龍神は月を乞う

なつあきみか

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第二幕〈再会〉

春の嵐 16 終

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 午後からにしろよ、というクラウドの怠惰な寝起きを容赦なく蹴り飛ばし、レスタは朝のうちからカムリの屋敷を出て離宮に戻った。
 思うにあの男は必要がなければ案外どこまでも怠惰だ。日々を規則正しく過ごすどころか差し迫ったことですらなおざりにする。そのくせ何をやらせても誰よりうまく易々とこなす。
 畏れる者も羨む者も妬む者もごまんといるだろうが、それすら含めてあの男の本質だと思えば、やりたいようにやらせておくのが結局いちばんいいんだろう、という結論に終着するからまた始末に負えない。
 レスタも己の抜きん出た部分やそうでない部分は自覚しているが、だからこそ相応の努力は人一倍だ。そういう意味でならレスタはごく堅実だと言える。
 それに較べて困難を知らないクラウドにとって、本気で必死になったものといえば。
(……俺か?)
 あきれて大きな溜息が出た。

 レスタはひとりで馬車を降り、出迎えの城代が怪訝な表情を浮かべるのを素通りして、回廊を進んだ。
「辺境伯殿は、今朝はご領地か?」
「あー…、気が向いたら午後にでも顔出すだろ。…馬寄せにノエルの馬車があったな。誰が来てる?」
 わざわざ午前から訪ねるほどの急ぎの用向きがあるとも思えないが、馬車を降りたとき目端に止まったのはノエルの家紋だった。
 問えば、ほんの先刻キアムとマリアを伴って、エレナが訪ねてきたという。
「姫が少しなら待つと仰せられてな。つい先ほど歓談室にお通ししたところだ。何やら旅支度をするそうで」
「旅支度? 誰が」
「レグゼン卿が。トロワ殿下のお許しを賜ったらしい」
「……ふん」
 マリアの旅についてはエレナがお膳立てしたことになっているので、多少日数が嵩んだとしてもどうにかなるだろう。
 しかし結婚の事後報告をするまえからシャンテの心証をさらに悪くしかねない行動でもあり、そういう意味ではあまりお勧めできない。もっともトロワが許したというならこちらがあれこれ諫言することでもないが。
「…浮かれてんだな」
 もちろんそういうことも恋の成就にはありがちだ。
 やれやれと肩をすくめて、ここでもまた溜息をひとつ。レスタは客人の待つ歓談室の扉を開けた。

