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風が止んだら、ちらちらと雪が舞い始めた。周りの音は、震えなくなった大気のために聴こえにくくなり、それはまるで、静かに降る雪が、目に見えない音を、埃と一緒に吸い取ったようだった。刻む蹄ときしむ車輪、グラグラ揺れる荷車だけが、はっきりと耳に入った。フード付きのマントを羽織っていた私以外、帽子を持っていなかったエルフ姉弟、ジュネ爺さん、それからロバたちは、深々と降る粉雪を払うこともしなかった。というよりむしろ、気になっていないようだった。水気を含んでいなかった雪は軽く、さらっとしており、粉糖みたいに白かった。結晶した氷の冷たさと同じくらい、外気温の寒さに対しても、彼らが関心を抱いている様子は見受けられなかった。というのも、もともと妖精だったエフィとケットは、温度の影響をあまり受けないようだったし、運転手のジュネ爺さんは、雪山のマンモルトル山と、カナンの街を繋ぐラトゥール街道を、仕事柄毎日往復しているから、寒さと雪には慣れっこだった。そして、ふさふさと生えた毛に覆われたロバたちは、言うまでもなかった。だがしかし、透明だった吐息は白く濁り、はじめから血色の良かった老人のほっぺたが、ますます赤く染まった。
波のように揺れていた草の海は凪ぎ、はるか上空で、大きな翼を広げた鳥がゆったりと旋回していた。今正に地上は化粧をしており、遠くにぽつんと生えた木がおしろいに目立った。聴こえる鈴の音や、家畜の鳴き声もささやかで、快活な音を絞る雪のせいで、どこかくぐもっていた。塞ぎ込むらしく、みんな何故かしら押し黙っていた。楽しい気分になれと言われても、このような天候ではそうもいかないからだろう。同様に口をつぐんだ私は、ひそやかな雪の力を知った。そう、旅はいつも愉快なものとは限らないのだ。助けたり、助けられたり。モンスターに襲われたり、騒ぎに見舞われたり。道に迷ったり、足止めを食らったり。嬉しい出会いもあれば、悲しい別れもまたしかり・・・。だが、おそらく前世では経験しなかっただろう鮮やかな体験に、転生という生まれ変わりの醍醐味を、何となく目覚めたような気持だった私は、生まれて初めて感じた。そうだ。私は前の世界に退屈していたのだ。特に何も起こらなかった、あの単調な日々。真実何かが起きたとしても、天災とか戦争とか事故と、喜ばしくないものばかり。金に目のくらんだ政治は乱れ、お先真っ暗な将来。環境問題に人とのつながり、病気。そういった膨大で面倒な事柄を意識して、ただでさえ幻滅して打ちのめされた自分を苦しめないように、私は生きながらにして死んでいたのだ。その世界じゃなかったどこかへ私は行きたかった。人はどうせ生きてしまうのなら、生きやすいところで私は生きたかった。人を憎み、嫌い、蔑む敵のいない、安心安全で平穏な世界で。大人と子供の区別もない、重たい責任や、厳しい義務から解き放たれた自由な世界で。むごく辛い不幸など存在しない幸福な世界で。しかし全く信じられないことに、現実はどこまで行っても現実だった。とどのつまり、ファンタジーゲームのキャラクターへ転生したとて、こちらの世界としての現実が確かにあり、正しき友は悪の手からの救いを求めていた。本来であれば、ただの一聖人に過ぎなかった私の出る幕などは一切なく、このゲームの主人公でもあった勇者がすべきことだった。にも拘わらず、予定は狂ってしまったのだ。まずあり得ないことだったが、もしそうだったら、現に今の私はこうしていないだろう・・・。どうして私は無視しなかったのだろう?何故私は心を殺さなかったのだろう?色々と煩わしかった前世の時のように、ひたすら漫画に埋没して、聖女のことなど忘れてしまえばよかったのに。もちろん彼女と私は友達なのだから、当然と言えば当然の行いかもしれなかったが、よく分からなかった私は不思議だった。相も変わらず冴えないオタクで、悩み多き自分だったけれども、自分以外の誰かを気に掛ける人間らしさがあったなんて。どうしようもなかった性分とはいえ、厄介な面倒ごとに自分から突っ込んでいくなんて。報われなかった前世では、失敗が怖くて行動すら起こさなかったのに、なんで今世では動いているのだろう!バッドエンド――。言葉が自然と頭に思い浮かぶと、どちらも地獄には違いないだろうが、恐ろしい魔王に支配された暗黒の世界と、なす術のない障害にぶつかって挫けることも多々あれど、心うきうきわくわくの瞬間もあれば、素敵な一日もたまにあった前世を比べた私は、まだ後者の方がましではないかと考えた。それに、最初から最後まで、どん詰まりの人生なんていうものは、きっとあり得ないだろうし、必ず抜け道がどこかにあるのではないか?多分それが見つけづらいだけで、案外人生は悲観する必要はないのではないか?人生というものに甘えていた私は、ズシリとのしかかり、自らの手で変えられた未来をも、自分の重みで潰していたのではなかろうか。人生なんてくだらない、つまらないものだと思っていた最低に、どうして私は寄りかかっていたのだろう?ああ、まだ一人で立てない赤ちゃんには、優しいお母さんが付き添わなければいけない。それと同じことで、自分の力でやっていく方法が分からなかった私は、柔和な人生に護られて暮らしたかったのだ。厳しかった人生の下では、生きていきたくなかった。
地表はゴロゴロと転がった岩が目に付くようになり、圧巻の山並みは物言わぬ威圧に満ち、通せんぼのようにでんと構えていた。ギザギザと削れた尾根が急峻な崖を物語り、冷え冷えとした面持ちが、難所たる氷の城塞を露わにしていた。ふもとで広がる冷涼な森が、さながら出入口のように待ち受けていた。もうじき集落が姿を現すはずだ。起伏に富んだ青い草原は、放牧する家畜のために短く刈り取られ、あちこちで点在する廃墟が、古の定住をほのめかしていた。ここはうら寂しい地方だった。陽の当らない場所などは、溶けずに残った氷雪が地面を覆い、何とも荒涼としていた。おおそれはもう、うらぶれた傷心に浸るにはピッタリなほどに。
音もなく降り始めた雪が止んでしまうと、空を厚く覆っていた濃い鼠色の雲が次第に薄れ、隠されていた太陽が明るい顔を出し始めた。降り注ぐ光明はまるで希望の光と言わんばかり、勇者の元へ向かう私たちを穏やかに照らした。ああネル!長かった旅もようやく終わるよ。そう、囚われたあなたを解き放つための冒険。もう何も恐れることはないよ。英雄は鼓舞され、再び勇ましく魔人からあなたを取り戻しに行くのだから!私たちの未来は明るい。光に溢れた前途が多難だなんてどうして言える?そこには祝福が常に待っていて、親しみの両腕を開いて、訪れた者を温かく迎えているよ。あなたは報われる。断言してもいい。皆その価値があるに決まっているよ!
