聖女の加護

LUKA

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ここだ。アーチ状に大きい木製の門前で、黒い革長靴を履いた足が止まった。商売でにぎわう目抜き通りから外れ、閑静な細道を行った後の、奥まった広場に面していた立派な邸宅は、極めてまれな前庭を持ち、もみ、楢(ヤドリギ含め)、トネリコ、糸杉といった灌木が植えられていた。これは隣に建った壮大な修道院も同じことで、たっぷりと余った敷地に生えた緑の木々は、街の二大巨頭たる権威的かつ象徴的な地位を、つまびらかに示していた。どこまでも続く果てしない青空を衝く尖塔が、にょきにょき生えた様式を好まなかった軍人の屋敷は、要塞風らしく質実剛健な造りだった。差をつけるため、パノプティコンのほとんどが、木造あるいはハーフティンバーで作られていた、凡庸な家屋を模倣するような真似はせず、あえてレンガも用いていた。装飾を徹底的に省いてしまうのもつまらなかったので、飾りとしてくっつけた塔は細く短くなっていた。隅の方で、低木に下半身を隠した見張りの歩哨が、石垣に向かって立小便をしていた。かっちりした御殿は、午前の平和な静けさと明るさに包まれ、目覚めた風が心地よく吹き渡っていた。
 朝の礼拝が済んだ修道僧たちが、光に明るい日向へあふれ出てきた。ついさっきまで敬虔な祈りの文言を呟いていた口を、ぺちゃくちゃとみだりに動かしながら、ひと房のブドウのように、揃いの僧服を纏った男らは、薬草園としての庭(噴水付き)を素通り、方々へと散らばっていった。一ダースほどいた集団の大部分が、祈祷書や袋を手に、街の中心へと向かっていたが、アッシュの真横を通り過ぎた三人は、風雨に洗われたドモンド邸の木戸を開いた。その至って当然らしかった行いは、多分に通い慣れた者のそれか、はたまた領主と並ぶ権力者の行動だった。事実一人は、萎んでいる割にはかくしゃくとした年寄りで、地味で簡素な他の僧侶たちと比べて、ゆったりとした覆い布(色味も繊維も通常と若干異なっていた)の上からメノウの首飾りをかけ、腹に回した縄にかけた数珠はサンゴでできていた。一時抱えた広場はまたしても人気を失い、止まっていた足が再び動き出した。その鷹揚とした足取りは、謎めいた黒猫を思わせるに足りた。

彫刻を頂いた出入口(盾形)の両脇に立った番兵たちは、あくびをかみ殺した。怠惰な暇と気だるい退屈が士気を削ぎ、実質彼らは形だけの戦士に過ぎなかった。課せられた任務とはいえ、何もないところをただ睨んでいるだけに等しかった。それでも二人の男は、特段話し込むような話題も今のところなく、そっぽや足元のよそ見をし、槍を持ち換え、留まりに来たハエを掃い、脚の重心を移し替え、一言二言と素っ気ない言葉を交わした。そんな中、少しばかり前に迎え入れた修道士たちの後に続き、新たな訪問者が敷居を跨いでやって来た。頭巾をかぶった客は、よく見知った草色のワンピースに身を包んでいたから、単なる別の修道僧と信じ込んだ兵士たちの、注意と警戒が高まることはなかった。先に着いた仲間へ忘れ物を届けに来たと、背の高かった修道士が恭しく言ったら、鵜呑みにした見張り役は、ほんのちょっとの疑いもせずに中へ通した。ああ神様、全く仕方のなかったこととはいえ、みすみす侵入者を見過ごした彼らの、後ほどの運命やいかに!
