聖女の加護

LUKA

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私があの悪名高い門をくぐりましたのは、侘しい陰鬱増す、秋の暮れのことでした。恐らく想像には難くないことでしょうが、ちっとも楽しい気分でなかった、その時の私を取り巻いていた乾いた大気は冷え、木枯らしが吹いておりました。どんよりと憂鬱な薄鈍色に曇った空は、かさばり雲で低く立ち込め、あの偉大な太陽を厚く塗りこめる厚かましさについて、私はこの国特有のものを感じました。水上の人でありました私の不安定な足元では、チャプチャプと、これまた物悲しい音が立ち、舳先で立った男が漕ぐ櫂の響きが、ギイギイバタン、ギイギイバタンと、軽やかな絹のような調べを聴き慣れた耳にとっては、あまりにもひどく単調な一本調子に上がっておりました。私にとって男はカロンを彷彿とさせました。もっとも彼はそこまで老けてはおりませんし、真実不愛想かどうかまでは、単なる護送人としての私に、知る由などあるはずがありませんでした。ここへたどり着くまでに、私と彼は言葉を一言も交わしませんでしたが、それもそのはず、これが彼の任務でした。もし仕事をきちんと終えなかったなら、相応の罰とみじめが彼を待ち受けていたことでしょう。
 彼岸にもこのような厳めしい入り口はあるのでしょうか。男が片手を上げて合図を送る傍ら、遮られることなく広がる景色を最後に一目見ようと、私はそちらを向きました。濁った川向うで、見慣れた、しかし遠景としては一度も眺めたことのなかった街並みが、寒々とした空の下で佇んでおりました。紛うことなく都市でありましたそれは、その明らかな栄華と繁栄を誇っているようでしたが、輝かしい顔の裏で潜む何か邪悪なものに、目を付けられてしまった私の胸には、少しもそういったものが湧きあがりませんでした。お察しの通り、私たちをお創りなられた神のありがたい思し召しゆえに、私は数多の者にかしずかれて、あそこで何不自由なく暮らしておりましたが、親しくしていた彼女らを共に連れていくことは、ついぞかないませんでした。ですが私は、あきらめるつもりはありませんでした。めげずに手紙を書き続けましょう。どのみちこれからやることは、それほど多くはないのですから。
 どういう仕組みで開いたのでしょうか、道具に疎かった私には理解できませんでしたが、金属が擦れる耳障りで騒々しい音と一緒に、閉ざされていた水門は内側に開き、私を載せた小舟は、吸い込まれるように進んで行きました。歴史ある、いいえ、歴史そのものと言ってもよろしい敷居をついに跨いだ私は、過去同様に、この恐ろしい口に飲み込まれた気の毒な貴婦人がたを思い起こし、恐怖の息を堪らずのんだものでした。きしんだ門扉が再び閉じ、酸いも甘いもする混沌に満ちた外界を遮断する、無慈悲な音を後ろに聞きながら、私は運ばれて行きました。ぱっくりと開いた内水門を通りますと、鋭い前歯のような鉄格子が頭上で控え、大胆にも脱走を試みる者を、断固として許しませんでした。曲面天井の暗がりには、何匹かの蝙蝠が潜んでおり、この闇を好む間借り人たちの鳴き方や飛ぶ姿に、不気味を覚えました私は、不吉を感じないではいられませんでした。年がら年中落とし込む、寡黙で冷厳な影の中を行きました私は、まるで先の見えない暗い前途を見た気がして、心に冷たい不安を抱きました。
 私は申し分のない装いをした貴族に引き渡され、役目を終えた男は対価を慇懃に受け取り、元来た水路を去っていきました。(中略)
 幽閉という名のみじめな不運を味わった上、非業の死を遂げた者たちの、高貴で哀れな魂が彷徨える呪われた建物と、下世話な召使たちの間で囁かれ出したのは、一体いつ頃からでしょうか。と言いますのも、人の口に戸は立てられぬと申しましょうか、主人の目を盗んで繰り広げられた噂話は、案外彼あるいは彼女の耳に入ったのでございました。当時の因果を、やはり信仰の薄さにあったと捉えました私は、毎日祈りを捧げておりましたから、主の啓示を一言一句たりとも逃さぬよう、いつでも耳は澄ませていたのでした。私の目が届かないのをよいことに、彼らは薄気味悪い経験を、下賤な興奮交じりに話しておりました。贅沢な身なりをした人間が首なしで歩いていたとか。いるはずのない子どもを寝台の側で二人見かけたとか。これらは全く幽霊に違いない、それも処刑や暗殺で命を落とした昔の要人と、すっかり信じ込んだ彼らは、骨身をおぞましい恐怖に震わせていたものでした。