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牧歌的なカナンの街は麗しく、様々な人が訪れる人気の土地だった。石畳の広場は大きく、綺麗に掃き清められ、方々からやって来る乗合馬車や、個人の乗り物たちが集まっていた。それぞれの職業や身分、立場を表す格好をした乗客は、そこから乗り降りした。興味深いことに、中には言語の違う人間も混じっており、現地の言葉をたどたどしく話したり、にこやかに笑い合う下で、固い握手を交わしたりする者が見受けられた。馬や道具、それから車の手入れをする運転手。世間話に興じる御者がもたれかかる荷車から、荷物を積んだり下ろしたりする下働き。出発する乗合馬車に向けて、別れの手を振る市民たち・・・。新旧綯い交ぜたターミナルは、到着したジュネ爺さんの粗末な荷車を除き、どこかうきうきとした高揚感が充満していた。
当初おじいさんはとんぼ返りを嫌がったものの、性根の良かったお年寄りの親切(といっても、始めの方はぶつくさと呟いていた)と、挟んだ休憩ぐらいで足りた、ロバたちの誉れ高い持久力のおかげで、道中一言も口を利かなかった、あるいは利けなかった抜け殻と化した私が、カナンの土を踏んだ。そんなショックを受けた聖人の女を、励ましたくても励ませなかった、エフィとケットの妖精姉弟は、運転手の機嫌取りに従った。そんな功労もあってか、見かねたジュネ爺さんは、哀れな悲愴っぽいものが漂う私たちを、彼の家へ招いてくれた。
居間でもあった土間に、この褐色を帯びた生き物たちが寝起きする一画を設けた、質素な二階建ての家は下宿も兼ねていた。迎えてくれた御者の古女房は、間借り人でも取らないとやっていけないと、呆れと冗談が半分ずつにこぼした。子供のいなかった夫婦は仲睦まじく、互いに冷やかし合いながら、終わりに近づいた人生を穏やかに過ごしていた。大したものは何もないがと謙遜する老女は、温かで滋味深い食事を、流れ着いた旅人に振る舞った。役目を終えたロバも腰を落ち着け、ご褒美に刈りたての草を貰った。私たちが席に着く傍ら、立った夫人は階段の薄暗がりへ声をかけた。頭上でドアの開閉が聴こえたとたん、体重を乗せた木製の段がきしむ音と、やや急いだ足音が次第に大きく響き、一人の若者が姿を現した。隣にいた夫人がご飯ですよと話しかけると、下宿人は振り向いた後、席に着いた。皿が運ばれ、礼を言った彼は、ジュネ爺さんの帰還を認めた。
「ジュネさん、お帰り。今度の運行はどうだった?」
「何、いつもと変わらんよ、ペプチド。なかなか満員御礼とはいかんな、ひゃひゃひゃ!勉強ははかどっとるかい?」
「お客さん?」
「そうじゃよ。ラスブールの森で拾ったら、インノケンティウス・アルアル村へ行きたいと言ってな」
「ふーん・・・。向こうで一泊しなかったの?明日会うものだと思っていたよ」
「おお、わしもそう言ったものじゃが、今すぐに発たねばならんと言ってな。大急ぎで早馬を進めたんじゃよ」
「カナンに用が?それとも立ち寄っただけ?」
「さあのう。わしゃ知らん。あんたが直接聞くといい」
と、家主に言われた間借り人は自己紹介を始めた。
「やあ。俺はペプチド。この家で下宿している学生だ。カナンは初めてかい?俺はドレドの出身だけど、暮らしやすくていい街だよ、ここは。どこから来たの?」
「ロック・マッシュルームよ」
と、特に深くも考えず、エフィが答えたら、ペプチドは驚きを見せた。
「へえ!あんなところに人が住んでいたんだ!初めて聞いたよ。険しいあそこは岩壁が切り立って、天を衝く塔みたいに、真っ直ぐにそびえているらしいからね。確か高所と崖を好む鳥が、巣をつくるぐらいしか立ち入らないって聞いたよ」
「・・・あーっと、そこから近くの村よ」
と、エフィは付け足した。学生は言葉を続けた。
「それじゃあ君たちは移動してきたわけだけど、何の旅なんだい?どこかを目指しているのかい?」
「ええと――・・・」
と、言い淀むエフィは困ったように答えあぐねた。不確かな彼女は、弟のエルフに水色の眼差しで訊いた。
(まさか本当に、キミカは一人で魔人の元へ行くつもり?)
(そんな、無謀も無謀だぜ、姉ちゃん!)
と、あきれた様子のケットも、緑色をした目つきで返した。
(・・・そうよね・・・)
「・・・見聞を広めるために、あちこちと旅しているの。モンスターにも遭遇したわ」
と、最終的にエフィが言えば、ペプチドは興味を示した。
「いいなあ!――っと、それは大変だったね。どうやって切り抜けたんだい?」
冒険にあこがれていた彼は、これまでの体験の数々を耳にすると、魔物の容姿や戦闘について、根掘り葉掘りと質問した。ああ、晴れた青空の下、果てしなく広がる緑の野原で、醜悪で巨大なトロールと対峙する、勇ましい冒険者としての自分!さっきまで乗っていた馬車が狙われ、己の奮闘なしには、まず助からないだろう乗客たち!マントが風に翻り、張り詰めた緊張と重圧が、ピリピリと肩のあたりにみなぎる。そして、互角とも言えたにらみ合いも十分に、突如として甚大な拳が襲い掛かる――!沼地に潜む恐ろしい怪物は、人々が丹精込めて世話をした田畑を荒らし、すっかり作物をだめにしてしまうから、お願いされた彼は討伐へ赴く。しかし村の可憐な娘が、行こうとする彼を必死に引き留めるが、義憤に燃えた彼は仕方なしに振り払う・・・。毒を持ったモンスターは手ごわく、不思議な妖精が授けてくれた盾がなかったら、きっと泥の底へ沈んでいたのは彼だったろう。おお、果敢な冒険者だった彼の手のひらに収まるのは、難しい書物や羽ペンなどではなく、頑丈な馬の匂いがたっぷりとしみ込んだ手綱と、光る武器の取っ手!定まった時間に決められたところへ足を運ぶ代わりに、西日が沈む夕暮れ時に水浴びをし、満天の星が瞬く宵闇の中目覚め、東の水平線が茜色に染まる明け方に眠り、太陽の照りつく真昼に歩く、それは全くもって、彼の完全なる自由意思によるのだ!そうだ、向かい合う彼が相手にするのは、吹けば飛んでしまうようなひ弱な教授ではなく、激しく競えるような好敵手!華々しい勝利、輝かしい栄光、沸き上がる興奮!勇胆を意味した冒険は、絶え間ない挑戦の連続であり、溢れんばかりの夢がいっぱいだ!
食事がつつがなく済むと、これから仲間と会うのだが、ぜひとも刺激的な紀行を、彼らにも共有してやってほしいと、ペプチドは言った。恐らく意気消沈の私を元気づけるためにも、新しい出会いが望ましいと考えたエルフ姉弟は、申し出を了承した。
ジュネ爺さんと夫人に別れを告げ、家を後にした私たちは、ペプチドと連れ立ち、街を歩いた。真面目で誠実そうな学生は、目立たない色合いのチュニックとホーゼを身に付け、行きつけの居酒屋へと歩みを寄せた。綺麗な小花の咲いた生け垣に囲まれた店は、屋外の席もあり、ほとんどがすでに客で占められていた。日は沈みかけ、次々と吊るしたカンテラに火が灯された。
集った学生たちはいい聞き手だった。彼らはロミで出くわした盗賊の急襲に驚き、ラスブールの森で起こったハイジャックを気の毒がり、小山ほどもあったトロールの拳固に背筋を凍らし、出会いと別れを羨ましがり、もっと冒険譚を聞きたがった。学問が与えてくれない、自力で危機を乗り越える苦労と悦びが、そこには実在し、怪しい世界は明らかに青年たちを魅了した。誰かの問いに誰かが口を挟み、友の宣言をからかい、どこそこでなにがしが出没した噂を教えた学友たちは、講堂のとある教室では、未解決の問題を口惜しがるあまり、死んでも死にきれなかった数学者の幽霊がよく出ては、ぶつぶつと独り言ちながら、ひたすら壁に数式をつづっているとか、どうやら占星術では飽き足らず、降霊術にはまったテュルプ教授は、きっと悪魔を口寄せてしまったから、がらりと人が変わったのだと、怪奇そのものに勉学以上の情熱を傾けていた。するとそのうち、この世のどこかにある摩訶不思議な井戸が話題に上がり、お気楽者たちの一人が説明した。
パヴェルという名の学生は、生態学の講義をとっており、普段通り教授と他数名の学生たちと伴った彼が、野外調査へ出かけた時のことだった。大学にほど近い緑の中をそぞろ歩き、何か興味深い生き物を見つけた教授が、その場で立ち止まり、周りに集まった彼らに講釈を述べる授業だった。蛇足かもしれないが、それこそちゃっかりした奴なんかは、これを採収のための時間と決めて、地面に落ちたクリやキノコなんかを拾っていたそうだ。それからこれも、彼が話したいこととは全然関係ないが、教授は以下のように言ったそうだ。その時彼らが注目していた薬草に留まった蜂は、多分大きさからいって働きバチであり、花粉を食べに飛んできた虫は、花から花へと移動を繰り返すが、その実植物の受粉を助ける役割を担っており、ほんの小さな昆虫たちのおかげで、確実に草花の生態が整うのだと。そして偶然そこへ、一匹の蝶がひらひらと舞ってきたら、この美しい羽虫の驚くべき生態に魅せられた教授は、彼または彼女ほど、劇的な生涯を送るものはいないと言ったそうだ。第一に、卵を破った毛虫は、産み落ちた葉を食べて育つ。厳密には食べ物は一様ではない。時と共に成長した毛虫は、数回に及ぶ脱皮をし、鳥のフンのような見た目から、色鮮やかな斑点が目玉のように顕著な、丸々と太った芋虫となる。次いで運よく捕食から免れたものは、適した頃合い――天候の落ち着いた夜中――を測り、最後の脱皮の末にさなぎと化す。
「おい、とっとと井戸に移れよ」。じれた仲間に割り込まれたパヴェルは、以上のような学びをしていた最中、図らずもそれを発見したのだと言った。緑地にぽつんとあった過去の遺物は、辺りに枯れ葉だとか落ち葉がたくさん積もり、格別彼の注意と関心を引くことは、何らなかったものの、穴を覗き込むのもまた生態だろうか、何も期待していなかった彼は、井戸の中を何とはなしに覗いた。やはり深く暗い水たまりと対面した彼は、此度は反響を楽しもうと、縦穴に向かって言葉を発した。延々と壁にぶつかり続けた音が響き渡り、追々消えていった。井戸に落としたはずの声音が立ち去ったその時だった。真っ暗だった内側から何かがぼそっと囁いた。間違いなく声だったそれは言葉でもあった。パヴェルはびっくりした。井戸が喋った!しかしとはいえ、なんて言ったのだろう?正確に聞き取りたかった彼はもう一度、穴に向かって問いかけた。
「来なさい」――。囁く井戸は簡潔に命じた。来なさい!まさか下まで降りて来いと言っているのではないだろう!困惑と不可能を伝える台詞が、唇まで出かかった矢先、折しも離れた彼を求めた教授に呼ばれたパヴェルは、後ろ髪を厳しく引かれる思いで、この奇妙な井戸に背を向けた。風の便りで聞いた魔法の井戸はどれも、光ったり、煙が上ったり、妖精が縁で踊ったりするようなのだが、話すなんて!だがしかしながら残念なことに、声が聴こえたのはあれ一度きりのことで、結局のところ、忘れ去られた井戸はただの井戸に過ぎなかった。今でも暇つぶしがてら、たまに訪れてみるものの、やっぱり同じことだった。
一体誰が喋ったのだろうと、盛り上がった学生たちは憶測を交わした。飛び込んでくる諸々を聞き流しながら私は、漠然とした心の内で言い返していた。いいや決まっているだろう、もちろんそれは――・・・
「ウブリエットだわ」
と、気が付いた私はぽつりと漏らした。皆のキョトンとした視線が素早く注がれたが、私は構わなかった。どのみちウブリエットは、「誰か」ではなかったのだから。ああ、思い出すことができて良かった!これでネルの元へ迅速に駆けつけられる!私にとって踏んだり蹴ったりだった冒険はもうおしまい。そもそもの話、挫けた勇者ジンを説得するためだけに旅してきた私は、向かうところ敵なしの、強い魔物を倒すような実力の持ち主ではないし、あの女みたいにハプニングに慣れたいとも思わない。同じ試練でも、二回目の人生を送っている私は、かけがえのない友と自由な世界を、許しがたい悪の手から逃がす試練と、向き合わねばならない。想像するのもおぞましい支配や征服を成し遂げ、私たちを意のままに操ろうなんて大それたことは、言語道断であり、なおかつ誤っている。報われないオタクは正義をこよなく愛するが、ネルと一緒に逃げ切れるかどうかが、私の目下の要点なのだ。したがって、豚が飛ぶ空から隕石が降ってこようと、雨あられが逆さに降ろうと、天地がひっくり返ろうと、たとえ何があろうと、パヴェルは絶対に井戸の在り処を吐かなければいけなかったし、また事実彼は私の勢いに気圧された。
夜の帳が差し掛かり、星の瞬きが輝き出した頃に私たちは着いた。黒と紺と紫色が混じった暗闇を透かして、紛うことなき井戸が目の前にあった。反対に、借りたカンテラの温かい橙色の明かりが、突っ立った私たちをぼうっと照らしていた。もう間もなくだった漆黒に際し、ぺちゃくちゃと無駄口を叩く者は一人もいなかった。この至って何の変哲もなかった井戸について、一体全体何を知っているのだろうかと、好奇的な疑問を解く以外に、およそ念頭がなかったのだろう。しかし私は分かっていた。これが扉だったことを。
かざしたランプの灯を頼りに覗き込めば、銘々は吸い込まれるような奈落を認めた。恐らく傍から見れば、複数の人物らが、揃いに揃って井戸の中を覗き込んでいる、甚だ不可解な光景だったろうが、来いと囁かれるまでもなく、私は割かししっかりした縄梯子を伝い始め、深く真っ暗な下へ降りていった。誰もあえて準じようとはせず、光の届かない闇に紛れていく私を、物好きな奴だと見送った。まだ声は聞こえなかったものの、固く編んだ縄のしなる音や、感覚だけを手掛かりに行く私の息遣いが、長い筒に響いた。時々見上げれば、あんず色に浮かび上がった出入口は遠ざかり、小さくなったようだった。やがて限界を迎えた光は途絶え、頭のてっぺんからつま先まで、途方もない暗黒が私の全身を包み込んだ。恐怖と臆病を抑え込んだ私は、あるとも知れなかった地下まで、半永久とも思えた時を一心に下り続けた。向かう私を分かってのことか、未だ声は「来なさい」と囁かなかった。
久しぶりに着地した足の裏が、ちょっとした違和感と安心を、私にもたらした。ちっぽけなかがり火が、通じたトンネルの奥で燃えていた。そう、ウブリエットは地下通路――。見かけは単なる井戸なのだが、秘密の抜け穴は、この世界の随所に点在し、別の場所へ難なく移動できるのだ。急いでいる時や、モンスターと遭遇したくない状況のプレイヤーにとって、これほどありがたいものはなかったのだけれど、パヴェルが言ったように、ひっそりと隠れた在り処は、人知れなかった。つくづく本物だった不気味を噛みしめながら、恐々とした私は、慎重で不確かな一歩を踏み出した。
鈍かった足取りでゆっくりと進むにつれ、次第に開けてきた視界をもとに、空間に立っていたそれを認識するに至った。
「来たわね」
と、向かい合ったそれは、あたかも予想が的中したかのように、やや興奮気味に言った。見るからに人間の男だったそれは、影がなかった。当たり前にうろたえる私をよそに、男は高調した言葉を続けた。
「うふっ。ボーヤ、アタシ待っていたのよ、ずうっと。あんたがやっと、このアタシの呼びかけに気づいてから、今か今かと首を長~くして。・・・・・・あん?何よ、アンタ。あらやだ、女じゃな~い!うっそ~、最悪~!」
影がなかった理由はさておき、どうやら彼が案内人らしい。以前から私が敬愛してやまなかった画家、アルブレヒト・デューラーに似ていた彼は、細かい襞の寄ったシュミーズの上から、ピッタリとしたダブレットを纏い、腰までしかなかった服の裾から、余った肌着がはみ出ていた。片脚ずつで色の違ったホーゼがピタッと覆い、長い脚の輪郭をくっきりと描いた。足の甲を見せた靴は、上履きみたいだった。
「はあ!まずアンタなんか、お呼びでなかったと言いたいところだけど、とどのつまり、これがアタシの役割なのよね。あーあ。ちぇっ。・・・いいわ、それで?どこへ出たいの?」
しまった、うっかりしていた!ネルを捕らえた魔人の居場所は!
