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第一幕〈馴れ初め〉
その眸に映るもの 8
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宮殿に到着するなり、クラウドは懐から細身の黒い眼鏡を取り出した。
「…それは?」
「サングラス」
それは見れば分かる。
微妙にずれた問答にはあえて触れず、レスタは濃く色のつけられた硝子と、それで目許を隠してしまったクラウドの横顔を怪訝に見やった。
何かひとつ、重なる符丁があるような気がする。それまであまり意識に置いていなかった何かが、クラウドのこの動作ひとつで唐突に浮かび上がるのを感じた。
(……なんだ? 何か忘れてるような…)
けれど、それが何かまではすぐに思い当たらない。考えているうちにレスタはクラウドの手に従って馬車を降りた。
今日こうしてレスタが連れて来られたのは、宮中行事などではなくただの宮廷茶会だ。
カムリ家の双子と、彼らに伴われた異国の少女が広間に姿をみせたとき、すでにその場に居合わせた者たちは交わしていた会話をふいに止め、いくつかの、種類の異なる視線で彼らを迎えた。
おそらくひとつは、こんな有閑の場で双子を揃って見掛けたこと。もうひとつは弟の随伴する少女が異邦人であったこと。そしてこの少女の容姿がたいそう美しかったこと、など。
そういったそれぞれの理由が広間の視線を一斉に集めたようだった。
「揃いもそろっておまえを見てるわ」
「金髪がめずらしいんだろ」
「そこはべつに謙遜しなくてよくねえか。そもそも見た目でおまえと並ぶやつなんか滅多にいねえよ」
「おかげさんで」
「中身はアレだってのになぁ…」
「…おまえが言うな」
こんな格好をさせた張本人にレスタは冷ややかな視線を送った。クラウドは楽しげに低く笑ってみせた。
意図せず場を支配してしまった華やかな一対を後目に、リヒトは広間の顔ぶれの中に目的の人物を確認した。
朝廷からの伝令というのは、そもそもはクラウドに宛てられた大臣からのものだった。
それに対し、今日は客人を連れて茶会に顔を出すと言っていた弟の気を変えないために、リヒトは呼び出しのあったことをクラウドに伝えず、大臣たちにはこの場で本人を捕獲してもらうようにと返答を寄越していた。
リヒトが律儀に登城したのは、弟が退席しているあいだレスタをひとりにしないためだ。
クラウドからもレスタからもその関係を詳しく聞いていないリヒトだが、クラウドにとってレスタが大事な客人だということぐらいは流石に分かる。というよりも、万が一この客人の身に何か危険が起こったら、たとえその場が宮廷内でもクラウドは刀を振るいそうな気がする。
広間の奥から大臣らが連れ立って近づいてきた。
それに気がついたのか、レスタがクラウドの腕を軽く小突いた。促されたクラウドは煩わしげに大臣たちへと向き直り、途端に憮然とした口調で何か言葉を交わしはじめた。
その表情は、目許を覆う不透明な眼鏡がすっかり隠してしまっている。
「今日は大事な客人を連れてるんだが」
「兄上殿が居られるでしょう。この場は暫しリヒト殿に」
「俺の客を部外者が右から左に動かすんじゃねえよ」
やはりひどく機嫌が傾いてしまっている。頭を抱えたくなったリヒトだったが、彼が仲裁に入るまえにレスタがふたたびクラウドを小突いて、その耳許へと何かを小さく囁いた。
「…なに?」
「いいから」
あいにくリヒトに読唇の心得などはない。だからレスタが何を囁いたのかは、もしも唇の動きが見えていてもきっと分からなかったはずだ。それでもその囁きがクラウドを少なからず動かしたことだけは、リヒトにも分かった。
レスタはもう一度何かを囁いてから、ゆるりと唇の端をつりあげて笑った。クラウドはほんの少しサングラスをずらしてレスタをじかに見やると、それから大いに不本意そうな、不満げなようすで肩を竦めて、ふいにリヒトを呼びつけた。
