龍神は月を乞う

なつあきみか

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第一幕〈馴れ初め〉

その眸に映るもの 14

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 屋敷の東側を占める総領の領域は、居室に限らず使用人の出入りがごく少ない。
 ゆえに常日頃から静寂の保たれた長い回廊の一画で、突然響き渡った激しい騒音は周囲の空気すら震わせた。続いた声はリヒトの弟を呼ばわる怒声だった。
「開けろ! ここを開けろクラウド!」
 鍵の掛かった閂が耳障りな音を立てるほど、激しく扉を叩き揺らしてリヒトは怒鳴った。室内からの反応は聞こえてこないが、施錠されているのだから扉の向こうに部屋の主が居るのは間違いなかった。
 そもそも鍵を掛けていること自体がおかしい。咄嗟の激情にまかせて弟が何を考え、何を行動に移したのか、悪い予想を裏打ちするこの状況に、リヒトは自分でも驚くほどに焦っていた。
「リヒトさま…」
 躊躇うようなリクの声に、ふりかえることなくリヒトは命じた。
「鉈…、いや、刀を持ってこい。閂を壊す」
 辺境のように砦を意識した頑強な造りとは異なる扉だ、刀さえあれば破壊できる。総領の私室だとか、越権行為だとか、そんなものは全部無視した。
 何があってもここは退けない。退くなと命じる何かを感じる。むしろクラウドのためだ。
 刀を持って駆け戻ってきたリクからそれを受け取ったリヒトは、閉ざされた閂へと狙いを定め、一刀の衝撃を振りおろした。

 
 
 扉の向こうには、床に白い身体を組み敷いて被さる背中があった。
 その背中が小さく蹲っているように見えた違和感に、室内に踏み込んだリヒトは思わず足を止めそうになった。
 蹲る背中を怪訝に思いながらリヒトは慎重にクラウドに近づいた。そうして次に目に飛び込んできたのは、蹲る背中のその下、無理やり膚を曝されたレスタの身体だった。
「レスタ…!」
 完全にはだけられた胸もとに、ほどかれた帯、陵辱しようとしていたのは明らかだ。ようやく僅かに身動ぎをみせたクラウドの肩を、リヒトは先ほどの違和感ごと押し退けて、そこからレスタを助けだした。
「――リヒト、…」
「…すまん、……、大丈夫か…?」
 取り乱すまいとしても、声に震えが混じってしまった。
 リヒトは動揺を振り切るように努めて冷静に手を伸ばし、弟が乱しただろう白い部屋着の襟を掻き合わせてやった。床の帯も拾いあげ、まだどこか呆然としているレスタの身なりを整えていく。
「……レスタ?」
 気遣うように名前を呼ばれ、そこでようやくレスタはリヒトの手を止めた。
「……ああ、平気だ…、あとは自分でやる…」
 帯紐を受け取って、小さな深呼吸をひとつ。ふたつ。強ばった全身から少しずつ力を抜いたレスタは、その場にゆっくりと立ち上がった。
 襟と裾の重なりを正し、帯を締め、まだ僅かに震えの残る手で、ひとつずつ身なりを整えていく。最後に手櫛で金の髪を梳いたところで、身に降りかかった全ての不穏をその姿から消し去った。
 ただ、その沈黙はたとえば怒りを内包して毅然としている、というのではなく、かといってクラウドに怖じておとなしくしているという感じでもない。わけも分からず静かに漂う緊張感――のようなものを間近に感じ取りながら、リヒトはレスタの心情を気遣いつつかれの次の行動を待つしかなかった。
 出来たことといえば、薄い部屋着姿のレスタのために、己の上衣を脱いでその肩に掛けてやったぐらいだ。
 クラウドは、先ほどからずっと床に座り込んだまま動かない。
 しかしその双眸はまっすぐにレスタだけを見ていた。レスタもまたこの場からすぐに去ろうとはせず、ふりむいた肩越しにクラウドを見やった。
「………」
 声を掛けるでもなく、じっと息を詰めて何かを観察しているような、見分けようとしている眼だ。
 酷い無体を強いられそうになったはずなのに、その視線は呆然としていた先ほどまでとは完全に異なり、冷静で慎重で、やはり何かを観察しているように感じられる。
 片膝に身体を預けて座り込んでいるクラウドのほうが、自棄のせいか諦観のせいか、よほど疲弊しているように見えた。そこでようやくリヒトは、先刻の奇妙な違和感を思いだした。
 部屋に強行に踏み込んだとき、クラウドはレスタに覆い被さる体勢だったが、かといって無理やり組み敷いていたというには何かが違う状況だった。何が違ったのかはよく分からない。
 ただクラウドもレスタも、いま思い返せばどちらも時を止めたように静止していた。
「…レスタ」
 それでもいまは、レスタをこの場から連れ出すことのほうが先決だ。
 どんな事情であれクラウドが強引に動かないいま、それを選択しない手はない。詳しいことならあとで確かめられる。
「とりあえず部屋に戻ろう。弟が気懸かりならここはリクにまかせて…」
 レスタの肩をうながし、扉のまえに控える家臣をリヒトが呼び寄せようとしたときだ。
「いや、ひとりにしておいても問題ない」
「ひとりでいい。それよりそいつに触んじゃねぇ」
 前者はレスタ、後者はクラウド。
 ほとんど被さるように聞こえたそれは、リヒトへ向けられたそれぞれの言葉だった。
 