 
「実は明後日にもこちらを出立させていただいて、マリアとふたり各地に寄り道をしながら王都に戻ろうかと思っております」
 レスタが城主の椅子に腰掛けるなり、キアムは昨日までの骨折りに対する謝辞を申し述べたあと、さっそく切りだした。
 朝だというのに元気がいいというか、レスタのまえだというのに機嫌がいい。
 普段トロワの背後で世渡り上手な顔をしている男なので、こういう表情を見慣れないというわけではないが、今日の上機嫌にはレスタは少々頭を抱えたい気分になった。抱えるかわりに肘掛けに頬杖をついて、短く訊いた。
「…日程は?」
「帰路のついでですので五月の半ばまでには戻ります。それに下旬は王族方もご多忙になりますので」
「てことはさらに半月か」
 どの街道を選ぶのか、シャンテへの挨拶や、宮廷への報告はどうするのか。そんなことはわざわざ訊かない。
 この時期は特別な催事も外交もないし、確かに五月は宮殿全体が多少慌ただしくはなるが、言ってみれば毎年のことだ。
 レスタは少し考えて、いいんじゃねえの、と素っ気なく答えた。
「トロワも明後日の出立か?」
「ええ。もともとお忍びだったから、長逗留はノエル殿にもご迷惑だろうと」
 エレナからの返答に、レスタはふーんと間延びした返事をした。
 側近のひとりであるキアムだけを送り出し、彼らの挨拶のついでに明後日の退去を伝えるというのは、ある意味非常にトロワらしい、何とも消極的な意思表示だ。
 昨日のあれがよほど慮外だったのか、まさかここまで分かりやすく消沈するとは思わなかった。
 こっそりと、喧嘩でもしたの? と訊いてきたのはエレナだ。
 トロワにとっては自ら進めた臣下の祝いの席なのに、途中からひとり輪を外れてしまった姿に彼のもうひとりの側近も距離を取りあぐねたようで、エレナに助言を求めたのだという。
 むろんエレナはトロワに直接問うことはなかった。彼の側近にも配慮に足る距離を保つようにと告げただけで、原因らしきレスタにも帰り際に先の問いを向けただけだ。
 客観的な目で、エレナは彼らが不仲ではないことをちゃんと認識している。ユアルとトロワがそれなりに親しくしていることも。
 そこにレスタが絡んでいることもユアル側のエレナは知っていたので、当のレスタがトロワと仲違いするというのは腑に落ちないようだったが、やはり少し心配になったらしい。
 それだけトロワが分かりやすく沈んでいたとも言える。
 けれどこればかりはトロワが自分で折り合いをつけるしかない。
 トロワの理想はトロワのためだけの理想だ。レスタに限らず誰だって他人の理想を生きたりはしない。
「エレナは月末までいるだろ。残りの日数はどうする? こっちに移るか?」
「そのつもりだったけど。…あの失礼な方もいるんでしょ?」
「クラウド?」
「名前なんて知りません」
「まぁそうだな」
 レスタは笑いながら答えた。一方のエレナは思い出したような不機嫌顔になって、やっぱりやめておく、と肩をすくめた。
 せっかくの辺境だし、ハルクも一緒にレスタと三人でのんびり過ごすつもりだったが、それはどうやら果たせそうもない。妥協して離宮に移ったところであの男の態度には寛容さを示せそうもないし、そうなれば侍従や女官たちに無用の気遣いをさせるだけだ。
「とりあえず貴方の怪我の快復が順調ならそれで結構よ。残りの日数もこのままノエル邸でゆっくりします。せっかくだから街をいろいろ見てまわったりもしたいし…、今日もこれからみんなで市街を散策する予定なの」
「トロワもか?」
「ええ、渋ってたからとりあえず置いて来ちゃったけど、一旦戻って今度こそは引っ張り出すわ。賑やかな場所に紛れれば殿下も少しは元気になるでしょ」
「…そうかもな」
 仲直りしてね。とエレナはやはりこっそりと告げた。
 むろん、ユアルのためにもトロワとの距離には適宜対応を怠る気はない。
 それでも今後についてはひとまず王都に戻ってからだ。レスタはエレナの心配をさらりと受け流した。
 
