聖女の加護

LUKA

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乗合馬車は街道を走っている情報を得た私たちは、ケチャッピ村を後にした。眩しい朝日が燦々と輝く、良く晴れた、気持ちのいい天気で、私たちは手を振りながら、ボウイとウディ爺さんを始め、村落の人々へ別れを告げた。
 生え変わりでところどころ欠けた歯をむき出したボウイは、満面の笑みを小さなひし形の顔に浮かべながら、偶然出くわした旅人たちを見送った。たった一晩やそこらで変わるものではないが、粗野な少年は、剥き出た両手を後ろに組み、汚い裸足で片脚を器用にかいたりと、行儀も身だしなみも何も、依然となっていなかったが、その明るい喜々とした瞳は、童心や純心といった、汚れの決してない、生きる希望に満ち満ちた、貴重な宝石にも匹敵する輝きを放っていたから、ネルを探し当てる元気が満タンになったことを、私は実感した。
 男の子はいい子で、約束通り、今のところ彼は、昨夜の不思議な出来事を、祖父のウディや、近所の奥さん連中、愉快な友達など、誰にも話していないようだった。それどころか、そんな彼が現実覚えているかどうかまでは、私のトンボ眼鏡越しの目では不明で、実際忘れてくれた方が都合がよかった。見た目は薄汚いが、こざっぱりしたボウイは、朝起きてからも、特殊な治癒の力を使って、彼の腹痛を治した私に対するお礼や、特別へりくだるような態度も見られず、嫌がるエフィの長い金髪を掴んで遊んだり、ロバのミルクがすっかり気に入ったケットのために、搾りたての新鮮なものを、コップ一杯分こしらえたりと、昨晩自分が危うい状況にあったことを、全く気にかけていない様子だった。
 ぼさぼさ頭のてっぺんから、泥や垢の詰まった素足のつま先まで、子供らしい彼は、正に悩みとは対極の存在だった。だがしかしながら、一方でエフィにとっては、悩みの種の少年は災いであり、彼女はせいせいしたと言わんばかり、本街道に繋がる筋道を大股に歩いた。そんな姉と対照的に、弟のケットは上げた両手を、呑気に黄金色の後ろ頭で組み、のんびりとした足取りで、田舎道をぶらぶらと共に歩いた。
 わき道を十五分も行くと、幅の広い街道が目の前に開け、私たちは、私たちが乗る乗合馬車を、それぞれの目で目の当たりにした。幸運にも馬車は時間通りに、ケチャッピ村へ続く、この分岐点あたりに到着しており、幌の半分破れた乗り物は、ややくたびれた栗毛と、まだら模様の二頭の馬によって曳かれ、旅人らしき乗客がすでに乗っていた。
 「乗るんですかい?」
 玉ねぎのように膨らんだ帽子を、目深にかぶった御者の男が、ぶっきらぼうな声を私たちにかけた。
 「ええ、お願い。ロミの街へ行くのよね?」
 と、エフィが訊くと、男は「終着点でさあ」と答え、ほぼ隠れた視線を前に戻した。
 ロミの街――。それは宿場街でもあり、ファンタジー世界における交通の要所の一つで、様々な人々が行き交う、実ににぎやかな繁華街だ。しかも街は建物の趣もあって、渋い古風な街並みが、非日常に飢えたゲーマーの目を楽しませてくれる。
 さして上等でもない、どちらかというと、古ぼけた乗合馬車に居合わせた乗客は、私たちの他に四人おり、そのうちの一人は真っ白な牡山羊を連れていた。新たに乗り込んだ私たちと、向かい合わせの席に座っていたのは、年配の夫婦らしき二人連れ――。だがしかし、長年連れ添って、話すこともなくなった熟年夫妻にしては、彼らはやけにぺちゃくちゃと喋っていたから、案外伴侶に先立たれた、友人同士なのかもしれなかった。小柄な山羊を連れたもう一人は、風呂敷包みの荷物が、男の周りを囲むように、数々と置かれていたため、おそらく彼は、商品を街へ売りさばくと同時に、品物を買い集める旅の行商人だろう。最後の一人は、御者席にほど近い、前の席にひっそりと腰かけていて、くるぶしまである、長い海老茶色のマントに加えて、フードまで被っていたから、男か女か判断が付かなかった。
 パシッと、しなやかな革の鞭が馬の背に当たる、小気味よく乾いた音が鳴ったか否や、私たちを乗せた馬車はゆっくりと動き出し、乗客は独特の震動に揺れた。
 「姉ちゃん、どれくらい乗るの?」
 持て余すだろう暇を見越してか、乗合馬車が発つなり早々、ケットは言った。
 「そうね・・・。順調にいけば、今日の夕方には着くんじゃないかしら」
 「夕方!今、朝の八時だぜ、姉ちゃん・・・。冗談きついよ」
 「んもう、だらしないわね!シャンとしなさい、シャンと!」
 「ちぇ~・・・」
 ケットは不服そうにつぶやくと、またしても両腕を手持ち無沙汰に上げ、金の後ろ頭へ置くと、栗色の編み上げブーツを履いた長い両脚を、気だるげに伸ばした。
 しばらくの間、話す者のいなかった車内は、木製の車体がガタゴト揺れる音と、たまに鳴く山羊の鳴き声以外聴こえず、乗客たちは静かな物思いに耽った。
 純白の山羊を連れた商人は、上着の内ポケットから噛み煙草を取り出し、手で一束を押し込むと、ひとしきりもぐもぐと噛んでから、ペッと傍らの道へ豪快に吐き捨てた。滴る褐色のよだれを、太い血管の浮いた手の甲で拭い取るのを、レンズ越しの横目に見ながら、何となく私は外の景色を眺めた。
 太陽と青空向かって、真っすぐ伸びる杉を筆頭に、濃い深緑色の針葉樹林で占められた森は、うっそうと生い茂り、木立の暗い陰を纏った風は、ひんやりと涼しく吹いた。マタギ、木こりなど、森林の恵みを糧に生きる者たちが、お供の犬や斧を手に、銘々仕事に励んでいた他方、木の小枝を編んだかごを提げた女が、黒・野・木イチゴやら木の実、キノコ、野草や花々を摘みに、黒々とした森をうろついている姿も、時折見えた。
 ズラリと並んだ木が途切れると、次は広大な野原が、これまた際限のない大空を背景に、延々と広がっており、背後の白雲とよく似た、ふわふわの毛玉のような羊たちが、真黒い顔を、しっかり生えた足元の草へ突っ込んで、むしゃむしゃとしきりに食んでいる中、仕事道具の長い杖を手にした羊飼いが、あちこちと散らばった岩の一つに座って、一服していた。
 小高い丘は民家を頂いたものもあれば、そうじゃない丘もあり、そうした村のある丘へは、街道から枝分かれした、細い道筋が伸び、馬車はそのように、側道と本道の合流するところで、乗客がいれば停まった。
 遠目に丸く張られた湖は、ハクチョウ、カモ、カイツブリ、オシドリ、ガチョウ、アヒル、鵜などの水鳥の楽園で、銀のお盆のように、陽射しが反射したキラキラ光る水面を、彼らはすいすいと何食わぬ顔で泳いでは、いきなり頭を水中へ落とし込み、小魚や虫をパクパクと食べていたり、くちばしで整える羽づくろいに、精を出したりしていた。
 更に奥手は、低いなだらかな山並みが、左右に幾つも広がっていた。
 向こうから近くの事物へ戻した私の目線は、もう一対の眼差しを、不意に捉えたが、それというのも、老いた双眸は、私に注がれていたからだった。何かを思いついた老人は、何気なく喋り始めた。
 「いやぁー・・・、わしは今の今まで忘れておったが・・・。ほれ、この広い世の中にはな、何と摩訶不思議にも、けがや病気を一発で治す、奇跡の力を持った人間がいるっちゅう話じゃぞ、婆さん」
 「ほほほほ、何を急に言い出すのかね、この爺さんは!」
 「いんや、わしぁ本気だわい・・・!あんたはわしの言うことが信じられんのかいな?」
 「ほほほほ、信じるも何も、そんな大層なお力、ありゃしませんよ。いいですか、もしあったとしたら、私は喜ん で逆立ちして、あんたの前を歩いてみせますよ!」
 「ああ、ああ!お前はわしの言うことを、皆目信じとらんな!」
 「ほほほほ!それが本当なら、あんたのリュウマチも治してもらえばよかったのに。ついでにボケもね!」
 「ええい畜生め!わしはまだ耄碌もうろくしとらんわい!それが証拠に、ほれ、わしはあの紋章に見覚えがあるんじゃ。奇跡の力を持った奴はな、あれとそっくりのものを着ておったわい」
 「完全な癒しの力ねぇ・・・。そりゃ、ありがたいことこの上ないけど、何だか胡散臭いねぇ・・・」
 「おやおや、まだ疑っているのか、婆さんや!本当じゃよ、わしはこの目で見たんじゃ!」
 「何を見たんです?」