「え、ええっと・・・」
「何アンタ。いくら何でも、アタシは知らないところは導けないわよ」
「―――」
どうしたものだろうか。私のドジ!どうしてエフィから聞き出しておかなかったのだろうか!バカバカバカ!機会はいくらでもあったはずなのに!ああ本当にもう!
「キミカー?」
と、聞き覚えのあったメゾソプラノが、背後の通路から響いた。おお、よもや!願ってもなかったことを願った私は、振り返った。万歳!エフィとケットだ!
「まさか本当に行くとは思わなかったわ・・・。井戸の中に地下通路があったのね」
と、意外な事実を発見した女エルフは、驚嘆した。
「なあ、前もって教えてくれればよかったのにな!」
と、もう一人のエルフも、初めての地底に興味津々だった。
「あら!」
と、感嘆した案内人のスグリのような目が、現れたケットを入れたとたん、色が一瞬で変わった。きっと訪問者が若い青年だったなら、パヴェルでなくともよかった彼は、きゃぴきゃぴした口を開いた。
「きゃっ、いらっしゃ~い、ボーヤ。地下の国へようこそ。アタシはアリス。歓迎するわ」
えこひいきだ!鬱憤が私を責め苛む一方、鼻白んだケットは、理解しがたいふうに顔をしかめてから、こっそりと姉に耳打ちした。
「どう見てもアリスって面じゃねえよな、このおっさん?」
「聞き捨てならないわね!ちょっと、ねえ!アタシは確かに、『おっさん』かもしれないけれど、実際の中身は傷つきやすい、それは繊細な乙女なの!見た目だけで人を判断するのはやめて頂戴」
「ねえ。ネルを攫った魔人の居所が要るの。アリスさんが出口まで連れて行ってくれるから」
と、横から私が口を挟むと、エフィは言った。
「迷いの森よ。範囲が広いのだけれど、大丈夫かしら」
「ふん、地下の国のアリスを見くびらないでちょうだい。こちとらベテラン案内役なの。いいわ、こっちよ。ついて来なさい」
さっと傾げた頭で示すと、アリスと名乗ったデューラーは、三つのトンネルがあったうちの一本を選んだ。
地図も何もなしに、松明がほんのりと照らす順路をたどった案内人は、途切れなかった通路を右左と曲がりつつ、すいすいと進んだ。まるで張り巡らされた迷路だ。一列になった私たちの影が重なり合ったが、先頭を行くアリスの影は映らなかった。日頃から、努めて意識したこともなかったのに、ゆらゆらと揺らめく赤い火が生み出した影が、しばしば目に付いた。暗がりに溶け込む陰影は、人工照明に浮かび上がるものよりも、ずっと濃かった。深い味わいが何とも言えなかった。洞窟の中、寄り集まった人々が囲んだ焚火が照らした、原始の懐かしいそれだった。古と共にあった影は、恒久の命をも偲ばせたものだが、それがなかった男はどうだろう?不思議で済まなかった当惑が、無防備な私を殴り込んだ。アリスはウブリエットの案内役だが、一体どういういきさつでなったのだろうか。もし生まれも育ちも地下で、ひょっとして暮らしているのだとしたら、それこそモグラ以外の動物を、衝撃を受けた私は初めて学んだろう。さて、どうやって切り出したものだろうか!
「あれ、何で影がないの?」
と、ちょうど気が付いたケットが、何の気なしに指摘したら、悩んでいた私は呆気にとられた。立ち止まったアリスは振り向くと、言った。
「うふ、よく気が付いたわね。感心するわよ、ボーヤ。でもね、レディの外見について、とやかく言うものじゃないの。お分かり?」
「さあね。レディに会ったことがないから」
「それじゃあいいお勉強になったわね、うふふ」
と、あっさりと言い返せば、向き直ったアリスは歩みを再開した。それからしばしの間を置いた後、彼はまたしても口を開いた。
「・・・いいわ、教えてあげる。答えは簡単。・・・アタシは罪人だったの」
ほの暗いトンネルを進みながら、アリスは辛い過去を語った。
「もう気づいているかもしれないけれど、男として生まれたアタシは、男が好きだった。もちろん今でもそうよ。どうして人が恋に落ちるか分からないように、たまたま同じ性別だった人を愛した理由なんてなかったわ。自然とアタシは彼らに惹かれたの。でも、そんな男はアタシの周りに、一人もいなかったけれど、自分を恥じてはいなかった。みんなは頭がおかしい、アタシは呪われている、恥を知れって、口をそろえて非難したけど、なぜかしら。いつでも正しかった愛は、身分や国境を越えるものだとしたら、必然的に何物をも越えるはずだわ。人間を創らなきゃいけなかったから、気まぐれな神様は創られたんじゃない。もともとアタシたちは、殖える必要がなかったのよ。誰が彼と戯れようが、迷惑さえかけなければ、それでよかったじゃない?ええ、でもね。困ったことに、人の感情って裏表があるものなの。それは例えるならば、好感が表なら、裏が嫌悪というふうにね。そして、何が気分をひっくり返すかは、決して誰も説明できないの。
天国へ上がったと思ったら、地獄へ真っ逆さまに堕ちたわ。崇高な神を冒涜したと、アタシは異端として裁かれた。全く身に覚えのなかった罪を背負って、アタシは牢屋に入れられた。汚らわしい咎人としてみなされた不名誉に耐えながら、アタシは恩赦を待った。いちいち数えるのもうんざりするくらいの月日が経って、本当に刑務所を出た時は、赦されたんだと思ったわ。だけど看守は、使っていなかった古井戸の中へ入れと言ったわ。今日からアタシはここに収監されるのだとも。奴の言葉が信じられなかったアタシは、耳を疑ったわ。それからできるだけ抵抗したけど、結局言うとおりにするほかなかった。深かった穴の底は真っ暗で、じめじめと湿って、腕が真横に伸ばせなかったくらいに狭かった。まだ牢獄の方がはるかにましだったわ。アタシはこれ以上ない絶望に苦しんだ。綱に括り付けた食べ物が降りてきたから、誰とも会わないし、誰とも話さなかった。アタシは一人ぼっちで、移り変わるちっぽけな空だけを見ていたわ。そのうち食べ物が――腐っていたりカビが生えていたりして、ほとんど食べれやしなかったけれど――投げ込まれるようになって、最後には何も運ばれなくなったわ。
降りこむ雨や雪に震えたアタシは飢え、やせ衰え、病気になった。ごみ箱に捨てられたぼろ雑巾みたいに、アタシは忘れ去られた。惨めだったわ。死ねるものなら死にたかった。アタシを迫害した世界を激しく憎み、心の底から呪ったわ。かすんでいく意識の前に、安らかな死を心待ちにすることだけが、唯一の慰めだったの。そして次にアタシの目が開いた時、あまりにもそれが待ち遠しかったものだから、思わず神様に罵ったわ。
『ええい、くそったれ!どうして幸せな眠りに就かせてくれなかったの!』
って。そこは天国なんかじゃなかったけど、何故だかアタシは地下にいた。久方ぶりに見た火がまぶしかったけれど、そっとかざした手で、熱さを感じないではいられなかった。そしてその時に、映らなかった影に気が付いたけども、もうアタシは何も驚かなかったし、怖くもなかった。病に侵された身体は不思議と軽く、痛くもなかった。喉の渇きも空腹も覚えなかった。誰かが呼んでいるような気がして、アタシは薄暗いトンネルを行った。
行き止まりまで進んだら、呼び声は、壁の向こう側からしていたの。そんな馬鹿げたこと、到底ありっこないと分かっていたけれども、踏み出した一歩が、壁をすり抜けたわ。そこは正に楽園だった。見るも鮮やかな色で溢れ返った花畑が、視界に及ぶ限りずっと広がり、虹のかかった滝なんかもあった。晴れた青空は美しく澄み渡り、綺麗な鳥たちが、のびのびと飛んでいたわ。清々しい風が、みずみずしい新緑の梢を揺らし、アタシの頬を心地よく撫でた。ふかふかと真っ白な雲の下、薄絹を纏ったその女は、滝つぼを縁取った岩に腰かけ、飛び散るしぶきを浴びていたの。優しく微笑んだ彼女は、アタシに向かって手招きしたわ。それからアタシがやって来たら、彼女はこう言ったわ。
『肉体が朽ちてしまったから、新しいものと取り替えました。あなたは亡くなりましたが、魂は私と共にあります』
自棄になったアタシは訴えた。どうして放っておいてくれなかったの。何故死んだ身体と一緒に、記憶や意識を消し去らなかったのか、とね。
『アリス、あなたに頼みたいことがあります』
その女は言ったわ。彼女は、アタシが付けたアタシの名前を知っていた。
『地下の国で、案内人となってもらいたいのです』
言い分が飲み込めなかったアタシが、返事に詰まっていたら、彼女は穏やかな言葉を続けたわ。
『訪れる者が目指す場所を導くのです。彼らだけでは、右も左も、当てずっぽうさえも利きません。あなたしかできないのです』
その時感じたアタシの気持ち、きっとアンタたちには、一生かかっても分からないでしょうね。厄介者だったネズミのように、ずっと日陰の下で生きてきたのに、死んでからも尚、暗い地底に閉じ込められるなんて!怒りと屈辱の身震いがしたけど、アタシは何も言えなかった。今更傷ついたなんて言うのは、おこがましい話だったから。でも、まるで心を見透かしたように、その女は静かに言ったの。
『ここはあなたの庭です。自由にお過ごしなさい。きっと気に入ることでしょう』
ええ。煌めきと彩りで満ち溢れた素晴らしいところは、地上でも滅多になかったから、明らかに、彼女の意見を疑う余地なんてなかったわ。アタシを軽蔑したり、気味悪がったりするような人もなく、そこは全くもって、望ましい安寧を約束していたの。
数奇な最期を遂げたアタシは、どうやら死んだようなのだけれど、腑に落ちなかった。息絶えたのにおかしな話だけど、実感がなかったのよ。燦々と輝くお日様が、見上げたアタシの上にいた。どうでもいい気がしたわ。アタシは光になったの。だからこそ、影が浮かばないのだとも考えたわ。そして目線を戻したら、その女は、座っていた岩から消えていた。さえずる鳥、ざわめく木、流れ落ちる水、触れ合う草、舞う羽虫と、快い静けさだけが、その場に残っていたの・・・」
私たちは言葉を失っていた。壮絶な人生はもとい、彼は死人だったとは!ゲームのキャラクターといえども、本人の口から聞いた話は、どうしたって同情せずにはいられなかった。走る動揺で震撼としていると、笑ったアリスは、明るい口調で言った。
「もういやね、お葬式みたいにしんみりしちゃって!いい、訊かれたからアタシは答えただけよ?答えは『分からない』。だけど、アタシは大して気にしてやしないわ。・・・ちょっと、ねえ!何とか言ったらどうなの!」
「――あ、あとどれくらいで着きそうなの、アリス?」
と、心の平安を欠いたエフィが、どぎまぎと問うた。
「安心なさい。ちゃんと向かっているから。ええと、迷いの森だったかしら?一つ知りたいのだけれど、わざわざ迷子になってどうするの?」
「頭から決めつけるのは良くないと思うぜ、お――・・・っと。アリス。忘れたのか?『見かけだけで人を判断してくれるな』、だろ?」
と、ケットが生意気に返したら、嬉しい案内役は、やり取りを楽しんだ。
「一本取られたわね、うふっ。見た目によらず頭の回る子は好きよ。そうそう、アンタたちお話は好き?退屈しのぎに聞かせてあげる。面白いわよ。一風変わった愛の物語なのだけれど、確実に惹きこまれるから。出口まであっという間だったと思えるはずよ・・・。もし聞きたくなければ、耳を塞ぐなり何なりしてちょうだい。準備はいいかしら?とはいえ整うのを待つほど、生憎アタシは気が長くないのだけれど・・・。
昔々のことよ。常に争いが絶えない動乱の時代だった。権力の座を競う継承戦争、豊富な資源と領土を巡る侵略戦争、教義の優劣性を示す宗教戦争と、戦争と名がつくものは何であれ、男たちはお構いなしに明け暮れた。暴力と血がすべてだったから、むごたらしい公開処刑の時には、見物人たちの血が騒いだそうよ。異端者、魔女と魔法使い、反逆者、人殺しが殴られ、蹴られ、石を投げられ、唾を吐かれた末に炙られ、宙にぶら下がった・・・。自死よりも悪い罪を犯した彼らは、魂の救済などはもってのほか、到底見込めるはずもなく、地獄へ直行するのに決まっていたのだから。疑心暗鬼になった人々の心は、まるで侘しい冬の曇天のように鬱屈した。不安定な情勢が、彼らの不安に一層拍車をかけ、どうしようもなかった奇人変人を貶めることで、何とか憂さを晴らしたの。全知全能だった神様が仰った言葉が、絶対の指針であり、忠誠を誓わないどころか、彼の考えに背くような不届き者の人生は、必ずや破滅へ向かうものだった。正義という名のもとに、市民はお互いを見張ったわ。立派な宮廷と荘厳な寺院の下で、守るべき秩序を乱してはならなかった。たとえ圧政を敷こうが、税金をかすめ取ろうが、足並みさえそろっていれば、強固な結束さえ貫き通せば、低く垂れこめた暗雲の間から、顔を覗かせた太陽が射しこむと、大変な時期を生きた彼らは、信じていたの。
小国を治める家に生まれたマウリシオは、若いながらも自信に満ち溢れた、血気盛んな青年だった。しなやかな筋肉が薄くついた細身で、上品な顔立ちをしていたようよ。淡い茶色をした柔らかい髪と、人懐こい飴色の瞳が、優しい気立てを物語り、情に脆いところがあった彼は、人望も厚かったわ。武芸に秀で、詩歌に慣れ親しみ、言い伝えを愛した王子は、一片の曇りもなかった自慢の息子だった。城に住んだマウリシオは学者に習い、戦闘のイロハを学んだ。修業のために奉公に出された時は、馬の世話をし、貴婦人と接し、戦地へ赴いたわ。近習としてよく仕え、勤勉で、信心深く、節度を重んじた若者は、誉ある騎士道へまい進した。おごり高ぶらず、仲間を気遣い、礼儀を尽くした彼を、正当に評価しない者は、誰一人としていなかった。健康的な貴公子は、身のこなしが軽く、馬を素早く駆らせた暁には、逃げ足の速かった獲物を射止めたその雄姿が、淑女たちの賞賛の的だったわ。
マウリシオがその男と初めて会った時、みすぼらしい服装をしていた彼は、乞食だと思ったの。正しくは、落ちぶれた農夫だったのだけれど、土色に日焼けした男は裸足で、ぼろぼろのズボンを穿き、胸がはだけたシャツを着ていたわ。一切の持ち物を身に付けておらず、着の身着のままだった彼は、街道をとぼとぼと歩いていた。爽やかな青空の下、見苦しい物乞いが、脇を行く騎士を見上げたら、無視できなかった貴公子は、馬を止めたわ。
『やあ、こんにちは。いいお天気ですね。何か困ったことはありませんか?』
マウリシオは馬上から尋ねたわ。彼はてっきり、苦い顔つきをしたまま、無言で汚れた手を差し出すか、あるいは、不愛想な『旦那、お恵みを』を予期していたのだけれど、じっと見つめ返すばかりだったから、拍子抜けしたわ。よく見れば、長身だった男は、宮廷の女どもが色めき立っても過言でないくらいの美男で、頑丈な体つきをしていたわ。盛り上がった筋肉、広い肩幅、太い喉首、引き締まった腰が目に付き、ただの乞食にしておくのは、惜しいとさえ思えたの。ちらっと視線を外した男は言ったわ。
『ハハ、俺も焼きが回ったもんだ。物乞いと見間違われるとはな』
