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ふわふわの綿雲が漂う空は、爽やかな秋空のように晴れやかで清々しかったが、ネルの心は冬空のようにどんよりと曇っていた。
ひい、ふう、みい・・・。
あの頼もしかった勇者ジンが、未だ囚われの彼女を助けに来なくなってしばらくだが、実際どれくらいの日数が経ったのだろうか?
少なくとも、彼女の両の手指や足指だけでは、数え足らない事実に苦々しさを感じながら、ネルはため息を静かについた。
彼女は今、ありとあらゆる不思議がまかり通るファンタジーを象徴するかのような、おどろおどろしい雰囲気がたたずむ古城の中枢に置かれた庭に出ていて、じゃぶじゃぶと、汲み上げられた地下水が、黒い石像の穴という穴から湧き出る音と、すっかり成長したベビードラゴンの、眠気を誘うあくびを横に聞きながら、土いじりに邁進していた。
もちろん、そこにベビードラゴンのハンターが寝そべっているということは、彼の知的なご主人様も、この天井のない箱庭で、緩慢なひと時を過ごしているという訳で――。
目覚ましい変化を遂げたドラゴンを背もたれ代わりに、もたれるアッシュは、次はどんな魔物を作ろうかと、怪しげな魔術書の、かび臭い古びたページをめくりながら、日課ともいえる計画を練っていた。
彼の大好きなご主人様と隣り合いながら、石畳の地面に突っ伏し、のんびりと昼寝に耽るハンターは、生まれてから若干一年も満たないにもかかわらず、そのとげとげしい、紫がかった緑色の体躰は、ふてぶてしい王者の貫禄が見て取れた。
大きさは、アッシュの愛馬でもあり、空を駆ける天馬、それから黒馬のクロム二頭分――。太い根元から、先にかけて細くなる、なだらかで肉厚な尻尾は、ギラギラとメタリックな硬いうろこに覆われ、優しく柔らかに射す陽の光を浴びて、とらえどころのない、蜃気楼のような流動的な輝きを放っていた。しかるに、実に見事な弧線は、見るものの視線を奪わずにはいられなかった。
卵から孵ったばかりの時は、まん丸で愛くるしい、つぶらな黒目が眼窩を占めていたが、黒は成長と共に増す黄色に押しやられ、最終的には瞳孔の点として、黄味の強い電球のような、ぎょろりと迫力のある目玉の真ん中に、チョンッと据え置かれていた。
牙――。尖ったものが大嫌いなネルは、彼の裂けた口から伸びた、これらの頑丈な氷柱をいつも目の当たりにする度、身体の真底から震え上がった。
血の通った温かみのある象牙と異なり、ドラゴンから剥き出る黄ばんだ牙は、冷たい金属を思わせる独特の光と照りを纏い、棘だらけの拷問器具なみに、ズラリと生えそろっていた。また、トカゲのように先が割れた、二枚舌の赤い舌が、乱ぐい歯の隙間から覗き、くすんだ牙をより一層危険な印象に塗り変えていた。
鉤状に曲がった指から生える鋭い爪も、恐怖に竦むネルの血の気を、たっぷりと失わせるに事足りるほど禍々しく、緩やかに湾曲した背中から突き出る、魚の尾びれのようにとげとげしい背骨やら、そうした変形した骨が、ざらざらの皮膚を押し上げるせいで、頭部はおびただしい角で飾られたりと、飛ぶための大翼を今は畳んだハンターは、文句のつけどころのない、ドラゴンにしては比較的小さめの、立派な雄のベビードラゴンだった。
ベビードラゴンのハンターの他に、園芸仕事に現を抜かすネルが立ち、新しい魔物について余念がないアッシュが座る、水に濡れた御影石の彫像が立つ、噴水を抱いた庭園は、正に生き物たちの楽園であり、宝庫でもあった。
誰のものでもない独立した生き物たちは、城の水汲み場を取り囲む、四つの花壇にそれぞれ息づき、甲斐甲斐しくも気だるげな時間を、その場に居合わせるネルたちと一緒に共有していた。
柄の長いシャベルを手に、普段使いとして着ている、聖人族の模様が縫い取られた白銀のワンピースの上から、泥除けのために借りた、アッシュが少年時代に着ていた、黒みがかった紫色のマントを羽織ったネルは、これまた作業のために借りた木靴を履き、噴水を軸に、斜め右上の花壇で、ある程度雑草を除けた黒っぽい土を耕していた。
打ち捨てられ、見るも無残に荒廃した、不遇の中庭の土は、まるでわだかまりのように凝り固まり、丈が伸び、太い茎に産毛をチクチク生やした、力強い雑草が根をしっかり張るわ、大小の石ころが、辺りにコロコロと転がっているわで、そうした我慢のならない草を鎌で切り取ったり、石ころを一つ一つ手で拾い集めたり、じょうろの水で乾いた表面をふやかしたりといった、ネルの花園づくりの格闘の跡が、石畳の地面の上で横たわる道具や、引きちぎられ、土から抜かれてバラバラに散らばった、ひげ根付きの草から垣間見えた。
反対に、しぶきを上げ、水が滔々と流れ出る水汲み場を間に、はす向かいの左下の辺りで居座るアッシュは、ネルから背を向け、ハンターにゆったりともたれかかりながら、静かに、まだ見ぬ新しい魔物のための情報収集という、緩い知的活動に耽っていた。
傍らで立ち尽くすモンスターの黒い立像と引けを取らないくらい、相も変わらず黒づくめの彼は、彼の冷静を帯びた灰色の視線の先でひらひらと舞う、気品漂うベルベットブラックに染まった蝶に気が付いて、時折読んでいた古書から目を上げたり、空いた天井の上からカラスが落としていった、黒々と毛並みのいい羽を手に、大人しいハンターを愛し気に撫でてやったり、普段通り、今日の天気のように落ち着いていた。
左上の区画は、一体全体どういう訳か、手のつけどころがない、完全なる無法地帯だった。
当初ネルは、この地獄を具現化したような荒んだ庭を一目見ただけで、そこは指一本触れてはならない、絶対不可侵の領域であることを悟った。
本当になぜかしら、そこだけは何とも禍々しい闇のオーラに包まれ、邪悪に満ちたパワーに負けた植物は萎れ、枯れ、腐り、毒々しい色をした闇の植物だけがうっそうと生い茂り、まるで小規模の密林といわんばかりの薄気味の悪い様相を呈した庭は、ハエがぶんぶん飛び回り、湿り気や薄暗い場所を好む蛇がとぐろを巻き、カビと一緒にキノコが生え、食虫植物やクモといった、わなを仕掛けて狙い待つものがたむろし、ムカデがうごめき、蛾がはためき、不幸や災いだらけの、全くもって呪われた、不吉な暗黒の土地だった。
それとは対照的に、地下水のほとばしる噴水を挟んで右下の花壇は、ありとあらゆる草花に溢れ、飛ぶ飛ばないにかかわらず、昆虫を始めとする小動物が横行する、快活で生き生きとした、活力や生命力の繁茂する、雑多な庭だった。
特別目をかけられなくとも、自生する草花は地味で飾り気がない質素なもので、そこの道端でも、森の中でも植わっている野生種がほとんどを占めていた。
柘植の低木、猫じゃらし、シロツメクサ、つゆ草、鬼灯、カタバミ、蔓や蔦と一緒に彫像に巻き付く朝・昼・夜顔、鶏頭、アザミ、矢車草、ヒャクニチソウ、芙蓉、ススキ、セリ、ひなげしなど、ごくありふれた雑草が風に揺れる中、白っぽい青、赤茶、緑、黄、橙、黒、青と茶色、緑と茶色のトンボ、上品で小さい、青みがかった紫色のルリシジミ、モンキ・モンシロチョウ、黒い図柄が、ブルーグリーンやレモンイエローの翅に、影絵のように浮かび上がる魅力的なアゲハ蝶、ミツ・マルバチ、インクのように真っ黒い殻を負った、薄紅の翅を開く甲虫、バッタ、カマキリ、キリギリス、コオロギ、鈴虫、クツワムシ、マツムシ、アリ、テントウムシ、ダンゴムシ、羽虫などの昆虫が宙を飛んだり、飛ばなかったりした。
生活する黒みがかった濃い茶色の地中で、穴掘りに精を出すモグラを除き、トカゲ、イモリ、ヤモリ、カエル、モズ、セキレイ、スズメ、ヒヨドリ、キジバト、ムクドリなどの生き物たちは、風車の回る中庭の地面を、這ったり這わなかったりしたが、特に、巣だって間もない若いセキレイは、小虫や雑草の種を食べるのに忙しい鳥どもと異なり、盛んにさえずりながら、あっちへうろうろ、こっちへうろうろと、庭園を興味津々と徘徊していた。
空高く舞うヒバリは、澄んだ鳴き声で歌っている、何ともほのぼのとした、穏やかでうららかな午後だったけれども、この先彼女がお婆さんになっても、このまま、何を考えているのか分からない魔人のもとに囚われ、勇者に見捨てられた、みじめな現実を味わいながら生きていく可能性を、ふと想像したネルはぞっとした。
あれ程までに勇み、彼女を救おうと意気込んでいた勇者は、どうしてやって来ないのだろう!
何故アッシュは彼女にとって分かりにくく、その上彼女を束縛するのだろう!
彼は一体何を考え、彼女をどうするつもりなのだろう!
彼は彼女に明らかなことを何も教えてくれない――。唯一、激しい嵐のような荒々しさで迫りきた彼が、彼女の中に無理やり残していった熱以外は。
熱はうろたえる彼女を心地よく溶かしていき、いつまでたっても不思議と冷めず、だがしかしながら、とはいえども、消えない火が、いつまでも悶々とくすぶり続けるように、何故かは分からなかったが、ネルは自身の内に灯った小さな火種を、よく燃える、乾いた薪へ移す必要があると感じていた。
アッシュはネルを好きだと言い、戸惑う彼女を求めたが、その割には、彼は依然と秘密めいていて、謎で、未だこの世界が何だか分からないネルは、同じくそんなアッシュについて、肝心なところは何も知らなかった。
もはや彼が悪い男かそうでないのかも、救済者のジンを失ったネルには分からなかった。
すると、そんな彼女のモヤモヤと連動するかのように、風に流され、ちぎれ浮かんでいた綿雲が集まり、あんなにも晴れやかだった空を、たちまちのっぺりとした、灰色の層雲で覆ってしまうと、シューッというシャワーのような音を立てて、パラパラと細かい、無数の霧雨を降らせた。
「「!」」
ほぼ同時に、雨を受けたネルとアッシュは、間髪入れずに頭上を素早く見上げると、土を掘り返していたシャベルを手に慌てるネルの耳に、まずハンターの羽ばたきが聴こえ、次に、ゴロゴロと低い雷の唸り声が続き、それから、銀色の目を通していた魔術書を小脇に抱え、こちらへ向かって大股で歩いてくる、アッシュの黒い長身の姿が、彼女の青りんごの視線に映った。
「中へ入ろう、ネル」
艶のある黒い頭を、さらにツヤツヤと濡らしたアッシュは、同様に、天使の光輪を偲ばせる、プラチナブロンドの頭を濡らしたネルの側へ着くと、言った。
「風邪をひくといけない」
おお、彼は何とさり気なく彼女を気遣うのだろうか、こうした不意の優しさにときめいたネルは、胸が喜びに打たれた現実を認めない訳にはいかなかった。
彼と彼女の濡れた頭に頭巾を被せ、彼が少年時代に着ていた、渋いプラム色のマントを羽織った聖女の、華奢な肩を抱き、アッシュは歩きにくい木靴を履いたネルを、屋根のある城の中へ導いた。
ハンターは、突然の雨降りに表情を変えた大空向かって舞い上がり、傘代わりの木々がごまんと生い茂った、隣の迷いの森を目指した。
力に秀でた魔人のアッシュと、はた目に落ちぶれた古城に仕えるゴブリンたちは、休憩時間か、それとも貴重な休日か、さあっと辺り一帯に降る雨のために、彼と彼女以外人気のない廊下は、ときたま鳴る低い雷を別にして、しんと静まり返り、どういう訳だか、先ほどから、小刻みに打ち始めた心臓の鼓動が、聴こえやしないかと、案じたネルは気が気でならなかった。
「これくらいならすぐに止むと思うが・・・。どうする?」
と、小糠雨に濡れた黒いフードを下ろしたアッシュが尋ねるので、ある一つのことを考えていたネルは、こう答えた。
「あの、アッシュ・・・さん。わたし、花壇に蒔く花の種が欲しいんですけど、・・・ありますか?」
「いい加減その堅苦しい言葉遣いはやめろ、ネル。もっと強請るように言ってみろ」
控えめな彼女をからかうとも、あるいは責めるともとれる、薄い微笑みを浮かべたアッシュは、ネルが被っていたプラム色のフードを下ろしながら、言った。
「強請・・・!じゃ、じゃあ、ええっと・・・。種をわたしにくださいな、アッシュ・・・さん?」
「フッ、あんまり変わってないな。『さん』はいらない、アッシュでいい」
にこやかに微笑むアッシュは言った。
「ア、ア、アッシュ・・・。花の、花の種はどこにあるの・・・?」
恥ずかしそうにほほを赤らめたネルはどもった。
「フッ、可愛い・・・。ついてこい、ネル。こっちだ、案内してやる」
嬉しそうに唇を歪めたアッシュは言うと、小雨に降られたマントに包まれた、小さな肩をそっと持った。
彼がネルと共に向かった先は、城に設けた図書室で、広々と静謐な部屋は、入って左手の壁沿いにはめた、縦に伸びた大きなマリオン窓の甲斐あって、ランプやろうそくに火を点けないでも、十分事足りる、ややほの暗い程度で済み、湿った雨と、閉め切った窓のせいで、換気の行き届かない、かび臭い地下牢と比べて、微かに部屋独特の臭気が鼻を付いた。だがしかし、ネルの着ていた、アッシュの少年時代のマントは、虫よけのために、香木と一緒に仕舞われていたから、針葉樹の葉っぱや、皮を燻したような、ピリッと鼻に付く匂いから、弱火でアーモンドをじっくりと煎った、香ばしい香気、ブラックペッパーにブラックトリュフといった、香り高い調味料、ベルガモットの、爽やかな柑橘でありながら、また同時に、重厚なクセと深みのある香り、なめした革の何とも言えない独特な臭気、野性味あふれる獣臭いじゃ香・・・を連想させる、今までに嗅いだことのない、素晴らしく芳しい香りが、彼女を包み込み、かつ、隅々まで満たしていた。
数ある資料を置くのに適した長机や、縦横に伸び、仕切りを挟んだ中に、色とりどりの背表紙を向けた、薄っぺらいものから、極めて分厚いものまで、いっぱいの本を抱えた書棚、背の高い椅子、はしご、魔族の間では著名なのだろう魔人、あるいは魔物の胸像、年月のためにすり減り、鈍い艶の出た、チョコレート色をした木板の床、乳幼児の歩行器のような、丸い木枠にはめられた、ファンタジー世界における地球儀、窓枠、どこかの風景を描いた、絵画を縁取る金の額縁にも、埃がうっすらと積もっていた。
このように伝統的で、また、私的な図書室を見たことも、聞いたことも、それこそ入ったこともなかったネルは、ぽかんと呆気にとられ、鮮やかな翡翠色の瞳を丸くしていた。
実際、暖炉のでかでかと据え置かれた室内は、住むこともできなくないくらい快適そうで、鏡やこじんまりした洗面所まで設けられていた図書室は、ほんのわずかな食料や毛布、はたまた布団さえ、持ち込むことができれば、金モールの房飾りが両端に付いた、俵型のクッションピローと、象牙とひよこ色をした、縦じま模様が入った、揃いのふかふかの寝椅子――これはまさしく、優美なヴィクトリアンソファそのもので、床板と同じくらい、渋い濃い茶色のクルミ材が、全体の輪郭を縁取り、脚は動物の脚を模したカブリオールレッグ、俗に言う猫足で、立体的な彫刻が彫られ、丸くくぼんだ箇所から生じる、火花のようなしわが特徴的な、背もたれ部のボタン留め細工が、華やかな装飾美を高めている――に寝そべって、一夜を過ごすくらい訳はない、とネルは思った。
とはいえ、この実に素晴らしい知の宝庫であり、英知の結晶体へ連れてきたアッシュは、感銘を惚れ惚れと受けている聖女の、望んでいるものが、分からなかったのだろうか?
ネルは、湖のように碧い眼差しで訊ねた。
「ほら、この博物画を集めた本や、植物図鑑のページに、採取した種が入っているはずだ」
と、語るアッシュは、おもむろに腕を伸ばして、近くに立った書架から、見つけためぼしい本に、指を掛けて抜き出すと、ページを適当に開いて、色を付けて緻密に描いた、草花の横に綴じられた、ささやかな袋とじの中から、挿絵の示す草花の、種を取り出した。
「わあ・・・」
驚嘆と感激のあまり、ネルのうっとりした呟きが、下唇と上唇の隙間から、勝手に漏れた。
「気に入ったか?ほら、色々と探して見てみるといい」
柔和に微笑むアッシュは言い終え、手に取った博物画集を、ネルに押し付けると、別の書棚へスタスタと向かっていった。
その場に一人残ったネルは、手渡された博物画集を、何気なくペラペラとめくってみると、ページは非常に美しい草花の他に、実に多彩な極楽鳥、鉱物や鉱石、魚、昆虫、貝殻、木の実など、どれもこれもすこぶる忠実に描かれた、彼女の青緑色の目に、それは色鮮やかな物体が飛び込んできて、これだけ愉快で楽しい本ならば、それこそ一日中でも、飽きずに眺めていられると、感動したネルは密かに興奮した。
それに加えて、この世界の文字――、ギリシャもとい古代フェニキア文字、点字、楔形文字を、それぞれ足して割ったような、飛び抜けて珍しい、解読不能で独自な文字が、たった数種類の文字しか知らない、ネルのはた目に面白く、思わず笑ってしまいそうなくらい、ちんぷんかんぷんだった。
博物画集を小脇に抱えたネルは、彼女の背丈の軽く一.五倍ほども、高くそびえた本棚に挟まれ、きょろきょろと興味深げに、白金の頭を横に振って、彼女が今手にしている本と、似たような書物や冊子はないかと、物色を始めた。
いかんせん文字が読めないので、当てずっぽうの勘を働かせたネルは、手当たり次第に手を伸ばし、取り出した本の表紙を確認した。
表紙はシンプルに、題名だけを書いたものがあったり、あるいは、キラキラ光る金箔や銀箔を捺した、とてつもなく豪華な表紙絵から、無意識のうちに顔をしかめてしまうくらい、大変グロテスクで、とても奇怪な表紙があったりと、装丁の惜しみない個性が、読み手の想像力をかき立たせ、かつ同時に、目いっぱい膨らませた。
燃えやすいという致命的な欠点を除き、あらゆる情報の源泉である本は不滅で、古文書が作られた当時生きていなかった者や、それこそネルのように、用いられている文字になじみがない、はたまた文盲者にさえも、未知既知問わず、実に様々な事柄について、全く秀逸な挿絵を通して、教えてくれた。
だからこそ、古びた蔵書を読む聖女の、青りんごの双眸が、自然と留まるのも絵で、それらは、細密画顔負けの、大いに凝ったものから、デッサン、スケッチ、習作などの、経験や才覚に裏付けられた技術や、技法を必要としない、大まかなもの、あるいは、挿絵としての風景画、静物画、風俗画、図形描画、肖像画、博物画、漫画や神話、芝居、小説などの一コマ、または何コマと、すこぶる多種多様な魅力で惹きつけるので、庭に蒔く、植物の種を探しに来た彼女から、本来の目的を忘れてしまいそうにさせた。
ふと何気なく思いついたネルは、はしごに昇って、手の届かない上の段に仕舞われた、本を手に取ってみようとしたため、背の高い書棚に、立てかけられたはしごに昇り、仕切りと資料の間に開いた、水平の隙間へ、博物画集を置いてから、目に付いたとある一冊の本を、音もなく引き出した。
すると、全く奇遇にも、彼女が取り出した本と、向かい合わせで収納されていた、つまり、書架の反対側から、仕舞った蔵書も抜き出されていて、本と本の間に小さな空間ができた、その偶然の隙間から、驚いたネルは図らずとも、取り出した魔術書を読む、アッシュの端正な顔が覗き込めた。
吃驚は直ちに動揺に変わり、動揺は緊張を生み、緊張はネルの息を、自動的に潜めた。
釘付けになる――とは、今の彼女を言うのではないだろうか?
情報が入り乱れ、思惑が飛び交う、混沌のように混乱した頭の中で、ネルは、この見目麗しい魔人がページを繰る姿から、碧い目が離せない確かな理由を掴もうとしたが、胸の底から湧き上がってくる何かが、そのようにつまらない理由なぞとらえる必要はない、むしろ放っておくべきだと、声高に叫んでいたために、魅了された彼女はまるで虜になったように、男の美しくも精悍な顔を鑑賞し続けた。
文章をたどっているのだろう、向かいの魅惑的な灰色の両目は、横に流れるよう滑らかに動いていて、時折ピタッと止まる時があれば、視線はそのまましばらく、気になる箇所をずっと見つめているし、それから、瞳が乾くのを避ける瞬きが後に続いて、銀色の瞳をふさふさと縁取る、上等で気品漂う扇のように、美麗な放射線を描いた漆黒の睫毛が、あまりに優雅にはためくため、見惚れるネルは、なぜかしら、自分の心臓がドキッと高鳴ることが分かったし、また、ごつごつと男らしい、太い血管の浮いた大きな手を、アッシュは引き締まった顎に添えて、何やら考え込んでいる時もあって、そんな時は、見事な弓なりの闇色の眉が、少しばかり中央に寄って、ほんのわずかなしわを作ると、正体不明の感情で狂おしいネルは、顰めた眉間にキスをしたい衝動に駆られた。
本棚を挟んで立つ男の存在は、まるで奇跡のようで、この素晴らしい奇跡を目の当たりにして、なおかつまじまじと眺めるネルは、直接奇跡を手で触れたい気分に苛まれた。
ああ、彼は何て魅力的で、また同時に、大変な男前なのだろう!
さっきネルは、愉快な博物画集を延々と眺めていられると思ったが、この魔人の並大抵でない容姿こそ、彼女は一日といわず、何日でも飽きずに見ていられるのではなかろうか?
おお、一体彼女はこんなところで何をやっているのだろう!
純粋に、彼女は花壇に蒔く、草花の種を貰いに来ただけなのに、それはそっちのけで、実際ネルは目の前で立ち、本の隙間から見える、それは麗しいアッシュに、心と目を容易く奪われた挙句、我をすっかり忘れて、夢中になっているではないか!
ああ神様・・・、このまま彼が彼女に気が付きませんように。そして、このまま時間が永遠に止まってしまえばいいのに・・・。
だがしかしながら、法悦と惚ける聖女の内で、自然と生まれた密かな祈りは、惜しくも届かず、ページから視線を外し、あらぬ方向をぼうっと見据えていた、アッシュの美しい灰色の目が、突然きょろりと動き、そこを通して、非常に素敵な彼を盗み見ていた、秘密の隙間に留まると、決して彼に悟られないよう、堅い沈黙を守っていた、彼女の鮮やかな翡翠色の瞳とぶつかり、びっくりしたネルは大いにうろたえた。
「!」
不意を見事に突かれたネルは、著しく恥ずかしいために、頬が上った熱い血で、たちまち赤く染まっていくのが分かった。
一方、対するアッシュは平然と落ち着き払って、照れにはにかむ様子も、恥じらう素振りも全然見えず、苦笑に近い、実に素敵な笑顔で笑うと、手にしていた厚い魔術書を閉じ、元あった場所――、つまり、ネルの秘密ののぞき穴の中へ、戻した。
「・・・!」
さあ、もうこれ以上、ネルは断りもなく、アッシュをじろじろと無遠慮に眺めることは、できなくなってしまったが、未だ唖然とするネルは、自身の内ですかさず鳴り始めた、けたたましい胸の爆音に戸惑った。
「・・・!」
次に、木の焦げ茶色の板床を、踏み歩く靴音が、確かに聴こえたネルは、はしごに昇ったまま、ますます動転した。
というのも、床のきしんだ音を、時折上げる足音は、まずアッシュのもので間違いなく、どうしようもない緊張のせいで、こわばった身を、硬くしている彼女に向かって歩んでいるのは、疑いようもなかったからだ。
おお、彼女は一体どんな顔をして、彼と会えばいいというのだろう!
今の彼女は正に、ばつの悪いこと極まりないのに!
彼は一体、彼女に何をしようというのだろうか?
真実、彼女は叱られるほど、悪いことをしたとは、到底思えなかったが、アッシュをそこまで理解していなかったネルは、苛む不安で、居ても立っても居られなくなった。
したがって、抜き出した本を手早く仕舞い、不安を抱えたネルは、急いではしごから降りると、近づく足取りから、なるたけ遠ざかるように、書架と書架の間を、小走りで進んだ。
背の高い書棚の並んだ通路は入り組み、ちょっとした迷路のように続いているので、この種の馬鹿馬鹿しい追いかけっこが、実現した。
逃げるネルは、時々後ろを振り返っては、彼女を追いかける鬼が、まだ来ていない現実を確認し、その後で、次はどちらへ向かって行くべきかと、指針ともいえる男の足音に、耳をしきりと澄ませるのだった。
そうした、はた目にくだらない鬼ごっこが、どれくらい続いたろうか、そしておそらくそれは、当の本人たちさえも、知る由はなかっただろうが、ひょんなことから、アッシュの早くて大きい足取りから、彼が近くにいる事実を知ったネルは、不測の事態に少々怯えつつも、最後(?)まで逃げ切る希望を捨てずにいた。
だがしかし、とはいえども、幸か不幸か、全ての物事にとって、必ず終わりは付き物で、とうとうアッシュの居場所が分からなくなってしまったネルは、そびえる本棚の、どこからやって来るとも知れない歩みに、少なからず当惑した。
ああ、万策尽きた彼女が、このまままんじりと立っているうちに、彼女を追い込む足音は一歩、また一歩と近づいてきて―――。
「きゃあっ!?」
と、心臓が喉から飛び出るほど魂消たネルが、驚愕の声を上げたのも無理はなく、ようやく彼女を追い詰めたアッシュは、書架の陰からいきなり現れたとたん、あっと驚く彼女を抱きすくめ、近くの書棚へ一方的に押さえつけた。
「・・・!!」
本棚に張り付けられ、恐怖と動揺が凄まじいネルは、口をあんぐりと開け、真向かいの甚だ整った顔を、半端ない吃驚の色を浮かべた、二つの翡翠石で呆然と見つめた。
「こら、何で逃げる」
他方で、面白半分のアッシュは、形のいい唇を少し尖らせ、間近のネルの、ふっくらと丸みを帯びた、優美で女らしい頬を、優しくつねった。
「び、びっくりした・・・!」
あまりにひどい仰天ゆえ、鮮やかな青緑色の眼を、すっかり丸くしたネルは、たった一度の瞬きもせず、目の前の綺麗な灰色の瞳を、まじまじと覗き込んだ。
「フフ、びっくりしたのはこっちだぞ、ネル?」
明らかに喜ぶアッシュは、温かで柔らかい微笑みと一緒に呟くと、均整の取れた額を、ネルのつるりとしたおでこに、静かにくっつけてから、漆黒の上品な扇がはためく目蓋を、ゆっくりと閉じた。
「・・・何で逃げたんだ?」
男らしい太い手指を、聖女の細くて白い手指に、さり気なく絡めながら、アッシュは冷たく澄んだ銀色の双眼を、再び静かに開けると、訊いた。
「に、逃げてなんかいません・・・」
新しい羞恥心と、嘘からくる後ろめたさに、無意識のネルは碧い視線を外した。
「・・・ふーん・・・」
・・・ふーん・・・?
ええい、分かっているくせに、取り澄ますなんて、彼は何ていやらしい男だろう!本当は、彼女が真実を口にしていないことは、知りすぎているくらい十分に、知っているはずのくせして!
「じゃあ、どうして黙って俺を見ていた?・・・いや、見惚れていた?」
「~~見惚れてなんかいません・・・!」
軽くムキになったネルは思わず、逸らしていた青りんごの目線を、極めて近い灰色の眼差しへ、素早く戻した。
「答えになっていないぞ、ネル」
「~~・・・」
ああもう、この信じられないくらい素晴らしい男は、一体全体彼女に、何を言わせようとしているのだろうか!
彼に見入っていた理由?そんなもの、あるとすれば自分が知りたいくらいだ!
「・・・離してください・・・」
苦しい懐から絞り出すように、碧い視線を落とすネルは言った。
「やだね、離してやるもんか・・・。・・・離したくないんだ、ネル」
という言葉尻に併せて、指の絡まりがきつく、より強まり、自身の内側でくすぶっていた火種が、瞬く間に燃え上がったネルは、めらめらと揺らぐ熱い炎に炙られた。
「・・・嘘・・・」
鮮やかな翡翠色の双眸を、依然と伏したままのネルは、やっとのことでこれだけ言えた。
「フッ、嘘をついているのはお前の方だろう、ネル・・・」
愉しむアッシュは言いながら、絡めた手指を弄んだ。
「―――」
ああ確かにそうだ、彼女はどうしてこの、とんでもなく誘惑的な男の前では、全くもって素直になれないのだろう?
何故彼女は、彼に嘘ばかりつくのだろう?
いわゆる噓つきは泥棒の始まりであって、清廉潔白で誠実、そして善良な人間でありたかった聖女は、決してアッシュをだまし欺こうと思って、嘘をついているわけではなかったのだけれども、どうしても本音が、口からちっとも出てこないのだ!
いや、だがしかし、そもそもの話、悪い泥棒は、何も分からない彼女を誘拐した、人さらいの彼ではあるまいか!
それに、彼はどうにも答えられない難問を訊ね続ける割には、彼女が知りたい彼についてのいろいろな事柄、すなわち、はじめ何とも思っていなかった彼女を、今では熱烈に恋い慕い、しつこく求めてくる以外、はっきりと確かなものは、何一つとして教えてくれないではないか!
ああもう、全くもってこれではいけない!
聖女は魔人のペースにのまれ、手のひらで思うように転がされてはいけない!
彼の好きなようにして、彼女は翻弄されてはいけない!
一切合切、真実のみを述べなければならない証言台に立つネルは、これ以上、鋭いアッシュから、厳しい検察ばりの詰問をさせてはいけない!
男は女に対する無益な質問をやめなければならない!
全然事実を偽りたくない彼女に、自然と嘘を進んでつかせる憎らしい彼を、彼女はどうしても、黙らせなければならない!
だからもし、たった今ここに、糸と針があったなら、否応なしに聖女は喜んで、重要なことは何一つ語らず、余計な疑問ばかり口走る、目の前の図々しい口を、きっちり縫い合わせただろうが、現実、手元にないのでは致し方ない、口惜しい彼女は何か別の方法で、この恨めしくも美しい男の口を、必ずや封じなければならない―――。
亜麻色の長い睫毛で、ふさふさと縁取った目蓋が典雅に閉じ、彼が今までのぞき込んでいた、二つの碧い湖を隠したとたん、木靴を履いたかかとが浮き、背伸びしたネルの、柔らかい唇がそっと、彼の血色のいい赤い唇へ触れた次の瞬間には、温かい唇はすでに離れていた、ほんの一瞬の短い現実を、無心のアッシュは、考える間もなく知った。
試みを無事成功させることと、その大変な意気込みや気概ゆえ、頭が見事にいっぱいだった哀れなネルは、それこそ男が、口づけをどのように受け取るかどうかまで、気が十分に回らず、どうやら接吻は諸刃の剣であり、早まってしまったらしい事実を学んだ。
何を思ったか、キスを続けるアッシュは、ちょうど鳥が啄むように、麗しい唇を優しく何度も繰り返し、恥じらう彼女の、花びらのような唇に、軽く押し付けてきて、そして、その極めて軽微な感触が、あまりに中途半端なために、新鮮な歓喜と焦燥、途方もない困惑を覚えたネルは、美しい翡翠色の目を、おたおたと泳がした。
ああ、ごく軽い接吻はほっぺたとかおでこ、手の甲に相応しい曖昧で幼稚なものであるにもかかわらず、どうしてこうまで気持ちがいいのだろう!
口づけはまるで、一回一回丁寧にきちんと触れ合うたび、大切な彼女が好きだと、心からの愛の告白をされているみたいで―――。
絶え間ない幸福が彼女を席巻し、無我夢中のネルは、アッシュとの実に心地がいいキスに、完全に酔っていたために、一考のアッシュが、それを中断している現実に気が付けず、餌を求めるひな鳥さながら、接吻以外の使い道を忘れた口を、パクパクと動かした。
ゆえに、格好の付かないネルが、そんなみっともない自分に気が付いた時は、すでに遅く、ようやっと自我を取り戻した、彼女の碧い瞳が、彼を素直に欲しがる聖女が、それは可愛くてたまらない事実を如実に映している、並々ならぬ愛しさやからかい、悪戯に光る、綺麗な灰色の双眸を捉えた瞬間、愉快な笑みの弧を描いた唇は、彼女のどうしようもない唇を、ぴったり隙間なく塞ぎ、それに飢えていたネルを、ありったけの歓喜、幸福や恍惚で、たっぷりこれでもかと満たした。
海よりも深いキスをつつがなく進行するために、黒いマントに包まれた、屈みこむアッシュの、長身の体躯が覆い重なってきて、ネルは嬉しい重さを感じ取ると同時に、彼女のくびれに湾曲した細い腰が、逞しく頼りがいのある太い腕に支えられ、同じくして、もう片方の強健な腕は、息もまともにつけない口づけから逃げられないよう、閉じた目蓋の内側で、喜びと驚きに目を回す、聖女を固定するかのように、白金の後ろ頭をしっかとつかんでいて、何が何だか分からない自分の内側で、燃え盛る激しい炎に追いやられるまま、ネルはプラム色の袖を通した腕を、緩い曲線を描く、アッシュの剛健な背筋の盛り上がりへ、弱々し気に回し、その上を覆う漆黒の羽織りを、縋るべき確かなものであるかのように、力強くギュウッと握りしめた。
漏れ出る淡い吐息さえも逃してなるものかと、比類ない聖女にすこぶる首ったけのアッシュは、ハンサムな顔の向きや角度を逐一変え、それこそ一縷の隙間も生まれないよう、小さな唇が大きな唇で覆い被さるよう奮闘した。
おお、それは何て、何てこれほどまでに淫らで情熱的な、半端なく危険なキスだろう!
魔力を携えた妖艶な男がするからもあるだろうが、魔性のキスといっても過言ではないくらい、口づけはネルにとって甚だ幻惑的で、ぼんやりと自我を失いつつあった彼女を最終的には、彼一色に塗りつぶしてしまうほどの、それは強烈な威力があった。
実に、正気を無くすに勝る恐怖は、ファンタジーだろうと、どの世界だろうと、きっとありはしないというのに、彼女の中の警戒信号は、危険を敏感に察知して、警報を高々と鳴らすが、実際注意のうるさい警笛は、接吻の激しさや荒々しさの前では、全く成すすべなく潜まり、それは恐ろしくも甘美な忘我の境地へ、臆病な聖女はいつも誘われるのだった。
とはいえども、綺麗なバラには、チクリと刺す痛い棘があるように、抵抗できない彼女を、ひどく不安な茫然自失へ追いやる、至極危ない口づけにも、素晴らしく好ましい点はあって、それは、この上ない甘味を口にしているかのような錯覚であって、舌の滑らかな舌触りは、とろけるアイスクリームや、極上のぶどう酒を思わせる、絹のようにしっとりとした口当たりで、甘美な陶酔に、深々と耽溺するネルは、永久に口に含んでいたいような気がしてならなかった。
もちろん、事実彼女は、美味しいアイスクリームや、芳醇なぶどう酒を口にしている訳でも何でもなく、アッシュの硬い弾力を帯びた、柔らかい唇が始終ぶつかって、彼女のふっくらと膨らんだ唇を、跳ね返し続けるので、これがただのすこぶる甘いキスであることを、勘違いに恥じ入る聖女は、否応なしに認識せざるを得なかった。
ああ、汝そのように激しい、狂おしい情熱をもって、無自覚に等しい女を愛し給うな!