私も完全な無知ではありませんでしたから、その時の私のように城に閉じ込められていた者が、望まない最期を遂げた悲劇は、よく記憶しておりました。とは申しましても、上品な血を継いだ方々が、手厚く埋葬された事実は疑いようがありませんし、実際場所は呪われてなどおりませんでした。結局私は一度たりとも、「亡霊」と遭遇した体験がございませんでしたし、ただ単に暇を持て余した侍従らの、刺激的な退屈しのぎに過ぎないと考えておりました。ですから、怪人が潜んでいるという新たな噂を耳にしました時、きっと次は自分と瓜二つの人間を見たと、摩訶不思議な超常を言い出すのだろうと思いました。その侍女曰く、何やら怪人は彼女に噛みつき、血を吸ったと訴えるのでありました。並々ならぬ恐怖と熱狂に駆られた彼女は慎みも忘れ、首筋にあった噛み傷をひけらかしました。そして、怪人はいきなり物陰から現れては、恐怖と狼狽に見舞われた彼女の血を吸った次の瞬間には、また暗がりに消えてしまったとの事でした。これももちろん作り話か、あるいは心根の悪い者がする、ふざけたくだらない悪戯に決まっていましたが、十分な信心が足らず、いつくしみ深き神の恩寵まで至っていなかった彼らは、魂の救済を求めて城をぶらつく亡者と同じく、盲目的に信じました。直接的だろうと間接的だろうと、得も言われぬ恐怖や痛みは、人の感覚を否応なしに麻痺させるものでした。何分私は、日々辛い拷問と隣り合わせで生きておりましたから。「あらゆる認識は感覚に始まる」としましたら、分別は認識から培われるものです。(中略)
 いつからだったでしょうか、私があの気配を感じるようになりましたのは。と申しますのも、それは本当に微かなものでして、私が気が付いた時にはもうすでに、淡い気配はそこからなくなっていたのでございました。部屋で一人手紙を認めている時など、必ず私の気がとられている時になって、私は説明のつけようのない独特な視線を感じるのでした。それは私の胸の内に不安を生み出しました。何故かと申しますと、晴れ渡った空に、暗雲が立ち込めた時の感覚とでも言いましょうか、注がれた視線は力ずくの暴力を孕み、私に対する敵意がむき出しでした。恐怖に駆り立てられた衝動以外の何物でもなしに、素早く振り返ってみても、そこには何もありませんでした。それは私を確かにつけ狙っておりました。ええ、どうして分かるのか、一体何をもってして言及するのだとおっしゃられる、聡明なあなた様の怪訝は重々承知しておりますが、その時の私にはそれらしかったと申すほかありません。しかし当時の私は、頭の中で作り上げた恐怖に縛られなかった私の精神が脆弱でなかった現実を、万物の創造主たる神へ感謝いたしました。
 常日頃の祈願が功を奏したのでしょうか、囚われの身であったにも拘らず、庭へ出ることを許された私は、冷たいですが新鮮な空気を胸いっぱいに吸う機会を、余すことなく利用しました。冬の陰気な曇天は暗い鼠色を帯び、お日様は行方をすっかりくらましておりました。なお悪いことに、城内に縄張りを敷いていたカラスが上げた野太いしゃがれ声を聴きましたら、身震い(寒さではありません)と共に、たちまちいっぺんに気分が沈んでしまいました。そのせいでしょうか、中央にそびえたった立派な白亜の館が、不意に悪魔の館のように映りました。当時の私を取り囲んだ周りは地獄であり、赤く豪奢に装った鬼が、うようよと巡回しておりました。口惜しくも恐怖に付け込まれた私にとって、目の前の巨塔は、打破すべき魔王が巣くう総本山のように、思えなくもありませんでした。羽ばたきを始めたカラスが舞い上がりましたら、真黒い動物を追いかけました私の目は、窓からこちらを見下ろす人物を捉えました。縁起の悪かった鳥に負けず劣らず、男は黒ずくめでした。整った顔立ちは、漂白したかのようにとても青白く、病的でした。凍てついた氷のように色が薄い目つきも、鋭く冷ややかでしたが、危険な何かを如実に語っておりました。名君とも暴君とも遜色なかった彼には、支配的な雰囲気が漂っており、酷薄と傲慢の色がにじみ出ていました。このままでは縮みあがってしまうだけでしたし、失礼があってもいけませんでしたので、私は慌てて膝を折りました。目をそらしておりましたほんの束の間、つい先ほどまで、彼がいたはずの窓が空っぽであることを、私は発見いたしました。