「すぐ戻る。あちこちうろつかずここに居ろよ」
それはリヒトにというよりも、レスタに向けた念押しのようだった。肩に掛けた套衣をはためかせて、クラウドは大臣らとともに広間の賑わいを後にした。
「…さて、と」
残ったレスタは胸のまえで腕を組み、傍らのリヒトに視線を向けた。
「…いま、あれに何を吹き込んだんだ?」
「そのまえに場所を変えよう。周りの視線がうるさい」
「ああ…、だがここを離れるのは」
「庭先ならクラウドもすぐに分かる。行くぞ」
有無を言わさぬレスタの口調にリヒトは思わず返答に詰まった。
弟に紹介された初対面のときから、確かに不遜とも高慢とも言えるレスタの振る舞いだったが、それでもクラウドのように他を威圧するふうでもなく、またこの華やかな容姿にはそれが相応しいような気もして、何となくリヒトも従っていたのだが。
しかしいまのは、単に不遜だとか高慢だとかいうだけでなく、それが完全に板についていてリヒトは少し驚いた。
中庭へと続く開光の広い格子扉を通りぬけ、レスタはナーガの建築様式らしい白い砂利石の敷き詰められた明るいテラスへと降りていった。
リヒトはそのあとに続いていたが、長い裾と不安定な足下というレスタの歩みを気にかけて、傍らに立ちその足取りを支えた。
「…そんなに覚束ないか」
心なしかレスタの声も表情も渋めなのは、もしかしなくてもクラウドに抱きあげられたのを思い出したからだろうか。
「いや…、ここは少し歩きづらいから」
本来このテラスは広間から庭園を鑑賞するための額縁的な空間であり、散策するのに砂利石の地面はあまり向いていない。リヒトは日陰の長椅子にレスタを促して、かれをそこに座らせた。
「ここならとりあえず他人の目も耳もないな」
景観をぐるりと眺めながらレスタは言った。
「…何の話だ?」
椅子の背に身体を預け、レスタは傍らに立つリヒトを見やった。深い暗緑を湛えた眼差しはリヒトの鳶色の眸を捉えている。リヒトは自然とその場に腰を落とすと、レスタの足許に膝を折った。
「…レスタは、何かを知っているのか」
「べつに何も。さしあたってあいつがただの道楽者じゃないってことくらいは知ってるが、……あとは、そうだな」
見上げる位置から見下ろす位置へと角度を変えた眼差しは、変わらずリヒトを見据えたままだ。厳密にはリヒトの双眸を。金色には見えないその穏やかな虹彩の色を。
「おまえの眸の色は鳶色だな。ほかの龍国の民も」
「………」
ナーガの守護を司る龍神は、金の眸を持つという。
寓話の中の架空の生き物ではなく、神に並ぶもうひとつの尊称を冠したもの。その存在の証しとして。
レスタはそれまでの空気を一変させて、低くひそめた声で告げた。
「お伽噺の龍ってのはたいがいが水神らしく、眼の色も碧か青が一般的だ。この龍国でもそれは同じ。ただし宮中で語られる建国の龍だけはその限りにない。…あいつは辺境の下町でも都の城下でも、ひとまえであんな色つきの眼鏡を掛けたことはなかった。それがこんな華美な場所でわざわざ目許を隠そうとする。…その理由は何だろうな」
「……、それは、」
「この国の謳う龍神はすなわち帝のことを指す」
そしてその龍神とは。
――龍神とは黄金に煌めく神威の双眸を持つ霊獣なり。
「…金の眸が、帝位にまつわる宮中の口伝のひとつだからだ」
「………」
「…穿ちすぎか?」
リヒトは沈黙するしかなかった。それは彼には是も否も答えようがない。
しかし硬く引き結んだ口許はその緊張を如実に語ってしまったようで、レスタは邪魔な裾を払って膝を組むと、その上に頬杖をついて黙り込むリヒトをじっと見つめた。
「…さっきの年寄り連中の話もそれ絡みだろ」
ふた月も帝都から遠ざかっていたクラウドだ。その間もカムリ家は辺境伯爵としての責務を恙なくこなし、クラウドの指揮のもと密輸一味の壊滅という実績も挙げている。