歌が聴こえた。遮るものが何もなかったから、よく通る懐かしい響きだった。屈託のない子供たちの無邪気な声が歌っていた―――。
かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつ でやる
よあけの ばんに
つるとかめが すべった
うしろのしょうめん
だあれ
寒村とは似つかわしくないにぎやかさで、喜々とした笑い声が陽光のように煌めいていた。柵で囲われた牧場の中、手と手を繋いだ子どもたちが輪になって遊んでいた。気ままな家畜もそこら辺に散らばっていた。のろまなロバに曳かせた車は、村の中心部を目指してごとごとと進んだ。楽しいわらべ歌はもう一度繰り返され、ぐるぐる回っていた彼らが、輪の真ん中でしゃがんだ子供へ訊ねた。
「うしろのしょうめん だあれ」
「ジン!」
と、すかさず目を塞いだ子供が元気よく答えた。ワイワイきゃいきゃいはしゃぐ中、見事当てた男の子がふざけ半分で、一人の青年の脚にしがみついた。楽し気な彼はにこやかに笑っていたが、不意に気が付くと、こちらを見た。知り合いを目の当たりにしたような、ハッとした表情が、嬉しそうな笑顔に取って代わると、それと認めたエフィが、ジュネ爺さんへとっさに呼びかけた。
「停めて!」
びっくりしながらも、手綱をぐいと引っ張った老人が、生き物の歩みを直ちに止めると、エフィは停止した荷車からひらりと飛び降り、丘を足早に駆けあがっていった。理解したケットも後に続き、私もそれに倣った。
丘のてっぺんは見晴らしがよく、晴れかけた大空と山岳を抱いた壮大な景色が、絵ハガキか壁画のように不動と立ちはだかっていた。飽きた子供は追いかけっこを始め、転んだ。ある子は草を食むヤクを撫でた。また別の子たちは馬飛びに興じた。幼い男の子が、気まずそうな勇者ジンの手をしきりと引き寄せ、遊びをせがんだ。背の低かった若者は棒立ちで、伸びているとはいえ、はさみがまんべんなく入った、松ぼっくりみたいな暗褐色の頭髪がそよ風に揺れ、淡いとび色の瞳が、何かを雄弁かつ弁護的に語っていた。丈は長めだが、袖のなかった暗い水色のチュニックを細い身体に包み、紋章の入った革帯を、痩せた腹に回していた。かつて装備していた立派な盾や豪華な剣は、その頼もしかった背中に見られなかった。
「どちら様ですか」
私たちと会うなり、ジンはむっつりと言った。
「ジン、いくら何でもそれはないわ。あんたの相棒だった私を覚えていないの?」
と、面白い冗談には乗らなかったエフィは、訊き返した。
「相棒って・・・まさか。・・・ああ、確かにエルフだ。へえ、初めて見た」
「会えてよかったわ。引っ越していたらどうしようかと思っていたの」
「・・・」
「紹介するわ。こっちは弟のケット。こっちは聖人族のキミカ」
と、エフィが順に明かすと、薄茶色の目がきょろりと動いた。目つきはいかにも不信そうだった。
「・・・あっそ。一体何の用かな」
と、素っ気なく問われ、エフィが私にチラリと目配せした。今がその時だった私は勇気を出し、下手で震える口を開いた。
「あ、あの・・・。ネルを――、私の友達を助けてあげてください・・・!その、私たちみんなの平和のためにも、聖女は救われなければなりません・・・!えっと・・・。引退は考え直して、どうか悪い魔人を倒してください。勇敢なあなたならきっとできるはずです・・・!」
「・・・悪いけど。他をあたってくれるかな」
と、誇り高き勇者ともあろう者に相応しくない、冷徹な言葉とため息をもって、目線を外した英雄は答えた。
「ジン!」
と、驚いたエフィが間髪入れずに叫んだ。横でケットも鼻白んだ顔つきをしていた。
「遠路はるばる来てもらってすまないけど。・・・困る。俺はもう勇者をやりたくないんだ。・・・俺には聖女を助けることなんてできない」
「そんなことないわ、ジン。どうして!」
「どうしてもこうしても!エフィ、・・・無理なんだ!無理ゲーなんだよ、エフィ!」
「でも――!」
と、辛抱強いエフィがまたしても説得を試みたが、私は彼の言った「無理ゲー」という聞き覚えのある言葉を、何度となく反芻した。何故彼は、この世界がファンタジーゲームだと知っているのだろう。
「ジーンー!」
待ちきれない男の子がじれったそうに催促した。小さな少年を見下ろしたジンは「後でな」と答え、ご機嫌斜めをなだめたが、わがままな彼は一歩も譲らなかった。
「いいからー。はやく。ゲームしようぜ・・・!なあ。あのやり方教えてくれよー。ジンはぜんせゲーマーだったもんな~。かっこいいなー。俺もジンみたいになれるかな~」
「何だよ、ゲーマーって?」
キョトンとした面持ちのケットが、不可思議に独り言ちた。
「あのなー。ジンはなー。かくれんぼしたらなー。なかなか見つからないんだぞー!でも鬼だったらー。簡単に見つけちゃうんだぞー!それにー。こーんなでっかいかまくらも、作れるしー。一番高い木にも登れるんだぞー!雪合戦のときはなー。村の誰よりも当たるんだぞー!」
「前世」、「ゲーマー」。男の子が漏らしたキーワードが聞き捨てならなかった私は、にわかには信じられない気持ちで勇者を見た。ちょっと待って!そんなまさか!今現在私の目の前で佇んでいる青年もまた、輪廻転生したとは!嘘!きっと馬鹿な思い過ごしだろう!えっ!前世の記憶を持った勇者なんて!私と一緒じゃん!あり得ない!・・・いや、あり得る、のか・・・?万が一にも本当だとしたら、ゲームをプレイしたことのあった彼も、今後の展開が手に取るように分かるはずだが・・・。
「世界が魔王に支配されるんですよ・・・!最悪滅ぶかもしれないんですよ・・・!」
私は本気で訴えた。
「・・・だから何だよ。そんなの俺の知ったことじゃない・・・!開発者のせいだ。俺のせいじゃない。クリアできないようなゲームを作るからいけないんだ!」
と、言い返すジンの表情は、傷ついた子供のそれだった。ましてや、傷ついただけならまだしも、わがままな子どものように拗ねた彼は、むくれていた。子供大人は弁解を続けた。
「俺にクリアできなかったゲームはなかったんだ!別にうぬぼれてるわけじゃない。勝つまで徹底的にやりこんだ。でもチートにはどうしようもないだろう!?駄目なんだ、絶対に!くそっ、チートにはチートを使わないと勝てないんだ!」
内心、二人の私がせめぎ合っていた。一人はこう言った。
(なあに、こいつ。開き直っちゃって!自分の弱いのを棚に上げて、他人のせいにするなんて!かっこ悪!それに、どうしてチートだって分かるのよう!)