自嘲が滲んだ台詞のせいで、マウリシオの明晰な頭脳が混乱したわ。一体こいつは何を言っているのだろう?どこからどう見ても、卑しい浮浪者そのものではないか!しかも、焼きが回るとはどういうことなのだろうか。だけども大抵の乞食だったら、田舎臭い訛りや、でたらめな語順に文法と、品性に欠けた話し方をしたものなのに、男はすらすらと言いのけたわ。生まれつきの貴族だった余裕から、物乞いのらしからぬ態度を見逃したマウリシオは、親切な言葉を続けたわ。
『失礼。そんなつもりはなかったんですが・・・。どちらまでお出かけですか』
『さあな。どこへ行こうが俺の勝手だし、通りすがりのあんたには何の関係もないはずだが、行先を知りたがるということは、あんたはここらの人間か』
おやまあ、ろくでなしのくせして、何とふてぶてしい男だろう!生意気な口を利くような、身分をわきまえなかった召使を雇ったことはなかったし、はたまた貴人といえども、家名に相応しい立ち居振る舞いが求められた世界では、彼は荒々しいだけでは、一人前として認められない事実を知っていたマウリシオは、壁にぶち当たった気がしたわ。無色透明だった壁にぶつかった彼は驚き、困惑し、やるせなかった憤慨を覚えたわ。だけども賢明だった王子は、取るに足らなかった、浮浪者の横柄を受け流したの。
『・・・ええ、まあ。あと半里も進めば、一帯を治めるイルソドマ城が見えてきます。僕はそこを目指しているんです』
『城か。厄介になるには申し分ないな。あんたと会ったのも何かの縁だ。話をつけておいてくれ』
マウリシオは絶句したわ。何て憎らしい畜生なの!落ちるところまで落ちたら、人は見ず知らずの他人に、ここまで図々しくなれたものなのかしら!せめて領民だったならまだしも、どこから来たともしれなかった乞食を受け入れるほど、上流階級は、甘っちょろいとでも考えたのかしら!だけども彼は、誠意をもって答えたわ。
『できる限りのことはしますが、門前払いされたとしても僕を恨まないでください。城はあなたたち全員を養えるわけではないんです』
『いいから行けよ。純血馬を飼えるくらいなんだ、一人くらい大したことないだろう?』
と、馬の尻をぞんざいに叩きながら男が言えば、むっとしたマウリシオは、馬を駆らせたわ。言い返した挙句、彼の愛馬を侮辱したとは!これで門戸が開かれると思ったら、大間違いだ!街道を疾駆する馬上で、王子は確かに、包み隠さない報告を、むしゃくしゃした胸に誓ったわ・・・。
城下町は小ぢんまりした家が建ち並び、生真面目で敬虔な住民たちは、束の間の安息の内に暮らしていた。町裾を紺碧の川が流れ、豊かな森林が占めた景観は絵のようで、とんがり帽子を頂いたイルソドマ城は、町の象徴だったわ。臣民は城主一家のために働き、施政者は外敵から町を守る務めがあったの。重要な地位にもかかわらず、気さくだった家族は評判がよく、町の者たちの信頼を得ていた。祭りのときなど、進んで参加した彼らが同じ食卓に着くと、親しみが持てたわ。一緒に歌い、踊り、酔っぱらえば、身分なんてものは存在しなかったの。唯一の嫡男だったマウリシオは賢いし、気が利くし、老若男女問わず、親身になって話を聞いてくれたものだから、町の娘たちが、ダンスの相手を競うのも無理もなかったわ。お話が上手だった彼は、外国での見聞を面白おかしく言って聞かせ、場を和ませたり、盛り上げたりしたものだった。女たちは人気者だった貴公子の妻を夢見ては、自分の夫が目に入る度に幻滅したそうよ。そんな中でも、彼の絶大なる信奉者が一人いたの。彼の妹――エレオノーラがその一人で、自他ともに認めるお兄ちゃん子だったわ。お姫様を甘やかした家族は、花のように愛らしかった彼女を、『赤ちゃん』とかエレノアと呼んだわ。もっとも、十四になったばかりの彼女はもう、大人の女性とみなされていたけどね・・・。五つ離れた兄妹があまりにも仲良しだったものだから、いざ縁談話が持ち上がろうものなら、片っ端からおじゃんにならないだろうかと、ハラハラした両親は心配したものよ。もちろん許婚はいたのだけれど、激動の時代でしょう?選択肢が少なければ少ないほど、後々自分の首を絞める結果につながるから、相手の家柄が相応しければ、候補にしない道理はないってわけ。
エレオノーラは帰ってきた兄を、いの一番に迎えたわ。腕に縋りついた可憐な乙女を見たら、マウリシオのわだかまりがさっぱりと晴れたわ。
『今しがた物乞いと会ったんだが、とんでもない奴だよ、エレノア』
と、兄が不服そうに言えば、妹は興味を示したわ。
『まあそれは。兄さん、可哀そうな方は何を言ったのですか』
少女は不遇の者をまとめて『可哀そうな人』と呼んだのだけれど、青年からすれば、男はちっとも気の毒なんかじゃなかったわね。
『人の情けでやっていく生活を恥じるどころか、僕たちが施すのは当然といわんばかりだったよ、彼は!』
『まあ。でも働けないのですもの、厚意に甘えるほかありませんわ』
『きみはあいつを知らないんだよ、エレノア!城に泊まりたいそうだが絶対に通すもんか。門兵にそう伝えるよ』
『兄さん、マリオ!いけないわ、そんな冷たいこと。困っている人がいれば助けましょう。立派な騎士ならなおさらだわ』
ああ、一体全体誰が『赤ちゃん』に、余計な騎士道精神を吹き込んだのだろうか!泣き所を突かれた貴公子の意志がぐらついたわ。
『あの男のなりを一目見るなり、きっと赤ちゃんのきみは泣き出すに違いない!汚らしい野良犬みたいだ!』
『兄さんが側についていますもの、怖くありませんわ。頼ってこられた方を追い返すなんて真似、私してほしくありません』
まだほんの小娘といえども、貴婦人の端くれだったエレオノーラを反故にしては、淑女に献身を尽くす騎士道に反してしまい、同時に、兄の威光と名声が陰る現実は避けられない。栄えある名誉と害した感情を、天秤にかけたマウリシオは悩んだわ。けれども最終的に王子の決断を聞いたお姫様は、日向に咲く花のようににこっと微笑んだの。
泣きはしなかったけれど、兄貴がけなした『汚らしい野良犬』を見た時、お嬢様は目を見張ったわ。普通破けた服は繕うものなのに、一度も針を摘まんだことがなかったのか、至って粗末な衣服を纏った男は、恥ずかしげもなく立っていたから、貧乏と縁遠かった彼女はしばし唖然としていたわ。がっしりした体格の大型犬は小さな子犬に威圧をもたらし、怯えたエレオノーラはちょっぴり後悔したわ。感謝の念も言葉も何もなく、あたかもマウリシオたちが下であると決めた庶民は、雨風をしのぐ屋根と空き腹を満たす食べ物を手に入れたの。
はじめの頃は全くひどいもので、ぐうたらな居候は、城の使用人たちが運んできた食料を糧に、だらだらと無為に過ごしたものだから、いくら慈善といえどもこれ以上見過ごせなかった王子は、この城に居たいのであれば仕事を手伝うよう命じたわ。それから言葉遣いも正すよう言ったのだけれど、残念なことに育ちの悪かった男は、人の話や忠告を聞くような耳を持っていなかったから、溜飲が下がるとはいかなかったわね。しぶしぶ男は農作業を手伝ったけど、目を離せばすぐに手を止めているし、実った収穫物をくすねるし、これっぽっちの助けにもならなかったの。遂にマウリシオの堪忍袋の緒が切れると、信仰に厚かったエレオノーラが、余計者を追い出す案を考え直せと訴えたものだから、格式あるイルソドマ城から雑種犬を取り除こうとしても、なかなか思い通りにいかなかったわ。
やっぱり彼の見越した通り、女たちは居候の見た目に浮き立ったわ。名前も知らなかった男の気を惹こうと、くすくす笑いと共に、侍女たちが陽気な声をかけた事実が気に入らなかった貴公子は、彼女たちの前で飼い犬らしく呼び捨てにしたら、さぞかしいい気分だろうと思い立ち、しがない浮浪者の名前を求めたわ。ほどなくして、宮廷ではオルフェノクの名が呼ばれ、本物のペットみたいにちやほやされたの。特に主従関係をはっきりしたかったマウリシオは、オーファンという意地悪なあだ名までつけたわ。相も変わらず、懐かない上に怠け者だった野犬は仕事をさぼり、言いつけを忘れるようないい加減な男だったにもかかわらず、そんな反抗的な彼を許したどころか、食べ物を分け与えた女たちが王子は理解できなかったわ。
まだ餌付けなら我慢できた方で、割けたシャツを繕っている妹をその両眼に入れた時、確かに驚愕した兄はきつい一撃を食らったわね。幾ら信心深いといえども、恵んでいる側の人間が居候のために繕い物をするなんて!ああ何という事なの、信じられない!そんな、彼のエレオノーラまでもがあの忌々しい存在を認めているとは!ねんねもねんねだった彼女はさておき、第一奴はさもしい乞食ではないか!考えてみるまでもない!整った顔立ちや男らしい体躯はいずれ見慣れるだろうが、仏心以外に良くしてやる義理は決してあってはならない!嫁入り前の彼女の神経質な保護者だったマウリシオは恐れたけれど、有無を言わさずに縫物を取り上げれば、同様に彼は乙女のひそやかな感情をも奪えたのかしら・・・。
拙かった身なりは、慎ましやかなエレオノーラの針仕事のおかげでまずまず改善したけれども、オルフェノク自身は少しも変わらなかったわ。良心に付け込む寄生虫とも劣らなかった物乞いだというのに、引け目を示すなんてもってのほか、何にも縛られなかった居候は、気の毒な身の上話を明かして涙を誘うわけでもなく、相手が誰だろうと素っ気なく、同じだったわ。良く言えば対等だし、悪く言えば、恩知らずで身の程知らずの馬鹿野郎ってところかしら。見てくればかりに騙された者たちは甘い顔をするかもしれないけど、どうしようもなかった本性を見抜いていたマウリシオは違ったわ。
だからあろうことにも、部屋のベッドで彼のお姫様がこっそりと泣いていたら、貴公子は哀れな彼女の悲しみの元凶を即刻憎んだし、同時に何をしてでも消し去るつもりだったの。痛々しい涙は王子の心を痛めたわ。傷を負った赤ちゃんは癒されなければいけない。問題はどのようにしてけがをしたのか。心配したマウリシオは問い質したのだけれど、濡れた顔を布団に埋めたエレオノーラは首をしきりと横に振るばかりで、答えようとしなかった。許すまじ敵を庇っているかもしれなかった可能性が彼の焦燥をかき立て、信じたくはなかったものの、疑った彼はあの男の名前を口にしたわ。震えていた身動きがほんの一瞬ピタッと止まったか否や、大切な妹の辱めを直ちに知った兄は、燃え上がった怒りに任せて立ち上がり、早速行動に移ろうとしたの。だけど一生懸命に縋った乙女は引き留めたわ。
『兄さんやめて!彼は何も悪くないの!やめて!どうかお願いよ!』
そう懇願すれど、もしマウリシオが何もしなかったなら、彼女が流した涙はどうなる?彼女の誇りは?寛大な城主一家の名誉が汚されたのよ。百歩譲って本当に非がなかったとしても、少なくとも、年端も行かない娘をいたずらに泣かせた落とし前は付けるべきね。なさねばならぬ処罰を神に代わって下すだけなのよ。
例えば彼のエレオノーラが淡い恋心を持ったとしてよ。脆かったそれを壊さずにすることだってできたはずでしょう。人間らしい気遣いとか温かい思いやりがあれば、たとえ望み通りにならなかったにせよ、卑屈やひがみを覚えずに乙女は健全と成熟しただろうに!しかも折あるごとに追い出そうとする兄と異なり、みじめな境遇に同情した妹のおかげで居候できているのに!これだけの条件がそろっても尚、肩を持つほど奴のどこが価するというのだろうか。全く切り捨てるのが相応しいと思ったマウリシオは、抜き身の剣を手にオルフェノクの元へ向かったわ。
最悪彼の命を奪うつもりだった武器を目の前にしても、城の厄介者は微動だにしなかったわ。多分思い描いた近い将来が厳しいものだったから、とんでもない恐怖に憑りつかれた彼は凍りついたのでしょうね。まず居心地の良かった棲み処を失ったことは明らかだった。今の彼ができたことはすぐに詫びて、熱心に命乞いをして、イルソドマ城をすごすごと後にするのみ・・・。さあ跪いて地べたに両手をつけなさい!深々と頭を垂れ、悔悟と共に許しの言葉を希うの!そうすれば磨き上げた剣が血で赤く染まることはないし、怒り心頭の王子の踏みにじられた矜持と同じくらい、男をずたずたに傷めつけなくて済むわ。
オーファン!あんたは悪魔の子だったのね!露ほども悪びれなかった彼を見て取ったマウリシオは、ひとりでに魂の導きを神へ祈り、何か言い残すことはないかと訊こうとしたけど、もう十分施したのだから、死にゆく者には贅沢だと考え直したわ。だけどもとはいえ、丸腰だった男を一方的に攻撃するのは、栄えある騎士としては恥ずべき行為だったものだから、何でもいいから道具をとれと命じたの。一体何のことかよく分からない素振りをしながらも、不思議と落ち着いていた居候は、傍らに置いてあった火掻棒を持ち上げたけど、あくまでも上から目線らしく、やれやれ勘弁してくれよとため息をつき、やる気は見られなかったわね。
どこまでも人を――とりわけ彼らのような貴人を虚仮にしたものだと、怒髪冠を衝かれた青年は、剣に憤りと恨みを込めて猛然と襲い掛かった。憎しみのこもった斬撃が、ただのつまらない火掻棒に器用かつ幾度も受けられると、復讐に燃えたマウリシオの平常心はますます欠いた。剣術を心得ていた自負と優位な武具から来た過信、それから憤懣した心持が彼の洞察を見る見るうちに曇らせていき、次第に一撃は大ぶりで雑になっていったわ。
単なるみすぼらしい物乞いにしては、やけにオルフェノクは戦闘に長けていて、鮮やかに身を躱したかと思いきや、再び繰り出される剣を寸分の狂いもなく的確に受け止め、増えた隙を目ざとく見つけて反撃したの。ちょうど掠れば余計に口惜しさと焦りが募ったから。
じわじわと脳裏に浮かび上がってきたあり得なかった事象が、最終的には現実となった時、決闘に負けたマウリシオは、まるであってはならなかった禁忌を犯した気分だった。五分だった体力は消耗し、くだらなかった浮浪者が、上流階級の自分を打ち負かした事実が彼をひどく苦しめたわ。完全に失墜した沽券を引っ提げて、これからどんな顔をして妹に会えばいいというのだろうか。
『・・・あんたの顔は立ててやる。いいだろう出て行ってやるよ。だがあんたは俺を拒否することはできない。以降客として訪ねた俺をだ。何、視界に入りさえしなければ、あんたの大事な妹からしてみて俺はいなくなったも同然だ』
と、勝ち誇らなかったオルフェノクは言ったけど、納得がいかなかった貴公子は踏ん切りが容易につかなかったわね。居候の次は客人としてもてなせですって!そんなふざけた話、吐き捨てた唾と一緒に断れたらどんなに胸がすっとしたかしら!だけども逆転した立場を甘んじて飲むしかなかった。普通白黒つけた男にみっともない二言はないものよ。
