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こちらの世界の紙は質が低い。
雪のように真白いものは、まずお目にかかれない。
というのも、紙づくりはかろうじて知れ渡っているものの、紙を漉く技術が未熟なためだ。
和紙ではないが、手漉きの紙を思い浮かべてもらえば話が早い。
厚みのある、ざらざらした紙は大体いつも茶色っぽい。
しかし、とはいえども、紙は立派な紙に変わらず、きちんとものが描ける。
ペンは何だっていい――。人物や背景が描き込めれば、Gペンや丸ペン、ミリペンがなくたって関係ない。(写実は劣るが)
聖堂や館内のあちこちにはめた、色とりどりのステンドグラスを始め、ガラス細工が得意の聖人族らは、何とも優美なガラスペンを作ってくれている。
おかげで、そちらの世界にいた頃と変わらず仕事がはかどるために、今日は幾つ目の夜を越しただろうか。
賢明なあなたならばもうお気づきであろうが、私の机の上や周りには、無数の紙が散らばっている――。茶けた拙い紙は、あなたには馴染みの薄い文字と、私が生み出した人物や風景がいっぱいに描き込まれ、私にとっては壮大なストーリーを展開している。
こうしてあなたに語り掛けている今も、私の指はインクを付けたペンを握り、ちゃちな原稿用紙に向かって夢中で漫画を描いている。
いや、夢中と言うにはあまりにも自分を買い被りすぎで、没頭していると言った方がより正しいだろう。
というのも、私はあなたたちの世界にいた時から、一度のめり込んでしまうと、周りや他のものが一切合切見えなくなってしまう、非常に迷惑な猪突盲進型で、そのせいで寝食を忘れることも少なくない、極端な性質を持っているからだ。
まあ、さすがに飲まず食わずと言う訳にもいかないから、ときたま蜜を吸う蝶みたいに栄養ドリンクをチューチュー吸って(片手で十秒チャージが懐かしい!)、陽の光もまともに浴びず、穴倉に棲む地底人みたいに、部屋の中で一心不乱に作画に心身を奪われているのが、私だ。
とはいえ、ここで一つ断っておきたいのだが、私は漫画を描くからといって、素晴らしい作品を仕上げる才能がある訳でも何でもなく、漫画に対する熱をいたずらに上げている、ただのオタクだ。
血は水よりも濃い――。だからそのせいで、私は目覚ましい転生を遂げたというのに、相変わらずダサい眼鏡が手放せない!
これは極めて遺憾なことで、見た目は、冴えなかった前世のものよりも気に入っているにもかかわらず、トンボみたいな傾いたレンズのせいでぶち壊しだ!
まあ、それを除けば、現世の自分は悪くない・・・どころか、実に愉快な人物だと思う。
それは何故かというと、私はゲーム、それもファンタジーゲームという、特殊な世界の住人に生まれることができたからだ!
私は熱心なゲーマーではないが、オタクの端くれとして、漫画をはじめとする、アニメやゲームの仮想空間、はたまた仮想世界はいつでも興味の中心だったし、今では珍しくも何ともない推しが存在する、それは尊い世界なのだと、見境のなかった私は、さながら信者のように崇め奉っていたものだ。
よって、オーソドックスなファンタジーゲーム中の聖人の一人として生まれついた私は、キミカと呼ばれ、人間の二倍も三倍も長生きする、興味深い第二の人生を送っている真っ最中という訳だ。
私はおそらくきっとゲームの中でも大多数である、ごく普通の一般人に生まれついても、さして文句はなかっただろうが、ゲームにおけるヒロインの聖女と同じ種族に生を受けたことは、運がよかったとしか言いようがない。
それは何と言ってももう、憧れのヒロインなのだから!
私がよっぽどのへそ曲がりでなければ、近づきにならない理由はなかった。
彼女はやっぱりゲームで見たのと寸分違わず、同じ女の私ですら見惚れてしまうくらい綺麗で、頭がよくて、性格がよくて、高潔で!
そんな彼女だからこそ、私は自分で描いた、決して上手いとは言えない趣味の漫画を見せる気になったのだった・・・。
はじめ彼女は、なにこれと、青りんご色の瞳をぱちくりしていたが、それも無理はない、漫画の内容は、彼女が生きてきたこちらの世界についてではなく、私が前に生きた世界の話、つまりあなたたちが暮らしている世界を扱っていたからだった。
しかしながら、とはいえども、好奇心旺盛な彼女の碧い目には全てが新鮮に映ったようで、彼女は側にいる私を熱心に引き寄せては、これは何、あれは誰と、ページを指さしながら私を質問攻めにした。
私が描いたへたくそな絵を上手だと言って褒めてくれたり、物語に興味を持ってくれて嬉しかったこともあって、私は軽い優越感に浸りながら、これは学校とか、それは会社、あれは車だとか、彼女は知らない私たちの世界について、色々と教えてあげた。
ゲームの世界では存在しないものを説明するたびに、彼女は青緑色の眼をそれはキラキラと光らせて、自動車に乗ってみたいだとか、遊園地や動物園へ遊びに行ってみたい、私と一緒に学校に通いたいなんて、とても可愛い笑顔で言うものだから、私はかえって悪いことをしたのではないかという気がした。
だから今では、彼女は私の作品の熱心かつ大切な読者だ。
やはり一人でも目を通してくれる者がいれば、自然と張り合いも生まれるもので、私は私も彼女も好きな恋愛ものを描いたりして、安心安全な聖域の内で平和に過ごしている。
実際そこまで懸命に働かなくとも、のんびりしていて顰蹙を買う事もないゲームの世界は、正に夢か楽園のようで、特に、穏やかで温厚な聖人族だけが暮らす空間は、時間がゆったりと流れていて、互いを必要以上に干渉することもない――だからもうネルとは何日も会っていない――ので、心置きなく自分のことに没入できる、天国のような場所だった。
そして、長々とあなたに向かって話しかけてはいるものの、その間私の指は一度たりとも止まらず、粗末な紙をアイスリンクに見立てて、線を延々と描き続けている。
ベタ、カケアミ、効果線、ホワイト・・・。
今ここで持てるだけの技術を使って、白くない紙の余白をストーリーで埋めていく。
髪の毛は一本一本流れるように軽い筆致で、口程に物を言う目は大きく、存在感たっぷりに、また、最後の仕上げとしてホワイトで輝きを入れるのも忘れずに。口元は大げさにならないようあっさりと控えめに、眉毛はなるべく表情を付けて。鼻もきちんと描いてのっぺらぼうを避ける、頭と身体のバランスを気を付ける!
「――よし、完成・・・!」
したがって一通り描き終えた私はペンを置き、出来上がったページに向かって言うと、疲れと達成の吐息を深くついた。
椅子に座ったまま伸びをすると、私はこの上なく野暮ったい眼鏡を外し、閉じた目蓋の上から両目を擦った。
「ぶはぁ~~~」
もう一度、頑張った私は疲労のため息を長々とつくと、机に突っ伏し、そのまま数分間微動だにせずいた。
(・・・うぅ~、なんか食べたいな・・・。でもその前に、続きをネルに読んでもらいたいな・・・)
(・・・糖分・・・糖分・・・誰かここまで運んできてくれ・・・)
(・・・あ、無理・・・。もう、寝る・・・)
あまりに長い間机に向かっていたために、強張った全身が緩み、目蓋が眠気に重たくなることを私は感じたが、目蓋はあえなくしっかり閉じて、私は眠りの底に落ちてしまった。
次の日(どうやら丸一昼夜眠ってしまったらしい!)、泥のような眠りから目覚めた私は、身体を預けていた机から起き上がると、ぼんやりした頭で何かを考えた。
(・・・?・・・そうだ、ネルに続きを読んでもらうんだった・・・!)
そういう訳で私は急いで眼鏡をかけると、どうしようもならない性分のために、机や床の上に散らばった原稿用紙をいそいそとかき集め、朝早いのも構わずに、一目散にネルの部屋へ向かった。
聖域は標高が高い所に位置しているから、朝の空気は冷たく、目が覚める。
ゆえに、朝の静けさと薄暗さに満ちた石灰岩の廊下は底冷え、私の足取りを余計に早くさせた。
東の果てから、その神妙な顔を覗かせる曙を何とも絶妙に透かす、色ガラスの窓の向こうでは、早起きのハトどもが糞だらけの小汚い鳩舎を抜け出し、英気を養うかのように羽ばたいている。
巻貝のように螺旋を描く階段を一つ、また一つと上り切り、ついにネルが寝起きする塔の最上階へ辿り着いた私は、部屋の扉を叩いた。
「ネル?起きてる?」
と、出来立てほやほやの漫画を抱えた私は呼びかけたが、いつもの優しいソプラノで返す返事も何も得られなかったので、木のドアをそうっと押し開けた。
「・・・ネル・・・?」
私は遠慮がちに部屋の中を覗き込んだが、屋根裏部屋か物置部屋のように小ぢんまりした部屋は、空のベッドと衣装だんす、書き物机以外もぬけの殻だった。
「・・・あれ・・・?」
事実、ここ数日自室にこもって漫画を描いていた私は、彼女と顔をつき合せるのは久しぶりだったものの、こんなに朝早くから、ネルはどこへ行ってしまったと言うのだろうか?
だがしかし、いないのでは仕方がなく、私は部屋の主がいない空間のあちこちに目を配りながら、少々がっくりした気分で部屋を後にした。
螺旋の冷たい階段をのろのろと遅い足で降りながら、私は最後に見たネルの喜んだ表情を思い返した。
その時も、彼女は私の稚拙な漫画を大いに楽しんで読んでくれて、続きが早く読みたいと、やけに興奮した面持ちで、私に向かって話していたっけ・・・。
当てが外れてとぼとぼと、自分の部屋に向かって歩く私の目の端で、朝のお勤め――、つまり、私たちがお祀りする女神さまへ、朝の祈りを捧げる長老のジィが、節くれだらけの馬鹿でかい杖を頼りに、聖堂へフラフラと歩いていく小さな姿が映り、ひょっとすると、彼ならばネルについて何か知っているかもしれないと思った私は、茶けた紙束を依然と抱え持ちながら、塔の外へ出た。
ジィの後を追うように、私は凝った装飾が施された聖堂の中へ入ると、そこはすでに、大人も子どもも、男女問わず聖人たちが幾人かいて、皆一様の白い衣服に身を包んで立ってはいるが、おしゃべりに花を咲かす者もいれば、静かに無言の祈りを捧げる者もいた。
聖堂は、私たちの象徴ともいえる女神様を讃える貴重な場所で、壁という壁には色とりどりのステンドグラスがはめられ、それらを通して射す光のために、中の聖堂のみならず、白い服装をした私たちを色鮮やかに染めた。
白亜の大理石を用いた彫刻は趣向を凝らし、今にも動き出しそうな精霊たちの彫像や、種族の模様をいたるところに散りばめ、聖域中の華やかな贅が、全てここに集まっていた。
霞たなびく高地に築いたともあって、聖域に流れる空気は清々しく、その空気を吸って生きている皆々は善良だ。
きっともしかしたら、ネルも朝の祈りを捧げに、彼らの中に紛れているのかもしれない。
思いついた私は希望を込めて、聖人たち一人一人の顔を改めて見渡したが、結局、その見覚えのある丸っこい愛らしい童顔は見られず、逸る気持ちだけが空回りした。
枯れ枝みたいに細くて小さいジィは、おかしいほど正反対の、それは健康で屈強な二人の男たち――実は二人は双子の兄弟で、リグとラグといった――と話をしていた。
彼らは近づく私に気が付くと、話を止めたので、私は持ち前の低姿勢で尋ねた。
「ジィ。もしかしたら、ネルがどこにいるか知らないかな」
すると三人は、私が問いかけた質問を聞くや否や、とてつもなく深い落胆を見せた後、「ネル・・・」と、例えようもない苦悩から絞り出すように呟いた。
この三人の陰っている暗い表情を除いて、朝の輝きに満ちた明るい顔つきばかりを眺めていた私は、慌てふためいた。
私は何か変なことでも訊いてしまったのだろうか?
