聖女の加護

LUKA

文字の大きさ
上 下
22 / 36

22

しおりを挟む
吹きすさぶ嵐は、全く私の心模様から具現化したようだった。
 街道を行く私たちの、目的地のマンモルトル山まであと半分というところで、空気の読めない気分屋の空は、暗く濁った雲を垂れこめ、見る見るうちに黒雲で覆ってしまうと、不吉な雲間に隠れた恐ろしい龍か虎の、獰猛な唸り声が喉からほとばしり、耳をつんざくひどい轟音と、目もくらまんばかりの、実にまばゆい光と同時に、地獄の門兵が携えるような三叉のフォークが、不穏な風を吹く天から急に直下してきた。
 燦々と輝く明るい太陽を飲み込んだ天は、まるで悪魔のような呪われた様相を呈し、凶暴と暴虐を孕んだうねりは膨れ上がり、野蛮なパーティーを始める大気は、揺れ惑う地上目がけて、花火を盛んに打ち下げ、まぶたを閉じていても届く雷光が、生き物の視界を眩しく遮り、遥か彼方向かってそびえたつ樹々を、容赦なく灼け落とした。
 荒ぶる風は勢いを増し、髪やたてがみを揉みくちゃになぶるだけでは飽き足らず、目に見えないほど細かなちり芥、青い芝、土埃、石つぶてを一緒に巻き上げながら、ただの一瞬のためらいもなく、帽子やスカーフをあっという間に吹き飛ばし、無情にも攫っていった。
 厳かな自然という神々の饗宴は、絶えず明滅する迅雷と、乱暴な疾風が織りなす地獄の晩餐会らしく、そこへ招かれた鬼雨が加わると、是が非でもいきり立つ彼は、猛威をザアザアと振るい、不安な変化に怯える大地を、急速な弾丸で穿ち始めた。
 正にその時、森羅万象を統べる彼らの中でも、最も邪悪な神が実権を握り、まさしく残酷な本領を発揮していた。
 栄えある軍神の名において戦う、名誉の争いとは裏腹に、一方的な、純粋な悪意に満ちた、ただの忌むべき破壊に、なす術のない人々や動物たちは、恐れおののき、逃げ足を速めた。
 緑色の柔らかな草を食んでいた兎も、そしてその丸々と太った獲物を、耽々と狙っていたキツネも、安全な巣穴へ互いに走り、あるいは、あまり高くない木の、しなる枝に留まる鳥は、同胞の雫に濡れた翼をたたむのを横目に、飛翔を見合わせた。幸運にも、頭上に屋根のあった者は、安息のため息をホッとつき、そうでなかった不運の者は、慌てて民家や納屋の軒下へ駆け込み、やれやれと呆れた吐息をついた。
 空を割る稲妻、強力な暴風、猛然と降る黒雨の三重奏に合わせて踊る嵐は、それこそ荒れ狂った踊り子のように狂乱舞し、田舎の旅籠屋で足止めを食らう私たちの行く手を、迷惑かつ見事に阻んだ。閉めた鎧戸越しでも、外で渦巻く雷と、雨風の唸り声がよく聴こえ、焚火の側で座り込む私は、ため息を軽くついた。
 田舎の旅籠屋は、都会の宿と違って個室はなく、幾台かの天蓋付きのベッドが、剥き出しの土壁に沿って並んでいた。閉めきる窓のせいで、一間の空間は薄暗く、吊るしたランプやろうそくの灯り、白い薄煙を静かに上げる囲炉裏の火が、雨宿りに甘んじる人の顔を、うすぼんやりと照らしていた。それは、思いもかけない暴風雨に遭って、赤くした鼻をすする中年の男から、奇跡的に飛ばされずには済んだものの、鼠色にそぼ濡れた白い頭布を、褪せた麻ひも色の頭から取る、年増の女、出先で知り合った旅人と、おしゃべりに興じる若いカップル、煙草をふかしながら、未亡人で中高年の女将を口説く、乗合馬車の運転手といった顔ぶれだった。
 炉辺にいる私の隣では、妖精でエルフのエフィ、ケット姉弟が、木板を敷いた床の上に座り、何やら話をしながら、串に刺した魚が焼けるのを待っていた。パチパチと、薪が時折爆ぜる音に交じって、ぷすぷすじゅうじゅうと、いけすから取り上げたばかりの、新鮮な身肉が焼けこげる、もう一つの音を耳に入れながら、肩掛けカバンから地図を取り出した私は、現在地を確認した。