そして、一切合切真実のみを打ち明けましょう私が、何もかもお見通しであるあなた様に何を隠しましょうか、彼は私の近くで生えていた裸木の前で立っておりました。その時の私の動転は、申し上げなくてもよろしいかと存じます。危なげな妖艶な眼差しで私をじっと見据えた彼は、恐ろしい暗殺者のような、音を殺した誠に静かな足取りで近づき、恭しい挨拶をしました。胸に手を当ててお辞儀をした彼は、初めて会った私を知っていたのでしょうか。どうやら彼は役人のようでした。最初からそこにいたのかと私は尋ねました。もしそうだとしましたら、私の見間違いだったことになります。ですが彼は問いには答えず、吐く息が白く見えるほどの寒さに凍えた私を案じて、塔の中へ招き入れようとしました。(中略)
 彼は私にワインをふるまってくれました。熟成したぶどう酒は申し分のない味で、血の如く深いガーネット色をしておりました。彼も私の後に続いて飲んだのでしたが、もともと赤かった唇が染まったせいか、はたまた白い肌のために、怖いくらい際立ちました。ですが彼は、心配りに欠かさない紳士でしたので、私の機嫌を取ろうと、しきりに寒さを気にし、身の回りに不都合はないかと訊くのでした。それから彼は、私の身の上を嘆き悔やみ、慰めの言葉をかけてくれました。それは私がここへ移って以来、随分と久しいことでしたので、温かい好感を持ちますと同時に、同情する彼の楽の音のような快い声(あの頃はむごたらしい悲鳴ばかりを耳にしておりました)に、落ち込んでおりました私の心は、大いに元気づけられました。ちょうど磁力が自然と働きますように、どうしようもありませんでした私の目は、絶えず彼に惹きつけられてしまいました。ご指摘の通り、無作為に人を眺めるなどといったはしたない行儀は、卑しい平民でさえも敬遠しますもってのほかでしたが、ただ一人の女でもありました私の未熟な心は、尊く偉大な理性よりもずっと強力でした。当時の私は、後の懺悔を密かに誓いながらも、彼から目を離そうとはしませんでした。一体何と申し上げたものでしょうか、鋭利な刃物を思わせました彼は、生きた生暖かい血が、本当に通っているのだろうかと、疑ってみずにはいられないほど青ざめており、見目麗しい人の姿を借りた奥で、とんでもありません残忍を、押しとどめているように見えました。しかしながら、すこぶる美男子でありました彼は、難しい理屈をこねるのを生来得意としないために、惑わされやすい女の求める華やかさに長け、それでありながら満ちた気品が、夢見がちな女の甘美な空想を支えていました。僭越ながらあなた様を含めまして、誰しも一度は永遠の若さを保ちたいと願ったことがおありでしょうが、なるほど彼を見ていましたら、無理もない話だと頷けました。と申しますのも、全ての感情を排したらしい彼には、時間の経過を感じさせるものが全然なく、ぞっとするほど人間味がありませんでした。しわやクマ、シミ、たるみ、吹き出物、疲労の色など、命ある限り、老いも若きも逃れられない時の刻印が、一つもその美貌にありませんでした。一点の非の打ち所がない人形らしく、彼の中で息づく生命はとても希薄でした。
 ふと、またしてもあの嫌な視線を感じた気がしました私の、怯えた様子について彼は問い質しました。果たしてあの時の私は強がっていたのでしょうか、今ではもうおぼろにしか思い出せませんが、努めて平気なふりをしました私は、大したことは何もない、がしかし、貴人の幽霊が出るというありもしない噂に、女中たちが頻繁に現を抜かしているものだからと説明しました。馬鹿馬鹿しさに彼は笑いました。人間らしい親しみや可笑しさは皆無でした。昔確かにここで、重要な地位についていた者たちの断頭がなされた事実は認めるが、霊魂だけにもなって、城を未練がましくさすらう道理はないだろうと、彼は持論を述べました。彼女らが言っているのは死者だけでなく、人の生き血を吸うおかしな怪人も潜んでいるようだと、私は付け加えました。呆れた彼は滑稽さに眉を吊り上げてから、杯を空けました。そして、再び唇を真っ赤に染めた彼は、私の手を取りながら、私に向かって健気な婦人だと言いました。あの青白い手の冷たさは、今でもはっきりと覚えております。刹那、節度を失ってしまいました私には、予感がありました。いいえ正しくは、淑女らしくなかった「期待」でしたが、当時の私にとっては、どちらでもよろしいことでした。鮮やかな紅色をした唇が、私の手の甲へ押し付けられた次の瞬間、鋭い痛みがそこからサッと走り、思わず顔をしかめました私は、すかさず手を引っ込めようとしました。