速やかに一掃を終えた旨の伝令が届いたのは、先日の朝のことだった。当然その報告は帝のもとへも伝えられた。
「手ぐすね引いて待ち構えてたってところだな」
「…レスタ。おまえの話していることはこの国の特秘であり、同時に内政だ。干渉はもとより推測も吹聴も許されてはいない」
「何を推理して何を想像したところでそれだけならこちらの自由だ。事実なら事実で、干渉にも吹聴にも興味はない」
「…事実など」
「べつに答えろとも言ってないしな。自分の中の符丁を声に出して並べてみただけだ」
ぬけぬけとレスタは返した。
困惑するリヒトは黙り込むしかなく、何かべつの話題を切り出せないものかと必死に意識を巡らせようとした。
そうだ、そういえば。
先ほどの場面でレスタが何と囁いたのか、リヒトはそれを聞きたいと思っていたのだ。
ほんの短いやりとりだけで弟に不本意な了承を取りつけさせた。
リヒトですらあんなクラウドをみることは滅多にない。少なくとも今回の件で大臣からの対話要求に弟が応じたのは、これが初めてのはずだった。
「リヒト、ひとつだけ答えろ」
ふいに呼ばれて、リヒトは素直にレスタを見た。
「…なんだ」
「クラウドのあの眼は生まれつきか?」
そうして気づいた。
レスタの双眸もまた、常人のそれとは明らかに異なっている。
「――…そうだ。あれは生まれたときから、双子の俺とも、ほかの誰とも違っていた」
その双眸に龍の神威を宿して生まれてきた。
先ほどから年寄りどもが嗄れた声でさえずっている。
(…うるせぇ)
クラウドは端から聞き流しながら欠伸をもらした。
普段はあまり使われることのない小会議室へと案内され、そうして密談は密談らしく、小さな円卓の席に腰をおろしたクラウドは大臣らの話に退屈していた。
なんでこんなことに時間を浪費してるんだ、と考えて、そういえばレスタが言ったからだと思いだす。
――待っててやるから行ってこいよ。何の話だったかあとで聞かせろ。
あいにくレスタに聞かせたいと思う話でもない。
けれど、そのうち話してやるとクラウドは自らレスタに言ったのだ。この状況は、あの馬車の中で答えたその内容と不本意ながら合致している。渋る顔をしていたら、ふたたび耳許に囁かれた。
――おまえの事情に興味が出てきた。まずは年寄りどもの話を聞いて、現状がどうなってるのか把握してこい。
それはつまり、耳を貸すのでも傾けるのでもなく、己にまつわる大人たちの思惑を情報として確認してこい、ということだ。
そうしてそれを話してきかせろとレスタは言う。興味が出てきたから、話してきかせろと。
自分のことは何も明かさないくせに。
「クラウド殿、聞いていらっしゃるか」
「あー全然。まったく」
途端に年寄りたちは口喧しく喚き立てた。
「帝も御身の龍王の証しをいち早く確認したがっておられるのですぞ」
「果たして龍紋はもう顕れておいでか否か、それだけでもお答えいただけませぬか」
「家督もリヒト殿が引き受けることで了承済みでしょう。そもそもは辺境伯など継がず立太子礼を行っておくべきだったものを」
「いや、しかしそれでは皇族方が」
「かの皇族方が金の双眸をお持ちか? 御徴の皇子様は当代以降お生まれになっていない」
「御徴をお持ちなのはクラウド殿おひとりだ」
うるさい。
いままで直接問えなかったあれこれを矢継ぎ早に投げてくるのは、クラウド当人がこういった席に初めて対応したからだ。
それまではカムリの前当主だった亡き父や、リヒトを経由して伝聞で問われる程度だった。なるほどこういった現状を把握してこいというのがレスタの考え方らしい。
(…つまりは、龍紋が最大で最後の確証ってことか)
それは身体のいずれかに顕れる後天的な龍神の御徴、霊験だという。