 ゲームでプレイできたファンタジー世界は、東西南北を、四つの主だった山に囲まれ、その中心に、聖人族のネルや私、エフィとケットの妖精たちが暮らす、ロック・マッシュルームが、どこまでも広がる大空を衝かんばかりに、高々と生えていた。いろいろとやる気のない勇者ジンが、今のところいるらしい、マンモルトル山は北――地図上では左上に記されている――を占め、旅慣れたミカエラが言った通り、険しい山は一年を通して、厚い雪と冷たい氷に閉ざされており、まだ見ぬ怪物や魔物、素晴らしい探検に血湧く冒険者にとって、正に難所中の難所だった。
 うっそうと生い茂った、広大な迷いの深林が、ロック・マッシュルームを、大海にぽつんと佇む孤島らしく取り囲むように、黒々と描かれた地図は、それぞれの大山へ行くには、ロミやカナンの街など、この世界における主要な都市を、必ず経由しなければならないことを、示していた。だから、全国を走る街道は計四本で成り、左右に渡る横の街道が二つと、上下に通じる縦の街道が二つずつ、地図には引かれていた。だがしかし、もっと正確には、名の付いた本街道は、実質二十二に区分されており、そして、あのロミの街から北西、つまり十一時の方角へ真っ直ぐ伸びたここは、オブライエン街道沿いの、たまたま見つけた、唯一の宿泊所だった。
 ああ、この突発的で激しい嵐さえなかったら、馬車は日が落ちるまでに、オブライエン街道を突っ切って、マンモルトル山を繋ぐ最後の中継地点へ、きっと着けただろうに!全く、こんなところでぐずぐずしていては、助けの来ないネルが、悪い魔人の手によって葬られるのも、時間の問題だというのに・・・!しかしながら、とはいえども、気象予報もない時代、荒々しい天候不順がいつまで続くかなんて、誰一人として、現実分かる者はいなかったから、今の私にできたことは、食べごろを見計らったエフィから、手渡された串刺しの焼き魚が、煤で真っ黒に焦げていない状態に、感謝することだけだった。



昨夜の悪天候と打って変わって、カラリと気持ちよく晴れた青空から射す、煌めく陽射しを受けたアッシュは、灰色の目を眩しそうに細めた後、寝不足からくる眠気のせいで、眠たそうにあくびを噛んだ。彼の若主人(といっても、人間の軽く倍は生きている)のことなら何でもお見通しの、こそこそ嗅ぎまわる密偵のようなリサイクルは、大事な睡眠が不足しているといえども、何故寝坊せず、予定通り、アッシュが馬上の人となっている理由を、苦々しいながらも知っていたから、この際彼は、もっと分別と常識のある魔人のもとへ鞍替え、つまり転職することも、いとわないつもりだった。真実、前夜の嵐は非常に騒々しく、本当に寝苦しい晩ではあったが、実際それに煩わされて、寝るのに困るほど、彼の立派な主人は、おそらく繊細でなかったはずだから、単に寝不足は、夜更かしからくるものだろう――。そして夜更かしが一体何であれ、前もって決めていた買い出しを延ばしたりせず、結局アッシュは大量の雨でぬかるんだ泥道を、ほうきに跨ったしもべの老魔物と共に、行っているのだから、彼はあの女・・・のために、是が非でも手に入れたい、幾つかの品物があって、だからこそ主人は、今日の機会を逃す意思は、さらさらないようだった。おお、どうして恋はこれほどまでに、聡い人から分別を取り上げ、意義ある目的を見失わせ、挙句の果てに、愚かにさせるのだろうか!