すると、すかさずもう一人が反抗した。
(信じてあげようよ!この人は嘘を言っているようには見えない。仮に嘘をついたって、何の得があるの?この人はすでに十分戦ったんだよ!)
どちらの言い分ももっともらしく、容易く決められなかった私だったが、ただ一つはっきりしていることは、ネルは救われないという事だった。絶望で目の前がいきなり真っ暗になった。何も見えなかった。せっかくの希望は粉々に砕け、いっそ自分も崩れ落ちてしまいたかった。何かある種の感情が湧いてもよかったのに、私は呆然と無に憑りつかれた。悲しみでも怒りでも何でもいい。何か。痛みじゃない何かを私は感じたかった。
自己正当化したジンは渋い顔をしていたけれど、そんな彼を責める資格なんて私にはなかった。ちょうど聖女のネルが魔人に攫われたように、誰しも定めからは逃れられないのだから。そうだ。聖人として生まれ変わった私の定めは、聖人らしく祈るばかりだったのだ。ああ、どうして前世の記憶を持ったまま、転生してしまったのだろう?これでは、なまじ将来が見通せない方がよかったではないか!話が違うなんて真実、知らなければよかった。おお、でも!でも!筋書きが分かっていようがいまいが、結局大切な友を失う運命に変わりはなかった。いやだ!バッドエンディングなんて迎えたくない!せっかく優雅な人生へ生まれ変わったのに、再び地獄を生き直すなんてできっこない!神様の悪戯にもほどがある!なんて性悪な人なのだろう!報われなかった前世と全く同じように、また私を不幸にするなんて!私に何の恨みがあるって言うの!幾らあなたでも、していいことと悪いことがある!私の人生を振り回していいのは、あなたじゃなくて、この私だけなのよ!
行かなきゃ。今すぐ会いに行かなきゃ。時間はまだ残されている。世界は終わりを迎えていない。大変な儀式が済む前に、どうにかネルを逃がしてあげなきゃ。何も魔人を倒す必要はない。囚われた彼女さえ自由になれば、それでいいのだ。いいや、おそらく後で取り返しに来るに違いないだろうが、その時はその時だ。今からあくせく考えても仕方のないことだ。多分運がよければ、何とかなるかもしれない。とにかく、だ。いい加減、人生が幸福を与えてくれるのをひたすら待つのは、もうやめた。生まれ変わっても一向に報いない人生に代わって、私は自分で幸せをつかみ取りに行く。手ごわいかもしれない。つかめないかもしれない。それでも何もしないで、世界が悪者に征服される悪夢を味わうよりは、よっぽどましだ。
私はくるりと踵を返すと、丘をズンズン下り、ジュネ爺さんの待つ荷車へ向かった。
★
朝まだき、クロムの様子が気に掛かっていたアッシュは、ガアガアいびきをかいているだらしがないダリルと財布を暗い部屋へ残し、旅館を出た。深いブルーグレーの空にはまだ星が瞬いていた。これから一日が始まろうとしていたパノプティコンは、ひっそりと人気のない静けさと影に包まれ、時間に正確な動物たちだけが、朝の挨拶を交わしていた。軒に留まった鳥はそれぞれ鳴き、羽繕いをした。植え込みに潜んだ虫は羽を震わした。猫は井戸の片隅で伸びをした。蜘蛛は裏路地の巣を張り直した。でこぼことすり減った石畳に座り込んだ犬は、大きなあくびを噛んだ。柱へしがみついたヤモリはねぐらへ帰った。ネズミは隙間から出した顔をごしごしと洗った。風は未だ心地よく眠っており、あのみすぼらしい納屋へ着くまでただの一度も、彼のマントをそよがすことはなかった。
そのとてつもなく広かった視野に入れる前から、こうして現れた彼の主人を実際に見ずとも、足音や気配で鋭敏に察知したクロムは、長く垂れた尻尾をしなやかに振った。差し出した男の手は快く、落ち着くにおいを嗅ぎ取った牡馬は、慰められた。果たして彼は、狭苦しいここから出してくれるだろうか。お腹がはち切れるまで、新鮮な草を食べさせてくれるだろうか。干し草は風味が落ちるんだ。それから外を思いきり走ってもいいけど、畳んだ翼をうんと広げて羽ばたきながら、気持ちのいい空気をたくさん浴びたい。ねえ、どう思う?いやだな、黙ってちゃ分かんないよ。
ふと、ごとんと音がしたら、音のした方を向いたアッシュは、提げていたバケツを地面へ下ろした小間使いの少女を、薄闇の中に見出した。ベイビーブルーの目をいっぱいに見開いた女の子は、びっくりした面持ちで突っ立っており、何もそこまで驚くことはないだろうと、アッシュを呆れさせた。恥ずかしそうに手を胸の前へ置いた娘は、もじもじした。錫製の容器は水で満ち、彼の馬のためだと学んだアッシュは歩み寄り、屈んで手をバケツへ伸ばしながら、何気なく言った。
「ずいぶん早いんだな」
「えっ。――あっ、私が・・・!」
と、不意を衝かれた少女は慌てて求めたが、時すでに遅し。お辞儀をしたクロムは、鉛色をしたバケツから水を飲み始めた。
「あれば干し草も持ってきてくれ。なければ燕麦で構わない」
「あ・・・の」
「何だ?」
「いえっ、何でもありません・・・!」
「すまないがもう一日見てやってくれないか」
「はあ・・・。その・・・」
「?」
「・・・その・・・。名、前を・・・」
「名前。クロムだ」
「ク、ロム・・・さん」
「そうだ。俺の自慢の相棒だ」
「い、いえ!あの、私が訊いているのは、あなたの――」