いや、だがしかし、仲間の居場所を訊くのが、どうしておかしなことになるのだろうか。
「どうしたの?」
分からない私は再び尋ねた。
「キミカ。知らないはずはないだろう。ネルは魔人に連れ去られたのだぞ」
賢者らしく、木の杖を支えに立つジィが厳めしく答えた。リグとラグも精悍な顔を曇らせている。
当初、私はいかにも真面目な面持ちと、深刻な声音で、「え・・・!?」と答えたいところだったが、転生者の私は、ゲームのストーリーが初めから分かっていたから、さほど驚きはせず、ジィの答えに動揺したふりをしつつ、明るい期待を込めて言った。
「・・・そんな・・・。でも、勇者がもう助けに行ったんでしょう?」
しかしながら三人は聴くと、まるで絶望に追い打ちをかけられたかのように、暗い顔をますます落とし、落ち込んだ。
何故この人たちは、私の言う事をいちいち重く受け止めているのだろう。
何もそこまで凹まなくとも、ネルは魔人を討った勇者に救われ、間違いなく帰ってくるだろうに。
「・・・勇者様はな・・・諦めておしまいになったのだよ・・・」
白い眉毛に隠れた目と声色に、無念と残念を滲ませながら、ジィはところどころ抜けた歯を口惜しそうに噛みしめた。リグとラグも辛さに耐えかねている。
「諦めた?ジィ、どういう事?」
と、私が訊くと、ジィは眉毛に覆われたよぼよぼの眼差しを移し、女神様の立像の手の中に収められた清剣を見た。
あれあれ、剣がどうしてここにあるのだろう。
剣は本来であれば、数々の試練を潜り抜け、立派な真の勇者として認められたプレーヤーのみが持てる代物で、プレーヤーは清剣があって初めて、世界征服を企む恐ろしい魔人を倒すことができ、このファンタジー世界を平和に保つ、すなわちゲームクリアが望めるというのに、何故ここにあるのだろう?
瞬間、どうしてかは分からなかったが、嫌な予感が私の肌をゾクゾクと伝わってきて、私は心臓が不安に乱れ打つ音を聴いた。
「・・・ジィ・・・。まさか・・・」
「・・・そのまさかなのだよ、キミカ。勇者様は引退する・・・。勇者をおやめになるそうだ」
勇者をやめる!?
思いがけない答えに面食らった私はほぼ同時に、そんなことはあり得るのかと戸惑った。
「~~でも、そんな!だって、ジィ!ネルは!」
信じられない私が取り乱した様子で追及すると、ジィは傍らのリグとラグを厚い眉毛越しに見やってから、年寄りらしいかすれた声で言った。
「キミカ。お前の感ずるところは、何一つワシらと変わらないことはお前にもよく分かっているはずだ。大切な仲間を奪われた無念の気持ちと、魔人を討つだけの力がない不甲斐ない自分を呪いたくもなる・・・」
というふうに、白い顎髭を生やしたジィは、魔人に攫われたネルが戻ってこない現実を、遠回しに語った。
ネル!!
と、それはひどい衝撃を私が受けたために、私の手腕の束縛を解かれた漫画原稿が、バサバサと音を立てて足元の石床に落ち、散らばった。
嘘だ!
私は伝えられた事実を直ちに否定すると、それを裏付けることに必死になった。
そんなの、間違いであるに決まっている!私が知っているゲームの筋書きと違うではないか!聖女が助けられないなんて、あろうはずがない!この人たちは、私が漫画を描くオタクで、ずっと部屋に引きこもって何も知らずにいたものだから、だまし引っ掛けようとしているんだ!ネルが帰ってこないなんて、私は絶対に信じない!!
しかし、現実は私にとって無視できない壁となり、私の前に厳然と立ちはだかった。
何故勇ましい英雄らしく、悪敵を倒すと同時に聖女を救う勇者は、その華々しい目的を諦め、勇者をやめるなどと、ありそうもない突飛な決断をしたのだろうか。
彼はどうして、勝利と栄光への素晴らしい道を行かなくなったのだろうか。
真実、私はそうした彼の動機についてはどうでもよかったが、ネルを助けないことだけは、どうにも見過ごすことができなかった。
だって、もしゲームがこのままストーリー通りいけば、私は唯一無二の親友であり、自分の拙い漫画の読者でもあるネルを失うし、何より、おぞましい魔王にひれ伏す暗黒の世界に生きるなんて、他のみんな共々、まっぴらごめんだもの!
何が何でも、私は漫画の続きをネルに読んでもらいたかった。
私は彼女を喜ばし、驚かせたかった。
だから私は決めた。彼女を取り戻すことを。
私は床に散らばった紙を拾い上げ、無念と絶望に苦しんだジィたちに、しばらく旅に出ると伝えて、彼らの向こうで立つ、柔らかな微笑みを湛える女神様に向かって祈った。
私は静かに、熱心な祝福の祈りを捧げた。
旅は道連れ世は情けということわざに従い、一聖人でもあった私は外の世界――、つまり聖域の外に詳しい同行者であり、かつ案内人を求めた。
この雄大なファンタジー世界に生を受けて以来、まだ一度も聖域の外に出たことがなかった私にとって、彼または彼女は、なくてはならない存在だった。
何分、前世に引き続いて筋金のオタクときている私は、基本人見知りで引きこもりがちな聖人で、自ら未知で危険な外の世界へ飛び込んでいくのはもってのほか、自分の中の楽しい空想や、気心の知れた落ち着く空間とか、安心安全な穏やかな環境に浸かることが幸せであり、常であったために、魅惑的なゲームの世界へ転生したといえども、私はすっかり聖域だけで満足していた。
だがしかし、ここで問題が一つ持ち上がった。
今さらになって思い出したのだが、聖人たちはとある理由から、オタクの私と同じくらい外へ出たがらない、それは内向的な種族だった!
もちろん、とてつもなく長い一生のうちに、護られた聖域から外の世界へ、一回も出たことがない聖人は少なくなかったが、それはしょっちゅう出かけるという類のものではなかったし、他のみんなからは、物好きな変わった奴だと思われた。
したがって、私についてくるような聖人を探すのは、それこそ海に落ちた針を探すようなもので、とはいえども、悪い魔人に囚われ、命の危険にさらされている可哀そうなネルを考えれば、ためらっている時間はなく、無茶だと分かっていたにも拘わらず、私は生来の猪突猛進に身を任せて、地図と、さして多くもない知識を頼りに、出発した。
「キミカ」
濁った地味な緑茶色のマントを羽織った私は、私を呼ぶ声に呼び止められ、後ろを振り向いた。
トンボの眼鏡越しに見ると、節くれに膨らんだ、不格好な杖を持って立つジィを真ん中に、そっくりな顔立ちをした男前のリグとラグが、両脇に立っていた。
「行くならば、まず妖精を訪ねなさい。必ずやお前の力になってくれるだろう・・・。妖精たちは聖域の外れの泉にいる。そこまでは、リグとラグがお前を連れていく」
と、雪のように白くて重たい眉毛を、老いてはいるが、英知の光を宿した温かい目に乗せたジィは続け、左右に立ったリグとラグの、毛織の長靴を履いた足が、一歩前に踏み出た。
「・・・ありがとう、分かりました。行ってきます。心配しないでね」
頼るものが増えた安堵から微笑む私は、山羊のような顎ひげを伸ばした老人に向かって礼を言うと、逞しいリグとラグと一緒に、居館の出入り口を去っていった。
双子のリグとラグは、葦毛の馬を二頭と栗毛の馬を一頭、馬小屋からそれぞれ引き連れてくると、すでに私が乗る、御者席しかない馬車に括り付けたり、鞍を付けたりして、出立の準備に取りかかった。
そして、用意が整い、私の隣に跳び乗ったリグが言った。
「とばすぞ、キミカ。振り落とされないよう、しっかり掴まれ!」
ゆえに、私がまじか!としり込みした時はすでに遅く、馬車とラグの跨る栗毛の馬は、次の瞬間には地面を勢いよく駆け出していた。
はじめ白い石畳を蹴っていた頑丈な蹄は、樹木と下生えの生えた黒っぽい土を蹴り、程よく乾いた埃っぽい黄土の地面を蹴り上げ、後に土煙をもうもうと巻き起こし、小石を跳ね、脇目も振らず、聖域の外れに向かって、全力で疾駆した。
車輪が数え切れないほど回る、ガラガラと威勢のいい大きな音が鼓膜をつんざき、落ち着くことを決して許さない、絶え間ない揺れが私を襲い、荒れ狂ったスピードが私を投げ出そうとする中、無我夢中でしがみつく私は、とりとめのない恐怖の言葉を連呼した。
「うわっ!危ない!きゃっ!落ちる!あぁ~~~!!」
聖域が次第に遠ざかり、緑の草花がまばらに敷かれた大地の縁と、広大な青空の中に力強く静止する雲が、代わって近づいてきた。
このままの速度で行けば、また別の地上へ真っ逆さまに落ちることを知っていたリグとラグは、手綱を引き絞り、蹄の調子を緩めると、やがて朽ちた神殿のような建造物の前で停まった。
リグは、未だ目を回している私を馬車から降ろすと、言った。
「俺たちが行けるのはここまでだ。キミカ、幸運を祈る!」
ラグも栗毛の馬に乗ったまま、続けて言った。
「ああ。地上は妖しい魔物どもがうろついている、何かと物騒な世界だ。キミカ、用心しろよ」
そして、二人は言うだけ言って別れを告げると、回れ右をして、舞い上がる砂埃と共に、元来た道を駆け戻っていった。彼らの遠い先には、ほんの少し前まで過ごしていた、塔や煙突が突き出た居館の、白い家並がちんまりと見えた。
ファンタジーゲームをかじっていたおかげか、聖域を離れても不思議と平気だった私は、ところどころ欠けた大理石の太い柱が、真っ直ぐに刺さっていたり、地震や嵐や年月のために、斜めに傾いている神殿の奥に、キラキラとうっすら輝いている煌めきを見つけた。
神殿は朽ちても神殿らしく、欠けたり折れたりしている柱は、見事な彫刻が施され、木が周りに一本も生えていなかったために、砂を被った大理石の床が、枯れ葉や落ち葉で埋め尽くされていることもなかった。しかしその代わりに、風や、たまたま上を通りかかった鳥によって運ばれてきた草花が、石と石の間から茎を伸ばし、気持ちのいいそよ風に揺れていた。そんな彼らを目当てに、てんとう虫やアリ、蝶、蜂などの小さな昆虫が舞っていた。
崩れかかった柱以外に、羽を休める止まり木がないので、さえずりはおろか、羽ばたきもろくすっぽ聞こえない、独特な静寂に包まれた荘厳な神殿を進むと、眼の冴えるような紺碧色をした泉が浅く満ち、その上を色とりどりの妖精が、ひらひらと舞っていた。
ファンタジー世界に欠かせない妖精たち――、背中に背負った薄翅をはためかせ、蝶のように舞うその儚げな姿は、霊魂とか、鬼火のように淡く光っていて、まるで水面に浮かぶ蛍の灯りのような幻想的な景色に、感嘆する私は息をのんだ。
「アナタ、ダアレ?」
ふいに、鈴にも似た、涼やかで可愛らしい声が頭の斜め上から聞こえ、見上げた私は、淡い紫色に点灯する妖精を、でかいレンズ越しに見た。
「あっ、私は・・・!キミカといいます。・・・聖人族です」
人見知りで内気な私は、ただでさえ初対面の人物と話すのが苦手なのに、急に話しかけられてどぎまぎしたこともあって、自信なさげに言葉を捻り出した。
「フ~ン・・・。ドウシテココニイルノ?」
「あ、あの。あの私・・・。勇者に会いたくって・・・。勇者を知っていますか?」
「ユウシャ?・・・ウ~ン、キイタコトアルヨウナ、ナイヨウナ・・・」
「・・・」
「――ソウダ、ミンナニキイテアゲル!チョットマッテテネ」
よって、淡い紫に灯った妖精は思いつくと、泉の奥で舞っている仲間の妖精の方へ、ひらひらと飛んでいった。
澄み切った泉の手前で立ち尽くす私は、多数の妖精たちが、それぞれ蛍光色に光るのを見ていた。緑、黄、橙、青、赤、紫、ピンクの球体たちが、四枚の翅を動かして飛び交っている。もし私が子どもだったら、私は眺めに興奮して、大はしゃぎしただろうな、と思った。
やがてそうしていると、緑とピンクの妖精が二匹飛んできて、私の目線よりやや高い中空に浮かんだ。
「ユウシャニアイタイノッテ、アナタ?」
白みを帯びたピンク色の妖精が訊いた。声は紫の妖精と劣らず高く、泉のように澄んでいた。
「は、はい!・・・よろしくお願いします!」
焦った私はこう答えた。
「セイジンゾクノコネ、アナタ。・・・イイワ、オシエテアゲル。・・・アノネ、ジンハネ・・・、ホンノチョットジシンヲナクシテイルダケナノ。ダカラ、サジヲナゲタワケデモナンデモナイノ」
ん?