 (奥しゃまに旦那しゃま・・・。この老いぼれリシャイクルめは、どこでどう道を違えたのでしょう・・・。とても嘆かわしいことに、あなた方の息子アッシュしゃまは、手をしゅしょこへ伸ばししゃしゅれば届く、あの偉大な魔王への座には目もくれず、あろうことか・・・、ええ、間違いありましぇん。しぇい女なぞに振り回しゃれているのでしゅ・・・)
 威厳に堂々と満ちた魔人の主人が、相対する聖人のネルに、銀色の目や心をはじめとして、それこそ彼の全てを奪われている、とんでもない笑い種を考えただけで、失意の苦いどん底を味わうゴブリンは、今は亡き先代城主とその妻へ、会わせる顔が全然なかった。だがしかしながら、けれどもたとえもし、最恐の魔王としての主君が、世界を牛耳る願望に熱い小鬼が、仕えるべき新たな魔人へ乗り換えたとしても、きっと彼らは大目に見てくれるだろう。というのも、仮に万が一、二人が手塩にかけて育てた、素晴らしい息子に関する、この恥ずべき痴態を聞きつけたならば、まず比類ない馬鹿馬鹿しさを感じた夫妻は、定めし黄泉の国でひっくり返ってしまうに違いないくらい、生きているリサイクルよりも、十二分に驚き呆れるだろうから!



ここで会ったが百年目!
 巷をにぎわせている悪役令嬢なんて目じゃないくらい、待ちに待った復讐の好機を、しみじみと噛みしめるゴブリンは、自分の中でたぎっている、意地悪な継母の血がざわざわと騒ぐのを、否応なしに感じないではいられなかった。しかも、おあつらえ向きに、昨夜の嵐は、彼女に押し付ける仕事を増やしてくれたから、おそらく天気を操る神様は、思い上がった聖女を楽しくいたぶる彼と、性悪な気が合うに違いない。ああ、他人の不幸は甘い蜜と世間は言うが、この姑のような小鬼にとって愉快な復讐は、さらに甘美な味がするものだ!さあ、手始めに彼は何をやらせようか?おお、主人のアッシュと、使用人頭のリサイクルが城を出かけた今の彼は、さながら尊大な女王様のように、憎らしい泥棒猫の聖女に、何でも言いつけることができる!掃除、洗濯、繕い物・・・。ああそうだ、仲間のゴブリンたちへ放り込むのもいいし、城の汚れた窓という窓を拭かせるのもいい!おお、今日という素敵な日は、何とも特別な一日になるに違いない・・・!
 有り余る歓喜にゾクゾクと打ち震えるピケは、黒い口髭の茂った顔を上げて、鈍く輝く黄金の寝台に敷かれた、紅いマットレスの上に横たわっているネルを、見上げた。彼のお気に入りの主人の寝室で、うつ伏せで眠っている女は、真っ赤なシーツにくるまれた乳白色の素肌を晒し、淡いクリーム色をした絹のナイトドレスが、傍らの深紅の絨毯の上に脱ぎ捨てられていた。ああ、実質二人がそこで何をしていたかなんて、考えをめぐらすより先に、めらめらと嫉妬の炎が、怒るピケの内側で燃え上がった。彼や魔人を除いた女が、それこそ寝室に入るだけでも、嫉妬深い魔物にとっては、到底考えられないことだった。おお、もしできることならば、冷たい氷水をいっぱい張ったバケツで、起こすことができたら、いらいらしている彼は、どんなにかスカッとするだろうに!ピケは納得いかないながらも、目前の赤布をむんずと掴むと、グイッと力任せに引っ張った。すると、紅いシーツに巻かれていたネルが反動で転がり、ベッドの脇から下へドスンと落っこちた。
 「い、いたたた~~・・・」