 「あれはわしがまだ、ほんの小さな男の子の時だった。わしは、焚き付けのための松葉や、松ぼっくりを拾いに行きがてら、獲物を捕らえる罠を仕掛けていた、わしのお祖父さんを探しに、日暮れ前の森へ出かけたんじゃ。ところがな、探せども探せども、わしはお祖父さんを見つけられず、わしはどうしたものかと、もしかしたらお祖父さんは、先に帰ってしまったのかと、人気のない森の中で、小さな頭を一人抱えていたんじゃ。その時のわしの不安な気持ちは、お祖父さんと同じくらい年取った今になっても、それははっきりと思い出せる・・・。わしは焦ったよ。日が沈んで暗くなってしまっては、家に帰ることができなくなるからな。だがな、かといって、わしは居場所の分からないお祖父さんを、置き去りにすることはできなかった。森には危ない獣が棲みついている。きっとお祖父さんは、仕掛けた罠を見に行って、反対に襲われたのかもしれなかった・・・。わしはあてどもなく、森の中を彷徨った。そうしているうちに、太陽はどんどん沈んでいった。しかし、あともうちょっとで泣こうという正にその時、絶望していたわしは、大きな岩に挟まれた沢へ出た。ざぶざぶざあざあと、水の流れる音を耳にしながら、わしは波の立っていない川面へ、顔を出してみた。そこには、恐怖と不安にゆがんだ男の子の、見るも可哀そうな顔が映っていたが、その時のわしは、それよりももっと重要なものを見つけた・・・。お祖父さんの手ぬぐいが、突き出た枝に引っかかって、そこに浮いていたんじゃよ。そこで、一か八か賭けたわしは、川上へ上ってみた。辺りはすっかり暗くなってしまった。時折わしは、狼の遠吠えやら、キツツキのノック、牡鹿が角を幹で研ぐ音を横に聴きながら、まだ見ぬお祖父さんを捜し歩いたよ。するとな、偉大な神様は、幼かったわしの勇気を非常に高く買ってくださり、事実賭けに勝たして下さったのさ!・・・薄闇の中、不思議な青白い光を見たわしは、光の照る岩場へ寄ってみると、何とそこには、仰向けに倒れたわしのお祖父さんと、一人の見知らぬ男がしゃがんでいたのさ!わしはお祖父さんを見つけた喜びと、それと一緒に倒れている心配から、一目散に駆け寄ったよ。男は何やら手を、お祖父さんの脚の上にかざしていて、光はその男の手のひらから漏れ出していたのさ・・・!男は訊いたよ。お前はこの爺さんを知っているのか、とな。だからわしが、彼はわしのお祖父さんだと言ってやったら、奴は言ったよ。旅行者の自分はこの森に詳しくないが、どうやらわしのお祖父さんは、熊公に襲われたらしい、とな。お祖父さんは、熊公の縄張りに入っちまったんじゃ。死人のように目を瞑ったお祖父さんの顔には、痛々しい爪痕が残っておった。男は続けたよ。奴がお祖父さんを見つけた時、意識のまだあったお祖父さんは、木にもたれかかって喘いでいた。何事かと魂消た奴は、息の荒いお祖父さんへ向かって行ったが、脂汗の滲んだお祖父さんは、にやりと歯を見せて笑いながら、何でもない、ちょっとばかり喧嘩をしただけだと、言うのさ。呆れた男は、やせ我慢も大概だと言ってやったそうじゃが、そんなことはない、実際わしのお祖父さんは強かったんじゃ!・・・だが、強かったのは熊公も同じで、野蛮なあいつは、お祖父さんの脚に嚙みついたんじゃ。血をいっぱい流したお祖父さんは、幽霊のように青ざめ、ミイラのように干からびておった。だから、ひとまず水を飲ませようと考えた男は、歩けないお祖父さんを肩に担いで、沢のほとりまで引きずっていったそうじゃ。男は雄牛の角をくりぬいた杯で、お祖父さんの渇いたのどを潤すと、お祖父さんの汗とひっかき傷まみれの、汚れた顔を拭こうと、お祖父さんの手ぬぐいを持って、川に浸したものの、急に呻いたお祖父さんが、突然苦しみ始めたものだから、慌てた男は、思わず手ぬぐいを離してしまったんだそうな・・・。わしは訊いたよ。お祖父さんは大丈夫なのか、助かるのか、とな。するとな、男は、わしが心配することは全くない、お祖父さんの傷んだ脚を、自分が治しているからと言って、小さな男の子だったわしをびっくりさせたんじゃ。わしは男と、男のしていることを疑ったよ。その訳はな、男は青光りした手を脚へかざしているだけで、男の言う治療を、わしが鵜吞みにするには、ちと心もとなかったんじゃ。だがな、婆さんや。あんたが信じようと信じまいと、この見知らぬ男は、真実を口にしていたんじゃ・・・!それというのも、わしはな、青い光に照らし出された傷口が、徐々にふさがっていく奇跡を目の当たりにしたんじゃ!そうじゃ、あっけにとられるわしの傍らで、お祖父さんの脚の噛み傷は、丈夫なかさぶたに変わっていったよ・・・」
 「あら、まあ!」
 「そうじゃ、全くあんたが驚く通り、わしのお祖父さんも、開けた目を疑っておったよ・・・。それでな、不可思議なお祖父さんは男に、どうやってけがを治したか再三尋ねたが、困った男は、説明できないのだと言い張った。男はなぜかしら、かなり疲れた様子だったが、救われたわしのお祖父さんは恩を返すべく、男はどこから来て、どこへ行くのだとか、お礼に家でごちそうした上、泊まっていってくれと、しつこく頼んだにもかかわらず、遠慮がちな男は、当然のことをしたまでだから、礼には及ばない、だがしかし、その代わりと言っては何だが、自分がお祖父さんの傷を癒し、助けたことは、家族はもちろん、村の誰にも言ってほしくないと言うのさ!ああ、奴は確かに言ったさ!だけれども、わしのお祖父さんは、男の言い分に納得できなかったもんだから、こう言ったよ。
 『何たわけたことを申すのかい、旅のお人!はてさて、あんたの道理は、わしのものと違っているなんておかしなことは、その口に決して言わせやしねぇぜ!おお、そうじゃ・・・!ありがたいお前様は、奇跡のようなお力で、わしのけがを治して下すったじゃねぇか・・・!そりゃ、あんたが盗人とか、人殺しの悪人ならまだしも、他人様の傷を癒すような人間は、感謝しても、しきれるもんでねぇや!』
 それでも見知らぬ男は言ったよ。男はただ単に、見聞を広めるため、この世界を旅しているのであって、力を使う気など全然なかったと。だから、どうかお願いだから、男の癒しの能力については、誰にも言わず、必ず他言無用を守ってほしいとな」
 「ははあ、それで?」
 「さすがに恩人の頼みとあっちゃぁ、結局わしのお祖父さんも折れたよ。それからわし達は、男に何度も礼を言うと、夜の闇に閉じ込められる前に、流れに沿って森を急いで出たんじゃが、途中ではぐれでもしたか、とにかく見失うてしもたっきり、わしらはその奇跡のような不思議な力を持った男と、二度と再び会うことはなかった。・・・だがな、お祖父さんとわしは誓い合い、この二人だけの秘密を固く守り続けたよ。そのあと、お祖父さんはあまり長くは生きなかったが、この滅多にない、幸運な出来事を度々思い返しては、あれは、男の姿に化けた森の神様とか精霊が、脚の傷を治してくれたんじゃないかと、口癖のように言っておったが、本当のところは誰にも分からん・・・。そしてお祖父さんが死んだあとは、わしも加わる年月と共に、この摩訶不思議な現象を、今の今まですっかり忘れてしもうておったわけじゃよ、婆さん」
 「へえ!爺さんあんた、そりゃ大したものを見たもんだねぇ!その不思議な力でけがを癒した見知らぬ男っていうのは、案外人の姿に化けた魔物じゃなかったのかい?森は動物もうろついているが、薄気味悪い魔物どもも巣くっているからね!まあ、どちらにせよ、そんなろくでもない怪しい思い出は、あんた、きれいさっぱり忘れちまった方が、身のためですよ!いいですか、あんたのお祖父さんが、熊に付けられた脚の噛み傷が、回復したことはすごいですが、まず治したそいつは、ただの人じゃあありませんよ。おお、恐ろしい!それにそいつは、帰る途中で消えちまったっていう話じゃあありませんか!ならきっと、森に潜む物の怪や、妖怪とかの気まぐれな仕業に決まっています!最悪も最悪、もしかしたら、実は男は人食いで、あともう少し、あんたが見つけるのが遅かったら、あんたのお祖父さんは、丸飲みにされていたかもしれないんですよ!」
 といったように、二人のやり取りは依然とまだ続いていたが、居合わせた私は、それ以上聞き耳を立てることはなかった。その代わり、私は濁った緑茶色のマントをしっかりと引き寄せ、不注意にも露わにしてしまった、聖人族の模様を覆い隠した。
 もし私が、このファンタジーゲーム世界の住人として、生まれ変わらなかったとしたら、聖人の私は、心無い老婆の厳しい発言に、誇りやら自尊心を害したかもしれなかったが、しかし転生者の私は、目の前に座っている二人の老人と何ら変わらない、ただの一般人、一人のゲームプレイヤーでもあったから、腹を立てるどころか、現実的な老婆の言う事もうなずける、もっともだという気がしていた。だがしかしながら、それとこれは別の話で、今の私は聖人だったから、愉快な心中とは決して言い切れなかった。
 表情を僅かに曇らせたエフィが、彼女の空色のつり目に心配を浮かべながら、隣の私をチラリと窺い、私は何も言わず、軽く微笑んで、大丈夫、問題は何もないと答えた。
 人食い鬼の聖人か、やれやれ!