・・・自信を無くしている?・・・匙を投げた?
「ブーッ!ネエチャンタラモッタイブッテ!イイワケスンナヨ!サイショカラ、ユウシャハセイジョヲタスケルノヲアキラメタッテイエバイイダロ?」
ピンク色の妖精の隣で舞う、緑色に白熱した妖精が口を出した。声は紫とピンク色の妖精のものよりも低めで、姉弟らしくなれなれしく、歯に衣着せぬ物言いだった。
「アンタハダマッテナサイ、ケット!ナマイキイウンジャナイノ!」
怒るピンク色の妖精は上下に飛んで、自分よりも一回りだけ小さい妖精に向かって、ぴしゃりと言った。
それに対してケットも、小刻みに揺れて、応戦した。
「ナンダヨ、チョットナガクイキテルカラッテエラソウニ!ホントウノコトジャナイカ!ヘン、コノキドリヤ!」
「ナ、ナンデスッテェ~~~!?」
むかつきに、我を忘れる姉の妖精の飛び方が乱れた。
私はおろおろしながら、勇者はジンという名前の男で、やはり勇者を引退しているらしいことを確認した。
「・・・ッタク、モウ!・・・トコロデ、アナタノナマエハ?ワタシハエフィヨ」
エフィと呼ぶピンク色の妖精が、私に向かって言った。
「あ・・・、はい!私はキミカといいます」
「ソウ、キミカ。アノネ、ジンハトテモスグレタ、ホントウニリッパデユウカンナユウシャナノダケレド、ソノ、マジンガカナリテゴワクテ、ナンドイドンデモ、ナカナカタオレナイモノダカラ、イマハヤルキガドウシテモデテコナイノ・・・」
私はエフィの気遣った口ぶりから、彼女が、使命に挫折した勇者をまだ支援していることを学んだが、弟のケットは姉のオブラートを大胆に破った。
「ハヤイハナシガ、カナワナイクライ、マジンガベラボウニツヨイッテコト!」
「ケット!!」
「・・・でも、ネルはどうなるんですか。今までに、魔人のもとから帰ってこなかった聖女なんていなかったはずです」
「・・・」
「勇者が今どこにいるか、教えてくれませんか?」
「・・・ソレハモチロン・・・。オシエルクライワケハナイケド・・・」
「イイジャン、ネエチャン!アンナイシテヤレヨ!」
「!!・・・ソウ、・・・ソウネ・・・。イイワ、キミカ。イッショニイキマショウ」
「ありがとうございます!」
「アンタモツイテクンノヨ、ケット」
「エ゛。ナンデオレモ!?」
「アタリマエジャナイ、アンタガアンナイシテヤレッテイッタンデショ?ソレニ、フタリヨリモサンニンノホウガアンゼンデショ!」
二人?
「チェ~・・・」
と、私は以上のような二匹のやり取りを眺めていたが、まず先にエフィの姿が消えかけると同時に、大理石の床から人の両脚が生え、それは見る見るうちに胴体を成し、最終的に頭部までかたどって、全く摩訶不思議なことに、一人の人間の女が私の目の前に立った。
人体を持った彼女は、見る感じ、何の変哲もないただの人に変わりないのだが、輪郭がはっきりした実像というより、全体的に霞のように薄くぼやけて、透けて身体の向こうが見えないとも限らなかった。
淡いパールピンクの光を纏ったエフィは、中肉中背の健康的な女で、綺麗なブロンドの髪を腰まで伸ばし、姉御肌な性格を表す空色の眼はつり気味、八重歯がはみ出た微笑みは挑発的で、長く尖った耳を持った様はまるでエルフのよう・・・というより、エルフそのものだった。
旅に不慣れな私と違い、柔らかい生成りの麻のシャツの上に、目に優しい草色のチョッキを羽織ったエフィは、茶色のスパッツにブーツ、それから弓矢と、動きやすい服装をしていた。
次に、生半可なく驚く私の目に、ケットの容姿が徐々に浮かび上がった。
姉のエフィよりも頭一つ分出たケットは、若々しさにみなぎり、逞しい、血の気にあふれた青年で、強気でありながらも、思いやりのあるエフィと違って、彼の向こう見ずな緑色の眼差しは生き生きと輝き、率直で、悪戯めいていた。だがしかしながら、ひげの生えていないつるりと締まった口元は緩く笑み、親しみやすい雰囲気を醸し出していた。
短く刈った金髪は、豊かに実った小麦の収穫後を思わせ、鋭く尖った耳に通ったピアスの環が、泉に反射する日光を受けて、キラキラと煌めいていた。
淡い緑色のベールを纏う彼は、クリーム色のスパッツの上から、栗色の編み上げブーツを履き、なめし革の防具を肩から脇まで斜めに掛け、濃い深緑色のチュニックを着ていた。武器は今のところ、私の目につかなかった。
私は二人の魅力的なエルフを前にして、呆気にとられた。
聖域は、ロック・マッシュルームという、それはそれは硬いキノコの頂上に設けられていて、キノコの肢を削って作った階段以外に、はるか地上へ降りる方法はなかった。
しかも、キノコは生きているので、削られた箇所が時間の経過とともに元通り、肢に沿って作られた螺旋階段は、時折足を置く段も何もなくなっていて、そういう時は、肢に巻き付くつるを支えによじ降りたり、うち込められた杭にロープを渡して、ブランコみたいにぶらぶら前後に振って、先の階段へ飛び降りるというスリリングなことをしたりして、言葉では到底言い表せないような、実に大変な苦労の末に、私たちは、ロック・マッシュルームの根元へ辿り着くことができたのだった。
当たり前だが、たなびく雲海の中を降りていくほど、標高の高い聖域と異なり、キノコの生えた地上は湿っぽく、暖かかった。
「さて!」
聞き取りやすい人間の声で、手袋をはめた両手を腰に当て、長い長い階段をようやく降りたエフィが、息を入れ直した。
「私たちは足を持っていないから・・・乗合馬車をつかまえたいわね!」
「賛成。今の今まで必死に降りてきて、ちまちま歩くなんて御免こうむりたいね!」
弟のケットも、姉の意見に同調した。
だがしかしながら、そんなに都合よく、乗合馬車がここを通りかかってくれるのだろうかと、訝しむ私は考えたが、やはり思った通り、待てど暮らせど、馬車は一向にやってこないので、私たちはしぶしぶ、凹んだ穴に雨水が溜まった街道を、とぼとぼと歩いた。
やがて、両脇に森を備えた一本道を三十分も歩くと、幸いなことに、背後から、でこぼこ道に車が揺れる、ガタガタ鳴る不安定な音が聴こえたため、期待に胸を膨らませた私たちは後ろを振り向くと、一頭のロバに曳かせた小さな荷車を見た。
エルフの二人も私も、口には出さなかったけれども、(なぁーんだ)と、失意の現れを心の中で呟いたに違いなかった。
くすんだ鼠色のロバは疲れたのか、あるいは、道の真ん中で立っている私たちが邪魔なのか、そののろのろと重たい足取りを止めると、ピタリと梃子でも動かなくなった。
「あっ、おい!動けよ、こんにゃろー!」
木がささくれ、はた目に古くなった粗末な荷車には、これまた薄汚い一人の少年が乗っていて、怒る彼は木の枝で、止まるロバの背中を、何度もぴしゃんぴしゃんと叩き付けるが、痛くも痒くもないロバは、素知らぬ顔をしてその場に立っていた。
男の子は裸足で、みすぼらしく小汚い外見をしていた。
彼は清潔にするという概念がなかったためか、小さいひし形の顔や、剥き出しの手腕や足は泥や煤で汚れ、汚れた短い服はぼろぼろに擦り切れ、ところどころ穴が開いていた。かぶっている麦わら帽子もぼろぼろで、巣と勘違いした鳥に啄まれでもしたのか、大穴が開いた帽子は、その機能や意味を全然果たしていなかった。また、彼は大人の男が吸うたばこにでも憧れ、その真似をしているつもりか、ひょろりと細長い一本の藁茎を、生え変わりで抜けた透き歯の間で挟み、噛みつぶしていた。
要するに、みじめな乞食といっても差し支えないくらい、少年の見た目はすこぶる落ちぶれていた。
「何だ、お前たち!物取りか!?残念だったな、生憎俺は金目のものは何も持っちゃいないぜ!」
薄汚れた男の子は私たちに気が付くと、年の割にずいぶんと荒っぽい、乱暴な喋り方で吠えた。
「冗談でしょ?私たちのどこが物取りに見えるってのよ。それはそうとボク、どこから来たの?」
頼れるしっかり者のエフィが、犬歯がはみ出た口を開いた。
「ボク?てやんでぇ、バーローめ!この俺様を誰と心得る!?ケチャッピ村のボウイ様でぃ!!」
貧しい身なりとはかけ離れた、かなり尊大な態度で、ケチャッピ村のボウイと名乗る少年は、土に汚れたしし鼻をフンと鳴らした。
(・・・こいつムカつく・・・っ!全く誰かを思わせるわね・・・!)