その日からマウリシオの生活は二面に分かれたわ。陽が上った明るい昼は誇り高い紳士として慕われ、皆が寝静まった暗い夜は、劣った負け犬としての屈辱に苛まれたの。そしてそんな中、なお悪いことに、ときたまオーファンが言葉通りにふらりと現れると、威厳を損なった王子は情けなくも、人目につかぬよう慌てて部屋へ招き入れたわ。たいていが非常識な時間だったから、呆れた彼は文句の一つでも言おうとしたけれど、城の者たちが働く昼間だったらもっと悪かったしね・・・。はた迷惑な『お客』は食糧庫から持ち出した果物やらお菓子を頬張り、ぐびぐびと酒瓶を空けていったから、貴公子は料理番からの疑惑に困ったけど、何よりもエレオノーラの耳に醜態が届くことが困りものだったわ。今まで可愛いお姫様のお目目に気高い兄貴として映ってきたし、これからも至極そうでなければいけなかったのよ。
のさばっていた乞食をイルソドマ城から追放した張本人が、このようにこそこそと人知れず匿っているなんて!他の誰でもなかった彼女のために捧げた勝利を学んだからこそ、敬服した乙女は頼れる彼の側で元気を取り戻しているにもかかわらず、実は同じ屋根の下で、その汚らわしい息をのうのうとしていたとは!面目を保ちたかったマウリシオは用意周到に心を砕いたわ。それを理解してなのか、根無し草だったオルフェノクは徐々に根を張り始め、ちょくちょく部屋へ入り浸るようになったの。
どうしてこれほどまでに心を気安く許せるのだろうと、自分の部屋にいた、隙だらけでゆったりとした男へ、飴色の目をやった王子は訝しんだわ。ごろりと横になってくつろいだ彼は、うずくまって休んでいる猛獣みたいに見えた。こんな奴に敗北を喫したなんて!抱えた痛みを帯びた頭の中で、こうした不名誉な状況が早く終わるよう、マウリシオは願ってやまなかったけれども密会は続き、いつしか打ち解けた兆しが表れていたの。
きっかけは、暇つぶしを所望したオルフェノクに聞かせた物語だったわ。貴族として文学を嗜んでいたマウリシオは、無学の彼に分かるものかと高をくくり、古代の皇帝たちにまつわる話をしたわ。異教徒を弾圧した暴君は音楽と詩を愛しながらも、母親に対する愛憎のはざまで揺れた。思慮深かった統治者は哲学を重んじたゆえ、謀反を起こした裏切り者を許した。快楽に溺れた治世者は、目がなかったバラの花びらで犠牲者を出した。愚かな人民の上に立つ者でさえ、過ちを犯してしまうものだという教訓を感じ取ったオーファンは、支配者たちの伝記が気に入ったわ。全く何様よ!呆れかえったマウリシオは鼻を軽蔑的に鳴らしたけど、物事の本質や意義を捉える能力はさすがに侮れなかったの。それになかなかいい聞き手だった彼は、口を挟まず静かに耳を傾けたから、悦に入った青年の舌が滑らかに回ったものよ。
紛れもなく人より恵まれた身分と環境だったけれど、何も遊ぶばかりじゃなかった貴公子は、日に日に愚痴をこぼしたり、感想を漏らしたり、意見を求めたりしたわ。意外なことにも、真実有能な相談相手だったオルフェノクは、複雑で面倒な議論も惜しまなかったし、以前は鼻に付いた気軽な態度が、かえってマウリシオの負担を薄らげたの。誰しも感じたことのあった迷いや優柔のような弱音を簡単には吐けなかった王子は、ぱっと見どうでも良さそうな彼へ捨て置いたわ。最初から役立たずのごく潰しと決めつけていたけど、実際役に立つこともあったんじゃない!
彼のためかどうかは怪しく、本当の目的は神のみぞ知るところなのだけれども、面白半分に興じた男の提案をみだりに承認した直後、どうやら煩わしかった彼に対して芽生えた信頼の二文字が、ふと王子の頭をよぎったわ。この年にもなって着せ替えごっこをするなんてね!馬鹿馬鹿しさと可笑しさが相まったマウリシオは服を取り替えたの。万が一にも、城の人間がその時の彼のありさまを見てしまったら、おそらく気が触れたと思ったでしょうね。富裕な彼からしてみれば、まさしく生き恥だったわ。文無しのお前への憐憫でも買わせるつもりなのかとじろりと睨むと、そこには立派な身なりをした貧民がいた。貴族の衣装に身を包んだ男の神々しさや品格が、彼の目を問答無用で奪ったわ。骨太で大柄な体つきを纏うそれは少々きつく短かったけれど、細部まで行き届いた服装の華美が、ほのかな傲慢が滲んだ男前な顔立ちと組み合わさり、映えた。どこからどう見ても貴公子だったオルフェノクは、きちんとした武器さえ持たせたらほとんど騎士だったわ。付きまとって離れなかった卑しさとか見苦しさは見る影も形もなかった。彼以上に似合っていた事実を認めざるを得なかったマウリシオは口惜しさを覚えたわ。
それに比べて、いよいよ貧相だった自分がどれほどちっぽけに思えたか!なみなみとみなぎっていた自信がしおしおと萎れ、良かった威勢はどこへ行ってしまったの?自分が卑しい気がした貴公子は、生まれて初めて抱いた感情に困惑したわ。一時的に身分を失った彼は、寄る辺ないくずのように無価値で、空っぽで、情けなく、不安だった。消え入りたいという願望を得たマウリシオは、想像だにしたことのなかった惨めを思い知ったの。
主人のようなオルフェノクが勧めたから、しもべのような青年は言葉遣いも改めたのよ。払うとは思ってもみなかった男に対して敬意を表したなんて!考えられなかった不自然は全然信じられなかったけど、不思議と物腰は落ちぶれた者の恭しいそれになったし、何より驚いたことに嫌悪を一切覚えなかったの。むしろ服従は潔く、平伏は新鮮だったわ。実に醜聞的だけれども、何となく心地よささえ感じられた。落ち着いたオーファンは、そんな王子を平静と眺めたわ。眼差しは鑑賞のようでありながらも肯定的で、侮蔑の色が浮かんでいなかった。静かに燃えた瞳に捉えられたマウリシオは張っていた肩ひじを緩め、彼自身も知らなかった心と身体を預けたの・・・。
育った信頼と取って代わった友情が、更に変化していくこともあり得たという点を、意地のためになかなか受け入れがたくも、マウリシオは自分の心身をもって学んだの。一線は越えていないと、友を迎えた王子は自分に言い聞かせたわ。未知だったからこそ、神秘的な境界はたとえ何があろうとも絶対に踏み込んではいけなかった。彼らを見守ってくださる心強い神様に背くようなまがい物の教育を受けていなかった青年は、入門は尊ぶべき偉大な主君を貶める冒涜だということも知っていた。呪わしい悪魔と手を結ぶも等しかった。卑しみは疎むべきものなの。彼のエレオノーラが言っていたわ。清らかな善はかの地へ運べど、害たる悪は地獄へ落とすでしょう。戒めは勇敢だった彼を脅かすことはできなかったけれど、マウリシオは彼の乙女が嘆くことを恐れたわ。心底から祝福を望んだ兄が忌まわしい地獄へ下ると想像しただけで、間違いなく女の子は不幸になる。尊大な勝者を拒絶しようとしても、ただでさえ惨めな敗者だった己の尊厳が廃るような真似は必至と避けねばならず、板挟みに苦しんだ彼は葛藤した。
だけども、悩んだ貴公子を救ったのもまたオーファンだったわ。泰然とした王は自然そのもの。厭わしい災難を巻き起こす一方で、不自然をも引き受ける太っ腹ないでたち。否定も肯定もせず、知らず知らずのうちに踏み入っていたマウリシオをあるがままに扱い、特別な糸を紡いだ・・・。珍妙な糸は粘り強く、煌びやかな光沢を備え、しっとりと吸い付く優美な絹のような手触りがしたの。
逢瀬のたびに織りは進んでいったわ。着物を交換し、心地よく響いた朗読へ耳を傾け、何でもなかった出来事を語らい、触れ合い、一枚の布を織りあげた。王子を包んだそれはありったけの親愛を注ぎ込み、前後もなかった彼を夢中にさせたわ。経験したことのなかった包容に戸惑いつつも、オルフェノクといる時でしか味わえなかった幸せな感覚を、彼は堪能した。世界で一番富めた気がしてならなかったわ。そうよ、素晴らしかったこれから降りることはできなかったし、仮に何がそうし得たというのかしら・・・。
城下町の醜聞はこう囁いたわ。
『イルソドマ城の若様が何と男を囲っている!しかも居候していた浮浪者だ!』
きわどい冗談だと苦笑いしてみせたものの、真実とんでもなかった噂を耳にした人々は眉をひそめた。男が――しかもマウリシオのような立派な貴公子が!――男と――しかもうだつが上がらない物乞いと!――通じている!蒼天霹靂、開いた口が塞がらないとは、正にこのことだったわね。おやまあ、王子はどうかされたのではないか!まず身分も異なれば、これが肝心なところで、神様が禁じているではないか!しかるべき許婚と、嘱望された前途もあった身の上での乱心とは!まだ情婦ならともかく、よりにもよって男の愛人とはね!見損なったわ!彼は愚かにも自分を見誤ったばかりか、神様を筆頭に領民全員を裏切ったのよ。
幾ら出所も定かじゃなかった風の便りとはいえ、火のない所に煙は立たぬと言ったもので、冷めた町民たちが感じていたマウリシオへの是認が、一気に否認へと反転したわ。男色!ああ、口に出すのもおぞましい!どうして上品な貴人だったにもかかわらず、御曹司は神様とその言いつけに背くことができたのだろうか?それこそ地獄も恐れなかった、育ちがよっぽど悪かった救いようのなかった人間が犯したものだろうに。・・・ええそうよ、とっても重たかった罪をね。
悪魔がそそのかしたんじゃないかと弁護した人もいたけれど、神父は異端を頑として認めなかったわ。それどころか、善い行いをした人々は、魂の救済が約束されるとも説いたの。一口に善いと言っても、それは決して彼らのためだけじゃなくて、異端者本人にとっても善いのだと教えたわ。町の誰よりも神様の教えに近かった男の弁舌が揮われたのだもの、正義を愛した領民たちは、すっかりその気になったわ。
無知で放埓な平民をわざわざ御すような由緒正しい貴族だとしても、堕落は堕落よ。過ちは直さねばならなかったし、富める者も貧しき者も、誰しも神様の御前で言い逃れはできないわ。濡れ衣を証明する申し立ては開かれるかもしれないけど、一度ついた汚名はそうそう拭えないし、とにかく神と正義の名のもとに断罪したかったのよ。一種の行事ね。平穏で進歩的で繁栄だろうと、荒廃で時代遅れで没落だろうと、新旧ひっくるめたどんな時代だって、男たちはあやふやは嫌いなの。正否をはっきりしたいのよ。何事も必ず裏表があるようにね。例えばいっぱしの創作家を気取った男が、やれ表現だとか作品だとか謳って、幼気な女の子を裸にしたりだとか、婚約者を身ごもらせておいて、他の女へ乗り換えたりするような薄情者なんかのようにね。
神様と正義。この場合の水と油はよく馴染み、二つの意味で真っ赤な血を流したわ。一つは刑罰を受けた咎人が流した血。もう一つは、まかり通ってはいけなかった悪と敵対した者たちを駆り立てた荒ぶる血。獰猛で野蛮なそれは堪らなく疼き、憤怒の狩りを引き起こした。心血注いだ田畑を荒らした獲物は、正当に狩られる理由があったわ。暴虐と凄惨を極めた血は、流れる血でしか鎮まらなかったの。
月が綺麗だった晩のことよ。集った男たちが手にした松明が、夜の帳が降り切った城下町を明るく照らしていたわ。赤々と燃えた火は熱く、ゆらゆらと妖しく揺らめく中、決然とした残酷な顔が暗闇に浮かび上がった。たった今から、目に余る腫れものを除きに行く彼らの方が悪く見えたわ。内発する興奮が隠せなかった町人たちの目つきはぎらつき、絶対に獲物を逃がさなかった狩人の、厳しく鋭い双眼そのものだった。慈愛を呟いていた口は一転して、災いあれと声高に叫んでいたわ。
結局その後、恐ろしい暴徒を迎えたイルソドマ城に何があったかは、誰も詳しく知らないんだけれども、その場で王子と乞食が殺されたと言う人もいれば、何とか逃げ延びたと言う人もいたわね・・・。どう、結構なお話だったでしょう?ほら、アタシの言った通りね、出口まで来たわよ」
当初おじいさんはとんぼ返りを嫌がったものの、性根の良かったお年寄りの親切(といっても、始めの方はぶつくさと呟いていた)と、挟んだ休憩ぐらいで足りた、ロバたちの誉れ高い持久力のおかげで、道中一言も口を利かなかった、あるいは利けなかった抜け殻と化した私が、カナンの土を踏んだ。そんなショックを受けた聖人の女を、励ましたくても励ませなかった、エフィとケットの妖精姉弟は、運転手の機嫌取りに従った。そんな功労もあってか、見かねたジュネ爺さんは、哀れな悲愴っぽいものが漂う私たちを、彼の家へ招いてくれた。
居間でもあった土間に、この褐色を帯びた生き物たちが寝起きする一画を設けた、質素な二階建ての家は下宿も兼ねていた。迎えてくれた御者の古女房は、間借り人でも取らないとやっていけないと、呆れと冗談が半分ずつにこぼした。子供のいなかった夫婦は仲睦まじく、互いに冷やかし合いながら、終わりに近づいた人生を穏やかに過ごしていた。大したものは何もないがと謙遜する老女は、温かで滋味深い食事を、流れ着いた旅人に振る舞った。役目を終えたロバも腰を落ち着け、ご褒美に刈りたての草を貰った。私たちが席に着く傍ら、立った夫人は階段の薄暗がりへ声をかけた。頭上でドアの開閉が聴こえたとたん、体重を乗せた木製の段がきしむ音と、やや急いだ足音が次第に大きく響き、一人の若者が姿を現した。隣にいた夫人がご飯ですよと話しかけると、下宿人は振り向いた後、席に着いた。皿が運ばれ、礼を言った彼は、ジュネ爺さんの帰還を認めた。
「ジュネさん、お帰り。今度の運行はどうだった?」
「何、いつもと変わらんよ、ペプチド。なかなか満員御礼とはいかんな、ひゃひゃひゃ!勉強ははかどっとるかい?」
「お客さん?」
「そうじゃよ。ラスブールの森で拾ったら、インノケンティウス・アルアル村へ行きたいと言ってな」
「ふーん・・・。向こうで一泊しなかったの?明日会うものだと思っていたよ」
「おお、わしもそう言ったものじゃが、今すぐに発たねばならんと言ってな。大急ぎで早馬を進めたんじゃよ」
「カナンに用が?それとも立ち寄っただけ?」
「さあのう。わしゃ知らん。あんたが直接聞くといい」
と、家主に言われた間借り人は自己紹介を始めた。
「やあ。俺はペプチド。この家で下宿している学生だ。カナンは初めてかい?俺はドレドの出身だけど、暮らしやすくていい街だよ、ここは。どこから来たの?」
「ロック・マッシュルームよ」
と、特に深くも考えず、エフィが答えたら、ペプチドは驚きを見せた。
「へえ!あんなところに人が住んでいたんだ!初めて聞いたよ。険しいあそこは岩壁が切り立って、天を衝く塔みたいに、真っ直ぐにそびえているらしいからね。確か高所と崖を好む鳥が、巣をつくるぐらいしか立ち入らないって聞いたよ」
「・・・あーっと、そこから近くの村よ」
と、エフィは付け足した。学生は言葉を続けた。
「それじゃあ君たちは移動してきたわけだけど、何の旅なんだい?どこかを目指しているのかい?」
「ええと――・・・」
と、言い淀むエフィは困ったように答えあぐねた。不確かな彼女は、弟のエルフに水色の眼差しで訊いた。
(まさか本当に、キミカは一人で魔人の元へ行くつもり?)