詳細については歴代の帝が詳しい文献を残していないこともあり、膚に顕れる紋様の姿かたちを含め、具体的にどういったものであるのかは余人の知るところではない。
また、それも常であれば帝の直系男子へと世襲される、人智を超えた神秘の現象であるということが宮廷をはじめとした貴族諸侯の認識だ。ゆえに帝は龍神を宿すといわれてきた。
ナーガの歴史の中で、龍紋が世襲されなかった過去も何度か記録されてはいる。むろんそれは極めて稀少な事例だ。
だからこそ、龍神の神威と帝の血脈をともに継承するための、さまざまな取り決めなども存在しているという。
いつしかそれらは区別され、帝の血脈を汲まない龍神の宿主を、ナーガの朝廷は龍王と呼んだ。
帝の血をも凌ぐという、稀代に顕れる尊き龍の王。
金の双眸を持つカムリ・クラウドは、その唯一の継承者に他ならない。
さえずる大臣たちの声を遠くに聞きながら、クラウドは退屈な欠伸を噛み殺した。
運命というある種の思い込みに重きを置く生き方など、クラウドは興味も面白味も感じないが、だからといってそれを否定も切り捨てもしない。
場合によってはそんなものも確かにこの世にはあるだろうし、たとえばごく印象的な偶然の連なりは、主観でも客観でも運命と呼んで差し支えのないものかも知れない、とも思う。
けれどそれは、少なくともクラウドにとっていずれ龍神を宿すことでもなければ、次代の龍王としてこの国の頂に立つということでもなかった。
たとえばあの辺境の町だとか、金の髪と不思議な色合いの眸を持つ美しい異国人だとか。
そういえば何かの古い文献で読んだことがある。
太古、ここからは遠く海さえ隔てた異なる大地に、その稀少さから時代の王に献上され、王の名を与えられたという尊い貴石があった。
ナーガの語にして帝の玉、あるいは特徴を指して金緑石。――陽の光には碧を宿し、夜の炎のまえでは柘榴のような赤みを帯びた暗い色へと変化する、いくつもの偶然が折り重なってこの世に生まれたその貴石は、クラウドの知る誰かの眸とよく似ていた。
あれは太古の王の名を持つ奇跡の眸だ。
運命よりも奇跡だと、クラウドは思った。
「…それは?」
「サングラス」
それは見れば分かる。
微妙にずれた問答にはあえて触れず、レスタは濃く色のつけられた硝子と、それで目許を隠してしまったクラウドの横顔を怪訝に見やった。
何かひとつ、重なる符丁があるような気がする。それまであまり意識に置いていなかった何かが、クラウドのこの動作ひとつで唐突に浮かび上がるのを感じた。
(……なんだ? 何か忘れてるような…)
けれど、それが何かまではすぐに思い当たらない。考えているうちにレスタはクラウドの手に従って馬車を降りた。
今日こうしてレスタが連れて来られたのは、宮中行事などではなくただの宮廷茶会だ。
カムリ家の双子と、彼らに伴われた異国の少女が広間に姿をみせたとき、すでにその場に居合わせた者たちは交わしていた会話をふいに止め、いくつかの、種類の異なる視線で彼らを迎えた。
おそらくひとつは、こんな有閑の場で双子を揃って見掛けたこと。もうひとつは弟の随伴する少女が異邦人であったこと。そしてこの少女の容姿がたいそう美しかったこと、など。
そういったそれぞれの理由が広間の視線を一斉に集めたようだった。
「揃いもそろっておまえを見てるわ」
「金髪がめずらしいんだろ」
「そこはべつに謙遜しなくてよくねえか。そもそも見た目でおまえと並ぶやつなんか滅多にいねえよ」
「おかげさんで」
「中身はアレだってのになぁ…」
「…おまえが言うな」
こんな格好をさせた張本人にレスタは冷ややかな視線を送った。クラウドは楽しげに低く笑ってみせた。
意図せず場を支配してしまった華やかな一対を後目に、リヒトは広間の顔ぶれの中に目的の人物を確認した。
朝廷からの伝令というのは、そもそもはクラウドに宛てられた大臣からのものだった。