 それ以降、ガタゴトと心地よい、乗合馬車のゆっくりとした揺れ、穏やかな日中の温かさから生まれたまどろみが、私たち無抵抗の乗客を次々と襲い、誰が初めにあくびを噛み、あるいはまた、舟をこぎ出したか、うたた寝してしまった私には、ついぞ分からなかったが、気持ちのいい昼寝にうっかり耽る私が、次に目を覚ました時は、馬車は打って変わり、不穏な空気が満ち始めていた。
 ぶるぶる伝わる震動と一緒に、ドシン、ドシンというすこぶる大きな音が、近くの森からこだまし、安らかな眠りを妨げられた私たち乗客は、何事かと、泡を喰った互いの顔を見合わせてから、音のする方へ顔を向けた。
 どういう訳か、天高く伸び、生えそろった木々が左右に分かれて揺れ、枝や大量の葉を落とす一方、巣を作っていた鳥たちが一斉に羽ばたき、避難という性急な出発を急ぐ中、うるさい騒音と定期的な地震の正体を、同時にへし折れ、地面へ荒々しく倒れる無残な木と共に、丸くしたそれぞれの目に入れた私たちは、湧き上がる圧倒と驚嘆の感情に苛まれつつ、目撃した。
 トロールだ。
 このくすんだ緑灰色をした不細工な魔物は、小山ほどある巨躯の持ち主で、両の手足が圧巻の大きさだった。それはあの牛ですら、彼の甚大な手のひらにすっぽりと収まってしまうぐらいで、ざんばら髪の怪物は、ズシリと重たい巨大な岩石をも軽々と持ち上げられる、大層な力持ちだった。しかし、醜い顔は気色悪いイボだらけ、大きく膨らんだ団子鼻、分厚い唇、剛毛で密集した眉毛を頂いたがらんどうの眼窩は、まるでクレーターか、地獄へ通じる真っ暗闇な穴のように深々とくりぬかれ、その中をぎょろりと点灯する、鮮やかなオレンジ色の双眼からは、ささやかな分別を知りつつも、どうしようもない頑固さや凶暴、彼の乱暴な性分がはっきりと見て取れた。そして森を通り抜ける彼は、今現在私たちが進んでいる街道目がけて、凄まじく大きいが、とてつもなくのろい足取りで、ドシンドシンと、広大な偏平足を踏み鳴らしつつ、向かっていた。
 場数を踏んできたのだろう御者の男は、恐怖と焦りゆえに、落ち着きを失った馬たちの足並みが乱れる現実を、ひしひしと感じながらも、しきりと声をかけて、車を止めないよう求めた。だがしかし、ちっぽけな乗合馬車が進もうが止まろうが、それはトロールには全然関係のない話で、目ざとい彼は、鮮やかなオレンジ色の危険な双眸で、私たちが乗る馬車をきちんと捉えると、見境のないちっちゃな子供のように、興奮の地団駄をその場で強く踏み、楽し気なうめき声を上げて喜んだ。
 「うわああ!」
 「きゃっ!」
 「こりゃいかん!」
 御者の男を含めた人間や、エルフのエフィとケット、繁華なロミの街を目指す馬車に乗り合わせた、私たち乗客は言わずもがな、車を曳く栗毛とまだら模様の馬、行商人が連れた真っ白な牡山羊、その他森に暮らす多種多様な動物たちなど、その場に生きとし生けるものみんなが、でかい魔物の半端ない足踏みから派生する、馬鹿げた震動の強烈な威力に面食らい、荒いいななきや、不安の鳴き声、狼狽や仰天の声を口々に上げた。
 瞬く間に悪い直感が、心配する御者の男の中を素早く走り、そして憂鬱な直感は、よりによって、しつこいトロールに目を付けられた、不幸な実感へと立ち代わり、よって、腹を唐突に決めた御者の男は、手にした鞭を勢いよく振り上げると、力いっぱいに、二頭の馬の背中へ続けて振り下ろし、指図を受けた彼らを猛然と走らせた。
 「きゃああっ!」
 「!? 何だっ!?」
 「うわああっ!」
 当然、今の今まで、とろとろと動いていた馬車が、いきなり猛スピードで駆け出したものだから、乗客の私たちは大変な動揺が隠し切れず、縦にも横にも激しく揺れる、幌の半分破れた、木製の車にしがみついた。
 競争らしく脇目も振らず走ることで、御者の男は、困った状況を何とか切り抜けようともくろんだが、それはかえって不運にも、頭の鈍いトロールの、幼稚な興味や好奇心をひいてしまったようで、この醜悪な巨漢の魔物は、走り去ろうとする乗合馬車を、無邪気な一心で追いかけてきた。
 ドシンドシンと、それはひどい轟音と衝撃を、辺りの原っぱにまき散らしながら、汚い出っ歯を剥きだして笑うトロールは、ちょうど、快楽という熱狂に駆られた稚児が、そうする動機や訳も一向に分からず、興味の対象を、熱心かつ執拗に追いかけ回すように、可愛らしいお馬さんに曳かせた小さなおもちゃを、喜々と追い求めた。
 他にどうすることもできなかった私たち乗客は、口をあんぐりと開け、私たちにとっては、全くもって面白くない追いかけっこに夢中な怪物を、呆気と恐慌の気持ちで、ひたすら見つめざるを得なかった。だから、向かい合わせで座っていた、年取った女からは、白髪頭を包んでいた、色鮮やかなスカーフが解け、しわだらけの首に、だらしなく引っかかったままだった。その隣に腰かけたお爺さんからは、被っていた凝った作りの帽子が斜めにずれ、サボテンの棘のような毛が、チクチクと生えた禿げ頭を剥き出し、それと同じくして、片方の靴下が足首までずり落ち、青い静脈の浮き出た脚を晒していた。緊迫を理解しているのか、ずっと鳴き続ける白い山羊の周りでは、飛び出た荷物の中身がコロコロと転がっていた。
 私たちを追いかける鬼は、そのでっぷりした巨躯とは、不釣り合いなほど短いチョッキを身に付け、苔の生えた粗末な上着の下で、褪せた緑灰色のたるんだ胸が上下し、ぽてっと突き出た太鼓腹が、でたらめな足取りに併せて、ブルンブルンと気味悪く揺れていた。
 トロールは言葉を話しているつもりだろうが、それは、言語の発達していない幼児の喋る、あーあーとか、うーうーとかいった、はっきりしない不鮮明な喃語を、何倍にも醜くした、まさしく、おぞましい阿鼻叫喚地獄の底から叫ばれるような、聞くに堪えない完全なる悪声に他ならず、鳥肌の立った私は、改めて魔物という不気味な存在に、身体の真底から震え上がった。そうだ、今の私はゲームをプレーしているのではない、現実のファンタジー世界を生きているのだ・・・!
 すばしっこいネズミのような私たちを、彼はなかなか捕まえることができず、これではらちが明かないと、彼の中でどこからともなく芽生えた苛立ちや、鬱憤も一緒に感じたトロールは、知恵の少ない頭を一生懸命に働かせて、辺りの草原を振りかぶると、そこかしこに散った大きな岩の一つを、彼はその巨大な手のひらにひっつかみ、正にボールを投げるように、疾駆する乗合馬車目がけて、当たったらひとたまりもない、ごつごつと重たい巨岩を、容易くぶん投げた。
 命中はタイミングが合わなかったため叶わず、間一髪、馬車が直前まで走っていたところに、飛ぶようにやって来た岩が着地し、断末魔の如く恐ろしい音を立てて砕け散ると、ねらいが外れたトロールは、ぼさぼさの眉根を不満そうに寄せ、そして、口惜しさからより一層苛立った魔物は、また岩の一つを掴んでは、次の岩を握りしめ、連続で、逃げる私たちに向かって、豪快に放り投げた。
 「なんてこったい!」
 「ひいい!」
 「きゃああ!」
 まるで大砲から打ち放たれた鉛の砲丸らしく、甚だしい速度を纏った岩は、真っ直ぐに向かってきたものの、怒った投手は力みすぎたのだろう、危ない弾は馬車すれすれを掠め、私たちの頭上を通過した後、実にけたたましい音を上げて砕けた。しかしながら、乗客らそれぞれの口から、安堵のため息がホッとつかれたのもつかの間、雄大な宇宙空間を音速で旅する隕石か、はたまた火山の猛々しい噴火と共に、急速に飛び散る、熱々の溶岩と見まごうばかりの、強力な二発目が、乗合馬車という的目指して、早い矢のように突き進んできて、絶体絶命の窮地に立たされた私たちは、今にも止まりそうな息をあっとのんだ。
 「くそったれい!!」
 突如、御者の男の荒々しい罵りが、乗客一同の鼓膜に響いたかと思うと、無我夢中の男は手綱を精一杯に引き絞り、急ブレーキをかけた。
 「うわあああ!」
 「きゃあああ!」
 「こりゃ堪らん!!」
 危機一髪、トロールから放たれた巨岩は、怯えて跳び上がる馬たちの、いななく鼻づらを掠め、ボウリングのように、ピンならぬ先に立っていた樫の木をなぎ倒し、ゴロゴロと無秩序に、果てしない平原を転がっていった。
 サメのようにざらざらと、象のように硬い肌をした魔物は、ちょうどわがままな子供が、願いや希望のかなわない、腹立たしい現実が気に食わないらしく、口惜しみの地団駄をたくさん踏む彼は、逆恨みもよっぽどな、非常に甚だしい逆切れを見せた。したがって、激しい地震が大地をこれでもかと震わし、御者の男の熱心な呼びかけにもかかわらず、栗毛とぶちの馬たちは、地面から蹄を通して伝わるひどい揺れのために、すっかり委縮してしまい、幾度も鞭を食らっても、梃子でも動こうとしなかった。
 ついに、彼の莫大な手から逃れようと、すいすい走っていた馬車が止まった、嬉しい事実を知ったトロールは、この楽しいミニチュアのおもちゃを、粗忽なオレンジの目線まで掴み上げ、満足のいくまで眺めようと考え、よって機嫌を取り戻した彼は、再びゆっくりの大股を、ドシンドシンとうるさく踏み鳴らしながら、こちらへ向かってきた。
 「ね、姉ちゃん!どうしよう!?」
 パニックに見舞われた弟のケットが、同じ妖精の姉であるエフィへ、しどろもどろに訊いた。
 「どうしようたって、戦う以外どうしようもないでしょ!」
 心を決めたエフィは、八重歯のはみ出た口元をきっと引き結ぶと、腰にぶら下げていた弓矢を素早く取り出し、しつこい魔物を追い払う姿勢を、はっきりと示した。
 「あんたも冒険者なら、ケット、自分の身は自分で守るのよ!!」
 ゆえに、勝気な姉の厳しい叱咤激励に感化されたケットは、そがれていた勇気を奮い起こすと、「分かった!」と答えてから、エフィと共に、不幸な運命が待ち受けている乗合馬車を駆け降りていった。そして、何故だか雷のような衝撃に打たれた私も、気が付いた時には、停止した馬車を走り降り、二人の後を追いかけていた。
 同じ肉眼でも、近くで見るトロールは、液晶画面を通して見るものと、比べ物にならないくらい大きく、早まる心臓が、短い間隔で打っている現実を知った私は、それに併せて、吐く息が浅くなっている症状をも理解した。
 向かってくる私たちに気が付いたトロールは、遅いけども広大な歩みを緩めると、好奇心旺盛な稚児が、足元の地面を這う細かなアリを見定めようとするみたく、その場にしゃがみこみ、オレンジの野蛮な双眸で、魔物でない私たち三人を、じろじろと眺めまわした。
 まさかこの私が、うへぇ、トロールの不細工なイボ面と、悪魔のようなとんでもない立ち耳を、間近で見るような機会があったとは!