抗いようもない、ほとばしる愛情ゆえの興奮や、狂喜のために、恋する男は気も狂わんばかりなのに、冷酷な女は無慈悲な嘘つきで、熱い愛の言葉を、ものの一片たりとも、吐きやしないではないか!
実際、女は男を愛し求めるどころか、単に糖蜜色の庭土に蒔く、草花の種が欲しいのだ!
むろん、女は男が必要ないとは言ってやしないが、同時に、必ずや手に入れたいとも言っていない!
大切な愛に目覚めた男が感じているほど、女にとって男は大事でないのだ!
女にとって、男はそこら辺に生えている雑草の次に注目すべき対象で、男と男の惜しみない無条件の愛がもらえるものならば、受け取っておこうと、ほんのそれっぽっちの熱量しか、持っていないのだ!
恋という熱病に侵された男は、それこそ喉から手が出るほど、女の熱情的な愛を、心の奥底から求めているというのに、飢えや渇き知らずの冷たい女は、そうした男の溢れんばかりの愛は、すっかり間に合っているようだ!
もし万が一、たとえ仮に百歩譲って、彼に恋していないネルが、彼女に深く恋する彼を、まるきり愛していなくても、アッシュは持ち前の強引さで、気弱な聖女を振り向かせる、根拠のない男らしい自信があったし、それに何と言っても―――、彼女は彼に口づけをしたではないか!
ああそうだ、実際奇跡も等しかったそれは、余りにあっという間の出来事だったけれども、確かにネルは、アッシュにキスをしたのだ!
そしてそれは、一体全体何のためにか、謎めいた聖女の思惑は、考え付く限り、考えてもよかったが、常識にのっとって考えれば、裏切りの合図としての、特殊な接吻を除いて、女は普通、何とも思っていない男は言うまでもなく、憎い敵や、嫌いな相手にキスをするだろうか?
常識――、たったそれだけの、ささやかで頼りない、上面の情報だけで、天にも昇らんアッシュは、はち切れんばかりの恋慕が、浮かばれたも同然だった。
ああもう結局のところ、見え透いた嘘ばかりついて、重大な核心をはぐらかす聖女は、とんだ抜け目のない、それは狡猾な策略家なのだ!
現実これで彼は、薄絹のかかった、秘密で謎めいた彼女の心を探る、重要な審問を、これ以上問いかけることができなくなってしまったし、驚くべきことに、追究は、もはやどうでもいいような気すらしてきた・・・。
時と場所、それから我を忘れてしまうほど熱中して、真底入れ込むキスが、この世に存在し得たとは!
しかもよりによって、妖しい力を持つ魔人の彼とは違う、見下していた聖人との口づけが、そうであったなんて!
普段からとても冷静なアッシュが、これほどまでの熱血を反射的に覚え、目の前の一人の女に、ひたすら心血を注ぐなんて馬鹿げたことは、野望だった魔王への踏み台としてのネルを、人のいい、羊の群れのような聖人族たちから、ものの見事に奪い去った今までは、到底あり得ない話だった。
そうだ、彼が捕らえた聖女はただの踏み台、強大な悪魔神への一捧げものに過ぎなかった女のはずだったのに、一体全体どういう事の成り行きか、今では自分の命よりも貴重で、非常に尊い存在に立ち替わっている!
一本といわず何本でも、放たれた恋の矢が、自然と突き刺さったアッシュは、それは価値あるネルの愛を獲得するためならば、喜んで跪き、乞いもすれば、恋の詩を情感たっぷりに、高らかなバリトンで詠う(幸いなことに、そういった書物は、図書室に腐るほどある!)ことだってできただろうし、おそらく何でも、まず彼の誇りに傷をつけないことなら、しただろう。
聖女ネルは、彼の唯一無二のミューズであって、大切な彼女を侮辱することは、彼を愚弄することでもあり、彼女の苦しみや悲しみは、彼の辛い責め苦で、実に耐え難い不幸であり、彼女の怒りは彼の憤慨であり、彼女の笑顔や喜びは、彼の生きがいと幸せであり、皮肉な話だが、殉教者のアッシュは、彼の並外れた女神のためならば、それこそ死ぬのも怖くはないくらい、とてもとても深く、愛しいネルを心から信奉していた。
しかし、男の沽券や自尊心が、狂おしい恋心に気も触れんばかりの、情けない醜態をさらすことを、断固として拒否するが故、気もそぞろのアッシュは、残念至極にも、これ以上の接吻を諦めざるを得なかった。
本心キスをやめたくなかった彼の意識が、これでかけがえのないネルを、大変な窒息死から救う事が出来たとか、つらつらと苦しい言い訳を、述べ立てている現実を知りながら、身に余る幸福にどっぷりと浸るアッシュは、艶の出た黒い側頭を、聖女の小さい華奢な肩に預け、これ以上ない心酔のため息を、深々とついた。
いやはや全く、根に持つ彼は、ただ単に純粋な好奇心から、美しい彼を盗み見ていただけの、悪気の全然なかった彼女を、このように息もろくにつけなかった、非常に濃厚かつ、すこぶる熾烈なとんでもない口づけで、殺すつもりだったのに違いない!
だが――、幸か不幸か、この上ない至福で骨抜きのネルは、キスに苦しむどころか、全くもってアッシュと同じ、素晴らしく生き生きとした、絶対的な幸福の最高潮に満たされている実感と共に、甘い恋の熱に浮かされた自分を、執拗にごまかす彼女と異なり、正直だからこそ憎らしい彼に手なずけられている、ちょっぴり口惜しい実態を、同時に覚えないではいられなかった。
至って当然のことながら、完全なる失望の気持ちは、彼のものとそっくり瓜二つ――、どちらかの息が止まるまで、この愛の喜びに満ち満ちた甘美な口づけを、ずうっと交わし続けたかったネルも、もたれるアッシュの立派な力こぶに、斜めった月色の頭を、力なくもたせ掛けた。
音もなく静かに降っていた糸雨は、今ではもうまばらになり、燦々と輝く太陽の上に群がり、のっぺりと厚く塗り隠していた灰色の陰雲が、吹いた目に見えない気流によって動き、そうしてできた自然の切れ間や、薄雲から、お日様がこっそりと明るい顔を出して、回復したばかりで弱い、まあまあの光線を、地上へ降り注ぐために、薄暗かった図書室はたちまち窓を通して、一定の明るさを取り戻した。
微弱で淡い光が射し込む、マリオン窓の方をぼんやりと向いていたアッシュは、恋人という偉大な女神が賜った、ありがたい慈愛と祝福に、しみじみと浴していながらも、森の木々が露に濡れた緑色の枝葉、まだ完全には晴れていない、やや曇り空の、外の景色を抱いた、見ているようで、しっかりと、その灰色の双眼を向けていなかった、透明な窓ガラスの端に入り込んでいる、何かに気が付くと、預けていた黒い頭を、聖女の繊細な肩からゆっくりともたげ、素晴らしい母なる自然が、雨上がりに贈る、色鮮やかで、神秘的な贈り物の正体を突き止めた。
「ネル」
彼の逞しい上腕に、未だ側頭をうっとりともたせ掛けている、未練がましい聖女へ、アッシュは喉から久方ぶりに出した、色気のある男らしいバリトンをかけると、呼ばれたネルは、クリーム色の頭をのそりと持ち上げ、青りんごの上目遣いで、彼を見た。
「おいで」
軽く笑んだアッシュは、穏やかに言った。
しかし、そんな彼をじっと覗き込む、聖女の二つの翡翠は、熱っぽく潤み、悩まし気で、彼女が心底惚れこみ、また、今現在なおも渇望している、彼の魔法のような赤い唇まで、ポロリと目線を下げないよう、わがままではしたない欲望に苦闘している様子が、軽く寄った白金の眉毛と一緒に、にじみ出ていた。
もしこのまま、凄まじく魅力的な聖女が、心から望むように、一度断念した、飛び抜けて情熱的な接吻を、再開でもしようものならば、栄えある愛でいっぱいだった胸が、必ずや弾け跳ぶだろう大事を予想しながらも、並々ならぬ興奮と歓喜で、気が狂いそうだったアッシュは、このようにチクリと刺してくる、いとも愛らしい攻撃に、かろうじて耐えると、今度は柔らかいバラ色の唇ではなく、ネルの広い額にキスをして、ともに来るよう促した。
「行こう」
素敵な愛情たっぷりの最高な口づけに、へなへなと腑抜けた聖女の、プラチナブロンドの頭が、またしてもしな垂れかかる重みを、太く逞しい上腕に感じつつ、男くさい武骨な手を、ネルの柳腰に添えたアッシュは、窓辺へゆったりと向かった。
この上ない最上のキスで、十分と満たされていたネルの心は、そんな彼女たちが、図書室へ避難する原因になった雨が、上がった現実を認めることさえ、入り込む隙間もないくらい、パンパンに満ち、聖女は甚く幸せな亡霊のように、窓際へぼうっと赴き、脚がふかふかと柔らかい、淡い黄色の寝椅子に当たっているのを感じ取ると、隣のアッシュが腰かけるのに伴って、腰を呆然と、傍らの寝椅子へ下ろした。
「あっちをご覧」
と、指さすアッシュの、低い声が優しく鼓膜に響くので、締まりのない緩んだ顔を、マリオン窓の外へ向けるネルは、半ばとろんとした、まだ覚め切っていない青緑色の眼で、彼の指さす方を、何とはなしに見た。
すると、それは目の冴えるような鮮やかさで、彼女が以前いた世界で、目の当たりにしてきた虹と、全くもって同様の、見事な七色に光る巨大なアーチが、堂々かつ生き生き、そして晴れ晴れと、頼もしい太陽の眩しい輝きや、健康的で肉厚な雲の、白さを取り戻しつつある、大きな窓の向こうの青空に架かっており、幸福に痺れた甘い余韻は瞬時に、嬉しい驚きに、碧い目のぱっちりと覚めたネルから、吹き飛んでしまった。
「・・・虹・・・!」
この思いもかけない幸運に興奮したネルは、窓の方へ見開いた翡翠色の双眸を少しも離さず、感極まったように独り言ちた。
一体どれくらいの間見ていなかったのだろうか、碧い湖沼の色をした眼差しを、呆気と奪われた聖女は、神々しい自然の生み出し、また同時に織り給うた、実に美しい、色彩豊かな幸運の帯を、ただ一度の瞬きもせず、つぶさにじっと見つめ続けた。
「・・・綺麗・・・」
ハアッと勝手に漏れ出た、感嘆のため息交じりに、うっとり夢見心地のネルは、ぼそりと呟いた。
「ああ、確かに綺麗だ・・・。運がよかったな、ネル」
同じ窓の外へ麗しい顔を向け、偶発的な神出鬼没の気まぐれな虹を、煌めく灰色の視線に捉えるアッシュも、満足げに言った。
霧吹きから吹き出たような、細かな雨上がりの天空に浮かぶ、第二の至高の芸術を眺めていたネルは、またもや呼ばれると、輝く月色の頭を動かして、いつまた消えると知れない、儚い虹を抱え込む大窓から、隣で同じ寝椅子に座るアッシュへ向き直ると、肯定の頷きや同意の言葉の代わりに、楽し気に微笑んだ。
おお神様、その時の彼女の微笑みといったら!
隙を突いた笑顔はたった直前まで、彼の銀色の瞳に入れていた、あの虹の彩りよりも美しく煌めき、そしてそれは、あまりに眩しかったために、氾濫する喜びの洪水に押し流されたアッシュは、立ち眩み(実際には座っていたのだが)に目がクラクラとくらんだ。
事実、魔人で恋人のアッシュが、ほぼ初めて目の当たりにした、聖女の可愛い微笑は、甘美や優美にすこぶる恵まれており、ドキドキと落ち着かない心臓が、バクバクと乱れ打ち、彼女を実直に恋い慕う敬虔な彼を、安らかな死に至らしめんほどの、とてつもなく素晴らしくも、暴力的な魅力に満ち溢れていた。
さきほどのキスや無断の鑑賞と同じように、アッシュはモナリザにも劣らない微笑みの意味を都合よく――、好意的に受け取ることにした。
何故かは分からなかったが、多分彼のように、偽りない真実愛の気持ちを口に出して、言葉として言うことは、彼女の絶対的で横暴な羞恥心が許さないのだろう、おそらくはにかみ屋のネルは、恥ずかしい歯の浮くような言葉がいらないキスとか微笑、それから盗み見で、彼女を一途に想う彼を、心の底から愛し、かつ、切実に求めている情熱的な事実を、精一杯伝えているのだろう!
ああ、よほど幸運なアッシュは、何て可愛らしい生き物を手に入れたのだろう!
これほどまでに内気で、ひどく恥ずかしがり屋の女を見たことがなかったアッシュは、その霞か幻の存在を確かめるかのように、手を無意識のうちに伸ばして、ふっくらと丸い曲線を描いたネルの頬へ当てると、彼女の柔らかい笑みは次第に弱まり、ついに無表情の口元へと戻ってしまったが、触れた頬は火傷しそうな熱を帯び、見合わせる顔はやや上目遣い気味で、観察する彼を真面目に見返した。
通常であれば、一般的には、決まった条件の下でしか姿を見せない、まれで貴重な、珍しい自然の偉業が、うっすらと消えてなくなっていくまで、人は目に焼き付けようとするものだが、それに目もくれないアッシュもネルも、自然と架かり、自然と消えていく虹などお構いなし、恋するお互いを真剣に見つめ合っている方に、より重きを置き、あるいはまた、甚だ価値があると思っているようで、珍妙な自然の副産物よりも、二人が何倍も素晴らしい現実は、誰の目から見ても、大いに明らかなところだった。
アッシュの幅広の手のひらから伝わる、ネルの温かいほっぺたは、ツルツルふわふわしていて、羞恥や高揚のために上ってきた血が、透き通るミルク色の、柔らかい弾力に満ちた、きめ細かな肌を通して、焼いた石炭みたいに、赤々と情熱的に燃えていた。
小さい形のいい唇は、ふっくらと丸みを帯び、熟したスモモのような心地いい弾力と、甘酸っぱい艶、どんなに名の知れた立派な画家でも、完璧には再現できないくらい、極めて絶妙なサンゴ色に染まっていた。
尖端が上向いた可愛い鼻も小さめで、聖女の中の元気や快活さ、小生意気さを表すと同時に、人目に幼く見える効果もあった。
あまり張り出していない平らな骨の上に載り、クリーム色の髪の毛と同じ色をした、細くなだらかに下がった柳眉の下に、梅やあんず、スモモ、桃、プラムなどの果物の種とよく似た、丸っこい眼の内に、鮮やかな翡翠色の瞳がそれぞれ二つ収まり、彼がこのように意図的で集中的に、一心に彼女に見入っている理由が分からない不安、はたまた、恥ずかしくも、彼に直に触れられている幸福、そして、彼女にとって第一の、美しいやんごとない芸術を、またしても注目できる陶酔を湛えた目は、筆舌に尽くしがたい、何ともきらびやかな光を纏って、彼の灰色の双眸を、時折震えるかのように、嫋やかにはためく薄茶色の睫毛と一緒に、じっと感慨深げに覗き込んでいた。
緩くカーブしたおでこは広く、健康的な色つやに、プルプルの剥き卵らしく、白く照り光っていた。
男のくっきりはっきりした線と違って、優し気な顔の輪郭は、あやふやと不鮮明で、曲線的に描かれ、その愛らしい丸さが、若く見える童顔に、ますます拍車をかけていた。
乳白色のキャンバス上に描き込まれた、実に魅力的な、種々の特徴を縁取る額縁は、しっとりと滑らかな絹糸を彷彿とさせる、可憐な白金の髪の毛で、額の生え際より真ん中で分けた毛束は、こめかみから、血の深紅に染みた小ぶりな耳を掠め、後ろ頭にかけてきちんと編み込まれ、後ろで合流した光沢のある髪は、くるくると緩やかな螺旋を描く巻き毛へ流れ落ち、最終的には、アッシュの黒っぽい紫色のマントを着込んだ華奢な双肩や、小さな肩甲骨の上あたりで、淑やかに鎮座していた。
丸く小さく尖った顎から下に伸びる首は、細いが短く、いつもの白銀色の肌着に覆われ、よってそれは、ペンダントをぶら下げた長い首飾りよりも、チョーカーのような、喉にピッタリと貼りつく、短い襟巻が似合うだろうから、光の乱反射がキラキラとまぶしい、ダイアモンドの一級なもの、あるいは翡翠やエメラルド、真珠のネックレスを、近いうち必ず手に入れようと、しきりと眺める彼は、考えずにはいられなかったし、それから、そんな首の付け根から下には、きっとレオナール藤田が描いた、婦人の白濁した気品ある肉体が、今現在着ているワンピースや、マントに包み込まれており、愛おしいネルの全てを目に入れ、焼き付け、把握するまで、気が十分済まなかったアッシュは、何を思ったか大胆にも、熱い頬へやっていた手を下へずらして、マントを結び留めている、首の付け根へと持っていった。
当然、驚くネルは怯み、注いでいた青緑色の視線を素早く落とし込み、外套の結び目を解こうと試みる、アッシュの大胆で無作法な大きい手を見やると、瞳は瞬く間に、困惑や動揺に揺れ動きながらも、彼の思惑を完全には測りかねた上、もとはといえば、マントは彼のものだったし、マントのすぐ下は裸というわけでもなし、不承不承されるがままにした。
容易な蝶の結び目は、頑固に凝り固まった、解きにくいだまこちよろしく抵抗もなく、するりとあっけなく解け、ブドウ色の生地を、次にむんずと掴んだ手は、なだらかな肩から引きずり下ろし、傍らの板床へ何気なく捨てた。
心臓は、一言も言わないアッシュが、実際何をしようとしているのかを、注意深い頭の中で巡らす度に高鳴り、恥ずかしさや戸惑いゆえ、目が合わせられないネルは、それがいけない希望だと知りつつも、後に続く彼の一挙一動から、目と関心が全くもって切り離せなかった。
ああもう全く、自信家で挑発的な彼はいつだって、必要な言葉足らずだ・・・!
むろん事実確かに、賢者は多くを語らず、口は禍の元、沈黙は金、雄弁は銀と、巷では叫ばれているものの、そんな向こう見ずの自己を中心に回っている、ふてぶてしい魔人の彼が、そうした説明の言葉を出し惜しみすることで、自信の少ないうぶな彼女が、一体どれだけの緊張とか、不安を抱いているのかは、到底分かりっこあるまい!
許可をいちいち請う必要はないが、先の読めない、予想の付きにくい彼が何をするつもりなのかは、せめて口にして言ったとしても、それほど大した問題ではないだろう?
例えば船がそこにあったとしても、浮かぶ川や湖、海がなければ、始まる航行も始まらないのと全く一緒で、楽しく健全で素晴らしい恋愛において、どちらかの一方通行など絶対にあり得ないし、真実あってはならないのだ。
今の聖女はそれこそ愛の川、湖、海であって、惜しくも干上がっているのだ。
だからこそ、自信家で野心家の船であるアッシュは、偉大なる船旅を始めたいのならば、ぐるりと道の遠回りなんて、野暮ったいことは言わず、雨ごいでもいい、たっぷりの水、すなわち、豊かな愛の気持ちで満たされるよう、まず第一に、ネルを潤さなければならないのだ。
そして、甘美で情熱的な求愛の、非常に幸福なうるおいで満ちたが最後、彼女という川や湖、海は、一つの波、渦、逆流、氾濫、干潮または蒸発も起こさず、ゆったりと快く凪ぎ、それは素敵な航行となるに相違ない!
価値ある貴重な口は、ただの飾り物ではなく、聖女を実直に恋い慕うアッシュは、愛の情熱的な言葉や熱心な請願を、恍惚のため息とともに、口にしなければならない。
とどのつまりアッシュは、どれだけ彼女を大事に考えているか、また同時に、哀れな彼がそれでどれほど苦しんでいるか、現実の言葉として、想いのたけを口から出して幾ら表明しても、ネルに対する思慕の強さを表明しすぎることは、決してないのだ!
だがしかしながら、とはいえども、魅力的なバリトンがやがてかすれ、男らしい喉仏が出っ張った喉がつぶれようと、男がどれだけ深く、かつ熱心に、彼女を愛しているか繰り返し言ったとしても、それが十分に足らないだろう聖女は、何と恐ろしい欲張りなのだろうか!
ここまでうだうだと考えた末、強欲という恥ずべき罪にぶち当たったネルは、そういう自分こそ、恋の高熱に浮かされたように、アッシュに対する愛の一途な言葉や、真摯な懇願を、口に上げただろうかと自問して、はてさて、それがちっとも言っていない現実に、はたと気が付くと、なんてことはない、言葉足らずは自分の方ではないかと、今さらながら呆気にとられた。
ああしかし、まるで貼りついた喉が、至極摩訶不思議にも、凍りついてしまったかのように、思うような言葉が口から全然出てこない!
だからしたがって、そんな彼女がかろうじてできたのは、月色のつるし飾りを通って、首の後ろへ回す彼の前腕辺りに、微かに震える自分の手を置くことだけで―――。
一方、制止が入ったように感じたアッシュは、ネルのだんまりと黙り込みつつも、碧い深刻な眼差しから、何かを伝えんとした気迫を受け取ると、ちょこっと考えてから、航路の方向転換をあっさりと決定した。
「・・・勘違いしてもらっては困るな、ネル。俺はただ、部屋が暑かろうと思って、脱がしてやろうとしているに過ぎないんだ」
にやりと愉快な薄笑いを浮かべたアッシュは、何ともしらじらしい台詞を、悪びれもせず口にした。
図書室が暑い?
それはもちろん、しとしとと降っていた霧雨の上がった、虹のかかった晴れゆく天気といえども、灰白色の雲間から徐々に現れる太陽は、別にギラギラと照り付けているわけでもないどころか、今日はどちらかというと涼しい方で、ぽかんとあきれ果てたネルは、最高に大げさなはったりだと思ったが、どうやらふざけているつもりではないらしい。
「・・・そんなことないとわたしは思いますけど・・・。暑いですか?」
「ああ、暑いさ」
と、うそぶくアッシュは平然と答えると、一体全体何を考えたか、纏っていた黒いマントをだしぬけに解いて、プラム色の外套が静かに横たわる、床上へ放り投げた後、喉首に巻いた灰白色のクラヴァットも解いて、寝椅子の上へ落ちるがままにさせ、それからネルのとても、とても驚愕したことに、彼は太い胴に回した銀色のチェーンベルトと共に、闇色のチュニックに両手をかけて、真っ黒の頭を通して一気に脱いだために、あまりに強い衝撃を感じたネルは、ひどくびっくりして、しばらくものを考え、あるいは口にすることができなかった。
おお神様、暑くも何ともないのに、着ていた服を易々と脱いでしまうとは、奇想天外な彼は、何という考えを思いつくのだろう!
だがしかしながら――、それこそ一歩間違えれば、不名誉な狂人とも変人とも思われかねない、大胆で突飛な試みは、彼女の疑念や怪訝に満ちた心を、一瞬でわしづかみ、ありふれた凡庸な想像の裏を見事についたので、並々ならぬ吃驚と同時に、実に面白おかしい楽しさを、彼女の中に生み出し、未だ信じがたいネルは、このような馬鹿な振る舞いに、腹を抱えて笑い出したい衝動に駆られつつも、理性的で自制的な体面を保つため、自然と憚られた。
対して、脱いだ漆黒のチュニックと、輝く銀色のチェーンベルトを、適当に寝椅子の縁へ掛けるアッシュは、至って何ともない様子で、愉快に憑りつかれたネルは、こらえきれない微笑みと一緒に、上ずったソプラノをかけずにはいられなかった。
「~~もう、別にそこまでしなくても、暑かったなら、窓を開ければよかっただけの話じゃないですか・・・!」
「ああ、確かにそうだな。ネル、全くもってお前の言う通りだ。・・・だが、もうじきここは、開けた窓では追い付かなくなるほど、暑くなる―――」
形のいい淡紅色の唇を、優しい微笑に曲げたアッシュは、意味深げに言い残したが、それが何を意味しているのか分からないネルは、答えを探ろうと、愉悦の光を灯した灰色の双眸を、無心で覗き込んだ。
すると、難しい謎の答えは、魔人の額にゆっくりと浮かび上がる、妖しげな黒っぽい紫色の紋章と一緒に、彼女の碧い目で捉えることのできない体感が、自分を疑うネルに教えてくれた。
「・・・?」
これは一体どうしたことだろう、何故だか知らないが、暖炉を設けた図書室は薪でもくべたのか、ぽかぽかと気持ちのいいぬくもりが、訝しむ彼女をじんわりと包み込んでいくために、手をさり気なく取られたことまで、気が回らなかったネルは、自分の手のひらで触れた、アッシュの硬い胸板の温かさを感じて初めて、我にはたと返った。
温度の不思議な変化が、魔法によるものだと考えるより先に、小さな手のひらで受けた、男の鼓動に感銘を受けたネルは、一も二もなく魅了された。
それは小鳥とか、寿命の短い小動物特有の、あの速めの調子を刻んでいて、そして、それでいて律動は、軽やかに陽気に歌っているようでもあって、他の誰でもない自分が、それに一役買っているのだと思うと、清々しい清新な喜びに嬉しいネルは、自分の胸の拍動も進んで伝えたいような、今までに感じたことのない、つつましくも喜ばしい神聖な気持ちになって、すると、心が彼女への恋慕で埋め尽くされているならば、実際文字通り、彼女のものにしてはどうかと、限界を知らないどうしようもない強欲が、またしても彼女の中で頭をもたげてきて、不埒で思い上がった、不道徳な考えに深く恥じ入る聖女は、このように支離滅裂で、無茶苦茶な自分が一切信じられなかった。
熱狂の渦を纏った恋は熾烈にも、無防備で無自覚の、鈍感な聖女へと襲い掛かり、対策や警護のない、隙だらけの司令塔である脳を、無慈悲にも完全掌握し、中身の伴わない、単なるお飾りに過ぎない物体へとなり下げてしまうので、そうした空っぽの頭の中では、不自然な気温上昇に対する、抗議の念は生まれようもなく、また、意地悪でずる賢い男の両頬を、愛し気につねって、不純な操作をやめさせることは言わずもがな、まるで何かが乗り移ったかのように、手のひらを上に載せたネルは、広い肉色の胸や胴、手腕を惚れ惚れと見つめた。
間髪入れずに情動の逸るまま、直ちに飛び込んでいきたくなってしまうくらい、広々と広がった、男の堅い弾力と、絶対的な安心感、包容力に満ち満ちた素晴らしい胸は、真黒いチュニックの上からでも分かる、ふっくらと筋肉の厚い盛り上がりが、彼女の小さくて柔らかい手のひらを、心地よく押し返しており、両端にごくさり気なく構えた、二つの小さな栗色の楕円は、退化の存在感が見て取れた。
引き締まった円柱形の太い胴は、脇と腰の間で少しだけくびれており、大地に根差して生きる素食な遊牧民のように、ぷよぷよと無駄な贅肉は全くついていないが、日焼けした皮膚の下に詰まった、ある程度の肉もきちんとついた、健康的で逞しい、若々しい胴体がそこに実存し、中央にへそ穴が軽く開いていた。
すこぶる不幸にも、同じ剥き出しの背中まで、じっくりと観察する大望はかなわなかったが、それにもかかわらず、横にとてつもなく広がった立派な双肩や、広い堂々とした胸から察するに、大きな肩甲骨周りについた、筋肉の盛り上がりが目立つ、頼もしい後ろも同様に幅広で、茫洋たる真ん中に、一本の縦線がくっきりと走っているのだろう。
なだらかな丘のように、ゆるい傾斜の広がりつつも、がっしりした肩の付け根から生える両腕は、巨木の節くれだった太い枝のように長く、筋肉質で強健、そして手首と呼ばれる、腕の先端に設けられ、彼女のちんまりした子供みたいな手を包むのは、荒々しい生命力と躍動感あふれる、ごつごつと飾り気のない、性的魅力に満ちた紛れもない雄の手で、長くて関節が角ばった五本指は、一本一本が太く、捉えた獲物を容易には逃がさないつくりをしており、隆起した太い血管の何本かが、きゅっと引き締まった手首を通って、前腕まで斜めに走り、淡黄紅色の皮膚を、葉脈のようにこんもりと押し上げていた。
いやはや全く、以上のように上半身だけで、これほどまで素晴らしい彫刻作品――、いわばあの古代ギリシャの彫刻家ですら、彼の肉体的魅力を十分に写し取れず、匙ならぬノミを投げてしまうほど、飛び抜けたものだとしたら、ふっくらと盛り上がった臀部を提げる、腰の位置が高い、つまりは、それを支える二本の脚も、非常に長いだろう下半身の方も、さぞかし見ごたえのある、とても男らしい頑丈な形状をしているのだろうと、極めて当たり前の想像が、好ましい興奮に心乱れる聖女に及ぶには、それほど大変な話ではなかったものの、肉体美の極致を目の当たりにしたネルは、すでに存分に満足していたので、これ以上の観察は、贅沢で恥ずべき願いであって、彼女は足るを知るべきだと、自分で自分を窘めた。
不本意ながらも徐々に上がっていく温度に併せて、取られた小さな手が少しずつ上へずれていくと、彼女の青りんごの目線も自然と上がっていき、鎖骨の秀逸な浮き彫り、斜めに走った肉の筋が顕著な太い喉首を通って、最終的に辿り着いた、男のわずかにざらざらした滑らかな片頬へ、鑑賞の視線を依然と注ぎ続けるネルは、うっとりと思いを馳せ、はたまた同時に、この上ない無上であり、彼女にとって究極の芸術を、再びもう一度、たっぷりと隅々まで、眺められる機会と幸運を施してくれた、全知全能の神とか精霊に、しみじみと感謝せずにはいられなかった。
二つの翡翠の玉だけを器用に動かして、それは素敵なアッシュをじいっと見入るネルは、以下のような点を明らかにしていった。
薄い皮膚の下から透ける、赤や青、紫色をした毛細血管の、気色悪い網目の浮き出たゴブリンどもや、サイクロプスの、蠟のように黄ぐすんだ、あるいは病的に青白い肌色と異なり、色つやのいい健康的な、フレッシュレッドの肌をしていること。
楕円形でコンパクトな小顔の輪郭が、きりりと締まっていること。
顎の骨がしっかりと硬いこと。
裂けたとまでは言わないが、笑った時に伸びる、淡紅色の唇は薄めの横長で、同時に、血色のいい頬がふっくらと盛り上がること。
ひげは生やしていないこと。
すっきりと鼻筋の通った、見苦しくないヌビア鼻をしていること。
ぼさぼさの鍾馗眉や、まばらに生えた魔物たちのものと比べるまでもない、角度の付いた、弓なりの高貴な黒い眉――眼差しも捨てがたいが、やはり顔の中で最も人目を惹きつけて、強く印象付けるのは、表情の表れる眉毛だとネルは考えた。実際、彼女が生きていた世界で、一番有名だった肖像画の女性は眉毛がなく、それゆえに、女は美人であるどころか、たいそう神秘的で謎めいた雰囲気を醸し出していた――の下、黒いインクの艶を兼ね備えつつも、ふさふさと生えた扇状の睫毛に縁どられた、切れ長のアーモンド形の目は、魅惑的な灰色の瞳で占められており、色はペルシャ猫とか、狼、ユキヒョウといった、捕食動物の優雅な銀色の毛並みから、黄金の派手な華やかさには欠けるが、落ち着いた静かな気品漂う銀器を思わせ、また同じくして、雨あられ、雹、雷や雪、はたまた暴風の、恵みであり脅威でもある自然を抱いた、灰色の雲まで連想させて、そして、この二つの並外れた宝石を、喜び楽しむ少年の眼のように、生き生きと明るく輝かせるのも、あるいは、冷たい雪雲を孕んだ、どんよりと曇った陰鬱な冬空にするのも、それらを覗き込む彼女の、意識的な振る舞い一つにかかっているのだと理解したネルが、極まりない幸福と、胸のときめきと共に、どうやっても舞い上がらずにはいられないこと。
しかも笑った時に、目蓋が被さって一重になった上、涙袋がぷくっと盛り上がること。
それらに続いて、目尻にしわが若干寄ること。
生きた図柄が、刺青のように浮かび上がっている額は、広くも狭くもなく、ちょうどいい大きさであること。
髪の毛――、ある程度のコシやハリを備えた、柔らかな黒髪は緩く波打ち、襟首や、少し尖った耳の後ろまで、自然な感じで流れていて、そのインクブラックは、敏捷で獰猛な、クロヒョウの艶やかな毛並みを喚起させ、誠に、カラスの濡れ羽色とか、緑の黒髪といった慣用句が適切、いや最適で、宇宙の純粋な闇ほど真っ黒い髪は、簡単に目の当たりにできるほど、人々の間でありふれている、平凡なものでないことは、茶色交じりの黒や、日焼けにパサついた髪を、日常的に目にしていた彼女が、よく分かっていたこと。
だからこそ、空いた方の片手を伸ばして、思わず触ってみてはいられないネルは、いつもアッシュが、彼女の白金の髪にするように、櫛のように、漆黒の艶髪を、指と指の間に優しく通して、サラサラと心地いい感触を確かめた。
以上の点から、まるでそっくりそのまま、紙の中から出てきたといわんばかり、惣領冬実の描く、麗しの青年に著しく似た美男が、彼女を愛の眼差しで見つめ返していて、全くもって愛がそうさせるのだと、二枚目な男は、掴んでいた手を唇へずらし、小さな手のひらの中へ、真心のこもった口づけを捺してから、余裕の微笑みを浮かべて言った。
「おいで」
言葉はそこら辺の犬猫に向かって、口にするものとほとんど大差はなく、いつから自分は、彼の愛玩動物へと変わり果ててしまったのだろうと、ささやかな反感を抱きつつも、自分は決して言うことを素直に聞いて、彼の軍門に降ったわけでも何でもなく、部屋があまりに暑くて、どうしようもない熱に浮かされたために、そうしているに過ぎないのだと、自分で自分を言い聞かせたネルは、腰を寝椅子の座面から浮かせて、かっこいいアッシュの腕の中へ、収まりに行った。
歓迎の接吻をもって迎え入れられ、唇が触れ合ったとたん、すぐさまとろけた脳と一緒に、唇の甚だしい柔らかさと、とんでもない幸福ゆえ、凄まじい勢いと音を立てて、身がたちまち崩れ落ちてしまうのではないかと、心配したネルは恐れた。
しかしながら、そうした懸念は全く無用で、回した剛健な二本の腕が、崩れ落ちそうな彼女を、しっかと支えていたから、ドキドキ高鳴る胸のときめきを、横に聞きながら、酔いしれたネルは思う存分、夢中の海を泳ぐことができた。
おお正にこれこそが、彼女が心の底から、身体の芯から、骨の髄から望んでいたものだ!