 ある種の興か、それとも実際の用事のためか、おそらく彼の頭脳を覗いてみる以外、奇天烈な魔人の考えを知るすべはどこにもなかった。というのも、泥棒らしくこそこそするでもなく、何かを熱心に探し求めようとする素振りも見せず、僧侶に扮したアッシュは、気の赴くままに館内を進んだからだった。だがしかしながら、それにも拘わらず、何の気なしに階段を登っていった男は、あたかも導かれたかの如く、その部屋へと吸い寄せられた。どういう訳だか、まるで入ってくださいとでも言わんや、おあつらえ向きの部屋は、初めから扉が開いていた。きっと女が主だろう室内は、小洒落た特徴を幾つか備え、フードを下ろしたアッシュは、あちこちと灰色の目を配った。
 青銅の取っ手が付いたテーブル型のたんすロウボーイ。優雅なビロードの天蓋はあれど、支柱のなかった天使の寝台。嫋やかな輝きを帯びた金銀の燭台。細部までこだわった石像。房をあしらった足置きクッション。たっぷりとゆとりのある衣装だんす。彫刻の凝った長い背もたれの椅子。しっかりした造りの書き物机(色鮮やかな革表紙の美しい書物や羊皮紙、インク壺に鵞ペンなどの筆記用具が置かれていた)。幾何学模様が複雑な毛織絨毯。七色の螺鈿(らでん)がきらびやかな裁縫箱――。空間の雰囲気を、明らかにかつ段違いに格上げしていた、これらの贅沢な調度品を認めた彼の目に、やはり狂いはなかった。さあ、何を譲ってもらおうか・・・・・・・・。どれがいいだろうか?きっと気に入るようなものがあるはずだ。実に街一番の権力者の家だから、さぞかし素晴らしい珍品が眠っているに違いない。それこそあっと驚く宝物が。びっくりした表情に次いで、素敵な贈り物を一通り眺めまわしてから、贈り主を敬愛の眼で見る聖女を思い浮かべたら、誇らしげな胸が喜びに躍った。おお、もはや無益だと悟った彼女は、頑なな心の奥深くに、仕舞い続けてきた愛を打ち明けるだろう!ああ、その甘美で情熱的な瞬間を、恋した男と男の潜在意識が、どんなに待ち焦がれていたことか!しおらしかったネルは、初めてアッシュの強健な腕の中へ進んで収まり、彼が彼女のそばにいなかった間、どれくらい寂しかったかを、つらつらと恨みがましく垂れるだろうが、それさえも愛おしかった魔人は、めそめそ泣く聖女をきつく抱きしめ、明るいプラチナブロンドの頭へ、なだめるようにキスをする――。それ・・だ!必ずや最高の幸せをもたらすそれ・・が絶対に要る!
 その時、戻った部屋の主は戸口でハッと驚いた。誰か――、見るからにもう一人の修道僧が、自室にいたために、意表を突かれた淑女はびっくりしたが、品の良かった令嬢らしく、敷居を跨ぐと、落ち着いた威厳に満ちた声をかけた。
 「部屋を間違えておいでですわ、道士様。父と修道院長は、下の応接間にいらっしゃいます」
 若かった男盛りの修道士は長身で、とりわけ美麗に目がなかった、女の目を惹く顔立ちをしていたから、慎ましやかな貴婦人の胸が密かにときめいた。その直後、背後でドアがひとりでに閉まり、不思議に思ったジルコニアは、取っ手に手をかけた。木戸は微塵も開かず、鍵がかかったようだった。はて、どうもおかしなことが起こったものだと、分からなかった彼女は首をひねり、向き直った。
 「錠が下りてしまったようです。どうしてかしら、確か引き出しに鍵が――」
 足早に歩く女の細い腕が、唐突かつ無作法に掴まれ、吃驚に心臓がドキッと跳ねたジルコニアは、言い終えることができなかった。
 「道士様、何をなさいます」
 らしからぬ扱いを得た淑女は、うろたえた顔つきで訊いた。道を踏み外した彼は、恥知らずの悪漢のように映った。
 「あなた、どなた」
 何故だか恐怖や危険を感じ取ったジルコニアは、思わず続けて問うた。そう言うお前こそ誰だと尋ねずとも、アッシュは彼女がドモンド氏の娘であることを知った。上流階級らしい丁寧な言葉遣い、胸元が四角く開いた絹のガムッラ、象牙色の肌に映えた宝飾品はさることながら、噂通りの美貌――。額の真ん中で分け、きちっとまとめた黒髪からは、くるくると螺旋を描いた艶やかな巻き毛が、優美な藤のようにしだれていた。ヒルダよりも淡く明るいブルーの瞳はすっきりと冴え、偽修道僧の彼を瞬きもせず真剣に見据えていたから、インクブラックに濡れたまつ毛が緩やかな弧を描き、目の輪郭をふんだんに縁取っていた事実を発見できた。肉付きの良い鼻の横にほくろがあったほか、若々しい肌は一点の曇りや陰りも見えず、ふっくらとした健康の柔い弾力に富んでいた。高貴な身分に相応しい、仕立ての良かったドレス(濃い色調は暗くなりがちだったけれども、リネンのシュミーズを覗かせたさり気ない切込みや、飾り紐が華やかだった)も、容姿を妙に引き立てていた。
 「これはご挨拶が遅れて申し訳ありません、お嬢様」
 引き攣った面持ちが、よからぬ想像のせいで、恐怖の色が濃くなってきたのを見て取ると、アッシュは離した手を胸へやり、軽いお辞儀と共に、わざとらしい演技をしながら言った。
 「私は修道士ではありませんが、父君を知っているもので」
 「お父様を?道士様でいらっしゃらない――?」
 解せなかったジルコニアは困惑した。修道僧でなかったなら、どうして僧衣なぞを着ている?