 
 念のため、リクには部屋の外でしばらく控えておくように指示を出し、リヒトはレスタを連れて西翼の居室まで送っていった。
 クラウドの最後の発言については、レスタに対するリヒトの気遣いを本気で倦厭して言ったものだとその表情を見るなり知れてしまったものだから、リヒトも本気で「おまえはいっぺん頭を冷やせ」とだけ言い捨てて、レスタとともに弟の部屋をあとにした。当のレスタは何も言わなかった。

 牡丹の標された部屋へと入り、侍従に指示した香とお茶が届くのを待ってから、リヒトはゆっくりと切りだした。
「…まあ、だいたいの察しはつくが…、何があったんだ?」
 応接用に設えられた窓辺の明るい席なのに、午前の光を遮るように閉ざした紗の日除けはそのままで、そういったリヒトの紳士的な気遣いにレスタは思わず苦笑をもらした。そういえば肩に掛けられたこの上衣もそうだ。
「…いや、べつに…、大したことは」
「…そうか? 俺には充分なくらい大ごとだったんだが…」
「……、まぁ、…そう言われりゃそうだな…。俺が、あいつをちょっと怒らせた」
 レスタは肩をすくめてみせた。
「…帰るって? それであれが腹を立てたのか?」
「たぶんな。あいつは俺を自分のものにしたかったらしい。…駄々こねてんだよ」
 静かな口調で語るレスタに、一方のリヒトも苦労性の兄の顔になって、なるほど、と小さく呟いた。そうしてほんの少し、いつもの生真面目な表情から硬さが薄れ、心易い穏やかさを増した。
「あれのことをそんなふうに言えるのは、レスタぐらいだからな」
「…駄々こねてる?」
「そう。分かってたって言えない連中ばかりなんだ」
「…だろうな」
「手放したくないのも分かる気がする」
「………」
 少し傾けるように椅子に背を預けて、レスタは正面のリヒトからテーブルの茶器へと視線を移した。まだほのかに湯気の立つお茶を手に取って、喉を潤したあとも、またしばらく黙り込む。
「…すまん、失礼だったか?」
「いや。…ご覧のとおり男なんですが、と思って」
 確かに、あらわになった胸も見た。
 なので紛うかたなき事実だったが、リヒトはあっさりそれに応じた。
「そんなものじゃあきらめる理由にならなかったんだろうな」
「………」
 二度目の沈黙は今度こそささやかな絶句になって、レスタはとりあえず手の中のお茶を飲み干すことにした。確かにあの男の気性ならそういう理屈も分からなくはない。ただそれをこの生真面目な兄が代弁するとは思わなかっただけで。
 空になった茶器を両の手のひらで転がしながら、レスタはリヒトの言った理由について考えるでもなく考えてみた。というか、本当のところは考えるまでもなかった。
「あきらめる理由なら、ちゃんとある」
 これ以上はないというほどの、明確な理由が。そう告げると、リヒトはそれに黙って頷いてから、どんな? という視線をレスタに向けた。
「それはつまり、クラウドが納得する理由ということか? それとも…」
「後者かもな」
「………まだ訊いてないんだが」