悲願はとうとう達成され、オリンピックでメダルと月桂樹の冠を取る以上の、かつてない喜びが、無数と舞い散る栄光の紙吹雪と共に、彼女の内側で嵐のように吹き乱れ、不可思議にも、温度がこれ以上上がらない事実とか、白銀のワンピースが緩んでいる現実は、そうした並々ならぬ歓喜の前では、考慮に足らない、至って些末なものだった。
プレゼントを開けるときみたいに、ワクワクと高揚しながら楽しむアッシュは、リボンや包み紙を手際よくはいでいき、もちろん彼の想像した通り、レオナール藤田が描いた裸婦と寸分違わない、何とも神々しい美しさに光り輝く、恥ずかしがるネルの、乳白色の豊潤な肉体が、ようやっと全貌を現すと、このまた一つとない、神からの素晴らしい贈り物に狂喜乱舞の彼は、途方もない敬服と感謝の念を、ほとほと感じずにはいられなかった。
あまりの感激に言葉を失うアッシュからしてみれば、それはまるで、あのクレオパトラの愛した、バラの花びらを浮かべた、ロバのミルク風呂から上がったばかりかのように、しっとりと照り光っていて、その滑々した光沢は、まさしく気品ある真珠を思い起こさせ、彼はすこぶるまれにみる奇跡を、実際に目の当たりにしたかのようだった。
脱ぎ捨てた服は全て、白黒問わず、土色の床板の上に散らばったり、象牙とひよこ色の縦じまが入った寝椅子の、チョコレート色の縁にだらしなく掛かって、はた目に堕落した感じがしたけれども、誠実な愛を育み確かめ合う二人は、至極甘美で官能的な雰囲気を纏っていた。
「・・・~~っ・・・♡♡」
真摯な学問や調べ物の場に甚だ似つかわしい、熱のこもった息遣いだけが、しんと静まり返った図書室にこだまし、生まれたままの一糸まとわない姿をさらし、大きな窓から射し込む太陽光の明るい部屋で、隠れるシーツも布団も何もない中、一体自分は何をしているのだろうと、アッシュのごつごつと固い、不安定な膝上に、露わな背を向けて座ったネルは、頬を赤らめ、到底我慢のならないひどい羞恥ゆえに、逃げかねない彼女を引き留める、腰のくびれに回った、太い腕の力強さと、情熱的な愛の儀式がこれから始まるのだという、揺るぎない決意や意志を表示するかのように載った、剥き出しの太ももの上の広い手のひらを、心身共に否が応でもはっきりと感じたが、事実、緊張や興奮、期待、半端ない喜びが入り混じった心の中、やはりどうしようもない恥じらいが、ずば抜けて群を抜いており、温かい肌のピタリと吸い付く得も言われぬ触り心地が、このように複雑に入り組む聖女を責め苛む、必死の羞恥心をやわらげ、暴徒と化した心情の暴動からくる、発狂の一歩手前だったネルは、大切な理性をすんでのところで維持できた。
彼の逞しい両腕の中に、すっぽりと収まってしまう、小柄で美しいそれは崇高な女神が、本当に彼のものである、にわかに信じがたい現実が、すんなりと受け入れられないアッシュは、心酔の極みで、息の詰まるほど繊細なガラス細工のように、あまりに脆すぎるため、それこそ一か月とか、一年に一回しか取り出して見ることのできない、格別貴重な壊れ物を扱うかのように、恥に負けじと自我を懸命に保つ聖女をそうっと優しく、慎重に触れていたが、その重大な彼女の太ももを、ゆっくりと撫でる大きな手や、せまい背中に受ける熱い吐息は、非常に細かく震えており、自分でも予期せぬもどかしさが、羞恥の中から唐突に生まれ、じれったそうに、内股をもじもじと擦り合わせるので、あると思いもしなかった自分の中に、確かに存在していた事実に加え、はしたない欲求の昂ぶりや、早まりを知ったネルは、自分を疑わずにはいられなかった。
ただ単に、素肌と素肌が触れ合っているだけで、けたたましい早鐘のように高鳴る胸が、はち切れそうに膨れ上がり、潰れたも同然の肺を通り抜け、焼けただれたような喉を出入りする、浅く乱れた息は、窒息しそうに詰まり、焼き付いた脳は幸福に焦げ、マグマのように沸騰した精力が、身体の内側でブクブクとあぶくを立てて煮えたぎり、クリーム色の頭のてっぺんから、鮮やかなサーモンピンクに染まったほっぺた、空中にぶらんと浮かんだ小さな足のつま先まで、それはもう狂おしい予熱に熱くなっていたから、広い手のひらが、胸の丸いふくらみを包み込んだ時、心臓を直に鷲掴まれたような衝撃が、ネルを襲いつつも、しゃがれた醜い悲鳴ではなく、甘美と恍惚の深いため息が、仰け反った喉をせり上がって、開いた唇のわずかな隙間から、艶のある熱を纏って漏れ出た。
温かなふくらみは、手のひらに丸ごと収まる、大きくも小さくもないちょうどいい大きさの球で、ぐにゃぐにゃの水風船らしく、甚く柔らかいと同時に、ふっくらとした弾力が、手のひらを優しく跳ね返していて、淡紅色の愛らしいしこりだけが、唯一しっかりした堅さを帯び、健気に主張する、忘れてはならない存在に触発された指――女の縦に細長い爪と違い、横幅のある平べったい爪が載った、実に男くさい指――が、それを摘まみ、尖りをますます鋭くしようと縒りをかけたら、快感に落ち着かない腰が共にくねり、甘美な震えが反射的に全身を包み、悶えるネルを大いに悩ませた。
「~~っく・・・♡♡!ん・・・、はぁ・・・ん・・・♡♡!」
ほとばしる艶かしい嬌声を、熱心に堪えつつも、熱い吐息を伴った嬉しい苦渋は、食いしばる歯や、固く引き結ぶ、唇の隙間から勝手に絞り出され、プラチナブロンドの滝で隠れるうなじやら、脇、顎の下、額の上に、汗がじわっと滲み始めて、頬の紅潮した顔をしかめる聖女は間違いなく、アッシュが点けた熱い火で、燃え滾っていた。
全くのところ、彼からの一途な愛を受け取って、すこぶる喜んでいる証拠を抑える必要など、実際これっぽっちもないはずなのに、苛立たしいほど実に挑戦的で、好戦的な確信犯の彼女は、わざと報せまいと、いたずらな心を砕いて、並外れた愛しさに狂おしい彼を、急き立てるだけでは飽き足らず、彼の中でめらめらと燃え盛る、情熱の火になおも油を注ぐので、大いに受けて立つアッシュは、けちん坊の聖女をもっと苦しめてやらんばかり、摘まむ指に力を込め、彼の太い腕の中でもがくネルを、さらにじたばたとのたうち回らせた。
「ああ・・・♡♡!~~やぁ・・・♡♡!~~ん・・・っ♡♡!」
ああそうだ、これでいい!という自己満足の鼻息が、鼻孔からふんと放たれ、高まる興奮と一緒に、心臓の脈拍も上昇していったアッシュの頭の中は、もはや愛することだけで、丸ごと覆い尽くされ、ももの上へ置いていた手は、そうした圧政者の横暴な指令のもと、ごく僅かな隙間の他は、しっかり閉じている、両脚の付け根へと向かい、浅い谷間へ巧みに滑り込んだ指先が、とてつもなく素晴らしい奔流を生み出す、丘と丘の間に埋もれた紅い豆粒を、的確に捉えた上、ちょうど猫の前足が、玉や球を転がして弄ぶように、指の腹を頂いた粒は、あっちこっちと揉みに揉まれた。
「あん、嘘ぉ・・・っ♡♡!」
と、そこから伝わる甘い刺激が、全然信じられないネルは、仰天と狼狽の言葉をとっさに口にしたが、嘘なものか!と密かに憤るアッシュは、またしても意地悪く、載せた指の力を強めた。
「はぁん、だめ、そこ・・・♡♡!~~お願い、そこは嫌・・・っ♡♡!」
というふうに、この上ない陶酔にあえぐ聖女の口は、懇願を必死に訴えるが、身体は、粒を擦る指がたまらなく心地いいことを、しきりに揺れ動く腰や、右左と振り乱れる月色の頭髪、そわそわと落ち着かない華奢な双肩で伝えていたし、震えっぱなしの身体の熱は、まるで火でも熾したかのように、燃えるように熱かった事実、そして、血管の浮いた武骨な手の上に、弱々しく載せた小さな手のひらは、それを阻止する気概も何も感じ取れなかった現実から、いずれの持ち主も、好まないどころか、男と男の指先に大変感銘を受けているのは、火を見るよりも明らかだった。
しかしながら、極めて不可解なことに、太ももは抗うべき尊い理由でもあるのか、ギューッと内側に閉じて、ふわふわの肉を一心不乱に押し付けてきて、二本の脚の間にきつく挟まれた手指の、それは偉大な仕事の邪魔をしてくるので、とてつもなく可愛いネルを愛し抜く使命に激しく燃えたアッシュは、正直に頼まざるを得なかった。
「~~頼む、ネル。どうかお願いだから脚を開いてくれ。このままじゃ触りにくくて仕方がない・・・!」
だがしかし、アッシュ自身はもちろん、誰もが焦燥を瞬間的に覚えぬほど、誠にもったいぶる聖女は、天使の光輪のような輝かしい白金の頭を、軽くいやいやと振りながら――、
「~~無理・・・っ♡♡!~~できない・・・っ♡♡!」
やれやれ全く、またいつもの駄々こねりか!
ネルの稚児のような、どうしようもない我儘にアッシュは呆れ、ほんの少々苛立ちつつも、辛抱強く答えた。
「無理じゃない。いい子のネルならできるさ」
「~~~・・・♡♡」
ああ全くもう、先ほどから彼は、頼りない小さい子どもか何かのように、彼女を扱うが、とはいえども、やっぱり幾つになっても、他者から褒められることは、たとえお世辞だとしても、素直に嬉しいもので、ためらうネルは、見せかけかもしれない煩悶と逡巡を示しながらも、強引で自分勝手な普段と裏腹な、彼女を思いやるアッシュの控えめな、平身低頭の物腰が功を奏したか、それとも、寛大な聖女は期待に気前よく応えてやるためか、乗り気しない両脚を、おずおずと開け拡げると、紅の豆粒は再び、指の来襲に即座に見舞われた挙句、情け容赦ない集中攻撃に苛まれることとなった。
おお、こうなってしまってはもう、救いようもなく延々と湧き上がってくる、淫らな声を抑えることなど、到底できやしない!
「あん、だめぇ・・・♡♡!ん、もう、アッシュ・・・♡♡!あ、だめっ、~~~あん・・・♡♡!」
再開した喜びにもだえ苦しむネルは涙目で、止めることなど決してできやしないにもかかわらず、何を意味したいのか、幸福に逆らうつもりなど一切ない彼女が、一応抵抗した印であり、また、恥じらいを示す素振りとして、甘い痺れに力の抜けた手を、大いなる目的のために励む手の上へ、またしても力なくよろよろと被せた。
「~~だめじゃない、ネル・・・!頼むから、どうかお願いだから、もっと聞かせてくれ・・・!もっと浴びるように、可愛いお前が俺の指でたくさん感じる甘い声が、俺は死ぬほど聞きたいんだ。飽きることなど絶対にない。美しいお前が呼ぶ俺の名前を何度でも、俺は命の続くまで、永遠に耳にしていたいんだ・・・!」
「~~ああっ・・・♡♡!アッシュ・・・♡♡!~~アッシュ・・・っ♡♡!」
「~~ああ、ネル・・・!命よりも大切な、俺の素晴らしいネル・・・!お前がいれば、俺はもう何もいらない・・・!お前は、俺が生きる全て!愛しいお前なしでは、無力の俺は到底生きられまい・・・!」
「~~・・・アッシュ・・・♡♡!ゆびが・・・♡♡!んッ、~~熱い・・・っ♡♡!」
ああそうだ、無上の幸福を噛みしめながらも、同時におかしくなりそうな聖女の全く言う通り、すぐにでも起爆しそうなスイッチを弄繰り回す指は、火傷しそうに熱いだけでなく、樹液や花の蜜のように、自然と漏れ出た蜜液で、とろとろに濡れていて、そしてそれは、極めてやんごとない音を生み出す弦を弾く、指の滑りを実によくして、楽譜にしばしば見られる符号や文字、例えば、「滑らかにのびやかに」とか、「歌うように」、「だんだん強く」、「とても弱く」ならぬ、「乱れるように」まで、深みと奥行きのある、甚だ重厚で甘美な演奏を、ほとんど完璧にするから、この素晴らしい愛の楽器を弾くアッシュは、正に演奏者であり、ネルという竪琴から奏でられる、それこそ天国か楽園だけでしか聞けない、全くもって甘い豊かな調べに、夢見心地のアッシュはうっとりと酔いしれた。
「~~おお、ネル・・・!間違いない、俺も狂ってしまいそうに熱いんだ・・・!俺はお前が、どうしようもないくらい好きなんだ・・・!~~俺は――、俺の指に夢中なお前も、淫らな雨で土砂降りのここも――、可愛いお前の全部が死ぬほど愛おしいんだ・・・!だからもう一度だって、絶対に離してやるもんか・・・!」
いやはや全く、激しい炎のような彼はどうしてこうも、狂おしいほど嬉しいときめきに、しょっちゅうキュンキュンと収縮する、聖女の幼気な心臓へ、とても情熱的な愛の槍で、いたわりなくぶすぶすと突き刺してくる、いや、突き刺してこられるのだろうか?
「あん、アッシュ、だめ・・・♡♡!だめなの・・・♡♡!~~もう、アッシュ・・・♡♡!」
言葉と指の攻撃は、あまりの激しさと熱心さで、無防備で弱輩な彼女を大胆にも、征服、鎮圧しようと絶えず仕掛けてくるため、これ以上の乱暴な追撃、果ては、無許可の一方的な自我のはく奪について、恐れを大いになしたネルは、脚の引き戸をずらすことによって、門を意図的に閉めるという、愛の偉大で崇高なる儀式を、いみじくも遂行せんアッシュからすれば、途方もなく許しがたい狼藉を働いた。
「~~こら、ネル・・・!全く、大したいたずらっ子だ・・・!」
ついに、穏やかで優しい、それでいて同時に、辛抱強い堪忍袋の緒が切れたアッシュは、荒い苛立ちを露わにすると、逃げられないよう、胸の丸いふくらみや、腹部のくびれに回していた太い手腕を、今度は無理やり扉をこじ開ける(「きゃ・・・!」)のに使って、とうとう脚の戸は、閉じることの決してないよう、開け放たれたまま、強健な前腕と上腕によってがっちりと挟まれ、それはもうしっかりと固定されてしまった。
「ああ、アッシュ・・・♡♡!そんな、~~いや・・・ぁっ♡♡ゆびが・・・、ン・・・♡♡!~~~ッッ・・・(気持ちいい・・・♡♡!)」
自然と仰け反り、時折発作のような震動を起こす身も、けたたましい爆竹と共に、感謝と歓喜の祭りを盛大に営む心もとろけてしまうような、半端ない気持ちのよさゆえ、どうしようもなくぷるぷると小刻みに震える手は、弦をかき鳴らすかのように、指を旺盛に乱れ動かす、何のうっとうしい障壁もなくなった手の上へ、ぱっと見、縋るように載ってはいたけれども、実際のところ、それがただの虚しいお飾りに過ぎなかった現実は、その意志や力の全く感じられない、手の軽さを知っていた抜かりないアッシュだけが、きちんと分かっていた。
「ああ、もうだめ・・・♡♡!許して、~~お願い・・・♡♡!お願い、アッシュ・・・♡♡!」
おお、幸福と愛しさ、悦楽の極みであって、すこぶる甘美なるそれ――耐え難い苦しみという名の、果てしない喜びの果てでもある、遥かなる高みの頂へ登り詰めること、あるいは、何物にも代えがたい重要な自我の崩壊、すなわち、誉ある常人たらしめる理性を失くした、世にも恐ろしい無我の境地(悟りとしての境地は除いて)へと、強引に押しやられること、はたまた、これでもかと荒々しく踏みつける彼が、救いのない彼女のすべてを制圧すること――が近いことは、発汗と高熱に包まれた全身が、痺れたようにしきりと震え、しっとりと滑らかな、きらめく光沢を備えた、クリーム色の絹糸のような髪を振り乱して、堪らず訴えるネルも、ほとばしる水源地へ当てた指は言うまでもなく、粘り気のある、温かい潤沢な恥蜜が滝のように滔々と流れ、彼の広い手のひらをも、びしょびしょに濡らした現実を覚えるアッシュも、第三者の誰からしても、疑いようもないくらい、明らかな周知の事実だった。
「~~ああ、ネル・・・!お願いしたいのはこっちだ・・・!どうしてお前はこうまで可愛らしいんだ・・・!いいか、そんな素晴らしいお前が、本当に俺のものであって、俺の腕の中に現実いるだけで、お前に夢中な俺の胸をいっぱいに満たす、お前には決して図り切れない至上の幸福が、お前に恋した哀れな俺を、一も二もなく殺そうとするのに、欲の留まるところを知らない、とんでもない強欲で悪魔のお前は、俺の指で乱れるだけでは飽き足らず、しまいには到達することで、お前への愛に狂った俺の息の根を、更なる喜びで、確実に止めようとしているんだろう・・・!」
言いがかりも甚だ等しい、愛の文句を熱っぽくつける、アッシュの指先によって生み出された、狂気、陶酔、忘却、興奮、幸福、愛といった軍勢が雪崩のように、聖女の険しい山城に設けた、ごくちっぽけな自我の要塞を取り巻き、雄たけびを上げながら、激しく攻め立て、陥落せしめようと、正気という旗のはためく、小さな砦を執拗に目指していたが、そうした彼らの努力が報われる瞬間が、とうとうやって来たようで、嵐の前の静けさを機敏に感じたネルは、まもなく訪れるだろう、並々ならぬ甘美な恐怖に恐れおののいた。
「あん、アッシュ♡♡!~~アッシュ・・・♡♡!もうだめ、いい・・・♡♡!気持ち、いい・・・っ♡♡!」
「おお、ネル!その言葉が聞きたかったんだ・・・!そう言うお前が悦べば、俺も嬉しい。愛しいお前を幸せにすることが、俺の絶対の幸せなんだ。だから、頼むから、どうかお願いだから、その流れに逆らってくれるな、ネル・・・!大丈夫だ、俺が付いている。いいか、たとえもし快楽が、お前を真っ白に塗りつぶしたとしても、俺がちゃんとお前を受け止めて、支えてやるから・・・!いいな、ネル、お前を心の底から愛しているんだ・・・!」
「だめ、アッシュ♡♡!あん、アッシュ♡♡!だめ♡♡!もうイク、アッシュ♡♡!ああ、だめ、イっちゃう・・・♡♡!!―――~~~ッッ・・・♡♡!!」
寸前、ほんの束の間、空いた片手が、細い縦じまの入った、淡い黄色の寝椅子をちぎらんばかりに、力強く握りしめた次の瞬間、直下した愛の大きな地震が、身体のあちこちで震動すると同時に、それはひどい竜巻が、圧倒される聖女の内側で、どこからともなくいきなり巻き起こったかと思うと、最後の砦として、頑なに守り続けてきた彼女の理性を、あっという間に吹き飛ばした上、そして、そのために要塞は、せめぎ合いに負け、奔流のようにどっと押し寄せる忘我によって占拠されたものの、かろうじて奇跡的に、悠々とはためく旗まではなぎ倒されておらず、それはちょうど、絶望したわがままな子どもが、希望のかなわない悲しみや苦しみに、火が点いたように、わあわあと声を上げて泣いていても、頭や心の中は、不思議と現実を冷静に見つめているように、あるいは、失い難い価値ある何かを喪失した大人が、完全なる狂人や廃人へ落ちぶれず、やがては惨めな不幸から立ち上がるように、いつまでも無我に浸りきらない、酸いも甘いもする現実に立ち向かう分だけ必要な、粘り強い意志や精神が最低限、人間には秘められている、どうしようもない、全くの無力ではない事実が、露見した。
とはいえども、たった一瞬間だけでも、自分を失う恐怖はネルにとって甚大で、深刻な不安であり、いわゆる寝首を搔かれるとか、予期せぬ落とし穴にはまる、恐怖と驚きが混在したスリリングな体験に似ており、だがしかし幸運なことに、これは冷や汗をかく類のものでないどころか、すこぶる甘い電流となった快感が、身体の隅々まで行き渡る、病みつきになりそうな、唯一無二の素晴らしい感覚だったから、恐ろしい冷たい忘我はたちまち、温かい幸福に取って代わり、快い余韻に痺れる彼女を、たっぷりの歓喜や恍惚でじんわりと満たした。
離散させられた理性は大いに混迷しているようで、再び結集するのに手間取る傍ら、そうした空白の時間をも惜しむアッシュは、未だ吐息の荒い、頭のぼうっと働かないネルを、優しくゆっくりと、寝椅子の座面へ横たえさせると、一体全体何を考え付いたのか、寝椅子のこげ茶の縁にだらりと掛けていた、灰白色の自分のクラヴァットを手に取り、たどり着いた、何もない無我のまっさらな境地から、自分が存在している現世への、長い帰路へ着いている聖女の、力ない両腕を上げた後、交差した手首の下あたりで、きっちりと結んだが、それに気づく余裕がなかったネルは、失われた自我を取り戻すだけで、いっぱいいっぱいだった。
一見、それは貴重な、彼の比類ない女神を縛った光景は、磔の刑に処された、とある救世主を偲ばせる、冒涜的で、不敬な絵面のように映りはしたものの、信者の彼がこの上なく崇拝する女神を、より幸せにする、重大な大義の前では、惜しむべき手段や犠牲は、一つだってありはしないだろう他方で、途方もない心酔に潤んだ、半開きの翡翠色の瞳で、うっとりと宙を捉える愛らしい顔は、白く冷たい雪の積もった、清涼な雪山の山腹で広がる、碧い湖の綺麗な風景を想起させ、彼の素晴らしいミューズは、風景画はもちろん、どんな美人の肖像画だろうが、悲劇におけるヒロインの、美しくも儚いワンシーンを切り取った絵や、裸婦画のような、古今東西、ありとあらゆる時代の名画をはるかにしのぐほど、けた外れに美しく、温かみのあるサーモンピンクが、頬だけでなく全身にわたって、すべすべのミルク色の肌に絶妙に溶け込んでおり、言葉ではそれこそ言い表しようもないほど、何とも艶やかで、鮮やかな火照りがそこにあった。
ネルという至高の芸術の、この世のものとは到底思えない、あまりに神々しい美しさに、荒い興奮にしきりと乱れ打つ胸が、狂喜と幸福でこみあげるアッシュは、直ちに跪いて、彼の絶対的な愛と美の女神のため、謙虚で実直な祈りを捧げたい衝動に激しく駆られ、そして、尊い恋人が賜る惜しみない愛や、無数の喜びに対する捧げものとして、彼の柔らかい唇や熱い指先をもって、敬虔な祈りの代わりとした。
「ああ、ネル・・・!~~俺の大事な可愛いネル・・・!何てお前は美しい・・・!」
といった、恋人の情熱的なバリトンの呟きを耳に入れたネルは、やっとこさ戻ってきた実感と一緒に、じわっと血の滲むよう染まった、明るいバラ色のほっぺに当たる、甘いくすぐったい口づけを感じたが、はてさて、いつの間に上げたのだろうか、灰白色のクラヴァットで縛られた、二本の腕の自由が効かないことに、少々驚きつつも、優しく絶えず捺してくる唇の、柔く温かい感触の心地よさが、ぐんと上回るために、今はそっとしておいた。
「~~んっ・・・♡♡ア、アッシュ・・・♡♡」
亜麻色の睫毛の伸びた目蓋を自然と閉じ、こそばゆくも慈愛に富んだ可憐なキスを、深々と堪能するネルは、漏れ出る吐息交じりに言ったが、吐いた息が淫らなものであることを、彼女を心底愛する男に知られてやしないかと、未だ恥の意識が強い聖女は、それだけが気懸かりだったが、そのような女神に対する、真摯な祈りとしての、気持ちの十分にこもった口づけは、次に首を伝い、下へ下へと、ゆるゆると流れるように、拘束されたネルの身体の上を、下り落ちていった。
「~~んん・・・♡♡!あん、~~アッシュ・・・♡♡!」
ところが、淡紅色の唇が胸の蕾を捉えた時、訳の分からない熱い興奮に震える聖女は、好き勝手に動くこともできず、やはり縛られることは割に合わない、不公平な所業だと、ちょっとした不満を感じたが、幸か不幸か没頭するアッシュは、接吻に大分熱中しているが故、もう少し、その制限された状態のままでいることに決めた。
おお、へそ周りのキスは非常にくすぐったいから、象牙とひよこ色の、細い縦じま模様が入った寝椅子の上で身もだえるネルは、右左と、プラチナブロンドの頭を、じれったそうにしょっちゅう振り、それと同時に、鮮やかなサーモンピンクの浮かんだ、乳白色の内股から下の脚たちは、しきりと擦り合わせる膝頭を筆頭に、つま先を含めてもじもじそわそわと、一向に落ち着かない様子だった。
ああ、一度冷めつつあった熱が、またしてもぶり返し、とろ火でじっくりと炙るかのように、焼き網という名の寝椅子の上で寝転がる彼女を、問答無用でじわじわと温めていくので、ふしだらな女だと思われたくない主人の言うことを、全く聞かない熱い身体が、理性を完全に取り戻したネルは、何となく恨めしかった。
「あん、アッシュ・・・♡♡!もういやぁ・・・っ♡♡!」
決して欠かすことのできない、崇高な愛の儀式の事前準備に、積極的に取り組んでいたアッシュは、まだ(!)恥じらう女神の嘆願を耳にしたが、それにもかかわらずはじめから、言葉を本気にしていなかった彼は、うそぶくネルを小狡い知能犯と決め込み、今ではもう、つむじ曲がりの聖女は、大変な歓喜の証として、実際に思っていることと、反対の台詞を口にするのだと、分かりすぎているくらい、よく分かっていたから、当然聞き流し、そして彼は、目も留まらぬ速さで、淡い黄色の、金モールの房飾りが両端についた、俵型のクッションピローを素早く掴むと、腰と寝椅子の間へさっさと差し込んでから、閉じていた脚を力でこじ開け、寝椅子の濃い茶色の縁へ渡し、服と全くもって同じように掛けると、それこそ肝をつぶしかねないほど、とんでもない衝撃と羞恥が襲うネルを、大いに驚かせた。
おお神様!甚だ向こう見ずで、それでいて極めて恥知らずの彼は、一体なんて大それたことをするのだろう!
「いや・・・っ♡♡!!やめてっ、~~見ないでぇ・・・っ♡♡!!」
と、ひどい恥辱に涙目のネルは、必死のソプラノを張り上げて言ったものの、事実脚は、まじまじと見る観察や、灰色の目の保養のために開かれたのではなく、今度は指先ではなく、彼の淡紅色の唇や赤い舌でもって、彼の並外れた女神に対する、清い崇拝の心と、狂おしいほどの愛を示すため、屈みこむアッシュは、とても端正な顔を、脚と脚の谷間へ深々と埋めた。
「え、何・・・っ!?―――きゃあッ・・・♡♡!!」
瞬間、すこぶる魂消たネルは、自分の歓喜に粟立つ身に当初起こったことを、全く疑わずにはいられなかったが、それというのも、さっきまで、指が直に当たっていたところへ、今では何だかぬめぬめした、生暖かい何かが、蠢く生き物のようについて離れず、おまけに、自由の利かない身体の、どうしようもない熱に滲み始めた、汗の垂れ流れる、無防備な胸の蕾の上にも、指がきちんと覆い被され、しかもそれに加えて、ピンク色の蕾は、縒ろうが、ねじろうが、引っ張ろうが、どうしたってとれるはずがないのに、ギュッときつく摘ままれ、そして瞬く間に、快感の大竜巻が、息を大いにのむ聖女の内側で、一本といわず二本三本と、ごく自然に、甚く突発的に生まれ、またしても、懲りない野蛮の暴風は、淫靡な地震に絶えず見舞われる彼女の中の、大切な理性の木をへし折ろうと、懸命に試みるので、それに翻弄どころか圧倒されかねないネルは、手負いの獣みたく暴れに暴れる、とてつもない快楽の、暴虐で大暴れの渦巻きに対して、かろうじて正気を保つだけで、とても精いっぱいだった。
「ああ・・・ッ♡♡!!やだぁ、~~アッシュ・・・♡♡!!もう、いやぁ・・・ッ♡♡!!」
いやはや全くのことながら、単に縛るだけでも、実に許されない重大事件であるにもかかわらず、どうして彼は、耐えられない究極の恥ずかしさゆえ、死んでもおかしくない彼女を、こんな目に遭わせることが、めったやたらとできるのだろうか?
一体彼女が何をしたというのだろうか?
ええい、もし後でクラヴァットを解いた彼が、仮に手をついて謝ったとしても、尊厳をずたずたに傷つけられた彼女は、彼を許すことはおろか、大目になど絶対に見てやるものか!それどころか、名誉棄損で訴えてやる!!