 「これは借りた・・・のです。氏はユーモアの分かる方ですから」
 と、アッシュはごまかすと、ゆったりしたローブを脱いだ。真黒い装いと一緒に、剣を見たジルコニアは息をのんだ。何だ、それでは彼は軍人だったのか!
 「あら!いやだわ、私ったらすっかり決めつけてしまって・・・!お詫びしますわ」
 「どうかお気になさらず」
 「今父は修道院長と会っておりまして。お約束はございまして?もしないようでしたら、私が伝えますが・・・、ああ!鍵を開けなければなりませんね!」
 と、思い出したジルコニアは動きを再開したものの、以下のようなアッシュの返答が、またしても彼女をピタリと止めた。
 「結構です。真実私はあなたに用があったのです」
 と、彼は言ったものの、見覚えの全然なかった兵士が、一体何のために来たのだろう?定かでなかった貴婦人は顔を見合わせた。
 「奪いに来ました」
 あり得なかった恐ろしい言葉が放たれると、それを耳にした令嬢はひどくおっ魂消た。次いで、予想だにしなかった恐慌に心臓がドキドキしたら、物語の主人公と自分を重ね合わせて読んでいた彼女は、あの血を吸う恐ろしい怪人と、目の前の男を照らし合わせた。そうだ、奇しくもヒロインは奪われていた。望もうが望まなかろうが、無実な彼女は血に飢えた男に捕まり、生き血を吸われた。そんな、これから自分も同じ目に遭うのだろうか!呼吸の止まりそうな恐怖がジルコニアを包み込んだ。一体全体彼は、彼女から何を奪うとでも言うのだろうか!血と肉。純潔――。単語を想起した淑女は、事の重大さにハッとした。おお神よ!令嬢は並々ならぬ汚辱を思い、大変な恐怖に膝が弱くなった。心行くまで男は女を貪り食らい、なす術のなかった彼女は、ただ残酷な運命を受け入れるだけ。ああ!とても恐ろしかった可能性について、気が遠のきつつも、ジルコニアは似つかわしくない興奮を感じた。パノプティコンを治める領主の一人娘として、安全に守られた、彩りに欠けた生活が刺激され、脅威にさらされた彼女は、生まれて初めて自身の内で荒ぶる生命を、突如として見出した。儚い人生は酔狂なくして、何たる不幸でみじめなものだろうか!強力な生存本能が、ジルコニアを激しく揺さぶり、甚だ劇的な事件の前触れに、彼女の中の生命力や生への執着が、かつてないほど濃くなった。奪えるものならやってみるがいい!しかし、恐れた彼女の緊張に震えた魂だけは、決して何物も奪えやしない!
