蒼葉は頷いた。
「……ごはん、ゆっくり戻そう。ずっと、液体しか口にしてなかったからすごくゆっくりになるけど」
「いまのままでいい。楽だし別に無理してない」
液体だけで食事を済ませることに慣れてしまった蒼葉は旭の言葉を特に考えずに拒否した。
「駄目。このままじゃ体力がなくなる。胃腸の機能も低下する。だから、ゆっくり戻して、少し筋トレもしよう。外に出れなくなる」
「なんで! そんなこと言うんだよっ……!」
監禁しておいて躰を気遣われるなど矛盾している。蒼葉はベルトを直された両手で湯船の湯を叩いて声を荒げた。好きだと言ったのに。旭の要求を満たしたはずなのに。──とても、気持ちよかったのに。蒼葉の気持ちはすぐにぐちゃぐちゃになる。
「あんた、俺をずっと閉じ込めて一緒にいるんじゃなかったのかよ!」
「ぼくはそうしたいよ。でも、蒼葉は? 学校は? 就職は? やりたいことは? ずっとぼくに繋がれたまま飼い殺しにされていいの」
「好きだって言ったのになんであんたはそんなこと言うんだ!」
「蒼葉が、ぼくを好きだって言ったからだよ」
癇癪を起す蒼葉を動けない力で抱いて、旭はぞっとするほど低い声で言った。言葉の前後が嚙み合わなくて、声に竦んで蒼葉は震えた。
「なにかの実験かって蒼葉言ったよね。実験じゃないけど、近い。監禁状態でストレスの高い状態が続くと、加害者に好意的や協力的になる現象がある。だから蒼葉がぼくを好きって言いだす可能性は高かった」
「なに、言ってんだ」
「ストックホルム症候群っていう。一時的に極限状態に追いやられた被害者が自分を守る心理的現象」
耳元で言われているはずなのに、蒼葉には旭の声が遠く聞こえた。
そんな現象で気持ちを決めつけないで欲しい。そんな現象で嘔吐していた行為を自分からするようになるというのか。躰の感覚まで騙されるのか。
「……俺の気持ちを勝手に決めるな……」
頭の中は言いたいことでいっぱいなのに、何も選べずに蒼葉はぽつりと呟いた。
「蒼葉の、捜索願が出された。ぼくは逮捕されても構わない。そういうことをした。でも蒼葉を傷つけたくない。もう、たくさん傷つけてるのにこんなこと言うのおかしいけど」
「俺が、自分の意志でここにいるんなら、いいんじゃないの」
「じゃあ、このベルトの跡をどう説明できる?」
湯の中で旭に両手を戒めるベルトに触れられて蒼葉は返す言葉が見つからない。
「蒼葉が好きだよ。ずっと前から好きだ。ずっと閉じ込めて一緒にいたいのは変わらない。でも、できないことも知ってた。だから、男に監禁暴行された被害者になる前に蒼葉は元の居場所に帰ろう」
ゆるりと頭を撫でられて蒼葉は泣きそうな気持ちになった。
旭はセックス以外なにも強要していない。手足を拘束しているけれど、蒼葉は不自由ではない。蒼葉が旭を好きだと思ったのなら、強要したセックスだって合意にはならないのか。なにか言い返したいけれど、どう言っていいのか蒼葉にはわからない。
「……俺が、自棄酒飲んでた夜……」
「話を聞くふりをして蒼葉に近付いて飲み物に薬を混ぜて、レイプした」
「毎晩飲ませてる薬……」
「ただの睡眠剤だよ。ちゃんと眠らないと心が不安定になるから」
淡々と答える旭の言葉はちぐはぐだ。もう蒼葉にはなにもわからない。
「ひとりに、して」
かさかさの声を蒼葉は絞り出した。
「落ち着いたら、ちゃんと出ておいで」
首にキスを落として、頭を撫でてから一言いい残して旭は浴室を出ていった。脱衣所で躰を拭いている気配もなく、バスタオルだけを被って部屋に戻ったのかもしれない。
青葉は湯船の中で膝を抱えて小さくなった。旭の言うことがなに一つ理解できない。今更言葉にされたレイプという単語が嫌だ。好きだと言ったのに、セックスの後にはすぐに気持ちを否定する。だからといって旭の願望は初めから変わっていない。逮捕されても構わないとなんでもないことのように言う。自分の罪を誤魔化すためではなく、蒼葉を被害者にしないように帰れという。そうでなければ、男に監禁暴行されたなどと蒼葉に言わないだろう。
どれだけ考えても蒼葉に受け入れられるものはひとつもなくて、のぼせる前にのろのろと風呂を出た。躰を拭いて居室に戻る足が嫌に重くてふらついた。頭も痛い。
青葉は旭を見ないままベッドに倒れ込んで布団を被った。シーツが新しくなっていた。まだ外が明るいまま頭が痛くて瞼を伏せたけれど、眠れる気配はなかった。頭痛がするまま瞼を伏せていると頭の中がまたいっぱいになってぐるぐると考えてしまうけれど、相変わらず混乱が増すばかりでなにもわからない。頭痛が増して、脳みそを直接揺さぶられている様だった。