「あん、だめ・・・♡♡!!いや・・・っ、~~解いて・・・ッ♡♡!!」
といったように、威勢のいい口だけは、反抗心に富んでいたが、実際のところ、本心では、他の男に縛られるのは、全くもってご免だったが、現実彼女のアッシュが縛ったならば、本望といっても大げさでないくらいの、非常な嬉しさが、はた目に恥ずかしがる聖女を、溢れんばかりにひたひたと満たしており、また、混沌と乱れた頭や身体の内側は、並大抵でない喜びの花火が次から次へと、盛んに打ち上げられ、そのあまりの目まぐるしさや、たっぷりと舞う火の粉、飛び散る火花にキラキラと煌めく、大層深い、きらびやかな幸福にまばゆいネルは、怒りの感情さえものまれてしまったことに、幸か不幸か、気が付くことができなかった。
「――♡♡!!」
ああなんていう事だ、大変驚くべきことに、鮮やかな青緑色の双眼を、至極不都合な事実のために剥いた、彼女のアッシュが吐く、吐息の熱さまで感じ取れたネルは、それこそ吸い付いたり、しゃぶったり、啜ったりまで、まるで彼女を食しているかのように響く、ひどく淫らな口唇音さえも聞き取ることができ、全然信じられない聖女は息をのみ、二つの翡翠玉をおたおたと泳がしつつ、極まる羞恥で、すこぶるどうにかなってしまいそうだった。
「あん・・・♡♡!!~~アッシュ・・・ッ♡♡!もう、アッシュ・・・♡♡!~~~・・・♡♡!!もう・・・だめ・・・ぇ♡♡!」
前兆はしんと怖いくらいに静まり返って、後に続く、凄まじい破壊に満ちた津波の前触れを、情け容赦なく告げてくるため、切羽詰まったネルは、もし今こそ、クラヴァットで縛られた両の手腕を、実際に使う事さえできたら、是が非でも彼女は、甘美な津波の震源地ともいえる男の、黒い滑らかな頭髪を、有無を言わさず引き剥がし、高熱に苛まれた全身が、どうしようもなくぶるぶる震える、可哀そうな彼女の全てを、きれいさっぱりと洗い流してしまう、実に恐ろしい津波を、みすみす被らなくて済むだろう理想を、心の底から強く切望した。
だがしかし、その時は間髪入れずにやってきて、足元を急にすくわれたネルは、薄い氷の上を歩いていて、そして、突然氷が踏み割れたかと思うと、あっと驚く彼女は、次の瞬間には、深い冷たい海の中へドボンと落ち、右も左も分からない、見通しの利かない暗さに、自分を完全に見失った錯覚に陥りつつも、それと同時に、びりびりと痺れるような、それは鮮烈な、素晴らしい快感の閃光が、未曽有の大激震と共に、沸騰した血がもの凄いスピードで駆け巡る熱い身体を、縦横無尽、東奔西走にひた走り、しばらくは、不平を絶えず訴えていたあの口も、段々と弱まり、じわじわと収まり、惜しくもしまいには必ず去り行く、どうしようもなく我を一瞬忘れてしまうほど、甚だ甘美な地震と、愛の稲光が残し、植え付けた、無上の感動ゆえ、ろくすっぽきけないながらも、彼女の中でどこからともなく芽生えた狂喜と恍惚、幸福が、自身の喪失という不安に苛まれた聖女を急速に包み込み、はち切れてしまいそうなほど十分に満たしたので、小刻みに震える唇は実際、優美な天女のような微笑みを浮かべたとしても、ちっとも不思議ではなかったくらい、ネルはとても、とても充実していた。
津波は前回のものと負けず劣らず、すこぶる強力ではあったが、縛った両腕の自由が効かなかったためか、敏感な感覚は、更に研ぎ澄まされたらしく、ぐったりと疲れたネルは、持久走を走った直後らしく、ゼイゼイと乱れに乱れた息が、収まる気配の一向に感じられない、甘い痺れと同様に、なかなかすぐにはつけなかったから、その上、瞬く力すら残っているかどうか、普段は冷静沈着であっても、たちまち火が点いた途端、激しく燃え盛る炎のような熱情でもって、まず望まない彼女の心を暴いた上に、盗もうとする、全く相反する炎と氷であって、あるいは、口に放り込んだ瞬間はヒヤッと冷たいが、次第に快い甘さが顔を出す、氷砂糖のような、驚きや不可解を湛えた、アッシュの思うところは言うまでもなく、彼の実際の次の行動について、ぼんやりとかすむ頭を使って考えるゆとりなど、あろうはずがなかったし、事実様々な感情で昂る彼も、珍しく余裕の気持ちが欠けていたのか、格別それについて、何も伝えはしなかったので、彼女の青りんごのぼやけた薄目に入れているようで、実は入れていなかった、愛の偉大で崇高な儀式のみに使う、特別な道具が実際用いられている現実に、それを迎える用意や、心の準備を整える暇も機会も、何も与えられなかったネルは、生まれて初めて他人を呪った。
一方、目ざとい魔人のアッシュは、突き立てられた愛の大剣を、やや遅れて覚えた聖女の、たじろぎや驚嘆、圧倒、無断の決行に対する怒り、羞恥が微妙に入り混じった表情を、ほんの一秒たりとも逃しはしなかったから、愛する人を本当に征服しているのだという、極まる興奮と歓喜の雨あられが、熾烈な弾丸のように、大事な女神への絶え間ない感謝と、大いなる感激に見舞われた彼の上に、ざあざあと降り注いだが、現実彼の中でめらめらと燃え上がる、誇りある雄としての、原始的な本能の火を消すまでは、惜しくもかなわず、火傷する熱杭か、はたまた尊い愛の拷問器具を、それは甘美な摩擦で悶え苦しむネルへ、奥深く依然とねじ込むアッシュは、その時、がむしゃらの彼の恋人が何を考え、また思っているのか、不思議と無性に知りたくて、どうしようもなかった。
ネルの頭に一番最初に浮かんだことは、声の許す限り、叫び声を上げてはどうかという、突拍子もない考えだったが、事実それというのも、うぶな聖女を責め苛む三重苦――図書室で事に及んでいるはしたなさ、彼女の希望していない、緊縛という名の不名誉、アッシュを迎える心の準備も用意も、はてさて、重要な決心も何もないまま、夢と現の間を彷徨っている最中に加え、まだ甘い痺れや余韻が、陶酔の彼女から完全に抜けきっていない上での突入――に刺激された、死に物狂いの厳しい理性が、ずっしりと彼女に重たくのしかかっていたから、淫らをそう容易く認めるわけにはいかない理性は、ふしだらに負けてはいない現実を示すため、最高に素晴らしい感覚に狼狽える聖女へ、そうするようせっついたが、活発な心臓は、あまりの喜びに、狂ったように踊り跳ね、万が一、アッシュが残念至極にも、鍔まで丸ごと刀身を、突き立てることを諦めてしまっては、それこそ動くことを、一緒に断念しただろうし、そしてそれに伴って、循環の機能しなくなった血液は、徐々に冷め、流れも滞って、生き生きとサーモンピンクに明るく輝く、乳白色の温かい肌を、氷のように冷たく、暗い侘しい色調にくすませるだろうし、あるいは、しきりと揺れ動く、焦点のなかなか定まらない碧い瞳は、狂おしいほどの嬉しさに、眩しいほど煌めいていたし、また、開いた唇から吐く、感銘の熱いため息は、すこぶる甘い息吹となって、蒸発するかのように、震えながら、深々と漏れ出たので、変貌とも、不意の出現ともとれる、全く不可思議な彼に対する、尽きることのない魅力や好意を、本能的に感じ、それから、妖艶なそれについて、多大な幸福で溺れそうなネルは図らずも、考えずにはいられなかった。
生きているそれは、彼の持ち物であって、しなやかな隙間へ食い込む彼が、更に奥深く進もうと志すにつれて、耳にするこちらが参ってしまうほど、実に悩ましいため息が、本能的な欲求をはるかに上回る、彼のとても素晴らしい女神を、どれだけ信者の彼が、熱心に恋い慕っているかを、実践的に明示できる、際限のない幸せに苦悩するアッシュから、それは艶やかにつかれるため、ほとんど隠れて見えない見た目は、実際の持ち主と月と鼈らしく、至って似ていないが、それは紛れもなく、彼の健康的な化身であって、遥か悠久の古から、一途に祈願すべき貴重な神体でもあったから、彼の麗しい手足同様、彼の一部であるそれについて、興味を持たないことはおろか、愛でないことは、罰当たりにも等しい行為かもしれない、そして、見事なそれをそうならしめたのも、他ならぬ彼女が鍵といっても、過言ではないかもしれないと、恥ずかしくも狂おしい何かで、胸のこみあげたネルは思った。
ああ、ついに愛の祭りが――、それは崇高で偉大な祝祭がとうとう始まり、彼は大いに楽しんでもらうため、彼の尊い唯一無二のミューズへ奉納する、舞を披露するから、剣と共に彼が情熱的に踊ると、幸運にも、彼の慈悲深い女神はとても気に入り、今までに聴いたことのない大歓声を上げて、それこそ気が触れたばかりに喜ぶものだから、有り余る光栄に痺れるアッシュは、今にも破れてしまいそうな胸を、甚く突き動かされた。
「ああ、ネル・・・!・・・信じられないくらい、お前は美しい・・・!・・・俺は、狂おしいほどお前が好きだ・・・!・・・おお、ネル・・・!・・・俺は今、とてつもなく幸福だ・・・!・・・素晴らしいお前は俺に愛され、俺はお前に愛されている・・・!・・・一つになった俺たちは、愛し合う喜びを分かち合っている・・・!」
無我夢中の踊りは、値打ちある実に素敵な女神との、極めて目覚ましい一体感を生み出し、ひいては、その情熱的な乱舞が、踊り狂う魔人をトランス状態にさせて、だがしかしながら、それにもかかわらず、それでもやっぱり、激しく舞う踊り手の中で、無きにしも非ずの肉欲や快感は、事実ついで、おまけであり、それというのも、仮に彼の銀色の目に入れたとしても、全く痛くも痒くもないほど、すこぶる愛おしいネルへ、そんな彼を、同じくらい深く愛するよう求めるというよりも、現実彼が抱く、貴重な聖女に対する大きな愛を、言葉で伝えて表現することに加えて、実際に、その惜しみない恋慕を体現できるという、並外れた幸せであり、究極の愛情表現が、一心不乱に踊るアッシュを、非常に幸福にしていた。
あまりに度が過ぎる快楽は、それに溺れかねないほど、深々と浴する人間から、言葉や話すことはおろか、頭を使って考えることすら強引に取り上げるのだと、喘ぐ声すら全然上がらないネルは、恨みのような感情と一緒に、頭のおかしい者が喋るみたく、ちっとも訳の分からない、要点をつかない、取り留めのない、不明瞭でみっともない台詞を発しないよう、惜しみなく贈られた愛で、痛いほど甘く痺れる身体で、圧倒されている彼女を、これでもかと愛するアッシュを必死に受け止めながら、正常の表面ぎりぎりで踏ん張っていたが、実際表面は、至って薄い膜とか脆い紙に他ならず、その上、幸か不幸か、限界はとっくの昔に超えていて、そしてそれは、理性の薄膜や破れやすい紙を、すでにビリビリに突き破っていたから、悲しみでは決してない熱い涙が、天を呆然と仰ぐ二つの翡翠石から溢れ、眦を伝って、こめかみをのろのろと零れ落ちていた。
一体彼女はどこへ運ばれようとしているのだろう。
幸か不幸か、機能を完全に停止してしまった頭で考えることは、亡くなった人が墓から抜け出るのと同じように、それこそ到底無理な話ではあったものの、そこへ確実に近づくネルは、もらい受けるべき天啓か何かのように、次のような印象をおぼろげに受けた、というか自然と思い浮かべた。
それは神々しい光に満ち満ちた、湖のような、とある美しい場所にいる彼と彼女は、一艘の手漕ぎボートに乗っていて、そしてどういう訳だか、相応しくない彼女は、漕ぐ任務を課せられはしなくて、したがって、櫂を手にしたアッシュだけが、向こう岸という名の桃源郷か、はたまた、理想郷とも思われる、沖に浮かぶ小島を目指して、二人が乗る舟を懸命に漕ぐ―――。
そんな熱心な漕ぎ手であると同時に、愛の覇者でもあったアッシュは、情熱的な愛の気持ちを注ぐばかりか、彼の大切なネルを、これ以上ないくらい幸せにする以上に、彼の崇高な女神を隅々まで征服し、彼という旗印を、ありとあらゆる所へ突き立て、愛しい彼女を心身ともに支配する大望を、心から望んでいたが、しかし、この期に及んでもなお、一癖もふた癖も、それこそ幾つもの顔を持ち合わせている、至極可憐な聖女は、大人しくされるがままではなく、実際あまりに素晴らしい変貌を遂げていて、そして、灰色の熱っぽい双眸でそれを捉えたアッシュは、本当にそのようなことが起こりうるのか、一時の気の迷いではなかったかと、銀色の目や、励む自分をも一瞬疑ったが、それというのも、それはちょうど、地味なさなぎが、実に見目麗しい蝶へと、鮮やかに生まれ変わるように、はじめから美しくありながらも、全く別な、何か神聖なものへと昇華したミューズは、彼が望む、望まないにかかわらず、全くもって否応なしに、彼の眼や心を奪うだけでは飽き足らず、ひたすら魅了するので、一途な踊り手、または漕ぎ手であり、愛の独裁者、それから、ひたむきな彫刻家でもあったアッシュは、まさしくネルの虜で、集中する彼は彼のガラテアを彫っている、とんでもなく素晴らしい現実に、気が付かないではいられなかった。
鏡かガラスのようなつるりとした水面は、漕ぐ櫂と進む舟によって壊れ、あるいは割れ、ざぶざぶと立つ小波と、ゆらゆらと揺れ動く波紋を後に残しながら、漕ぐ手を依然と休まないアッシュと、ネルを乗せた小舟は、労力に値する理想郷や桃源郷らしき向こう岸、または離れ小島に大分、かつ着々と近づいており、そしてついに、もう間もなくといった地点で、とても強い追い風が唐突に吹いて、あっと驚く二人を、脇目も振らず一生懸命に目指していた岸へ、ものの一息で着かせると、まるで立派な楽園のようなそこは、今までに見たことのない、それは甘美で素敵な景色を、たどり着いた二人の瞳に、ほんのわずかな間、映らせることを気前よく許してくれたが、しかしながら、とはいえども、夢か幻でも見るばかりに、うっとりと見入る二人が、自然と次に瞬いた瞬間、美しい景色は次第に色あせ、実際何の変哲もない、ただの岸辺であったことを、だんだんと教えていった。
「完全な快楽こそ、真に完全無欠の幸福なり」――、どこぞのある哲学者が言いまとめた説が、全く証明されたかの如く、幸福以外の何物でもない、誠に深い感動が、噴泉のようにぼこぼこと湧き上がり、燦々と陽の光みたく降り注ぎ、愛し合った二人を骨の髄まで、これ以上ないくらい満たしていたから、実際には大いに困るだろうが、それこそたった今、世界が滅びて終わってしまってもいいくらい、比べ物にならない、圧倒的な幸せに包まれたアッシュとネルは、平穏、安らぎ、満足を心底覚えていた。
混じりけのない、真の純粋な愛に目覚めたかのように、アッシュはとても、とても敬虔な、謙虚で慎み深い気持ちになって、二本の手腕を縛り付けていた、灰白色のクラヴァットを解いてから、古代の遺物や名作のように、またとないほど、価値ある壊れ物のネルを慎重に抱き上げたら、忠実で忠誠な信心深い信者が、頭を恭しく垂れ、偉大な救世主に縋るように、まるで寛大な赦しや尊い慈悲を乞うように、絶対に離してはならない、代えがたい宝物であるかのように、しっかりと、しがみつくよう抱きついたために、真摯でひたむきな、一心に彼女の愛を求める実直な姿勢に、ときめく胸が強かに打たれたネルは、自分もそのように愛情深い彼を、女の母親が、男の息子を本能的かつ、盲目的に愛するように、自然と慈しまないではいられないような気がしてならなかった。
しかしながら、事実アッシュは、息子でも、弟でも、甥でも何でもない、単に彼女を熱烈に恋い慕う、一人の男の魔人であって、大胆不敵で挑発的、自信家、おまけに許しがたい(実際のところ、彼が手腕を勝手に縛ったことを、彼女はまだ許したわけではないのだ!)ほど自己中心でもあった彼は、炎と氷のような矛盾した魅力を備え、氷砂糖のように嬉しい驚きでもって、目まぐるしい彼女を一方的にかき乱す、どうしようもない甘い悩みの種であって、それでいて同時に、全くもって目が離せない、憎めない綺羅星であって、そんな眩しい素敵な輝きに惹かれたネルは、どうしても手に入れずにはいられなくなって―――。
「泣くほど善かったのか?」
象牙とひよこ色の、細い縦じま模様が入った寝椅子に座りながら、膝の上で抱きしめた聖女を見上げるアッシュは、じっと覗き込む、とてつもない幸せが滲んだ、灰色の明るい眼差しで、歓喜の涙で濡れた、彼女の上気した赤い頬や、とび色の睫毛をちゃっかり認めると、並々ならぬ狂喜と興奮でゆがんだ、淡紅色で横に長い唇の両端を上げて、半分冷やかすような、何とも狡い微笑みを浮かべて、すこぶる嬉しそうに言った後、気後れする素振りも全然なく、バラ色のほっぺに残った涙の痕を、拭うように大胆に舐めとると、そのまま彼女の唇へ情熱的に口づけたので、女の細やかな機微を解するどころか、ものともしない彼の厚顔無恥について、腰が抜けるほど甘い気分に浸るネルは、ぷんすかと考えて憤る暇もなく、瞬く間に忘れてしまった。
(・・・しょっぱ・・・い・・・♡♡)
軽くもつれた白金の頭のてっぺんから、踏ん張りの必要な坂道には適しているが、平坦な道を早く走るには向かない、小さい足のつま先まで、骨のない軟体動物みたいにぐにゃぐにゃと、正体不明の珍物らしくどろどろと、液状にとろけてしまうくらい、むさぼるように、積極的に交わすキスは、最高に甘い口当たりが変わらずしたとはいえども、流れ出た汗で失くした塩気が、ずば抜けて素晴らしいアッシュの次に欲しかったネルは、それこそ何時間でも、平気でしていられると思った。
同様に、お菓子のように甘い接吻が、夢中のネルと同じくらい、とても好きだったアッシュにとっても、涙のしょっぱい味は、甚だ味わい深いもので、このように甘じょっぱい、至って妙な口づけを、日が暮れるまでずっと続けるのは、強かに酔いしれる彼の意に介することは、全くもってなかったものの、そのように、かつてない喜びで満ち溢れた、極上のキスだけではなく、彼だけの魅惑的な、どうにも得難い聖女を、それこそ特別な彼女だけでしか、決して消すことのできない、それは厄介な火の点いた熱い全身で、浴びるほどたっぷりと感じたかった彼は、絶え間ない情熱的なキスの合間に、ちょこっと下を向いて、正確な位置を素早く測ると、ちょうど茎の付いた花を、細長い花瓶へ活けるように、そこに向かってゆっくりと、両手でネルの腰を意図的に落として、今度は彼女が自ずから、彼の愛の大剣に突き刺さっていくよう、勝手に取り計らった。
「・・・あ・・・ぁッ・・・♡♡・・・ん・・・ッッ・・・♡♡」
それは向き合ったまま座り込む、あまり上品とは言えない、ふしだらで、だらしない恰好だったために、直ちにぶり返した恥の炎に、すぐさまちりちりと焼かれたネルは、はしたない自分を、間髪入れず責めたいところだったが、幸か不幸か、とっくに厳しい理性はひびが入っていて、羞恥とか外聞といった意識は、そこからちょろちょろと漏れ出ていたので、賢い理性は、使い勝手の良くない、正におんぼろの使い古しらしく成り下がっていて、その代わりに、正気の逸脱した狂気や、何か訳の分からない、不確かで怪しいものが、いつの間に生まれたのか、彼女の中で空きつつあった、何物にも代えがたい気高い空間を、じわじわと陣取り始め、浸食していたから、尊くも儚い理性は、もうじき完全に明け渡されるだろう、屈辱にも等しい降伏を、全くひどい恥ずかしさと共に、ほとほと感じながら、甘美な快さと、痺れるような幸福で、またしても燃え上がった身体が、どうしようもなく震えるネルは、ふてぶてしい強奪犯の、灰色に光る熱情的な目と、青緑色の伏し目を控えめに合わせると、狂おしい熱情で疼く胸が、たまらなくドキドキしたが、同時に、必ずや胸の甘い高鳴りを、この意地悪で身勝手な、盗人猛々しい男に、知られてはならないと、ふと思った。
真実、この悪あがきにも等しい反発は、ほぼ無意味なものではあったが、とはいえども、それにもかかわらず、これは、喜ぶネル自身にとって意外な発見で、なぜならば、それというのも、ときめく彼女の心は、幸せな彼女が、あまりの幸福におぼれ死ぬほど、それは重要な彼女を深く愛する彼のものである事実は明白で、すでに分かり切っており、もはや疑う余地などありっこないくらい、鼻の先まで存分に突きつけられているにもかかわらず、それでもまだ、彼女の中の、意固地で天邪鬼の頑なな面が、そうでない、どちらかというと、全てにおいて、か弱いけども優しくて従順、柔和で温厚、本当に素直で扱いやすい女だと考えていた、またはみなしていた、それとも思い込んでいた、自分にもあった事実は、とても新鮮で、そして、そんな彼女自身も知らなかった未知の部分が、他の誰でもない魔人の男に発掘されたことが、随分と前に芽生えていた、素敵な彼に対する恋慕の情に、碧い目を向け始めていたネルは、何だか嬉しくもあった。
しかし、まだ愛の作業は済んでいないどころか、現在進行形の途中であり、よって、男の広い手のひらの載った腰は着実に落ち込み、鍔まで愛の大剣に深々と貫かれたネルの、クリーム色の眉は自動的にひそまり、上気した頬はポッと赤らみ、歓喜の涙が乾きつつあった、薄茶色の扇をパタパタとはためかせながら、忙しい目蓋は、閉じたり開けたりを交互に繰り返す、その隙間から、二つの鮮やかな翡翠玉が、悩ましい熱を帯びて、真向かいで、同じように気ぜわし気に揺れ動く、銀色の双眸をじっと見下ろした。
(~~ああ、畜生・・・!俺は今すぐ、この素晴らしく愛らしい女を滅茶苦茶にして、俺なしでは生きていけない、大変に可愛い生き物に作り替えてしまいたい・・・!)
感慨深いため息を深々とつきつつも、彼の淫らで綺麗なミューズから、灰色の目が全然離せないアッシュは、愛の素晴らしい重みをずっしりと受け、衝動や情動の本能に身を任せて、全く素晴らしい快楽をひたむきに追うことを、甚だよしとする、恥の概念や恥じ入る理由、あるいは、そうする必要が一切ない、自由奔放で溌剌な魔人の女たちのように、今度はネルが積極的に愛の舟を漕ぐことを、わくわくと胸が悦びに弾む傍ら、ほんの少しだけ期待していたが、やはり彼女の、これまでの恥ずかしがりようといったらそれはなく、実に、あの深窓の令嬢や、箱入り娘もしのぐほど奥手だったから、こういった直接的な愛の交わし方に、それほど聖女が慣れていないことは、図書室のやや埃っぽい大気を鼻から吸って、口から吐くだけで、居ても立っても居られない快感が、しみじみと身体中に行き渡る、そのふしだらで醜聞的な事実が信じられないことからくる、恥ずかしそうな顔つきや、狼狽えた青緑色の眼差しからも、容易に推察できたが、とはいえども、たとえそうだとしても、彼女も自分で漕げるのだと、最初彼は指摘することもやぶさかではなかったが、その半端ない楽しみは、後々取っておくことにしたアッシュは、寝椅子の背面にゆったりともたれ、太い筋肉質の両腕を、寄りかかった、美しい白濁した身体に巻き付けて固定すると、愛の激しい地震を、予断なく引き起こして、まさかと驚いたネルを、大いにびっくりさせた。
またしても船頭のアッシュと一緒に、二回目の愛の航行へ漕ぎだしたネルはもう、降りるどころか、舟に乗って、例の岸辺を目指す以外どうしようもなくなり、そして愛の刺激的な船旅は、退屈することなど決してあり得ないし、甘美なそこへ辿り着く道中も、陽気な陽射しはぽかぽかと温かいし、穏やかな風は清々しくて気持ちがいいし、周りの景色も美しく、実に新鮮で、興奮した胸がワクワクと弾む、すこぶる心地のよい体験で、要するに、唯一それに太刀打ちできた理性が崩れかかったネルの中で、純粋な快楽への甘い道のりは、とても気に入りの旅だった。
「~~あぁ・・・っ・・・♡♡!あん、アッシュ・・・♡♡!~~だめ・・・、待って・・・♡♡!」
ガクガクと弱り切った膝を、象牙とひよこ色の縦じまが入った座面へ付け、ぶるぶる震える手を、クルミ材のチョコレート色の縁へ、力なく掛けたネルは、淫らで熱い吐息を絶え絶えと吐きながら、おなじみの文句を口にした一方、恥ずかしいながらも、彼女にとってものすごく価値ある縦揺れが、またしても起こった喜びに深く酔いしれ、歪めた月色の眉毛の下で、薄茶色の縁飾りに縁どられた目蓋をピッタリと閉じ、愛の二回目の出航を存分に満喫した。
だがしかしながら、そうした聖女の言う待つことはおろか、漕ぎだしたが最後、愛の素晴らしい船出は、後戻りなどできるはずがないのだから、今回も舵を取るアッシュは、かの甘美で幻惑的な終着地を目指して、櫂を一心不乱に漕いだ。
「~~・・・ああ、ネル・・・!俺の大切な宝物、ネル・・・!愛しい女神のお前は、俺の全て!そんな素晴らしいお前と溶け合っている感動を、正確に表す言葉など、この世に決してありはしない・・・!おお、ネル!偉大な神が贈り給うた貴重なお前も、お前の甘くて柔らかい身体も、お前の清らかで崇高な魂も、丸ごとすべて愛している・・・!」
「ああ、アッシュ・・・♡♡!~~そんな・・・♡♡そんな・・・ッ♡♡!」
「ああ、ネル・・・!俺もお前を確かに感じている・・・!降り注ぐ太陽の光を全身で浴びるように、俺はお前の幸福をくまなく知っている・・・!おお、ネル・・・!どうしようもないくらい、愛している!可愛いお前が喜ぶと、俺はこれ以上ないくらい幸せだ・・・!好きだ、ネル!俺はただ、お前が狂おしいほど好きなんだ・・・!」
「ア、アッシュ・・・♡♡!~~アッシュ・・・♡♡!ああ、ん、もう・・・、~~だめ・・・♡♡・・・だめなの・・・ッ♡♡!」
「~~・・・ああ、ネル、素晴らしいあそこへ辿り着くことの、どこがいけないものか・・・!俺は何度でもあの、天国か楽園のような祝福の島へ、美しいお前と共に渡りたい・・・!おお、ネル・・・!どうやっても、お前は俺の目をごまかせやしない。なぜならば、俺は本当のお前を知っているからだ、ネル・・・!」
「アッシュ・・・♡♡お願い・・・♡♡!~~もう、お願いだから・・・、ああ・・・ッ♡♡いや、キちゃう・・・♡♡アッシュ・・・♡♡!許して・・・♡♡!」
(~~ああもう、俺はなんて可愛らしい生き物を、この両腕に抱いているのだろうか!行きたくてたまらない場所へ訪れないよう、天邪鬼の彼女は、この俺に、許しを必死に請うているのだ・・・!)
「だめ・・・♡♡あ、やだぁ・・・ッ♡♡!~~キちゃう、アッシュ、~~キちゃう・・・♡♡!!」
人見知りの激しい小さな娘が、頼もしく大きい父親の首へ縋るように、逞しい男の太い首に、成すすべなく縋りついたネルは、あまりの至福にすすり泣き、愛の素敵な航行が再び終わってしまう現実を、至極残念がるかのように見えた。
ようやくついに、愛の舞踊は激しさと熱を纏って、見る者を圧倒させるほどの気迫で、見事に踊り明かし、やがて後に残ったのは、すっきりとした爽快感と、甘い痺れを伴った快い疲れ、筆舌に尽くしがたい充実が、息を整える踊り手の中で、渦を巻いていたが、他方、そんな彼に、真摯な舞を熱心に捧げられたミューズは、昏倒にほど近い状態で、世の中にありとあらゆる悦楽と、この上ない陶酔の極みに深々と浸っており、見られる中で最も幸せな夢を見た感激から、歓喜の涙をぽたぽたと流し、やすやすと夢中の境地から抜け出せない、いや、なかなか抜け出そうとしなかった。
それは甘美な電気が、救いようのない身体中を、未だビリビリと、情け容赦なく走っているせいで、嘆かわしいくらい正直な肉体は、しょっちゅう痙攣を見せていたから、完全に痺れてしまった頭の中は言うまでもなく、そのどちらをとっても、正常な機能は全然望めやしなかったが、そうした二人の恋する実直な心は、すこぶる尊い愛の実感で一杯であり、ぱんぱんにはち切れんばかりだった。
一度バラバラに壊れてしまっては、修復はもとい、理性のかなめという名の、重要な自我の回復など、無用の長物であり、焼け石に水たる産物に過ぎず、自暴自棄ではないが、どうとでもなれらしく、新しい扉を開いてしまったネルは、きちんと理性的だった自分を惜しむことも、内気に恥じ入ることもなかったので、ただひたすらに、奉仕すべき女神も同然の彼女を途方もなく愛し、また、そうした彼女の愛を情熱的に求めたアッシュと旅した、甚だ甘ったるい寸前の記憶に、溺れんばかりに深く浴した。
それと同時に、今までに感じたことのない、比類ない特別な幸福を突然感じたネルは、すぐさま不意に、この大した幸せを取り上げることの絶対ないよう、偉大な神に祈ったばかりか、彼女の大事な恋人が何度となく言った、一人が喜べば、それは、嬉しいもう一人の、並外れた幸福でもある説が、全くの実感と一緒に、よくよく理解できた。
というのも、大層乱れた呼気をお互いに鎮めながら、抱き合っている魔人の著しい喜びを知っていたからこそ、同じようにたっぷりと満たされた聖女は、半端なく幸せだったからだ。
だからこそ、不思議と、だが自然と、このような欲求が彼女の中で生まれてきて、最も愛しい彼しか目に入らないネルは、そんな彼女を熱烈に恋い慕うアッシュを、甚だ幸せにすることこそを、優先的な第一の目的とし、大切な彼が望むなら、報いる彼女は、何でもする覚悟があったといっても、よっぽど過言ではなかっただろうし、愛の純粋無垢な教えに目覚めた聖女は、とてつもなく素晴らしい彼のために、心身を一途に捧げて生きようとさえ思った。
灰色の目と青緑色の目を合わせることでも、大きい手と小さい手を握りしめることでも、彼の名前を切なげに呼ぶことでも、愛らしい笑顔で微笑みかけることでも、優しい、あるいは固い抱擁でも、くちばしで啄む鳥のように軽いものから、息もろくにつけない激しいキスでも、火傷しそうに熱い、または、ゆるゆるとぬるいセックスでも、そうすることで、彼女だけの彼が幸せになれるのならば、何でも構わない、改めてアッシュに忠誠を誓ったネルは、大いに喜んでしただろう。
これほどまでに、彼女は自分以外の他人について、あれこれと考えたことがあったろうか?
間違いなく、ただ一人彼女だけのものだった心は、今では全部彼で占められており、簡単には分からない思惑や意図を始め、彼の一挙手一投足が気懸かりなネルは、彼女が彼を満喫したのと同じくらい、アッシュは彼女を十分満足できただろうかと考え、重大なそれを確かめるために、抑えの利かない情熱に駆られたネルは、何を思ったか、自分から口づけ、彼女の中で直前まで幅を利かしていた、あの恥じらいや、しつこいお淑やかさもどこ吹く風で、一匹の荒々しい雌の野獣のように、彼女が一番に愛する男の唇を、執拗に貪った。
これは、全くもって意表を突かれたアッシュにとって、意外な驚きであり、同時に非常に嬉しい発見でもあったが、それというのも、原始的な手漕ぎ労働の末、夢か幻のような理想郷、あるいは桃源郷の、あの甘美な岸辺へ、ようやっと辿り着く快感よりも、はるかに大きく上回る幸福が、目まぐるしい彼を席巻し、無数の泡となった狂喜はくすぐったくも、実に気持ちのいい、大変素晴らしい感触がしたからで、ゆえに、最高の喜びと、幸せな高揚に弾む胸の高鳴りを覚えたアッシュは、最も深い感動に包まれた。
相も変わらず、ひどい恥ずかしがり屋の聖女は、二回も迎えた彼を好きだとか、切実に求めているといった愛の熱心な言葉は、はにかむ口に依然と出さなかったけれども、彼がそんな彼女に対して感じているのと全く同じように、彼をどうしようもないくらい愛している気持ちは、一向に止む気配のない熱情的なキスを通して、彼の身に突き刺さって痛いほど、ひしひしと伝わってきて、すると、並々ならぬ感銘のあまり、鳥肌の立ったアッシュは、いつもの大胆不敵な、向こう見ずの冒険心が湧き起こってきて、次こそは、彼への確かな愛の台詞を、必ずや、彼女のうぶな口から言わせてやると決めると、彼の中の意地悪で身勝手な面が、素直に頼む考えを、はじめから撤回させたため、至上の口づけを唐突にやめたアッシュは、半ば乱暴に、あっと驚くネルを、寝椅子のひじ掛けへうつ伏せに倒すと、またもや強引に、細い柳腰を持ち上げてから、雄の誉を雌の花瓶に堂々と生けた。
「~~ッ・・・あっ、く・・・♡♡!~~だめ、アッシュ・・・♡♡もう、~~おかしくなっちゃ・・・♡♡!」
「ああ、ネル・・・。とんでもなくふしだらなお前は、善すぎておかしくなるんだろう・・・?だからさすがの俺も、実はもう限界なんだ・・・。いいか、ネル。罪作りなお前が、あまりに可愛いものだから、俺はそんな愛しいお前を、滅茶苦茶にしてやらずにはいられないんだ・・・。だがな、俺だけのネル。お前が噓偽りない本心から、この俺を、心の底から愛していると言いさえすれば、加減してやらないこともないぞ・・・?」
「―――~~~♡♡!!」
おやおや、三回目の出立に及んで、疑いようのない、真実はっきりと愛されている確証が欲しい現実からすれば、どうやら彼はまだ、愛くるしい彼女が存分に足りていなかったらしい!
実際のところ、彼の求める、事実でもあった言葉を、甘い幸福に苛む彼女の口に、出して言いさえすれば、心と身体と、彼女のすべてを名実ともに手に入れたアッシュは、けた外れに幸せな王になることができ、それが、素晴らしい恋に仕える聖女の、一番の望みでもあったのだが、一体全体どういう訳だか、まだその時ではないと、彼女の中の第六感が、後ろ髪をしきりと引くから、愛し合う嬉しさに涙目のネルは、駄々をこねざるを得なかった。
「~~・・・やだ・・・ッ♡♡もっとキスして・・・♡♡!」
おお神様!確かに彼は危ない剣を所持していたが、なんてことはない、一見無力の聖女は、更に危険な拳銃を懐に隠し持ち、不意を突いて、彼の脈打つ心臓を見事に撃ち抜いたとは!
そして皮肉にも、これは信念のぶつかり合いであり、寛大な思いやりを見せたどちらかが、譲らねばならない状況で、したがって、彼女からの愛の告白を耳にすれば、多分に幸せになれるアッシュの接吻でもって、ネルは大変に幸福になることができ、実にややこしいが、どちらにせよ、結局二人とも喜ばない道はないのだから、大人の余裕で受け入れたアッシュは、わがままな恋人の要求を余すところなく、しっかりと充たしてやり、同時に、歓喜の雨あられに激しく打たれ、彼だけの聖女がますます愛おしく思えた。
甘美な愛の力強い律動と、すこぶる素敵な旅路がもう一度始まり、甘い震動でそれに応えるネルは、熱い吐息を懸命につきつつ、あまり見栄えの良くない姿勢が、とても刺激的で、野性味あふれる実態について、あやふやではあったものの、考えを色々と巡らさずにはいられなかった。
それというのも、現実これは――、これではまるで、動物の交尾みたいではないかという、どうにも振り切れない当初の印象が、ほんの少し悔やむ彼女について離れず、とはいえども、楽園を着々と目指すアッシュも彼女も、それこそ動物に変わりはなかったのだが、しかしながら、言語と火を操る人間の自分たちは、例外、特別、それから上等だという自負のような感覚があったから、余計に、そんな鈍い彼らと、本能的には同じではないかという、屈辱や恥辱にも似た、難しい複雑な思いが、繊細な聖女をやや苦しめていたものの、だがしかし、人と彼らが決定的に異なるのは、第一に、繁殖が主な目的の獣は、一定の時期に交わるのみであって、かけがえのない愛の意思疎通という、とてつもなく素晴らしい、人間同士における必然的な意味合いは、生憎持ち合わせていないのだから、実際それを楽しみ耽る以外、多感なネルが気にかける必要は、一切なかった。
(・・・どう、しよう・・・♡♡・・・すごく、気持ち・・・いい・・・♡♡)
男は彼女が一番好きで、もの凄く愛しているのだから、まさしく滅私奉公といわんばかり、そんな彼女が喜ぶとおりに全くするのだし、はたまたそれと同時に、甘い上ずった声をたくさん上げ、ひじ掛けにだらりと掛けた力ない両手を始め、可憐なプラチナブロンドに輝く頭頂部から、濃い茶色の床板に付けたつま先まで、火の赤々と点いた全身を、もぞもぞとやるせなく捩って、どうしようもない快感を、漏れ出る熱いため息交じりに、彼女がずっと訴える度、謙譲で慎ましい彼は、圧倒的な幸福な気持ちを、ほとほと感じないではいられないのだから、そうした一途で情熱的な恋慕に値するネルは、力強い崇拝者のアッシュによって何度でも運ばれ、おまけに、彼女の空っぽの頭の中で、眩しい閃光が絶え間なく明滅して―――。
同じくして、あの岸辺の華々しい光景が、またしても目先に開けてきた、すこぶる嬉しい現実を、ぶるりと震える全身で、機敏に感じ取りつつも、澄んだ灰色の眼差しをそこから背けるように、高貴な黒い扇で飾られた目蓋を、意図的に閉じたアッシュは、これ以上の落ち着きを失って、とても重大な聖女を壊してしまう恐れのないよう、艶かしい息を深く吸って吐くと、そんな彼の葛藤など露知らないネルへ、甘えるようにすり寄って、ちょっとした不満を漏らした。
「~~こら、ネル・・・。呆れるくらい自分本位なお前は、俺が好きだと言わずに、また一人で逃げるつもりなのか・・・?それとも、ひょっとしてお前が好きなのは、この俺の身体だけだと言うのか?悪魔のお前は、弄ぶだけ弄んどいて、俺の心は欲しくないと言うのか・・・?」
拗ねているとも聞こえる、甘い囁きのような、何よりも大切な恋人の、愚痴っぽいバリトンを、同時に放たれた、悩まし気な色香を濃厚に纏った吐息と一緒に、その真っ赤な血で染まった耳に入れたネルは、ドキドキと胸の高鳴りを、是が非でも感じないではいられなかった。
「~~・・・ッ、そんな・・・こと、ない・・・ッ♡♡・・・けど・・・!」
「――けど?」
「~~ッッ・・・♡♡・・・アッシュ・・・、キスして・・・ッ♡♡」
「やだね・・・。いい加減、どうしようもない意地っ張りのお前が、ああだこうだとはぐらかさずに、本当のところをきちんと言うまで、キスはお預けだ・・・。さあ、分かったなら、とっとと観念して、白状するんだ、ネル。さもなくば、俺はそんな憎たらしいいたずらっ子のお前を、一晩中でも無理に抱いて、俺の支えなくして、二度と立てなくなるようにしてやる・・・!」
と、はた目に突き放すアッシュは、凄味を利かせた言葉で、いじらしい恋人を脅すものの、ところがどっこい、事実冷たい恐怖ではなく、それは凄まじい狂喜で、有頂天のネルは正に、どうにかなってしまいそうだった。
「~~やだ・・・♡♡そんなのずるい・・・♡♡!お願いだから、意地悪言わないで・・・♡♡・・・許して、アッシュ・・・♡♡」
といったように、小柄で華奢な聖女は、潰されかねない彼の屈強な身体の下で、幸福の麗しい涙をたらたら流しながら、甘くか細い声で、懇切と頼み込むものだから、二つの意思をすかさず天秤にかけたアッシュは、グラグラと不安定に揺れた。
『生きるか死ぬか、それが問題だ』――、どこぞのある貴族が放った著名な台詞を、このアッシュの場合に置き換えるとするならば、「小生意気な聖女を許すか許さないか、それが問題だ」であり、だから、たとえもし仮に許して、弱みも等しい甘いところを見せれば、敗北のような負けや、口惜しい撤退を、負けず嫌いの彼はきっと感じるだろうし、反対に、厳しくひたすら突き詰めようとすれば、幻滅したネルは愛想を尽かすどころか、狭量な彼を嫌いかねない、何とも恐ろしい悪夢が実現してしまうかもしれない・・・!
よって、憤懣やる方ないアッシュは生まれて初めて、恋の好意的で新鮮な苛立ちと、むしゃくしゃした焦燥を、イライラと覚えて、すると、持て余した甘美な感情は、目に見えないパワーやエネルギーへと、瞬く間に彼の中で変わったので、幸か不幸か、立派な八つ当たりで、情熱的な愛の動力を、激しくぶつけられたネルは、ひどくびっくりすると同時に、かけられたラストスパートに後押しされて、おろおろと戸惑いつつも真っ直ぐに、脇目も振らず、あのいつもの祝福の岸辺へ、一目散に向かって行ったから、ごちゃごちゃと荒れ狂う頭の片隅で、どうやら彼は自分を許してくれたらしいと、甚く幸せな聖女はぽうっと判断した。
(~~おお、ネル・・・!ネル・・・!~~~ああ、ネル・・・!!)
「あん、アッシュ、イっちゃ・・・♡♡!~~ああだめ激しい・・・♡♡!いや、壊れちゃう・・・♡♡!アッシュ・・・♡♡!――ッもう、~~だめぇ・・・ッ♡♡」
誠に、尊い愛は偉大以外の何物でもなく、それは至って寛大にも、美しい翼の生えた二人が垣間見た、まばゆくも柔らかな光に満ち溢れた神の国、すなわち、とてつもなく素晴らしい黄金都市まで、飛ぶことを気前よく許してくれて、だがしかしながら、とはいえども、天使らの歓迎の刹那の後、浮世の人であった彼らは、別世界のそこから立ち去ることを、辛くも余儀なくされたが、しかしそれでもまだ、最高の感動の痺れるような余韻は、未だふわふわと、身体が軽くなった恋人たちから、まとわりついて離れず、それに加えて、そのまたとない絶景を目の当たりにできた、至福の印象は、夢と現実の狭間で、呆然と彷徨う二人の心身の奥深くに、それはもう深々と刻み込まれていたから、ありとあらゆる感覚の中で、唯一無二の極まった幸福だけが、とても素敵な旅の、実に心地よい疲れと、途方もない心酔にあえぐ、魔人と聖女を温かく包み込み、煌々と照らしていた。
最終的に、がっしりした双肩で、弾む息を整えるアッシュは、やがてこう切れ切れに語り掛けた。
「・・・ネル・・・。・・・これだけは・・・覚えておけ・・・。・・・俺の心は・・・お前だけのものだ・・・。・・・いいな、ネル・・・。・・・分かったなら、俺にキスしろ・・・」
求愛の熱い言葉を、頑なに吐こうとしない強情な唇は、全くもって甘美で強大な衝撃のために、小刻みにふるふると震えており、鮮やかなサーモンピンクの濃い火照りに色づいた頬や、白目の端が充血した眦に引かれた、大いなる歓喜の涙の痕が新しいネルは、今なおウルウルと潤んだ二つの翡翠石で、濡れた亜麻色の睫毛越しに、もう一つの唇を見てから、同じ真向かいの、煌めく銀色の瞳を覗き込み、そして、ふっくらと盛り上がった、綺麗なサンゴ色の唇を押し付けてきて、真心こめて誠実に答えると、それこそ半端ない感激のあまりアッシュは、ふらっと気が遠くなるような感じが、真実したけれども、まず抜かりない魔人の彼は、ちょうど狩りの絶好の機会を逃さない、貪欲な肉食獣のように、めったやたらと、まるで熟れた果実のように柔らかい聖女の唇に、無我夢中で貪りつくと、絶妙で幸せな口づけは、今までに味わったことのない、もの凄くまろやかな口当たりがしたから、おそらく彼女の心は、すでに彼だけのものであるに違いないと、ちゃっかり決めつけたアッシュは、すっかり安心できた。
ひい、ふう、みい・・・。
あの頼もしかった勇者ジンが、未だ囚われの彼女を助けに来なくなってしばらくだが、実際どれくらいの日数が経ったのだろうか?