 それから間もなくして、エレナたちは領都の市街へと出掛けていった。
 どのみち明後日の出立のときにはトロワも顔を出さないわけにはいかないだろうし、あらたまった挨拶を交わすのはそのときだ。それでなくとも同じ王都に住まう身なのだし、機会は少ないがレスタが登城した際には王宮で出会すことも皆無ではない。
「……」
 馬車は軽快な馬蹄を鳴らして遠ざかっていく。
 どこの城も正門からの出入りは前庭の花壇や緑園を中央にして、往来が擦れ違うことのないように決まって時計回りだ。もちろんこの離宮も例にもれず。
 遠ざかる馬車とは反対側の通用路に、レスタは馬上の人影を見つけた。
 まるで見計らったように入れ替わりなのが妙におかしくて、エレナたちの見送りと同時にクラウドの到着を迎えながら、レスタは思わず小さく笑った。
「連中が来てたのか」
 馬から降りるなり、クラウドは声をひそめるでもなくそう言った。
 連中というのはもちろん王都からの客人のことだ。レスタの背後には城代をはじめとしたこの国の臣下が居並んでいるのに、他国の高位貴族に対して相も変わらずクラウドの言動には表敬の欠片もない。
 というより、彼らももはやそんなクラウドの言動に馴染んでしまった。何しろ恐ろしいまでの威風に満ちたこの異国の貴族は、彼らが主君と思い定めた人物と纏う空気がよく似ている。
 一見して何ひとつ似通ったところなどないのに、いつからかその姿かたちの差違でさえ彼らの目には表裏のように映っているようだった。
 おかげで周囲は皆そろって聞かないふりだ。城代もこの離宮では身分や階級よりレスタの意向を優先している。
「キアムたちが明後日から物見遊山の旅に出るんだと。今日はその支度も兼ねて市街の散策らしい」
 レスタとともに玄関広間を通りぬけながら、クラウドはその説明に怪訝そうな顔をした。
「物見遊山て、王弟もか?」
「いや、トロワはまっすぐ王都に戻る。うちは五月に王族男子が王都を離れるのを良しとしないんで」
「あぁ、そっちの宮廷議会の年度初め。六月だしな。さすがに五月は忙しいか」
「そ。だから俺も上旬には戻る。…ていうかよく知ってたな、六月って」
 ヴァンレイクの場合、宮廷の議会は実際の年度初めと同時期には行われない。税収の配分など毎年の比重や収支の変移するものを重視して、先に概要を立て、前年比からの修正を加えて実施する。ゆえに年間を通した全期報告の五月は宮廷じゅうが忙しなく、未成年の王族も遊興を控えて王都に留まるのが慣例になっていた。
 しかしナーガはそういった流れではなかったはずだ。
「リヒトがマメに調べてた」
「…あっそ」
 もひとつおまけにこの男案外お兄ちゃん子だよな、とレスタは思った。
 双子というのはただそれだけで、他の兄弟とは絆の深さや強さが違うらしい、という話はよく聞くが。
 万人を見下す弟の傲慢な振る舞いを相手に、兄のリヒトは気ままな猛獣でも躾る感覚で日々奮闘しているのかもしれない。
 しかもそれがどちらにとってもうまい具合に作用している。ようにレスタには見える。
「おまえ実はリヒト大好きだよな。お兄ちゃん子だし」
「なんだそりゃ。つーかおまえの弟ほどじゃねーよ」
 レスタの私室に入った途端、クラウドはすぐさま懐へとレスタを引き寄せた。
 色を含んだ行為というよりは、朝の挨拶の仕切り直しだ。何しろ今朝のレスタは寝台に引き戻そうとするクラウドを蹴飛ばしてカムリ邸を出てきている。
 少し強引にキスを仕掛けたクラウドは、意趣返しに唇を軽くひと噛みしてからレスタを解放してやった。――もちろん、腕の中からは放さないままだ。
「…噛むな。生憎ユアルは聞き分けも性格もいい折り紙付きの弟なんだよ」
「よく言う。従順な弟を育ててるわけでもねぇ奴が」
「それはまたべつの話だろ。依存のない自立は大前提、それも踏まえてユアルは持ち前の素直さで上にまっすぐ伸びてるって話だ。斜めにまっすぐ伸びきったおまえとは大違い。…ていうかこっちは札付きの猛獣だよな。すぐ噛むし」
「鳩尾に蹴り入れた奴が言うな」
「あ、やっぱあれ入ってたのか」
「………」
「まーあれだ。油断大敵?」
「……………」
 はぁーっと、いっそ力強いほどに万感の籠もった溜息をクラウドは吐いた。
「…二の句が継げねぇってこういうことだよなぁ…。俺としたことが生まれて初めていま実感した」
「俺はおまえに関してはわりとしょっちゅう閉口してますが」
「…ああそう」
 デコピンの次はこれだなと、クラウドは懐に閉じ込めたレスタの額に勢いよく頭突きをくらわせた。ごつっと鈍い音が聞こえたので、手応えは充分なようだった。
 途端に痛いだの放せだの喧しく喚きだしたレスタを言われるままカウチにポイと放りだし、閉じたテラスを開けにクラウドは窓辺へ歩いていく。
 閂を外して窓を押しあけると風の気配がじかに伝わってきて、ただ何となく、まあ悪くないな、とクラウドは思った。
 この辺境の空気は悪くない。同様にこの離宮の不思議な率直さと奔放さも。
 それはまさにレスタを核とした頑健な一枚岩の姿だ。だからクラウドにはこんなにも居心地がいい。
 そしてその反面、レスタが日々を窮屈に過ごすこの国の王都はどんな場所だろう、とも思った。
「そういやおまえ、王都じゃノエルの屋敷に居候してんだよな」
 ふり向いてみると、レスタはカウチに蹲って額を抱え込んでいた。先日のデコピンにも匹敵するほどの衝撃だったらしい。それこそ油断大敵だと言ってやりたい。
「因果応報と自業自得と油断大敵ってとこか?」
「…うるせぇよ」
 低く苦々しくレスタは応えた。
「居候やってんの?」
「そうだけど、…それが何だ」
「王都なら手頃な屋敷が他にいくらでもあるだろ。戻ったら私邸を用意しとけ」
「俺さびしがりやだからハルクと一緒がいい」
「なら王都の迎賓館まで俺に抱かれにくるか? べつにそれでもいいけどな」
「は?」
 唐突であけすけな科白にレスタは額を抑えたまま顔をあげた。あまりと言えばあまりの露骨さと、それ以上の唐突な言葉はレスタですら理解するまでに数瞬を要した。
「…王都の、迎賓館…?」
 王都の迎賓館といえば、この秋の対外行事を見越して改修が行われたばかりだ。
 今年が先王の十年忌にあたる節目の年であることから、建国の日にあわせて現王の治世の更なる安泰を祈念するという国家の式典が予定されている。
 とりわけ近隣国との親善外交に重きが置かれており、国内のみで祝う従来の建国祭だけでなく、今年は国外から貴賓が招かれることになっていた。
 確か正式な招待発布が行われたのは年が明けてすぐだ。そして今回レスタが王都を留守にしたのは、各国からの返答が出揃うまえだった。
 その式典に、国賓としてクラウドが訪れるというのか。半年後の、秋に。
「おまえあれに出席すんの? ていうかいつ決まったんだそれ」
「さあ? 俺が帝都を出るまではまだ選考途中だったらしいし、まあ最近だろ。最終的な国使の選考が終わるまで正式な返答がそっちに届くのはまだ先じゃねえかな」
「じゃあおまえの出席もまだ予定ってことか」
「いや、ほぼ決定」
 実にあっさりクラウドは答えた。
 開いた窓を固定して、そのまま風通しのいい近くの椅子に腰をおろした。
「もともと朝廷の連中はとっとと俺の立太子礼を済ませて外交に担ぎ出したがってんだよ。だからこっちから断らねえ分には俺の出席は決定事項だと思っていい。正直行きたいとは思わねぇけどな。おまえが王子様やってる場所なんかにはな」
 それでもたぶん興味はある。王子をしているレスタにではなく、そんなレスタをとりまく宮廷のしがらみや、さまざまな思惑というものに。
 ここからさらに半年を経たあとでさえレスタを取り戻しに行くわけではないが、それならそれで、この目でじかに確かめておくことも肝要だろう。
 誰より鮮やかな存在感で、誰より圧倒的な威風を纏う、誰より支配者たるレスタの、かの国での姿を。それらすべてがクラウドの乞うたレスタだからこそ。
 
