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第二幕〈再会〉
春の嵐 おまけ
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午前の診察でようやく添え木を外す許しが出た。
包帯は内出血の沈殿が消えるまで巻いておくことになったが、そんなものはこれまでの不自由を思えばあってないようなものだ。
レスタはさっそく遊戯室に向かい、ダーツで手首の感覚を慣らしにかかった。
しばらく固定されていた関節はすぐにはいうことを利かないようだったが、的にきれいに刺さるまでは数回程度の反復で済んだ。
「いまのはきれいに飛んだな」
クラウドは近くのソファに凭れてダーツに興じるレスタを見ていた。
「んー…。包帯がなきゃもっとすんなりいくんだけどな」
応えるレスタは少し不満げだ。
それもそのはずで、レスタはもともとダーツの腕はいい。というより、苦手なのは体格や腕力重視の武術全般だ。身軽なので反射神経や瞬発力はいいほうだが、厚みのない身体や四肢は重厚さに欠ける。
とはいえ背も低くないし、均整の取れた身体はしなやかで綺麗だ。
「包帯ってあと三、四日? もうちょい?」
クラウドの問いにレスタは首をかしげた。
「どうだろうな。足のときはそんなもんだったし、多めに見積もったとしても倍の日数ってことはないと思う」
「まぁそうだな…。あー…なら何とか間に合うか…」
クラウドはがしがし頭を掻きながら唸って、なにやらものすごく嫌そうな顔で溜息を吐いた。
「…青痣が消えるまでつきあえると思う。つーか戻んのがまじでうぜぇ…」
暦はもう五月に入っていた。
つまり、遅くとも下旬にはクラウドは帝都に戻っていなければならない。
「さすがに今年は歳事のまえにもあれこれあんだよな…、めんどくさいことが」
歳事というのはナーガ貴族における誕生日ごとのしきたりのようなものだ。成人を迎えるとなるとさらに行事が追加される。
ましてやクラウドの場合、単なる成人の儀だけでは済まないからこそなおさら面倒なわけだが。
「あぁ、立太子礼がらみの」
「そ。朝廷のじじいどもがうるせーのなんの」
先日もまたリヒトからの書簡を受け取った。こんどは時事だけでなく、その立太子礼に関連する五月下旬の予定が記されてあった。
きっとリヒトが気を遣ってくれたのだろう、予定は歳事まえの五日間にすべて詰め込まれており、最悪その前日までに帝都に戻りさえすれば何とかなるという日程になっていた。
それはそれでなかなか厳しい日程のような気もするが、クラウドがぎりぎりまで滞在するというならレスタに異論はない。
二年まえ、クラウドはレスタを見送らなかったが、もちろんレスタはしっかりクラウドを見送るつもりだ。
「おまえがじじいどもに信用ないからだろ」
「いちいちうるさいんで弟は未来の龍神の巫者と乳繰りあってます―つっとけってお兄ちゃんに返信しといたわ」
「おまえときどき馬鹿だよな」
レスタはクラウドに向かってダーツの矢をぶん投げた。
当然のようにしれっと避けたクラウドは、おいあぶねーだろ、と口先だけの文句を言い、レスタの冷えた視線などおかまいなしにこちらへ来るよう手招いた。
わりといつものことだが、クラウドのする指先だけの手招きは妙に怖い。というか言外の圧がある。
怯みこそしないがその圧はレスタもひしひしと感じる。
そしてレスタがこれに応じないとなると、クラウドは自ら近づいて有無をいわさず捕まえるのだ。今回もしかり。
「ほんとのことだろ。リヒトだって知ってる。…つか、あいつほどおまえが俺に熱あげんの期待してるやつっていないんじゃねえの」
ぐっと腰を抱き寄せられて、レスタはクラウドの懐のなかに収まった。
「ま、いちばん期待してんのは俺だけどな」
「…ちゃんと熱あげてるだろ」
「知ってる」
機嫌よく笑ってクラウドはレスタのこめかみに触れた。
いつものように鼻先でくすぐって、唇でそのあとをたどる。レスタ、と熱っぽく囁きかける。
「…触んねえの? 髪」
「……、」
めずらしく少し途惑ったようすでレスタが目を逸らした。
実際かなり恥ずかしかった。というかこっぱずかしい。何だこの空気。
「…クラウドちょっと…」
レスタは小柄ではないが、クラウドの長身はその上をいく。体格の差はいうまでもないので当然びくともしない。つまり逃げられない。
レスタはいきなり甘ったるいクラウドの空気にぞわぞわしながら、うっかり出遅れてしまった自分を悔いた。ここでこの雰囲気に置いていかれると非常にいたたまれない。いや、すでに居心地が悪い。