エフィは顔の筋肉を引きつらせ、密かに考えた。
「ふ・・・ぷぷ・・・っ!・・・まあまあ・・・。それじゃあケチャッピ村のボウイくんは一人で、正確にはロバと一緒に、どこへ行くんだい?」
吹き出る笑いを懸命にこらえながら、ケットは少年に訊いた。
「おうよ、相棒!仕事が終わった俺は、これから村に帰るところだぜ!」
ボウイは藁茎を嚙みながら、子どもの声で元気に返した。
(相棒ですってぇ~!?)
自分と弟に対する扱いで、手のひらを返したボウイが、信じられないエフィは絶句した。
「それはお疲れ様。でも、ロバが止まってしまったね。どうするの?」
優越感に浸るケットは内心ほくそ笑みながら、尋ねた。
「・・・そうだなぁ・・・。いつもはこんなすぐにへばったりしないんだけどなぁ・・・。もしかしたら、積み荷が重たいのかもしれない」
と、ボウイはちょっと考え込んでから、素直に言った。尊敬や礼儀に値する人物にであれば、彼はまともな口も利けるようだった。
「積み荷?何を積んでいるんだい?」
ケットが続けて問うた。
「ロバのミルクだよ」
ボウイは後ろの荷台へ振り返って、ブリキでできた、自分の背丈ほどもある缶を見た。
「・・・へぇ・・・」
何を考えたのか、ケットは興味深そうにつぶやくと、こう持ちかけた。
「それじゃあ、ボウイくん。俺たち三人が、ミルクの入った缶を代わりに運んであげよう!」
((は!?))
すかさず、エフィと私は、ケットの突拍子もない申し出について耳を疑った。
しかし、棚からぼたもち、思いもかけない幸運に、ボウイは煤汚れた顔を明るく輝かし、言った。
「本当か!?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ねえ、ケット!」
エフィは聞き捨てならず、すぐさま弟と少年の間に割って入った。
「何だよ、姉ちゃん。どのみちもう日暮れだし、どこかで休まなきゃならないだろ?ちょうどいいじゃん、ケチャッピ村で済まそうよ」
この粗野な男の子、あるいはロバのミルクに近しいものを感じたのか、ケットは淡々と語った。
「~~だけど・・・!ねえ、キミカも言ってやってよ!」
されど、応援を求められた私は、困窮した。大体、オタクに意見を言わせるなんて、石像にものを言わせるのと同じくらい無謀な話ではないか?
「・・・私も、ケチャッピ村でいいと思います・・・」
確かに、このボウイとかいう小汚い少年は、鼻に付くところはあるが、日が暮れて、夜出歩くのは得策ではないと考えた私は、控えめに言った。
「キミカ!」
「よーし、決まり!ねえ、ボウイくん。後でロバのミルクを飲ませてくれるかい?」
「あたぼーよ、相棒!」
(・・・そんな・・・)
人知れず、エフィはただ一人、がっくりした。
自分たちのミルクが入った缶という重荷から解放されたロバは、はじめ肢に根が生えたように動かなかったのに、私たち三人が、缶を荷台から取り除いたとたん、鞭代わりの枝を食らった彼は、再び遅い足取りを始めた。
これは一体何の修業かと、エルフたちと一緒に、ミルク缶を担いで歩く私は喘いだ。
そんな労働の最中、困難の吐息をつきつつ目を横にやれば、憤懣やる方ない様子のエフィは、八重歯の光る口元を見事なへの字に曲げ、頭の中で、ぶつくさと文句を言っているようだった。対するケットは対照的に、鼻歌交じりに、たった今持ち運んでいる缶の中身について、あれこれと好ましい想像をしているようだった。私たちの前を行くボウイはすっかり気をよくして、口笛を上機嫌に吹いていた。
街道を十五分は進んだろうか、いかにもファンタジーらしい、素朴な村が目の前に次第に開けてきた。
まず目につくのは、小さな家々の前に立つ低い石垣――、それらは、レンガ積みのようにきちんと整然に積まれているのではなく、見るからに村民たちの手作業で、バラバラの大きさの石を適当に積んで、漆喰で固めただけの牧歌的なものだった。そしてその傍らには、ささやかな家庭菜園としての畑や花壇などが、ちんまりと置かれ、豆類や香草などを栽培していた。
家は四角い箱のような飾り気のない形で、漆喰を塗った白い土壁は埃や雨のために薄汚れ、黄ばみ、屋根は赤茶、黄土、真緑、限りなく黒に近い灰色など、地味な色調の瓦を不規則に葺いていた。窓も四角と簡素なもので、日没に際して、ろうそくや油に浸した灯芯に火を点け、灯りを取っていた。
ケチャッピ村の人々は貧しく、その日暮らしがやっとという風貌をしていた。誰も彼も、継ぎが当てられた使い古しの衣服をまとい、鶏とか豚といった家畜を飼い、畑仕事をするために、泥土に汚れていた。学問も勉強もままならない子供たちは、荒々しいボウイのように野生児じみ、上品や洗練のような、教養とは対極の位置にあったが、この上ない力強い生命力に満ち溢れ、この貧しくも田園的な世界を存分に謳歌していた。
そうした目を覆いたくなるような赤貧にもかかわらず、朗らかな彼らはとても気さくで、見知らぬ旅人の私たちを実に温かく、かつ友好的に迎えてくれた。
ボウイは集落で一番貧しい家の子で、傾き壊れかけた粗末な小屋の隣には、木板を被せて、雨露をしのぐだけの、甚だ原始的なロバのためのねぐらがあり、固めた土の上に藁が敷かれ、鍬や鋤などの農具は見当たらなかった。というのも、彼らはあまりに貧しいゆえ、自分たちの道具を持つことがかなわず、近所の人から農具を借りて、作業に当たっているのだった。
この気風のいい少年は、祖父のウディと飼いロバのデ・ニーロと、二人と一匹で暮らし、助け合いの精神が息づいている近所の者が、他の芳しい村落や町のように、私たちのようなさすらいの旅人を泊める宿屋がないため、ボウイたちだけで私たちをもてなすのは酷というもので、ぜひ、彼らの畑で採れた野菜やパンなどを食べてくれと、極めて情け深い親切をしてくれた。
そのような厚い好意の前で遠慮するとは不躾なもので、私たち(妖精のエフィとケット姉弟も、姿がエルフの時は、食べ物をとるようだった)はありがたくごちそうになり、念願のロバのミルクを飲んだケットは、生意気な緑色の目を丸くしたり、楽しそうに細くしたりしていた。
家具はおろか、ろくなテーブルも椅子もない拙い住まいは、外で疲れた腰を下ろしながら、藁をくちゃくちゃ噛むロバのデ・ニーロのねぐらと同じ、土を踏み固めただけの質素な土間があり、近くの森から拾ってきた、あるいは切り出した、木の切り株や太い幹の上に私たちは腰かけ、大きな石を支えに、節穴が開いた、年輪の目立つ木の一枚板を、テーブル代わりに置いていた。
単純な食事をとりながら、抜け目ないちゃっかり者のエフィは、年老いた人間のウディ爺さんと話をして、魔物たちの最近の動向や、勇者ジン、ボウイ、ウディ爺さんなどの、ケチャッピ村の人々を始め、彼ら普通の人間たち、それから単独行動の魔人族が住む、下界の情報を集めた。
大胆とも勇敢とも聞こえるが、実際は無茶で無謀、無様な向こう見ずという、むやみに突き進む以外の行動や、実行力の欠片もない引きこもりで、どうしようもないオタクの私は、この美しくも活動的で精力的なエルフを、斜めった野暮ったいレンズ越しに眩しく見つめながら、乗合馬車は村に寄るのかだとか、何か馬などの足は借りることができないのか、とか、そのどちらもないようであれば、どこに行けば足が付くのか、とか言うのを、頼もしく聴いていた。
ごま塩頭で、こんがりと日焼けした農夫のウディは、まさしくファンタジーゲームに出てくる温和な爺さんで、彼はエフィのような見目麗しい娘が熱心に話しかけてくるため、時折ホッホッと、嬉しそうに笑った。一度など、彼は感激のあまり、笑いをこらえることができなくて、ゲームのバグらしく、壊れた機械仕掛けのおもちゃのように、ホッホッと笑い続けた。
言うまでもないが、一人の男の子と、四人の大人が一堂に眠る場所なんて、このみすぼらしいおんぼろ小屋には、存在しなかった。
しかしながら、とはいえども、問題はあっけなく解決した。というのも、妖精のエフィとケットは、人型のエルフから、元のコンパクトな妖精へと、姿を変えて眠りに就けばよかったからだ。
さすがに彼ら一般人の目の前で変化しては、妖しい魔人や魔物の疑いをかけられた上、この孝行に手厚い、親切な村の人たちを無駄に怖がらせてしまうことは、必ずや避けるべきことで、一日を終えたボウイとウディが先に寝てしまってから、ピンクと緑のベールを纏ったエフィとケットの二人は、それぞれに、私の前で妖精の姿へと戻った。
むろん、煤や泥にまみれた家主と劣らず薄汚い小屋は、寝室なんていう贅沢な部屋はなく、土間より一段上がっただけの、羽目板が敷かれた堅い床の上に、藁を敷いて、ぼろぼろで汚い、薄っぺらな毛布を掛けただけの、ひどく簡素な寝床の中に、寝息を立てるボウイとウディは横になっていた。
私はそうした彼らの寝そべる床に腰かけ、ひもで縛ったウールのブーツを脱いだ。
すると、夜の暗がりの中、苦しそうなうめき声が、ボウイの寝ている所から聴こえ、びっくりした私は声のする方へ近づいた。
「う、う~ん・・・、う~ん・・・」
トンボの眼鏡越しに見ると、せまい額に脂汗を滲ませ、眉間にしわを寄せてうめきつつ、おなかを庇うように抱えたボウイを発見した。
またもや驚いた私は咄嗟に、小声でボウイに話しかけた。
「ボウイ、大丈夫?どこか悪いの?」
「う、うぅ~ん・・・」
しかし、痛がるボウイはまともに答えられず、痛みを我慢するかのように、ところどころ抜けた歯を食いしばりながら、おなかを庇う細い両の手腕に力を込めた。
もちろん、医者でも看護師でもない、凄まじい恐慌に駆られたただのオタクの私にも、可哀そうな彼が緊急を要するのは分かっていた。そして、(おお、偉大なる慈悲深き女神様!このみじめで哀れな少年を、のっぴきならない腹痛から救いたまえ!)なんて悠長に祈っている暇もないことも。
私の中の癒しの力は、ボウイから取り除くべき痛みを機敏に察知し、ためらう私を問答無用で駆り立てた。
能力を出し惜しみする理由がないどころか、進んで男の子を助けてやる必要があることを噛みしめながら、落ち着きを取り戻しつつあった私は、苦しむボウイに優しい小声をかけた。
「大丈夫、ボウイ。もう大丈夫だから、力を抜いて・・・、そう。偉いね」
二つの小さな手腕を退かし、ボウイのおなかに手のひらを当てた私は、神経を研ぎ澄まし、聖人族特有の力を揮った。