それに対し、今日は客人を連れて茶会に顔を出すと言っていた弟の気を変えないために、リヒトは呼び出しのあったことをクラウドに伝えず、大臣たちにはこの場で本人を捕獲してもらうようにと返答を寄越していた。
リヒトが律儀に登城したのは、弟が退席しているあいだレスタをひとりにしないためだ。
クラウドからもレスタからもその関係を詳しく聞いていないリヒトだが、クラウドにとってレスタが大事な客人だということぐらいは流石に分かる。というよりも、万が一この客人の身に何か危険が起こったら、たとえその場が宮廷内でもクラウドは刀を振るいそうな気がする。
広間の奥から大臣らが連れ立って近づいてきた。
それに気がついたのか、レスタがクラウドの腕を軽く小突いた。促されたクラウドは煩わしげに大臣たちへと向き直り、途端に憮然とした口調で何か言葉を交わしはじめた。
その表情は、目許を覆う不透明な眼鏡がすっかり隠してしまっている。
「今日は大事な客人を連れてるんだが」
「兄上殿が居られるでしょう。この場は暫しリヒト殿に」
「俺の客を部外者が右から左に動かすんじゃねえよ」
やはりひどく機嫌が傾いてしまっている。頭を抱えたくなったリヒトだったが、彼が仲裁に入るまえにレスタがふたたびクラウドを小突いて、その耳許へと何かを小さく囁いた。
「…なに?」
「いいから」
あいにくリヒトに読唇の心得などはない。だからレスタが何を囁いたのかは、もしも唇の動きが見えていてもきっと分からなかったはずだ。それでもその囁きがクラウドを少なからず動かしたことだけは、リヒトにも分かった。
レスタはもう一度何かを囁いてから、ゆるりと唇の端をつりあげて笑った。クラウドはほんの少しサングラスをずらしてレスタをじかに見やると、それから大いに不本意そうな、不満げなようすで肩を竦めて、ふいにリヒトを呼びつけた。
「すぐ戻る。あちこちうろつかずここに居ろよ」
それはリヒトにというよりも、レスタに向けた念押しのようだった。肩に掛けた套衣をはためかせて、クラウドは大臣らとともに広間の賑わいを後にした。
「…さて、と」
残ったレスタは胸のまえで腕を組み、傍らのリヒトに視線を向けた。
「…いま、あれに何を吹き込んだんだ?」
「そのまえに場所を変えよう。周りの視線がうるさい」
「ああ…、だがここを離れるのは」
「庭先ならクラウドもすぐに分かる。行くぞ」
有無を言わさぬレスタの口調にリヒトは思わず返答に詰まった。
弟に紹介された初対面のときから、確かに不遜とも高慢とも言えるレスタの振る舞いだったが、それでもクラウドのように他を威圧するふうでもなく、またこの華やかな容姿にはそれが相応しいような気もして、何となくリヒトも従っていたのだが。
しかしいまのは、単に不遜だとか高慢だとかいうだけでなく、それが完全に板についていてリヒトは少し驚いた。
中庭へと続く開光の広い格子扉を通りぬけ、レスタはナーガの建築様式らしい白い砂利石の敷き詰められた明るいテラスへと降りていった。
リヒトはそのあとに続いていたが、長い裾と不安定な足下というレスタの歩みを気にかけて、傍らに立ちその足取りを支えた。
「…そんなに覚束ないか」
心なしかレスタの声も表情も渋めなのは、もしかしなくてもクラウドに抱きあげられたのを思い出したからだろうか。
「いや…、ここは少し歩きづらいから」
本来このテラスは広間から庭園を鑑賞するための額縁的な空間であり、散策するのに砂利石の地面はあまり向いていない。リヒトは日陰の長椅子にレスタを促して、かれをそこに座らせた。
「ここならとりあえず他人の目も耳もないな」
景観をぐるりと眺めながらレスタは言った。
「…何の話だ?」
椅子の背に身体を預け、レスタは傍らに立つリヒトを見やった。深い暗緑を湛えた眼差しはリヒトの鳶色の眸を捉えている。リヒトは自然とその場に腰を落とすと、レスタの足許に膝を折った。
「…レスタは、何かを知っているのか」