夜の食事はいらないと言って蒼葉はベッドから出なかった。旭は部屋の明かりをつけずに机の明かりだけで何かしている様子だったけれど、カチカチと音が聞こえるだけで蒼葉にはわからない。ずっと規則的に音が聞こえて眠気を誘いそうなものなのに、全然眠れない。ずっと夢を見ることもなく夜は眠っていたのが本当に旭に薬を飲まされていたためかと思うと、少し悲しくなる。
どれだけ時間が経過したのか、音が消えて衣擦れの音がしてベッドが軋んだ。明かりが消えて蒼葉の隣に旭の温度と気配がある。なのに、旭は蒼葉に触れることはなかった。どうして、と悲しくなる。
青葉はずっと頭が痛いまま、そのうちなにを考えていいのかもわからなくなってぐるぐるといびつな言葉の断片ばかりを巡らせて一睡もしなかった。頭痛のせいもあったが、眠れないという辛さを初めて体験した。レポートや試験勉強や遊びで徹夜するのではなく、単純に眠れない。眠って思考を放棄したいのにできない。
朝になって旭が起きても蒼葉はぼんやりと布団の中でうずくまっていた。動く気力がない。躰が鉛のように重い気がする。
「蒼葉。起きてるんでしょ。ごはんにしよう。昨日の晩、食べなかったし」
布団の上からぽんぽんと叩かれたが蒼葉は「いらない」と答えた。食欲などなかった。けれど、上から蒼葉に触れた気配がしたのに、旭はしゃがみこんだのか今度は同じくらいの高さから声が聞こえた。
「蒼葉、覚えてる? ごはん食べなくてもなんとかなるけど、水飲まないと人間は簡単に死んじゃうよって前に言ったよ。また無理矢理口移しにされたいの」
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怠い躰で繋がれた両手で布団を除けて蒼葉が掠れた声で問い返すと、旭は困った顔をした。無理矢理口移しでものを与えることが蒼葉にとって屈辱的な行為ではなくなっていると気付いたようだ。
ベッドの脇に膝をついて蒼葉を見ている旭の表情が暗い。昨日のことも今までのことも嘘のようだ。旭は蒼葉に絶対的優位であったはずなのに。両手を伸ばして蒼葉は旭の手に触れる。ひやりとして気持ちよかった。
「口移しなら水でもなんでも飲ませられるじゃん。ずっと頭痛いんだよ。すごく怠いんだ。だから、なにも欲しくない」
薄く笑って蒼葉が言うと、困った顔をしていた旭は蒼葉の手に触れ直してから額に手を伸ばしてきた。前髪を分けて触れる手のひらが冷たくて気持ちいい。そんなものでさえ。
「蒼葉、頭痛いのっていつから? 昨日最後に水飲んだの、いつ」
「頭痛は風呂からあがってから。水はたぶん……昼に腹壊した後?」
額に触れる手を気持ちいいと思いながら、蒼葉はぼんやりと答えた。触れている手を気持ちいいと感じる気持ちも嘘なのかと、どこかで虚しく感じている。
「ほかに具合悪いとこは? なんでもいいから教えて」
「めっちゃ怠い。あと眩しい」
「うん。教えてくれてありがとう」
余裕のない返事が返ってきて、旭はキッチンの方へと急いで行った。どうしたのだろうと蒼葉はぼんやりしたままだ。しばらくして戻ってきた旭はいろんなものを持ってきた。
タオルに包まれた氷枕を頭の下に敷かれて、ベッドの脇に何かを引っ張ってきてなにかしていたかと思うと、両手を拘束していた皮ベルトを外して右腕の関節を慎重に触って一点を押さえるとひやりとした感覚の後、ちくりと一瞬痛んだけれどすぐに気にならなくなった。けれど蒼葉はなにをされたのかわからない。
「今度はなにしたの、旭」
嫌な言い方だなと言ってから蒼葉は気付いた。気持ちが混乱しているから、旭のすることを全部素直に信用できない。心配そうな顔色さえも判別できない。
「脱水症状だから、点滴入れた。一時間くらいで終わるから、あまり腕動かさないで」
そう言われて蒼葉は両手の拘束を外されていることに遅れて気付いた。
「なんで、手、解いたの」
脱水だと言われても蒼葉は先に拘束を解かれたことを気にする。
「水飲んでなさすぎるから、点滴の方が効果が早い。水分不足と頭痛と発熱、たぶん眩暈。きっと昨日、寝てないのも影響してる。重篤になったら本当に命を落としてしまうんだよ、蒼葉。そんな時に、拘束なんて……馬鹿げてる」
「なんでこんなもん持ってんの。なんでそんなことすぐわかるの。なんでこんなことできるの」