 言うまでもなく、私を襲った動転は、エルフで妖精のケットをも捉え、あるいは、ジンという名の勇者と一緒に、この下界を旅していた、経験豊富のエフィでさえも、並々ならぬ驚きの色を露わにしていたが、生憎協調性とか、配慮などを持ち合わせていない単純な魔物にとって、私たちの考えや感情はどうでもよく、フンと団子鼻を鳴らした彼は、私たちに対する興味のなさを示唆すると、醜悪な顔を上げて、素敵なお馬さんが曳く木製の車へ、またしてもズシンズシンと歩き始めた。
 「ッこの・・・!待ちなさい!」
 弓を構えたエフィは、トロール向かって矢を射ると、弧を描いた矢は、なめした樹皮のふんどしに突き刺さり、彼の注意を背けられなかった彼女は、もう一度、矢筒から矢を引き抜き、弓へ装填してから弦を引き絞り、離すと、真っ直ぐに飛び出た矢は、くすんだ緑灰色の太ももに刺さり、そして、痛みのような、微かな何かを感じた魔物は、こちらへ半分向き直った。
 (よし!こっちを向いた!)
 内心ガッツポーズをとったエフィは、弟のケットへすぐさま呼びかけた。
 「ケット!あんたの番よ!」
 だがしかし――、
 「!? 何やってんのよケット!早くしなさいよ!」
 という風に、応援を求める姉が急かす傍ら、ケットは何やら、濃い深緑色のチュニックを着た身体を、ごそごそとしきりと探っていたが、やがて信じられない面持ちの彼は、こう口を開いた。
 「武器がない・・・」
 「「はああ!?」」
 「~~~・・・!! 泉に忘れてきちゃったんだよ~~~、姉ちゃん!!」
 したがって、不意を突いて顔をのぞかせた怒りと失望のために、我を一瞬失ったエフィは次の台詞を言いかけたが、彼女の弟の愚かさに同じくらい呆れていた私には、それを聞かずとも、全く台詞が完璧に分かっていた。
 「馬鹿~~~~~!!」
 間髪入れず、今のエフィは正に、穴があったら入りたい気分に駆られたが、事実それというのも、このように大事な局面でへまをするような、ドジな弟を持った恥ずかしさからでもあったが、しかし彼女は何よりも、ちっぽけな弓矢一つで、巨大なトロールに立ち向かう無謀よりかは、さっさと安全な場所へ避難したい気持ちの方が、とても強かったからだった。一方、機嫌を損ねた如く、トロールのたらこ唇が尖ると、手をこぶしに握った彼は、上空へ振り上げた後、目障りな私たち目がけて、拳を豪快に振り下ろした。
 「うわあああーーー!!」
 「「きゃあああーーー!!」」
 途方もない恐慌に苛まれた私たちは、ありったけの叫び声と一緒に駆け出し、幸か不幸か(私たちにとっては幸運以外の何物でもないが!)、狙いの外れた、ドスン!という、半端なく重たいものが落ちるような、極めて恐ろしい着地音を、寒気がサッと走った背後に聴いてからも尚、巣が水攻めにあったアリのように、来た道をてんやわんやと逃げ惑った。実際、救いの神に祈るゆとりなんてこれっぽっちもなく、上がった息を切らしつつ、懸命に逃げる私たちは、今すぐにでも、もつれて絡まりそうな脚が動くだけで、大いにありがたかった。―――だのに、それなのに―――。
 最初からその人は、そこに立っていたのだが、気に留められないほど切羽詰まっていた私は、すこぶる不幸にも転んで初めて、彼または彼女の存在に気が付き、また、その人が言った短い台詞(「任せろ」)が、女の人のアルトであることを、学んだか否や、その人をすっぽりと覆っていた、海老茶色のマントが勢いよく翻り、緑の草が生い茂った大地へ落ちたとたん、私は彼女をしっかりと認識できた。
 肉付きのいい彼女は長身で、褐色の肌をしていた。糖蜜色の髪の毛は細かく縮れ、頭皮から、無数のバネが生えていると言っても過言ではない、もじゃもじゃの毛髪は、ピタリと沿った胴着バスクの上からでも、一目で分かる豊かな胸辺りまで流れ落ちていた。柔らかい麻の開襟ブラウスは長袖で、襞飾りの付いた袖口がゆったりとたるんでいた。地味なこげ茶のズボンはレギンスらしく、ピッタリと細身な作りで、彼女のアスリートのように引き締まりつつも、筋肉の発達した腰回りやお尻を強調していた。黒に近いひざ丈ブーツもスラリと細長く、三角のつま先と上がった踵が、男勝りな彼女の中の、女らしさをより際立たせていた。男よりも男らしい彼女は、針のように細く尖ったレイピアを持ち、角度が急な細眉、薄茶と淡い緑の混じった、ハシバミ色の幻惑的な瞳、滑り台らしく長めのギリシャ鼻、頬骨の出っ張った、一見気が強そうなハートの顔立ちの中、不敵だが優美に微笑んでいた。
 くノ一のように軽やかな足取りで、彼女は颯爽と走ると、手にしたレイピアを巧みに使い、それは鮮やかな突きを、のろまなトロールの、不格好な足へ幾度もお見舞いし、それこそ塵も積もれば山となるではないが、まあまあの攻撃にびっくりした彼は、甚大な片足を上げたまま、たじろいだ。そして彼は、浮いた足をそのまま女へ踏み下ろすことを決定し、現実そうしたのだったが、戦闘に長けた女は、何でもないかの如くひらりとかわすと、地に着いた大足へ、鋭い突きを再び繰り広げ、痛がる魔物を堪らず呻かせた。
 「~~~~~!!」
 とうとう冴えない頭にきたトロールは、言葉にならない憤怒の代わりに、でかい足を何度も何度も、地上の女目がけて下ろし、一息に踏みつぶしてしまおうと試みたものの、素早い彼女はその都度軽やかによけ、そしてそれはまさしく、蝶のように舞い、蜂のように刺す光景だった。その一撃や武器自体は軽いけれども、急所を的確に貫くレイピアは意外にも、トロールのような大型の敵と相性がよく、よって、勝ち目のない状況を悟った魔物は、危ないオレンジ色の目玉をぐるぐる回し、不運と悲愴をその醜い顔に浮かべていた。
 しょっちゅう飛び散る草の破片が、銀のレイピアを操る人物のスピードと鋭さを物語り、まるでワルツでも踊っているかのように、華麗なステップと、優雅な剣さばきでモンスターを翻弄した女は、彼のイボだらけの表情に現れた敗色が、一段と濃くなったのを見て取ると、見事な連続攻撃をピタリとやめ、冷淡な余裕たっぷりに言った。
 「いい子だから、山へお帰り。遊びはもうおしまいだ」
 それは、青き衣をまとい、金色の野に降り立つその者とは、若干違った類の、冷ややかな呼びかけではあったが、負けを認めたトロールはため息をつくと、ざんばらの頭を残念そうに振り、一度は彼の広大な手のひらに取ってみたかった、お馬さんの小さなおもちゃをしぶしぶ諦めると、短く拙いベストを羽織った彼は、それと似つかないほど巨大な背中をくるりと向け、元来た道を、とぼとぼ歩き、つまり控えめなズシンズシンで、戻っていった。
 「立てるか?」
 乱暴で執拗な魔物を追い払った女は、粋な細剣をズボンの紐留めに差し、呆然の私がへたり込むところまで歩くと、褐色の手を差し伸べがてら、淡々と訊いた。
 「あ、ありがとうございます・・・」
 ポカンと呆気にとられながらも、礼を言う私が半分伸ばした手を、女はすぐに掴むと、ぐいと力強い引き寄せで、私は再び立ち上がった。
 「丸腰で行くなんて、無茶な奴だな、お前は」
 苦笑の女は言った。
 「それとあいつも。お前らは一体何を考えていたんだ?」
 女の苦々しい顔が、水を打ったように静まり返った、乗合馬車の側で立つケットの方へ向き、後の言葉はおかしさに満ちていた。
 「ま、次からはきちんと装備することだな。行こう、思わぬ足止めを食った」
 至って冷静の女は、未だ長い旅の続きを平然と語ると、脱ぎ捨てた海老茶色のマントを拾い上げてから、優雅で颯爽な歩みを、嬉しい驚愕に佇む、幌の破れた馬車へ寄せた。

冒険者の女はミカエラという名前で、不愛想な御者の男が、彼の玉ねぎ帽子を恭しく持ち上げ、すんでのところで、彼と彼の大切な馬車が、低能な頭が空っぽなトロールの慰み物となる危機を、救ってくれた彼女へ感謝を伝えたら、歩みを一度止めてしまった馬たちは、再び小走りを始めた。
 しばらくは、幌の半分かかった乗り物は、この美しく強いミカエラに対する、勇気と賞賛とで持ちきりで、辛くも困難を脱した乗客たちは、緊張が溶けた安心の笑顔を、それぞれの顔に浮かべ、救いの手ならぬ、救いのレイピアを帯剣した彼女を、高く持ち上げた。それらに慣れているかどうかまでは、そこまで鋭くない私の洞察や観察眼に、はっきりと定かでなかったものの、ぱっと見何でもなさそうな彼女は、スラリと長い脚を組んで腰かけつつ、彼女へ惜しみなく贈られる、大袈裟なお世辞や明るい冗談を軽く受け流し、ささやかではあるが、喜ぶ商人がお礼としてくれた、真っ赤に熟したリンゴに齧り付いていた。そんな彼女の自立した印象は、私にとって唯我独尊的な、いたずらに他力に甘えることのない、冷然な一匹狼のものに近い感じがした。