 痛みと衝撃でネルは目覚めると、自分はかねてより寝相が悪かったのだろうかと、考えた。おまけに、自分は裸で眠ってしまうくらいの、無精者だったのだろうか――?いいや、長年の習慣と風邪をひかないよう、彼女は寝間着を着るだけの面倒を、惜しむような怠け者ではなかったから、彼女は昨夜―――。ああそうだ、昨晩は天気が凄まじく荒れていて、吹き飛ばされる葉っぱや木の枝と一緒に、部屋の窓や壁を荒々しく叩きつける、びゅうびゅうごうごうと暴風の唸り声に併せて、とめどない雨が降る、ザアザアザアザアけたたましい響きが、ベッドの中の彼女の耳に確かに聴こえた。――いや、それだけじゃない。彼女は男が呼ぶ彼女の名前を、何度も耳にしたはずだ。ああ、呼びかけに夢中だった彼女は、その幾度となく繰り返された、熱っぽい吐息交じりの妖艶なバリトンを、ありありと覚えている――。おお、彼はこうも言った。『愛している』と。だからその時の彼女は、すこぶる嬉しくて、全く同じセリフを口にしてもよかったのに、そのたびに、彼の唇が彼女の唇を塞いでしまったものだから、救いのなかった彼女は、どうしても言えなくて――。ああ、たとえ彼女の頭が覚えていなかったとしても、彼女の身体が、それははっきりと覚えている!彼女の柔らかい白金の髪をなでた手つき、唇が触れ合う感触、握りしめた手のひら、皮膚で受ける熱く湿ったため息、しっかりと抱き合う力強さ――。二人が夜通し愛し合ったあの情熱的な感覚が、彼女の身体の奥深い芯から、しつこくこびりついて決して離れず、だからこそ、それに対して驚き惚けるネルは、大いに戸惑った。その上、彼女の白い手腕に赤く咲いたこれ・・は何だろう?ぽつぽつと浮き上がった、紅の不思議な斑点は、上腕から前腕にかけてびっしりと刻み込まれ、そして、驚愕に思わず剥いた青緑色の目が、そのように見慣れぬ鮮紅の星々が、両腕だけでなく、全身におびただしく渡っている、にわかには信じがたい現実を捉えたら、そのあまりに生々しい口づけの痕に、いつ刻印されたのか、ちっとも定かでないネルは、果てない海の底よりも深く、恥じ入った。



非常にしわくちゃの、真っ赤なシーツを洗うネルは、このように布がぐしゃぐしゃと乱れるまで、昨夜の彼女と、とてつもなく激しく共用していた、魔人の男の不在について、考えを何とはなしに巡らせた。相も変わらず、分かりにくい彼は一言も告げずに、行ってしまった。おお、どうして彼は、教えてくれなかったのだろう。いや、出かけるならまだしも、少なくともどれくらいの間、彼女の側から離れるか、彼は伝えてくれてもよかっただろうに!ああ、一人残された聖女は寂しくなるとか、そんなほのぼのした話ではなく、恐ろしいモンスターの召使たちの間で、一人ぼっちの彼女は、一体全体どうすればいいというのだろう!それよりも、というか、謎めいたアッシュは、絶対に城へ帰ってくるのだろうか!むろん、隣に彼がいなくては、不安じゃないとは言わないが、未だに慣れないネルは、不気味なゴブリンたちと、上手に付き合っていく自信がなかった。それどころか、まだ恐怖を感じていたネルは、主人のいない魔物たちと一緒に、無事に日を過ごせるのか、少なからず疑問だった。
 全くのところ、今の聖女はさながら洗濯女のようで、傍らのかごに積まれた洗濯物は、ちょっとした小山のように、こんもりと盛られていた。事実というのも、アッシュの紅いベッドシーツだけでなく、ゴブリンたちの古びたリネン類が、まるで天下を統一したらしいピケの号令のもと、久方ぶりに集められたからだった。垢じみたそれらは、汚いシミが付いたり、不潔なカビが生えたり、ぼろぼろに破れ、大穴が開いたものまであった。それこそ臭いについては、言うまでもないだろう。ああ、可哀そうなネル!遠慮を知らない小鬼たちは、まんまとピケの思惑にはまり、股引にズボン、靴下やらシャツ、チョッキ、チュニック、はたまた上着、それから頭巾さえも、彼らは快く提供し、実際手間のかかる仕事を、彼女へ余計に増やした。