そしてこういうときに限ってクラウドは自ら仕掛けてこないのだ。
レスタが黒い髪をたぐり寄せ、クラウドのキスを欲しがるのを待っている。
(…なんでさっき一緒に盛り上がんなかったんだ俺…)
一度こっぱずかしいと思ったせいなのか、なかなか切り替わらない頭の中にレスタはいよいよ焦ってきた。
せめてクラウドがいつものように仕掛けてくれれば、その流れにまかせて便乗できていたはずなのに。
(…あぁ、けど、だから待ってんのか…)
クラウドからではなく、レスタからクラウドに触れてくるのを。
思えば最初から、怪我が治ったらと言っていた。
レスタが利き手の自由を取り戻すのを待っていたように、クラウドもずっと待っていた。それは怪我に限った話じゃなく、この二年、ずっとクラウドはレスタを待っていたということだ。
この期に及んで怪我が治りきるまえに身体を繋いでしまったとはいえ。
いや、実際はそれすらもクラウドには我慢の延長だっただろうに。
この男がここまで一途だなんて、あんまり可愛くてレスタはふいに笑いそうになった。やっぱり今日はなかなか甘い空気になりそうもない。
「クラウド」
「んー」
大きな猫科の猛獣がごろごろ喉を鳴らすように懐いていた。
レスタの腰に両腕を交差させて、抱きしめるというには緩い拘束で、きっと甘い空気になりそこねたレスタのことも見透かしつつ、それでもキスのような鼻先の愛撫は変わらない。
それがなおさら大型の肉食獣を思わせるのに、実際にレスタを食らい尽くすような男なのに、その獰猛な牙すら可愛く感じるから不思議だ。
「クラウド、」
真っ昼間だけどまあいいか、と思った。
この男を両手で抱きしめたかった。
漆黒の髪に触れて、神居の背中に触れて、逞しい肩にも腕も触れて、―― あとはそう、クラウドの望むとおりに。
右手でぽんと背中を叩いた。
「部屋に戻ろう、クラウド」
「寝室に?」
「真っ昼間だけどな」
レスタだからだと、クラウドは言った。
いまならそれも分かるから、クラウドだからだと言ってやろう。
生来レスタは男に抱かれるような男ではない。抱かれたいと思う気質でも気性でもない。クラウドに対してもそれは同じだ。
だから、抱かれているのではなく抱き合っている。そう思っている。
―― クラウドだから。
いつだってレスタはそう思っている。
それがきっと、すべての答えだ。
包帯は内出血の沈殿が消えるまで巻いておくことになったが、そんなものはこれまでの不自由を思えばあってないようなものだ。
レスタはさっそく遊戯室に向かい、ダーツで手首の感覚を慣らしにかかった。
しばらく固定されていた関節はすぐにはいうことを利かないようだったが、的にきれいに刺さるまでは数回程度の反復で済んだ。
「いまのはきれいに飛んだな」
クラウドは近くのソファに凭れてダーツに興じるレスタを見ていた。
「んー…。包帯がなきゃもっとすんなりいくんだけどな」
応えるレスタは少し不満げだ。
それもそのはずで、レスタはもともとダーツの腕はいい。というより、苦手なのは体格や腕力重視の武術全般だ。身軽なので反射神経や瞬発力はいいほうだが、厚みのない身体や四肢は重厚さに欠ける。
とはいえ背も低くないし、均整の取れた身体はしなやかで綺麗だ。
「包帯ってあと三、四日? もうちょい?」
クラウドの問いにレスタは首をかしげた。
「どうだろうな。足のときはそんなもんだったし、多めに見積もったとしても倍の日数ってことはないと思う」
「まぁそうだな…。あー…なら何とか間に合うか…」
クラウドはがしがし頭を掻きながら唸って、なにやらものすごく嫌そうな顔で溜息を吐いた。
「…青痣が消えるまでつきあえると思う。つーか戻んのがまじでうぜぇ…」
暦はもう五月に入っていた。
つまり、遅くとも下旬にはクラウドは帝都に戻っていなければならない。
「さすがに今年は歳事のまえにもあれこれあんだよな…、めんどくさいことが」
歳事というのはナーガ貴族における誕生日ごとのしきたりのようなものだ。成人を迎えるとなるとさらに行事が追加される。
ましてやクラウドの場合、単なる成人の儀だけでは済まないからこそなおさら面倒なわけだが。
「あぁ、立太子礼がらみの」
「そ。朝廷のじじいどもがうるせーのなんの」
先日もまたリヒトからの書簡を受け取った。こんどは時事だけでなく、その立太子礼に関連する五月下旬の予定が記されてあった。
きっとリヒトが気を遣ってくれたのだろう、予定は歳事まえの五日間にすべて詰め込まれており、最悪その前日までに帝都に戻りさえすれば何とかなるという日程になっていた。