 「いるか?」
 出し抜けに、エルフ姉弟と私の興味の視線を受けたミカエラは、やや微笑む傍ら、歯型の跡がくっきりついた、食べかけの赤い果物を差し出し、簡単に尋ねた。
 「ありがとう。大丈夫」
 手のひらを振り振り、微笑むエフィが、そつなくしっかりと質問に答えた。
 「そうか」
 率直で直接的なミカエラは、これまた簡単な一言と共に、伸ばしたリンゴを引き戻すと、シャリッと歯切れのいい音を立てて、かじった。彼女のふさふさと生えた糖蜜色の縮れ毛が、馬車の揺れに併せてふわふわと上下し、昔も今もしつこいオタクだった私は、オタク特有の羨望のような眼差しをもって、トンボ眼鏡のダサいレンズ越しに、私を含め一定のオタク、特に男のある種のオタクには大好物だろう、冷徹で媚び知らずの、残虐な女王様らしい堂々とした彼女を、見つめた。
 「あの、ミカエラ。さっきはありがとう、おかげで九死に一生を得たわ」
 犬歯の目立つ口を開いたエフィが話を続けた。
 「何。私はただ、できることをしたまでだ。一番先に行ったあんただって、なかなかの腕前だったぞ」
 「あ、ありがとう・・・」
 彼女の勇敢な行動や、実際そこまで命中精度が高くなかった射撃を、褒められると思いもしなかったエフィのほっぺたが、真紅の恥じらいにポッと染まった。
 「だがしかし――、問題はそっちの二人だ。お前、武器はどうしたんだ?」
 姉の加勢どころか、魔物との実戦において、何の役にも立たなかったケットは、はっきりとミカエラに訊かれ、言葉に詰まった彼は、どうにもこうにもしようがなく、往生際の悪い開き直りを見せた。
 「仕方ないだろ!?忘れてきちゃったんだから!全く、もし俺の双剣ダブル・ソードがあったなら、あんなうすのろ、ちっとも目じゃなかったね!」
 と、腕を偉そうに組むケットは豪語したが、実感の伴わない言葉は乾き、そのぱさぱさとした響きは、飾り立てられた虚栄とも変わらなかった。
 「んもう、本当にあんたって馬鹿なんだから!よりによって、どうして武器を忘れたりなんかするのよぉ!防具はいっちょ前に付けてるくせにぃ!」
 「何だよ、姉ちゃんだって人のこと言えるのかよぉ!俺が見たへたくそな一発目は、的外れもいいところだったじゃんかよぉ!」
 「なんですってぇ~~~!?」
 すると、いつも所かまわず勃発する、彼らにとってはおなじみの、日常茶飯事の姉弟げんかが始まると、愉快なミカエラは瞬く間に吹き出し、声を上げて笑った。陽気な笑い声は、年配の二人連れと、山羊を連れた行商人を振り向かせるくらい、大きかった。
 「アハハハハ!お前らは楽しいな!気に入ったよ!なあ、キミカとかいうあんた」
 大いに喜ぶミカエラは、明るいハシバミ色の目を細めつつ、日干しレンガのような、赤銅色の顔をにこにこと咲かせ、私に向かって、分かり切った同意を求めた。
 「――それで、エフィにケット。不用心なお前たち三人は、ロミの街へ用があるのか?」
 リンゴの芯を、馬車の外へポイッと捨てたミカエラは、訊いた。
 「ううん、いいえ。ロミの街へは、乗り継ぎで行くの。私たちは、マンモルトル山を目指しているの」
 エフィが代表して答えた。というより、彼女しか勇者ジンの居場所を知らなかった。
 「マンモルトル山・・・!?あそこは一年中雪に覆われている、難所中の難所だぞ?」
 と、訊き返すミカエラの顔つきとアルトには、予期せぬ驚きがありありと滲んでいた。
 「ええ。正確には、マンモルトル山のふもと、だけれど」
 「ほう・・・。そこに村があったかどうか、私はいまいち覚えていないが、かなり辺鄙な土地まで旅するのだな、お前たちは」
 「そうね。まあ。引っ越してなきゃいいんだけど。あなたはどこまで行くの、ミカエラ?」
 「私もロミの街で降りるが、当分の間はそこに留まるつもりだ。友人が住んでいるんだ。催しの奇祭、まあ仮面舞踏会のようなものだが、それでも見物するとしようか」
 ロミの街で開かれる奇祭――。それについて詳しくないエルフ姉弟が、フーンと横で呟く傍ら、熟知とまではいかないが、転生者らしく、このゲーム世界をある程度見知っていた私は、にぎやかな街に相応しい華やかな行事を、ゲームプレイヤーとしての前世で、目の当たりにしていたから、今世の私は、実際の祭りを体験できるかもしれない思いで、密かに興奮した。
 「それで?お前たちはマンモルトル山のふもとへ、誰に会いに行くんだ?まさか雪男じゃないだろうな」
 「雪男って魔物かしら?」
 エフィは純粋な好奇心から尋ねたが、それというのも、一般的な動物でも、たいていが悪戯好きの、はた迷惑な卑しい魔物でもなかった妖精の彼女は、噂ではしきりと取り上げられるものの、その神秘的な姿を滅多に見せない現実の雪男が、そんな彼女と、きっと同類かもしれないとでも、考えたからだろうか。
 「さあな。何にせよ、伝説上の生き物だ」
 興味がないのか、淡々と語るミカエラは、もじゃもじゃの毛束で隠れた肩を、ひょいと竦めた。
 「私たちが会いに行く彼も、伝説に名を遺すような立派な人なの」
 数多の窮地を共に潜り抜け、そのように優れた相棒の道しるべを、光栄にも担っていたエフィは、誇らしげに言った。
 「ほう。山籠もりの修験者か、あるいは修道僧か?」
 感心した様子のミカエラは、つり上がった細眉をさらに上げた。
 「勇者よ」
 瞬間、エフィのもっともな台詞を聴いた直後、耳を疑ったろうミカエラは、鳩が豆鉄砲を食ったらしく、唖然の表情で吃驚したが、またしても直ちに吹き出すと、高々に笑い出した。乗客たちの三つの視線が、こちらへ再びじろりと注がれた。
 「ハハハハハ!一体何を言い出したかと思いきや・・・、勇者か!フッ、アハハハ!・・・いや、すまない。お前があまりに真面目に言うものだから・・・、フフフ」
 「んもう、茶化すなんてひどいわ、ミカエラ!」
 「そうお前は言うが、エフィ。よっぽど勇者なんぞ、古臭い伝説話に聞かれる人間だろう。お前は担がれているんだよ」
 「だってそれはあなたが―――」
 ムキになって言いかけたエフィは、ハッと気が付き、口にすべきでない言葉の続きを、慌てて飲み込んだ。
 『だってそれはあなたが人間だから』おそらくエフィは、こう言おうとしたに違いないだろうが、しかしそれでは、たとえ恩人といえども、同じ乗合馬車にたまたま乗り合わせた彼女に、妖精の自分がただの人間でないことを、自ら進んで暴露するようなものだ。
 馬たちの足取りがのろのろと遅れたら、馬車はかなり高い台地の頂上へ停まり、御者台から降りる御者の男を始め、次々と降りる私たち乗客は、茜射すそこで十分間の小休憩をとった。一服したい御者の男は、連れた白山羊に草を食わせる行商人から、噛み煙草を買い、くちゃくちゃと噛みながら、幌の破れた木製の車や金属の車輪、革でできた馬具を点検したりしていた。恥じらいのない爺さんと婆さんは、用を足しに、丈が高く茂った草むらへ、いそいそと足を運んだ。レイピアをミカエラから見せてもらうケットは、双剣ダブル・ソードを掴むはずだった手に持ちながら、鍔や柄部分の曲線的な装飾美に、明るい顔を喜々と綻ばせていた。そこから見下ろすエフィと私は、少し離れた先に広がる、眼下のロミの街を眺めた。静かで清涼な聖域サンクチュアリとは異なる、朱赤の黄昏に暮れなずみ、影と光を抱いた、実に繁華な都が郷愁を駆り立て、この世界に聖人として生まれて初めて、私は感傷を覚えるとともに、三次元のファンタジーゲームを生きている実感を得た。
 のっぺりと黒ずんだ、たなびく鼠色の雲から垣間見える、オレンジやらピンクの混じった、他に例えられないほど、至極絶妙な赤に色づいた夕陽は、被るむら雲を黄金で縁取りながらも、着々と沈んでいった。遥か頭上では、群れを組んだ鳥たちが翼を上下に動かし、水色、薄いオレンジ、赤みの強いピンクで成る、夕焼けのグラデーションを滑空していた。
 ネルは今どうしているのだろうか。尊い彼女の犠牲と引き換えに、バッドエンドを迎えた世界は、どうなってしまうのだろうか。恐怖の魔王に支配された世界は、このような景色を変わらずしているのだろうか。もし仮に同じだったとしても、漫画の読者であり、かけがえのない友人、それから大切な聖女を失った私は、美しいと感じることができるのだろうか?彼女は絶対に救われなければならない。何としてでも、私は勇者をその気にさせる必要がある。一度挫けた彼から引退の意志を覆させ、ネルを奪い去った憎き魔人を、完膚なきまでにやっつけ、強大な魔王に君臨して、平和なファンタジー世界を、恐怖のどん底へ陥れようなんて、二度とそんな大それた気を起こそうとしないくらい、叩きのめす未来を、私は必ず誓わせるのだ・・・!