(そんな、無謀も無謀だぜ、姉ちゃん!)
と、あきれた様子のケットも、緑色をした目つきで返した。
(・・・そうよね・・・)
「・・・見聞を広めるために、あちこちと旅しているの。モンスターにも遭遇したわ」
と、最終的にエフィが言えば、ペプチドは興味を示した。
「いいなあ!――っと、それは大変だったね。どうやって切り抜けたんだい?」
冒険にあこがれていた彼は、これまでの体験の数々を耳にすると、魔物の容姿や戦闘について、根掘り葉掘りと質問した。ああ、晴れた青空の下、果てしなく広がる緑の野原で、醜悪で巨大なトロールと対峙する、勇ましい冒険者としての自分!さっきまで乗っていた馬車が狙われ、己の奮闘なしには、まず助からないだろう乗客たち!マントが風に翻り、張り詰めた緊張と重圧が、ピリピリと肩のあたりにみなぎる。そして、互角とも言えたにらみ合いも十分に、突如として甚大な拳が襲い掛かる――!沼地に潜む恐ろしい怪物は、人々が丹精込めて世話をした田畑を荒らし、すっかり作物をだめにしてしまうから、お願いされた彼は討伐へ赴く。しかし村の可憐な娘が、行こうとする彼を必死に引き留めるが、義憤に燃えた彼は仕方なしに振り払う・・・。毒を持ったモンスターは手ごわく、不思議な妖精が授けてくれた盾がなかったら、きっと泥の底へ沈んでいたのは彼だったろう。おお、果敢な冒険者だった彼の手のひらに収まるのは、難しい書物や羽ペンなどではなく、頑丈な馬の匂いがたっぷりとしみ込んだ手綱と、光る武器の取っ手!定まった時間に決められたところへ足を運ぶ代わりに、西日が沈む夕暮れ時に水浴びをし、満天の星が瞬く宵闇の中目覚め、東の水平線が茜色に染まる明け方に眠り、太陽の照りつく真昼に歩く、それは全くもって、彼の完全なる自由意思によるのだ!そうだ、向かい合う彼が相手にするのは、吹けば飛んでしまうようなひ弱な教授ではなく、激しく競えるような好敵手!華々しい勝利、輝かしい栄光、沸き上がる興奮!勇胆を意味した冒険は、絶え間ない挑戦の連続であり、溢れんばかりの夢がいっぱいだ!
食事がつつがなく済むと、これから仲間と会うのだが、ぜひとも刺激的な紀行を、彼らにも共有してやってほしいと、ペプチドは言った。恐らく意気消沈の私を元気づけるためにも、新しい出会いが望ましいと考えたエルフ姉弟は、申し出を了承した。
ジュネ爺さんと夫人に別れを告げ、家を後にした私たちは、ペプチドと連れ立ち、街を歩いた。真面目で誠実そうな学生は、目立たない色合いのチュニックとホーゼを身に付け、行きつけの居酒屋へと歩みを寄せた。綺麗な小花の咲いた生け垣に囲まれた店は、屋外の席もあり、ほとんどがすでに客で占められていた。日は沈みかけ、次々と吊るしたカンテラに火が灯された。
集った学生たちはいい聞き手だった。彼らはロミで出くわした盗賊の急襲に驚き、ラスブールの森で起こったハイジャックを気の毒がり、小山ほどもあったトロールの拳固に背筋を凍らし、出会いと別れを羨ましがり、もっと冒険譚を聞きたがった。学問が与えてくれない、自力で危機を乗り越える苦労と悦びが、そこには実在し、怪しい世界は明らかに青年たちを魅了した。誰かの問いに誰かが口を挟み、友の宣言をからかい、どこそこでなにがしが出没した噂を教えた学友たちは、講堂のとある教室では、未解決の問題を口惜しがるあまり、死んでも死にきれなかった数学者の幽霊がよく出ては、ぶつぶつと独り言ちながら、ひたすら壁に数式をつづっているとか、どうやら占星術では飽き足らず、降霊術にはまったテュルプ教授は、きっと悪魔を口寄せてしまったから、がらりと人が変わったのだと、怪奇そのものに勉学以上の情熱を傾けていた。するとそのうち、この世のどこかにある摩訶不思議な井戸が話題に上がり、お気楽者たちの一人が説明した。
パヴェルという名の学生は、生態学の講義をとっており、普段通り教授と他数名の学生たちと伴った彼が、野外調査へ出かけた時のことだった。大学にほど近い緑の中をそぞろ歩き、何か興味深い生き物を見つけた教授が、その場で立ち止まり、周りに集まった彼らに講釈を述べる授業だった。蛇足かもしれないが、それこそちゃっかりした奴なんかは、これを採収のための時間と決めて、地面に落ちたクリやキノコなんかを拾っていたそうだ。それからこれも、彼が話したいこととは全然関係ないが、教授は以下のように言ったそうだ。その時彼らが注目していた薬草に留まった蜂は、多分大きさからいって働きバチであり、花粉を食べに飛んできた虫は、花から花へと移動を繰り返すが、その実植物の受粉を助ける役割を担っており、ほんの小さな昆虫たちのおかげで、確実に草花の生態が整うのだと。そして偶然そこへ、一匹の蝶がひらひらと舞ってきたら、この美しい羽虫の驚くべき生態に魅せられた教授は、彼または彼女ほど、劇的な生涯を送るものはいないと言ったそうだ。第一に、卵を破った毛虫は、産み落ちた葉を食べて育つ。厳密には食べ物は一様ではない。時と共に成長した毛虫は、数回に及ぶ脱皮をし、鳥のフンのような見た目から、色鮮やかな斑点が目玉のように顕著な、丸々と太った芋虫となる。次いで運よく捕食から免れたものは、適した頃合い――天候の落ち着いた夜中――を測り、最後の脱皮の末にさなぎと化す。
「おい、とっとと井戸に移れよ」。じれた仲間に割り込まれたパヴェルは、以上のような学びをしていた最中、図らずもそれを発見したのだと言った。緑地にぽつんとあった過去の遺物は、辺りに枯れ葉だとか落ち葉がたくさん積もり、格別彼の注意と関心を引くことは、何らなかったものの、穴を覗き込むのもまた生態だろうか、何も期待していなかった彼は、井戸の中を何とはなしに覗いた。やはり深く暗い水たまりと対面した彼は、此度は反響を楽しもうと、縦穴に向かって言葉を発した。延々と壁にぶつかり続けた音が響き渡り、追々消えていった。井戸に落としたはずの声音が立ち去ったその時だった。真っ暗だった内側から何かがぼそっと囁いた。間違いなく声だったそれは言葉でもあった。パヴェルはびっくりした。井戸が喋った!しかしとはいえ、なんて言ったのだろう?正確に聞き取りたかった彼はもう一度、穴に向かって問いかけた。
「来なさい」――。囁く井戸は簡潔に命じた。来なさい!まさか下まで降りて来いと言っているのではないだろう!困惑と不可能を伝える台詞が、唇まで出かかった矢先、折しも離れた彼を求めた教授に呼ばれたパヴェルは、後ろ髪を厳しく引かれる思いで、この奇妙な井戸に背を向けた。風の便りで聞いた魔法の井戸はどれも、光ったり、煙が上ったり、妖精が縁で踊ったりするようなのだが、話すなんて!だがしかしながら残念なことに、声が聴こえたのはあれ一度きりのことで、結局のところ、忘れ去られた井戸はただの井戸に過ぎなかった。今でも暇つぶしがてら、たまに訪れてみるものの、やっぱり同じことだった。
一体誰が喋ったのだろうと、盛り上がった学生たちは憶測を交わした。飛び込んでくる諸々を聞き流しながら私は、漠然とした心の内で言い返していた。いいや決まっているだろう、もちろんそれは――・・・
「ウブリエットだわ」
と、気が付いた私はぽつりと漏らした。皆のキョトンとした視線が素早く注がれたが、私は構わなかった。どのみちウブリエットは、「誰か」ではなかったのだから。ああ、思い出すことができて良かった!これでネルの元へ迅速に駆けつけられる!私にとって踏んだり蹴ったりだった冒険はもうおしまい。そもそもの話、挫けた勇者ジンを説得するためだけに旅してきた私は、向かうところ敵なしの、強い魔物を倒すような実力の持ち主ではないし、あの女みたいにハプニングに慣れたいとも思わない。同じ試練でも、二回目の人生を送っている私は、かけがえのない友と自由な世界を、許しがたい悪の手から逃がす試練と、向き合わねばならない。想像するのもおぞましい支配や征服を成し遂げ、私たちを意のままに操ろうなんて大それたことは、言語道断であり、なおかつ誤っている。報われないオタクは正義をこよなく愛するが、ネルと一緒に逃げ切れるかどうかが、私の目下の要点なのだ。したがって、豚が飛ぶ空から隕石が降ってこようと、雨あられが逆さに降ろうと、天地がひっくり返ろうと、たとえ何があろうと、パヴェルは絶対に井戸の在り処を吐かなければいけなかったし、また事実彼は私の勢いに気圧された。
夜の帳が差し掛かり、星の瞬きが輝き出した頃に私たちは着いた。黒と紺と紫色が混じった暗闇を透かして、紛うことなき井戸が目の前にあった。反対に、借りたカンテラの温かい橙色の明かりが、突っ立った私たちをぼうっと照らしていた。もう間もなくだった漆黒に際し、ぺちゃくちゃと無駄口を叩く者は一人もいなかった。この至って何の変哲もなかった井戸について、一体全体何を知っているのだろうかと、好奇的な疑問を解く以外に、およそ念頭がなかったのだろう。しかし私は分かっていた。これが扉だったことを。
かざしたランプの灯を頼りに覗き込めば、銘々は吸い込まれるような奈落を認めた。恐らく傍から見れば、複数の人物らが、揃いに揃って井戸の中を覗き込んでいる、甚だ不可解な光景だったろうが、来いと囁かれるまでもなく、私は割かししっかりした縄梯子を伝い始め、深く真っ暗な下へ降りていった。誰もあえて準じようとはせず、光の届かない闇に紛れていく私を、物好きな奴だと見送った。まだ声は聞こえなかったものの、固く編んだ縄のしなる音や、感覚だけを手掛かりに行く私の息遣いが、長い筒に響いた。時々見上げれば、あんず色に浮かび上がった出入口は遠ざかり、小さくなったようだった。やがて限界を迎えた光は途絶え、頭のてっぺんからつま先まで、途方もない暗黒が私の全身を包み込んだ。恐怖と臆病を抑え込んだ私は、あるとも知れなかった地下まで、半永久とも思えた時を一心に下り続けた。向かう私を分かってのことか、未だ声は「来なさい」と囁かなかった。
久しぶりに着地した足の裏が、ちょっとした違和感と安心を、私にもたらした。ちっぽけなかがり火が、通じたトンネルの奥で燃えていた。そう、ウブリエットは地下通路――。見かけは単なる井戸なのだが、秘密の抜け穴は、この世界の随所に点在し、別の場所へ難なく移動できるのだ。急いでいる時や、モンスターと遭遇したくない状況のプレイヤーにとって、これほどありがたいものはなかったのだけれど、パヴェルが言ったように、ひっそりと隠れた在り処は、人知れなかった。つくづく本物だった不気味を噛みしめながら、恐々とした私は、慎重で不確かな一歩を踏み出した。
鈍かった足取りでゆっくりと進むにつれ、次第に開けてきた視界をもとに、空間に立っていたそれを認識するに至った。
「来たわね」
と、向かい合ったそれは、あたかも予想が的中したかのように、やや興奮気味に言った。見るからに人間の男だったそれは、影がなかった。当たり前にうろたえる私をよそに、男は高調した言葉を続けた。
「うふっ。ボーヤ、アタシ待っていたのよ、ずうっと。あんたがやっと、このアタシの呼びかけに気づいてから、今か今かと首を長~くして。・・・・・・あん?何よ、アンタ。あらやだ、女じゃな~い!うっそ~、最悪~!」
影がなかった理由はさておき、どうやら彼が案内人らしい。以前から私が敬愛してやまなかった画家、アルブレヒト・デューラーに似ていた彼は、細かい襞の寄ったシュミーズの上から、ピッタリとしたダブレットを纏い、腰までしかなかった服の裾から、余った肌着がはみ出ていた。片脚ずつで色の違ったホーゼがピタッと覆い、長い脚の輪郭をくっきりと描いた。足の甲を見せた靴は、上履きみたいだった。
「はあ!まずアンタなんか、お呼びでなかったと言いたいところだけど、とどのつまり、これがアタシの役割なのよね。あーあ。ちぇっ。・・・いいわ、それで?どこへ出たいの?」
しまった、うっかりしていた!ネルを捕らえた魔人の居場所は!