がしかし、彼はあっという間に私を引き寄せ、私は背を向けたまま、抱き抱えられました。彼は細身でしたが力が強く、二本の腕だけで私を捕まえたのでした。なす術のなかった現実を悟った女性ほど、哀れでみじめなものが、この世の他にあったでしょうか。身動きの取れない不名誉に次いだ不敬が、あったものでしょうか。ここだけのお話ですが、私の心臓は予想外の出来事に大きく脈打ち、浅い呼吸は早くなっておりました。失墜しました私の魂は、泥を塗られたも同然であり、矜持は恐怖と動揺に打ち震えておりました。何を隠そう私は獲物であり、また餌食でございました。血に飢えた獣はどうやって止められたでしょうか、無防備でありました私は、恥を忍んで攻撃を覚悟いたしました。委ねられた運命を弄ぶかのように、嗤いました彼は私へピタリと近づき、素肌の首の付け根へ牙を立てました。すると一体どうしたことでしょう、全く不思議なことでしたが、直前まで濃厚に憑りついていた恐怖が掻き消え、痛みと一緒に快楽が、仰け反ってしまいました私の身の内へ、どっと流れ込んでき

読者は唐突の咳払いによって中断され、物語を読んでいた目がパッと上がった。部屋の戸口には、空咳をした父親と侍女が立っており、こちらを窺っていた。気が付いた彼女は本を閉じると、いいところを邪魔された後悔を隠して言った。
 「お父様ったらいけませんわ。前もってノックして下さればよろしかったのに」
 「それはそうだが、ジルコニア。何遍叩いても、本に夢中だったお前の耳には届かなかったし、女中が呼んでも開かなかったではないか」
 父親のもっともな反論に、娘はキョトンとした。
 「まあ、それは本当ですか?いやですわ、私ったら。ちっとも気が付きませんでした。どうもご苦労でした、ユマ」
 軽く会釈した侍女が部屋から出て行くと、ドモンド氏は言葉を続けた。
 「まったくお前という子は。ろくでもない読書なんぞして、神経を無駄にすり減らしたり、頭を悩ましたりするものじゃないと言うに」
 歩み寄った領主はこれ見よがしにため息をつくと、書き物机の前で腰かけた一人娘を見下ろした。きめ細かな象牙色の肌に、螺旋を描いた墨色の房がしだれ、凍てついた海氷のように白みがかった青い瞳は、男の胸に自負を抱かせなかった日はなかった。他の並大抵の権力者と比べて、氏は特別色を好む類ではなかったが、彼女のために時間を割くのも悪くないという気がしていた。唯一子女は、男子を産む天命のために存在していたのであり、くだらない疫病が流行っている昨今、戦を控えていた彼は、娘の天命を害する恐れを警戒していた。それからちょっとした気分転換にもなったから、氏は適度に彼女と言葉を交わした。
 「いいから大概にしておきなさい。未来の領主に愛想を尽かされたくはないだろう?」
 「さあ、どうでしょうか。まだお会いしていないものですから」
 ドモンド氏はいわくありげに笑った。相手によっては嫌われても構わないという婉曲だった。
 「何、今しがた見定めているところでな。次の戦いで名を挙げるやもしれぬ。パノプティコンを治めるに相応しい立派な武人だろうことは明らかだが」
 「街は病に蝕まれています」
 「お前も十分気を付けなさい。わしは忙しい。居座る奴らを領土から追い出さねばならん」
 「追われなければならないのは悪魔ですわ。人々に憑りついた挙句に殺してしまいます」
 「ジル。一体いつからお前は修道女なんぞになりおった?わしはわしより偉くなった子供を持った覚えはないが」
 「・・・」
 「ジル。憂いた世の中をどうこうしようなんざ考えてくれるな。それは男の仕事だ。任せておけばいい。何、心配いらんさ。侵略者どもを追い払えば、臥せった民衆も活気づくだろうて」
 「・・・」
 「ジルコニア。お前を可愛いと思わなんだら、こうして喋りはしない。パノプティコンとお前の行く末が、わしの固い頭を占めているときたもんだ」
 言葉尻で仄めかした意識的な自嘲に、ジルコニアはうっすらと微笑んだ。
 「さて、お前の頭は何に入れ込んでいた?――ああ、またいつもの怪奇小説か!ううん、お前が熱を上げる理由がさっぱり分からんな!とち狂った人間のすることに、意味などありはしないのだよ、ジル」
 薄いアクアマリンの目を革表紙にやったジルコニアは、心の中で批判的に呟いた。
 (あなたが熱中なさっている戦争だって無意味ですわ、お父様。それも今のように大変な時に!)