「べつに何も。さしあたってあいつがただの道楽者じゃないってことくらいは知ってるが、……あとは、そうだな」
見上げる位置から見下ろす位置へと角度を変えた眼差しは、変わらずリヒトを見据えたままだ。厳密にはリヒトの双眸を。金色には見えないその穏やかな虹彩の色を。
「おまえの眸の色は鳶色だな。ほかの龍国の民も」
「………」
ナーガの守護を司る龍神は、金の眸を持つという。
寓話の中の架空の生き物ではなく、神に並ぶもうひとつの尊称を冠したもの。その存在の証しとして。
レスタはそれまでの空気を一変させて、低くひそめた声で告げた。
「お伽噺の龍ってのはたいがいが水神らしく、眼の色も碧か青が一般的だ。この龍国でもそれは同じ。ただし宮中で語られる建国の龍だけはその限りにない。…あいつは辺境の下町でも都の城下でも、ひとまえであんな色つきの眼鏡を掛けたことはなかった。それがこんな華美な場所でわざわざ目許を隠そうとする。…その理由は何だろうな」
「……、それは、」
「この国の謳う龍神はすなわち帝のことを指す」
そしてその龍神とは。
――龍神とは黄金に煌めく神威の双眸を持つ霊獣なり。
「…金の眸が、帝位にまつわる宮中の口伝のひとつだからだ」
「………」
「…穿ちすぎか?」
リヒトは沈黙するしかなかった。それは彼には是も否も答えようがない。
しかし硬く引き結んだ口許はその緊張を如実に語ってしまったようで、レスタは邪魔な裾を払って膝を組むと、その上に頬杖をついて黙り込むリヒトをじっと見つめた。
「…さっきの年寄り連中の話もそれ絡みだろ」
ふた月も帝都から遠ざかっていたクラウドだ。その間もカムリ家は辺境伯爵としての責務を恙なくこなし、クラウドの指揮のもと密輸一味の壊滅という実績も挙げている。
速やかに一掃を終えた旨の伝令が届いたのは、先日の朝のことだった。当然その報告は帝のもとへも伝えられた。
「手ぐすね引いて待ち構えてたってところだな」
「…レスタ。おまえの話していることはこの国の特秘であり、同時に内政だ。干渉はもとより推測も吹聴も許されてはいない」
「何を推理して何を想像したところでそれだけならこちらの自由だ。事実なら事実で、干渉にも吹聴にも興味はない」
「…事実など」
「べつに答えろとも言ってないしな。自分の中の符丁を声に出して並べてみただけだ」
ぬけぬけとレスタは返した。
困惑するリヒトは黙り込むしかなく、何かべつの話題を切り出せないものかと必死に意識を巡らせようとした。
そうだ、そういえば。
先ほどの場面でレスタが何と囁いたのか、リヒトはそれを聞きたいと思っていたのだ。
ほんの短いやりとりだけで弟に不本意な了承を取りつけさせた。
リヒトですらあんなクラウドをみることは滅多にない。少なくとも今回の件で大臣からの対話要求に弟が応じたのは、これが初めてのはずだった。
「リヒト、ひとつだけ答えろ」
ふいに呼ばれて、リヒトは素直にレスタを見た。
「…なんだ」
「クラウドのあの眼は生まれつきか?」
そうして気づいた。
レスタの双眸もまた、常人のそれとは明らかに異なっている。
「――…そうだ。あれは生まれたときから、双子の俺とも、ほかの誰とも違っていた」
その双眸に龍の神威を宿して生まれてきた。
先ほどから年寄りどもが嗄れた声でさえずっている。
(…うるせぇ)
クラウドは端から聞き流しながら欠伸をもらした。
普段はあまり使われることのない小会議室へと案内され、そうして密談は密談らしく、小さな円卓の席に腰をおろしたクラウドは大臣らの話に退屈していた。
なんでこんなことに時間を浪費してるんだ、と考えて、そういえばレスタが言ったからだと思いだす。
――待っててやるから行ってこいよ。何の話だったかあとで聞かせろ。
あいにくレスタに聞かせたいと思う話でもない。