少なくとも、彼女の両の手指や足指だけでは、数え足らない事実に苦々しさを感じながら、ネルはため息を静かについた。
彼女は今、ありとあらゆる不思議がまかり通るファンタジーを象徴するかのような、おどろおどろしい雰囲気がたたずむ古城の中枢に置かれた庭に出ていて、じゃぶじゃぶと、汲み上げられた地下水が、黒い石像の穴という穴から湧き出る音と、すっかり成長したベビードラゴンの、眠気を誘うあくびを横に聞きながら、土いじりに邁進していた。
もちろん、そこにベビードラゴンのハンターが寝そべっているということは、彼の知的なご主人様も、この天井のない箱庭で、緩慢なひと時を過ごしているという訳で――。
目覚ましい変化を遂げたドラゴンを背もたれ代わりに、もたれるアッシュは、次はどんな魔物を作ろうかと、怪しげな魔術書の、かび臭い古びたページをめくりながら、日課ともいえる計画を練っていた。
彼の大好きなご主人様と隣り合いながら、石畳の地面に突っ伏し、のんびりと昼寝に耽るハンターは、生まれてから若干一年も満たないにもかかわらず、そのとげとげしい、紫がかった緑色の体躰は、ふてぶてしい王者の貫禄が見て取れた。
大きさは、アッシュの愛馬でもあり、空を駆ける天馬、それから黒馬のクロム二頭分――。太い根元から、先にかけて細くなる、なだらかで肉厚な尻尾は、ギラギラとメタリックな硬いうろこに覆われ、優しく柔らかに射す陽の光を浴びて、とらえどころのない、蜃気楼のような流動的な輝きを放っていた。しかるに、実に見事な弧線は、見るものの視線を奪わずにはいられなかった。
卵から孵ったばかりの時は、まん丸で愛くるしい、つぶらな黒目が眼窩を占めていたが、黒は成長と共に増す黄色に押しやられ、最終的には瞳孔の点として、黄味の強い電球のような、ぎょろりと迫力のある目玉の真ん中に、チョンッと据え置かれていた。
牙――。尖ったものが大嫌いなネルは、彼の裂けた口から伸びた、これらの頑丈な氷柱をいつも目の当たりにする度、身体の真底から震え上がった。
血の通った温かみのある象牙と異なり、ドラゴンから剥き出る黄ばんだ牙は、冷たい金属を思わせる独特の光と照りを纏い、棘だらけの拷問器具なみに、ズラリと生えそろっていた。また、トカゲのように先が割れた、二枚舌の赤い舌が、乱ぐい歯の隙間から覗き、くすんだ牙をより一層危険な印象に塗り変えていた。
鉤状に曲がった指から生える鋭い爪も、恐怖に竦むネルの血の気を、たっぷりと失わせるに事足りるほど禍々しく、緩やかに湾曲した背中から突き出る、魚の尾びれのようにとげとげしい背骨やら、そうした変形した骨が、ざらざらの皮膚を押し上げるせいで、頭部はおびただしい角で飾られたりと、飛ぶための大翼を今は畳んだハンターは、文句のつけどころのない、ドラゴンにしては比較的小さめの、立派な雄のベビードラゴンだった。
ベビードラゴンのハンターの他に、園芸仕事に現を抜かすネルが立ち、新しい魔物について余念がないアッシュが座る、水に濡れた御影石の彫像が立つ、噴水を抱いた庭園は、正に生き物たちの楽園であり、宝庫でもあった。
誰のものでもない独立した生き物たちは、城の水汲み場を取り囲む、四つの花壇にそれぞれ息づき、甲斐甲斐しくも気だるげな時間を、その場に居合わせるネルたちと一緒に共有していた。
柄の長いシャベルを手に、普段使いとして着ている、聖人族の模様が縫い取られた白銀のワンピースの上から、泥除けのために借りた、アッシュが少年時代に着ていた、黒みがかった紫色のマントを羽織ったネルは、これまた作業のために借りた木靴を履き、噴水を軸に、斜め右上の花壇で、ある程度雑草を除けた黒っぽい土を耕していた。
打ち捨てられ、見るも無残に荒廃した、不遇の中庭の土は、まるでわだかまりのように凝り固まり、丈が伸び、太い茎に産毛をチクチク生やした、力強い雑草が根をしっかり張るわ、大小の石ころが、辺りにコロコロと転がっているわで、そうした我慢のならない草を鎌で切り取ったり、石ころを一つ一つ手で拾い集めたり、じょうろの水で乾いた表面をふやかしたりといった、ネルの花園づくりの格闘の跡が、石畳の地面の上で横たわる道具や、引きちぎられ、土から抜かれてバラバラに散らばった、ひげ根付きの草から垣間見えた。
反対に、しぶきを上げ、水が滔々と流れ出る水汲み場を間に、はす向かいの左下の辺りで居座るアッシュは、ネルから背を向け、ハンターにゆったりともたれかかりながら、静かに、まだ見ぬ新しい魔物のための情報収集という、緩い知的活動に耽っていた。
傍らで立ち尽くすモンスターの黒い立像と引けを取らないくらい、相も変わらず黒づくめの彼は、彼の冷静を帯びた灰色の視線の先でひらひらと舞う、気品漂うベルベットブラックに染まった蝶に気が付いて、時折読んでいた古書から目を上げたり、空いた天井の上からカラスが落としていった、黒々と毛並みのいい羽を手に、大人しいハンターを愛し気に撫でてやったり、普段通り、今日の天気のように落ち着いていた。
左上の区画は、一体全体どういう訳か、手のつけどころがない、完全なる無法地帯だった。
当初ネルは、この地獄を具現化したような荒んだ庭を一目見ただけで、そこは指一本触れてはならない、絶対不可侵の領域であることを悟った。
本当になぜかしら、そこだけは何とも禍々しい闇のオーラに包まれ、邪悪に満ちたパワーに負けた植物は萎れ、枯れ、腐り、毒々しい色をした闇の植物だけがうっそうと生い茂り、まるで小規模の密林といわんばかりの薄気味の悪い様相を呈した庭は、ハエがぶんぶん飛び回り、湿り気や薄暗い場所を好む蛇がとぐろを巻き、カビと一緒にキノコが生え、食虫植物やクモといった、わなを仕掛けて狙い待つものがたむろし、ムカデがうごめき、蛾がはためき、不幸や災いだらけの、全くもって呪われた、不吉な暗黒の土地だった。
それとは対照的に、地下水のほとばしる噴水を挟んで右下の花壇は、ありとあらゆる草花に溢れ、飛ぶ飛ばないにかかわらず、昆虫を始めとする小動物が横行する、快活で生き生きとした、活力や生命力の繁茂する、雑多な庭だった。
特別目をかけられなくとも、自生する草花は地味で飾り気がない質素なもので、そこの道端でも、森の中でも植わっている野生種がほとんどを占めていた。
柘植の低木、猫じゃらし、シロツメクサ、つゆ草、鬼灯、カタバミ、蔓や蔦と一緒に彫像に巻き付く朝・昼・夜顔、鶏頭、アザミ、矢車草、ヒャクニチソウ、芙蓉、ススキ、セリ、ひなげしなど、ごくありふれた雑草が風に揺れる中、白っぽい青、赤茶、緑、黄、橙、黒、青と茶色、緑と茶色のトンボ、上品で小さい、青みがかった紫色のルリシジミ、モンキ・モンシロチョウ、黒い図柄が、ブルーグリーンやレモンイエローの翅に、影絵のように浮かび上がる魅力的なアゲハ蝶、ミツ・マルバチ、インクのように真っ黒い殻を負った、薄紅の翅を開く甲虫、バッタ、カマキリ、キリギリス、コオロギ、鈴虫、クツワムシ、マツムシ、アリ、テントウムシ、ダンゴムシ、羽虫などの昆虫が宙を飛んだり、飛ばなかったりした。
生活する黒みがかった濃い茶色の地中で、穴掘りに精を出すモグラを除き、トカゲ、イモリ、ヤモリ、カエル、モズ、セキレイ、スズメ、ヒヨドリ、キジバト、ムクドリなどの生き物たちは、風車の回る中庭の地面を、這ったり這わなかったりしたが、特に、巣だって間もない若いセキレイは、小虫や雑草の種を食べるのに忙しい鳥どもと異なり、盛んにさえずりながら、あっちへうろうろ、こっちへうろうろと、庭園を興味津々と徘徊していた。
空高く舞うヒバリは、澄んだ鳴き声で歌っている、何ともほのぼのとした、穏やかでうららかな午後だったけれども、この先彼女がお婆さんになっても、このまま、何を考えているのか分からない魔人のもとに囚われ、勇者に見捨てられた、みじめな現実を味わいながら生きていく可能性を、ふと想像したネルはぞっとした。
あれ程までに勇み、彼女を救おうと意気込んでいた勇者は、どうしてやって来ないのだろう!
何故アッシュは彼女にとって分かりにくく、その上彼女を束縛するのだろう!
彼は一体何を考え、彼女をどうするつもりなのだろう!
彼は彼女に明らかなことを何も教えてくれない――。唯一、激しい嵐のような荒々しさで迫りきた彼が、彼女の中に無理やり残していった熱以外は。
熱はうろたえる彼女を心地よく溶かしていき、いつまでたっても不思議と冷めず、だがしかしながら、とはいえども、消えない火が、いつまでも悶々とくすぶり続けるように、何故かは分からなかったが、ネルは自身の内に灯った小さな火種を、よく燃える、乾いた薪へ移す必要があると感じていた。
アッシュはネルを好きだと言い、戸惑う彼女を求めたが、その割には、彼は依然と秘密めいていて、謎で、未だこの世界が何だか分からないネルは、同じくそんなアッシュについて、肝心なところは何も知らなかった。
もはや彼が悪い男かそうでないのかも、救済者のジンを失ったネルには分からなかった。
すると、そんな彼女のモヤモヤと連動するかのように、風に流され、ちぎれ浮かんでいた綿雲が集まり、あんなにも晴れやかだった空を、たちまちのっぺりとした、灰色の層雲で覆ってしまうと、シューッというシャワーのような音を立てて、パラパラと細かい、無数の霧雨を降らせた。
「「!」」
ほぼ同時に、雨を受けたネルとアッシュは、間髪入れずに頭上を素早く見上げると、土を掘り返していたシャベルを手に慌てるネルの耳に、まずハンターの羽ばたきが聴こえ、次に、ゴロゴロと低い雷の唸り声が続き、それから、銀色の目を通していた魔術書を小脇に抱え、こちらへ向かって大股で歩いてくる、アッシュの黒い長身の姿が、彼女の青りんごの視線に映った。
「中へ入ろう、ネル」
艶のある黒い頭を、さらにツヤツヤと濡らしたアッシュは、同様に、天使の光輪を偲ばせる、プラチナブロンドの頭を濡らしたネルの側へ着くと、言った。
「風邪をひくといけない」
おお、彼は何とさり気なく彼女を気遣うのだろうか、こうした不意の優しさにときめいたネルは、胸が喜びに打たれた現実を認めない訳にはいかなかった。
彼と彼女の濡れた頭に頭巾を被せ、彼が少年時代に着ていた、渋いプラム色のマントを羽織った聖女の、華奢な肩を抱き、アッシュは歩きにくい木靴を履いたネルを、屋根のある城の中へ導いた。
ハンターは、突然の雨降りに表情を変えた大空向かって舞い上がり、傘代わりの木々がごまんと生い茂った、隣の迷いの森を目指した。
力に秀でた魔人のアッシュと、はた目に落ちぶれた古城に仕えるゴブリンたちは、休憩時間か、それとも貴重な休日か、さあっと辺り一帯に降る雨のために、彼と彼女以外人気のない廊下は、ときたま鳴る低い雷を別にして、しんと静まり返り、どういう訳だか、先ほどから、小刻みに打ち始めた心臓の鼓動が、聴こえやしないかと、案じたネルは気が気でならなかった。
「これくらいならすぐに止むと思うが・・・。どうする?」
と、小糠雨に濡れた黒いフードを下ろしたアッシュが尋ねるので、ある一つのことを考えていたネルは、こう答えた。
「あの、アッシュ・・・さん。わたし、花壇に蒔く花の種が欲しいんですけど、・・・ありますか?」
「いい加減その堅苦しい言葉遣いはやめろ、ネル。もっと強請るように言ってみろ」
控えめな彼女をからかうとも、あるいは責めるともとれる、薄い微笑みを浮かべたアッシュは、ネルが被っていたプラム色のフードを下ろしながら、言った。
「強請・・・!じゃ、じゃあ、ええっと・・・。種をわたしにくださいな、アッシュ・・・さん?」
「フッ、あんまり変わってないな。『さん』はいらない、アッシュでいい」
にこやかに微笑むアッシュは言った。
「ア、ア、アッシュ・・・。花の、花の種はどこにあるの・・・?」
恥ずかしそうにほほを赤らめたネルはどもった。
「フッ、可愛い・・・。ついてこい、ネル。こっちだ、案内してやる」
嬉しそうに唇を歪めたアッシュは言うと、小雨に降られたマントに包まれた、小さな肩をそっと持った。
彼がネルと共に向かった先は、城に設けた図書室で、広々と静謐な部屋は、入って左手の壁沿いにはめた、縦に伸びた大きなマリオン窓の甲斐あって、ランプやろうそくに火を点けないでも、十分事足りる、ややほの暗い程度で済み、湿った雨と、閉め切った窓のせいで、換気の行き届かない、かび臭い地下牢と比べて、微かに部屋独特の臭気が鼻を付いた。だがしかし、ネルの着ていた、アッシュの少年時代のマントは、虫よけのために、香木と一緒に仕舞われていたから、針葉樹の葉っぱや、皮を燻したような、ピリッと鼻に付く匂いから、弱火でアーモンドをじっくりと煎った、香ばしい香気、ブラックペッパーにブラックトリュフといった、香り高い調味料、ベルガモットの、爽やかな柑橘でありながら、また同時に、重厚なクセと深みのある香り、なめした革の何とも言えない独特な臭気、野性味あふれる獣臭いじゃ香・・・を連想させる、今までに嗅いだことのない、素晴らしく芳しい香りが、彼女を包み込み、かつ、隅々まで満たしていた。
数ある資料を置くのに適した長机や、縦横に伸び、仕切りを挟んだ中に、色とりどりの背表紙を向けた、薄っぺらいものから、極めて分厚いものまで、いっぱいの本を抱えた書棚、背の高い椅子、はしご、魔族の間では著名なのだろう魔人、あるいは魔物の胸像、年月のためにすり減り、鈍い艶の出た、チョコレート色をした木板の床、乳幼児の歩行器のような、丸い木枠にはめられた、ファンタジー世界における地球儀、窓枠、どこかの風景を描いた、絵画を縁取る金の額縁にも、埃がうっすらと積もっていた。
このように伝統的で、また、私的な図書室を見たことも、聞いたことも、それこそ入ったこともなかったネルは、ぽかんと呆気にとられ、鮮やかな翡翠色の瞳を丸くしていた。
実際、暖炉のでかでかと据え置かれた室内は、住むこともできなくないくらい快適そうで、鏡やこじんまりした洗面所まで設けられていた図書室は、ほんのわずかな食料や毛布、はたまた布団さえ、持ち込むことができれば、金モールの房飾りが両端に付いた、俵型のクッションピローと、象牙とひよこ色をした、縦じま模様が入った、揃いのふかふかの寝椅子――これはまさしく、優美なヴィクトリアンソファそのもので、床板と同じくらい、渋い濃い茶色のクルミ材が、全体の輪郭を縁取り、脚は動物の脚を模したカブリオールレッグ、俗に言う猫足で、立体的な彫刻が彫られ、丸くくぼんだ箇所から生じる、火花のようなしわが特徴的な、背もたれ部のボタン留め細工が、華やかな装飾美を高めている――に寝そべって、一夜を過ごすくらい訳はない、とネルは思った。
とはいえ、この実に素晴らしい知の宝庫であり、英知の結晶体へ連れてきたアッシュは、感銘を惚れ惚れと受けている聖女の、望んでいるものが、分からなかったのだろうか?
ネルは、湖のように碧い眼差しで訊ねた。
「ほら、この博物画を集めた本や、植物図鑑のページに、採取した種が入っているはずだ」
と、語るアッシュは、おもむろに腕を伸ばして、近くに立った書架から、見つけためぼしい本に、指を掛けて抜き出すと、ページを適当に開いて、色を付けて緻密に描いた、草花の横に綴じられた、ささやかな袋とじの中から、挿絵の示す草花の、種を取り出した。
「わあ・・・」
驚嘆と感激のあまり、ネルのうっとりした呟きが、下唇と上唇の隙間から、勝手に漏れた。
「気に入ったか?ほら、色々と探して見てみるといい」
柔和に微笑むアッシュは言い終え、手に取った博物画集を、ネルに押し付けると、別の書棚へスタスタと向かっていった。
その場に一人残ったネルは、手渡された博物画集を、何気なくペラペラとめくってみると、ページは非常に美しい草花の他に、実に多彩な極楽鳥、鉱物や鉱石、魚、昆虫、貝殻、木の実など、どれもこれもすこぶる忠実に描かれた、彼女の青緑色の目に、それは色鮮やかな物体が飛び込んできて、これだけ愉快で楽しい本ならば、それこそ一日中でも、飽きずに眺めていられると、感動したネルは密かに興奮した。
それに加えて、この世界の文字――、ギリシャもとい古代フェニキア文字、点字、楔形文字を、それぞれ足して割ったような、飛び抜けて珍しい、解読不能で独自な文字が、たった数種類の文字しか知らない、ネルのはた目に面白く、思わず笑ってしまいそうなくらい、ちんぷんかんぷんだった。
博物画集を小脇に抱えたネルは、彼女の背丈の軽く一.五倍ほども、高くそびえた本棚に挟まれ、きょろきょろと興味深げに、白金の頭を横に振って、彼女が今手にしている本と、似たような書物や冊子はないかと、物色を始めた。
いかんせん文字が読めないので、当てずっぽうの勘を働かせたネルは、手当たり次第に手を伸ばし、取り出した本の表紙を確認した。
表紙はシンプルに、題名だけを書いたものがあったり、あるいは、キラキラ光る金箔や銀箔を捺した、とてつもなく豪華な表紙絵から、無意識のうちに顔をしかめてしまうくらい、大変グロテスクで、とても奇怪な表紙があったりと、装丁の惜しみない個性が、読み手の想像力をかき立たせ、かつ同時に、目いっぱい膨らませた。
燃えやすいという致命的な欠点を除き、あらゆる情報の源泉である本は不滅で、古文書が作られた当時生きていなかった者や、それこそネルのように、用いられている文字になじみがない、はたまた文盲者にさえも、未知既知問わず、実に様々な事柄について、全く秀逸な挿絵を通して、教えてくれた。
だからこそ、古びた蔵書を読む聖女の、青りんごの双眸が、自然と留まるのも絵で、それらは、細密画顔負けの、大いに凝ったものから、デッサン、スケッチ、習作などの、経験や才覚に裏付けられた技術や、技法を必要としない、大まかなもの、あるいは、挿絵としての風景画、静物画、風俗画、図形描画、肖像画、博物画、漫画や神話、芝居、小説などの一コマ、または何コマと、すこぶる多種多様な魅力で惹きつけるので、庭に蒔く、植物の種を探しに来た彼女から、本来の目的を忘れてしまいそうにさせた。
ふと何気なく思いついたネルは、はしごに昇って、手の届かない上の段に仕舞われた、本を手に取ってみようとしたため、背の高い書棚に、立てかけられたはしごに昇り、仕切りと資料の間に開いた、水平の隙間へ、博物画集を置いてから、目に付いたとある一冊の本を、音もなく引き出した。
すると、全く奇遇にも、彼女が取り出した本と、向かい合わせで収納されていた、つまり、書架の反対側から、仕舞った蔵書も抜き出されていて、本と本の間に小さな空間ができた、その偶然の隙間から、驚いたネルは図らずとも、取り出した魔術書を読む、アッシュの端正な顔が覗き込めた。
吃驚は直ちに動揺に変わり、動揺は緊張を生み、緊張はネルの息を、自動的に潜めた。
釘付けになる――とは、今の彼女を言うのではないだろうか?
情報が入り乱れ、思惑が飛び交う、混沌のように混乱した頭の中で、ネルは、この見目麗しい魔人がページを繰る姿から、碧い目が離せない確かな理由を掴もうとしたが、胸の底から湧き上がってくる何かが、そのようにつまらない理由なぞとらえる必要はない、むしろ放っておくべきだと、声高に叫んでいたために、魅了された彼女はまるで虜になったように、男の美しくも精悍な顔を鑑賞し続けた。
文章をたどっているのだろう、向かいの魅惑的な灰色の両目は、横に流れるよう滑らかに動いていて、時折ピタッと止まる時があれば、視線はそのまましばらく、気になる箇所をずっと見つめているし、それから、瞳が乾くのを避ける瞬きが後に続いて、銀色の瞳をふさふさと縁取る、上等で気品漂う扇のように、美麗な放射線を描いた漆黒の睫毛が、あまりに優雅にはためくため、見惚れるネルは、なぜかしら、自分の心臓がドキッと高鳴ることが分かったし、また、ごつごつと男らしい、太い血管の浮いた大きな手を、アッシュは引き締まった顎に添えて、何やら考え込んでいる時もあって、そんな時は、見事な弓なりの闇色の眉が、少しばかり中央に寄って、ほんのわずかなしわを作ると、正体不明の感情で狂おしいネルは、顰めた眉間にキスをしたい衝動に駆られた。
本棚を挟んで立つ男の存在は、まるで奇跡のようで、この素晴らしい奇跡を目の当たりにして、なおかつまじまじと眺めるネルは、直接奇跡を手で触れたい気分に苛まれた。
ああ、彼は何て魅力的で、また同時に、大変な男前なのだろう!
さっきネルは、愉快な博物画集を延々と眺めていられると思ったが、この魔人の並大抵でない容姿こそ、彼女は一日といわず、何日でも飽きずに見ていられるのではなかろうか?
おお、一体彼女はこんなところで何をやっているのだろう!
純粋に、彼女は花壇に蒔く、草花の種を貰いに来ただけなのに、それはそっちのけで、実際ネルは目の前で立ち、本の隙間から見える、それは麗しいアッシュに、心と目を容易く奪われた挙句、我をすっかり忘れて、夢中になっているではないか!
ああ神様・・・、このまま彼が彼女に気が付きませんように。そして、このまま時間が永遠に止まってしまえばいいのに・・・。
だがしかしながら、法悦と惚ける聖女の内で、自然と生まれた密かな祈りは、惜しくも届かず、ページから視線を外し、あらぬ方向をぼうっと見据えていた、アッシュの美しい灰色の目が、突然きょろりと動き、そこを通して、非常に素敵な彼を盗み見ていた、秘密の隙間に留まると、決して彼に悟られないよう、堅い沈黙を守っていた、彼女の鮮やかな翡翠色の瞳とぶつかり、びっくりしたネルは大いにうろたえた。
「!」
不意を見事に突かれたネルは、著しく恥ずかしいために、頬が上った熱い血で、たちまち赤く染まっていくのが分かった。
一方、対するアッシュは平然と落ち着き払って、照れにはにかむ様子も、恥じらう素振りも全然見えず、苦笑に近い、実に素敵な笑顔で笑うと、手にしていた厚い魔術書を閉じ、元あった場所――、つまり、ネルの秘密ののぞき穴の中へ、戻した。
「・・・!」
さあ、もうこれ以上、ネルは断りもなく、アッシュをじろじろと無遠慮に眺めることは、できなくなってしまったが、未だ唖然とするネルは、自身の内ですかさず鳴り始めた、けたたましい胸の爆音に戸惑った。
「・・・!」
次に、木の焦げ茶色の板床を、踏み歩く靴音が、確かに聴こえたネルは、はしごに昇ったまま、ますます動転した。
というのも、床のきしんだ音を、時折上げる足音は、まずアッシュのもので間違いなく、どうしようもない緊張のせいで、こわばった身を、硬くしている彼女に向かって歩んでいるのは、疑いようもなかったからだ。
おお、彼女は一体どんな顔をして、彼と会えばいいというのだろう!
今の彼女は正に、ばつの悪いこと極まりないのに!
彼は一体、彼女に何をしようというのだろうか?
真実、彼女は叱られるほど、悪いことをしたとは、到底思えなかったが、アッシュをそこまで理解していなかったネルは、苛む不安で、居ても立っても居られなくなった。
したがって、抜き出した本を手早く仕舞い、不安を抱えたネルは、急いではしごから降りると、近づく足取りから、なるたけ遠ざかるように、書架と書架の間を、小走りで進んだ。
背の高い書棚の並んだ通路は入り組み、ちょっとした迷路のように続いているので、この種の馬鹿馬鹿しい追いかけっこが、実現した。
逃げるネルは、時々後ろを振り返っては、彼女を追いかける鬼が、まだ来ていない現実を確認し、その後で、次はどちらへ向かって行くべきかと、指針ともいえる男の足音に、耳をしきりと澄ませるのだった。
そうした、はた目にくだらない鬼ごっこが、どれくらい続いたろうか、そしておそらくそれは、当の本人たちさえも、知る由はなかっただろうが、ひょんなことから、アッシュの早くて大きい足取りから、彼が近くにいる事実を知ったネルは、不測の事態に少々怯えつつも、最後(?)まで逃げ切る希望を捨てずにいた。
だがしかし、とはいえども、幸か不幸か、全ての物事にとって、必ず終わりは付き物で、とうとうアッシュの居場所が分からなくなってしまったネルは、そびえる本棚の、どこからやって来るとも知れない歩みに、少なからず当惑した。
ああ、万策尽きた彼女が、このまままんじりと立っているうちに、彼女を追い込む足音は一歩、また一歩と近づいてきて―――。
「きゃあっ!?」
と、心臓が喉から飛び出るほど魂消たネルが、驚愕の声を上げたのも無理はなく、ようやく彼女を追い詰めたアッシュは、書架の陰からいきなり現れたとたん、あっと驚く彼女を抱きすくめ、近くの書棚へ一方的に押さえつけた。
「・・・!!」
本棚に張り付けられ、恐怖と動揺が凄まじいネルは、口をあんぐりと開け、真向かいの甚だ整った顔を、半端ない吃驚の色を浮かべた、二つの翡翠石で呆然と見つめた。
「こら、何で逃げる」
他方で、面白半分のアッシュは、形のいい唇を少し尖らせ、間近のネルの、ふっくらと丸みを帯びた、優美で女らしい頬を、優しくつねった。
「び、びっくりした・・・!」
あまりにひどい仰天ゆえ、鮮やかな青緑色の眼を、すっかり丸くしたネルは、たった一度の瞬きもせず、目の前の綺麗な灰色の瞳を、まじまじと覗き込んだ。
「フフ、びっくりしたのはこっちだぞ、ネル?」
明らかに喜ぶアッシュは、温かで柔らかい微笑みと一緒に呟くと、均整の取れた額を、ネルのつるりとしたおでこに、静かにくっつけてから、漆黒の上品な扇がはためく目蓋を、ゆっくりと閉じた。
「・・・何で逃げたんだ?」
男らしい太い手指を、聖女の細くて白い手指に、さり気なく絡めながら、アッシュは冷たく澄んだ銀色の双眼を、再び静かに開けると、訊いた。
「に、逃げてなんかいません・・・」
新しい羞恥心と、嘘からくる後ろめたさに、無意識のネルは碧い視線を外した。
「・・・ふーん・・・」
・・・ふーん・・・?
ええい、分かっているくせに、取り澄ますなんて、彼は何ていやらしい男だろう!本当は、彼女が真実を口にしていないことは、知りすぎているくらい十分に、知っているはずのくせして!
「じゃあ、どうして黙って俺を見ていた?・・・いや、見惚れていた?」
「~~見惚れてなんかいません・・・!」
軽くムキになったネルは思わず、逸らしていた青りんごの目線を、極めて近い灰色の眼差しへ、素早く戻した。
「答えになっていないぞ、ネル」
「~~・・・」
ああもう、この信じられないくらい素晴らしい男は、一体全体彼女に、何を言わせようとしているのだろうか!
彼に見入っていた理由?そんなもの、あるとすれば自分が知りたいくらいだ!
「・・・離してください・・・」
苦しい懐から絞り出すように、碧い視線を落とすネルは言った。
「やだね、離してやるもんか・・・。・・・離したくないんだ、ネル」
という言葉尻に併せて、指の絡まりがきつく、より強まり、自身の内側でくすぶっていた火種が、瞬く間に燃え上がったネルは、めらめらと揺らぐ熱い炎に炙られた。
「・・・嘘・・・」
鮮やかな翡翠色の双眸を、依然と伏したままのネルは、やっとのことでこれだけ言えた。
「フッ、嘘をついているのはお前の方だろう、ネル・・・」
愉しむアッシュは言いながら、絡めた手指を弄んだ。
「―――」
ああ確かにそうだ、彼女はどうしてこの、とんでもなく誘惑的な男の前では、全くもって素直になれないのだろう?
何故彼女は、彼に嘘ばかりつくのだろう?
いわゆる噓つきは泥棒の始まりであって、清廉潔白で誠実、そして善良な人間でありたかった聖女は、決してアッシュをだまし欺こうと思って、嘘をついているわけではなかったのだけれども、どうしても本音が、口からちっとも出てこないのだ!
いや、だがしかし、そもそもの話、悪い泥棒は、何も分からない彼女を誘拐した、人さらいの彼ではあるまいか!
それに、彼はどうにも答えられない難問を訊ね続ける割には、彼女が知りたい彼についてのいろいろな事柄、すなわち、はじめ何とも思っていなかった彼女を、今では熱烈に恋い慕い、しつこく求めてくる以外、はっきりと確かなものは、何一つとして教えてくれないではないか!
ああもう、全くもってこれではいけない!
聖女は魔人のペースにのまれ、手のひらで思うように転がされてはいけない!
彼の好きなようにして、彼女は翻弄されてはいけない!
一切合切、真実のみを述べなければならない証言台に立つネルは、これ以上、鋭いアッシュから、厳しい検察ばりの詰問をさせてはいけない!
男は女に対する無益な質問をやめなければならない!
全然事実を偽りたくない彼女に、自然と嘘を進んでつかせる憎らしい彼を、彼女はどうしても、黙らせなければならない!
だからもし、たった今ここに、糸と針があったなら、否応なしに聖女は喜んで、重要なことは何一つ語らず、余計な疑問ばかり口走る、目の前の図々しい口を、きっちり縫い合わせただろうが、現実、手元にないのでは致し方ない、口惜しい彼女は何か別の方法で、この恨めしくも美しい男の口を、必ずや封じなければならない―――。
亜麻色の長い睫毛で、ふさふさと縁取った目蓋が典雅に閉じ、彼が今までのぞき込んでいた、二つの碧い湖を隠したとたん、木靴を履いたかかとが浮き、背伸びしたネルの、柔らかい唇がそっと、彼の血色のいい赤い唇へ触れた次の瞬間には、温かい唇はすでに離れていた、ほんの一瞬の短い現実を、無心のアッシュは、考える間もなく知った。
試みを無事成功させることと、その大変な意気込みや気概ゆえ、頭が見事にいっぱいだった哀れなネルは、それこそ男が、口づけをどのように受け取るかどうかまで、気が十分に回らず、どうやら接吻は諸刃の剣であり、早まってしまったらしい事実を学んだ。
何を思ったか、キスを続けるアッシュは、ちょうど鳥が啄むように、麗しい唇を優しく何度も繰り返し、恥じらう彼女の、花びらのような唇に、軽く押し付けてきて、そして、その極めて軽微な感触が、あまりに中途半端なために、新鮮な歓喜と焦燥、途方もない困惑を覚えたネルは、美しい翡翠色の目を、おたおたと泳がした。
ああ、ごく軽い接吻はほっぺたとかおでこ、手の甲に相応しい曖昧で幼稚なものであるにもかかわらず、どうしてこうまで気持ちがいいのだろう!
口づけはまるで、一回一回丁寧にきちんと触れ合うたび、大切な彼女が好きだと、心からの愛の告白をされているみたいで―――。
絶え間ない幸福が彼女を席巻し、無我夢中のネルは、アッシュとの実に心地がいいキスに、完全に酔っていたために、一考のアッシュが、それを中断している現実に気が付けず、餌を求めるひな鳥さながら、接吻以外の使い道を忘れた口を、パクパクと動かした。
ゆえに、格好の付かないネルが、そんなみっともない自分に気が付いた時は、すでに遅く、ようやっと自我を取り戻した、彼女の碧い瞳が、彼を素直に欲しがる聖女が、それは可愛くてたまらない事実を如実に映している、並々ならぬ愛しさやからかい、悪戯に光る、綺麗な灰色の双眸を捉えた瞬間、愉快な笑みの弧を描いた唇は、彼女のどうしようもない唇を、ぴったり隙間なく塞ぎ、それに飢えていたネルを、ありったけの歓喜、幸福や恍惚で、たっぷりこれでもかと満たした。
海よりも深いキスをつつがなく進行するために、黒いマントに包まれた、屈みこむアッシュの、長身の体躯が覆い重なってきて、ネルは嬉しい重さを感じ取ると同時に、彼女のくびれに湾曲した細い腰が、逞しく頼りがいのある太い腕に支えられ、同じくして、もう片方の強健な腕は、息もまともにつけない口づけから逃げられないよう、閉じた目蓋の内側で、喜びと驚きに目を回す、聖女を固定するかのように、白金の後ろ頭をしっかとつかんでいて、何が何だか分からない自分の内側で、燃え盛る激しい炎に追いやられるまま、ネルはプラム色の袖を通した腕を、緩い曲線を描く、アッシュの剛健な背筋の盛り上がりへ、弱々し気に回し、その上を覆う漆黒の羽織りを、縋るべき確かなものであるかのように、力強くギュウッと握りしめた。
漏れ出る淡い吐息さえも逃してなるものかと、比類ない聖女にすこぶる首ったけのアッシュは、ハンサムな顔の向きや角度を逐一変え、それこそ一縷の隙間も生まれないよう、小さな唇が大きな唇で覆い被さるよう奮闘した。
おお、それは何て、何てこれほどまでに淫らで情熱的な、半端なく危険なキスだろう!
魔力を携えた妖艶な男がするからもあるだろうが、魔性のキスといっても過言ではないくらい、口づけはネルにとって甚だ幻惑的で、ぼんやりと自我を失いつつあった彼女を最終的には、彼一色に塗りつぶしてしまうほどの、それは強烈な威力があった。
実に、正気を無くすに勝る恐怖は、ファンタジーだろうと、どの世界だろうと、きっとありはしないというのに、彼女の中の警戒信号は、危険を敏感に察知して、警報を高々と鳴らすが、実際注意のうるさい警笛は、接吻の激しさや荒々しさの前では、全く成すすべなく潜まり、それは恐ろしくも甘美な忘我の境地へ、臆病な聖女はいつも誘われるのだった。
とはいえども、綺麗なバラには、チクリと刺す痛い棘があるように、抵抗できない彼女を、ひどく不安な茫然自失へ追いやる、至極危ない口づけにも、素晴らしく好ましい点はあって、それは、この上ない甘味を口にしているかのような錯覚であって、舌の滑らかな舌触りは、とろけるアイスクリームや、極上のぶどう酒を思わせる、絹のようにしっとりとした口当たりで、甘美な陶酔に、深々と耽溺するネルは、永久に口に含んでいたいような気がしてならなかった。
もちろん、事実彼女は、美味しいアイスクリームや、芳醇なぶどう酒を口にしている訳でも何でもなく、アッシュの硬い弾力を帯びた、柔らかい唇が始終ぶつかって、彼女のふっくらと膨らんだ唇を、跳ね返し続けるので、これがただのすこぶる甘いキスであることを、勘違いに恥じ入る聖女は、否応なしに認識せざるを得なかった。
ああ、汝そのように激しい、狂おしい情熱をもって、無自覚に等しい女を愛し給うな!
抗いようもない、ほとばしる愛情ゆえの興奮や、狂喜のために、恋する男は気も狂わんばかりなのに、冷酷な女は無慈悲な嘘つきで、熱い愛の言葉を、ものの一片たりとも、吐きやしないではないか!
