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六郎の過去
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······それは、壁も床も白一色の長い廊下だった。その途中にある一室の扉には、集中治療室と表記されたプレートが天井の蛍光灯に照らされていた。
その部屋の中に足を踏み入れると室内は暗く、静寂に包まれていた。否。そう感じたのはほんの一瞬だ。
ベットの周囲に設置されている医療機器がその存在を主張するようにモニターから明るい光を発していた。
そしてベットから規則的に繰り返される呼吸音が聞こえる。だが、それは人のそれでは無く人工的な音だった。
ベットには人が横たわっていた。若い男性だ。人工呼吸器の透明なマスクに口元は覆われている。
腰まで届きそうな長い金色の髪の毛。閉じられた両目。それは、私がよく見知った顔だった。
「······六郎?」
······私の意識はそこで途切れ、気付くと自分の部屋に居た。目の前には波打つ茶色い髪の美女が私を見つめていた。
「······れ、玲奈さん? 今のは一体何ですか?」
ほんのつい先刻の事だ。玲奈が私に目を閉じるように指示した。私は何の為かと訝しく思いながらも瞼を閉じた。
その瞬間、頭の中に病室の風景が浮かんだのだ。それは夢や幻の類とは一線を画した、生々しく現実感を伴う光景だった。
「ゆりえちゃん。私と六郎ちゃんはね。元は普通の人間だったの。今ゆりえちゃんが見たのは現実の世界よ。今六郎ちゃんは、病室のベットの上で眠っているの」
玲奈は両目を細め、何かを思い出す様な。それでいて微かに懐かしそうにどこかを見つめていた。
······玲奈は語りだした。ある大学生がいた。音楽と美術好きのその大学生は、大学の音楽サークルの活動に夢中になっていた。
ある日、大学生が一人暮らしている安アパートに帰宅する時、所々ひび割れが散見されるアスファルトの道に小学生の女の子が立っていた。
その小学生は何かを確かめる様に酷くくたびれた木造アパートを見上げていた。その時、住宅街で有り得ない程のスピードを出していた軽自動車が耳をつくエンジン音と共に小学生の目の前に迫った。
大学生は無我夢中で飛びだし、小学生の身体を抱きしめた。幸運にも大学生と小学生に暴走車の車体は触れなかった。
だが、不幸にも大学生は勢い余って電柱に頭部を強打した。大学生はそのまま意識を失い、小学生は泣きながら大学生の身体を揺すった。
お兄ちゃん。お兄ちゃんと何度も叫びながら。
「その大学生が六郎ちゃんよ。小学生の女の子は妹のさやかちゃん」
玲奈は私のベットに腰掛け、白く長い足を優雅に組みながら説明を続ける。六郎とさやかの両親は離婚しており、それぞれ父親は六郎を、母親はさやかを引き取り別々に暮らしていた。
兄の六郎を慕っていた妹のさやかは、母親から聞いた住所を頼りに六郎に会いに来たのだ。
「······ここでまた「理と外の存在」がやらかしちゃってね」
玲奈は困ったように苦笑し、両手を組んだ膝の上に置いた。
本来は妹のさやかが交通事故で亡くなる運命だった。だが、六郎がその運命を変えた。本来は起こり得ない事象に、組織は原因究明に乗り出した。
結論はこう出された。一つは「理の外の存在」の力と影響力の低下による物。もう一つは、六郎なる若者が運命を変える能力を秘めていると言う事実だった。
深刻な弱体化が進行していた組織は、有望な人材を集め育成する事が急務だった。通常は死者をスカウトするが、六郎は異例にも意識不明の状態で勧誘を受けたと言う。
六郎には二つの選択肢が与えられた。このまま「理の外の存在」の一員になるか。それとも人間の世界に戻るか。
六郎は即座に戻る事を選択した。だが、その為には組織が課すノルマを達成するのが条件だった。