「え、ええっと・・・」
「何アンタ。いくら何でも、アタシは知らないところは導けないわよ」
「―――」
どうしたものだろうか。私のドジ!どうしてエフィから聞き出しておかなかったのだろうか!バカバカバカ!機会はいくらでもあったはずなのに!ああ本当にもう!
「キミカー?」
と、聞き覚えのあったメゾソプラノが、背後の通路から響いた。おお、よもや!願ってもなかったことを願った私は、振り返った。万歳!エフィとケットだ!
「まさか本当に行くとは思わなかったわ・・・。井戸の中に地下通路があったのね」
と、意外な事実を発見した女エルフは、驚嘆した。
「なあ、前もって教えてくれればよかったのにな!」
と、もう一人のエルフも、初めての地底に興味津々だった。
「あら!」
と、感嘆した案内人のスグリのような目が、現れたケットを入れたとたん、色が一瞬で変わった。きっと訪問者が若い青年だったなら、パヴェルでなくともよかった彼は、きゃぴきゃぴした口を開いた。
「きゃっ、いらっしゃ~い、ボーヤ。地下の国へようこそ。アタシはアリス。歓迎するわ」
えこひいきだ!鬱憤が私を責め苛む一方、鼻白んだケットは、理解しがたいふうに顔をしかめてから、こっそりと姉に耳打ちした。
「どう見てもアリスって面じゃねえよな、このおっさん?」
「聞き捨てならないわね!ちょっと、ねえ!アタシは確かに、『おっさん』かもしれないけれど、実際の中身は傷つきやすい、それは繊細な乙女なの!見た目だけで人を判断するのはやめて頂戴」
「ねえ。ネルを攫った魔人の居所が要るの。アリスさんが出口まで連れて行ってくれるから」
と、横から私が口を挟むと、エフィは言った。
「迷いの森よ。範囲が広いのだけれど、大丈夫かしら」
「ふん、地下の国のアリスを見くびらないでちょうだい。こちとらベテラン案内役なの。いいわ、こっちよ。ついて来なさい」
さっと傾げた頭で示すと、アリスと名乗ったデューラーは、三つのトンネルがあったうちの一本を選んだ。
地図も何もなしに、松明がほんのりと照らす順路をたどった案内人は、途切れなかった通路を右左と曲がりつつ、すいすいと進んだ。まるで張り巡らされた迷路だ。一列になった私たちの影が重なり合ったが、先頭を行くアリスの影は映らなかった。日頃から、努めて意識したこともなかったのに、ゆらゆらと揺らめく赤い火が生み出した影が、しばしば目に付いた。暗がりに溶け込む陰影は、人工照明に浮かび上がるものよりも、ずっと濃かった。深い味わいが何とも言えなかった。洞窟の中、寄り集まった人々が囲んだ焚火が照らした、原始の懐かしいそれだった。古と共にあった影は、恒久の命をも偲ばせたものだが、それがなかった男はどうだろう?不思議で済まなかった当惑が、無防備な私を殴り込んだ。アリスはウブリエットの案内役だが、一体どういういきさつでなったのだろうか。もし生まれも育ちも地下で、ひょっとして暮らしているのだとしたら、それこそモグラ以外の動物を、衝撃を受けた私は初めて学んだろう。さて、どうやって切り出したものだろうか!
「あれ、何で影がないの?」
と、ちょうど気が付いたケットが、何の気なしに指摘したら、悩んでいた私は呆気にとられた。立ち止まったアリスは振り向くと、言った。
「うふ、よく気が付いたわね。感心するわよ、ボーヤ。でもね、レディの外見について、とやかく言うものじゃないの。お分かり?」
「さあね。レディに会ったことがないから」
「それじゃあいいお勉強になったわね、うふふ」
と、あっさりと言い返せば、向き直ったアリスは歩みを再開した。それからしばしの間を置いた後、彼はまたしても口を開いた。
「・・・いいわ、教えてあげる。答えは簡単。・・・アタシは罪人だったの」
ほの暗いトンネルを進みながら、アリスは辛い過去を語った。
「もう気づいているかもしれないけれど、男として生まれたアタシは、男が好きだった。もちろん今でもそうよ。どうして人が恋に落ちるか分からないように、たまたま同じ性別だった人を愛した理由なんてなかったわ。自然とアタシは彼らに惹かれたの。でも、そんな男はアタシの周りに、一人もいなかったけれど、自分を恥じてはいなかった。みんなは頭がおかしい、アタシは呪われている、恥を知れって、口をそろえて非難したけど、なぜかしら。いつでも正しかった愛は、身分や国境を越えるものだとしたら、必然的に何物をも越えるはずだわ。人間を創らなきゃいけなかったから、気まぐれな神様は創られたんじゃない。もともとアタシたちは、殖える必要がなかったのよ。誰が彼と戯れようが、迷惑さえかけなければ、それでよかったじゃない?ええ、でもね。困ったことに、人の感情って裏表があるものなの。それは例えるならば、好感が表なら、裏が嫌悪というふうにね。そして、何が気分をひっくり返すかは、決して誰も説明できないの。
天国へ上がったと思ったら、地獄へ真っ逆さまに堕ちたわ。崇高な神を冒涜したと、アタシは異端として裁かれた。全く身に覚えのなかった罪を背負って、アタシは牢屋に入れられた。汚らわしい咎人としてみなされた不名誉に耐えながら、アタシは恩赦を待った。いちいち数えるのもうんざりするくらいの月日が経って、本当に刑務所を出た時は、赦されたんだと思ったわ。だけど看守は、使っていなかった古井戸の中へ入れと言ったわ。今日からアタシはここに収監されるのだとも。奴の言葉が信じられなかったアタシは、耳を疑ったわ。それからできるだけ抵抗したけど、結局言うとおりにするほかなかった。深かった穴の底は真っ暗で、じめじめと湿って、腕が真横に伸ばせなかったくらいに狭かった。まだ牢獄の方がはるかにましだったわ。アタシはこれ以上ない絶望に苦しんだ。綱に括り付けた食べ物が降りてきたから、誰とも会わないし、誰とも話さなかった。アタシは一人ぼっちで、移り変わるちっぽけな空だけを見ていたわ。そのうち食べ物が――腐っていたりカビが生えていたりして、ほとんど食べれやしなかったけれど――投げ込まれるようになって、最後には何も運ばれなくなったわ。
降りこむ雨や雪に震えたアタシは飢え、やせ衰え、病気になった。ごみ箱に捨てられたぼろ雑巾みたいに、アタシは忘れ去られた。惨めだったわ。死ねるものなら死にたかった。アタシを迫害した世界を激しく憎み、心の底から呪ったわ。かすんでいく意識の前に、安らかな死を心待ちにすることだけが、唯一の慰めだったの。そして次にアタシの目が開いた時、あまりにもそれが待ち遠しかったものだから、思わず神様に罵ったわ。
『ええい、くそったれ!どうして幸せな眠りに就かせてくれなかったの!』
って。そこは天国なんかじゃなかったけど、何故だかアタシは地下にいた。久方ぶりに見た火がまぶしかったけれど、そっとかざした手で、熱さを感じないではいられなかった。そしてその時に、映らなかった影に気が付いたけども、もうアタシは何も驚かなかったし、怖くもなかった。病に侵された身体は不思議と軽く、痛くもなかった。喉の渇きも空腹も覚えなかった。誰かが呼んでいるような気がして、アタシは薄暗いトンネルを行った。
行き止まりまで進んだら、呼び声は、壁の向こう側からしていたの。そんな馬鹿げたこと、到底ありっこないと分かっていたけれども、踏み出した一歩が、壁をすり抜けたわ。そこは正に楽園だった。見るも鮮やかな色で溢れ返った花畑が、視界に及ぶ限りずっと広がり、虹のかかった滝なんかもあった。晴れた青空は美しく澄み渡り、綺麗な鳥たちが、のびのびと飛んでいたわ。清々しい風が、みずみずしい新緑の梢を揺らし、アタシの頬を心地よく撫でた。ふかふかと真っ白な雲の下、薄絹を纏ったその女は、滝つぼを縁取った岩に腰かけ、飛び散るしぶきを浴びていたの。優しく微笑んだ彼女は、アタシに向かって手招きしたわ。それからアタシがやって来たら、彼女はこう言ったわ。
『肉体が朽ちてしまったから、新しいものと取り替えました。あなたは亡くなりましたが、魂は私と共にあります』
自棄になったアタシは訴えた。どうして放っておいてくれなかったの。何故死んだ身体と一緒に、記憶や意識を消し去らなかったのか、とね。
『アリス、あなたに頼みたいことがあります』
その女は言ったわ。彼女は、アタシが付けたアタシの名前を知っていた。
『地下の国で、案内人となってもらいたいのです』
言い分が飲み込めなかったアタシが、返事に詰まっていたら、彼女は穏やかな言葉を続けたわ。
『訪れる者が目指す場所を導くのです。彼らだけでは、右も左も、当てずっぽうさえも利きません。あなたしかできないのです』
その時感じたアタシの気持ち、きっとアンタたちには、一生かかっても分からないでしょうね。厄介者だったネズミのように、ずっと日陰の下で生きてきたのに、死んでからも尚、暗い地底に閉じ込められるなんて!怒りと屈辱の身震いがしたけど、アタシは何も言えなかった。今更傷ついたなんて言うのは、おこがましい話だったから。でも、まるで心を見透かしたように、その女は静かに言ったの。
『ここはあなたの庭です。自由にお過ごしなさい。きっと気に入ることでしょう』
ええ。煌めきと彩りで満ち溢れた素晴らしいところは、地上でも滅多になかったから、明らかに、彼女の意見を疑う余地なんてなかったわ。アタシを軽蔑したり、気味悪がったりするような人もなく、そこは全くもって、望ましい安寧を約束していたの。
数奇な最期を遂げたアタシは、どうやら死んだようなのだけれど、腑に落ちなかった。息絶えたのにおかしな話だけど、実感がなかったのよ。燦々と輝くお日様が、見上げたアタシの上にいた。どうでもいい気がしたわ。アタシは光になったの。だからこそ、影が浮かばないのだとも考えたわ。そして目線を戻したら、その女は、座っていた岩から消えていた。さえずる鳥、ざわめく木、流れ落ちる水、触れ合う草、舞う羽虫と、快い静けさだけが、その場に残っていたの・・・」
私たちは言葉を失っていた。壮絶な人生はもとい、彼は死人だったとは!ゲームのキャラクターといえども、本人の口から聞いた話は、どうしたって同情せずにはいられなかった。走る動揺で震撼としていると、笑ったアリスは、明るい口調で言った。
「もういやね、お葬式みたいにしんみりしちゃって!いい、訊かれたからアタシは答えただけよ?答えは『分からない』。だけど、アタシは大して気にしてやしないわ。・・・ちょっと、ねえ!何とか言ったらどうなの!」
「――あ、あとどれくらいで着きそうなの、アリス?」
と、心の平安を欠いたエフィが、どぎまぎと問うた。
「安心なさい。ちゃんと向かっているから。ええと、迷いの森だったかしら?一つ知りたいのだけれど、わざわざ迷子になってどうするの?」
「頭から決めつけるのは良くないと思うぜ、お――・・・っと。アリス。忘れたのか?『見かけだけで人を判断してくれるな』、だろ?」
と、ケットが生意気に返したら、嬉しい案内役は、やり取りを楽しんだ。
「一本取られたわね、うふっ。見た目によらず頭の回る子は好きよ。そうそう、アンタたちお話は好き?退屈しのぎに聞かせてあげる。面白いわよ。一風変わった愛の物語なのだけれど、確実に惹きこまれるから。出口まであっという間だったと思えるはずよ・・・。もし聞きたくなければ、耳を塞ぐなり何なりしてちょうだい。準備はいいかしら?とはいえ整うのを待つほど、生憎アタシは気が長くないのだけれど・・・。
昔々のことよ。常に争いが絶えない動乱の時代だった。権力の座を競う継承戦争、豊富な資源と領土を巡る侵略戦争、教義の優劣性を示す宗教戦争と、戦争と名がつくものは何であれ、男たちはお構いなしに明け暮れた。暴力と血がすべてだったから、むごたらしい公開処刑の時には、見物人たちの血が騒いだそうよ。異端者、魔女と魔法使い、反逆者、人殺しが殴られ、蹴られ、石を投げられ、唾を吐かれた末に炙られ、宙にぶら下がった・・・。自死よりも悪い罪を犯した彼らは、魂の救済などはもってのほか、到底見込めるはずもなく、地獄へ直行するのに決まっていたのだから。疑心暗鬼になった人々の心は、まるで侘しい冬の曇天のように鬱屈した。不安定な情勢が、彼らの不安に一層拍車をかけ、どうしようもなかった奇人変人を貶めることで、何とか憂さを晴らしたの。全知全能だった神様が仰った言葉が、絶対の指針であり、忠誠を誓わないどころか、彼の考えに背くような不届き者の人生は、必ずや破滅へ向かうものだった。正義という名のもとに、市民はお互いを見張ったわ。立派な宮廷と荘厳な寺院の下で、守るべき秩序を乱してはならなかった。たとえ圧政を敷こうが、税金をかすめ取ろうが、足並みさえそろっていれば、強固な結束さえ貫き通せば、低く垂れこめた暗雲の間から、顔を覗かせた太陽が射しこむと、大変な時期を生きた彼らは、信じていたの。
小国を治める家に生まれたマウリシオは、若いながらも自信に満ち溢れた、血気盛んな青年だった。しなやかな筋肉が薄くついた細身で、上品な顔立ちをしていたようよ。淡い茶色をした柔らかい髪と、人懐こい飴色の瞳が、優しい気立てを物語り、情に脆いところがあった彼は、人望も厚かったわ。武芸に秀で、詩歌に慣れ親しみ、言い伝えを愛した王子は、一片の曇りもなかった自慢の息子だった。城に住んだマウリシオは学者に習い、戦闘のイロハを学んだ。修業のために奉公に出された時は、馬の世話をし、貴婦人と接し、戦地へ赴いたわ。近習としてよく仕え、勤勉で、信心深く、節度を重んじた若者は、誉ある騎士道へまい進した。おごり高ぶらず、仲間を気遣い、礼儀を尽くした彼を、正当に評価しない者は、誰一人としていなかった。健康的な貴公子は、身のこなしが軽く、馬を素早く駆らせた暁には、逃げ足の速かった獲物を射止めたその雄姿が、淑女たちの賞賛の的だったわ。