実際、女は男を愛し求めるどころか、単に糖蜜色の庭土に蒔く、草花の種が欲しいのだ!
むろん、女は男が必要ないとは言ってやしないが、同時に、必ずや手に入れたいとも言っていない!
大切な愛に目覚めた男が感じているほど、女にとって男は大事でないのだ!
女にとって、男はそこら辺に生えている雑草の次に注目すべき対象で、男と男の惜しみない無条件の愛がもらえるものならば、受け取っておこうと、ほんのそれっぽっちの熱量しか、持っていないのだ!
恋という熱病に侵された男は、それこそ喉から手が出るほど、女の熱情的な愛を、心の奥底から求めているというのに、飢えや渇き知らずの冷たい女は、そうした男の溢れんばかりの愛は、すっかり間に合っているようだ!
もし万が一、たとえ仮に百歩譲って、彼に恋していないネルが、彼女に深く恋する彼を、まるきり愛していなくても、アッシュは持ち前の強引さで、気弱な聖女を振り向かせる、根拠のない男らしい自信があったし、それに何と言っても―――、彼女は彼に口づけをしたではないか!
ああそうだ、実際奇跡も等しかったそれは、余りにあっという間の出来事だったけれども、確かにネルは、アッシュにキスをしたのだ!
そしてそれは、一体全体何のためにか、謎めいた聖女の思惑は、考え付く限り、考えてもよかったが、常識にのっとって考えれば、裏切りの合図としての、特殊な接吻を除いて、女は普通、何とも思っていない男は言うまでもなく、憎い敵や、嫌いな相手にキスをするだろうか?
常識――、たったそれだけの、ささやかで頼りない、上面の情報だけで、天にも昇らんアッシュは、はち切れんばかりの恋慕が、浮かばれたも同然だった。
ああもう結局のところ、見え透いた嘘ばかりついて、重大な核心をはぐらかす聖女は、とんだ抜け目のない、それは狡猾な策略家なのだ!
現実これで彼は、薄絹のかかった、秘密で謎めいた彼女の心を探る、重要な審問を、これ以上問いかけることができなくなってしまったし、驚くべきことに、追究は、もはやどうでもいいような気すらしてきた・・・。
時と場所、それから我を忘れてしまうほど熱中して、真底入れ込むキスが、この世に存在し得たとは!
しかもよりによって、妖しい力を持つ魔人の彼とは違う、見下していた聖人との口づけが、そうであったなんて!
普段からとても冷静なアッシュが、これほどまでの熱血を反射的に覚え、目の前の一人の女に、ひたすら心血を注ぐなんて馬鹿げたことは、野望だった魔王への踏み台としてのネルを、人のいい、羊の群れのような聖人族たちから、ものの見事に奪い去った今までは、到底あり得ない話だった。
そうだ、彼が捕らえた聖女はただの踏み台、強大な悪魔神への一捧げものに過ぎなかった女のはずだったのに、一体全体どういう事の成り行きか、今では自分の命よりも貴重で、非常に尊い存在に立ち替わっている!
一本といわず何本でも、放たれた恋の矢が、自然と突き刺さったアッシュは、それは価値あるネルの愛を獲得するためならば、喜んで跪き、乞いもすれば、恋の詩を情感たっぷりに、高らかなバリトンで詠う(幸いなことに、そういった書物は、図書室に腐るほどある!)ことだってできただろうし、おそらく何でも、まず彼の誇りに傷をつけないことなら、しただろう。
聖女ネルは、彼の唯一無二のミューズであって、大切な彼女を侮辱することは、彼を愚弄することでもあり、彼女の苦しみや悲しみは、彼の辛い責め苦で、実に耐え難い不幸であり、彼女の怒りは彼の憤慨であり、彼女の笑顔や喜びは、彼の生きがいと幸せであり、皮肉な話だが、殉教者のアッシュは、彼の並外れた女神のためならば、それこそ死ぬのも怖くはないくらい、とてもとても深く、愛しいネルを心から信奉していた。
しかし、男の沽券や自尊心が、狂おしい恋心に気も触れんばかりの、情けない醜態をさらすことを、断固として拒否するが故、気もそぞろのアッシュは、残念至極にも、これ以上の接吻を諦めざるを得なかった。
本心キスをやめたくなかった彼の意識が、これでかけがえのないネルを、大変な窒息死から救う事が出来たとか、つらつらと苦しい言い訳を、述べ立てている現実を知りながら、身に余る幸福にどっぷりと浸るアッシュは、艶の出た黒い側頭を、聖女の小さい華奢な肩に預け、これ以上ない心酔のため息を、深々とついた。
いやはや全く、根に持つ彼は、ただ単に純粋な好奇心から、美しい彼を盗み見ていただけの、悪気の全然なかった彼女を、このように息もろくにつけなかった、非常に濃厚かつ、すこぶる熾烈なとんでもない口づけで、殺すつもりだったのに違いない!
だが――、幸か不幸か、この上ない至福で骨抜きのネルは、キスに苦しむどころか、全くもってアッシュと同じ、素晴らしく生き生きとした、絶対的な幸福の最高潮に満たされている実感と共に、甘い恋の熱に浮かされた自分を、執拗にごまかす彼女と異なり、正直だからこそ憎らしい彼に手なずけられている、ちょっぴり口惜しい実態を、同時に覚えないではいられなかった。
至って当然のことながら、完全なる失望の気持ちは、彼のものとそっくり瓜二つ――、どちらかの息が止まるまで、この愛の喜びに満ち満ちた甘美な口づけを、ずうっと交わし続けたかったネルも、もたれるアッシュの立派な力こぶに、斜めった月色の頭を、力なくもたせ掛けた。
音もなく静かに降っていた糸雨は、今ではもうまばらになり、燦々と輝く太陽の上に群がり、のっぺりと厚く塗り隠していた灰色の陰雲が、吹いた目に見えない気流によって動き、そうしてできた自然の切れ間や、薄雲から、お日様がこっそりと明るい顔を出して、回復したばかりで弱い、まあまあの光線を、地上へ降り注ぐために、薄暗かった図書室はたちまち窓を通して、一定の明るさを取り戻した。
微弱で淡い光が射し込む、マリオン窓の方をぼんやりと向いていたアッシュは、恋人という偉大な女神が賜った、ありがたい慈愛と祝福に、しみじみと浴していながらも、森の木々が露に濡れた緑色の枝葉、まだ完全には晴れていない、やや曇り空の、外の景色を抱いた、見ているようで、しっかりと、その灰色の双眼を向けていなかった、透明な窓ガラスの端に入り込んでいる、何かに気が付くと、預けていた黒い頭を、聖女の繊細な肩からゆっくりともたげ、素晴らしい母なる自然が、雨上がりに贈る、色鮮やかで、神秘的な贈り物の正体を突き止めた。
「ネル」
彼の逞しい上腕に、未だ側頭をうっとりともたせ掛けている、未練がましい聖女へ、アッシュは喉から久方ぶりに出した、色気のある男らしいバリトンをかけると、呼ばれたネルは、クリーム色の頭をのそりと持ち上げ、青りんごの上目遣いで、彼を見た。
「おいで」
軽く笑んだアッシュは、穏やかに言った。
しかし、そんな彼をじっと覗き込む、聖女の二つの翡翠は、熱っぽく潤み、悩まし気で、彼女が心底惚れこみ、また、今現在なおも渇望している、彼の魔法のような赤い唇まで、ポロリと目線を下げないよう、わがままではしたない欲望に苦闘している様子が、軽く寄った白金の眉毛と一緒に、にじみ出ていた。
もしこのまま、凄まじく魅力的な聖女が、心から望むように、一度断念した、飛び抜けて情熱的な接吻を、再開でもしようものならば、栄えある愛でいっぱいだった胸が、必ずや弾け跳ぶだろう大事を予想しながらも、並々ならぬ興奮と歓喜で、気が狂いそうだったアッシュは、このようにチクリと刺してくる、いとも愛らしい攻撃に、かろうじて耐えると、今度は柔らかいバラ色の唇ではなく、ネルの広い額にキスをして、ともに来るよう促した。
「行こう」
素敵な愛情たっぷりの最高な口づけに、へなへなと腑抜けた聖女の、プラチナブロンドの頭が、またしてもしな垂れかかる重みを、太く逞しい上腕に感じつつ、男くさい武骨な手を、ネルの柳腰に添えたアッシュは、窓辺へゆったりと向かった。
この上ない最上のキスで、十分と満たされていたネルの心は、そんな彼女たちが、図書室へ避難する原因になった雨が、上がった現実を認めることさえ、入り込む隙間もないくらい、パンパンに満ち、聖女は甚く幸せな亡霊のように、窓際へぼうっと赴き、脚がふかふかと柔らかい、淡い黄色の寝椅子に当たっているのを感じ取ると、隣のアッシュが腰かけるのに伴って、腰を呆然と、傍らの寝椅子へ下ろした。
「あっちをご覧」
と、指さすアッシュの、低い声が優しく鼓膜に響くので、締まりのない緩んだ顔を、マリオン窓の外へ向けるネルは、半ばとろんとした、まだ覚め切っていない青緑色の眼で、彼の指さす方を、何とはなしに見た。
すると、それは目の冴えるような鮮やかさで、彼女が以前いた世界で、目の当たりにしてきた虹と、全くもって同様の、見事な七色に光る巨大なアーチが、堂々かつ生き生き、そして晴れ晴れと、頼もしい太陽の眩しい輝きや、健康的で肉厚な雲の、白さを取り戻しつつある、大きな窓の向こうの青空に架かっており、幸福に痺れた甘い余韻は瞬時に、嬉しい驚きに、碧い目のぱっちりと覚めたネルから、吹き飛んでしまった。
「・・・虹・・・!」
この思いもかけない幸運に興奮したネルは、窓の方へ見開いた翡翠色の双眸を少しも離さず、感極まったように独り言ちた。
一体どれくらいの間見ていなかったのだろうか、碧い湖沼の色をした眼差しを、呆気と奪われた聖女は、神々しい自然の生み出し、また同時に織り給うた、実に美しい、色彩豊かな幸運の帯を、ただ一度の瞬きもせず、つぶさにじっと見つめ続けた。
「・・・綺麗・・・」
ハアッと勝手に漏れ出た、感嘆のため息交じりに、うっとり夢見心地のネルは、ぼそりと呟いた。
「ああ、確かに綺麗だ・・・。運がよかったな、ネル」
同じ窓の外へ麗しい顔を向け、偶発的な神出鬼没の気まぐれな虹を、煌めく灰色の視線に捉えるアッシュも、満足げに言った。
霧吹きから吹き出たような、細かな雨上がりの天空に浮かぶ、第二の至高の芸術を眺めていたネルは、またもや呼ばれると、輝く月色の頭を動かして、いつまた消えると知れない、儚い虹を抱え込む大窓から、隣で同じ寝椅子に座るアッシュへ向き直ると、肯定の頷きや同意の言葉の代わりに、楽し気に微笑んだ。
おお神様、その時の彼女の微笑みといったら!
隙を突いた笑顔はたった直前まで、彼の銀色の瞳に入れていた、あの虹の彩りよりも美しく煌めき、そしてそれは、あまりに眩しかったために、氾濫する喜びの洪水に押し流されたアッシュは、立ち眩み(実際には座っていたのだが)に目がクラクラとくらんだ。
事実、魔人で恋人のアッシュが、ほぼ初めて目の当たりにした、聖女の可愛い微笑は、甘美や優美にすこぶる恵まれており、ドキドキと落ち着かない心臓が、バクバクと乱れ打ち、彼女を実直に恋い慕う敬虔な彼を、安らかな死に至らしめんほどの、とてつもなく素晴らしくも、暴力的な魅力に満ち溢れていた。
さきほどのキスや無断の鑑賞と同じように、アッシュはモナリザにも劣らない微笑みの意味を都合よく――、好意的に受け取ることにした。
何故かは分からなかったが、多分彼のように、偽りない真実愛の気持ちを口に出して、言葉として言うことは、彼女の絶対的で横暴な羞恥心が許さないのだろう、おそらくはにかみ屋のネルは、恥ずかしい歯の浮くような言葉がいらないキスとか微笑、それから盗み見で、彼女を一途に想う彼を、心の底から愛し、かつ、切実に求めている情熱的な事実を、精一杯伝えているのだろう!
ああ、よほど幸運なアッシュは、何て可愛らしい生き物を手に入れたのだろう!
これほどまでに内気で、ひどく恥ずかしがり屋の女を見たことがなかったアッシュは、その霞か幻の存在を確かめるかのように、手を無意識のうちに伸ばして、ふっくらと丸い曲線を描いたネルの頬へ当てると、彼女の柔らかい笑みは次第に弱まり、ついに無表情の口元へと戻ってしまったが、触れた頬は火傷しそうな熱を帯び、見合わせる顔はやや上目遣い気味で、観察する彼を真面目に見返した。
通常であれば、一般的には、決まった条件の下でしか姿を見せない、まれで貴重な、珍しい自然の偉業が、うっすらと消えてなくなっていくまで、人は目に焼き付けようとするものだが、それに目もくれないアッシュもネルも、自然と架かり、自然と消えていく虹などお構いなし、恋するお互いを真剣に見つめ合っている方に、より重きを置き、あるいはまた、甚だ価値があると思っているようで、珍妙な自然の副産物よりも、二人が何倍も素晴らしい現実は、誰の目から見ても、大いに明らかなところだった。
アッシュの幅広の手のひらから伝わる、ネルの温かいほっぺたは、ツルツルふわふわしていて、羞恥や高揚のために上ってきた血が、透き通るミルク色の、柔らかい弾力に満ちた、きめ細かな肌を通して、焼いた石炭みたいに、赤々と情熱的に燃えていた。
小さい形のいい唇は、ふっくらと丸みを帯び、熟したスモモのような心地いい弾力と、甘酸っぱい艶、どんなに名の知れた立派な画家でも、完璧には再現できないくらい、極めて絶妙なサンゴ色に染まっていた。
尖端が上向いた可愛い鼻も小さめで、聖女の中の元気や快活さ、小生意気さを表すと同時に、人目に幼く見える効果もあった。
あまり張り出していない平らな骨の上に載り、クリーム色の髪の毛と同じ色をした、細くなだらかに下がった柳眉の下に、梅やあんず、スモモ、桃、プラムなどの果物の種とよく似た、丸っこい眼の内に、鮮やかな翡翠色の瞳がそれぞれ二つ収まり、彼がこのように意図的で集中的に、一心に彼女に見入っている理由が分からない不安、はたまた、恥ずかしくも、彼に直に触れられている幸福、そして、彼女にとって第一の、美しいやんごとない芸術を、またしても注目できる陶酔を湛えた目は、筆舌に尽くしがたい、何ともきらびやかな光を纏って、彼の灰色の双眸を、時折震えるかのように、嫋やかにはためく薄茶色の睫毛と一緒に、じっと感慨深げに覗き込んでいた。
緩くカーブしたおでこは広く、健康的な色つやに、プルプルの剥き卵らしく、白く照り光っていた。
男のくっきりはっきりした線と違って、優し気な顔の輪郭は、あやふやと不鮮明で、曲線的に描かれ、その愛らしい丸さが、若く見える童顔に、ますます拍車をかけていた。
乳白色のキャンバス上に描き込まれた、実に魅力的な、種々の特徴を縁取る額縁は、しっとりと滑らかな絹糸を彷彿とさせる、可憐な白金の髪の毛で、額の生え際より真ん中で分けた毛束は、こめかみから、血の深紅に染みた小ぶりな耳を掠め、後ろ頭にかけてきちんと編み込まれ、後ろで合流した光沢のある髪は、くるくると緩やかな螺旋を描く巻き毛へ流れ落ち、最終的には、アッシュの黒っぽい紫色のマントを着込んだ華奢な双肩や、小さな肩甲骨の上あたりで、淑やかに鎮座していた。
丸く小さく尖った顎から下に伸びる首は、細いが短く、いつもの白銀色の肌着に覆われ、よってそれは、ペンダントをぶら下げた長い首飾りよりも、チョーカーのような、喉にピッタリと貼りつく、短い襟巻が似合うだろうから、光の乱反射がキラキラとまぶしい、ダイアモンドの一級なもの、あるいは翡翠やエメラルド、真珠のネックレスを、近いうち必ず手に入れようと、しきりと眺める彼は、考えずにはいられなかったし、それから、そんな首の付け根から下には、きっとレオナール藤田が描いた、婦人の白濁した気品ある肉体が、今現在着ているワンピースや、マントに包み込まれており、愛おしいネルの全てを目に入れ、焼き付け、把握するまで、気が十分済まなかったアッシュは、何を思ったか大胆にも、熱い頬へやっていた手を下へずらして、マントを結び留めている、首の付け根へと持っていった。
当然、驚くネルは怯み、注いでいた青緑色の視線を素早く落とし込み、外套の結び目を解こうと試みる、アッシュの大胆で無作法な大きい手を見やると、瞳は瞬く間に、困惑や動揺に揺れ動きながらも、彼の思惑を完全には測りかねた上、もとはといえば、マントは彼のものだったし、マントのすぐ下は裸というわけでもなし、不承不承されるがままにした。
容易な蝶の結び目は、頑固に凝り固まった、解きにくいだまこちよろしく抵抗もなく、するりとあっけなく解け、ブドウ色の生地を、次にむんずと掴んだ手は、なだらかな肩から引きずり下ろし、傍らの板床へ何気なく捨てた。
心臓は、一言も言わないアッシュが、実際何をしようとしているのかを、注意深い頭の中で巡らす度に高鳴り、恥ずかしさや戸惑いゆえ、目が合わせられないネルは、それがいけない希望だと知りつつも、後に続く彼の一挙一動から、目と関心が全くもって切り離せなかった。
ああもう全く、自信家で挑発的な彼はいつだって、必要な言葉足らずだ・・・!
むろん事実確かに、賢者は多くを語らず、口は禍の元、沈黙は金、雄弁は銀と、巷では叫ばれているものの、そんな向こう見ずの自己を中心に回っている、ふてぶてしい魔人の彼が、そうした説明の言葉を出し惜しみすることで、自信の少ないうぶな彼女が、一体どれだけの緊張とか、不安を抱いているのかは、到底分かりっこあるまい!
許可をいちいち請う必要はないが、先の読めない、予想の付きにくい彼が何をするつもりなのかは、せめて口にして言ったとしても、それほど大した問題ではないだろう?
例えば船がそこにあったとしても、浮かぶ川や湖、海がなければ、始まる航行も始まらないのと全く一緒で、楽しく健全で素晴らしい恋愛において、どちらかの一方通行など絶対にあり得ないし、真実あってはならないのだ。
今の聖女はそれこそ愛の川、湖、海であって、惜しくも干上がっているのだ。
だからこそ、自信家で野心家の船であるアッシュは、偉大なる船旅を始めたいのならば、ぐるりと道の遠回りなんて、野暮ったいことは言わず、雨ごいでもいい、たっぷりの水、すなわち、豊かな愛の気持ちで満たされるよう、まず第一に、ネルを潤さなければならないのだ。
そして、甘美で情熱的な求愛の、非常に幸福なうるおいで満ちたが最後、彼女という川や湖、海は、一つの波、渦、逆流、氾濫、干潮または蒸発も起こさず、ゆったりと快く凪ぎ、それは素敵な航行となるに相違ない!
価値ある貴重な口は、ただの飾り物ではなく、聖女を実直に恋い慕うアッシュは、愛の情熱的な言葉や熱心な請願を、恍惚のため息とともに、口にしなければならない。
とどのつまりアッシュは、どれだけ彼女を大事に考えているか、また同時に、哀れな彼がそれでどれほど苦しんでいるか、現実の言葉として、想いのたけを口から出して幾ら表明しても、ネルに対する思慕の強さを表明しすぎることは、決してないのだ!
だがしかしながら、とはいえども、魅力的なバリトンがやがてかすれ、男らしい喉仏が出っ張った喉がつぶれようと、男がどれだけ深く、かつ熱心に、彼女を愛しているか繰り返し言ったとしても、それが十分に足らないだろう聖女は、何と恐ろしい欲張りなのだろうか!
ここまでうだうだと考えた末、強欲という恥ずべき罪にぶち当たったネルは、そういう自分こそ、恋の高熱に浮かされたように、アッシュに対する愛の一途な言葉や、真摯な懇願を、口に上げただろうかと自問して、はてさて、それがちっとも言っていない現実に、はたと気が付くと、なんてことはない、言葉足らずは自分の方ではないかと、今さらながら呆気にとられた。
ああしかし、まるで貼りついた喉が、至極摩訶不思議にも、凍りついてしまったかのように、思うような言葉が口から全然出てこない!
だからしたがって、そんな彼女がかろうじてできたのは、月色のつるし飾りを通って、首の後ろへ回す彼の前腕辺りに、微かに震える自分の手を置くことだけで―――。
一方、制止が入ったように感じたアッシュは、ネルのだんまりと黙り込みつつも、碧い深刻な眼差しから、何かを伝えんとした気迫を受け取ると、ちょこっと考えてから、航路の方向転換をあっさりと決定した。
「・・・勘違いしてもらっては困るな、ネル。俺はただ、部屋が暑かろうと思って、脱がしてやろうとしているに過ぎないんだ」
にやりと愉快な薄笑いを浮かべたアッシュは、何ともしらじらしい台詞を、悪びれもせず口にした。
図書室が暑い?
それはもちろん、しとしとと降っていた霧雨の上がった、虹のかかった晴れゆく天気といえども、灰白色の雲間から徐々に現れる太陽は、別にギラギラと照り付けているわけでもないどころか、今日はどちらかというと涼しい方で、ぽかんとあきれ果てたネルは、最高に大げさなはったりだと思ったが、どうやらふざけているつもりではないらしい。
「・・・そんなことないとわたしは思いますけど・・・。暑いですか?」
「ああ、暑いさ」
と、うそぶくアッシュは平然と答えると、一体全体何を考えたか、纏っていた黒いマントをだしぬけに解いて、プラム色の外套が静かに横たわる、床上へ放り投げた後、喉首に巻いた灰白色のクラヴァットも解いて、寝椅子の上へ落ちるがままにさせ、それからネルのとても、とても驚愕したことに、彼は太い胴に回した銀色のチェーンベルトと共に、闇色のチュニックに両手をかけて、真っ黒の頭を通して一気に脱いだために、あまりに強い衝撃を感じたネルは、ひどくびっくりして、しばらくものを考え、あるいは口にすることができなかった。
おお神様、暑くも何ともないのに、着ていた服を易々と脱いでしまうとは、奇想天外な彼は、何という考えを思いつくのだろう!
だがしかしながら――、それこそ一歩間違えれば、不名誉な狂人とも変人とも思われかねない、大胆で突飛な試みは、彼女の疑念や怪訝に満ちた心を、一瞬でわしづかみ、ありふれた凡庸な想像の裏を見事についたので、並々ならぬ吃驚と同時に、実に面白おかしい楽しさを、彼女の中に生み出し、未だ信じがたいネルは、このような馬鹿な振る舞いに、腹を抱えて笑い出したい衝動に駆られつつも、理性的で自制的な体面を保つため、自然と憚られた。
対して、脱いだ漆黒のチュニックと、輝く銀色のチェーンベルトを、適当に寝椅子の縁へ掛けるアッシュは、至って何ともない様子で、愉快に憑りつかれたネルは、こらえきれない微笑みと一緒に、上ずったソプラノをかけずにはいられなかった。
「~~もう、別にそこまでしなくても、暑かったなら、窓を開ければよかっただけの話じゃないですか・・・!」
「ああ、確かにそうだな。ネル、全くもってお前の言う通りだ。・・・だが、もうじきここは、開けた窓では追い付かなくなるほど、暑くなる―――」
形のいい淡紅色の唇を、優しい微笑に曲げたアッシュは、意味深げに言い残したが、それが何を意味しているのか分からないネルは、答えを探ろうと、愉悦の光を灯した灰色の双眸を、無心で覗き込んだ。
すると、難しい謎の答えは、魔人の額にゆっくりと浮かび上がる、妖しげな黒っぽい紫色の紋章と一緒に、彼女の碧い目で捉えることのできない体感が、自分を疑うネルに教えてくれた。
「・・・?」
これは一体どうしたことだろう、何故だか知らないが、暖炉を設けた図書室は薪でもくべたのか、ぽかぽかと気持ちのいいぬくもりが、訝しむ彼女をじんわりと包み込んでいくために、手をさり気なく取られたことまで、気が回らなかったネルは、自分の手のひらで触れた、アッシュの硬い胸板の温かさを感じて初めて、我にはたと返った。
温度の不思議な変化が、魔法によるものだと考えるより先に、小さな手のひらで受けた、男の鼓動に感銘を受けたネルは、一も二もなく魅了された。
それは小鳥とか、寿命の短い小動物特有の、あの速めの調子を刻んでいて、そして、それでいて律動は、軽やかに陽気に歌っているようでもあって、他の誰でもない自分が、それに一役買っているのだと思うと、清々しい清新な喜びに嬉しいネルは、自分の胸の拍動も進んで伝えたいような、今までに感じたことのない、つつましくも喜ばしい神聖な気持ちになって、すると、心が彼女への恋慕で埋め尽くされているならば、実際文字通り、彼女のものにしてはどうかと、限界を知らないどうしようもない強欲が、またしても彼女の中で頭をもたげてきて、不埒で思い上がった、不道徳な考えに深く恥じ入る聖女は、このように支離滅裂で、無茶苦茶な自分が一切信じられなかった。
熱狂の渦を纏った恋は熾烈にも、無防備で無自覚の、鈍感な聖女へと襲い掛かり、対策や警護のない、隙だらけの司令塔である脳を、無慈悲にも完全掌握し、中身の伴わない、単なるお飾りに過ぎない物体へとなり下げてしまうので、そうした空っぽの頭の中では、不自然な気温上昇に対する、抗議の念は生まれようもなく、また、意地悪でずる賢い男の両頬を、愛し気につねって、不純な操作をやめさせることは言わずもがな、まるで何かが乗り移ったかのように、手のひらを上に載せたネルは、広い肉色の胸や胴、手腕を惚れ惚れと見つめた。
間髪入れずに情動の逸るまま、直ちに飛び込んでいきたくなってしまうくらい、広々と広がった、男の堅い弾力と、絶対的な安心感、包容力に満ち満ちた素晴らしい胸は、真黒いチュニックの上からでも分かる、ふっくらと筋肉の厚い盛り上がりが、彼女の小さくて柔らかい手のひらを、心地よく押し返しており、両端にごくさり気なく構えた、二つの小さな栗色の楕円は、退化の存在感が見て取れた。
引き締まった円柱形の太い胴は、脇と腰の間で少しだけくびれており、大地に根差して生きる素食な遊牧民のように、ぷよぷよと無駄な贅肉は全くついていないが、日焼けした皮膚の下に詰まった、ある程度の肉もきちんとついた、健康的で逞しい、若々しい胴体がそこに実存し、中央にへそ穴が軽く開いていた。
すこぶる不幸にも、同じ剥き出しの背中まで、じっくりと観察する大望はかなわなかったが、それにもかかわらず、横にとてつもなく広がった立派な双肩や、広い堂々とした胸から察するに、大きな肩甲骨周りについた、筋肉の盛り上がりが目立つ、頼もしい後ろも同様に幅広で、茫洋たる真ん中に、一本の縦線がくっきりと走っているのだろう。
なだらかな丘のように、ゆるい傾斜の広がりつつも、がっしりした肩の付け根から生える両腕は、巨木の節くれだった太い枝のように長く、筋肉質で強健、そして手首と呼ばれる、腕の先端に設けられ、彼女のちんまりした子供みたいな手を包むのは、荒々しい生命力と躍動感あふれる、ごつごつと飾り気のない、性的魅力に満ちた紛れもない雄の手で、長くて関節が角ばった五本指は、一本一本が太く、捉えた獲物を容易には逃がさないつくりをしており、隆起した太い血管の何本かが、きゅっと引き締まった手首を通って、前腕まで斜めに走り、淡黄紅色の皮膚を、葉脈のようにこんもりと押し上げていた。
いやはや全く、以上のように上半身だけで、これほどまで素晴らしい彫刻作品――、いわばあの古代ギリシャの彫刻家ですら、彼の肉体的魅力を十分に写し取れず、匙ならぬノミを投げてしまうほど、飛び抜けたものだとしたら、ふっくらと盛り上がった臀部を提げる、腰の位置が高い、つまりは、それを支える二本の脚も、非常に長いだろう下半身の方も、さぞかし見ごたえのある、とても男らしい頑丈な形状をしているのだろうと、極めて当たり前の想像が、好ましい興奮に心乱れる聖女に及ぶには、それほど大変な話ではなかったものの、肉体美の極致を目の当たりにしたネルは、すでに存分に満足していたので、これ以上の観察は、贅沢で恥ずべき願いであって、彼女は足るを知るべきだと、自分で自分を窘めた。
不本意ながらも徐々に上がっていく温度に併せて、取られた小さな手が少しずつ上へずれていくと、彼女の青りんごの目線も自然と上がっていき、鎖骨の秀逸な浮き彫り、斜めに走った肉の筋が顕著な太い喉首を通って、最終的に辿り着いた、男のわずかにざらざらした滑らかな片頬へ、鑑賞の視線を依然と注ぎ続けるネルは、うっとりと思いを馳せ、はたまた同時に、この上ない無上であり、彼女にとって究極の芸術を、再びもう一度、たっぷりと隅々まで、眺められる機会と幸運を施してくれた、全知全能の神とか精霊に、しみじみと感謝せずにはいられなかった。
二つの翡翠の玉だけを器用に動かして、それは素敵なアッシュをじいっと見入るネルは、以下のような点を明らかにしていった。
薄い皮膚の下から透ける、赤や青、紫色をした毛細血管の、気色悪い網目の浮き出たゴブリンどもや、サイクロプスの、蠟のように黄ぐすんだ、あるいは病的に青白い肌色と異なり、色つやのいい健康的な、フレッシュレッドの肌をしていること。
楕円形でコンパクトな小顔の輪郭が、きりりと締まっていること。
顎の骨がしっかりと硬いこと。
裂けたとまでは言わないが、笑った時に伸びる、淡紅色の唇は薄めの横長で、同時に、血色のいい頬がふっくらと盛り上がること。
ひげは生やしていないこと。
すっきりと鼻筋の通った、見苦しくないヌビア鼻をしていること。
ぼさぼさの鍾馗眉や、まばらに生えた魔物たちのものと比べるまでもない、角度の付いた、弓なりの高貴な黒い眉――眼差しも捨てがたいが、やはり顔の中で最も人目を惹きつけて、強く印象付けるのは、表情の表れる眉毛だとネルは考えた。実際、彼女が生きていた世界で、一番有名だった肖像画の女性は眉毛がなく、それゆえに、女は美人であるどころか、たいそう神秘的で謎めいた雰囲気を醸し出していた――の下、黒いインクの艶を兼ね備えつつも、ふさふさと生えた扇状の睫毛に縁どられた、切れ長のアーモンド形の目は、魅惑的な灰色の瞳で占められており、色はペルシャ猫とか、狼、ユキヒョウといった、捕食動物の優雅な銀色の毛並みから、黄金の派手な華やかさには欠けるが、落ち着いた静かな気品漂う銀器を思わせ、また同じくして、雨あられ、雹、雷や雪、はたまた暴風の、恵みであり脅威でもある自然を抱いた、灰色の雲まで連想させて、そして、この二つの並外れた宝石を、喜び楽しむ少年の眼のように、生き生きと明るく輝かせるのも、あるいは、冷たい雪雲を孕んだ、どんよりと曇った陰鬱な冬空にするのも、それらを覗き込む彼女の、意識的な振る舞い一つにかかっているのだと理解したネルが、極まりない幸福と、胸のときめきと共に、どうやっても舞い上がらずにはいられないこと。
しかも笑った時に、目蓋が被さって一重になった上、涙袋がぷくっと盛り上がること。
それらに続いて、目尻にしわが若干寄ること。
生きた図柄が、刺青のように浮かび上がっている額は、広くも狭くもなく、ちょうどいい大きさであること。
髪の毛――、ある程度のコシやハリを備えた、柔らかな黒髪は緩く波打ち、襟首や、少し尖った耳の後ろまで、自然な感じで流れていて、そのインクブラックは、敏捷で獰猛な、クロヒョウの艶やかな毛並みを喚起させ、誠に、カラスの濡れ羽色とか、緑の黒髪といった慣用句が適切、いや最適で、宇宙の純粋な闇ほど真っ黒い髪は、簡単に目の当たりにできるほど、人々の間でありふれている、平凡なものでないことは、茶色交じりの黒や、日焼けにパサついた髪を、日常的に目にしていた彼女が、よく分かっていたこと。
だからこそ、空いた方の片手を伸ばして、思わず触ってみてはいられないネルは、いつもアッシュが、彼女の白金の髪にするように、櫛のように、漆黒の艶髪を、指と指の間に優しく通して、サラサラと心地いい感触を確かめた。
以上の点から、まるでそっくりそのまま、紙の中から出てきたといわんばかり、惣領冬実の描く、麗しの青年に著しく似た美男が、彼女を愛の眼差しで見つめ返していて、全くもって愛がそうさせるのだと、二枚目な男は、掴んでいた手を唇へずらし、小さな手のひらの中へ、真心のこもった口づけを捺してから、余裕の微笑みを浮かべて言った。
「おいで」
言葉はそこら辺の犬猫に向かって、口にするものとほとんど大差はなく、いつから自分は、彼の愛玩動物へと変わり果ててしまったのだろうと、ささやかな反感を抱きつつも、自分は決して言うことを素直に聞いて、彼の軍門に降ったわけでも何でもなく、部屋があまりに暑くて、どうしようもない熱に浮かされたために、そうしているに過ぎないのだと、自分で自分を言い聞かせたネルは、腰を寝椅子の座面から浮かせて、かっこいいアッシュの腕の中へ、収まりに行った。
歓迎の接吻をもって迎え入れられ、唇が触れ合ったとたん、すぐさまとろけた脳と一緒に、唇の甚だしい柔らかさと、とんでもない幸福ゆえ、凄まじい勢いと音を立てて、身がたちまち崩れ落ちてしまうのではないかと、心配したネルは恐れた。
しかしながら、そうした懸念は全く無用で、回した剛健な二本の腕が、崩れ落ちそうな彼女を、しっかと支えていたから、ドキドキ高鳴る胸のときめきを、横に聞きながら、酔いしれたネルは思う存分、夢中の海を泳ぐことができた。
おお正にこれこそが、彼女が心の底から、身体の芯から、骨の髄から望んでいたものだ!