こうして六郎は、幽体に似た身体の状態で組織の非正規雇用社員として働く事となった。大概が組織のミスの後処理だった。
六郎は元の世界に。病室に眠る自分の身体に戻る為に、組織に課せられたノルマを達成する為に奔走した。
ある時は自分と同じ様に生死の境を彷徨うシングルマザーを元の世界に生還させた。
またある時は、本来失う筈も無い片手を失った将来有望のバイオリニストに土下座をして謝罪した。
六郎は必死に。そして誠実に仕事に取り組んで行った。そして、ノルマ達成まであと僅かと言う所まで辿り着いた。
最後の仕事は、組織の手違いで醜く生まれた女子高校生を元の姿に戻す事だった。
「······私? 私の仕事が上手く行けば、六郎は助かるんですか?」
私は正座しながら玲奈を見上げる。気付くと私は、畳に爪を深く立てていた。玲奈は静かに頷き、細い指で挟んだ一枚の紙を私に差し出した。
その紙には「小田坂ゆりえに関しての報告書」と書かれていた。それは、書き手の人柄を伺わせる様なとても綺麗な字だった。
報告書
1 救済措置対象者小田坂ゆりえは、その容姿から過酷な学生時代を送っていたにも関わらず、その精神は健全かつ清らかである。
2 救済措置対象者小田坂ゆりえは、組織が課した条件達成に向けて前向きに取り組み、かつ積極的に私に協力している。
3 救済措置対象者小田坂ゆりえは、条件達成の為に鶴間徹平を利用する事に罪悪感を覚え、苦しんでいる。
4 救済措置対象者小田坂ゆりえは、常日頃他人の事ばかり心配している。これは彼女の辛い青春時代を考慮すれば、驚嘆に値する事実である。
5 救済措置対象者小田坂ゆりえは、何よりも優先すべき本来の姿に戻る行動よりも、他人の気持を第一に憂慮する心優しい女性である。
6 救済措置対象者小田坂ゆりえは、自らの容姿を卑下し、自らを醜いと口外している。私見を述べさせて貰うと、彼女は決して醜くない。自らを貶める理由など何一つ存在しない。
お前は、いい女だ。
······両手に持ったその紙が、私の流した涙で滲んでいく。報告書に書くには相応しくない最後のその言葉を、私は何度も。何度も読み返す。
「······これはね。ゆりえちゃん。六郎ちゃんが今書いている報告書を失敬してきたの。まだ完成していない途中の報告書だから、六郎ちゃんもつい本音を書いちゃったのね」
玲奈は私に優しく微笑み、六郎の気持ちを教えてくれた。妹のさやかは、自分を責めている。六郎が傷ついた原因は自分だと。
六郎はそんな可愛い妹を一日も早く安心させる為に、現実世界に戻る強い決意を持っていた。
······私の涙を拭ってくれた六郎。私に心配の声を優しくかけてくれた六郎の姿を、私は脳裏に思い浮かべる。
私の中にあった迷いや恐れが跡形も無く消え去り、強い思いが込み上げて来たのはその時だった。
「······玲奈さん。私やります。誰を利用する事になっても。誰を傷付ける事になっても。どんな事をしても! 必ず目的を達成します!!」
私は叫びながら立ち上がった。それは、自らの退路を断った瞬間だった。手段を選ばず、絶対に鶴間君を口説き落とす。
全ては。
「本来の姿に戻る為ね? ゆりえちゃん」
全ては、六郎を救う為に。
〘人は、誰かの為になら信じられないような力を発揮する事が出来る。
あれは、駅のホームから階段を登り改札口に出た時だった。小さい子供を連れた南米系の女性が「新宿はどうやって行くの?」的な内容の事を片言で私に聞いてきた。
同じ日本民族ですらまともにコミュニケーションが取れない私にとって、片言の外国人は宇宙人に等しい存在だった。
何と返答したらいいか分からない私は、慌てながら電光掲示板を見た。すると、最短時間で新宿に行ける快速急行が正に到着していた。
私は身振り手振りで女性に私に付いてこいと伝える。急いで階段を降りる私達。私は必死にホームに停車している快速急行の電車を指差し、これに乗れと女性に伝える。