と、俯いた顔を真っ赤に染めた女の子は、その先を言い終えることができなかった。
「知ってどうする?用事が済めば、パノプティコンに用はない・・・と言いたいところだが、訊きたいことがあるんでな」
緩く微笑んだアッシュは大きな手を差し出すと、名乗った。
「アッシュだ。お前は?」
「ヒ、ヒルダ・・・と言います」
目が合わせられない下働きの娘は、恥ずかしさに頬を赤らめつつ、しっかりした男の手を取った。
「お下げのヒルダか。三つ編みが好きなのか」
握りしめた手を離し、編みこんだからし色の束を摘まみながら、アッシュは問うた。
「そんな・・・。仕事の邪魔になるから」
旅人の気安い馴れ馴れしさに、内気なヒルダの心臓はドキドキ高鳴った。
「ふうん。街ではどんな髪型が流行っているんだ?」
「さあ・・・。知りません」
どういうつもりなのかしら、からかっているのかしらと、ヒルダは訝しんだ。
「たまには違う髪型にしてみたらどうだ?お下げばかりじゃ飽きるだろう」
「・・・そう、ですね・・・。そう、かもしれません・・・」
膨らむ期待と乙女らしい歓喜のために、ヒルダは自分が何を言っているのかよく分からなかった。彼女の忙しい心模様とは裏腹に、彼の言わんとする眼差しは平静で、綺麗で透き通った灰色の水晶に魅入られた娘は、それらに浮かんでいるだろう心情がちっとも読めなかった。
「俺が結ってやる。何、心配するな。手元が狂わない程度の明かりは足りている」
と、にっこりと微笑んだアッシュは言ったが、思いもかけない提案に、ヒルダは面食らった。すかさず辞退の声を上げようとしたものの、何故だかうまく出てこなかった。促されるまま、勝手口の敷居に腰かけたヒルダは、贅沢な扱いに戸惑った。うるさい早鐘のような鼓動と、整理の付かない気持ちにおける混乱が、多感な少女を絶えず悩ました。見るからに、気前のいい憧れの君の指が、身分が卑しかった自分の汚らしい髪に触れている現実は、恋に恋する乙女にとっては、とても身に余るものだった。それこそ冗談も分からないような、身の程知らずの浅はかな女だと、軽蔑した彼は思っただろうか。定めしひと時は、天国にいながらにして、同時に地獄で責め苛まれているみたいだった。
くすんだからし色の髪はマガレイトに結い直された。恥じらうヒルダは嬉しそうだったが、控えめな娘らしい慎みのために、感情を素直に表せなかった。対するアッシュは、それは大して気にしていなかったが、真実リボンがないのを悔んだ。画竜点睛を欠くとはこのことだ。それから彼は、街の中心には何があるか、そして、パノプティコンの権力者が住む屋敷の在り処を訊き出した。感謝や好意もあった娘は、親切心から丁寧に教えた。
「街の中心は目抜き通りになっていて、いろんなお店が並んでいます。お使いに出される時もたまにあって、何でも欲しいものが買えます。高い商品がほとんどですけど。靴屋さん、仕立て屋さん、肉屋さん、魚屋さん、生地屋さん、小間物屋さん、薬屋さん、毛皮屋さん、本屋さん、材木屋さん、パン屋さん、チーズ屋さん、酒屋さん・・・。今はそれほど賑わっていないかもしれないけれど、職人さんたちの腕はなまっていないと思います。
領主のドモンドさんのお屋敷は、古めかしい修道院の側にあって、この街で一番大きなお家です。いつも見張りの兵士が立っていて、まるでお城みたいに立派なお宅です」
「十分だ。ありがとう、助かった。ヒルダは役に立つな。賢い奴は好きだから、妹にしたいくらいだ」
「からかわないでください・・・!」
「フフ。からかってなんかないさ。ほら、妹みたいに抱っこしてやろうか。おんぶならどうだ」
「もう、子ども扱いしないでください・・・!」
アッシュはアハハと愉快に笑った。すぐにヒルダもつられて微笑んだ。知り合ったばかりの彼の中で、情熱が芽生える兆しは、ほんの少しも見られなかったが、ヒルダは自分が今感じている、淡い慕情が嫌いじゃなかった。ああ、もっと彼とおしゃべりして、よく知らないお互いを深く知り合いたい・・・。こんな楽しい時間がずっと続けばいいのに。きっと彼と一緒にいれば、どんな悩みだってたちまち吹き飛んでしまう!だがしかしながら、いずれもできないことを知っていた彼女は、このまま別れるのは惜しかった。馬以外に接点が欲しかった。いったんは離れる二人をつなぎ止める何かが。実に女々しいと理解していながらも、ヒルダはそれを探さずにはいられなかった。偶然マントに目が留まったヒルダは、黒い布が破けている事実に気が付いた。少女は手に取って、生地の裂け具合を確かめた。ビリビリだ。よくもまあここまで破れたものだ!一体全体何をしたら、このように派手に破れるのだろうか?それについて尋ねることも、やぶさかではなかったものの、幸運にも目当ての品を見つけた女の子は、外套を繕う手伝いを申し出た。
アッシュは闇色の羽織を預けた後、クロムへ二言三言話しかけ、納屋を去っていった。その後を見送ったヒルダは寂しいというより、幸せな満足を覚えていた。