温かいオレンジ色の光が、私の手のひらからじんわりと漏れ出し、治癒能力を秘めた光彩は、ボウイのおなかの内部に働きかけ、痛みと苦しみの元凶を溶かし、治していった。
「・・・!」
やがて、辛そうに歪めていた表情が和らぎ、食いしばっていた口が緩み、眉間のしわが平らになったボウイは安息のため息をつき、目をゆっくりと開けた。
「・・・変なの・・・。さっきまでものすごく痛かったのに、全然痛くないや・・・」
まるで不可思議な夢を見ていたかのように、ほんの少し目覚めたボウイは、囁くように私に言った。
「・・・よかったね・・・。だけど、私が治したことは絶対に秘密だよ?誰にも言わないでね・・・」
微笑む私も囁き返した。
「うん・・・。約束する・・・」
ボウイは小声で言うと、小さな小指を掲げた。
そうして、指切りげんまんの誓いを立て終えると、耐え難い腹痛から回復したボウイは目蓋を閉じ、深い眠りの底へ再び落ちていった。
彼から一度途絶えた、安らかな寝息がもう一度立つのを聴いた私は、ホッと胸をなでおろし、向こうで寝ているウディ爺さんをそっと見た。
呑気な彼は、孫の切迫した事態に露ほども気が付かず、ガアガアとアヒルのような高いびきをかいて、熟睡していた。
私はまたしても安堵の吐息をホッとつき、羽織っていた緑茶色のマントと眼鏡を外してから、簡略な藁のベッドに横になった。
粗末な寝床に入って早々、体力を消耗した私は、どうにも抗えない眠気に、目蓋が自然と重たくなってくるのを感じた。
それというのも、私はもうすぐ眠ってしまう前に、あなたに伝えておきたいのだが――、私が転生した、ファンタジーゲームの中の聖人族は、不思議な力――人々はこれを魔法と呼ぶのだが――を、生まれながらにして持つ魔人族と同じように、万物を癒す治癒の力に、生まれつき恵まれている。
事実、痛みや傷を癒す程度は、聖人によって差こそあれど、癒しの力を発揮した聖人は、体力を消耗する。そしてそれは、ひどいけがや、治りにくい病気であればあるほど、治癒を施す聖人の体力が、たっぷりと消費される。(ちなみに、聖人は自分のけがや病気を、自分の力で治すことはできない。人間の二、三倍長く生きる彼らは、数自体少ないし、平和に暮らしているので、むごいけがもあまりしない)
聖人族はとある理由から、下界へ降りるのを敬遠していると私は言ったが、もし、この奇跡的な、医者いらずの能力を一度でも聞きつける者がいたならば、たちまち地上へ降りた聖人の周りに、人だかりができてしまうだろう!しかも、地上にある全ての苦しみを取り除けるほど、聖人たちの体力は、底なしの無尽蔵というわけではない。
ゆえに、痛みに敏感な下界へ降りた聖人族は、自然と人目を憚り、目立たない行動を余儀なくされる。
聖人は万物を癒すと言いはしたが、それはいくら何でも、死者を生き返らせることはできないし、治す範囲も聖人によってまちまちだ。それに、どれだけ高い治癒能力を持っていたとしても、力の持ち主の聖人が幼かったり、年老いていたりすれば、体力が十分でないために、かえって自身の身の危険に及んでしまう。
彼らや魔人と異なり、何の特殊能力も持たない人間から頼られ、褒め称えられ、感謝されることに対して、謙虚な聖人族は、自分たちの癒しの力について、光栄とか、栄誉や名誉を覚えないでもなかったが、実際その裏で潜む、嫉妬や畏怖の感情を取り除けるほど、彼らは万能ではなかった。
何にせよ同じ人として、他者の痛みや苦しみを溶かし、和らげ、役に立つことは、聖人族にとって、素直に嬉しいところではあったが、それと同時に、心無い人々から疎まれ、蔑まれるのに加えて、体力を大幅に消耗しては、それはあまりにも割に合わない考えだと、彼らは思った。
したがって、そういう込み入った事情により、治癒能力に恵まれた聖人たちは、普通の人間や、妖しい魔法を使う魔族たちの住まう地上を離れて、険しいロック・マッシュルームの傘の上で、平穏無事に暮らしているという訳だった。
肉の薄い目蓋はついに重たくのしかかり、私の視界を完全に遮ってしまった。
雪のように真白いものは、まずお目にかかれない。
というのも、紙づくりはかろうじて知れ渡っているものの、紙を漉く技術が未熟なためだ。
和紙ではないが、手漉きの紙を思い浮かべてもらえば話が早い。
厚みのある、ざらざらした紙は大体いつも茶色っぽい。
しかし、とはいえども、紙は立派な紙に変わらず、きちんとものが描ける。
ペンは何だっていい――。人物や背景が描き込めれば、Gペンや丸ペン、ミリペンがなくたって関係ない。(写実は劣るが)
聖堂や館内のあちこちにはめた、色とりどりのステンドグラスを始め、ガラス細工が得意の聖人族らは、何とも優美なガラスペンを作ってくれている。
おかげで、そちらの世界にいた頃と変わらず仕事がはかどるために、今日は幾つ目の夜を越しただろうか。
賢明なあなたならばもうお気づきであろうが、私の机の上や周りには、無数の紙が散らばっている――。茶けた拙い紙は、あなたには馴染みの薄い文字と、私が生み出した人物や風景がいっぱいに描き込まれ、私にとっては壮大なストーリーを展開している。
こうしてあなたに語り掛けている今も、私の指はインクを付けたペンを握り、ちゃちな原稿用紙に向かって夢中で漫画を描いている。
いや、夢中と言うにはあまりにも自分を買い被りすぎで、没頭していると言った方がより正しいだろう。
というのも、私はあなたたちの世界にいた時から、一度のめり込んでしまうと、周りや他のものが一切合切見えなくなってしまう、非常に迷惑な猪突盲進型で、そのせいで寝食を忘れることも少なくない、極端な性質を持っているからだ。
まあ、さすがに飲まず食わずと言う訳にもいかないから、ときたま蜜を吸う蝶みたいに栄養ドリンクをチューチュー吸って(片手で十秒チャージが懐かしい!)、陽の光もまともに浴びず、穴倉に棲む地底人みたいに、部屋の中で一心不乱に作画に心身を奪われているのが、私だ。
とはいえ、ここで一つ断っておきたいのだが、私は漫画を描くからといって、素晴らしい作品を仕上げる才能がある訳でも何でもなく、漫画に対する熱をいたずらに上げている、ただのオタクだ。
血は水よりも濃い――。だからそのせいで、私は目覚ましい転生を遂げたというのに、相変わらずダサい眼鏡が手放せない!
これは極めて遺憾なことで、見た目は、冴えなかった前世のものよりも気に入っているにもかかわらず、トンボみたいな傾いたレンズのせいでぶち壊しだ!
まあ、それを除けば、現世の自分は悪くない・・・どころか、実に愉快な人物だと思う。
それは何故かというと、私はゲーム、それもファンタジーゲームという、特殊な世界の住人に生まれることができたからだ!
私は熱心なゲーマーではないが、オタクの端くれとして、漫画をはじめとする、アニメやゲームの仮想空間、はたまた仮想世界はいつでも興味の中心だったし、今では珍しくも何ともない推しが存在する、それは尊い世界なのだと、見境のなかった私は、さながら信者のように崇め奉っていたものだ。
よって、オーソドックスなファンタジーゲーム中の聖人の一人として生まれついた私は、キミカと呼ばれ、人間の二倍も三倍も長生きする、興味深い第二の人生を送っている真っ最中という訳だ。
私はおそらくきっとゲームの中でも大多数である、ごく普通の一般人に生まれついても、さして文句はなかっただろうが、ゲームにおけるヒロインの聖女と同じ種族に生を受けたことは、運がよかったとしか言いようがない。
それは何と言ってももう、憧れのヒロインなのだから!
私がよっぽどのへそ曲がりでなければ、近づきにならない理由はなかった。
彼女はやっぱりゲームで見たのと寸分違わず、同じ女の私ですら見惚れてしまうくらい綺麗で、頭がよくて、性格がよくて、高潔で!
そんな彼女だからこそ、私は自分で描いた、決して上手いとは言えない趣味の漫画を見せる気になったのだった・・・。
はじめ彼女は、なにこれと、青りんご色の瞳をぱちくりしていたが、それも無理はない、漫画の内容は、彼女が生きてきたこちらの世界についてではなく、私が前に生きた世界の話、つまりあなたたちが暮らしている世界を扱っていたからだった。
しかしながら、とはいえども、好奇心旺盛な彼女の碧い目には全てが新鮮に映ったようで、彼女は側にいる私を熱心に引き寄せては、これは何、あれは誰と、ページを指さしながら私を質問攻めにした。
私が描いたへたくそな絵を上手だと言って褒めてくれたり、物語に興味を持ってくれて嬉しかったこともあって、私は軽い優越感に浸りながら、これは学校とか、それは会社、あれは車だとか、彼女は知らない私たちの世界について、色々と教えてあげた。
ゲームの世界では存在しないものを説明するたびに、彼女は青緑色の眼をそれはキラキラと光らせて、自動車に乗ってみたいだとか、遊園地や動物園へ遊びに行ってみたい、私と一緒に学校に通いたいなんて、とても可愛い笑顔で言うものだから、私はかえって悪いことをしたのではないかという気がした。
だから今では、彼女は私の作品の熱心かつ大切な読者だ。
やはり一人でも目を通してくれる者がいれば、自然と張り合いも生まれるもので、私は私も彼女も好きな恋愛ものを描いたりして、安心安全な聖域の内で平和に過ごしている。
実際そこまで懸命に働かなくとも、のんびりしていて顰蹙を買う事もないゲームの世界は、正に夢か楽園のようで、特に、穏やかで温厚な聖人族だけが暮らす空間は、時間がゆったりと流れていて、互いを必要以上に干渉することもない――だからもうネルとは何日も会っていない――ので、心置きなく自分のことに没入できる、天国のような場所だった。
そして、長々とあなたに向かって話しかけてはいるものの、その間私の指は一度たりとも止まらず、粗末な紙をアイスリンクに見立てて、線を延々と描き続けている。
ベタ、カケアミ、効果線、ホワイト・・・。
今ここで持てるだけの技術を使って、白くない紙の余白をストーリーで埋めていく。
髪の毛は一本一本流れるように軽い筆致で、口程に物を言う目は大きく、存在感たっぷりに、また、最後の仕上げとしてホワイトで輝きを入れるのも忘れずに。口元は大げさにならないようあっさりと控えめに、眉毛はなるべく表情を付けて。鼻もきちんと描いてのっぺらぼうを避ける、頭と身体のバランスを気を付ける!