女性とその子供は無事電車に乗れた。女性は車内から私に手を振ってくれた。親切心は言葉の壁を越える。
その日の私は、普段感じない充足感を感じていた〙
ゆりえ 心のポエム
その部屋の中に足を踏み入れると室内は暗く、静寂に包まれていた。否。そう感じたのはほんの一瞬だ。
ベットの周囲に設置されている医療機器がその存在を主張するようにモニターから明るい光を発していた。
そしてベットから規則的に繰り返される呼吸音が聞こえる。だが、それは人のそれでは無く人工的な音だった。
ベットには人が横たわっていた。若い男性だ。人工呼吸器の透明なマスクに口元は覆われている。
腰まで届きそうな長い金色の髪の毛。閉じられた両目。それは、私がよく見知った顔だった。
「······六郎?」
······私の意識はそこで途切れ、気付くと自分の部屋に居た。目の前には波打つ茶色い髪の美女が私を見つめていた。
「······れ、玲奈さん? 今のは一体何ですか?」
ほんのつい先刻の事だ。玲奈が私に目を閉じるように指示した。私は何の為かと訝しく思いながらも瞼を閉じた。
その瞬間、頭の中に病室の風景が浮かんだのだ。それは夢や幻の類とは一線を画した、生々しく現実感を伴う光景だった。
「ゆりえちゃん。私と六郎ちゃんはね。元は普通の人間だったの。今ゆりえちゃんが見たのは現実の世界よ。今六郎ちゃんは、病室のベットの上で眠っているの」
玲奈は両目を細め、何かを思い出す様な。それでいて微かに懐かしそうにどこかを見つめていた。
······玲奈は語りだした。ある大学生がいた。音楽と美術好きのその大学生は、大学の音楽サークルの活動に夢中になっていた。
ある日、大学生が一人暮らしている安アパートに帰宅する時、所々ひび割れが散見されるアスファルトの道に小学生の女の子が立っていた。
その小学生は何かを確かめる様に酷くくたびれた木造アパートを見上げていた。その時、住宅街で有り得ない程のスピードを出していた軽自動車が耳をつくエンジン音と共に小学生の目の前に迫った。
大学生は無我夢中で飛びだし、小学生の身体を抱きしめた。幸運にも大学生と小学生に暴走車の車体は触れなかった。
だが、不幸にも大学生は勢い余って電柱に頭部を強打した。大学生はそのまま意識を失い、小学生は泣きながら大学生の身体を揺すった。
お兄ちゃん。お兄ちゃんと何度も叫びながら。
「その大学生が六郎ちゃんよ。小学生の女の子は妹のさやかちゃん」
玲奈は私のベットに腰掛け、白く長い足を優雅に組みながら説明を続ける。六郎とさやかの両親は離婚しており、それぞれ父親は六郎を、母親はさやかを引き取り別々に暮らしていた。
兄の六郎を慕っていた妹のさやかは、母親から聞いた住所を頼りに六郎に会いに来たのだ。
「······ここでまた「理と外の存在」がやらかしちゃってね」
玲奈は困ったように苦笑し、両手を組んだ膝の上に置いた。
本来は妹のさやかが交通事故で亡くなる運命だった。だが、六郎がその運命を変えた。本来は起こり得ない事象に、組織は原因究明に乗り出した。
結論はこう出された。一つは「理の外の存在」の力と影響力の低下による物。もう一つは、六郎なる若者が運命を変える能力を秘めていると言う事実だった。
深刻な弱体化が進行していた組織は、有望な人材を集め育成する事が急務だった。通常は死者をスカウトするが、六郎は異例にも意識不明の状態で勧誘を受けたと言う。
六郎には二つの選択肢が与えられた。このまま「理の外の存在」の一員になるか。それとも人間の世界に戻るか。
六郎は即座に戻る事を選択した。だが、その為には組織が課すノルマを達成するのが条件だった。
こうして六郎は、幽体に似た身体の状態で組織の非正規雇用社員として働く事となった。大概が組織のミスの後処理だった。
六郎は元の世界に。病室に眠る自分の身体に戻る為に、組織に課せられたノルマを達成する為に奔走した。