波のように揺れていた草の海は凪ぎ、はるか上空で、大きな翼を広げた鳥がゆったりと旋回していた。今正に地上は化粧をしており、遠くにぽつんと生えた木がおしろいに目立った。聴こえる鈴の音や、家畜の鳴き声もささやかで、快活な音を絞る雪のせいで、どこかくぐもっていた。塞ぎ込むらしく、みんな何故かしら押し黙っていた。楽しい気分になれと言われても、このような天候ではそうもいかないからだろう。同様に口をつぐんだ私は、ひそやかな雪の力を知った。そう、旅はいつも愉快なものとは限らないのだ。助けたり、助けられたり。モンスターに襲われたり、騒ぎに見舞われたり。道に迷ったり、足止めを食らったり。嬉しい出会いもあれば、悲しい別れもまたしかり・・・。だが、おそらく前世では経験しなかっただろう鮮やかな体験に、転生という生まれ変わりの醍醐味を、何となく目覚めたような気持だった私は、生まれて初めて感じた。そうだ。私は前の世界に退屈していたのだ。特に何も起こらなかった、あの単調な日々。真実何かが起きたとしても、天災とか戦争とか事故と、喜ばしくないものばかり。金に目のくらんだ政治は乱れ、お先真っ暗な将来。環境問題に人とのつながり、病気。そういった膨大で面倒な事柄を意識して、ただでさえ幻滅して打ちのめされた自分を苦しめないように、私は生きながらにして死んでいたのだ。その世界じゃなかったどこかへ私は行きたかった。人はどうせ生きてしまうのなら、生きやすいところで私は生きたかった。人を憎み、嫌い、蔑む敵のいない、安心安全で平穏な世界で。大人と子供の区別もない、重たい責任や、厳しい義務から解き放たれた自由な世界で。むごく辛い不幸など存在しない幸福な世界で。しかし全く信じられないことに、現実はどこまで行っても現実だった。とどのつまり、ファンタジーゲームのキャラクターへ転生したとて、こちらの世界としての現実が確かにあり、正しき友は悪の手からの救いを求めていた。本来であれば、ただの一聖人に過ぎなかった私の出る幕などは一切なく、このゲームの主人公でもあった勇者がすべきことだった。にも拘わらず、予定は狂ってしまったのだ。まずあり得ないことだったが、もしそうだったら、現に今の私はこうしていないだろう・・・。どうして私は無視しなかったのだろう?何故私は心を殺さなかったのだろう?色々と煩わしかった前世の時のように、ひたすら漫画に埋没して、聖女のことなど忘れてしまえばよかったのに。もちろん彼女と私は友達なのだから、当然と言えば当然の行いかもしれなかったが、よく分からなかった私は不思議だった。相も変わらず冴えないオタクで、悩み多き自分だったけれども、自分以外の誰かを気に掛ける人間らしさがあったなんて。どうしようもなかった性分とはいえ、厄介な面倒ごとに自分から突っ込んでいくなんて。報われなかった前世では、失敗が怖くて行動すら起こさなかったのに、なんで今世では動いているのだろう!バッドエンド――。言葉が自然と頭に思い浮かぶと、どちらも地獄には違いないだろうが、恐ろしい魔王に支配された暗黒の世界と、なす術のない障害にぶつかって挫けることも多々あれど、心うきうきわくわくの瞬間もあれば、素敵な一日もたまにあった前世を比べた私は、まだ後者の方がましではないかと考えた。それに、最初から最後まで、どん詰まりの人生なんていうものは、きっとあり得ないだろうし、必ず抜け道がどこかにあるのではないか?多分それが見つけづらいだけで、案外人生は悲観する必要はないのではないか?人生というものに甘えていた私は、ズシリとのしかかり、自らの手で変えられた未来をも、自分の重みで潰していたのではなかろうか。人生なんてくだらない、つまらないものだと思っていた最低に、どうして私は寄りかかっていたのだろう?ああ、まだ一人で立てない赤ちゃんには、優しいお母さんが付き添わなければいけない。それと同じことで、自分の力でやっていく方法が分からなかった私は、柔和な人生に護られて暮らしたかったのだ。厳しかった人生の下では、生きていきたくなかった。
地表はゴロゴロと転がった岩が目に付くようになり、圧巻の山並みは物言わぬ威圧に満ち、通せんぼのようにでんと構えていた。ギザギザと削れた尾根が急峻な崖を物語り、冷え冷えとした面持ちが、難所たる氷の城塞を露わにしていた。ふもとで広がる冷涼な森が、さながら出入口のように待ち受けていた。もうじき集落が姿を現すはずだ。起伏に富んだ青い草原は、放牧する家畜のために短く刈り取られ、あちこちで点在する廃墟が、古の定住をほのめかしていた。ここはうら寂しい地方だった。陽の当らない場所などは、溶けずに残った氷雪が地面を覆い、何とも荒涼としていた。おおそれはもう、うらぶれた傷心に浸るにはピッタリなほどに。
音もなく降り始めた雪が止んでしまうと、空を厚く覆っていた濃い鼠色の雲が次第に薄れ、隠されていた太陽が明るい顔を出し始めた。降り注ぐ光明はまるで希望の光と言わんばかり、勇者の元へ向かう私たちを穏やかに照らした。ああネル!長かった旅もようやく終わるよ。そう、囚われたあなたを解き放つための冒険。もう何も恐れることはないよ。英雄は鼓舞され、再び勇ましく魔人からあなたを取り戻しに行くのだから!私たちの未来は明るい。光に溢れた前途が多難だなんてどうして言える?そこには祝福が常に待っていて、親しみの両腕を開いて、訪れた者を温かく迎えているよ。あなたは報われる。断言してもいい。皆その価値があるに決まっているよ!