「――よし、完成・・・!」
したがって一通り描き終えた私はペンを置き、出来上がったページに向かって言うと、疲れと達成の吐息を深くついた。
椅子に座ったまま伸びをすると、私はこの上なく野暮ったい眼鏡を外し、閉じた目蓋の上から両目を擦った。
「ぶはぁ~~~」
もう一度、頑張った私は疲労のため息を長々とつくと、机に突っ伏し、そのまま数分間微動だにせずいた。
(・・・うぅ~、なんか食べたいな・・・。でもその前に、続きをネルに読んでもらいたいな・・・)
(・・・糖分・・・糖分・・・誰かここまで運んできてくれ・・・)
(・・・あ、無理・・・。もう、寝る・・・)
あまりに長い間机に向かっていたために、強張った全身が緩み、目蓋が眠気に重たくなることを私は感じたが、目蓋はあえなくしっかり閉じて、私は眠りの底に落ちてしまった。
次の日(どうやら丸一昼夜眠ってしまったらしい!)、泥のような眠りから目覚めた私は、身体を預けていた机から起き上がると、ぼんやりした頭で何かを考えた。
(・・・?・・・そうだ、ネルに続きを読んでもらうんだった・・・!)
そういう訳で私は急いで眼鏡をかけると、どうしようもならない性分のために、机や床の上に散らばった原稿用紙をいそいそとかき集め、朝早いのも構わずに、一目散にネルの部屋へ向かった。
聖域は標高が高い所に位置しているから、朝の空気は冷たく、目が覚める。
ゆえに、朝の静けさと薄暗さに満ちた石灰岩の廊下は底冷え、私の足取りを余計に早くさせた。
東の果てから、その神妙な顔を覗かせる曙を何とも絶妙に透かす、色ガラスの窓の向こうでは、早起きのハトどもが糞だらけの小汚い鳩舎を抜け出し、英気を養うかのように羽ばたいている。
巻貝のように螺旋を描く階段を一つ、また一つと上り切り、ついにネルが寝起きする塔の最上階へ辿り着いた私は、部屋の扉を叩いた。
「ネル?起きてる?」
と、出来立てほやほやの漫画を抱えた私は呼びかけたが、いつもの優しいソプラノで返す返事も何も得られなかったので、木のドアをそうっと押し開けた。
「・・・ネル・・・?」
私は遠慮がちに部屋の中を覗き込んだが、屋根裏部屋か物置部屋のように小ぢんまりした部屋は、空のベッドと衣装だんす、書き物机以外もぬけの殻だった。
「・・・あれ・・・?」
事実、ここ数日自室にこもって漫画を描いていた私は、彼女と顔をつき合せるのは久しぶりだったものの、こんなに朝早くから、ネルはどこへ行ってしまったと言うのだろうか?
だがしかし、いないのでは仕方がなく、私は部屋の主がいない空間のあちこちに目を配りながら、少々がっくりした気分で部屋を後にした。
螺旋の冷たい階段をのろのろと遅い足で降りながら、私は最後に見たネルの喜んだ表情を思い返した。
その時も、彼女は私の稚拙な漫画を大いに楽しんで読んでくれて、続きが早く読みたいと、やけに興奮した面持ちで、私に向かって話していたっけ・・・。
当てが外れてとぼとぼと、自分の部屋に向かって歩く私の目の端で、朝のお勤め――、つまり、私たちがお祀りする女神さまへ、朝の祈りを捧げる長老のジィが、節くれだらけの馬鹿でかい杖を頼りに、聖堂へフラフラと歩いていく小さな姿が映り、ひょっとすると、彼ならばネルについて何か知っているかもしれないと思った私は、茶けた紙束を依然と抱え持ちながら、塔の外へ出た。
ジィの後を追うように、私は凝った装飾が施された聖堂の中へ入ると、そこはすでに、大人も子どもも、男女問わず聖人たちが幾人かいて、皆一様の白い衣服に身を包んで立ってはいるが、おしゃべりに花を咲かす者もいれば、静かに無言の祈りを捧げる者もいた。
聖堂は、私たちの象徴ともいえる女神様を讃える貴重な場所で、壁という壁には色とりどりのステンドグラスがはめられ、それらを通して射す光のために、中の聖堂のみならず、白い服装をした私たちを色鮮やかに染めた。
白亜の大理石を用いた彫刻は趣向を凝らし、今にも動き出しそうな精霊たちの彫像や、種族の模様をいたるところに散りばめ、聖域中の華やかな贅が、全てここに集まっていた。
霞たなびく高地に築いたともあって、聖域に流れる空気は清々しく、その空気を吸って生きている皆々は善良だ。
きっともしかしたら、ネルも朝の祈りを捧げに、彼らの中に紛れているのかもしれない。
思いついた私は希望を込めて、聖人たち一人一人の顔を改めて見渡したが、結局、その見覚えのある丸っこい愛らしい童顔は見られず、逸る気持ちだけが空回りした。
枯れ枝みたいに細くて小さいジィは、おかしいほど正反対の、それは健康で屈強な二人の男たち――実は二人は双子の兄弟で、リグとラグといった――と話をしていた。
彼らは近づく私に気が付くと、話を止めたので、私は持ち前の低姿勢で尋ねた。
「ジィ。もしかしたら、ネルがどこにいるか知らないかな」
すると三人は、私が問いかけた質問を聞くや否や、とてつもなく深い落胆を見せた後、「ネル・・・」と、例えようもない苦悩から絞り出すように呟いた。
この三人の陰っている暗い表情を除いて、朝の輝きに満ちた明るい顔つきばかりを眺めていた私は、慌てふためいた。
私は何か変なことでも訊いてしまったのだろうか?
いや、だがしかし、仲間の居場所を訊くのが、どうしておかしなことになるのだろうか。
「どうしたの?」
分からない私は再び尋ねた。
「キミカ。知らないはずはないだろう。ネルは魔人に連れ去られたのだぞ」
賢者らしく、木の杖を支えに立つジィが厳めしく答えた。リグとラグも精悍な顔を曇らせている。
当初、私はいかにも真面目な面持ちと、深刻な声音で、「え・・・!?」と答えたいところだったが、転生者の私は、ゲームのストーリーが初めから分かっていたから、さほど驚きはせず、ジィの答えに動揺したふりをしつつ、明るい期待を込めて言った。
「・・・そんな・・・。でも、勇者がもう助けに行ったんでしょう?」
しかしながら三人は聴くと、まるで絶望に追い打ちをかけられたかのように、暗い顔をますます落とし、落ち込んだ。
何故この人たちは、私の言う事をいちいち重く受け止めているのだろう。
何もそこまで凹まなくとも、ネルは魔人を討った勇者に救われ、間違いなく帰ってくるだろうに。
「・・・勇者様はな・・・諦めておしまいになったのだよ・・・」
白い眉毛に隠れた目と声色に、無念と残念を滲ませながら、ジィはところどころ抜けた歯を口惜しそうに噛みしめた。リグとラグも辛さに耐えかねている。
「諦めた?ジィ、どういう事?」
と、私が訊くと、ジィは眉毛に覆われたよぼよぼの眼差しを移し、女神様の立像の手の中に収められた清剣を見た。
あれあれ、剣がどうしてここにあるのだろう。
剣は本来であれば、数々の試練を潜り抜け、立派な真の勇者として認められたプレーヤーのみが持てる代物で、プレーヤーは清剣があって初めて、世界征服を企む恐ろしい魔人を倒すことができ、このファンタジー世界を平和に保つ、すなわちゲームクリアが望めるというのに、何故ここにあるのだろう?
瞬間、どうしてかは分からなかったが、嫌な予感が私の肌をゾクゾクと伝わってきて、私は心臓が不安に乱れ打つ音を聴いた。
「・・・ジィ・・・。まさか・・・」
「・・・そのまさかなのだよ、キミカ。勇者様は引退する・・・。勇者をおやめになるそうだ」
勇者をやめる!?
思いがけない答えに面食らった私はほぼ同時に、そんなことはあり得るのかと戸惑った。
「~~でも、そんな!だって、ジィ!ネルは!」
信じられない私が取り乱した様子で追及すると、ジィは傍らのリグとラグを厚い眉毛越しに見やってから、年寄りらしいかすれた声で言った。
「キミカ。お前の感ずるところは、何一つワシらと変わらないことはお前にもよく分かっているはずだ。大切な仲間を奪われた無念の気持ちと、魔人を討つだけの力がない不甲斐ない自分を呪いたくもなる・・・」
というふうに、白い顎髭を生やしたジィは、魔人に攫われたネルが戻ってこない現実を、遠回しに語った。
ネル!!
と、それはひどい衝撃を私が受けたために、私の手腕の束縛を解かれた漫画原稿が、バサバサと音を立てて足元の石床に落ち、散らばった。
嘘だ!
私は伝えられた事実を直ちに否定すると、それを裏付けることに必死になった。
そんなの、間違いであるに決まっている!私が知っているゲームの筋書きと違うではないか!聖女が助けられないなんて、あろうはずがない!この人たちは、私が漫画を描くオタクで、ずっと部屋に引きこもって何も知らずにいたものだから、だまし引っ掛けようとしているんだ!ネルが帰ってこないなんて、私は絶対に信じない!!
しかし、現実は私にとって無視できない壁となり、私の前に厳然と立ちはだかった。
何故勇ましい英雄らしく、悪敵を倒すと同時に聖女を救う勇者は、その華々しい目的を諦め、勇者をやめるなどと、ありそうもない突飛な決断をしたのだろうか。
彼はどうして、勝利と栄光への素晴らしい道を行かなくなったのだろうか。
真実、私はそうした彼の動機についてはどうでもよかったが、ネルを助けないことだけは、どうにも見過ごすことができなかった。
だって、もしゲームがこのままストーリー通りいけば、私は唯一無二の親友であり、自分の拙い漫画の読者でもあるネルを失うし、何より、おぞましい魔王にひれ伏す暗黒の世界に生きるなんて、他のみんな共々、まっぴらごめんだもの!
何が何でも、私は漫画の続きをネルに読んでもらいたかった。
私は彼女を喜ばし、驚かせたかった。
だから私は決めた。彼女を取り戻すことを。
私は床に散らばった紙を拾い上げ、無念と絶望に苦しんだジィたちに、しばらく旅に出ると伝えて、彼らの向こうで立つ、柔らかな微笑みを湛える女神様に向かって祈った。
私は静かに、熱心な祝福の祈りを捧げた。
旅は道連れ世は情けということわざに従い、一聖人でもあった私は外の世界――、つまり聖域の外に詳しい同行者であり、かつ案内人を求めた。
この雄大なファンタジー世界に生を受けて以来、まだ一度も聖域の外に出たことがなかった私にとって、彼または彼女は、なくてはならない存在だった。
何分、前世に引き続いて筋金のオタクときている私は、基本人見知りで引きこもりがちな聖人で、自ら未知で危険な外の世界へ飛び込んでいくのはもってのほか、自分の中の楽しい空想や、気心の知れた落ち着く空間とか、安心安全な穏やかな環境に浸かることが幸せであり、常であったために、魅惑的なゲームの世界へ転生したといえども、私はすっかり聖域だけで満足していた。
だがしかし、ここで問題が一つ持ち上がった。
今さらになって思い出したのだが、聖人たちはとある理由から、オタクの私と同じくらい外へ出たがらない、それは内向的な種族だった!