 干した洗濯物が乾く間、女中ネルはあいさつ回りがてら、それぞれのゴブリンたちの手足となることを、義務付けられた。よってピケに連れられ、まず彼女が最初に向かった先は、城の西側に構えた菜園であり、そこでは見知らぬ五体の小鬼が、甲斐甲斐しく働いていたが、ネルと同様に、魔人や魔物以外の人物と、どのように接してよいものか、全然分からなかった彼らは、まるで立ち尽くす聖女など、はじめからそこにいなかったかのように、まるきり無視することに決めた。(そう、彼女という生き物が、天馬のクロム、ベビードラゴンのハンターと、それぞれの生みの親でもあった、アッシュの大のお気に入りだった真実は、各自の頭で、きちんと理解していたけれども)したがってネルは、小うるさい炊事係が、小麦粉、干し豆・芋、ぶどう・蜂蜜酒、ビールといった、長期保存できる食糧の貯蔵庫としても使っている、やや離れた燻製小屋へ、よちよちと小さな足を運んでいる間、何をするでもなく、ところどころ泥水がたまった畑を、ボーッと眺めた。鍬や鋤を持った手を黙々と動かす一方、時々手を休めるゴブリンたちは、雑談したり、互いに冷やかし合ったりして、和気あいあいと、朗らかな農作業に従事していた。その横で、大小の鳥たちは、喜ばしい興奮のあまり、うるさいほど盛んにさえずりながら、昨晩の大雨で湿った土を、精力的にほじくり返し、気味悪くうねうねと蠢く、大好物のミミズに食らいついた。耕された大地は、一見ふかふかのベッドのように、見えないこともなく、その肥沃な色味は、単調とは程遠く、土壌はカフェオレらしく、淡い色合いの茶があれば、灰色がかった暗い色調、あるいは黄土、チョコレートの濃い色もあり、柔らかな草が一面に生えそろっている場所もあれば、緑がまばらにしか残っていない箇所もあった。区画は整然と並ぶ畝によって成り立ち、様々な野菜が植えられていた。キャベツ、大根、ネギ、ニンジン、玉ねぎ、カブ、レタス、ニンニク、メロン、レンズマメ、カボチャ、ジャガイモの他、ブドウ、あんず、オレンジ、レモンなどの果物も栽培されていた。麻、亜麻、綿のような繊維植物、大青や茜の染料植物も見られる中、主食だった麦畑は、現在一粒も実っておらず、来る豊作のために土地を休ませていた。また、地面が黒く焦げた丸い円が、焼き捨てられた収穫物(食べられない部分)と、剪定したブドウの枯れ枝の残骸を、如実に示していた。
 藁ぶき屋根の、簡素な木造りの燻製小屋で働くゴブリンらも、菜園にいた小鬼たちの反応とさして変わらず、佇む以外にすることのなかったネルは、ハムやベーコンになる豚肉や鶏肉、卵を燻す業務に加えて、チーズやバターづくりを見学した。それから、すぐ近くの森をちょっと入った彼女とピケは、そこらで切り倒した木で炭を焼くゴブリンと、麦わらで編んだ釣り鐘型のかごの中に、巣くったミツバチの巣から、蜂蜜を採るゴブリンに会ったが、どちらとも手は、しっかり足りているようだった。
 ネルを次々とたらい回すピケは、城の一角にある、頑固一徹ヤジロベエの鍛冶工房へ向かった。煙突の付いた暖炉、ふいご、かな床、大小の金づち、幾本もの火箸を備えた仕事場は、煤で黒ずみ、蹄鉄やらナイフ、斧、なた、三日月形の小鎌、シャベル、つるはし、鍬、すき先がずらりと並べられ、鉄鉱石が溶けて固まった、せん鉄を柔らかくするため、ふいごで大量の風を、五里霧中のネルは、燃え盛る炉床へ送ったのち、白煙を立ち上げた煙管を咥えたヤジロベエが、鮮やかなオレンジ色に白熱した銑鉄を、ガンガンカンカンと、明るい火花をふんだんにまき散らしながら、金づちで目いっぱい打ち鍛えるのを、呆気と目の当たりにした。
 これ以上は付き合いきれない、というよりもむしろ、三時のおやつや夕食の支度に、取りかからねばならなかったピケは、昼下がり、精神的にあっぷあっぷの聖女を最終的に、家畜当番のミノとモンタへ押し付け、ちょうど交替したばかりで、行き交った見張り番の小鬼たちに、からかわれた。
 「「「・・・」」」