歌が聴こえた。遮るものが何もなかったから、よく通る懐かしい響きだった。屈託のない子供たちの無邪気な声が歌っていた―――。
かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつ でやる
よあけの ばんに
つるとかめが すべった
うしろのしょうめん
だあれ
寒村とは似つかわしくないにぎやかさで、喜々とした笑い声が陽光のように煌めいていた。柵で囲われた牧場の中、手と手を繋いだ子どもたちが輪になって遊んでいた。気ままな家畜もそこら辺に散らばっていた。のろまなロバに曳かせた車は、村の中心部を目指してごとごとと進んだ。楽しいわらべ歌はもう一度繰り返され、ぐるぐる回っていた彼らが、輪の真ん中でしゃがんだ子供へ訊ねた。
「うしろのしょうめん だあれ」
「ジン!」
と、すかさず目を塞いだ子供が元気よく答えた。ワイワイきゃいきゃいはしゃぐ中、見事当てた男の子がふざけ半分で、一人の青年の脚にしがみついた。楽し気な彼はにこやかに笑っていたが、不意に気が付くと、こちらを見た。知り合いを目の当たりにしたような、ハッとした表情が、嬉しそうな笑顔に取って代わると、それと認めたエフィが、ジュネ爺さんへとっさに呼びかけた。
「停めて!」
びっくりしながらも、手綱をぐいと引っ張った老人が、生き物の歩みを直ちに止めると、エフィは停止した荷車からひらりと飛び降り、丘を足早に駆けあがっていった。理解したケットも後に続き、私もそれに倣った。
丘のてっぺんは見晴らしがよく、晴れかけた大空と山岳を抱いた壮大な景色が、絵ハガキか壁画のように不動と立ちはだかっていた。飽きた子供は追いかけっこを始め、転んだ。ある子は草を食むヤクを撫でた。また別の子たちは馬飛びに興じた。幼い男の子が、気まずそうな勇者ジンの手をしきりと引き寄せ、遊びをせがんだ。背の低かった若者は棒立ちで、伸びているとはいえ、はさみがまんべんなく入った、松ぼっくりみたいな暗褐色の頭髪がそよ風に揺れ、淡いとび色の瞳が、何かを雄弁かつ弁護的に語っていた。丈は長めだが、袖のなかった暗い水色のチュニックを細い身体に包み、紋章の入った革帯を、痩せた腹に回していた。かつて装備していた立派な盾や豪華な剣は、その頼もしかった背中に見られなかった。
「どちら様ですか」
私たちと会うなり、ジンはむっつりと言った。
「ジン、いくら何でもそれはないわ。あんたの相棒だった私を覚えていないの?」
と、面白い冗談には乗らなかったエフィは、訊き返した。
「相棒って・・・まさか。・・・ああ、確かにエルフだ。へえ、初めて見た」
「会えてよかったわ。引っ越していたらどうしようかと思っていたの」
「・・・」
「紹介するわ。こっちは弟のケット。こっちは聖人族のキミカ」
と、エフィが順に明かすと、薄茶色の目がきょろりと動いた。目つきはいかにも不信そうだった。
「・・・あっそ。一体何の用かな」
と、素っ気なく問われ、エフィが私にチラリと目配せした。今がその時だった私は勇気を出し、下手で震える口を開いた。
「あ、あの・・・。ネルを――、私の友達を助けてあげてください・・・!その、私たちみんなの平和のためにも、聖女は救われなければなりません・・・!えっと・・・。引退は考え直して、どうか悪い魔人を倒してください。勇敢なあなたならきっとできるはずです・・・!」
「・・・悪いけど。他をあたってくれるかな」
と、誇り高き勇者ともあろう者に相応しくない、冷徹な言葉とため息をもって、目線を外した英雄は答えた。
「ジン!」
と、驚いたエフィが間髪入れずに叫んだ。横でケットも鼻白んだ顔つきをしていた。
「遠路はるばる来てもらってすまないけど。・・・困る。俺はもう勇者をやりたくないんだ。・・・俺には聖女を助けることなんてできない」
「そんなことないわ、ジン。どうして!」
「どうしてもこうしても!エフィ、・・・無理なんだ!無理ゲーなんだよ、エフィ!」
「でも――!」
と、辛抱強いエフィがまたしても説得を試みたが、私は彼の言った「無理ゲー」という聞き覚えのある言葉を、何度となく反芻した。何故彼は、この世界がファンタジーゲームだと知っているのだろう。
「ジーンー!」
待ちきれない男の子がじれったそうに催促した。小さな少年を見下ろしたジンは「後でな」と答え、ご機嫌斜めをなだめたが、わがままな彼は一歩も譲らなかった。
「いいからー。はやく。ゲームしようぜ・・・!なあ。あのやり方教えてくれよー。ジンはぜんせゲーマーだったもんな~。かっこいいなー。俺もジンみたいになれるかな~」
「何だよ、ゲーマーって?」
キョトンとした面持ちのケットが、不可思議に独り言ちた。
「あのなー。ジンはなー。かくれんぼしたらなー。なかなか見つからないんだぞー!でも鬼だったらー。簡単に見つけちゃうんだぞー!それにー。こーんなでっかいかまくらも、作れるしー。一番高い木にも登れるんだぞー!雪合戦のときはなー。村の誰よりも当たるんだぞー!」
「前世」、「ゲーマー」。男の子が漏らしたキーワードが聞き捨てならなかった私は、にわかには信じられない気持ちで勇者を見た。ちょっと待って!そんなまさか!今現在私の目の前で佇んでいる青年もまた、輪廻転生したとは!嘘!きっと馬鹿な思い過ごしだろう!えっ!前世の記憶を持った勇者なんて!私と一緒じゃん!あり得ない!・・・いや、あり得る、のか・・・?万が一にも本当だとしたら、ゲームをプレイしたことのあった彼も、今後の展開が手に取るように分かるはずだが・・・。
「世界が魔王に支配されるんですよ・・・!最悪滅ぶかもしれないんですよ・・・!」
私は本気で訴えた。
「・・・だから何だよ。そんなの俺の知ったことじゃない・・・!開発者のせいだ。俺のせいじゃない。クリアできないようなゲームを作るからいけないんだ!」
と、言い返すジンの表情は、傷ついた子供のそれだった。ましてや、傷ついただけならまだしも、わがままな子どものように拗ねた彼は、むくれていた。子供大人は弁解を続けた。
「俺にクリアできなかったゲームはなかったんだ!別にうぬぼれてるわけじゃない。勝つまで徹底的にやりこんだ。でもチートにはどうしようもないだろう!?駄目なんだ、絶対に!くそっ、チートにはチートを使わないと勝てないんだ!」
内心、二人の私がせめぎ合っていた。一人はこう言った。
(なあに、こいつ。開き直っちゃって!自分の弱いのを棚に上げて、他人のせいにするなんて!かっこ悪!それに、どうしてチートだって分かるのよう!)