 「叫びますことよ」
 やっとのことで、やや青ざめたジルコニアは、震えた口を開いた。
 「手荒にされたいのですか?」
 と、平然と問われた淑女は、全く末恐ろしい想像に竦んだが、張り裂けそうな動悸は縮むどころか、急速な拍を依然と刻み続けていた。
 「あなたはこのようなことが許されるとでも思っているのですか。父が黙っていませんことよ」
 「氏はお忙しい方だ。娘のあなたより戦争の方がよっぽど大事だ」
 あっさりと真実の的を射抜かれた令嬢は、言葉に詰まった。
 「そ、それはあなただって同じことではありませんか。病に苦しむ市民をほったらかしにして、あなたは父のもとで、人をいたずらに殺めているだけではありませんか」
 「それが私の仕事ですから。そう言うあなただって安心は惜しいはずだ。我々はそのために戦うのです」
 「病気とは戦えないとおっしゃるの」
 「そうではありません。現に修道院が総力を上げて取り組んでいます。戦う相手が違えば、また目的も異なるのです」
 「何と仰ろうと、どうしても争いは好きになれません。生意気なのは分かっていますが、父を治世者として恥じていますわ」
 「ご冗談を!いや参りました、何事も暴力で解決する軍人は、政治に向かないと」
 「父のような軍人を夫に迎えたいとは思いませんわ。お判りでしょう・・・・・・・?」
 と、莫大な恐怖に面していながらも、勇気あるジルコニアの負けん気や賢さに、今度は騎士のふりをしたアッシュは小さく笑った。そう、力尽くでものにしようとする武人は、軽蔑に値する!単なる人間の女にしては、どうやら一筋縄ではいかないようだと考えた魔人は、やけに数だけが多かった種族を見直した。
 「お前はいい女だ。だが俺が欲しいのはお前じゃない。威光を放つお前たちを取り巻くものさ」
 と、ついに悪い本性を明かした男が大胆に言う傍ら、一歩踏み出したアッシュは腕を伸ばすと、令嬢の耳たぶで燦然と輝いていたオパールを、断りもなく摘まみ取った。盗人だ!高鳴るうるさい鼓動と共に、どちらにせよ変わらなかった危機に見舞われたジルコニアは、白みがかった薄青い目をいっぱいに見開いた。おお、まだ礼儀をわきまえた兵士だったなら幸いだった!エチケットのエの字も知らないような、無礼極まりない平民が、彼女の一部を盗もうとしている!急ぎ淑女はドアへ駆け寄ると、両の拳でどんどん叩き付けた。
 「誰か!誰か来て!だ――」
 瞬く間に広大な手のひらが口を素早く覆い、ぐいと引っ張られる力を感じたジルコニアは、逞しい手腕に押さえつけられた。激しく盛んな心臓は、今までにないくらい荒れ狂っていた。力強い締め付けから逃れようともせず、弱々しい既視感を覚えた彼女の脳裏に、妖しく恐ろしい吸血鬼が、城に幽閉された貴婦人の首根っこに噛みつく場景が、映し出された。男らしい力のみなぎり。確固たる凶暴な意志は厚かましいほどに悪徳。か細い女はまるで手折りやすい一輪の花!ああ、棘さえあったら!野蛮な獣のように噛みついてやれたら!だがしかしながら、とはいえども、重々しい恐怖がのしかかった令嬢は、ついぞできなかった。よって、とうとう強張っていた身体の緩みを学んだアッシュは彼女を離し、立っていられなかったジルコニアは、頼りなく椅子へ腰かけた。あたかも諦念したらしく、だんまりと口を利かなかった彼女をよそに、部屋を歩き回ったアッシュは物色を始めた。
 マドンナリリーを生けた極彩色の花瓶。細やかな刺繍入りの帯。目玉にトパーズをはめた木彫りの獅子。黒玉の数珠。絢爛な錦織のポーチ。ザクロ紋様の手袋。香油瓶を提げたネックレス。編み込んだ銀糸でできた腕輪。鐙型をした金の指輪。琥珀の髪飾り。銅を台にしたエナメルのブローチ。べっ甲を彫ったカメオ。ダマスク織りのウプランド。薄手のウールで作られたジョルネア。子ヤギのなめし皮の部屋履き。象牙の櫛。サクサン絹の座布団。繊細なレースのハンカチ。
 やっぱり彼の勘は正しかった。小間物を始めとした、綺麗で女らしい物品が一堂に会していた・・・にも拘わらず、とっておきを求めた魔人の目にかなう品物はなかった。残念なことに、霊感というか直感というか、たった一目見て、これだ!と確信するようなものがなく、なかなかかからなかった、警戒心が非常に強かった魚を釣り上げねばならなかった男は、それこそあまりの嬉しさに、跳び上がらないではいられないようなものを、持ち帰る必要が大いにあった。思っている以上に、聖女は余すことなく、捧げられた心を知らなければいけない。もうはぐらかすなんて野暮はさせまい。改心した彼女は彼の内に灯った光を見つけ、そしてまた自身の内にも見出すだろう。