 素朴な燻製小屋そっくりの、単純な木組みの藁ぶき小屋で、互いを怪しげに見合わせる三者が、気まずくじっと押し黙る傍ら、それこそ一秒でも早く、うろうろと森の中をほっつき歩いて、新鮮な生の草や木の実、どんぐり、虫を、おなか一杯食べたい家畜動物たちは、とっととここから出さんかと積極的に鳴き、しきりとせがんだ。
大なり小なり、毛のむくむくと生えた動物たち――、コーヒー牛乳みたいに、茶色がかったミルクを出す雌牛、血のように真っ赤なとさかを、小ぶりな頭に華々しく頂いた雄鶏、珍しいウーリーピッグマンガリッツァ、雪のように真っ白な尾羽を振り歩く、滑稽なアヒルと、森の露に濡れた草むらへ、放たれた家畜たちの後を、ネルはミノ・モンタと共につけた。
 ひび割れた雲模様の晴れた空の下で、豊かな雨の潤いをたっぷりと吸い込んだ、生きとし生けるもの全てが、植物動物拘わらず、文字通り生き生きしていた。というのも、まず雫をたくさん弾いた下生えは、実に青々としていて、全くそれらは、草を常食とする動物たちからすれば、これ以上ない、途方もなく素晴らしいごちそうだったし、次に、柔らかく湿った地面は、鼻やくちばしで軽く掘り起こせば、うじゃうじゃと地中の多くの虫が、簡単に取れたからだった。
 雨の美しい名残は、梢に茂った無数の木の葉で受けた、丸い水滴のビーズやら、さながら透明な真珠の首飾りのように、茎に渡り連なった鈴なりの玉に見られ、他方で、そこから旅立つ雫は、湿っぽい別れを惜しむ間もなく、さっと滴り落ちた。ゆえに、輝く眩しい日光が、辺りを明るく照らすと同時に、光彩を透かした露がキラキラと煌めく麗しさを、ネルは見逃さなかった。
 心地よく吹き渡る風は、気分転換と食事に忙しい家禽たちの、色とりどりの毛並みを乱し、撫でられた緑のじゅうたんは、サラサラとこすれ合い、穏やかに波打った。途中、キノコ、くるみ、栗拾い、タンポポ、ニガヨモギなど、薬草集めに精を出すゴブリンたちと、行き会ったミノ・モンタが話すずっと奥で、鹿の親子がもしゃもしゃと、木洩れ日に明るい草を食んでいた。似通った小鬼たちの見分けが、おいそれとつかないネルだったが、ほどなく全員男性であることは分かり、何故女性の魔物が一体もいないのだろうと、不可思議な聖女は、はてと小首をかしげた。だからこそ、そんな彼女を察してか、吃音気味のミノが、ギザギザと生えた、のこぎり歯の口を開いた。
 「ぼ、僕たちは・・・。実はみんな、血を分けた、兄弟なんだ・・・」
 「えっ!?」
 「――じょ、冗談だよ。へへへ・・・」
 ぎこちない微笑みが、小さなゴブリンのはにかむ顔に浮かんだ。
 「あ、あんた・・・ネル。ア、アッシュ様の・・・何?ぼ、僕たちと一緒の――、し、しもべ・・・?そ、それとも――、・・・ペット?」
 ペット!この小柄な魔物の、全く忖度抜きの率直な言葉が、一切信じられなかったネルは、ぽかんと開いた口が一向に塞がらなかった。
 「ち、違う・・・!わたしはあの人の、ペットなんかじゃない・・・!」
 否定する聖女は、輝かしいプラチナブロンドの頭を、左右にぶんぶん振った。
 「あ、そう・・・。そ、それじゃあ・・・こ――『恋人』ってやつ?」
 恋人――。その甘いけれどもしゃがれた語句が、鼓膜に響いた途端、すぐさまアッシュの端正な顔と、その中枢で煌めく、いつもの魅惑的な灰色の瞳が、彼女の脳裏に自然と思い浮かび、それらが何となく恥ずかしいネルは、赤らんだ頬の熱さを知った。
 「し、知りません・・・!――あっ、と・・・。その、わたしは・・・・知らないので、直接あの人に訊いてください・・・!」
 「おうい、ミノォ!一体なぁにを喋ってんだあ~?」