 無駄なお喋りでは決してないミカエラが、彼女がよくする旅で見聞きした、様々なものやことについて、とても滑らかな語り口で話してくれたので、私たち三人は、終点のロミの街までは退屈せずに済んだ。根っからの冒険者だった彼女は、流浪の民を自称し、その強い腕っぷしだけを頼りに、世界中を巡っていた。ペテン師、見世物小屋の主人、芝居や歌劇の興行師、大道芸人、道化、錬金術師など、旅先で出会った、きな臭いけども、なかなか面白いありとあらゆる人たちを彼女は挙げ、彼らはどんな格好をしているだとか、人をどんなふうに楽しませるのだとか、詳細に説明した。セイレーンやケンタウロス、グリーンマン、ドラゴン、狼人間、吸血鬼、ヒドラ、河童、彼女が遭遇した魔物も大勢で、ナメクジスライムには塩が効くとか、詩的なワーズワームは光と汚い言葉が苦手、とかいった情報を教えてくれた。
 火が灯台に灯され始めるくらい、どこかに潜んでいた宵闇が顔を出し、でこぼことくぼんだ石畳の上を、色々な人と動物が行き交う、にぎやかな要衝の街は、押し寄せた濃厚な影に浸食されつつあった。そして揺らめく焔と、それに群がり舞う蛾などの羽虫が、趣深い古風な街を幻想的に照らす中、私たちを乗せた馬車はついに到着した。
 ガヤガヤと忙しいロミの街は、聖域サンクチュアリにはないもので溢れていた。複数の街道が行き交う中継地でもあった街は、主要な宿場街としての盛り上がりを見せ、流れ者の商人やら旅人、あるいはお尋ね者、娯楽商売の巡業者に巡礼者たち、地元近隣の人間、尼僧侶、王侯貴族、浮浪者が、道をひっきりなしに移動する傍ら、客寄せのために、宿屋の女将さんやら子供たちが、そういった彼らに、快活な声で一宿一飯を呼びかけていた。同じ道端で、敷いたゴザやじゅうたんの上で、座り込む露店の行商人が、煙草の葉、果物、米や小麦、トウモロコシ、ヒエ、アワ、キビの穀物、芋類、野菜、豆類、キノコ、木の実、スパイス、種苗などを売り、湯気が立ち上る食堂からは、弦楽器やら風笛の調べに合わせて歌う、男女の陽気な歌声や、楽しそうな酔っ払いのだみ声が、食べ物の美味しい匂いと一緒に、風に乗って運ばれ、防具や武器を一通り取り揃えた武器屋は、刃こぼれした剣や、欠けた盾などの修繕も請け負い、冒険者の信頼を勝ち取っていた。小間物屋では、旅行や長旅に必須な丈夫な靴、ものが大量に入るリュックサック、毛布や枕、コップ、火打石、タオル、フォークやナイフ、スプーンのカトラリー、水筒、綱が売られる一方、薬草や菌類、貝殻、石、花、昆虫、乾物に明るい薬局が、個人の悩みに併せてそれらを調合し、胃の消化不良を改善する丸薬だとか、お通じがよくなる水薬を販売していた。何でもござれの仕立て屋は、フード付きのマントやら、ドレス、チュニック、ワンピース、ズボン、肌着、修道服、法衣、靴下、手袋、帽子なども手掛ける他方、獣や猛禽の爪、または牙から作ったアクセサリーと、幅広く取り扱っていた。(ちなみに、金銀の装飾品、サンゴやべっ甲、化石から作られる宝飾品と、宝石は貴重すぎたため、小さな布袋を持った宝石商が、豪商や王侯貴族、富農の得意先だけに面会して、取引していた)便利な自動車や鉄道などとは、一切無縁のこの世界、不自由だが明るく生きる人々の移動手段は、もっぱら家畜動物たちであり、はるばる私たちをここまで連れてきた馬を始め、鶏などの商品や農作物を、たんまりと積んだロバに紛れて、山羊と羊が牧羊犬に追われていた。野良猫は大八車の下でネズミを追い、地図も売っている古本屋の軒先で噛みつく野良犬は、噛みつき返す狩猟犬に喧嘩を売っていた。そして、そのように混沌と喧騒の乱れた中でも、もうじき幕を上げるだろう祭りに際して、思い思いのお面をかぶった彼らは、無意識に人目を惹く、ひときわ目立つ、一風変わった人たちだった。それは、全面半面問わず、色鮮やかな鳥の羽をあしらった、こだわりのお洒落な仮面があれば、素朴な民芸調の木彫りの面もあり、喜怒哀楽を模した表情は、恐ろしい角の生えたモンスターの顔をかたどったもの、目鼻立ちの整った人間の澄ました顔立ちやら、ひげや耳の生えた動物の面相、くちばしの突き出た空想上のお化けと、実に多種多彩であり、そんな彼らから醸し出される異様で妖しい雰囲気が、独特な奇祭に浮かれる渋い街並みと、不思議にも合っていた。催しは、ミカエラが口に上げた仮面舞踏会というよりも、街の目抜き通りを練り歩くカーニバルの方がより正しく、もちろん壮麗な輪舞もあるのだが、広場で曲芸を披露するサーカスが、催しの目玉だったから、運賃を支払った私たちが、乗合馬車から降りたか否や、街路の一隅で起こった騒ぎは、単に浮かれ騒ぎからくる喧嘩とか、取っ組み合いだと初めは思っていた。だがしかしながら、どよめきは不穏なものであり、そしてその後、たちまち恐怖と混乱の悲鳴を纏った波が、さざ波のように辺り一帯に行き渡ったとたん、飛び火した恐慌の炎は増幅し、人々の間でめらめらと燃え上がった。
 「きゃあああーーーー!!」
 パニックに陥った女の、甲高い悲鳴が空気を切り裂き、凄まじい動揺を露わにした男たちの足が、石畳をうるさく逃げ惑う中、割れた人波の間から見えた騒動の正体は、それを歯牙にもかけないで、悠々と馬に乗りながら、野蛮で危険な目をギラギラと光らせていた。略奪で生計を立てている盗賊団は、金は言わんや、高価で価値ある金目のものを、鷹のように鋭い眼で狙い、カーニバルでにぎわう街から、それらを身に付けた裕福な商人や旅人、あるいは王侯貴族を見出しては、馬を素早く駆らせ、問答無用で奪い取っていった。天変地異に見舞われたかの如く、浮かれ気分のロミの街は、一変して大騒ぎとなった。仮面がとれて、恐怖と当惑がくっきりと刻まれた顔を晒す者、街から脱出しようと馬を急いで駆らせる者、とにかく賊から離れようと、商品や商売道具もそっちのけで、一心不乱に走る者、不運にも賊に目を付けられてしまい、命ばかりはと、両手を上げる者、動転した馬のいななき、野良と家畜動物のけたたましい鳴き声、泣き喚く子ども、男女が叫ぶ長短の悲鳴が飛び交う、全くもって思いがけない状況に、エフィとケット、私の三人は途方に暮れた。とっくの昔に、他の乗客たちは散り散りに逃げ、事実頼れるミカエラも、ごった返す人で見失っていた。
 「ど、どうすんだよ~~、姉ちゃん」
 不安な顔つきのケットがエフィに訊いた。
 「とにかくはぐれちゃダメよ。どこか高台へ避難しないと」
 エフィは落ち着いて言いつつも、見るからの仰天と狼狽が、彼女の勝気な空色の釣り目や、八重歯のはみ出た健気な口元に、色濃く浮かんでいた。
 「あの鐘撞台は!?」
 咄嗟の私は、石組でできた高い塔の真上でぶら下がった、青く錆びた緑青色の半鐘を見つけると、そちらを指さしながら、声を張り上げた。すぐさま顔を指さす方へ動かしたエフィとケットは、格好の塔を一目見るなり、「行こう!」と言って、直ちに走り出した。蜘蛛の子を散らしたように、揉みくちゃに逃げ惑う人々が押し合いへし合い、互いにぶつかり、ぶつかられ、金品を巻き上げられた人の痛ましい悲鳴や、情け容赦ない賊の高笑いを横に聴きながら、急ぐ私の目に、ポニーを乗り回したゴブリンが、人間の男の賊に混じり、後々食糧にするのだろう鶏の肢をひっつかみ、奪った瓶から、赤黒いぶどう酒を浴びるように一飲みしてから、道端へ投げ捨てるといった、好き放題に暴れている姿が、飛び込んできた。真実醜いけども、茶目っ気のある魔物たちは、元来いたずら好きの、困った種族ではあったものの、どうやらこのゴブリンは、悪い人間と積極的に関わり、何の罪もない人たちをいたぶることに喜びを感じる、心根の大分ねじ曲がったモンスターらしく、その哀れな犠牲者として、彼は私に目を留めると、鉤爪の付いたロープを頭上で何周か振り回した後、カウボーイさながら、彼の尖った爪の伸びた手から離れた綱は、綺麗な一直線を描いて、濁った緑茶色のマントを羽織った、獲物の私にまとわりついた。
 「ぎゃっ!」