「なに言ったって納得はしないだろ。…たぶんな、それだけの理由があいつにはある。同じように俺にも俺の理由がある。要するにそういうことだ」
「………」
「…けどまぁ、あれでもいちおう自分の意思で止めた、てことになるのかね…」
 ほとんどは背中の龍神がクラウドを止めてくれたようなものだったが。
 なにしろ直接クラウドと膚が触れていたせいか、最初のときとは比較にならないほど気配をはっきり感じられた。膚をつたって声らしき心情さえ聞こえてきた。
 クラウドを叱る声、戒める声、――レスタを慮る声。
 あれがクラウドの背に宿る龍であることはもはや疑うべくもない。あの圧倒的なまでの力の存在感は。
 だとしたら、クラウドは尚さらレスタの存在にこだわりたい、だろう。懐いているとクラウドが言った、そういう龍神のお墨付きまでレスタがもらってしまったとなれば。
 それはたぶんクラウドの強みだ。あの龍神の力はクラウドの感情とはまたべつに、確かにレスタに反応していた。それをレスタ自身も認めないわけにはいかなかった。
 すなわち巫者、と呼ばれる者だ。
「なあリヒト」
「…うん」
「俺の理由はおまえと同じだ。…弟がいる。そのために俺は帰る」
 だけど。はじめてレスタは少し揺らいだ。
「…だけど、それはそれ、これはこれかもな。俺はもうすぐ帰るけど、だからってべつにこれが今生の別れになるわけじゃないんだってことだけ、あいつに伝えてきてくれ。そろそろ頭も冷えた頃だろ」
 レスタが全てを言い終えるよりも早く、リヒトは満面にありったけの安堵をにじませて、大きく頷くと同時に席を立った。まるで年相応の少年らしい笑顔で、レスタ、と呼びかける。
「ありがとう」
 率直な感謝は兄のそれだ。だからレスタはわざと意地の悪い笑みを浮かべた。
「許すかどうかはまたべつの話だ。あいつがごめんなさいゆるしてください、つって俺に頭さげてきたら考えてやるよ」
 同じく年相応の切り返しをしてやったら、リヒトは目を瞬かせ、それから堪えるように肩を揺らして小さく笑った。
「それなら俺も見てみたい。…――そういえば食事、朝食からはだいぶ時間が外れたが、どうする? なんならこちらに運ばせるが」
「ああ、じゃあ運んでもらおうかな」
 羽織っていた上衣をレスタが差し出してきたので、受け取ったリヒトはそれを肩に引っ掛けた。
「分かった。両方いまから伝えてくる」
「よろしく」
 片手をひらりと振ってみせ、レスタは椅子に掛けたままでリヒトの背中を見送った。


 このあと、あの苦労性の兄は食事の支度を指示し、手の掛かる弟のところに戻っていって、いまの話をするだろう。
「ていうか、朝から説教され放題だなあの色惚け駄々っ子」
 兄のリヒトだけならいつものことかも知れないが、その身に宿ったばかりの龍神の諫言まで意識に直接叩き込まれたのでは、いくらあの男でも相応に堪えていそうな気がする。とはいえ人並みに落胆するだとか反省するだとかは、あの部屋を出る間際に聞いた発言を鑑みるに、とても期待できそうになかったが。