それはそれでなかなか厳しい日程のような気もするが、クラウドがぎりぎりまで滞在するというならレスタに異論はない。
二年まえ、クラウドはレスタを見送らなかったが、もちろんレスタはしっかりクラウドを見送るつもりだ。
「おまえがじじいどもに信用ないからだろ」
「いちいちうるさいんで弟は未来の龍神の巫者と乳繰りあってます―つっとけってお兄ちゃんに返信しといたわ」
「おまえときどき馬鹿だよな」
レスタはクラウドに向かってダーツの矢をぶん投げた。
当然のようにしれっと避けたクラウドは、おいあぶねーだろ、と口先だけの文句を言い、レスタの冷えた視線などおかまいなしにこちらへ来るよう手招いた。
わりといつものことだが、クラウドのする指先だけの手招きは妙に怖い。というか言外の圧がある。
怯みこそしないがその圧はレスタもひしひしと感じる。
そしてレスタがこれに応じないとなると、クラウドは自ら近づいて有無をいわさず捕まえるのだ。今回もしかり。
「ほんとのことだろ。リヒトだって知ってる。…つか、あいつほどおまえが俺に熱あげんの期待してるやつっていないんじゃねえの」
ぐっと腰を抱き寄せられて、レスタはクラウドの懐のなかに収まった。
「ま、いちばん期待してんのは俺だけどな」
「…ちゃんと熱あげてるだろ」
「知ってる」
機嫌よく笑ってクラウドはレスタのこめかみに触れた。
いつものように鼻先でくすぐって、唇でそのあとをたどる。レスタ、と熱っぽく囁きかける。
「…触んねえの? 髪」
「……、」
めずらしく少し途惑ったようすでレスタが目を逸らした。
実際かなり恥ずかしかった。というかこっぱずかしい。何だこの空気。
「…クラウドちょっと…」
レスタは小柄ではないが、クラウドの長身はその上をいく。体格の差はいうまでもないので当然びくともしない。つまり逃げられない。
レスタはいきなり甘ったるいクラウドの空気にぞわぞわしながら、うっかり出遅れてしまった自分を悔いた。ここでこの雰囲気に置いていかれると非常にいたたまれない。いや、すでに居心地が悪い。
そしてこういうときに限ってクラウドは自ら仕掛けてこないのだ。
レスタが黒い髪をたぐり寄せ、クラウドのキスを欲しがるのを待っている。
(…なんでさっき一緒に盛り上がんなかったんだ俺…)
一度こっぱずかしいと思ったせいなのか、なかなか切り替わらない頭の中にレスタはいよいよ焦ってきた。
せめてクラウドがいつものように仕掛けてくれれば、その流れにまかせて便乗できていたはずなのに。
(…あぁ、けど、だから待ってんのか…)
クラウドからではなく、レスタからクラウドに触れてくるのを。
思えば最初から、怪我が治ったらと言っていた。
レスタが利き手の自由を取り戻すのを待っていたように、クラウドもずっと待っていた。それは怪我に限った話じゃなく、この二年、ずっとクラウドはレスタを待っていたということだ。
この期に及んで怪我が治りきるまえに身体を繋いでしまったとはいえ。
いや、実際はそれすらもクラウドには我慢の延長だっただろうに。
この男がここまで一途だなんて、あんまり可愛くてレスタはふいに笑いそうになった。やっぱり今日はなかなか甘い空気になりそうもない。
「クラウド」
「んー」
大きな猫科の猛獣がごろごろ喉を鳴らすように懐いていた。
レスタの腰に両腕を交差させて、抱きしめるというには緩い拘束で、きっと甘い空気になりそこねたレスタのことも見透かしつつ、それでもキスのような鼻先の愛撫は変わらない。
それがなおさら大型の肉食獣を思わせるのに、実際にレスタを食らい尽くすような男なのに、その獰猛な牙すら可愛く感じるから不思議だ。
「クラウド、」
真っ昼間だけどまあいいか、と思った。
この男を両手で抱きしめたかった。
漆黒の髪に触れて、神居の背中に触れて、逞しい肩にも腕も触れて、―― あとはそう、クラウドの望むとおりに。
右手でぽんと背中を叩いた。
「部屋に戻ろう、クラウド」
「寝室に?」
「真っ昼間だけどな」
レスタだからだと、クラウドは言った。
いまならそれも分かるから、クラウドだからだと言ってやろう。
生来レスタは男に抱かれるような男ではない。抱かれたいと思う気質でも気性でもない。クラウドに対してもそれは同じだ。
だから、抱かれているのではなく抱き合っている。そう思っている。
―― クラウドだから。
いつだってレスタはそう思っている。
それがきっと、すべての答えだ。
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