すると、すかさずもう一人が反抗した。
(信じてあげようよ!この人は嘘を言っているようには見えない。仮に嘘をついたって、何の得があるの?この人はすでに十分戦ったんだよ!)
どちらの言い分ももっともらしく、容易く決められなかった私だったが、ただ一つはっきりしていることは、ネルは救われないという事だった。絶望で目の前がいきなり真っ暗になった。何も見えなかった。せっかくの希望は粉々に砕け、いっそ自分も崩れ落ちてしまいたかった。何かある種の感情が湧いてもよかったのに、私は呆然と無に憑りつかれた。悲しみでも怒りでも何でもいい。何か。痛みじゃない何かを私は感じたかった。
自己正当化したジンは渋い顔をしていたけれど、そんな彼を責める資格なんて私にはなかった。ちょうど聖女のネルが魔人に攫われたように、誰しも定めからは逃れられないのだから。そうだ。聖人として生まれ変わった私の定めは、聖人らしく祈るばかりだったのだ。ああ、どうして前世の記憶を持ったまま、転生してしまったのだろう?これでは、なまじ将来が見通せない方がよかったではないか!話が違うなんて真実、知らなければよかった。おお、でも!でも!筋書きが分かっていようがいまいが、結局大切な友を失う運命に変わりはなかった。いやだ!バッドエンディングなんて迎えたくない!せっかく優雅な人生へ生まれ変わったのに、再び地獄を生き直すなんてできっこない!神様の悪戯にもほどがある!なんて性悪な人なのだろう!報われなかった前世と全く同じように、また私を不幸にするなんて!私に何の恨みがあるって言うの!幾らあなたでも、していいことと悪いことがある!私の人生を振り回していいのは、あなたじゃなくて、この私だけなのよ!
行かなきゃ。今すぐ会いに行かなきゃ。時間はまだ残されている。世界は終わりを迎えていない。大変な儀式が済む前に、どうにかネルを逃がしてあげなきゃ。何も魔人を倒す必要はない。囚われた彼女さえ自由になれば、それでいいのだ。いいや、おそらく後で取り返しに来るに違いないだろうが、その時はその時だ。今からあくせく考えても仕方のないことだ。多分運がよければ、何とかなるかもしれない。とにかく、だ。いい加減、人生が幸福を与えてくれるのをひたすら待つのは、もうやめた。生まれ変わっても一向に報いない人生に代わって、私は自分で幸せをつかみ取りに行く。手ごわいかもしれない。つかめないかもしれない。それでも何もしないで、世界が悪者に征服される悪夢を味わうよりは、よっぽどましだ。
私はくるりと踵を返すと、丘をズンズン下り、ジュネ爺さんの待つ荷車へ向かった。
★
朝まだき、クロムの様子が気に掛かっていたアッシュは、ガアガアいびきをかいているだらしがないダリルと財布を暗い部屋へ残し、旅館を出た。深いブルーグレーの空にはまだ星が瞬いていた。これから一日が始まろうとしていたパノプティコンは、ひっそりと人気のない静けさと影に包まれ、時間に正確な動物たちだけが、朝の挨拶を交わしていた。軒に留まった鳥はそれぞれ鳴き、羽繕いをした。植え込みに潜んだ虫は羽を震わした。猫は井戸の片隅で伸びをした。蜘蛛は裏路地の巣を張り直した。でこぼことすり減った石畳に座り込んだ犬は、大きなあくびを噛んだ。柱へしがみついたヤモリはねぐらへ帰った。ネズミは隙間から出した顔をごしごしと洗った。風は未だ心地よく眠っており、あのみすぼらしい納屋へ着くまでただの一度も、彼のマントをそよがすことはなかった。
そのとてつもなく広かった視野に入れる前から、こうして現れた彼の主人を実際に見ずとも、足音や気配で鋭敏に察知したクロムは、長く垂れた尻尾をしなやかに振った。差し出した男の手は快く、落ち着くにおいを嗅ぎ取った牡馬は、慰められた。果たして彼は、狭苦しいここから出してくれるだろうか。お腹がはち切れるまで、新鮮な草を食べさせてくれるだろうか。干し草は風味が落ちるんだ。それから外を思いきり走ってもいいけど、畳んだ翼をうんと広げて羽ばたきながら、気持ちのいい空気をたくさん浴びたい。ねえ、どう思う?いやだな、黙ってちゃ分かんないよ。
ふと、ごとんと音がしたら、音のした方を向いたアッシュは、提げていたバケツを地面へ下ろした小間使いの少女を、薄闇の中に見出した。ベイビーブルーの目をいっぱいに見開いた女の子は、びっくりした面持ちで突っ立っており、何もそこまで驚くことはないだろうと、アッシュを呆れさせた。恥ずかしそうに手を胸の前へ置いた娘は、もじもじした。錫製の容器は水で満ち、彼の馬のためだと学んだアッシュは歩み寄り、屈んで手をバケツへ伸ばしながら、何気なく言った。
「ずいぶん早いんだな」
「えっ。――あっ、私が・・・!」
と、不意を衝かれた少女は慌てて求めたが、時すでに遅し。お辞儀をしたクロムは、鉛色をしたバケツから水を飲み始めた。
「あれば干し草も持ってきてくれ。なければ燕麦で構わない」
「あ・・・の」
「何だ?」
「いえっ、何でもありません・・・!」
「すまないがもう一日見てやってくれないか」
「はあ・・・。その・・・」
「?」
「・・・その・・・。名、前を・・・」
「名前。クロムだ」
「ク、ロム・・・さん」
「そうだ。俺の自慢の相棒だ」