「…どっちにしろ半年は先か」
 遠くはないが先の話にレスタは軽く肩をすくめた。
 思えば約束というのはそれ自体が未来の話ではある。だから果たすために誰もが心を砕く。
「新しい楽しみが出来ただろ」
「確かにな」
 ぬけぬけと宣うクラウドにレスタはふんと鼻を鳴らして、カウチから勢いよく腰をあげた。
 たぶんもう明日か明後日には右手の添え木も外れる。そして元どおり動かせるようになった右手はきっと、真っ先に漆黒の髪に触れ、龍神を宿す背に触れて、両腕でこの男を抱きしめる。膚を、熱を、確かめる。
 けれどそれは恋だけで済む話でもなく、ただ甘いだけの関係でもない。
「……とりあえず、テラスに出て茶でも飲むか」
「…あ?」
 脈絡のない言葉にクラウドは怪訝に首を傾げた。
「半年先の話より優先しときたいことがある。どうせなら現状に則した話を…、てな」
 レスタは扉に向かって歩いていくと、部屋の向こうに声をかけた。
「城代を呼べ。それと茶。三人分な」
 
 なるほど確かに、現状に則した話らしい。
 自分たちを相応しいと評した老練のあの男に、まずは正しく伝えるところから始めるのだ。
 とうに見透かされているとしても、そんな曖昧な暗黙ではなく、自らの意思と言葉で、いつか訪れるその日のために。
 ひとつひとつ互いの足下を固め、見えないものを手に入れていく。きっといま必要なのはそういうことだ。
 恋に似て恋だけでなく、複雑で厄介でそのくせかけがえのない、何より誇らしい彼我だからこそ。
 
 やがてノックの音が響いた。
 レスタは一歩を踏みだして、その扉を大きくあけた。
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