悲願はとうとう達成され、オリンピックでメダルと月桂樹の冠を取る以上の、かつてない喜びが、無数と舞い散る栄光の紙吹雪と共に、彼女の内側で嵐のように吹き乱れ、不可思議にも、温度がこれ以上上がらない事実とか、白銀のワンピースが緩んでいる現実は、そうした並々ならぬ歓喜の前では、考慮に足らない、至って些末なものだった。
プレゼントを開けるときみたいに、ワクワクと高揚しながら楽しむアッシュは、リボンや包み紙を手際よくはいでいき、もちろん彼の想像した通り、レオナール藤田が描いた裸婦と寸分違わない、何とも神々しい美しさに光り輝く、恥ずかしがるネルの、乳白色の豊潤な肉体が、ようやっと全貌を現すと、このまた一つとない、神からの素晴らしい贈り物に狂喜乱舞の彼は、途方もない敬服と感謝の念を、ほとほと感じずにはいられなかった。
あまりの感激に言葉を失うアッシュからしてみれば、それはまるで、あのクレオパトラの愛した、バラの花びらを浮かべた、ロバのミルク風呂から上がったばかりかのように、しっとりと照り光っていて、その滑々した光沢は、まさしく気品ある真珠を思い起こさせ、彼はすこぶるまれにみる奇跡を、実際に目の当たりにしたかのようだった。
脱ぎ捨てた服は全て、白黒問わず、土色の床板の上に散らばったり、象牙とひよこ色の縦じまが入った寝椅子の、チョコレート色の縁にだらしなく掛かって、はた目に堕落した感じがしたけれども、誠実な愛を育み確かめ合う二人は、至極甘美で官能的な雰囲気を纏っていた。
「・・・~~っ・・・♡♡」
真摯な学問や調べ物の場に甚だ似つかわしい、熱のこもった息遣いだけが、しんと静まり返った図書室にこだまし、生まれたままの一糸まとわない姿をさらし、大きな窓から射し込む太陽光の明るい部屋で、隠れるシーツも布団も何もない中、一体自分は何をしているのだろうと、アッシュのごつごつと固い、不安定な膝上に、露わな背を向けて座ったネルは、頬を赤らめ、到底我慢のならないひどい羞恥ゆえに、逃げかねない彼女を引き留める、腰のくびれに回った、太い腕の力強さと、情熱的な愛の儀式がこれから始まるのだという、揺るぎない決意や意志を表示するかのように載った、剥き出しの太ももの上の広い手のひらを、心身共に否が応でもはっきりと感じたが、事実、緊張や興奮、期待、半端ない喜びが入り混じった心の中、やはりどうしようもない恥じらいが、ずば抜けて群を抜いており、温かい肌のピタリと吸い付く得も言われぬ触り心地が、このように複雑に入り組む聖女を責め苛む、必死の羞恥心をやわらげ、暴徒と化した心情の暴動からくる、発狂の一歩手前だったネルは、大切な理性をすんでのところで維持できた。
彼の逞しい両腕の中に、すっぽりと収まってしまう、小柄で美しいそれは崇高な女神が、本当に彼のものである、にわかに信じがたい現実が、すんなりと受け入れられないアッシュは、心酔の極みで、息の詰まるほど繊細なガラス細工のように、あまりに脆すぎるため、それこそ一か月とか、一年に一回しか取り出して見ることのできない、格別貴重な壊れ物を扱うかのように、恥に負けじと自我を懸命に保つ聖女をそうっと優しく、慎重に触れていたが、その重大な彼女の太ももを、ゆっくりと撫でる大きな手や、せまい背中に受ける熱い吐息は、非常に細かく震えており、自分でも予期せぬもどかしさが、羞恥の中から唐突に生まれ、じれったそうに、内股をもじもじと擦り合わせるので、あると思いもしなかった自分の中に、確かに存在していた事実に加え、はしたない欲求の昂ぶりや、早まりを知ったネルは、自分を疑わずにはいられなかった。
ただ単に、素肌と素肌が触れ合っているだけで、けたたましい早鐘のように高鳴る胸が、はち切れそうに膨れ上がり、潰れたも同然の肺を通り抜け、焼けただれたような喉を出入りする、浅く乱れた息は、窒息しそうに詰まり、焼き付いた脳は幸福に焦げ、マグマのように沸騰した精力が、身体の内側でブクブクとあぶくを立てて煮えたぎり、クリーム色の頭のてっぺんから、鮮やかなサーモンピンクに染まったほっぺた、空中にぶらんと浮かんだ小さな足のつま先まで、それはもう狂おしい予熱に熱くなっていたから、広い手のひらが、胸の丸いふくらみを包み込んだ時、心臓を直に鷲掴まれたような衝撃が、ネルを襲いつつも、しゃがれた醜い悲鳴ではなく、甘美と恍惚の深いため息が、仰け反った喉をせり上がって、開いた唇のわずかな隙間から、艶のある熱を纏って漏れ出た。
温かなふくらみは、手のひらに丸ごと収まる、大きくも小さくもないちょうどいい大きさの球で、ぐにゃぐにゃの水風船らしく、甚く柔らかいと同時に、ふっくらとした弾力が、手のひらを優しく跳ね返していて、淡紅色の愛らしいしこりだけが、唯一しっかりした堅さを帯び、健気に主張する、忘れてはならない存在に触発された指――女の縦に細長い爪と違い、横幅のある平べったい爪が載った、実に男くさい指――が、それを摘まみ、尖りをますます鋭くしようと縒りをかけたら、快感に落ち着かない腰が共にくねり、甘美な震えが反射的に全身を包み、悶えるネルを大いに悩ませた。
「~~っく・・・♡♡!ん・・・、はぁ・・・ん・・・♡♡!」
ほとばしる艶かしい嬌声を、熱心に堪えつつも、熱い吐息を伴った嬉しい苦渋は、食いしばる歯や、固く引き結ぶ、唇の隙間から勝手に絞り出され、プラチナブロンドの滝で隠れるうなじやら、脇、顎の下、額の上に、汗がじわっと滲み始めて、頬の紅潮した顔をしかめる聖女は間違いなく、アッシュが点けた熱い火で、燃え滾っていた。
全くのところ、彼からの一途な愛を受け取って、すこぶる喜んでいる証拠を抑える必要など、実際これっぽっちもないはずなのに、苛立たしいほど実に挑戦的で、好戦的な確信犯の彼女は、わざと報せまいと、いたずらな心を砕いて、並外れた愛しさに狂おしい彼を、急き立てるだけでは飽き足らず、彼の中でめらめらと燃え盛る、情熱の火になおも油を注ぐので、大いに受けて立つアッシュは、けちん坊の聖女をもっと苦しめてやらんばかり、摘まむ指に力を込め、彼の太い腕の中でもがくネルを、さらにじたばたとのたうち回らせた。
「ああ・・・♡♡!~~やぁ・・・♡♡!~~ん・・・っ♡♡!」
ああそうだ、これでいい!という自己満足の鼻息が、鼻孔からふんと放たれ、高まる興奮と一緒に、心臓の脈拍も上昇していったアッシュの頭の中は、もはや愛することだけで、丸ごと覆い尽くされ、ももの上へ置いていた手は、そうした圧政者の横暴な指令のもと、ごく僅かな隙間の他は、しっかり閉じている、両脚の付け根へと向かい、浅い谷間へ巧みに滑り込んだ指先が、とてつもなく素晴らしい奔流を生み出す、丘と丘の間に埋もれた紅い豆粒を、的確に捉えた上、ちょうど猫の前足が、玉や球を転がして弄ぶように、指の腹を頂いた粒は、あっちこっちと揉みに揉まれた。
「あん、嘘ぉ・・・っ♡♡!」
と、そこから伝わる甘い刺激が、全然信じられないネルは、仰天と狼狽の言葉をとっさに口にしたが、嘘なものか!と密かに憤るアッシュは、またしても意地悪く、載せた指の力を強めた。
「はぁん、だめ、そこ・・・♡♡!~~お願い、そこは嫌・・・っ♡♡!」
というふうに、この上ない陶酔にあえぐ聖女の口は、懇願を必死に訴えるが、身体は、粒を擦る指がたまらなく心地いいことを、しきりに揺れ動く腰や、右左と振り乱れる月色の頭髪、そわそわと落ち着かない華奢な双肩で伝えていたし、震えっぱなしの身体の熱は、まるで火でも熾したかのように、燃えるように熱かった事実、そして、血管の浮いた武骨な手の上に、弱々しく載せた小さな手のひらは、それを阻止する気概も何も感じ取れなかった現実から、いずれの持ち主も、好まないどころか、男と男の指先に大変感銘を受けているのは、火を見るよりも明らかだった。
しかしながら、極めて不可解なことに、太ももは抗うべき尊い理由でもあるのか、ギューッと内側に閉じて、ふわふわの肉を一心不乱に押し付けてきて、二本の脚の間にきつく挟まれた手指の、それは偉大な仕事の邪魔をしてくるので、とてつもなく可愛いネルを愛し抜く使命に激しく燃えたアッシュは、正直に頼まざるを得なかった。
「~~頼む、ネル。どうかお願いだから脚を開いてくれ。このままじゃ触りにくくて仕方がない・・・!」
だがしかし、アッシュ自身はもちろん、誰もが焦燥を瞬間的に覚えぬほど、誠にもったいぶる聖女は、天使の光輪のような輝かしい白金の頭を、軽くいやいやと振りながら――、
「~~無理・・・っ♡♡!~~できない・・・っ♡♡!」
やれやれ全く、またいつもの駄々こねりか!
ネルの稚児のような、どうしようもない我儘にアッシュは呆れ、ほんの少々苛立ちつつも、辛抱強く答えた。
「無理じゃない。いい子のネルならできるさ」
「~~~・・・♡♡」
ああ全くもう、先ほどから彼は、頼りない小さい子どもか何かのように、彼女を扱うが、とはいえども、やっぱり幾つになっても、他者から褒められることは、たとえお世辞だとしても、素直に嬉しいもので、ためらうネルは、見せかけかもしれない煩悶と逡巡を示しながらも、強引で自分勝手な普段と裏腹な、彼女を思いやるアッシュの控えめな、平身低頭の物腰が功を奏したか、それとも、寛大な聖女は期待に気前よく応えてやるためか、乗り気しない両脚を、おずおずと開け拡げると、紅の豆粒は再び、指の来襲に即座に見舞われた挙句、情け容赦ない集中攻撃に苛まれることとなった。
おお、こうなってしまってはもう、救いようもなく延々と湧き上がってくる、淫らな声を抑えることなど、到底できやしない!
「あん、だめぇ・・・♡♡!ん、もう、アッシュ・・・♡♡!あ、だめっ、~~~あん・・・♡♡!」
再開した喜びにもだえ苦しむネルは涙目で、止めることなど決してできやしないにもかかわらず、何を意味したいのか、幸福に逆らうつもりなど一切ない彼女が、一応抵抗した印であり、また、恥じらいを示す素振りとして、甘い痺れに力の抜けた手を、大いなる目的のために励む手の上へ、またしても力なくよろよろと被せた。
「~~だめじゃない、ネル・・・!頼むから、どうかお願いだから、もっと聞かせてくれ・・・!もっと浴びるように、可愛いお前が俺の指でたくさん感じる甘い声が、俺は死ぬほど聞きたいんだ。飽きることなど絶対にない。美しいお前が呼ぶ俺の名前を何度でも、俺は命の続くまで、永遠に耳にしていたいんだ・・・!」
「~~ああっ・・・♡♡!アッシュ・・・♡♡!~~アッシュ・・・っ♡♡!」
「~~ああ、ネル・・・!命よりも大切な、俺の素晴らしいネル・・・!お前がいれば、俺はもう何もいらない・・・!お前は、俺が生きる全て!愛しいお前なしでは、無力の俺は到底生きられまい・・・!」
「~~・・・アッシュ・・・♡♡!ゆびが・・・♡♡!んッ、~~熱い・・・っ♡♡!」
ああそうだ、無上の幸福を噛みしめながらも、同時におかしくなりそうな聖女の全く言う通り、すぐにでも起爆しそうなスイッチを弄繰り回す指は、火傷しそうに熱いだけでなく、樹液や花の蜜のように、自然と漏れ出た蜜液で、とろとろに濡れていて、そしてそれは、極めてやんごとない音を生み出す弦を弾く、指の滑りを実によくして、楽譜にしばしば見られる符号や文字、例えば、「滑らかにのびやかに」とか、「歌うように」、「だんだん強く」、「とても弱く」ならぬ、「乱れるように」まで、深みと奥行きのある、甚だ重厚で甘美な演奏を、ほとんど完璧にするから、この素晴らしい愛の楽器を弾くアッシュは、正に演奏者であり、ネルという竪琴から奏でられる、それこそ天国か楽園だけでしか聞けない、全くもって甘い豊かな調べに、夢見心地のアッシュはうっとりと酔いしれた。
「~~おお、ネル・・・!間違いない、俺も狂ってしまいそうに熱いんだ・・・!俺はお前が、どうしようもないくらい好きなんだ・・・!~~俺は――、俺の指に夢中なお前も、淫らな雨で土砂降りのここも――、可愛いお前の全部が死ぬほど愛おしいんだ・・・!だからもう一度だって、絶対に離してやるもんか・・・!」
いやはや全く、激しい炎のような彼はどうしてこうも、狂おしいほど嬉しいときめきに、しょっちゅうキュンキュンと収縮する、聖女の幼気な心臓へ、とても情熱的な愛の槍で、いたわりなくぶすぶすと突き刺してくる、いや、突き刺してこられるのだろうか?
「あん、アッシュ、だめ・・・♡♡!だめなの・・・♡♡!~~もう、アッシュ・・・♡♡!」
言葉と指の攻撃は、あまりの激しさと熱心さで、無防備で弱輩な彼女を大胆にも、征服、鎮圧しようと絶えず仕掛けてくるため、これ以上の乱暴な追撃、果ては、無許可の一方的な自我のはく奪について、恐れを大いになしたネルは、脚の引き戸をずらすことによって、門を意図的に閉めるという、愛の偉大で崇高なる儀式を、いみじくも遂行せんアッシュからすれば、途方もなく許しがたい狼藉を働いた。
「~~こら、ネル・・・!全く、大したいたずらっ子だ・・・!」
ついに、穏やかで優しい、それでいて同時に、辛抱強い堪忍袋の緒が切れたアッシュは、荒い苛立ちを露わにすると、逃げられないよう、胸の丸いふくらみや、腹部のくびれに回していた太い手腕を、今度は無理やり扉をこじ開ける(「きゃ・・・!」)のに使って、とうとう脚の戸は、閉じることの決してないよう、開け放たれたまま、強健な前腕と上腕によってがっちりと挟まれ、それはもうしっかりと固定されてしまった。
「ああ、アッシュ・・・♡♡!そんな、~~いや・・・ぁっ♡♡ゆびが・・・、ン・・・♡♡!~~~ッッ・・・(気持ちいい・・・♡♡!)」
自然と仰け反り、時折発作のような震動を起こす身も、けたたましい爆竹と共に、感謝と歓喜の祭りを盛大に営む心もとろけてしまうような、半端ない気持ちのよさゆえ、どうしようもなくぷるぷると小刻みに震える手は、弦をかき鳴らすかのように、指を旺盛に乱れ動かす、何のうっとうしい障壁もなくなった手の上へ、ぱっと見、縋るように載ってはいたけれども、実際のところ、それがただの虚しいお飾りに過ぎなかった現実は、その意志や力の全く感じられない、手の軽さを知っていた抜かりないアッシュだけが、きちんと分かっていた。
「ああ、もうだめ・・・♡♡!許して、~~お願い・・・♡♡!お願い、アッシュ・・・♡♡!」
おお、幸福と愛しさ、悦楽の極みであって、すこぶる甘美なるそれ――耐え難い苦しみという名の、果てしない喜びの果てでもある、遥かなる高みの頂へ登り詰めること、あるいは、何物にも代えがたい重要な自我の崩壊、すなわち、誉ある常人たらしめる理性を失くした、世にも恐ろしい無我の境地(悟りとしての境地は除いて)へと、強引に押しやられること、はたまた、これでもかと荒々しく踏みつける彼が、救いのない彼女のすべてを制圧すること――が近いことは、発汗と高熱に包まれた全身が、痺れたようにしきりと震え、しっとりと滑らかな、きらめく光沢を備えた、クリーム色の絹糸のような髪を振り乱して、堪らず訴えるネルも、ほとばしる水源地へ当てた指は言うまでもなく、粘り気のある、温かい潤沢な恥蜜が滝のように滔々と流れ、彼の広い手のひらをも、びしょびしょに濡らした現実を覚えるアッシュも、第三者の誰からしても、疑いようもないくらい、明らかな周知の事実だった。
「~~ああ、ネル・・・!お願いしたいのはこっちだ・・・!どうしてお前はこうまで可愛らしいんだ・・・!いいか、そんな素晴らしいお前が、本当に俺のものであって、俺の腕の中に現実いるだけで、お前に夢中な俺の胸をいっぱいに満たす、お前には決して図り切れない至上の幸福が、お前に恋した哀れな俺を、一も二もなく殺そうとするのに、欲の留まるところを知らない、とんでもない強欲で悪魔のお前は、俺の指で乱れるだけでは飽き足らず、しまいには到達することで、お前への愛に狂った俺の息の根を、更なる喜びで、確実に止めようとしているんだろう・・・!」
言いがかりも甚だ等しい、愛の文句を熱っぽくつける、アッシュの指先によって生み出された、狂気、陶酔、忘却、興奮、幸福、愛といった軍勢が雪崩のように、聖女の険しい山城に設けた、ごくちっぽけな自我の要塞を取り巻き、雄たけびを上げながら、激しく攻め立て、陥落せしめようと、正気という旗のはためく、小さな砦を執拗に目指していたが、そうした彼らの努力が報われる瞬間が、とうとうやって来たようで、嵐の前の静けさを機敏に感じたネルは、まもなく訪れるだろう、並々ならぬ甘美な恐怖に恐れおののいた。
「あん、アッシュ♡♡!~~アッシュ・・・♡♡!もうだめ、いい・・・♡♡!気持ち、いい・・・っ♡♡!」
「おお、ネル!その言葉が聞きたかったんだ・・・!そう言うお前が悦べば、俺も嬉しい。愛しいお前を幸せにすることが、俺の絶対の幸せなんだ。だから、頼むから、どうかお願いだから、その流れに逆らってくれるな、ネル・・・!大丈夫だ、俺が付いている。いいか、たとえもし快楽が、お前を真っ白に塗りつぶしたとしても、俺がちゃんとお前を受け止めて、支えてやるから・・・!いいな、ネル、お前を心の底から愛しているんだ・・・!」
「だめ、アッシュ♡♡!あん、アッシュ♡♡!だめ♡♡!もうイク、アッシュ♡♡!ああ、だめ、イっちゃう・・・♡♡!!―――~~~ッッ・・・♡♡!!」
寸前、ほんの束の間、空いた片手が、細い縦じまの入った、淡い黄色の寝椅子をちぎらんばかりに、力強く握りしめた次の瞬間、直下した愛の大きな地震が、身体のあちこちで震動すると同時に、それはひどい竜巻が、圧倒される聖女の内側で、どこからともなくいきなり巻き起こったかと思うと、最後の砦として、頑なに守り続けてきた彼女の理性を、あっという間に吹き飛ばした上、そして、そのために要塞は、せめぎ合いに負け、奔流のようにどっと押し寄せる忘我によって占拠されたものの、かろうじて奇跡的に、悠々とはためく旗まではなぎ倒されておらず、それはちょうど、絶望したわがままな子どもが、希望のかなわない悲しみや苦しみに、火が点いたように、わあわあと声を上げて泣いていても、頭や心の中は、不思議と現実を冷静に見つめているように、あるいは、失い難い価値ある何かを喪失した大人が、完全なる狂人や廃人へ落ちぶれず、やがては惨めな不幸から立ち上がるように、いつまでも無我に浸りきらない、酸いも甘いもする現実に立ち向かう分だけ必要な、粘り強い意志や精神が最低限、人間には秘められている、どうしようもない、全くの無力ではない事実が、露見した。
とはいえども、たった一瞬間だけでも、自分を失う恐怖はネルにとって甚大で、深刻な不安であり、いわゆる寝首を搔かれるとか、予期せぬ落とし穴にはまる、恐怖と驚きが混在したスリリングな体験に似ており、だがしかし幸運なことに、これは冷や汗をかく類のものでないどころか、すこぶる甘い電流となった快感が、身体の隅々まで行き渡る、病みつきになりそうな、唯一無二の素晴らしい感覚だったから、恐ろしい冷たい忘我はたちまち、温かい幸福に取って代わり、快い余韻に痺れる彼女を、たっぷりの歓喜や恍惚でじんわりと満たした。
離散させられた理性は大いに混迷しているようで、再び結集するのに手間取る傍ら、そうした空白の時間をも惜しむアッシュは、未だ吐息の荒い、頭のぼうっと働かないネルを、優しくゆっくりと、寝椅子の座面へ横たえさせると、一体全体何を考え付いたのか、寝椅子のこげ茶の縁にだらりと掛けていた、灰白色の自分のクラヴァットを手に取り、たどり着いた、何もない無我のまっさらな境地から、自分が存在している現世への、長い帰路へ着いている聖女の、力ない両腕を上げた後、交差した手首の下あたりで、きっちりと結んだが、それに気づく余裕がなかったネルは、失われた自我を取り戻すだけで、いっぱいいっぱいだった。
一見、それは貴重な、彼の比類ない女神を縛った光景は、磔の刑に処された、とある救世主を偲ばせる、冒涜的で、不敬な絵面のように映りはしたものの、信者の彼がこの上なく崇拝する女神を、より幸せにする、重大な大義の前では、惜しむべき手段や犠牲は、一つだってありはしないだろう他方で、途方もない心酔に潤んだ、半開きの翡翠色の瞳で、うっとりと宙を捉える愛らしい顔は、白く冷たい雪の積もった、清涼な雪山の山腹で広がる、碧い湖の綺麗な風景を想起させ、彼の素晴らしいミューズは、風景画はもちろん、どんな美人の肖像画だろうが、悲劇におけるヒロインの、美しくも儚いワンシーンを切り取った絵や、裸婦画のような、古今東西、ありとあらゆる時代の名画をはるかにしのぐほど、けた外れに美しく、温かみのあるサーモンピンクが、頬だけでなく全身にわたって、すべすべのミルク色の肌に絶妙に溶け込んでおり、言葉ではそれこそ言い表しようもないほど、何とも艶やかで、鮮やかな火照りがそこにあった。
ネルという至高の芸術の、この世のものとは到底思えない、あまりに神々しい美しさに、荒い興奮にしきりと乱れ打つ胸が、狂喜と幸福でこみあげるアッシュは、直ちに跪いて、彼の絶対的な愛と美の女神のため、謙虚で実直な祈りを捧げたい衝動に激しく駆られ、そして、尊い恋人が賜る惜しみない愛や、無数の喜びに対する捧げものとして、彼の柔らかい唇や熱い指先をもって、敬虔な祈りの代わりとした。
「ああ、ネル・・・!~~俺の大事な可愛いネル・・・!何てお前は美しい・・・!」
といった、恋人の情熱的なバリトンの呟きを耳に入れたネルは、やっとこさ戻ってきた実感と一緒に、じわっと血の滲むよう染まった、明るいバラ色のほっぺに当たる、甘いくすぐったい口づけを感じたが、はてさて、いつの間に上げたのだろうか、灰白色のクラヴァットで縛られた、二本の腕の自由が効かないことに、少々驚きつつも、優しく絶えず捺してくる唇の、柔く温かい感触の心地よさが、ぐんと上回るために、今はそっとしておいた。
「~~んっ・・・♡♡ア、アッシュ・・・♡♡」
亜麻色の睫毛の伸びた目蓋を自然と閉じ、こそばゆくも慈愛に富んだ可憐なキスを、深々と堪能するネルは、漏れ出る吐息交じりに言ったが、吐いた息が淫らなものであることを、彼女を心底愛する男に知られてやしないかと、未だ恥の意識が強い聖女は、それだけが気懸かりだったが、そのような女神に対する、真摯な祈りとしての、気持ちの十分にこもった口づけは、次に首を伝い、下へ下へと、ゆるゆると流れるように、拘束されたネルの身体の上を、下り落ちていった。
「~~んん・・・♡♡!あん、~~アッシュ・・・♡♡!」
ところが、淡紅色の唇が胸の蕾を捉えた時、訳の分からない熱い興奮に震える聖女は、好き勝手に動くこともできず、やはり縛られることは割に合わない、不公平な所業だと、ちょっとした不満を感じたが、幸か不幸か没頭するアッシュは、接吻に大分熱中しているが故、もう少し、その制限された状態のままでいることに決めた。
おお、へそ周りのキスは非常にくすぐったいから、象牙とひよこ色の、細い縦じま模様が入った寝椅子の上で身もだえるネルは、右左と、プラチナブロンドの頭を、じれったそうにしょっちゅう振り、それと同時に、鮮やかなサーモンピンクの浮かんだ、乳白色の内股から下の脚たちは、しきりと擦り合わせる膝頭を筆頭に、つま先を含めてもじもじそわそわと、一向に落ち着かない様子だった。
ああ、一度冷めつつあった熱が、またしてもぶり返し、とろ火でじっくりと炙るかのように、焼き網という名の寝椅子の上で寝転がる彼女を、問答無用でじわじわと温めていくので、ふしだらな女だと思われたくない主人の言うことを、全く聞かない熱い身体が、理性を完全に取り戻したネルは、何となく恨めしかった。
「あん、アッシュ・・・♡♡!もういやぁ・・・っ♡♡!」
決して欠かすことのできない、崇高な愛の儀式の事前準備に、積極的に取り組んでいたアッシュは、まだ(!)恥じらう女神の嘆願を耳にしたが、それにもかかわらずはじめから、言葉を本気にしていなかった彼は、うそぶくネルを小狡い知能犯と決め込み、今ではもう、つむじ曲がりの聖女は、大変な歓喜の証として、実際に思っていることと、反対の台詞を口にするのだと、分かりすぎているくらい、よく分かっていたから、当然聞き流し、そして彼は、目も留まらぬ速さで、淡い黄色の、金モールの房飾りが両端についた、俵型のクッションピローを素早く掴むと、腰と寝椅子の間へさっさと差し込んでから、閉じていた脚を力でこじ開け、寝椅子の濃い茶色の縁へ渡し、服と全くもって同じように掛けると、それこそ肝をつぶしかねないほど、とんでもない衝撃と羞恥が襲うネルを、大いに驚かせた。
おお神様!甚だ向こう見ずで、それでいて極めて恥知らずの彼は、一体なんて大それたことをするのだろう!
「いや・・・っ♡♡!!やめてっ、~~見ないでぇ・・・っ♡♡!!」
と、ひどい恥辱に涙目のネルは、必死のソプラノを張り上げて言ったものの、事実脚は、まじまじと見る観察や、灰色の目の保養のために開かれたのではなく、今度は指先ではなく、彼の淡紅色の唇や赤い舌でもって、彼の並外れた女神に対する、清い崇拝の心と、狂おしいほどの愛を示すため、屈みこむアッシュは、とても端正な顔を、脚と脚の谷間へ深々と埋めた。
「え、何・・・っ!?―――きゃあッ・・・♡♡!!」
瞬間、すこぶる魂消たネルは、自分の歓喜に粟立つ身に当初起こったことを、全く疑わずにはいられなかったが、それというのも、さっきまで、指が直に当たっていたところへ、今では何だかぬめぬめした、生暖かい何かが、蠢く生き物のようについて離れず、おまけに、自由の利かない身体の、どうしようもない熱に滲み始めた、汗の垂れ流れる、無防備な胸の蕾の上にも、指がきちんと覆い被され、しかもそれに加えて、ピンク色の蕾は、縒ろうが、ねじろうが、引っ張ろうが、どうしたってとれるはずがないのに、ギュッときつく摘ままれ、そして瞬く間に、快感の大竜巻が、息を大いにのむ聖女の内側で、一本といわず二本三本と、ごく自然に、甚く突発的に生まれ、またしても、懲りない野蛮の暴風は、淫靡な地震に絶えず見舞われる彼女の中の、大切な理性の木をへし折ろうと、懸命に試みるので、それに翻弄どころか圧倒されかねないネルは、手負いの獣みたく暴れに暴れる、とてつもない快楽の、暴虐で大暴れの渦巻きに対して、かろうじて正気を保つだけで、とても精いっぱいだった。
「ああ・・・ッ♡♡!!やだぁ、~~アッシュ・・・♡♡!!もう、いやぁ・・・ッ♡♡!!」
いやはや全くのことながら、単に縛るだけでも、実に許されない重大事件であるにもかかわらず、どうして彼は、耐えられない究極の恥ずかしさゆえ、死んでもおかしくない彼女を、こんな目に遭わせることが、めったやたらとできるのだろうか?
一体彼女が何をしたというのだろうか?
ええい、もし後でクラヴァットを解いた彼が、仮に手をついて謝ったとしても、尊厳をずたずたに傷つけられた彼女は、彼を許すことはおろか、大目になど絶対に見てやるものか!それどころか、名誉棄損で訴えてやる!!