ある時は自分と同じ様に生死の境を彷徨うシングルマザーを元の世界に生還させた。
またある時は、本来失う筈も無い片手を失った将来有望のバイオリニストに土下座をして謝罪した。
六郎は必死に。そして誠実に仕事に取り組んで行った。そして、ノルマ達成まであと僅かと言う所まで辿り着いた。
最後の仕事は、組織の手違いで醜く生まれた女子高校生を元の姿に戻す事だった。
「······私? 私の仕事が上手く行けば、六郎は助かるんですか?」
私は正座しながら玲奈を見上げる。気付くと私は、畳に爪を深く立てていた。玲奈は静かに頷き、細い指で挟んだ一枚の紙を私に差し出した。
その紙には「小田坂ゆりえに関しての報告書」と書かれていた。それは、書き手の人柄を伺わせる様なとても綺麗な字だった。
報告書
1 救済措置対象者小田坂ゆりえは、その容姿から過酷な学生時代を送っていたにも関わらず、その精神は健全かつ清らかである。
2 救済措置対象者小田坂ゆりえは、組織が課した条件達成に向けて前向きに取り組み、かつ積極的に私に協力している。
3 救済措置対象者小田坂ゆりえは、条件達成の為に鶴間徹平を利用する事に罪悪感を覚え、苦しんでいる。
4 救済措置対象者小田坂ゆりえは、常日頃他人の事ばかり心配している。これは彼女の辛い青春時代を考慮すれば、驚嘆に値する事実である。
5 救済措置対象者小田坂ゆりえは、何よりも優先すべき本来の姿に戻る行動よりも、他人の気持を第一に憂慮する心優しい女性である。
6 救済措置対象者小田坂ゆりえは、自らの容姿を卑下し、自らを醜いと口外している。私見を述べさせて貰うと、彼女は決して醜くない。自らを貶める理由など何一つ存在しない。
お前は、いい女だ。
······両手に持ったその紙が、私の流した涙で滲んでいく。報告書に書くには相応しくない最後のその言葉を、私は何度も。何度も読み返す。
「······これはね。ゆりえちゃん。六郎ちゃんが今書いている報告書を失敬してきたの。まだ完成していない途中の報告書だから、六郎ちゃんもつい本音を書いちゃったのね」
玲奈は私に優しく微笑み、六郎の気持ちを教えてくれた。妹のさやかは、自分を責めている。六郎が傷ついた原因は自分だと。
六郎はそんな可愛い妹を一日も早く安心させる為に、現実世界に戻る強い決意を持っていた。
······私の涙を拭ってくれた六郎。私に心配の声を優しくかけてくれた六郎の姿を、私は脳裏に思い浮かべる。
私の中にあった迷いや恐れが跡形も無く消え去り、強い思いが込み上げて来たのはその時だった。
「······玲奈さん。私やります。誰を利用する事になっても。誰を傷付ける事になっても。どんな事をしても! 必ず目的を達成します!!」
私は叫びながら立ち上がった。それは、自らの退路を断った瞬間だった。手段を選ばず、絶対に鶴間君を口説き落とす。
全ては。
「本来の姿に戻る為ね? ゆりえちゃん」
全ては、六郎を救う為に。
〘人は、誰かの為になら信じられないような力を発揮する事が出来る。
あれは、駅のホームから階段を登り改札口に出た時だった。小さい子供を連れた南米系の女性が「新宿はどうやって行くの?」的な内容の事を片言で私に聞いてきた。
同じ日本民族ですらまともにコミュニケーションが取れない私にとって、片言の外国人は宇宙人に等しい存在だった。
何と返答したらいいか分からない私は、慌てながら電光掲示板を見た。すると、最短時間で新宿に行ける快速急行が正に到着していた。
私は身振り手振りで女性に私に付いてこいと伝える。急いで階段を降りる私達。私は必死にホームに停車している快速急行の電車を指差し、これに乗れと女性に伝える。
女性とその子供は無事電車に乗れた。女性は車内から私に手を振ってくれた。親切心は言葉の壁を越える。
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