 窓辺の席を離れ、レスタは朝食が届くまえに入浴の支度を小間使いに言いつけた。
 白い部屋着には裾や肩先に僅かな汚れがついており、浴室であらためてそれに気がついたレスタは、帯をほどいていた手を止めて右の袖口を捲ってみた。
「……よく折れなかったな」
 右の手首に残る青黒い指の痕は、あの男の激しさそのものだ。
 恋情、という名の。



   + + +



 リヒトは己で叩き壊した扉を開けて、弟の居室へと顔を覗かせた。
 名前を呼ばわってみたが返事はない。控えていたリクが何も言わなかったところをみると、ここから出て行ってはいないようだし、寝室にでも引っ込んだかと奧の扉にも呼びかけてみた。
「クラウド、レスタからの伝言を預かってきた」
 同じく返事はなかったが、反応があったことは僅かな物音から感じ取れた。光を遮ったままの寝室は薄暗く、リヒトは寝台で不貞寝を決め込んでいたらしい弟を見つけるなり、分かっていても大きな溜息を堪えきれなかった。
「うるせえよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「さっさと言え」
 まったく笑うしかない。リヒトは扉のまえに佇んだまま、身体を起こそうともしない寝台のクラウドの姿に目を細めた。
「引き止め方を間違ったな」
「………」
「謝れよ、ちゃんと。今日が無理なら明日でも。それから伝えるべきことは伝えて、レスタの事情も、」
「説教なら間に合ってる。謝れってのが伝言か?」
 一蹴する傲慢さは相変わらずだった。声だけを聞けば反省も後悔も遙か彼方といったところだ。もしこんな態度のまま謝ってこられたらレスタはどうするんだろう、と素朴な疑問をリヒトは浮かべた。
「いや。謝罪についても言ってはいたが、伝言はべつのことだ。…聞いたままを伝える。自分は帰らなければならないが、だからといってこれが今生の別れということではないから、それをおまえに伝えてくれ…と。レスタは弟のために帰るそうだ」
「………」
「クラウド。俺もレスタにはずっとここに居てほしいと思った。もっと話をしてみたいし、かれ自身のことも知りたいと思う。だけどまた会う約束のできる別れなら、ここは納得しろよ」
「………」
「駄々こねるな」
「あぁ?」
「レスタがそう言ってた。おまえは駄々こねてるんだって」
「………」
 そんなふうに説き伏せても、クラウドはやはり頷かない。納得しようとしない。
 どうやらこれは長期戦かも知れない、とあらためてリヒトは溜息をついた。まさか本気で駄々をこねてレスタを懐柔する気なんてことはないよな、とも思ったが、どちらの気性から考えてもそれだけはないだろうし。
「とりあえず、おまえもう今日はレスタに近づくな。謝罪は明日だ。食事もこっちに運ばせる。せめて今日一日ぐらいはおとなしく反省してろ」
 いずれも静かな断定口調で言い置いて、リヒトは寝室に背を向けた。果たして何を考えているやら、寝台の上に寝転んだまま黙り込んでしまったクラウドは、結局リヒトが部屋を出ていくまで身動ぎひとつしなかった。


 龍の力は縛めのひとつかも知れない、と思った。縛めることで同時に戒める。
 そういう仮説なら当てはまりそうだ。
 現にクラウドの身を苛むように暴れまわり、意識のひだに何度もくりかえし響いたそれは、そんな説教じみた叱責だった。
 その一方でクラウドがもうひとつ確かに感じていたのは、レスタと近くあることを乞い願う、自分とは異なるべつの心情、実体のない、存在だ。
「…霊獣のご身分てやつが一目惚れだの俗なことをほざくなよ、…笑えねぇ」
 クラウドは瞼の奥の暗闇のなか、静かに息をひそめてみた。
 意識の隅にも、背中の龍紋にも、先刻のような脅威はどこにも感じられなかった。

 結果としてクラウドは龍神の力に助けられたことになるわけだが、この先もそれを知るのはおそらくレスタただひとりだ。
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