 あまりの衝撃に、つい可愛くない声を上げた私は、嫌な予感なんてものじゃない恐怖に瞬く間に襲われ、ぐいと後ろへ引っ張られる力を身体に感じた。
 「「キミカ!」」
 私に起こった異変に、間髪入れずに気が付いたエルフ姉弟が面食らい、慌ててそのもろ手を差し伸べるも、まるで網にかかった魚みたいに、私は否応なしに引きずられ、信じられない私の中で、恐怖と警戒信号がピカピカと点滅していた。それから、あきらめの早い私が、もうだめか、一巻の終わりかと、いつものように早々とあきらめかけた時、普段にもまして騒々しい街のどこからともなく、期待する人々の「自警団だ!」という明るい声が、私の薄っぺらな意識を突き破ると、手繰り寄せられる私は、鉛色の鎧兜を身に付けた一団が、向こう側から列を組んでやって来る現実を、汚れたトンボ眼鏡越しに見た。自警団――。それは、暇つぶしに日がなトランプ博打に興じている、繁華なロミの街における武装集団を意味し、隊は盾を構える歩兵がほとんどを占めていたが、黒とか白とか栗毛、葦毛、とち栗毛の馬に跨った騎士もいた。格好つけて、裏地に柄の入ったマントを羽織った騎兵は、ランスを持ち、昔も今も民衆の花形、アイドル的な存在だ。したがって、しっちゃかめっちゃかな街を、ひっかきまわした盗賊団は、この自警団と直接刃を交えるつもりはさらさらなく、首領らしき男の合図を皮切りに、次々と撤退を開始すると、獲物の私を捕らえたゴブリンも、綱を引く力を一層強めた。
 「うわっ!うわっ!おおっとっとと・・・!!」
 「「キミカ!」」
 刹那、ロープが何かによってブチッと断ち切られ、忽然と消えた引力に逆らえなかった私は、無様に背中から倒れ込んだ。
 「うぎゃっ!」
 またしても、醜く情けない声を上げた私は、後ろ頭を強かに打ち、痛みと驚きで目をぐるぐる回した。
 「無事か!?」
 直ちに、真剣な呼びかけと共に、兜の目庇バイザーを上げた歩兵が颯爽と駆け寄り、倒れた私を見下ろしたが、そんな彼の手には、巨大なまさかりが握られていた。そして自警団の一員だろう彼は跪き、誇りっぽい石畳から私を起こすと、私の身体にまとわりついた綱を解きにかかった。
 「「キミカ、大丈夫!?」」
 不安な面持ちと一緒に、すかさず駆け付けたエフィとケットが、ひどく心配そうに訊いた。
 「あいたたた・・・」
 打った後頭部をさすりながら、顔を半分しかめた私は、締め付けが緩くなった事実を感じ取り、大きな鉞で、綱を断ち切ってくれたのだろう歩兵の方を向いた。鈍い光が照った兜の開けた目庇から、サファイアやブルーダイヤモンドのように、二つの真っ青な宝石が、私の石ころの双眼を見つめており、私のつまらない目と、取るに足らない心は、一瞬で奪われてしまった。それは余りにも素敵な眼差しだったから、まず持ち主の隠れた顔立ちは、とても美しいものだろうことは、あながち間違いなく、ゆえに、全くそのような場合でもなかったに拘わらず、見惚れる私は感謝の言葉もなく、よこしまなゴブリンから助けてくれたハンサムな歩兵を、ぼうっと見入った。
 「もう大丈夫だ。けがは?」
 歩兵の男が訊くと、突然の胸の痛みを訴えようとする意志を押し退け、精一杯の私は、努めてか弱げに言った。
 「ありません」
 媚びまみれの声は、発した当の自分でさえ耳を疑うほど、甘ったるかった。
 「本当に?」
 まあ強いてあげるなら、後ろ頭のたんこぶが膨れ始めていたけれども、猫被った私は、首をしおらしく横に振った。
 「それは良かった。騒ぎはもうじき収まると思うが、念のため、安全な場所へ避難しておくように」
 それだけ言うと、さっと立ち上がった歩兵は、でかい鉞を手に、各街道へ通じる出入口を目指す、盗賊団の後を追いかけていった。真実、自警団の混じった群衆は、幾ばくかの落ち着きをやっとこさ取り戻し、去る賊の背中へは嫌悪を、馬から落っこちた挙句、逃げ損ねた賊を捕まえる自警団の、鈍色の鎧に覆われた背中へは、賞賛の視線を投げかけていた。不意の嵐に見舞われた街は、気力や活力をへし折られ、もう華やかなカーニバルを楽しむどころではなくなっていた。つまずき転んで、擦り傷や切り傷のけがをした人もいれば、不幸にも、折れた骨の痛みにあえぐ人もおり、汚れた石畳の上では、売り子が嘆く傍ら、踏まれて潰れた果物やら野菜がグチャグチャと散らかり、消火に勤しむある店先では、倒れた灯台から燃え移った家具が焼け、ぼやが出た一方、こちらの店は、忌むべき盗賊に商品を盗まれたと、心底くさくさしていた。
 とうとう夜を告げる鐘が鳴ったころ、暗闇の街の外まで追いかけた、自警団の騎馬隊が戻り、秩序をある程度回復した街は、街の中に残った歩兵共々、拍手や喝采で彼らを迎えた。
 「どうする、姉ちゃん?」
 唐突に、ケットが姉に訊いた。
 「どのみちこの時間じゃ動けやしないわ。どこかで宿を取りましょう。キミカ、どこか心当たりはないかしら? ? キミカ?」
 エフィのまっとうな質問がようやく耳に入った時、私はぼーっとしていた。むろん、騒ぎや長い移動の疲れもあったけれど、それ以上に、私の頭の中は、あの麗しの歩兵で一杯だった。ああ、私を助けてくれた彼は、一体何て言う名前で、どんな顔をしているのだろう・・・。
 「――あっと・・・、ゴメンね、何だっけ?」
 「だから――」
 問いを繰り返すエフィは、犬歯の目立つ口を開いたものの、あっと驚く私が、最後まで聞くことはまたしてもなかった。というのも、あの目庇を上げた歩兵が偶然にも、大きく重たい鉞を手に、私たちに向かって歩いてきており、真っ白の頭は言わずもがな、斜めったトンボ眼鏡をかけた私の目は、銀色の鎧兜を着た彼に釘付けになってしまった。濃い碧眼をした男は、エルフ姉弟を含め私に気が付くと、鎧のせいで強張った歩みを僅かに早め、こちらへ確かにやって来た。
 「やあ、君か」
 やあ、キミカ!?もちろん、馬鹿な私の思い過ごしなのは、十分わかっていたが、まだ明かしていない名前を呼ばれた錯覚は、誠に素晴らしかった。
 「君を襲ったゴブリンは見失ってしまった。すまない、本当に逃げ足の速い奴らだ」
 「~~~・・・」
 何かを喋ろうとするも、私の口がパクパク動くだけで、肝心の言葉が全然出てこなかった。全くこんな時は、社交的でないオタクの私が恨めしかった。男は兜を脱ぐと、女のオタクにとってすこぶる理想的な、何とも美麗な顔を見せた。青い瞳、プラチナブロンドのくせ毛、すっきり通った鼻筋、輝く白い歯は、白馬に跨った王子様を彷彿とさせるに足り、彫の深い顔立ちが余計に、そうした特徴を引き立てていた。それはどちらかというと、優し気な女顔であり、失礼甚だ千万にも、女装がよく似合いそうだった。中間くらいの背は、低すぎず高すぎず、正にケットと同じくらいで、年頃も彼とほぼ変わらないくらいの、若々しさに満ちた魅力的な青年だった。
 「君たちも。けがはないか?」
 向き直った歩兵は、エルフ姉弟へ尋ねた。
 「大丈夫よ。それより、私たちは今晩の宿を探しているんだけど、どこか適当な所を知らないかしら?」
 「ああ。それなら俺の親類が経営している、ウェットソン亭がいい。良心的な店だから、俺たち自警団もよく来るんだ」
 二枚目な男は言い終わりがけに微笑むと、金属の籠手に包まれた手を差し出し、名乗った。
 「ロミ自警団歩兵部隊に所属する、ランドルフだ」
 ランドルフ・・・!まあ、二次元をこよなく愛するオタク心をくすぐる、非常にゲームらしい優麗な名前だこと!握った彼の手は冷たかったが、むしろ素手だったら、彼の手のひらの温かさに、やわでのぼせやすい私は、きっと気絶していただろうから、その時はそれで万事構わなかった。