マウリシオがその男と初めて会った時、みすぼらしい服装をしていた彼は、乞食だと思ったの。正しくは、落ちぶれた農夫だったのだけれど、土色に日焼けした男は裸足で、ぼろぼろのズボンを穿き、胸がはだけたシャツを着ていたわ。一切の持ち物を身に付けておらず、着の身着のままだった彼は、街道をとぼとぼと歩いていた。爽やかな青空の下、見苦しい物乞いが、脇を行く騎士を見上げたら、無視できなかった貴公子は、馬を止めたわ。
『やあ、こんにちは。いいお天気ですね。何か困ったことはありませんか?』
マウリシオは馬上から尋ねたわ。彼はてっきり、苦い顔つきをしたまま、無言で汚れた手を差し出すか、あるいは、不愛想な『旦那、お恵みを』を予期していたのだけれど、じっと見つめ返すばかりだったから、拍子抜けしたわ。よく見れば、長身だった男は、宮廷の女どもが色めき立っても過言でないくらいの美男で、頑丈な体つきをしていたわ。盛り上がった筋肉、広い肩幅、太い喉首、引き締まった腰が目に付き、ただの乞食にしておくのは、惜しいとさえ思えたの。ちらっと視線を外した男は言ったわ。
『ハハ、俺も焼きが回ったもんだ。物乞いと見間違われるとはな』
自嘲が滲んだ台詞のせいで、マウリシオの明晰な頭脳が混乱したわ。一体こいつは何を言っているのだろう?どこからどう見ても、卑しい浮浪者そのものではないか!しかも、焼きが回るとはどういうことなのだろうか。だけども大抵の乞食だったら、田舎臭い訛りや、でたらめな語順に文法と、品性に欠けた話し方をしたものなのに、男はすらすらと言いのけたわ。生まれつきの貴族だった余裕から、物乞いのらしからぬ態度を見逃したマウリシオは、親切な言葉を続けたわ。
『失礼。そんなつもりはなかったんですが・・・。どちらまでお出かけですか』
『さあな。どこへ行こうが俺の勝手だし、通りすがりのあんたには何の関係もないはずだが、行先を知りたがるということは、あんたはここらの人間か』
おやまあ、ろくでなしのくせして、何とふてぶてしい男だろう!生意気な口を利くような、身分をわきまえなかった召使を雇ったことはなかったし、はたまた貴人といえども、家名に相応しい立ち居振る舞いが求められた世界では、彼は荒々しいだけでは、一人前として認められない事実を知っていたマウリシオは、壁にぶち当たった気がしたわ。無色透明だった壁にぶつかった彼は驚き、困惑し、やるせなかった憤慨を覚えたわ。だけども賢明だった王子は、取るに足らなかった、浮浪者の横柄を受け流したの。
『・・・ええ、まあ。あと半里も進めば、一帯を治めるイルソドマ城が見えてきます。僕はそこを目指しているんです』
『城か。厄介になるには申し分ないな。あんたと会ったのも何かの縁だ。話をつけておいてくれ』
マウリシオは絶句したわ。何て憎らしい畜生なの!落ちるところまで落ちたら、人は見ず知らずの他人に、ここまで図々しくなれたものなのかしら!せめて領民だったならまだしも、どこから来たともしれなかった乞食を受け入れるほど、上流階級は、甘っちょろいとでも考えたのかしら!だけども彼は、誠意をもって答えたわ。
『できる限りのことはしますが、門前払いされたとしても僕を恨まないでください。城はあなたたち全員を養えるわけではないんです』
『いいから行けよ。純血馬を飼えるくらいなんだ、一人くらい大したことないだろう?』
と、馬の尻をぞんざいに叩きながら男が言えば、むっとしたマウリシオは、馬を駆らせたわ。言い返した挙句、彼の愛馬を侮辱したとは!これで門戸が開かれると思ったら、大間違いだ!街道を疾駆する馬上で、王子は確かに、包み隠さない報告を、むしゃくしゃした胸に誓ったわ・・・。
城下町は小ぢんまりした家が建ち並び、生真面目で敬虔な住民たちは、束の間の安息の内に暮らしていた。町裾を紺碧の川が流れ、豊かな森林が占めた景観は絵のようで、とんがり帽子を頂いたイルソドマ城は、町の象徴だったわ。臣民は城主一家のために働き、施政者は外敵から町を守る務めがあったの。重要な地位にもかかわらず、気さくだった家族は評判がよく、町の者たちの信頼を得ていた。祭りのときなど、進んで参加した彼らが同じ食卓に着くと、親しみが持てたわ。一緒に歌い、踊り、酔っぱらえば、身分なんてものは存在しなかったの。唯一の嫡男だったマウリシオは賢いし、気が利くし、老若男女問わず、親身になって話を聞いてくれたものだから、町の娘たちが、ダンスの相手を競うのも無理もなかったわ。お話が上手だった彼は、外国での見聞を面白おかしく言って聞かせ、場を和ませたり、盛り上げたりしたものだった。女たちは人気者だった貴公子の妻を夢見ては、自分の夫が目に入る度に幻滅したそうよ。そんな中でも、彼の絶大なる信奉者が一人いたの。彼の妹――エレオノーラがその一人で、自他ともに認めるお兄ちゃん子だったわ。お姫様を甘やかした家族は、花のように愛らしかった彼女を、『赤ちゃん』とかエレノアと呼んだわ。もっとも、十四になったばかりの彼女はもう、大人の女性とみなされていたけどね・・・。五つ離れた兄妹があまりにも仲良しだったものだから、いざ縁談話が持ち上がろうものなら、片っ端からおじゃんにならないだろうかと、ハラハラした両親は心配したものよ。もちろん許婚はいたのだけれど、激動の時代でしょう?選択肢が少なければ少ないほど、後々自分の首を絞める結果につながるから、相手の家柄が相応しければ、候補にしない道理はないってわけ。
エレオノーラは帰ってきた兄を、いの一番に迎えたわ。腕に縋りついた可憐な乙女を見たら、マウリシオのわだかまりがさっぱりと晴れたわ。
『今しがた物乞いと会ったんだが、とんでもない奴だよ、エレノア』
と、兄が不服そうに言えば、妹は興味を示したわ。
『まあそれは。兄さん、可哀そうな方は何を言ったのですか』
少女は不遇の者をまとめて『可哀そうな人』と呼んだのだけれど、青年からすれば、男はちっとも気の毒なんかじゃなかったわね。
『人の情けでやっていく生活を恥じるどころか、僕たちが施すのは当然といわんばかりだったよ、彼は!』
『まあ。でも働けないのですもの、厚意に甘えるほかありませんわ』
『きみはあいつを知らないんだよ、エレノア!城に泊まりたいそうだが絶対に通すもんか。門兵にそう伝えるよ』
『兄さん、マリオ!いけないわ、そんな冷たいこと。困っている人がいれば助けましょう。立派な騎士ならなおさらだわ』
ああ、一体全体誰が『赤ちゃん』に、余計な騎士道精神を吹き込んだのだろうか!泣き所を突かれた貴公子の意志がぐらついたわ。
『あの男のなりを一目見るなり、きっと赤ちゃんのきみは泣き出すに違いない!汚らしい野良犬みたいだ!』
『兄さんが側についていますもの、怖くありませんわ。頼ってこられた方を追い返すなんて真似、私してほしくありません』
まだほんの小娘といえども、貴婦人の端くれだったエレオノーラを反故にしては、淑女に献身を尽くす騎士道に反してしまい、同時に、兄の威光と名声が陰る現実は避けられない。栄えある名誉と害した感情を、天秤にかけたマウリシオは悩んだわ。けれども最終的に王子の決断を聞いたお姫様は、日向に咲く花のようににこっと微笑んだの。
泣きはしなかったけれど、兄貴がけなした『汚らしい野良犬』を見た時、お嬢様は目を見張ったわ。普通破けた服は繕うものなのに、一度も針を摘まんだことがなかったのか、至って粗末な衣服を纏った男は、恥ずかしげもなく立っていたから、貧乏と縁遠かった彼女はしばし唖然としていたわ。がっしりした体格の大型犬は小さな子犬に威圧をもたらし、怯えたエレオノーラはちょっぴり後悔したわ。感謝の念も言葉も何もなく、あたかもマウリシオたちが下であると決めた庶民は、雨風をしのぐ屋根と空き腹を満たす食べ物を手に入れたの。
はじめの頃は全くひどいもので、ぐうたらな居候は、城の使用人たちが運んできた食料を糧に、だらだらと無為に過ごしたものだから、いくら慈善といえどもこれ以上見過ごせなかった王子は、この城に居たいのであれば仕事を手伝うよう命じたわ。それから言葉遣いも正すよう言ったのだけれど、残念なことに育ちの悪かった男は、人の話や忠告を聞くような耳を持っていなかったから、溜飲が下がるとはいかなかったわね。しぶしぶ男は農作業を手伝ったけど、目を離せばすぐに手を止めているし、実った収穫物をくすねるし、これっぽっちの助けにもならなかったの。遂にマウリシオの堪忍袋の緒が切れると、信仰に厚かったエレオノーラが、余計者を追い出す案を考え直せと訴えたものだから、格式あるイルソドマ城から雑種犬を取り除こうとしても、なかなか思い通りにいかなかったわ。
やっぱり彼の見越した通り、女たちは居候の見た目に浮き立ったわ。名前も知らなかった男の気を惹こうと、くすくす笑いと共に、侍女たちが陽気な声をかけた事実が気に入らなかった貴公子は、彼女たちの前で飼い犬らしく呼び捨てにしたら、さぞかしいい気分だろうと思い立ち、しがない浮浪者の名前を求めたわ。ほどなくして、宮廷ではオルフェノクの名が呼ばれ、本物のペットみたいにちやほやされたの。特に主従関係をはっきりしたかったマウリシオは、オーファンという意地悪なあだ名までつけたわ。相も変わらず、懐かない上に怠け者だった野犬は仕事をさぼり、言いつけを忘れるようないい加減な男だったにもかかわらず、そんな反抗的な彼を許したどころか、食べ物を分け与えた女たちが王子は理解できなかったわ。
まだ餌付けなら我慢できた方で、割けたシャツを繕っている妹をその両眼に入れた時、確かに驚愕した兄はきつい一撃を食らったわね。幾ら信心深いといえども、恵んでいる側の人間が居候のために繕い物をするなんて!ああ何という事なの、信じられない!そんな、彼のエレオノーラまでもがあの忌々しい存在を認めているとは!ねんねもねんねだった彼女はさておき、第一奴はさもしい乞食ではないか!考えてみるまでもない!整った顔立ちや男らしい体躯はいずれ見慣れるだろうが、仏心以外に良くしてやる義理は決してあってはならない!嫁入り前の彼女の神経質な保護者だったマウリシオは恐れたけれど、有無を言わさずに縫物を取り上げれば、同様に彼は乙女のひそやかな感情をも奪えたのかしら・・・。
拙かった身なりは、慎ましやかなエレオノーラの針仕事のおかげでまずまず改善したけれども、オルフェノク自身は少しも変わらなかったわ。良心に付け込む寄生虫とも劣らなかった物乞いだというのに、引け目を示すなんてもってのほか、何にも縛られなかった居候は、気の毒な身の上話を明かして涙を誘うわけでもなく、相手が誰だろうと素っ気なく、同じだったわ。良く言えば対等だし、悪く言えば、恩知らずで身の程知らずの馬鹿野郎ってところかしら。見てくればかりに騙された者たちは甘い顔をするかもしれないけど、どうしようもなかった本性を見抜いていたマウリシオは違ったわ。
だからあろうことにも、部屋のベッドで彼のお姫様がこっそりと泣いていたら、貴公子は哀れな彼女の悲しみの元凶を即刻憎んだし、同時に何をしてでも消し去るつもりだったの。痛々しい涙は王子の心を痛めたわ。傷を負った赤ちゃんは癒されなければいけない。問題はどのようにしてけがをしたのか。心配したマウリシオは問い質したのだけれど、濡れた顔を布団に埋めたエレオノーラは首をしきりと横に振るばかりで、答えようとしなかった。許すまじ敵を庇っているかもしれなかった可能性が彼の焦燥をかき立て、信じたくはなかったものの、疑った彼はあの男の名前を口にしたわ。震えていた身動きがほんの一瞬ピタッと止まったか否や、大切な妹の辱めを直ちに知った兄は、燃え上がった怒りに任せて立ち上がり、早速行動に移ろうとしたの。だけど一生懸命に縋った乙女は引き留めたわ。
『兄さんやめて!彼は何も悪くないの!やめて!どうかお願いよ!』
そう懇願すれど、もしマウリシオが何もしなかったなら、彼女が流した涙はどうなる?彼女の誇りは?寛大な城主一家の名誉が汚されたのよ。百歩譲って本当に非がなかったとしても、少なくとも、年端も行かない娘をいたずらに泣かせた落とし前は付けるべきね。なさねばならぬ処罰を神に代わって下すだけなのよ。
例えば彼のエレオノーラが淡い恋心を持ったとしてよ。脆かったそれを壊さずにすることだってできたはずでしょう。人間らしい気遣いとか温かい思いやりがあれば、たとえ望み通りにならなかったにせよ、卑屈やひがみを覚えずに乙女は健全と成熟しただろうに!しかも折あるごとに追い出そうとする兄と異なり、みじめな境遇に同情した妹のおかげで居候できているのに!これだけの条件がそろっても尚、肩を持つほど奴のどこが価するというのだろうか。全く切り捨てるのが相応しいと思ったマウリシオは、抜き身の剣を手にオルフェノクの元へ向かったわ。
最悪彼の命を奪うつもりだった武器を目の前にしても、城の厄介者は微動だにしなかったわ。多分思い描いた近い将来が厳しいものだったから、とんでもない恐怖に憑りつかれた彼は凍りついたのでしょうね。まず居心地の良かった棲み処を失ったことは明らかだった。今の彼ができたことはすぐに詫びて、熱心に命乞いをして、イルソドマ城をすごすごと後にするのみ・・・。さあ跪いて地べたに両手をつけなさい!深々と頭を垂れ、悔悟と共に許しの言葉を希うの!そうすれば磨き上げた剣が血で赤く染まることはないし、怒り心頭の王子の踏みにじられた矜持と同じくらい、男をずたずたに傷めつけなくて済むわ。
オーファン!あんたは悪魔の子だったのね!露ほども悪びれなかった彼を見て取ったマウリシオは、ひとりでに魂の導きを神へ祈り、何か言い残すことはないかと訊こうとしたけど、もう十分施したのだから、死にゆく者には贅沢だと考え直したわ。だけどもとはいえ、丸腰だった男を一方的に攻撃するのは、栄えある騎士としては恥ずべき行為だったものだから、何でもいいから道具をとれと命じたの。一体何のことかよく分からない素振りをしながらも、不思議と落ち着いていた居候は、傍らに置いてあった火掻棒を持ち上げたけど、あくまでも上から目線らしく、やれやれ勘弁してくれよとため息をつき、やる気は見られなかったわね。