その温かな光が何であるかを、すぐに理解できなかったネルは戸惑うだろうが、優しい輝きはアッシュの眼にも宿っており、遅かれ早かれ、灰色の眼差しが愛に満ちている、素晴らしい事実に気が付くだろう。とんでもなかった魔人と恋に落ちた不思議を、それまで彼女は信じようとしなかった。何故って悪党の彼は憎らしい敵ではなかったか!無垢なる聖女を悪しき世界征服のために奪い去った悪魔!好きになってしまったどころか、恨んで当たり前ではなかったか!だがしかし、まばゆい気持ちのこもった贈り物は感動的で、彼女の頭と心を本当に揺すぶったから、溢れていた非難をも超越してしまった感情がそれらを打ち消し、幸福な是認のみが残ったかもしれない。したがって、埋もれていた愛を掘り当てたネルは、驚くべき夢が実現したようなダイアモンドの原石に魅了され、瞬く間にそれの虜になったらしい。偉大さとか重要性は彼ほど分からずとも、自分を愛した聖女は、換わってその時はアッシュを愛することだろう。それからお互いの熱が溶け合い、一つの代えがたい芸術が生まれる・・・。
 コンコンと、ノックが閉ざされた扉の向こうから聴こえ、続いて侍女の声が響いた。
 「お嬢様、ジルコニア様。修道院長をお見送りするようにと、ドモンド様が」
 救いある希望の舟だと、必死の面を間髪入れずに上げたジルコニアは、無我夢中で口を開いたものの、真実出てきた台詞は、驚愕した自分を疑うようなものだった。
 「体の具合が優れないの。悪いけど適当に謝っておいてくださる?」
 「あら、それはお気の毒に!どうされましたか、お医者様を呼びましょうか?」
 「いいえ大丈夫よ。まあまあ体がだるくて、頭がちょっとばかし痛くて、何となく熱っぽいだけだから」
 「まあお可哀そうに!修道士様たちに診てもらいましょうか?恐ろしい疫病が流行っていますもの」
 「そこまでひどくないわ。しばらく一人にしておいてくれたら、きっとよくなるわ」
 「そうおっしゃるのなら。イポクラス酒を持って来ましょうか?マルメロの砂糖漬けは欲しくありませんか?」
 「ありがとう、親切ね。これからひと眠りするから、ほっといてちょうだい」
 会話は終わり、信じられなかったジルコニアは絶句した。どれだけ懸命に努めたとしても、到底納得できないような不可思議が起こった。まさか本当に声を失ってしまったとでも?では、言葉は誰が発したのだろうか。現実に抱けるとは考えていなかった高揚はぺしゃんこに潰れ、屈辱の苦みを味わった上、目に見えなかったおぞましい恐怖に苦しんだ淑女は、クラクラとめまいを覚えた。一方で腕を組み、少しだけ色味がかった窓へもたれたアッシュは、去り行く草色の男たちをのんびりと見届けた。真昼へ近づいていた外は晴れ、白さ際立つ巨大な雲を持った濃い青空の下、忙しそうな街の様子が見受けられた。大通りは言うまでもなく、細く入り組んだ路地さえも人々が行き交い、変わらぬ一日を描き出していた。そうした光景を眺めながら、自然とアッシュは下働きの娘の言葉を思い出した。街の中心に位置した商店街は、腕利きの職人たちが作った品が並んでおり、金さえあれば何でも買える・・・。「何でも」。しかしおそらくそれは、一般の客用を意味し、多分とっておきは、足しげく通う常連や裕福な得意先のために、その名の通りとっておいてあることだろう。あるいは権力者が依頼主だとすれば、多少の我儘や融通もまず利く。――そうか、その手があったか!突然に閃いた魔人はパチンと指を鳴らすと、途方に暮れた令嬢へ向き直り、命じた。
 「俺と来い」
 来い?何故彼のような悪者と一緒に、どこぞへ行かなければならないのだ?未経験の恐怖ゆえにほとんど発狂した、「絶対にいやよ、お断りよ!」を語った目つきが、男をぎっと睨んだ。だがしかし、とはいえども、屁でもなかったアッシュはズカズカと寄ると、遠慮なしに手首をとり、椅子から強引に立ちあがらせた。男の手はどうやっても解くことができず、引っ張られたジルコニアは、窓へ向かわざるを得なかった。そして、アッシュが何気ない素振りで窓を開けたら、取り乱す彼女をグイッと引き寄せた。
 「何するの!やめて!」
 と、訴える貴婦人を無視して、腰に腕を回したアッシュは支えると、窓枠へ足をかけたかと思いきや、さっと飛び降りた。真実そこまで高くなかったけれども、木登りさえもしたことがなかったジルコニアからすれば、仰天も仰天で、肝がつぶれた。その後で見知らぬ男に連れられる中、よっぽど血を吸われた方がましだと、パノプティコンの箱入り娘は自暴自棄に思った。
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