けれど、そのうち話してやるとクラウドは自らレスタに言ったのだ。この状況は、あの馬車の中で答えたその内容と不本意ながら合致している。渋る顔をしていたら、ふたたび耳許に囁かれた。
――おまえの事情に興味が出てきた。まずは年寄りどもの話を聞いて、現状がどうなってるのか把握してこい。
それはつまり、耳を貸すのでも傾けるのでもなく、己にまつわる大人たちの思惑を情報として確認してこい、ということだ。
そうしてそれを話してきかせろとレスタは言う。興味が出てきたから、話してきかせろと。
自分のことは何も明かさないくせに。
「クラウド殿、聞いていらっしゃるか」
「あー全然。まったく」
途端に年寄りたちは口喧しく喚き立てた。
「帝も御身の龍王の証しをいち早く確認したがっておられるのですぞ」
「果たして龍紋はもう顕れておいでか否か、それだけでもお答えいただけませぬか」
「家督もリヒト殿が引き受けることで了承済みでしょう。そもそもは辺境伯など継がず立太子礼を行っておくべきだったものを」
「いや、しかしそれでは皇族方が」
「かの皇族方が金の双眸をお持ちか? 御徴の皇子様は当代以降お生まれになっていない」
「御徴をお持ちなのはクラウド殿おひとりだ」
うるさい。
いままで直接問えなかったあれこれを矢継ぎ早に投げてくるのは、クラウド当人がこういった席に初めて対応したからだ。
それまではカムリの前当主だった亡き父や、リヒトを経由して伝聞で問われる程度だった。なるほどこういった現状を把握してこいというのがレスタの考え方らしい。
(…つまりは、龍紋が最大で最後の確証ってことか)
それは身体のいずれかに顕れる後天的な龍神の御徴、霊験だという。
詳細については歴代の帝が詳しい文献を残していないこともあり、膚に顕れる紋様の姿かたちを含め、具体的にどういったものであるのかは余人の知るところではない。
また、それも常であれば帝の直系男子へと世襲される、人智を超えた神秘の現象であるということが宮廷をはじめとした貴族諸侯の認識だ。ゆえに帝は龍神を宿すといわれてきた。
ナーガの歴史の中で、龍紋が世襲されなかった過去も何度か記録されてはいる。むろんそれは極めて稀少な事例だ。
だからこそ、龍神の神威と帝の血脈をともに継承するための、さまざまな取り決めなども存在しているという。
いつしかそれらは区別され、帝の血脈を汲まない龍神の宿主を、ナーガの朝廷は龍王と呼んだ。
帝の血をも凌ぐという、稀代に顕れる尊き龍の王。
金の双眸を持つカムリ・クラウドは、その唯一の継承者に他ならない。
さえずる大臣たちの声を遠くに聞きながら、クラウドは退屈な欠伸を噛み殺した。
運命というある種の思い込みに重きを置く生き方など、クラウドは興味も面白味も感じないが、だからといってそれを否定も切り捨てもしない。
場合によってはそんなものも確かにこの世にはあるだろうし、たとえばごく印象的な偶然の連なりは、主観でも客観でも運命と呼んで差し支えのないものかも知れない、とも思う。
けれどそれは、少なくともクラウドにとっていずれ龍神を宿すことでもなければ、次代の龍王としてこの国の頂に立つということでもなかった。
たとえばあの辺境の町だとか、金の髪と不思議な色合いの眸を持つ美しい異国人だとか。
そういえば何かの古い文献で読んだことがある。
太古、ここからは遠く海さえ隔てた異なる大地に、その稀少さから時代の王に献上され、王の名を与えられたという尊い貴石があった。
ナーガの語にして帝の玉、あるいは特徴を指して金緑石。――陽の光には碧を宿し、夜の炎のまえでは柘榴のような赤みを帯びた暗い色へと変化する、いくつもの偶然が折り重なってこの世に生まれたその貴石は、クラウドの知る誰かの眸とよく似ていた。
あれは太古の王の名を持つ奇跡の眸だ。
運命よりも奇跡だと、クラウドは思った。
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