「い、いえ!あの、私が訊いているのは、あなたの――」
と、俯いた顔を真っ赤に染めた女の子は、その先を言い終えることができなかった。
「知ってどうする?用事が済めば、パノプティコンに用はない・・・と言いたいところだが、訊きたいことがあるんでな」
緩く微笑んだアッシュは大きな手を差し出すと、名乗った。
「アッシュだ。お前は?」
「ヒ、ヒルダ・・・と言います」
目が合わせられない下働きの娘は、恥ずかしさに頬を赤らめつつ、しっかりした男の手を取った。
「お下げのヒルダか。三つ編みが好きなのか」
握りしめた手を離し、編みこんだからし色の束を摘まみながら、アッシュは問うた。
「そんな・・・。仕事の邪魔になるから」
旅人の気安い馴れ馴れしさに、内気なヒルダの心臓はドキドキ高鳴った。
「ふうん。街ではどんな髪型が流行っているんだ?」
「さあ・・・。知りません」
どういうつもりなのかしら、からかっているのかしらと、ヒルダは訝しんだ。
「たまには違う髪型にしてみたらどうだ?お下げばかりじゃ飽きるだろう」
「・・・そう、ですね・・・。そう、かもしれません・・・」
膨らむ期待と乙女らしい歓喜のために、ヒルダは自分が何を言っているのかよく分からなかった。彼女の忙しい心模様とは裏腹に、彼の言わんとする眼差しは平静で、綺麗で透き通った灰色の水晶に魅入られた娘は、それらに浮かんでいるだろう心情がちっとも読めなかった。
「俺が結ってやる。何、心配するな。手元が狂わない程度の明かりは足りている」
と、にっこりと微笑んだアッシュは言ったが、思いもかけない提案に、ヒルダは面食らった。すかさず辞退の声を上げようとしたものの、何故だかうまく出てこなかった。促されるまま、勝手口の敷居に腰かけたヒルダは、贅沢な扱いに戸惑った。うるさい早鐘のような鼓動と、整理の付かない気持ちにおける混乱が、多感な少女を絶えず悩ました。見るからに、気前のいい憧れの君の指が、身分が卑しかった自分の汚らしい髪に触れている現実は、恋に恋する乙女にとっては、とても身に余るものだった。それこそ冗談も分からないような、身の程知らずの浅はかな女だと、軽蔑した彼は思っただろうか。定めしひと時は、天国にいながらにして、同時に地獄で責め苛まれているみたいだった。
くすんだからし色の髪はマガレイトに結い直された。恥じらうヒルダは嬉しそうだったが、控えめな娘らしい慎みのために、感情を素直に表せなかった。対するアッシュは、それは大して気にしていなかったが、真実リボンがないのを悔んだ。画竜点睛を欠くとはこのことだ。それから彼は、街の中心には何があるか、そして、パノプティコンの権力者が住む屋敷の在り処を訊き出した。感謝や好意もあった娘は、親切心から丁寧に教えた。
「街の中心は目抜き通りになっていて、いろんなお店が並んでいます。お使いに出される時もたまにあって、何でも欲しいものが買えます。高い商品がほとんどですけど。靴屋さん、仕立て屋さん、肉屋さん、魚屋さん、生地屋さん、小間物屋さん、薬屋さん、毛皮屋さん、本屋さん、材木屋さん、パン屋さん、チーズ屋さん、酒屋さん・・・。今はそれほど賑わっていないかもしれないけれど、職人さんたちの腕はなまっていないと思います。
領主のドモンドさんのお屋敷は、古めかしい修道院の側にあって、この街で一番大きなお家です。いつも見張りの兵士が立っていて、まるでお城みたいに立派なお宅です」
「十分だ。ありがとう、助かった。ヒルダは役に立つな。賢い奴は好きだから、妹にしたいくらいだ」
「からかわないでください・・・!」
「フフ。からかってなんかないさ。ほら、妹みたいに抱っこしてやろうか。おんぶならどうだ」
「もう、子ども扱いしないでください・・・!」
アッシュはアハハと愉快に笑った。すぐにヒルダもつられて微笑んだ。知り合ったばかりの彼の中で、情熱が芽生える兆しは、ほんの少しも見られなかったが、ヒルダは自分が今感じている、淡い慕情が嫌いじゃなかった。ああ、もっと彼とおしゃべりして、よく知らないお互いを深く知り合いたい・・・。こんな楽しい時間がずっと続けばいいのに。きっと彼と一緒にいれば、どんな悩みだってたちまち吹き飛んでしまう!だがしかしながら、いずれもできないことを知っていた彼女は、このまま別れるのは惜しかった。馬以外に接点が欲しかった。いったんは離れる二人をつなぎ止める何かが。実に女々しいと理解していながらも、ヒルダはそれを探さずにはいられなかった。偶然マントに目が留まったヒルダは、黒い布が破けている事実に気が付いた。少女は手に取って、生地の裂け具合を確かめた。ビリビリだ。よくもまあここまで破れたものだ!一体全体何をしたら、このように派手に破れるのだろうか?それについて尋ねることも、やぶさかではなかったものの、幸運にも目当ての品を見つけた女の子は、外套を繕う手伝いを申し出た。
アッシュは闇色の羽織を預けた後、クロムへ二言三言話しかけ、納屋を去っていった。その後を見送ったヒルダは寂しいというより、幸せな満足を覚えていた。
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