どこまでも人を――とりわけ彼らのような貴人を虚仮にしたものだと、怒髪冠を衝かれた青年は、剣に憤りと恨みを込めて猛然と襲い掛かった。憎しみのこもった斬撃が、ただのつまらない火掻棒に器用かつ幾度も受けられると、復讐に燃えたマウリシオの平常心はますます欠いた。剣術を心得ていた自負と優位な武具から来た過信、それから憤懣した心持が彼の洞察を見る見るうちに曇らせていき、次第に一撃は大ぶりで雑になっていったわ。
単なるみすぼらしい物乞いにしては、やけにオルフェノクは戦闘に長けていて、鮮やかに身を躱したかと思いきや、再び繰り出される剣を寸分の狂いもなく的確に受け止め、増えた隙を目ざとく見つけて反撃したの。ちょうど掠れば余計に口惜しさと焦りが募ったから。
じわじわと脳裏に浮かび上がってきたあり得なかった事象が、最終的には現実となった時、決闘に負けたマウリシオは、まるであってはならなかった禁忌を犯した気分だった。五分だった体力は消耗し、くだらなかった浮浪者が、上流階級の自分を打ち負かした事実が彼をひどく苦しめたわ。完全に失墜した沽券を引っ提げて、これからどんな顔をして妹に会えばいいというのだろうか。
『・・・あんたの顔は立ててやる。いいだろう出て行ってやるよ。だがあんたは俺を拒否することはできない。以降客として訪ねた俺をだ。何、視界に入りさえしなければ、あんたの大事な妹からしてみて俺はいなくなったも同然だ』
と、勝ち誇らなかったオルフェノクは言ったけど、納得がいかなかった貴公子は踏ん切りが容易につかなかったわね。居候の次は客人としてもてなせですって!そんなふざけた話、吐き捨てた唾と一緒に断れたらどんなに胸がすっとしたかしら!だけども逆転した立場を甘んじて飲むしかなかった。普通白黒つけた男にみっともない二言はないものよ。
その日からマウリシオの生活は二面に分かれたわ。陽が上った明るい昼は誇り高い紳士として慕われ、皆が寝静まった暗い夜は、劣った負け犬としての屈辱に苛まれたの。そしてそんな中、なお悪いことに、ときたまオーファンが言葉通りにふらりと現れると、威厳を損なった王子は情けなくも、人目につかぬよう慌てて部屋へ招き入れたわ。たいていが非常識な時間だったから、呆れた彼は文句の一つでも言おうとしたけれど、城の者たちが働く昼間だったらもっと悪かったしね・・・。はた迷惑な『お客』は食糧庫から持ち出した果物やらお菓子を頬張り、ぐびぐびと酒瓶を空けていったから、貴公子は料理番からの疑惑に困ったけど、何よりもエレオノーラの耳に醜態が届くことが困りものだったわ。今まで可愛いお姫様のお目目に気高い兄貴として映ってきたし、これからも至極そうでなければいけなかったのよ。
のさばっていた乞食をイルソドマ城から追放した張本人が、このようにこそこそと人知れず匿っているなんて!他の誰でもなかった彼女のために捧げた勝利を学んだからこそ、敬服した乙女は頼れる彼の側で元気を取り戻しているにもかかわらず、実は同じ屋根の下で、その汚らわしい息をのうのうとしていたとは!面目を保ちたかったマウリシオは用意周到に心を砕いたわ。それを理解してなのか、根無し草だったオルフェノクは徐々に根を張り始め、ちょくちょく部屋へ入り浸るようになったの。
どうしてこれほどまでに心を気安く許せるのだろうと、自分の部屋にいた、隙だらけでゆったりとした男へ、飴色の目をやった王子は訝しんだわ。ごろりと横になってくつろいだ彼は、うずくまって休んでいる猛獣みたいに見えた。こんな奴に敗北を喫したなんて!抱えた痛みを帯びた頭の中で、こうした不名誉な状況が早く終わるよう、マウリシオは願ってやまなかったけれども密会は続き、いつしか打ち解けた兆しが表れていたの。
きっかけは、暇つぶしを所望したオルフェノクに聞かせた物語だったわ。貴族として文学を嗜んでいたマウリシオは、無学の彼に分かるものかと高をくくり、古代の皇帝たちにまつわる話をしたわ。異教徒を弾圧した暴君は音楽と詩を愛しながらも、母親に対する愛憎のはざまで揺れた。思慮深かった統治者は哲学を重んじたゆえ、謀反を起こした裏切り者を許した。快楽に溺れた治世者は、目がなかったバラの花びらで犠牲者を出した。愚かな人民の上に立つ者でさえ、過ちを犯してしまうものだという教訓を感じ取ったオーファンは、支配者たちの伝記が気に入ったわ。全く何様よ!呆れかえったマウリシオは鼻を軽蔑的に鳴らしたけど、物事の本質や意義を捉える能力はさすがに侮れなかったの。それになかなかいい聞き手だった彼は、口を挟まず静かに耳を傾けたから、悦に入った青年の舌が滑らかに回ったものよ。
紛れもなく人より恵まれた身分と環境だったけれど、何も遊ぶばかりじゃなかった貴公子は、日に日に愚痴をこぼしたり、感想を漏らしたり、意見を求めたりしたわ。意外なことにも、真実有能な相談相手だったオルフェノクは、複雑で面倒な議論も惜しまなかったし、以前は鼻に付いた気軽な態度が、かえってマウリシオの負担を薄らげたの。誰しも感じたことのあった迷いや優柔のような弱音を簡単には吐けなかった王子は、ぱっと見どうでも良さそうな彼へ捨て置いたわ。最初から役立たずのごく潰しと決めつけていたけど、実際役に立つこともあったんじゃない!
彼のためかどうかは怪しく、本当の目的は神のみぞ知るところなのだけれども、面白半分に興じた男の提案をみだりに承認した直後、どうやら煩わしかった彼に対して芽生えた信頼の二文字が、ふと王子の頭をよぎったわ。この年にもなって着せ替えごっこをするなんてね!馬鹿馬鹿しさと可笑しさが相まったマウリシオは服を取り替えたの。万が一にも、城の人間がその時の彼のありさまを見てしまったら、おそらく気が触れたと思ったでしょうね。富裕な彼からしてみれば、まさしく生き恥だったわ。文無しのお前への憐憫でも買わせるつもりなのかとじろりと睨むと、そこには立派な身なりをした貧民がいた。貴族の衣装に身を包んだ男の神々しさや品格が、彼の目を問答無用で奪ったわ。骨太で大柄な体つきを纏うそれは少々きつく短かったけれど、細部まで行き届いた服装の華美が、ほのかな傲慢が滲んだ男前な顔立ちと組み合わさり、映えた。どこからどう見ても貴公子だったオルフェノクは、きちんとした武器さえ持たせたらほとんど騎士だったわ。付きまとって離れなかった卑しさとか見苦しさは見る影も形もなかった。彼以上に似合っていた事実を認めざるを得なかったマウリシオは口惜しさを覚えたわ。
それに比べて、いよいよ貧相だった自分がどれほどちっぽけに思えたか!なみなみとみなぎっていた自信がしおしおと萎れ、良かった威勢はどこへ行ってしまったの?自分が卑しい気がした貴公子は、生まれて初めて抱いた感情に困惑したわ。一時的に身分を失った彼は、寄る辺ないくずのように無価値で、空っぽで、情けなく、不安だった。消え入りたいという願望を得たマウリシオは、想像だにしたことのなかった惨めを思い知ったの。
主人のようなオルフェノクが勧めたから、しもべのような青年は言葉遣いも改めたのよ。払うとは思ってもみなかった男に対して敬意を表したなんて!考えられなかった不自然は全然信じられなかったけど、不思議と物腰は落ちぶれた者の恭しいそれになったし、何より驚いたことに嫌悪を一切覚えなかったの。むしろ服従は潔く、平伏は新鮮だったわ。実に醜聞的だけれども、何となく心地よささえ感じられた。落ち着いたオーファンは、そんな王子を平静と眺めたわ。眼差しは鑑賞のようでありながらも肯定的で、侮蔑の色が浮かんでいなかった。静かに燃えた瞳に捉えられたマウリシオは張っていた肩ひじを緩め、彼自身も知らなかった心と身体を預けたの・・・。
育った信頼と取って代わった友情が、更に変化していくこともあり得たという点を、意地のためになかなか受け入れがたくも、マウリシオは自分の心身をもって学んだの。一線は越えていないと、友を迎えた王子は自分に言い聞かせたわ。未知だったからこそ、神秘的な境界はたとえ何があろうとも絶対に踏み込んではいけなかった。彼らを見守ってくださる心強い神様に背くようなまがい物の教育を受けていなかった青年は、入門は尊ぶべき偉大な主君を貶める冒涜だということも知っていた。呪わしい悪魔と手を結ぶも等しかった。卑しみは疎むべきものなの。彼のエレオノーラが言っていたわ。清らかな善はかの地へ運べど、害たる悪は地獄へ落とすでしょう。戒めは勇敢だった彼を脅かすことはできなかったけれど、マウリシオは彼の乙女が嘆くことを恐れたわ。心底から祝福を望んだ兄が忌まわしい地獄へ下ると想像しただけで、間違いなく女の子は不幸になる。尊大な勝者を拒絶しようとしても、ただでさえ惨めな敗者だった己の尊厳が廃るような真似は必至と避けねばならず、板挟みに苦しんだ彼は葛藤した。
だけども、悩んだ貴公子を救ったのもまたオーファンだったわ。泰然とした王は自然そのもの。厭わしい災難を巻き起こす一方で、不自然をも引き受ける太っ腹ないでたち。否定も肯定もせず、知らず知らずのうちに踏み入っていたマウリシオをあるがままに扱い、特別な糸を紡いだ・・・。珍妙な糸は粘り強く、煌びやかな光沢を備え、しっとりと吸い付く優美な絹のような手触りがしたの。
逢瀬のたびに織りは進んでいったわ。着物を交換し、心地よく響いた朗読へ耳を傾け、何でもなかった出来事を語らい、触れ合い、一枚の布を織りあげた。王子を包んだそれはありったけの親愛を注ぎ込み、前後もなかった彼を夢中にさせたわ。経験したことのなかった包容に戸惑いつつも、オルフェノクといる時でしか味わえなかった幸せな感覚を、彼は堪能した。世界で一番富めた気がしてならなかったわ。そうよ、素晴らしかったこれから降りることはできなかったし、仮に何がそうし得たというのかしら・・・。
城下町の醜聞はこう囁いたわ。
『イルソドマ城の若様が何と男を囲っている!しかも居候していた浮浪者だ!』
きわどい冗談だと苦笑いしてみせたものの、真実とんでもなかった噂を耳にした人々は眉をひそめた。男が――しかもマウリシオのような立派な貴公子が!――男と――しかもうだつが上がらない物乞いと!――通じている!蒼天霹靂、開いた口が塞がらないとは、正にこのことだったわね。おやまあ、王子はどうかされたのではないか!まず身分も異なれば、これが肝心なところで、神様が禁じているではないか!しかるべき許婚と、嘱望された前途もあった身の上での乱心とは!まだ情婦ならともかく、よりにもよって男の愛人とはね!見損なったわ!彼は愚かにも自分を見誤ったばかりか、神様を筆頭に領民全員を裏切ったのよ。
幾ら出所も定かじゃなかった風の便りとはいえ、火のない所に煙は立たぬと言ったもので、冷めた町民たちが感じていたマウリシオへの是認が、一気に否認へと反転したわ。男色!ああ、口に出すのもおぞましい!どうして上品な貴人だったにもかかわらず、御曹司は神様とその言いつけに背くことができたのだろうか?それこそ地獄も恐れなかった、育ちがよっぽど悪かった救いようのなかった人間が犯したものだろうに。・・・ええそうよ、とっても重たかった罪をね。
悪魔がそそのかしたんじゃないかと弁護した人もいたけれど、神父は異端を頑として認めなかったわ。それどころか、善い行いをした人々は、魂の救済が約束されるとも説いたの。一口に善いと言っても、それは決して彼らのためだけじゃなくて、異端者本人にとっても善いのだと教えたわ。町の誰よりも神様の教えに近かった男の弁舌が揮われたのだもの、正義を愛した領民たちは、すっかりその気になったわ。
無知で放埓な平民をわざわざ御すような由緒正しい貴族だとしても、堕落は堕落よ。過ちは直さねばならなかったし、富める者も貧しき者も、誰しも神様の御前で言い逃れはできないわ。濡れ衣を証明する申し立ては開かれるかもしれないけど、一度ついた汚名はそうそう拭えないし、とにかく神と正義の名のもとに断罪したかったのよ。一種の行事ね。平穏で進歩的で繁栄だろうと、荒廃で時代遅れで没落だろうと、新旧ひっくるめたどんな時代だって、男たちはあやふやは嫌いなの。正否をはっきりしたいのよ。何事も必ず裏表があるようにね。例えばいっぱしの創作家を気取った男が、やれ表現だとか作品だとか謳って、幼気な女の子を裸にしたりだとか、婚約者を身ごもらせておいて、他の女へ乗り換えたりするような薄情者なんかのようにね。
神様と正義。この場合の水と油はよく馴染み、二つの意味で真っ赤な血を流したわ。一つは刑罰を受けた咎人が流した血。もう一つは、まかり通ってはいけなかった悪と敵対した者たちを駆り立てた荒ぶる血。獰猛で野蛮なそれは堪らなく疼き、憤怒の狩りを引き起こした。心血注いだ田畑を荒らした獲物は、正当に狩られる理由があったわ。暴虐と凄惨を極めた血は、流れる血でしか鎮まらなかったの。
月が綺麗だった晩のことよ。集った男たちが手にした松明が、夜の帳が降り切った城下町を明るく照らしていたわ。赤々と燃えた火は熱く、ゆらゆらと妖しく揺らめく中、決然とした残酷な顔が暗闇に浮かび上がった。たった今から、目に余る腫れものを除きに行く彼らの方が悪く見えたわ。内発する興奮が隠せなかった町人たちの目つきはぎらつき、絶対に獲物を逃がさなかった狩人の、厳しく鋭い双眼そのものだった。慈愛を呟いていた口は一転して、災いあれと声高に叫んでいたわ。
結局その後、恐ろしい暴徒を迎えたイルソドマ城に何があったかは、誰も詳しく知らないんだけれども、その場で王子と乞食が殺されたと言う人もいれば、何とか逃げ延びたと言う人もいたわね・・・。どう、結構なお話だったでしょう?ほら、アタシの言った通りね、出口まで来たわよ」
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