もちろん、とてつもなく長い一生のうちに、護られた聖域から外の世界へ、一回も出たことがない聖人は少なくなかったが、それはしょっちゅう出かけるという類のものではなかったし、他のみんなからは、物好きな変わった奴だと思われた。
したがって、私についてくるような聖人を探すのは、それこそ海に落ちた針を探すようなもので、とはいえども、悪い魔人に囚われ、命の危険にさらされている可哀そうなネルを考えれば、ためらっている時間はなく、無茶だと分かっていたにも拘わらず、私は生来の猪突猛進に身を任せて、地図と、さして多くもない知識を頼りに、出発した。
「キミカ」
濁った地味な緑茶色のマントを羽織った私は、私を呼ぶ声に呼び止められ、後ろを振り向いた。
トンボの眼鏡越しに見ると、節くれに膨らんだ、不格好な杖を持って立つジィを真ん中に、そっくりな顔立ちをした男前のリグとラグが、両脇に立っていた。
「行くならば、まず妖精を訪ねなさい。必ずやお前の力になってくれるだろう・・・。妖精たちは聖域の外れの泉にいる。そこまでは、リグとラグがお前を連れていく」
と、雪のように白くて重たい眉毛を、老いてはいるが、英知の光を宿した温かい目に乗せたジィは続け、左右に立ったリグとラグの、毛織の長靴を履いた足が、一歩前に踏み出た。
「・・・ありがとう、分かりました。行ってきます。心配しないでね」
頼るものが増えた安堵から微笑む私は、山羊のような顎ひげを伸ばした老人に向かって礼を言うと、逞しいリグとラグと一緒に、居館の出入り口を去っていった。
双子のリグとラグは、葦毛の馬を二頭と栗毛の馬を一頭、馬小屋からそれぞれ引き連れてくると、すでに私が乗る、御者席しかない馬車に括り付けたり、鞍を付けたりして、出立の準備に取りかかった。
そして、用意が整い、私の隣に跳び乗ったリグが言った。
「とばすぞ、キミカ。振り落とされないよう、しっかり掴まれ!」
ゆえに、私がまじか!としり込みした時はすでに遅く、馬車とラグの跨る栗毛の馬は、次の瞬間には地面を勢いよく駆け出していた。
はじめ白い石畳を蹴っていた頑丈な蹄は、樹木と下生えの生えた黒っぽい土を蹴り、程よく乾いた埃っぽい黄土の地面を蹴り上げ、後に土煙をもうもうと巻き起こし、小石を跳ね、脇目も振らず、聖域の外れに向かって、全力で疾駆した。
車輪が数え切れないほど回る、ガラガラと威勢のいい大きな音が鼓膜をつんざき、落ち着くことを決して許さない、絶え間ない揺れが私を襲い、荒れ狂ったスピードが私を投げ出そうとする中、無我夢中でしがみつく私は、とりとめのない恐怖の言葉を連呼した。
「うわっ!危ない!きゃっ!落ちる!あぁ~~~!!」
聖域が次第に遠ざかり、緑の草花がまばらに敷かれた大地の縁と、広大な青空の中に力強く静止する雲が、代わって近づいてきた。
このままの速度で行けば、また別の地上へ真っ逆さまに落ちることを知っていたリグとラグは、手綱を引き絞り、蹄の調子を緩めると、やがて朽ちた神殿のような建造物の前で停まった。
リグは、未だ目を回している私を馬車から降ろすと、言った。
「俺たちが行けるのはここまでだ。キミカ、幸運を祈る!」
ラグも栗毛の馬に乗ったまま、続けて言った。
「ああ。地上は妖しい魔物どもがうろついている、何かと物騒な世界だ。キミカ、用心しろよ」
そして、二人は言うだけ言って別れを告げると、回れ右をして、舞い上がる砂埃と共に、元来た道を駆け戻っていった。彼らの遠い先には、ほんの少し前まで過ごしていた、塔や煙突が突き出た居館の、白い家並がちんまりと見えた。
ファンタジーゲームをかじっていたおかげか、聖域を離れても不思議と平気だった私は、ところどころ欠けた大理石の太い柱が、真っ直ぐに刺さっていたり、地震や嵐や年月のために、斜めに傾いている神殿の奥に、キラキラとうっすら輝いている煌めきを見つけた。
神殿は朽ちても神殿らしく、欠けたり折れたりしている柱は、見事な彫刻が施され、木が周りに一本も生えていなかったために、砂を被った大理石の床が、枯れ葉や落ち葉で埋め尽くされていることもなかった。しかしその代わりに、風や、たまたま上を通りかかった鳥によって運ばれてきた草花が、石と石の間から茎を伸ばし、気持ちのいいそよ風に揺れていた。そんな彼らを目当てに、てんとう虫やアリ、蝶、蜂などの小さな昆虫が舞っていた。
崩れかかった柱以外に、羽を休める止まり木がないので、さえずりはおろか、羽ばたきもろくすっぽ聞こえない、独特な静寂に包まれた荘厳な神殿を進むと、眼の冴えるような紺碧色をした泉が浅く満ち、その上を色とりどりの妖精が、ひらひらと舞っていた。
ファンタジー世界に欠かせない妖精たち――、背中に背負った薄翅をはためかせ、蝶のように舞うその儚げな姿は、霊魂とか、鬼火のように淡く光っていて、まるで水面に浮かぶ蛍の灯りのような幻想的な景色に、感嘆する私は息をのんだ。
「アナタ、ダアレ?」
ふいに、鈴にも似た、涼やかで可愛らしい声が頭の斜め上から聞こえ、見上げた私は、淡い紫色に点灯する妖精を、でかいレンズ越しに見た。
「あっ、私は・・・!キミカといいます。・・・聖人族です」
人見知りで内気な私は、ただでさえ初対面の人物と話すのが苦手なのに、急に話しかけられてどぎまぎしたこともあって、自信なさげに言葉を捻り出した。
「フ~ン・・・。ドウシテココニイルノ?」
「あ、あの。あの私・・・。勇者に会いたくって・・・。勇者を知っていますか?」
「ユウシャ?・・・ウ~ン、キイタコトアルヨウナ、ナイヨウナ・・・」
「・・・」
「――ソウダ、ミンナニキイテアゲル!チョットマッテテネ」
よって、淡い紫に灯った妖精は思いつくと、泉の奥で舞っている仲間の妖精の方へ、ひらひらと飛んでいった。
澄み切った泉の手前で立ち尽くす私は、多数の妖精たちが、それぞれ蛍光色に光るのを見ていた。緑、黄、橙、青、赤、紫、ピンクの球体たちが、四枚の翅を動かして飛び交っている。もし私が子どもだったら、私は眺めに興奮して、大はしゃぎしただろうな、と思った。
やがてそうしていると、緑とピンクの妖精が二匹飛んできて、私の目線よりやや高い中空に浮かんだ。
「ユウシャニアイタイノッテ、アナタ?」
白みを帯びたピンク色の妖精が訊いた。声は紫の妖精と劣らず高く、泉のように澄んでいた。
「は、はい!・・・よろしくお願いします!」
焦った私はこう答えた。
「セイジンゾクノコネ、アナタ。・・・イイワ、オシエテアゲル。・・・アノネ、ジンハネ・・・、ホンノチョットジシンヲナクシテイルダケナノ。ダカラ、サジヲナゲタワケデモナンデモナイノ」
ん?
・・・自信を無くしている?・・・匙を投げた?
「ブーッ!ネエチャンタラモッタイブッテ!イイワケスンナヨ!サイショカラ、ユウシャハセイジョヲタスケルノヲアキラメタッテイエバイイダロ?」
ピンク色の妖精の隣で舞う、緑色に白熱した妖精が口を出した。声は紫とピンク色の妖精のものよりも低めで、姉弟らしくなれなれしく、歯に衣着せぬ物言いだった。
「アンタハダマッテナサイ、ケット!ナマイキイウンジャナイノ!」
怒るピンク色の妖精は上下に飛んで、自分よりも一回りだけ小さい妖精に向かって、ぴしゃりと言った。
それに対してケットも、小刻みに揺れて、応戦した。
「ナンダヨ、チョットナガクイキテルカラッテエラソウニ!ホントウノコトジャナイカ!ヘン、コノキドリヤ!」
「ナ、ナンデスッテェ~~~!?」
むかつきに、我を忘れる姉の妖精の飛び方が乱れた。
私はおろおろしながら、勇者はジンという名前の男で、やはり勇者を引退しているらしいことを確認した。
「・・・ッタク、モウ!・・・トコロデ、アナタノナマエハ?ワタシハエフィヨ」
エフィと呼ぶピンク色の妖精が、私に向かって言った。
「あ・・・、はい!私はキミカといいます」
「ソウ、キミカ。アノネ、ジンハトテモスグレタ、ホントウニリッパデユウカンナユウシャナノダケレド、ソノ、マジンガカナリテゴワクテ、ナンドイドンデモ、ナカナカタオレナイモノダカラ、イマハヤルキガドウシテモデテコナイノ・・・」
私はエフィの気遣った口ぶりから、彼女が、使命に挫折した勇者をまだ支援していることを学んだが、弟のケットは姉のオブラートを大胆に破った。
「ハヤイハナシガ、カナワナイクライ、マジンガベラボウニツヨイッテコト!」
「ケット!!」
「・・・でも、ネルはどうなるんですか。今までに、魔人のもとから帰ってこなかった聖女なんていなかったはずです」
「・・・」
「勇者が今どこにいるか、教えてくれませんか?」
「・・・ソレハモチロン・・・。オシエルクライワケハナイケド・・・」
「イイジャン、ネエチャン!アンナイシテヤレヨ!」
「!!・・・ソウ、・・・ソウネ・・・。イイワ、キミカ。イッショニイキマショウ」
「ありがとうございます!」
「アンタモツイテクンノヨ、ケット」
「エ゛。ナンデオレモ!?」
「アタリマエジャナイ、アンタガアンナイシテヤレッテイッタンデショ?ソレニ、フタリヨリモサンニンノホウガアンゼンデショ!」
二人?