「医者だから。なのに、気付けなかった。ごめん」
蒼葉よりもよほど具合悪そうな口調で言った旭の顔が青ざめていると蒼葉はようやく気付いた。たったそれだけで脱水などなるのかという気持ちと、危ういバランスで旭が蒼葉の様子を見ていたのかもしれないと思う気持ちが湧いた。
旭はそれ以上無言のまま足元の布団をめくって足のベルトも外した。じゃらり、と金属音が虚しく鳴る。
「蒼葉。ごめんね」
聞いている方が痛くなる声で旭は呟いてベッドの傍を離れようとした。
「あさひ」
かさかさの声で蒼葉が呼ぶと、それでも旭の動きは止まった。
「終わるまで動くなって言ったじゃん。居てよ。旭の手、冷たくて気持ちよかったから」
片手はもう自由なのだから手を伸ばせばいいのに、蒼葉には発想がなくて言葉でなんとか旭を繋ぎとめようとする。旭の表情は蒼葉からは見えない。ただ、蒼葉を振り払うこともできずに、繋げもできないで迷っているように見える。昨日、風呂で話した時の旭もそんなだっただろうかと蒼葉は感じた。無理矢理に突き放そうとするのに、徹しきれない。
「あのさ。俺は旭が好きだから居て欲しいんだけど、旭は嘘だって言うの?」
「一時的な錯覚だよ」
「でも、いまはまだ好きだよ」
念を押すと、旭はベッドの端に座って点滴の針を刺している方の蒼葉の手を握ってきた。蒼葉はほっとしてゆるくその手を握り返した。
「旭はさあ、まだ俺のこと好き?」
「好きだよ。ずっと好きなんだ。だから万一こんなことになっても大丈夫なようにしていた。本当は、こんなもの無駄になればよかったのに」
ぎゅっと強い力で蒼葉の手を握って、旭は片手で顔を隠している。けれど、声が痛々しくて蒼葉は疑う気にもならない。
「ずっとっていつから。あんた俺のストーカーだったの」
「そうかもね。蒼葉、高校三年の春に左足を怪我したでしょ。ちゃんとリハビリすれば競技は無理でもスポーツだってできるって言ったのに、しなかった」
「え……? どうして」
「いま、なにかスポーツしてる?」
「してない」
「やっぱりやめちゃったんだ」
一方的に蒼葉さえも忘れかけていた昔のことを旭の口から聞いて、驚きが隠せない。確かに蒼葉は高校三年の春に左足を怪我した。三年の春で、夏は高校最後の大会なのに怪我のせいで蒼葉の出場は無理になった。その後は受験もあって、落ち込んで自棄になった蒼葉にリハビリなど無駄で拒否した分、今でも天気が悪いと時々、痛む。それからスポーツはひとつもしていない。
「あれ?」
ずっと嫌な思い出で忘れようとしていた記憶を辿ると、一度だけ診察を担当した研修医が旭と同じようなことを言って、熱心にリハビリをすすめてきたことに思い当たる。
「蒼葉は、嫌なことがあると自棄になるのは変わってないのかな」
確かに、恋人に去られて蒼葉は自棄酒をくらって前後不覚になっていた。そして、旭の言うことが本当ならきっと酔っぱらって、飲み物に薬を混ぜられたことにも気付かずに犯されたのだろう。犯されたかどうかは定かではないとしても、少なくともここに連れられて拘束された。
「……なんねん……」
「少なくとも三年以上。ぼくが気持ち悪くなったかい、蒼葉」
「もしかして、左足を拘束しなかったのって」
「圧迫したら、痛むよね」
自分を嘲笑って、寂しそうに旭は言葉を零す。
「旭ぃ……」
なにを言ったらいいのか蒼葉はまたわからなくなって、握られた手を離さないように握り返して、それでもぐちゃぐちゃの情けない顔を見られたくなくて片手で頭まで布団を被った。ほかに方法はなかったのかというのは、きっと愚問だ。旭は同性愛者で、蒼葉は女と付き合ったことしかない。価値観が違いすぎる。もうなってしまった過去を変えることもできない。
「……あんた、馬鹿だろ……」
布団の中でくぐもった声で言うと、旭は少し笑った。
「そうかもね」
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美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
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【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
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