「あん、だめ・・・♡♡!!いや・・・っ、~~解いて・・・ッ♡♡!!」
といったように、威勢のいい口だけは、反抗心に富んでいたが、実際のところ、本心では、他の男に縛られるのは、全くもってご免だったが、現実彼女のアッシュが縛ったならば、本望といっても大げさでないくらいの、非常な嬉しさが、はた目に恥ずかしがる聖女を、溢れんばかりにひたひたと満たしており、また、混沌と乱れた頭や身体の内側は、並大抵でない喜びの花火が次から次へと、盛んに打ち上げられ、そのあまりの目まぐるしさや、たっぷりと舞う火の粉、飛び散る火花にキラキラと煌めく、大層深い、きらびやかな幸福にまばゆいネルは、怒りの感情さえものまれてしまったことに、幸か不幸か、気が付くことができなかった。
「――♡♡!!」
ああなんていう事だ、大変驚くべきことに、鮮やかな青緑色の双眼を、至極不都合な事実のために剥いた、彼女のアッシュが吐く、吐息の熱さまで感じ取れたネルは、それこそ吸い付いたり、しゃぶったり、啜ったりまで、まるで彼女を食しているかのように響く、ひどく淫らな口唇音さえも聞き取ることができ、全然信じられない聖女は息をのみ、二つの翡翠玉をおたおたと泳がしつつ、極まる羞恥で、すこぶるどうにかなってしまいそうだった。
「あん・・・♡♡!!~~アッシュ・・・ッ♡♡!もう、アッシュ・・・♡♡!~~~・・・♡♡!!もう・・・だめ・・・ぇ♡♡!」
前兆はしんと怖いくらいに静まり返って、後に続く、凄まじい破壊に満ちた津波の前触れを、情け容赦なく告げてくるため、切羽詰まったネルは、もし今こそ、クラヴァットで縛られた両の手腕を、実際に使う事さえできたら、是が非でも彼女は、甘美な津波の震源地ともいえる男の、黒い滑らかな頭髪を、有無を言わさず引き剥がし、高熱に苛まれた全身が、どうしようもなくぶるぶる震える、可哀そうな彼女の全てを、きれいさっぱりと洗い流してしまう、実に恐ろしい津波を、みすみす被らなくて済むだろう理想を、心の底から強く切望した。
だがしかし、その時は間髪入れずにやってきて、足元を急にすくわれたネルは、薄い氷の上を歩いていて、そして、突然氷が踏み割れたかと思うと、あっと驚く彼女は、次の瞬間には、深い冷たい海の中へドボンと落ち、右も左も分からない、見通しの利かない暗さに、自分を完全に見失った錯覚に陥りつつも、それと同時に、びりびりと痺れるような、それは鮮烈な、素晴らしい快感の閃光が、未曽有の大激震と共に、沸騰した血がもの凄いスピードで駆け巡る熱い身体を、縦横無尽、東奔西走にひた走り、しばらくは、不平を絶えず訴えていたあの口も、段々と弱まり、じわじわと収まり、惜しくもしまいには必ず去り行く、どうしようもなく我を一瞬忘れてしまうほど、甚だ甘美な地震と、愛の稲光が残し、植え付けた、無上の感動ゆえ、ろくすっぽきけないながらも、彼女の中でどこからともなく芽生えた狂喜と恍惚、幸福が、自身の喪失という不安に苛まれた聖女を急速に包み込み、はち切れてしまいそうなほど十分に満たしたので、小刻みに震える唇は実際、優美な天女のような微笑みを浮かべたとしても、ちっとも不思議ではなかったくらい、ネルはとても、とても充実していた。
津波は前回のものと負けず劣らず、すこぶる強力ではあったが、縛った両腕の自由が効かなかったためか、敏感な感覚は、更に研ぎ澄まされたらしく、ぐったりと疲れたネルは、持久走を走った直後らしく、ゼイゼイと乱れに乱れた息が、収まる気配の一向に感じられない、甘い痺れと同様に、なかなかすぐにはつけなかったから、その上、瞬く力すら残っているかどうか、普段は冷静沈着であっても、たちまち火が点いた途端、激しく燃え盛る炎のような熱情でもって、まず望まない彼女の心を暴いた上に、盗もうとする、全く相反する炎と氷であって、あるいは、口に放り込んだ瞬間はヒヤッと冷たいが、次第に快い甘さが顔を出す、氷砂糖のような、驚きや不可解を湛えた、アッシュの思うところは言うまでもなく、彼の実際の次の行動について、ぼんやりとかすむ頭を使って考えるゆとりなど、あろうはずがなかったし、事実様々な感情で昂る彼も、珍しく余裕の気持ちが欠けていたのか、格別それについて、何も伝えはしなかったので、彼女の青りんごのぼやけた薄目に入れているようで、実は入れていなかった、愛の偉大で崇高な儀式のみに使う、特別な道具が実際用いられている現実に、それを迎える用意や、心の準備を整える暇も機会も、何も与えられなかったネルは、生まれて初めて他人を呪った。
一方、目ざとい魔人のアッシュは、突き立てられた愛の大剣を、やや遅れて覚えた聖女の、たじろぎや驚嘆、圧倒、無断の決行に対する怒り、羞恥が微妙に入り混じった表情を、ほんの一秒たりとも逃しはしなかったから、愛する人を本当に征服しているのだという、極まる興奮と歓喜の雨あられが、熾烈な弾丸のように、大事な女神への絶え間ない感謝と、大いなる感激に見舞われた彼の上に、ざあざあと降り注いだが、現実彼の中でめらめらと燃え上がる、誇りある雄としての、原始的な本能の火を消すまでは、惜しくもかなわず、火傷する熱杭か、はたまた尊い愛の拷問器具を、それは甘美な摩擦で悶え苦しむネルへ、奥深く依然とねじ込むアッシュは、その時、がむしゃらの彼の恋人が何を考え、また思っているのか、不思議と無性に知りたくて、どうしようもなかった。
ネルの頭に一番最初に浮かんだことは、声の許す限り、叫び声を上げてはどうかという、突拍子もない考えだったが、事実それというのも、うぶな聖女を責め苛む三重苦――図書室で事に及んでいるはしたなさ、彼女の希望していない、緊縛という名の不名誉、アッシュを迎える心の準備も用意も、はてさて、重要な決心も何もないまま、夢と現の間を彷徨っている最中に加え、まだ甘い痺れや余韻が、陶酔の彼女から完全に抜けきっていない上での突入――に刺激された、死に物狂いの厳しい理性が、ずっしりと彼女に重たくのしかかっていたから、淫らをそう容易く認めるわけにはいかない理性は、ふしだらに負けてはいない現実を示すため、最高に素晴らしい感覚に狼狽える聖女へ、そうするようせっついたが、活発な心臓は、あまりの喜びに、狂ったように踊り跳ね、万が一、アッシュが残念至極にも、鍔まで丸ごと刀身を、突き立てることを諦めてしまっては、それこそ動くことを、一緒に断念しただろうし、そしてそれに伴って、循環の機能しなくなった血液は、徐々に冷め、流れも滞って、生き生きとサーモンピンクに明るく輝く、乳白色の温かい肌を、氷のように冷たく、暗い侘しい色調にくすませるだろうし、あるいは、しきりと揺れ動く、焦点のなかなか定まらない碧い瞳は、狂おしいほどの嬉しさに、眩しいほど煌めいていたし、また、開いた唇から吐く、感銘の熱いため息は、すこぶる甘い息吹となって、蒸発するかのように、震えながら、深々と漏れ出たので、変貌とも、不意の出現ともとれる、全く不可思議な彼に対する、尽きることのない魅力や好意を、本能的に感じ、それから、妖艶なそれについて、多大な幸福で溺れそうなネルは図らずも、考えずにはいられなかった。
生きているそれは、彼の持ち物であって、しなやかな隙間へ食い込む彼が、更に奥深く進もうと志すにつれて、耳にするこちらが参ってしまうほど、実に悩ましいため息が、本能的な欲求をはるかに上回る、彼のとても素晴らしい女神を、どれだけ信者の彼が、熱心に恋い慕っているかを、実践的に明示できる、際限のない幸せに苦悩するアッシュから、それは艶やかにつかれるため、ほとんど隠れて見えない見た目は、実際の持ち主と月と鼈らしく、至って似ていないが、それは紛れもなく、彼の健康的な化身であって、遥か悠久の古から、一途に祈願すべき貴重な神体でもあったから、彼の麗しい手足同様、彼の一部であるそれについて、興味を持たないことはおろか、愛でないことは、罰当たりにも等しい行為かもしれない、そして、見事なそれをそうならしめたのも、他ならぬ彼女が鍵といっても、過言ではないかもしれないと、恥ずかしくも狂おしい何かで、胸のこみあげたネルは思った。
ああ、ついに愛の祭りが――、それは崇高で偉大な祝祭がとうとう始まり、彼は大いに楽しんでもらうため、彼の尊い唯一無二のミューズへ奉納する、舞を披露するから、剣と共に彼が情熱的に踊ると、幸運にも、彼の慈悲深い女神はとても気に入り、今までに聴いたことのない大歓声を上げて、それこそ気が触れたばかりに喜ぶものだから、有り余る光栄に痺れるアッシュは、今にも破れてしまいそうな胸を、甚く突き動かされた。
「ああ、ネル・・・!・・・信じられないくらい、お前は美しい・・・!・・・俺は、狂おしいほどお前が好きだ・・・!・・・おお、ネル・・・!・・・俺は今、とてつもなく幸福だ・・・!・・・素晴らしいお前は俺に愛され、俺はお前に愛されている・・・!・・・一つになった俺たちは、愛し合う喜びを分かち合っている・・・!」
無我夢中の踊りは、値打ちある実に素敵な女神との、極めて目覚ましい一体感を生み出し、ひいては、その情熱的な乱舞が、踊り狂う魔人をトランス状態にさせて、だがしかしながら、それにもかかわらず、それでもやっぱり、激しく舞う踊り手の中で、無きにしも非ずの肉欲や快感は、事実ついで、おまけであり、それというのも、仮に彼の銀色の目に入れたとしても、全く痛くも痒くもないほど、すこぶる愛おしいネルへ、そんな彼を、同じくらい深く愛するよう求めるというよりも、現実彼が抱く、貴重な聖女に対する大きな愛を、言葉で伝えて表現することに加えて、実際に、その惜しみない恋慕を体現できるという、並外れた幸せであり、究極の愛情表現が、一心不乱に踊るアッシュを、非常に幸福にしていた。
あまりに度が過ぎる快楽は、それに溺れかねないほど、深々と浴する人間から、言葉や話すことはおろか、頭を使って考えることすら強引に取り上げるのだと、喘ぐ声すら全然上がらないネルは、恨みのような感情と一緒に、頭のおかしい者が喋るみたく、ちっとも訳の分からない、要点をつかない、取り留めのない、不明瞭でみっともない台詞を発しないよう、惜しみなく贈られた愛で、痛いほど甘く痺れる身体で、圧倒されている彼女を、これでもかと愛するアッシュを必死に受け止めながら、正常の表面ぎりぎりで踏ん張っていたが、実際表面は、至って薄い膜とか脆い紙に他ならず、その上、幸か不幸か、限界はとっくの昔に超えていて、そしてそれは、理性の薄膜や破れやすい紙を、すでにビリビリに突き破っていたから、悲しみでは決してない熱い涙が、天を呆然と仰ぐ二つの翡翠石から溢れ、眦を伝って、こめかみをのろのろと零れ落ちていた。
一体彼女はどこへ運ばれようとしているのだろう。
幸か不幸か、機能を完全に停止してしまった頭で考えることは、亡くなった人が墓から抜け出るのと同じように、それこそ到底無理な話ではあったものの、そこへ確実に近づくネルは、もらい受けるべき天啓か何かのように、次のような印象をおぼろげに受けた、というか自然と思い浮かべた。
それは神々しい光に満ち満ちた、湖のような、とある美しい場所にいる彼と彼女は、一艘の手漕ぎボートに乗っていて、そしてどういう訳だか、相応しくない彼女は、漕ぐ任務を課せられはしなくて、したがって、櫂を手にしたアッシュだけが、向こう岸という名の桃源郷か、はたまた、理想郷とも思われる、沖に浮かぶ小島を目指して、二人が乗る舟を懸命に漕ぐ―――。
そんな熱心な漕ぎ手であると同時に、愛の覇者でもあったアッシュは、情熱的な愛の気持ちを注ぐばかりか、彼の大切なネルを、これ以上ないくらい幸せにする以上に、彼の崇高な女神を隅々まで征服し、彼という旗印を、ありとあらゆる所へ突き立て、愛しい彼女を心身ともに支配する大望を、心から望んでいたが、しかし、この期に及んでもなお、一癖もふた癖も、それこそ幾つもの顔を持ち合わせている、至極可憐な聖女は、大人しくされるがままではなく、実際あまりに素晴らしい変貌を遂げていて、そして、灰色の熱っぽい双眸でそれを捉えたアッシュは、本当にそのようなことが起こりうるのか、一時の気の迷いではなかったかと、銀色の目や、励む自分をも一瞬疑ったが、それというのも、それはちょうど、地味なさなぎが、実に見目麗しい蝶へと、鮮やかに生まれ変わるように、はじめから美しくありながらも、全く別な、何か神聖なものへと昇華したミューズは、彼が望む、望まないにかかわらず、全くもって否応なしに、彼の眼や心を奪うだけでは飽き足らず、ひたすら魅了するので、一途な踊り手、または漕ぎ手であり、愛の独裁者、それから、ひたむきな彫刻家でもあったアッシュは、まさしくネルの虜で、集中する彼は彼のガラテアを彫っている、とんでもなく素晴らしい現実に、気が付かないではいられなかった。
鏡かガラスのようなつるりとした水面は、漕ぐ櫂と進む舟によって壊れ、あるいは割れ、ざぶざぶと立つ小波と、ゆらゆらと揺れ動く波紋を後に残しながら、漕ぐ手を依然と休まないアッシュと、ネルを乗せた小舟は、労力に値する理想郷や桃源郷らしき向こう岸、または離れ小島に大分、かつ着々と近づいており、そしてついに、もう間もなくといった地点で、とても強い追い風が唐突に吹いて、あっと驚く二人を、脇目も振らず一生懸命に目指していた岸へ、ものの一息で着かせると、まるで立派な楽園のようなそこは、今までに見たことのない、それは甘美で素敵な景色を、たどり着いた二人の瞳に、ほんのわずかな間、映らせることを気前よく許してくれたが、しかしながら、とはいえども、夢か幻でも見るばかりに、うっとりと見入る二人が、自然と次に瞬いた瞬間、美しい景色は次第に色あせ、実際何の変哲もない、ただの岸辺であったことを、だんだんと教えていった。
「完全な快楽こそ、真に完全無欠の幸福なり」――、どこぞのある哲学者が言いまとめた説が、全く証明されたかの如く、幸福以外の何物でもない、誠に深い感動が、噴泉のようにぼこぼこと湧き上がり、燦々と陽の光みたく降り注ぎ、愛し合った二人を骨の髄まで、これ以上ないくらい満たしていたから、実際には大いに困るだろうが、それこそたった今、世界が滅びて終わってしまってもいいくらい、比べ物にならない、圧倒的な幸せに包まれたアッシュとネルは、平穏、安らぎ、満足を心底覚えていた。
混じりけのない、真の純粋な愛に目覚めたかのように、アッシュはとても、とても敬虔な、謙虚で慎み深い気持ちになって、二本の手腕を縛り付けていた、灰白色のクラヴァットを解いてから、古代の遺物や名作のように、またとないほど、価値ある壊れ物のネルを慎重に抱き上げたら、忠実で忠誠な信心深い信者が、頭を恭しく垂れ、偉大な救世主に縋るように、まるで寛大な赦しや尊い慈悲を乞うように、絶対に離してはならない、代えがたい宝物であるかのように、しっかりと、しがみつくよう抱きついたために、真摯でひたむきな、一心に彼女の愛を求める実直な姿勢に、ときめく胸が強かに打たれたネルは、自分もそのように愛情深い彼を、女の母親が、男の息子を本能的かつ、盲目的に愛するように、自然と慈しまないではいられないような気がしてならなかった。
しかしながら、事実アッシュは、息子でも、弟でも、甥でも何でもない、単に彼女を熱烈に恋い慕う、一人の男の魔人であって、大胆不敵で挑発的、自信家、おまけに許しがたい(実際のところ、彼が手腕を勝手に縛ったことを、彼女はまだ許したわけではないのだ!)ほど自己中心でもあった彼は、炎と氷のような矛盾した魅力を備え、氷砂糖のように嬉しい驚きでもって、目まぐるしい彼女を一方的にかき乱す、どうしようもない甘い悩みの種であって、それでいて同時に、全くもって目が離せない、憎めない綺羅星であって、そんな眩しい素敵な輝きに惹かれたネルは、どうしても手に入れずにはいられなくなって―――。
「泣くほど善かったのか?」
象牙とひよこ色の、細い縦じま模様が入った寝椅子に座りながら、膝の上で抱きしめた聖女を見上げるアッシュは、じっと覗き込む、とてつもない幸せが滲んだ、灰色の明るい眼差しで、歓喜の涙で濡れた、彼女の上気した赤い頬や、とび色の睫毛をちゃっかり認めると、並々ならぬ狂喜と興奮でゆがんだ、淡紅色で横に長い唇の両端を上げて、半分冷やかすような、何とも狡い微笑みを浮かべて、すこぶる嬉しそうに言った後、気後れする素振りも全然なく、バラ色のほっぺに残った涙の痕を、拭うように大胆に舐めとると、そのまま彼女の唇へ情熱的に口づけたので、女の細やかな機微を解するどころか、ものともしない彼の厚顔無恥について、腰が抜けるほど甘い気分に浸るネルは、ぷんすかと考えて憤る暇もなく、瞬く間に忘れてしまった。
(・・・しょっぱ・・・い・・・♡♡)
軽くもつれた白金の頭のてっぺんから、踏ん張りの必要な坂道には適しているが、平坦な道を早く走るには向かない、小さい足のつま先まで、骨のない軟体動物みたいにぐにゃぐにゃと、正体不明の珍物らしくどろどろと、液状にとろけてしまうくらい、むさぼるように、積極的に交わすキスは、最高に甘い口当たりが変わらずしたとはいえども、流れ出た汗で失くした塩気が、ずば抜けて素晴らしいアッシュの次に欲しかったネルは、それこそ何時間でも、平気でしていられると思った。
同様に、お菓子のように甘い接吻が、夢中のネルと同じくらい、とても好きだったアッシュにとっても、涙のしょっぱい味は、甚だ味わい深いもので、このように甘じょっぱい、至って妙な口づけを、日が暮れるまでずっと続けるのは、強かに酔いしれる彼の意に介することは、全くもってなかったものの、そのように、かつてない喜びで満ち溢れた、極上のキスだけではなく、彼だけの魅惑的な、どうにも得難い聖女を、それこそ特別な彼女だけでしか、決して消すことのできない、それは厄介な火の点いた熱い全身で、浴びるほどたっぷりと感じたかった彼は、絶え間ない情熱的なキスの合間に、ちょこっと下を向いて、正確な位置を素早く測ると、ちょうど茎の付いた花を、細長い花瓶へ活けるように、そこに向かってゆっくりと、両手でネルの腰を意図的に落として、今度は彼女が自ずから、彼の愛の大剣に突き刺さっていくよう、勝手に取り計らった。
「・・・あ・・・ぁッ・・・♡♡・・・ん・・・ッッ・・・♡♡」
それは向き合ったまま座り込む、あまり上品とは言えない、ふしだらで、だらしない恰好だったために、直ちにぶり返した恥の炎に、すぐさまちりちりと焼かれたネルは、はしたない自分を、間髪入れず責めたいところだったが、幸か不幸か、とっくに厳しい理性はひびが入っていて、羞恥とか外聞といった意識は、そこからちょろちょろと漏れ出ていたので、賢い理性は、使い勝手の良くない、正におんぼろの使い古しらしく成り下がっていて、その代わりに、正気の逸脱した狂気や、何か訳の分からない、不確かで怪しいものが、いつの間に生まれたのか、彼女の中で空きつつあった、何物にも代えがたい気高い空間を、じわじわと陣取り始め、浸食していたから、尊くも儚い理性は、もうじき完全に明け渡されるだろう、屈辱にも等しい降伏を、全くひどい恥ずかしさと共に、ほとほと感じながら、甘美な快さと、痺れるような幸福で、またしても燃え上がった身体が、どうしようもなく震えるネルは、ふてぶてしい強奪犯の、灰色に光る熱情的な目と、青緑色の伏し目を控えめに合わせると、狂おしい熱情で疼く胸が、たまらなくドキドキしたが、同時に、必ずや胸の甘い高鳴りを、この意地悪で身勝手な、盗人猛々しい男に、知られてはならないと、ふと思った。
真実、この悪あがきにも等しい反発は、ほぼ無意味なものではあったが、とはいえども、それにもかかわらず、これは、喜ぶネル自身にとって意外な発見で、なぜならば、それというのも、ときめく彼女の心は、幸せな彼女が、あまりの幸福におぼれ死ぬほど、それは重要な彼女を深く愛する彼のものである事実は明白で、すでに分かり切っており、もはや疑う余地などありっこないくらい、鼻の先まで存分に突きつけられているにもかかわらず、それでもまだ、彼女の中の、意固地で天邪鬼の頑なな面が、そうでない、どちらかというと、全てにおいて、か弱いけども優しくて従順、柔和で温厚、本当に素直で扱いやすい女だと考えていた、またはみなしていた、それとも思い込んでいた、自分にもあった事実は、とても新鮮で、そして、そんな彼女自身も知らなかった未知の部分が、他の誰でもない魔人の男に発掘されたことが、随分と前に芽生えていた、素敵な彼に対する恋慕の情に、碧い目を向け始めていたネルは、何だか嬉しくもあった。
しかし、まだ愛の作業は済んでいないどころか、現在進行形の途中であり、よって、男の広い手のひらの載った腰は着実に落ち込み、鍔まで愛の大剣に深々と貫かれたネルの、クリーム色の眉は自動的にひそまり、上気した頬はポッと赤らみ、歓喜の涙が乾きつつあった、薄茶色の扇をパタパタとはためかせながら、忙しい目蓋は、閉じたり開けたりを交互に繰り返す、その隙間から、二つの鮮やかな翡翠玉が、悩ましい熱を帯びて、真向かいで、同じように気ぜわし気に揺れ動く、銀色の双眸をじっと見下ろした。
(~~ああ、畜生・・・!俺は今すぐ、この素晴らしく愛らしい女を滅茶苦茶にして、俺なしでは生きていけない、大変に可愛い生き物に作り替えてしまいたい・・・!)
感慨深いため息を深々とつきつつも、彼の淫らで綺麗なミューズから、灰色の目が全然離せないアッシュは、愛の素晴らしい重みをずっしりと受け、衝動や情動の本能に身を任せて、全く素晴らしい快楽をひたむきに追うことを、甚だよしとする、恥の概念や恥じ入る理由、あるいは、そうする必要が一切ない、自由奔放で溌剌な魔人の女たちのように、今度はネルが積極的に愛の舟を漕ぐことを、わくわくと胸が悦びに弾む傍ら、ほんの少しだけ期待していたが、やはり彼女の、これまでの恥ずかしがりようといったらそれはなく、実に、あの深窓の令嬢や、箱入り娘もしのぐほど奥手だったから、こういった直接的な愛の交わし方に、それほど聖女が慣れていないことは、図書室のやや埃っぽい大気を鼻から吸って、口から吐くだけで、居ても立っても居られない快感が、しみじみと身体中に行き渡る、そのふしだらで醜聞的な事実が信じられないことからくる、恥ずかしそうな顔つきや、狼狽えた青緑色の眼差しからも、容易に推察できたが、とはいえども、たとえそうだとしても、彼女も自分で漕げるのだと、最初彼は指摘することもやぶさかではなかったが、その半端ない楽しみは、後々取っておくことにしたアッシュは、寝椅子の背面にゆったりともたれ、太い筋肉質の両腕を、寄りかかった、美しい白濁した身体に巻き付けて固定すると、愛の激しい地震を、予断なく引き起こして、まさかと驚いたネルを、大いにびっくりさせた。
またしても船頭のアッシュと一緒に、二回目の愛の航行へ漕ぎだしたネルはもう、降りるどころか、舟に乗って、例の岸辺を目指す以外どうしようもなくなり、そして愛の刺激的な船旅は、退屈することなど決してあり得ないし、甘美なそこへ辿り着く道中も、陽気な陽射しはぽかぽかと温かいし、穏やかな風は清々しくて気持ちがいいし、周りの景色も美しく、実に新鮮で、興奮した胸がワクワクと弾む、すこぶる心地のよい体験で、要するに、唯一それに太刀打ちできた理性が崩れかかったネルの中で、純粋な快楽への甘い道のりは、とても気に入りの旅だった。
「~~あぁ・・・っ・・・♡♡!あん、アッシュ・・・♡♡!~~だめ・・・、待って・・・♡♡!」
ガクガクと弱り切った膝を、象牙とひよこ色の縦じまが入った座面へ付け、ぶるぶる震える手を、クルミ材のチョコレート色の縁へ、力なく掛けたネルは、淫らで熱い吐息を絶え絶えと吐きながら、おなじみの文句を口にした一方、恥ずかしいながらも、彼女にとってものすごく価値ある縦揺れが、またしても起こった喜びに深く酔いしれ、歪めた月色の眉毛の下で、薄茶色の縁飾りに縁どられた目蓋をピッタリと閉じ、愛の二回目の出航を存分に満喫した。
だがしかしながら、そうした聖女の言う待つことはおろか、漕ぎだしたが最後、愛の素晴らしい船出は、後戻りなどできるはずがないのだから、今回も舵を取るアッシュは、かの甘美で幻惑的な終着地を目指して、櫂を一心不乱に漕いだ。
「~~・・・ああ、ネル・・・!俺の大切な宝物、ネル・・・!愛しい女神のお前は、俺の全て!そんな素晴らしいお前と溶け合っている感動を、正確に表す言葉など、この世に決してありはしない・・・!おお、ネル!偉大な神が贈り給うた貴重なお前も、お前の甘くて柔らかい身体も、お前の清らかで崇高な魂も、丸ごとすべて愛している・・・!」
「ああ、アッシュ・・・♡♡!~~そんな・・・♡♡そんな・・・ッ♡♡!」
「ああ、ネル・・・!俺もお前を確かに感じている・・・!降り注ぐ太陽の光を全身で浴びるように、俺はお前の幸福をくまなく知っている・・・!おお、ネル・・・!どうしようもないくらい、愛している!可愛いお前が喜ぶと、俺はこれ以上ないくらい幸せだ・・・!好きだ、ネル!俺はただ、お前が狂おしいほど好きなんだ・・・!」
「ア、アッシュ・・・♡♡!~~アッシュ・・・♡♡!ああ、ん、もう・・・、~~だめ・・・♡♡・・・だめなの・・・ッ♡♡!」
「~~・・・ああ、ネル、素晴らしいあそこへ辿り着くことの、どこがいけないものか・・・!俺は何度でもあの、天国か楽園のような祝福の島へ、美しいお前と共に渡りたい・・・!おお、ネル・・・!どうやっても、お前は俺の目をごまかせやしない。なぜならば、俺は本当のお前を知っているからだ、ネル・・・!」
「アッシュ・・・♡♡お願い・・・♡♡!~~もう、お願いだから・・・、ああ・・・ッ♡♡いや、キちゃう・・・♡♡アッシュ・・・♡♡!許して・・・♡♡!」
(~~ああもう、俺はなんて可愛らしい生き物を、この両腕に抱いているのだろうか!行きたくてたまらない場所へ訪れないよう、天邪鬼の彼女は、この俺に、許しを必死に請うているのだ・・・!)
「だめ・・・♡♡あ、やだぁ・・・ッ♡♡!~~キちゃう、アッシュ、~~キちゃう・・・♡♡!!」
人見知りの激しい小さな娘が、頼もしく大きい父親の首へ縋るように、逞しい男の太い首に、成すすべなく縋りついたネルは、あまりの至福にすすり泣き、愛の素敵な航行が再び終わってしまう現実を、至極残念がるかのように見えた。
ようやくついに、愛の舞踊は激しさと熱を纏って、見る者を圧倒させるほどの気迫で、見事に踊り明かし、やがて後に残ったのは、すっきりとした爽快感と、甘い痺れを伴った快い疲れ、筆舌に尽くしがたい充実が、息を整える踊り手の中で、渦を巻いていたが、他方、そんな彼に、真摯な舞を熱心に捧げられたミューズは、昏倒にほど近い状態で、世の中にありとあらゆる悦楽と、この上ない陶酔の極みに深々と浸っており、見られる中で最も幸せな夢を見た感激から、歓喜の涙をぽたぽたと流し、やすやすと夢中の境地から抜け出せない、いや、なかなか抜け出そうとしなかった。
それは甘美な電気が、救いようのない身体中を、未だビリビリと、情け容赦なく走っているせいで、嘆かわしいくらい正直な肉体は、しょっちゅう痙攣を見せていたから、完全に痺れてしまった頭の中は言うまでもなく、そのどちらをとっても、正常な機能は全然望めやしなかったが、そうした二人の恋する実直な心は、すこぶる尊い愛の実感で一杯であり、ぱんぱんにはち切れんばかりだった。
一度バラバラに壊れてしまっては、修復はもとい、理性のかなめという名の、重要な自我の回復など、無用の長物であり、焼け石に水たる産物に過ぎず、自暴自棄ではないが、どうとでもなれらしく、新しい扉を開いてしまったネルは、きちんと理性的だった自分を惜しむことも、内気に恥じ入ることもなかったので、ただひたすらに、奉仕すべき女神も同然の彼女を途方もなく愛し、また、そうした彼女の愛を情熱的に求めたアッシュと旅した、甚だ甘ったるい寸前の記憶に、溺れんばかりに深く浴した。
それと同時に、今までに感じたことのない、比類ない特別な幸福を突然感じたネルは、すぐさま不意に、この大した幸せを取り上げることの絶対ないよう、偉大な神に祈ったばかりか、彼女の大事な恋人が何度となく言った、一人が喜べば、それは、嬉しいもう一人の、並外れた幸福でもある説が、全くの実感と一緒に、よくよく理解できた。
というのも、大層乱れた呼気をお互いに鎮めながら、抱き合っている魔人の著しい喜びを知っていたからこそ、同じようにたっぷりと満たされた聖女は、半端なく幸せだったからだ。
だからこそ、不思議と、だが自然と、このような欲求が彼女の中で生まれてきて、最も愛しい彼しか目に入らないネルは、そんな彼女を熱烈に恋い慕うアッシュを、甚だ幸せにすることこそを、優先的な第一の目的とし、大切な彼が望むなら、報いる彼女は、何でもする覚悟があったといっても、よっぽど過言ではなかっただろうし、愛の純粋無垢な教えに目覚めた聖女は、とてつもなく素晴らしい彼のために、心身を一途に捧げて生きようとさえ思った。
灰色の目と青緑色の目を合わせることでも、大きい手と小さい手を握りしめることでも、彼の名前を切なげに呼ぶことでも、愛らしい笑顔で微笑みかけることでも、優しい、あるいは固い抱擁でも、くちばしで啄む鳥のように軽いものから、息もろくにつけない激しいキスでも、火傷しそうに熱い、または、ゆるゆるとぬるいセックスでも、そうすることで、彼女だけの彼が幸せになれるのならば、何でも構わない、改めてアッシュに忠誠を誓ったネルは、大いに喜んでしただろう。
これほどまでに、彼女は自分以外の他人について、あれこれと考えたことがあったろうか?
間違いなく、ただ一人彼女だけのものだった心は、今では全部彼で占められており、簡単には分からない思惑や意図を始め、彼の一挙手一投足が気懸かりなネルは、彼女が彼を満喫したのと同じくらい、アッシュは彼女を十分満足できただろうかと考え、重大なそれを確かめるために、抑えの利かない情熱に駆られたネルは、何を思ったか、自分から口づけ、彼女の中で直前まで幅を利かしていた、あの恥じらいや、しつこいお淑やかさもどこ吹く風で、一匹の荒々しい雌の野獣のように、彼女が一番に愛する男の唇を、執拗に貪った。
これは、全くもって意表を突かれたアッシュにとって、意外な驚きであり、同時に非常に嬉しい発見でもあったが、それというのも、原始的な手漕ぎ労働の末、夢か幻のような理想郷、あるいは桃源郷の、あの甘美な岸辺へ、ようやっと辿り着く快感よりも、はるかに大きく上回る幸福が、目まぐるしい彼を席巻し、無数の泡となった狂喜はくすぐったくも、実に気持ちのいい、大変素晴らしい感触がしたからで、ゆえに、最高の喜びと、幸せな高揚に弾む胸の高鳴りを覚えたアッシュは、最も深い感動に包まれた。
相も変わらず、ひどい恥ずかしがり屋の聖女は、二回も迎えた彼を好きだとか、切実に求めているといった愛の熱心な言葉は、はにかむ口に依然と出さなかったけれども、彼がそんな彼女に対して感じているのと全く同じように、彼をどうしようもないくらい愛している気持ちは、一向に止む気配のない熱情的なキスを通して、彼の身に突き刺さって痛いほど、ひしひしと伝わってきて、すると、並々ならぬ感銘のあまり、鳥肌の立ったアッシュは、いつもの大胆不敵な、向こう見ずの冒険心が湧き起こってきて、次こそは、彼への確かな愛の台詞を、必ずや、彼女のうぶな口から言わせてやると決めると、彼の中の意地悪で身勝手な面が、素直に頼む考えを、はじめから撤回させたため、至上の口づけを唐突にやめたアッシュは、半ば乱暴に、あっと驚くネルを、寝椅子のひじ掛けへうつ伏せに倒すと、またもや強引に、細い柳腰を持ち上げてから、雄の誉を雌の花瓶に堂々と生けた。
「~~ッ・・・あっ、く・・・♡♡!~~だめ、アッシュ・・・♡♡もう、~~おかしくなっちゃ・・・♡♡!」
「ああ、ネル・・・。とんでもなくふしだらなお前は、善すぎておかしくなるんだろう・・・?だからさすがの俺も、実はもう限界なんだ・・・。いいか、ネル。罪作りなお前が、あまりに可愛いものだから、俺はそんな愛しいお前を、滅茶苦茶にしてやらずにはいられないんだ・・・。だがな、俺だけのネル。お前が噓偽りない本心から、この俺を、心の底から愛していると言いさえすれば、加減してやらないこともないぞ・・・?」
「―――~~~♡♡!!」
おやおや、三回目の出立に及んで、疑いようのない、真実はっきりと愛されている確証が欲しい現実からすれば、どうやら彼はまだ、愛くるしい彼女が存分に足りていなかったらしい!
実際のところ、彼の求める、事実でもあった言葉を、甘い幸福に苛む彼女の口に、出して言いさえすれば、心と身体と、彼女のすべてを名実ともに手に入れたアッシュは、けた外れに幸せな王になることができ、それが、素晴らしい恋に仕える聖女の、一番の望みでもあったのだが、一体全体どういう訳だか、まだその時ではないと、彼女の中の第六感が、後ろ髪をしきりと引くから、愛し合う嬉しさに涙目のネルは、駄々をこねざるを得なかった。
「~~・・・やだ・・・ッ♡♡もっとキスして・・・♡♡!」
おお神様!確かに彼は危ない剣を所持していたが、なんてことはない、一見無力の聖女は、更に危険な拳銃を懐に隠し持ち、不意を突いて、彼の脈打つ心臓を見事に撃ち抜いたとは!
そして皮肉にも、これは信念のぶつかり合いであり、寛大な思いやりを見せたどちらかが、譲らねばならない状況で、したがって、彼女からの愛の告白を耳にすれば、多分に幸せになれるアッシュの接吻でもって、ネルは大変に幸福になることができ、実にややこしいが、どちらにせよ、結局二人とも喜ばない道はないのだから、大人の余裕で受け入れたアッシュは、わがままな恋人の要求を余すところなく、しっかりと充たしてやり、同時に、歓喜の雨あられに激しく打たれ、彼だけの聖女がますます愛おしく思えた。
甘美な愛の力強い律動と、すこぶる素敵な旅路がもう一度始まり、甘い震動でそれに応えるネルは、熱い吐息を懸命につきつつ、あまり見栄えの良くない姿勢が、とても刺激的で、野性味あふれる実態について、あやふやではあったものの、考えを色々と巡らさずにはいられなかった。
それというのも、現実これは――、これではまるで、動物の交尾みたいではないかという、どうにも振り切れない当初の印象が、ほんの少し悔やむ彼女について離れず、とはいえども、楽園を着々と目指すアッシュも彼女も、それこそ動物に変わりはなかったのだが、しかしながら、言語と火を操る人間の自分たちは、例外、特別、それから上等だという自負のような感覚があったから、余計に、そんな鈍い彼らと、本能的には同じではないかという、屈辱や恥辱にも似た、難しい複雑な思いが、繊細な聖女をやや苦しめていたものの、だがしかし、人と彼らが決定的に異なるのは、第一に、繁殖が主な目的の獣は、一定の時期に交わるのみであって、かけがえのない愛の意思疎通という、とてつもなく素晴らしい、人間同士における必然的な意味合いは、生憎持ち合わせていないのだから、実際それを楽しみ耽る以外、多感なネルが気にかける必要は、一切なかった。
(・・・どう、しよう・・・♡♡・・・すごく、気持ち・・・いい・・・♡♡)
男は彼女が一番好きで、もの凄く愛しているのだから、まさしく滅私奉公といわんばかり、そんな彼女が喜ぶとおりに全くするのだし、はたまたそれと同時に、甘い上ずった声をたくさん上げ、ひじ掛けにだらりと掛けた力ない両手を始め、可憐なプラチナブロンドに輝く頭頂部から、濃い茶色の床板に付けたつま先まで、火の赤々と点いた全身を、もぞもぞとやるせなく捩って、どうしようもない快感を、漏れ出る熱いため息交じりに、彼女がずっと訴える度、謙譲で慎ましい彼は、圧倒的な幸福な気持ちを、ほとほと感じないではいられないのだから、そうした一途で情熱的な恋慕に値するネルは、力強い崇拝者のアッシュによって何度でも運ばれ、おまけに、彼女の空っぽの頭の中で、眩しい閃光が絶え間なく明滅して―――。
同じくして、あの岸辺の華々しい光景が、またしても目先に開けてきた、すこぶる嬉しい現実を、ぶるりと震える全身で、機敏に感じ取りつつも、澄んだ灰色の眼差しをそこから背けるように、高貴な黒い扇で飾られた目蓋を、意図的に閉じたアッシュは、これ以上の落ち着きを失って、とても重大な聖女を壊してしまう恐れのないよう、艶かしい息を深く吸って吐くと、そんな彼の葛藤など露知らないネルへ、甘えるようにすり寄って、ちょっとした不満を漏らした。
「~~こら、ネル・・・。呆れるくらい自分本位なお前は、俺が好きだと言わずに、また一人で逃げるつもりなのか・・・?それとも、ひょっとしてお前が好きなのは、この俺の身体だけだと言うのか?悪魔のお前は、弄ぶだけ弄んどいて、俺の心は欲しくないと言うのか・・・?」
拗ねているとも聞こえる、甘い囁きのような、何よりも大切な恋人の、愚痴っぽいバリトンを、同時に放たれた、悩まし気な色香を濃厚に纏った吐息と一緒に、その真っ赤な血で染まった耳に入れたネルは、ドキドキと胸の高鳴りを、是が非でも感じないではいられなかった。
「~~・・・ッ、そんな・・・こと、ない・・・ッ♡♡・・・けど・・・!」
「――けど?」
「~~ッッ・・・♡♡・・・アッシュ・・・、キスして・・・ッ♡♡」
「やだね・・・。いい加減、どうしようもない意地っ張りのお前が、ああだこうだとはぐらかさずに、本当のところをきちんと言うまで、キスはお預けだ・・・。さあ、分かったなら、とっとと観念して、白状するんだ、ネル。さもなくば、俺はそんな憎たらしいいたずらっ子のお前を、一晩中でも無理に抱いて、俺の支えなくして、二度と立てなくなるようにしてやる・・・!」
と、はた目に突き放すアッシュは、凄味を利かせた言葉で、いじらしい恋人を脅すものの、ところがどっこい、事実冷たい恐怖ではなく、それは凄まじい狂喜で、有頂天のネルは正に、どうにかなってしまいそうだった。
「~~やだ・・・♡♡そんなのずるい・・・♡♡!お願いだから、意地悪言わないで・・・♡♡・・・許して、アッシュ・・・♡♡」
といったように、小柄で華奢な聖女は、潰されかねない彼の屈強な身体の下で、幸福の麗しい涙をたらたら流しながら、甘くか細い声で、懇切と頼み込むものだから、二つの意思をすかさず天秤にかけたアッシュは、グラグラと不安定に揺れた。
『生きるか死ぬか、それが問題だ』――、どこぞのある貴族が放った著名な台詞を、このアッシュの場合に置き換えるとするならば、「小生意気な聖女を許すか許さないか、それが問題だ」であり、だから、たとえもし仮に許して、弱みも等しい甘いところを見せれば、敗北のような負けや、口惜しい撤退を、負けず嫌いの彼はきっと感じるだろうし、反対に、厳しくひたすら突き詰めようとすれば、幻滅したネルは愛想を尽かすどころか、狭量な彼を嫌いかねない、何とも恐ろしい悪夢が実現してしまうかもしれない・・・!
よって、憤懣やる方ないアッシュは生まれて初めて、恋の好意的で新鮮な苛立ちと、むしゃくしゃした焦燥を、イライラと覚えて、すると、持て余した甘美な感情は、目に見えないパワーやエネルギーへと、瞬く間に彼の中で変わったので、幸か不幸か、立派な八つ当たりで、情熱的な愛の動力を、激しくぶつけられたネルは、ひどくびっくりすると同時に、かけられたラストスパートに後押しされて、おろおろと戸惑いつつも真っ直ぐに、脇目も振らず、あのいつもの祝福の岸辺へ、一目散に向かって行ったから、ごちゃごちゃと荒れ狂う頭の片隅で、どうやら彼は自分を許してくれたらしいと、甚く幸せな聖女はぽうっと判断した。
(~~おお、ネル・・・!ネル・・・!~~~ああ、ネル・・・!!)
「あん、アッシュ、イっちゃ・・・♡♡!~~ああだめ激しい・・・♡♡!いや、壊れちゃう・・・♡♡!アッシュ・・・♡♡!――ッもう、~~だめぇ・・・ッ♡♡」
誠に、尊い愛は偉大以外の何物でもなく、それは至って寛大にも、美しい翼の生えた二人が垣間見た、まばゆくも柔らかな光に満ち溢れた神の国、すなわち、とてつもなく素晴らしい黄金都市まで、飛ぶことを気前よく許してくれて、だがしかしながら、とはいえども、天使らの歓迎の刹那の後、浮世の人であった彼らは、別世界のそこから立ち去ることを、辛くも余儀なくされたが、しかしそれでもまだ、最高の感動の痺れるような余韻は、未だふわふわと、身体が軽くなった恋人たちから、まとわりついて離れず、それに加えて、そのまたとない絶景を目の当たりにできた、至福の印象は、夢と現実の狭間で、呆然と彷徨う二人の心身の奥深くに、それはもう深々と刻み込まれていたから、ありとあらゆる感覚の中で、唯一無二の極まった幸福だけが、とても素敵な旅の、実に心地よい疲れと、途方もない心酔にあえぐ、魔人と聖女を温かく包み込み、煌々と照らしていた。
最終的に、がっしりした双肩で、弾む息を整えるアッシュは、やがてこう切れ切れに語り掛けた。
「・・・ネル・・・。・・・これだけは・・・覚えておけ・・・。・・・俺の心は・・・お前だけのものだ・・・。・・・いいな、ネル・・・。・・・分かったなら、俺にキスしろ・・・」
求愛の熱い言葉を、頑なに吐こうとしない強情な唇は、全くもって甘美で強大な衝撃のために、小刻みにふるふると震えており、鮮やかなサーモンピンクの濃い火照りに色づいた頬や、白目の端が充血した眦に引かれた、大いなる歓喜の涙の痕が新しいネルは、今なおウルウルと潤んだ二つの翡翠石で、濡れた亜麻色の睫毛越しに、もう一つの唇を見てから、同じ真向かいの、煌めく銀色の瞳を覗き込み、そして、ふっくらと盛り上がった、綺麗なサンゴ色の唇を押し付けてきて、真心こめて誠実に答えると、それこそ半端ない感激のあまりアッシュは、ふらっと気が遠くなるような感じが、真実したけれども、まず抜かりない魔人の彼は、ちょうど狩りの絶好の機会を逃さない、貪欲な肉食獣のように、めったやたらと、まるで熟れた果実のように柔らかい聖女の唇に、無我夢中で貪りつくと、絶妙で幸せな口づけは、今までに味わったことのない、もの凄くまろやかな口当たりがしたから、おそらく彼女の心は、すでに彼だけのものであるに違いないと、ちゃっかり決めつけたアッシュは、すっかり安心できた。
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座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
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表紙画像:シルエットAC
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