 街角の暗い裏路地にひっそりと建ったウェットソン亭は、目立たない場所にも拘わらず、近隣の地元客や冒険者に人気を博し、すでに客であふれかえっていたから、完全に独立した空き部屋があれば幸いだった。太い梁の走った天井が低い一階部分の酒場は、旅の疲れを癒し、英気を養う旅人や商人らが、ささくれや傷の顕著な、質素な丸い白木のテーブルにつき、朗らかに飲み交わす中、盗賊たちの急襲により台無しになってしまった、ロミのカーニバルを楽しみに来た地元民が、沈んだ気分を入れ替えるため、木彫りのジョッキや、錫のタンカードからビールを飲み、下世話な話をしていた。出番がなかったために外されたお面は、用済みらしく土間の床にぞんざいに落ち、食べこぼしを掃除するネズミにかじられていた。親戚だろう店の主人へ二言三言告げてから、報告や着替えのため、自警団の寄り合い所へと、戻っていったランドルフと入れ替わりに、スラリと背の高い人物が、店の出入り口の薄暗い敷居に立ち、私たちは、海老茶色のマントを羽織った彼女を、軽い衝撃と共に出迎えた。
 「「「ミカエラ!」」」
 「ああ、何だお前たちか。とんだ騒ぎで見失ってしまったが、無事だったか?」
 いつものように、一寸やそっとのことで動じないミカエラは、薄い微笑みを口元に浮かべながら、淡々と言った。
 「んもう、何だじゃないでしょう、ミカエラったら!ケットと私は何も取られはしなかったけど、キミカがゴブリンに襲われて大変だったんだから!」
 「ハハハハ!それはツイてなかったな。キミカ、不運だったな」
 屈託に笑う、経験豊富な冒険者のミカエラにとって、気味悪い魔物との遭遇は慣れっこなのだろうが、オタクで引きこもりだった私は、そんな彼女の軽い調子が一切信じられなかった。
 再会した私たちが席に着いて、りんご酒だとか蜂蜜酒、ビールの入ったタンカードを片手に、ぼそぼそとした口当たりの、ふすまの混じった黒いパン、カブとブロッコリーのスープ、大量の酢漬けのキャベツ、輪切りに切ったソーセージの夕食を食べている時、鎧を脱いだランドルフが、仲間の自警団数名と一緒にやって来た。連れの男たちがカウンター越しに、飲み物や食べ物を注文する傍ら、親しみやすいランドルフは真っ先に、見知った私たちのテーブルへ立ち寄り、そして、見知らぬミカエラをすぐに認めた彼は、自分の身元を明かしながら、挨拶としての握手を彼女へ求めた。テラコッタ色の手のひらを握った彼は、ちょっぴり嬉しそうで、それを見逃さなかった私はその時、ちょっぴりむしゃくしゃした。紹介してくれた仲間の男たちと共に、側の卓へ席を取ったランドルフは、肘まである、袖幅の広い紺色のチュニックに身を包み、その下に着た肌着はクリーム色、ズボンは青、ブーツは濃い茶色と、至って地味な装いだったが、きっと彼のような美青年は、何を着ても似合うだろうと、オタク的思考な脳みそを持った私は、大いにひいきした。一仕事終えた彼ら自警団は、やっと打ち解け、周りと同じ楽し気に緩んだ、くだけた雰囲気で喋る一方、一緒に来たものの、連れとあまり話さないランドルフは、椅子から身を乗り出し、意気投合したらしいミカエラと、楽しそうな言葉をしきりと交わしていた。二人の仲が良くなったらしいというのは、冷静なミカエラは、自慢のレイピアを見せびらかし、ランドルフは戦闘で使った鉞について語ると、話の弾む彼らは、武器そのものに興味があったからだった。美男美女の二人は、互いの話に興じていたが、私はちっとも面白くなかった。強くて綺麗なミカエラが太陽なら、どうしようもないオタクの私は月だから、それこそ地球のランドルフが、彼女に惹きつけられるのも無理はない。ああ、ミカエラ!男勝りのあんたは何で強い上に、とても魅力的なのだろう!?現実の嫌いな私は、忌々しい不公平なんてものを認めたくないがために、自分の世界や、非現実的な空想に閉じこもる、魅力的とは言い難いオタクを、生まれ変わっても、飽きずにやっているというのに!だがしかし、おそらく彼女は人から憎まれても、気にもかけないくらいの猛者で、自信がたっぷりとあるのだろう。おお神様!せめてその自分を信じる強さの半分でも、私という弱っちいオタクに、分けてくれていたらよかったのに!丸みを帯びた額に掛かった、糖蜜色の細かい縮れ毛を、細長い指と指の間に通してかき上げる、何気ない仕草、つり上がった細眉の下で煌めくハシバミ色の、危険で誘惑的な瞳、甘さの全くない冷ややかで妖艶な微笑みが、魅了されるランドルフの心を掴んでいる現実に、一見素知らぬ風の彼女は、はたして気が付いているのだろうか!私は苦しさに、食べ物が喉を通らなかったと言いたいところだったが、事実おなかはペコペコだったし、明日も長旅だから、ビールを飲み干した私は、お皿に乗った夕飯をすっかり平らげた。

店じまいしたウェットソン亭は夜更けを迎え、奇跡とも劣らない幸運にも、空いていた一室のベッドで横になった私は、疲れているにもかかわらず、何だか眠れなかった。同様に、明日も早いエフィとケット姉弟は、人型のエルフから元の小さな妖精の姿へと戻り、鬼火のように淡く光る身を寄せ合って、机の上でぐっすりと寝ていた。数え切れない星がちかちかと瞬く、青黒い空の下、眠りに包まれた街はしんと静まり返り、家具も少ないこざっぱりした部屋は、そばだてた耳を澄ませば、隣の部屋で雑魚寝している人々のいびきが、聴こえないことはないくらい、静けさに満ちていた。
 この街に友達のあるミカエラが、同じ宿屋に泊まったかどうかは、知らない。彼女と私たちは、階下の酒場兼食堂で別れた。ランドルフは、連れの自警団らと共に、家へ帰ったのだろうか。
 これだから現実の世界リアルは嫌なんだ!弱肉強食の世の中、オタクは報われない。前世もそうだった。実際ありもしない仮想空間や仮想世界だけが、私の心が唯一休まる場所だった。漫画やアニメで会える、現実では邪魔なだけの、個性豊かなキャラクターだけが、傷ついた私の心を慰め、癒し、私というちっぽけな存在を認め、無条件に受け入れてくれたような気がした。だから、プレーしたことのあるゲームの世界へ転生した私は、まるで預言者みたいに、いつ何がどのように起こるかを分かっていたから、それこそくそみたいな前世と違って、何もかもうまくいくはずだ、今世の私は無双で楽しいと思っていたはずなのに、これは一体どうしたことだろう!話が全くもって違うではないか!これでは正に、未来に何が起こるか分からない前世と全く一緒で、全然面白くないではないか!第一、前世で報われなかった私は、今世で報われるために、ファンタジーゲームの住人へ、生まれ変わったのではなかったのだろうか?もしこれがなにがしかの作品で、私が万が一にも作品の主人公だったら、私は声を出して作者に言いたい。ふざけんな、覚えてろよ!って。まあだけど、私はしょせんわき役だったから、現実言えないのだけれど。
 私がやっと、うとうとと眠りに落ちかけていた時、こんな夜更けにも拘わらず、隣の部屋でドアが優しく閉まる音がして、私の入眠を妨げた。部屋を使う人の歩みに併せて床が軋み、思わず耳を澄ました私は、聞き覚えのあるテノールを聴いた。
 「・・・いよ、ミ・・・ラ」
 小さく抑えた声はぼそぼそと低く、言葉の断片しか私の耳に聞き取れなかった。
 「ふん。・・・たい・・・らい・・・おん・・・って・・・だ?」
 聴こえた女のアルトも、私は誰のものであるか知っていた。
 「・・・か。・・・み・・・しか・・・だよ、・・・エラ」
 「ま・・・い。・・・?前・・・何・・・うが・・・だ?」
 「お・・・は・・・っきり・・・と・・・いた・・・けど」
 それ以降も、二人は何やら話し合っていたものの、やがてある時を境に、話し声はピタリとやみ、それから不思議と何の音も上がらなかったから、夜更けの宿は再びシーンと静まり返った。だがしかし、起きる私の心臓は、実にけたたましい爆音を打ち、結局爆音は、私を朝まで眠りに就かせることはなかった。
 翌朝、ウェットソン亭を出た私たちは、マンモルトル山へ向かう、乗合馬車の乗り場へ早速向かったが、二階の部屋で立つある女が、石畳を歩く私たち三人を、窓から見下ろしていることは、露ほども気が付かなかった。女は寝間着はおろか、何も身に付けておらず、そんな女の赤銅色の胸元で、妖しい何かが光っていた。
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