 「強い酒と同じだ。お前は刺激欲しさに、誰ぞがでっち上げた空想に、ただ酔っ払っているだけなんだよ。わしに言わせてみれば、そんな幻想は不純でけしからん。ジル。そろそろ頭を冷やして、次期領主夫人らしく振舞ってもいい頃だろう」
 時を告げる鐘が鳴り、用件を思い出したドモンド氏は言った。
 「これから修道院長が面会しに来るが、お前にもぜひ挨拶したいそうだ。くれぐれも非礼のないように頼むぞ」
 「はい、お父様」
 そして、去り行く父親の豪華な毛皮を纏った背中を見届けたとたん、一も二もなく令嬢はすかさず読書を再開した。



野良犬が街中を駆け回るのは、大して珍しいことではなかったが、おでこにコブの膨らんだドワーフを、背に乗せて走る生き物は、人々にとっては滑稽かつ驚愕的な光景だった。そうした彼らの衝撃的な反応にはより目もくれず、老いた白髪のゴブリンは馬、いや犬を走らせた。度々犬は鼻づらを地面へ近づけ、においを嗅いだ。それから動物は捜索者を追跡した。あっちへ来たりこっちへ行ったりした末、雑種犬とモンスターはとある旅館へ導かれた。すばしこい身のこなしで人目をかいくぐり、難なく二匹は部屋を見つけ当てた。曲芸のように犬の背中に立ったリサイクルは、取っ手を掴み、ドアを開いた。ほの明るかった部屋は耳苦しい高いびきが響き、太鼓腹を無様に晒した男がベッドで寝ていた。彼らは音もなく近づくと、ワンワンと吠え、男の惰眠を破った。
 「畜生、何事だ!」
 と、びっくりして叫んだダリルは跳び起き、辺りをあたふたと見回した。
 「うわっ!」
 目覚ましを見つけた彼は驚きの声を上げた。
 「ちしゃ・・ま。アッシュしゃまはどこだ」
 と、高慢なリサイクルは開口一番尋ねたものの、起きた端から聞くには実に奇妙なしゃがれ声と、同じく見るには不快な眼差しだったから、ただでさえ心臓に悪かった目覚めが、一段と胸糞悪いものになった。まだ覚醒しきっていなかったダリルは、寝ぼけた垂れ目で探したが、もう一人の男の姿は見えなかった。彼はどこへ行ってしまったというのだろうか?ぼんやりとした男の気の抜けた表情から、手ごたえのなさを読み取った小鬼は、一瞬の怒りに沸いた。
 「ちしゃ・・ま~・・・」
 眉間をしわ寄せた魔物のただならぬ呟きに合わせて、顔つきを険しくさせた犬が低く唸った。身の危険を突如として覚えたダリルは、ごまかそうと早速ごまをすった。
 「まあまあ、ドワーフの旦那!そんなに腹を立てなさんな。心配性もちと度が過ぎやしねえか?なあに、知らねえ間にふらっと出かけて、ふらっと帰ってきましょうや!まだ一日は始まったばかりだぜ?きっと街のどこかで羽目でも外してるんでしょうよ。なあ、気楽にいきましょうや」
 「ふん、愚かなニンゲン風情が何を偉しょうに!口しゃち・・だけのちしゃ・・まらニンゲンほど表裏の激しい種は、このしぇ界のどこをしゃがしても見つかるもんかい!ええ、ニンゲン?百歩譲って、ちしゃ・・まの言葉を信じてやってもいいが、うしょをついていないと誓えるか?偽りない真実のみを述べていると、ちしゃ・・まらの崇める神とやらに誓えるか?うしゅ汚れたちしゃ・・まの魂の潔白が証明でるか?」
 「そりゃないぜ、旦那。あんまりだ。何と言おうと俺っちを信じてもらえなきゃ、一体全体他に何を信じれば・・・。ああ!・・・旦那、分かったぜ。そうだ、あんたが正しい」
 と、いったん言い終えたダリルは寝台から降りると、四角いテーブルへ向かった。置いてあったきんちゃく袋を掴み上げた男は、ずっしりとした重さに満足そうな顔で言った。