 と、森の向こうから呼びかけたモンタが、実にせまい歩みを、えっちらおっちらと寄せ、こちらの仲間のもとへやって来た。ゴブリンたちの中でも、最も小柄なミノより、数センチ背の高かったモンタは、動物たちの餌でもある、雑穀の入った麻袋を手にし、先が細くとがった紫色の靴を履いていた。かぶっている朱赤の帽子も三角にとがり、先っちょにクマよけの鈴がついていた。同様に、横にはみ出た鋭い耳殻もピンと先細り、尋常じゃないほど広い、黄砂色の額には、水平のしわが幾筋か入っていた。赤茶けた眉毛はまばらで薄く、黒曜石のようなつぶらな眼を縁取る、同じ色の睫毛も閑散としていた。へしゃげて潰れた平たいわし鼻は、スラリと細身で、血色の悪い青紫色の唇をしていた。濃い雀茶色の革ベルトを、手触りがチクチクごわごわする、黄緑色をしたフェルトのチュニックの上から締めた彼は、黄ばんだ股引をその下に穿いていた。
 「モ、モンタと僕は、い――従兄弟なんだ。こ、これは本当だよ」
 「・・・姉妹はいるの?」
 「ふふん、あんたなかなか面白いな・・・!知らなかったか、女のゴブリンは一匹たりとも、この城で働いちゃいないんだぜ」
 「そ、そうなんだ・・・。お、女のゴブリンは希少だから――。い、一匹か二匹くらいしか・・・、両親の間に生まれないんだ」
 「・・・へえ・・・」
 「ぼ、僕は、・・・十匹兄弟の末っ子だったけど・・・、僕の家では、――お、女は、一体も生まれなかったよ」
 「おいらんとこは、全部で十二匹。十番目のおいらのすぐ下に、妹が二匹」
 「マ、マルガリータにマルガレーテ、元気かな」
 「さあな。もう何年も会ってないからな・・・――あっ、おい!そっちへ行くな!」
 と、叫ぶモンタの黒い眼に、何でも飲み込んでしまう、危険な底なし沼へ向かって行く、不注意な家畜たちの姿が映ると、急ぎ止めようとする彼は、ちょこちょこと一生懸命な早足で、危なっかしい彼らのもとへ、はせ参じていった。
 「い、従姉妹たちは・・・。頼りない僕なんかじゃなくて・・・。でっかくて、頭の切れる――、つ、強い雄のゴブリンを選ぶんだ。で、でもそれは――。彼女たちだけじゃなくて――、ふ、普通、ゴブリンの雌は、みんなそうなんだ・・・。た、単純な魔法しか使えない――。魔物の僕たちより・・・こ、高度で複雑で――。上級な魔法を使う、ま、魔人に立ち向かえるくらい。・・・度胸と根性と、胸毛の生えたゴブリンを。――だ、だから――。選ばれなかった、余り物の僕たちは――、ぼ、僕たちより、強くて賢い魔人に、仕えるんだ。ほ、本当に――。今の主人のアッシュ様は――、優しくて、あ、余り物には福がある。なんて言ってくれたけど・・・。魔人も――、い、いろんな人たちがいるんだ。だ、だけど中には――、そんな魔人のもとで従わないで、ただの人間と――。つ、つるむ奴もいるんだ。・・・ま、魔法もへっぽこな僕は・・・、い、生き物の面倒を見るぐらいしか――、取り柄がなくて。だ、だけどアッシュ様は、こんな僕でも必要としてくれて、――ぼ、僕とモンタが――、家畜たちの世話をして、――助かったって笑うんだ。――だ、だから僕は・・・、この城で、僕を働かせてくれたアッシュ様に、・・・感謝してるんだ」
 しゃがれた言葉を詰まらせながら、話を続けたミノは言うだけ言うと、木々の間で立ち往生する、家畜たちのもとへ辿り着いたモンタの後を、よたよたと追っていった。

夜も完全に更けたころ、心身共に、くたくたに疲れていたネルは、たった一度の寝返りも打たず、アッシュの真紅のベッドの上で、ぐっすりと眠っていたので、ピッタリと閉じた目蓋の下で輝く、鮮やかな翡翠色の双眸に、そんな彼女以外のもう一人の女の顔を、入れることはついぞなかった。一体城のどこから現れたのだろうか、誠に不思議な女は、半透明の身体を持ち、灰色がかったベールに包まれた女が動く度、細かな雲母や鱗粉のようなきらめきが、キラリと神秘的に煌めいた。ああ、聖女の安らかな眠りを決して妨げまいと、物静かな彼女が実際どこから来たかなんて、誰にも言えない――。