 「あんたの言う通り、俺らはでっち上げる生きもんだ。何せ神さんが『でっち上げた』んだからな・・・。だけどもこいつだけは裏切らねえ。おおそうだとも、親愛なるお金様よ!預かっている旦那の財布にかけて、俺は俺っちの信頼を誓いもすれば、また証明する」
 確かにダリルが握りしめている革袋は、間違いなくアッシュのものだった。年老いたゴブリンのまともな頭が痛んだ。きちんとそれを見据えられなかった(斜視のせいではなく)彼は、くらくらと気が遠のいていくような感じがした。ああ、一体主人は何を考えているのだろう?全く型破りというか、破天荒というか、枠なしというか・・・。実際意外と何も考えていなかったりして。しかし威厳ある彼の面子上、後者の考えは却下するとしても、これは由々しき問題だ!
 まるで信用するなと言わんばかりに、ワンワンと犬が吠えた。胡散臭い男の言い分を鵜呑みにするほど頑迷でなかったにせよ、事実リサイクルは、欲深い人間の打算は信じていた。金で動く軽薄さも、尊厳を重んじる彼が、劣等な人間を忌み嫌う理由の一つだった。ダリルは魚で財布は餌だ。しからば魔物は釣り人となろう。
 「過保護だろうと何だろうと、アッシュしゃまのおしょばにつかねばならん。万が一の大事があっては、リシャイクルの名がしゅたる。いずれ主人は、低俗なちしゃ・・まらをしゅべる(魔)王となる」
 唸る犬をなだめながら、リサイクルは言った。
 「ほう。いや何と、あんたたちはお貴族様だったわけか!やけにこそこそと隠れていやがったから、てっきり悪事を働いた日陰者だとばかし思いきや!そんな偉えお方に俺っちは助けてもらったのかい、ええ!参ったぜ。借りたもんを返そうと思っても、そう簡単には返し切れるもんじゃねえや」
 と、真面目ぶった口では大層に言いながらも、浮かんだ汚いニヤニヤ笑いが、よからぬ考えを抱いた小悪党の、不細工な面相から消えることはなかった。
 「リシャイクルが見つけ出しゅのを手伝えば、しゅこしは返しぇなくもないだろう。っとアッシュしゃまは分かってくだしゃるはずだ。恩義に厚いちしゃ・・まを評価しゅるだろう。しょしてしょれをどう表しゅかは、ちしゃ・・まもよく知っているところだろう」
 幸運の女神のおかげで有頂天となった男の得意顔を、魂胆が見え見えだったリサイクルは密かに呪った。おお、これだから人間は!こんな下卑た奴らに、これ以上大きい顔をさせてなるものか。アッシュは城へ帰ったら、一秒でも早く儀式を済ませ、即刻魔王の座に就かねばならない。くだらない彼らは偉大な君主の足元に跪き、ひれ伏し、服従すべきだ。世界は神という名の、ふやけた偶像によって統制されるのではなく、実力と実行を伴った魔法使いが支配するものだ。
 「へへへ、旦那。もちろんだぜ。年の割にあんたは話が分かる人間だ。いいや、年食ってきたからか・・・。喜んで手を貸そうか」
 言い終えないうちから、話の付いたダリルはきんちゃく袋を首へ掛けた。どうやらずれた黒目を光らせなければならないのは、街のどこかにいるアッシュだけではないようだ。油断も隙もあったものじゃない。雑種犬とモンスターは、悪評高い生き物について密かに合意した。そうだ、ほんのちょっとでもおかしな真似をしたら、すぐに噛みついてやろう。意地悪な人間を憎んでいた犬は、決意にワンと吠えた。
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