何故ならば、生身の身体を持たなかった彼女は、まるで溶けて消えたものがよみがえるように、何の前触れもなく、そこに立っていたからだった。ありとあらゆる視線を憚る女は、きっと気まぐれな夜の女王――。四角く開いた小窓や、丸い通風孔もとい、朽ちた壁穴から射し込む、青白い清涼な月明りに照らされた、静謐な古城を、懐かし気にうろつきまわる、彼女のおぼろな姿を、時折目にすることのできた者は、夜更かしの得意な梟か、たまたま居合わせたネズミぐらいのもの。貧相な鉛色のフロックドレスを着た女は痩せ、とび色のそばかすが散らばった顔の中で、何とも落ち着いた微笑みを湛えていた。優し気な温かみを帯びた眼差しは、煎ったコーヒー豆のように深い色合いで、目と目の間が割かし離れていた。クセの強い巻き毛を結い上げた亜麻色の髪は、まさしく鳥の巣らしく、無秩序にもつれ絡まっていたが、ぱっと見地味な女の顔つきと、不思議と可憐に調和していた。それこそ幽霊のように、ゆっくりと歩む女は、あてどもなく城をさまよった。臙脂のじゅうたんが敷かれた玄関ホール、石造りの広場、がらんと広がった食堂ダイニングホール、すり減った廊下、陰気な地下牢、妖しい作業場、噴水のある中庭、小鬼たちの休憩所、大きく重厚なタンスがめぼしい衣裳部屋、中庭を囲む回廊、チョコレート色の床板がきしむ図書室、窮屈な螺旋階段、魔剣の眠る宝物庫、旅立った城主の緋色の寝室―――。どでかいアーチ窓を通して、煌々と照り光る月光が、奇抜な暗い部屋を幻想的に照らすただなか、さながら千年の眠りに就いているかの如く、一段と明るい黄金色にまばゆい、優美なクリーム色の髪の毛を伸ばした眠り姫が、絢爛豪華な天蓋ベッドの中で一人横たえており、そして、たった一つの足音や、静寂を破る衣擦れの音もなく、そこへ静かに近寄る女は、優しく彼女を見下ろし、穏やかな一息を柔らかく吹いたら、ちょうど甘美で素敵な夢が、夜明けの目覚めと一緒に霧散するように、灰色がかった女の半透明な姿が、そこから消えてなくなっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

離婚した彼女は死ぬことにした

まとば 蒼
恋愛
2日に1回更新(希望)です。 ----------------- 事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。 もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。 今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、 「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」 返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。 それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。 神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。 大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。 ----------------- とあるコンテストに応募するためにひっそり書いていた作品ですが、最近ダレてきたので公開してみることにしました。 まだまだ荒くて調整が必要な話ですが、どんなに些細な内容でも反応を頂けると大変励みになります。 書きながら色々修正していくので、読み返したら若干展開が変わってたりするかもしれません。 作風が好みじゃない場合は回れ右をして自衛をお願いいたします。

処理中です...