「チェ~・・・」
と、私は以上のような二匹のやり取りを眺めていたが、まず先にエフィの姿が消えかけると同時に、大理石の床から人の両脚が生え、それは見る見るうちに胴体を成し、最終的に頭部までかたどって、全く摩訶不思議なことに、一人の人間の女が私の目の前に立った。
人体を持った彼女は、見る感じ、何の変哲もないただの人に変わりないのだが、輪郭がはっきりした実像というより、全体的に霞のように薄くぼやけて、透けて身体の向こうが見えないとも限らなかった。
淡いパールピンクの光を纏ったエフィは、中肉中背の健康的な女で、綺麗なブロンドの髪を腰まで伸ばし、姉御肌な性格を表す空色の眼はつり気味、八重歯がはみ出た微笑みは挑発的で、長く尖った耳を持った様はまるでエルフのよう・・・というより、エルフそのものだった。
旅に不慣れな私と違い、柔らかい生成りの麻のシャツの上に、目に優しい草色のチョッキを羽織ったエフィは、茶色のスパッツにブーツ、それから弓矢と、動きやすい服装をしていた。
次に、生半可なく驚く私の目に、ケットの容姿が徐々に浮かび上がった。
姉のエフィよりも頭一つ分出たケットは、若々しさにみなぎり、逞しい、血の気にあふれた青年で、強気でありながらも、思いやりのあるエフィと違って、彼の向こう見ずな緑色の眼差しは生き生きと輝き、率直で、悪戯めいていた。だがしかしながら、ひげの生えていないつるりと締まった口元は緩く笑み、親しみやすい雰囲気を醸し出していた。
短く刈った金髪は、豊かに実った小麦の収穫後を思わせ、鋭く尖った耳に通ったピアスの環が、泉に反射する日光を受けて、キラキラと煌めいていた。
淡い緑色のベールを纏う彼は、クリーム色のスパッツの上から、栗色の編み上げブーツを履き、なめし革の防具を肩から脇まで斜めに掛け、濃い深緑色のチュニックを着ていた。武器は今のところ、私の目につかなかった。
私は二人の魅力的なエルフを前にして、呆気にとられた。
聖域は、ロック・マッシュルームという、それはそれは硬いキノコの頂上に設けられていて、キノコの肢を削って作った階段以外に、はるか地上へ降りる方法はなかった。
しかも、キノコは生きているので、削られた箇所が時間の経過とともに元通り、肢に沿って作られた螺旋階段は、時折足を置く段も何もなくなっていて、そういう時は、肢に巻き付くつるを支えによじ降りたり、うち込められた杭にロープを渡して、ブランコみたいにぶらぶら前後に振って、先の階段へ飛び降りるというスリリングなことをしたりして、言葉では到底言い表せないような、実に大変な苦労の末に、私たちは、ロック・マッシュルームの根元へ辿り着くことができたのだった。
当たり前だが、たなびく雲海の中を降りていくほど、標高の高い聖域と異なり、キノコの生えた地上は湿っぽく、暖かかった。
「さて!」
聞き取りやすい人間の声で、手袋をはめた両手を腰に当て、長い長い階段をようやく降りたエフィが、息を入れ直した。
「私たちは足を持っていないから・・・乗合馬車をつかまえたいわね!」
「賛成。今の今まで必死に降りてきて、ちまちま歩くなんて御免こうむりたいね!」
弟のケットも、姉の意見に同調した。
だがしかしながら、そんなに都合よく、乗合馬車がここを通りかかってくれるのだろうかと、訝しむ私は考えたが、やはり思った通り、待てど暮らせど、馬車は一向にやってこないので、私たちはしぶしぶ、凹んだ穴に雨水が溜まった街道を、とぼとぼと歩いた。
やがて、両脇に森を備えた一本道を三十分も歩くと、幸いなことに、背後から、でこぼこ道に車が揺れる、ガタガタ鳴る不安定な音が聴こえたため、期待に胸を膨らませた私たちは後ろを振り向くと、一頭のロバに曳かせた小さな荷車を見た。
エルフの二人も私も、口には出さなかったけれども、(なぁーんだ)と、失意の現れを心の中で呟いたに違いなかった。
くすんだ鼠色のロバは疲れたのか、あるいは、道の真ん中で立っている私たちが邪魔なのか、そののろのろと重たい足取りを止めると、ピタリと梃子でも動かなくなった。
「あっ、おい!動けよ、こんにゃろー!」
木がささくれ、はた目に古くなった粗末な荷車には、これまた薄汚い一人の少年が乗っていて、怒る彼は木の枝で、止まるロバの背中を、何度もぴしゃんぴしゃんと叩き付けるが、痛くも痒くもないロバは、素知らぬ顔をしてその場に立っていた。
男の子は裸足で、みすぼらしく小汚い外見をしていた。
彼は清潔にするという概念がなかったためか、小さいひし形の顔や、剥き出しの手腕や足は泥や煤で汚れ、汚れた短い服はぼろぼろに擦り切れ、ところどころ穴が開いていた。かぶっている麦わら帽子もぼろぼろで、巣と勘違いした鳥に啄まれでもしたのか、大穴が開いた帽子は、その機能や意味を全然果たしていなかった。また、彼は大人の男が吸うたばこにでも憧れ、その真似をしているつもりか、ひょろりと細長い一本の藁茎を、生え変わりで抜けた透き歯の間で挟み、噛みつぶしていた。
要するに、みじめな乞食といっても差し支えないくらい、少年の見た目はすこぶる落ちぶれていた。
「何だ、お前たち!物取りか!?残念だったな、生憎俺は金目のものは何も持っちゃいないぜ!」
薄汚れた男の子は私たちに気が付くと、年の割にずいぶんと荒っぽい、乱暴な喋り方で吠えた。
「冗談でしょ?私たちのどこが物取りに見えるってのよ。それはそうとボク、どこから来たの?」
頼れるしっかり者のエフィが、犬歯がはみ出た口を開いた。
「ボク?てやんでぇ、バーローめ!この俺様を誰と心得る!?ケチャッピ村のボウイ様でぃ!!」
貧しい身なりとはかけ離れた、かなり尊大な態度で、ケチャッピ村のボウイと名乗る少年は、土に汚れたしし鼻をフンと鳴らした。
(・・・こいつムカつく・・・っ!全く誰かを思わせるわね・・・!)
エフィは顔の筋肉を引きつらせ、密かに考えた。
「ふ・・・ぷぷ・・・っ!・・・まあまあ・・・。それじゃあケチャッピ村のボウイくんは一人で、正確にはロバと一緒に、どこへ行くんだい?」
吹き出る笑いを懸命にこらえながら、ケットは少年に訊いた。
「おうよ、相棒!仕事が終わった俺は、これから村に帰るところだぜ!」
ボウイは藁茎を嚙みながら、子どもの声で元気に返した。
(相棒ですってぇ~!?)
自分と弟に対する扱いで、手のひらを返したボウイが、信じられないエフィは絶句した。
「それはお疲れ様。でも、ロバが止まってしまったね。どうするの?」
優越感に浸るケットは内心ほくそ笑みながら、尋ねた。
「・・・そうだなぁ・・・。いつもはこんなすぐにへばったりしないんだけどなぁ・・・。もしかしたら、積み荷が重たいのかもしれない」
と、ボウイはちょっと考え込んでから、素直に言った。尊敬や礼儀に値する人物にであれば、彼はまともな口も利けるようだった。
「積み荷?何を積んでいるんだい?」
ケットが続けて問うた。
「ロバのミルクだよ」
ボウイは後ろの荷台へ振り返って、ブリキでできた、自分の背丈ほどもある缶を見た。
「・・・へぇ・・・」
何を考えたのか、ケットは興味深そうにつぶやくと、こう持ちかけた。
「それじゃあ、ボウイくん。俺たち三人が、ミルクの入った缶を代わりに運んであげよう!」
((は!?))
すかさず、エフィと私は、ケットの突拍子もない申し出について耳を疑った。
しかし、棚からぼたもち、思いもかけない幸運に、ボウイは煤汚れた顔を明るく輝かし、言った。
「本当か!?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ねえ、ケット!」
エフィは聞き捨てならず、すぐさま弟と少年の間に割って入った。
「何だよ、姉ちゃん。どのみちもう日暮れだし、どこかで休まなきゃならないだろ?ちょうどいいじゃん、ケチャッピ村で済まそうよ」
この粗野な男の子、あるいはロバのミルクに近しいものを感じたのか、ケットは淡々と語った。
「~~だけど・・・!ねえ、キミカも言ってやってよ!」
されど、応援を求められた私は、困窮した。大体、オタクに意見を言わせるなんて、石像にものを言わせるのと同じくらい無謀な話ではないか?
「・・・私も、ケチャッピ村でいいと思います・・・」
確かに、このボウイとかいう小汚い少年は、鼻に付くところはあるが、日が暮れて、夜出歩くのは得策ではないと考えた私は、控えめに言った。
「キミカ!」
「よーし、決まり!ねえ、ボウイくん。後でロバのミルクを飲ませてくれるかい?」
「あたぼーよ、相棒!」
(・・・そんな・・・)
人知れず、エフィはただ一人、がっくりした。
自分たちのミルクが入った缶という重荷から解放されたロバは、はじめ肢に根が生えたように動かなかったのに、私たち三人が、缶を荷台から取り除いたとたん、鞭代わりの枝を食らった彼は、再び遅い足取りを始めた。
これは一体何の修業かと、エルフたちと一緒に、ミルク缶を担いで歩く私は喘いだ。
そんな労働の最中、困難の吐息をつきつつ目を横にやれば、憤懣やる方ない様子のエフィは、八重歯の光る口元を見事なへの字に曲げ、頭の中で、ぶつくさと文句を言っているようだった。対するケットは対照的に、鼻歌交じりに、たった今持ち運んでいる缶の中身について、あれこれと好ましい想像をしているようだった。私たちの前を行くボウイはすっかり気をよくして、口笛を上機嫌に吹いていた。
街道を十五分は進んだろうか、いかにもファンタジーらしい、素朴な村が目の前に次第に開けてきた。
まず目につくのは、小さな家々の前に立つ低い石垣――、それらは、レンガ積みのようにきちんと整然に積まれているのではなく、見るからに村民たちの手作業で、バラバラの大きさの石を適当に積んで、漆喰で固めただけの牧歌的なものだった。そしてその傍らには、ささやかな家庭菜園としての畑や花壇などが、ちんまりと置かれ、豆類や香草などを栽培していた。
家は四角い箱のような飾り気のない形で、漆喰を塗った白い土壁は埃や雨のために薄汚れ、黄ばみ、屋根は赤茶、黄土、真緑、限りなく黒に近い灰色など、地味な色調の瓦を不規則に葺いていた。窓も四角と簡素なもので、日没に際して、ろうそくや油に浸した灯芯に火を点け、灯りを取っていた。
ケチャッピ村の人々は貧しく、その日暮らしがやっとという風貌をしていた。誰も彼も、継ぎが当てられた使い古しの衣服をまとい、鶏とか豚といった家畜を飼い、畑仕事をするために、泥土に汚れていた。学問も勉強もままならない子供たちは、荒々しいボウイのように野生児じみ、上品や洗練のような、教養とは対極の位置にあったが、この上ない力強い生命力に満ち溢れ、この貧しくも田園的な世界を存分に謳歌していた。
そうした目を覆いたくなるような赤貧にもかかわらず、朗らかな彼らはとても気さくで、見知らぬ旅人の私たちを実に温かく、かつ友好的に迎えてくれた。
ボウイは集落で一番貧しい家の子で、傾き壊れかけた粗末な小屋の隣には、木板を被せて、雨露をしのぐだけの、甚だ原始的なロバのためのねぐらがあり、固めた土の上に藁が敷かれ、鍬や鋤などの農具は見当たらなかった。というのも、彼らはあまりに貧しいゆえ、自分たちの道具を持つことがかなわず、近所の人から農具を借りて、作業に当たっているのだった。
この気風のいい少年は、祖父のウディと飼いロバのデ・ニーロと、二人と一匹で暮らし、助け合いの精神が息づいている近所の者が、他の芳しい村落や町のように、私たちのようなさすらいの旅人を泊める宿屋がないため、ボウイたちだけで私たちをもてなすのは酷というもので、ぜひ、彼らの畑で採れた野菜やパンなどを食べてくれと、極めて情け深い親切をしてくれた。
そのような厚い好意の前で遠慮するとは不躾なもので、私たち(妖精のエフィとケット姉弟も、姿がエルフの時は、食べ物をとるようだった)はありがたくごちそうになり、念願のロバのミルクを飲んだケットは、生意気な緑色の目を丸くしたり、楽しそうに細くしたりしていた。
家具はおろか、ろくなテーブルも椅子もない拙い住まいは、外で疲れた腰を下ろしながら、藁をくちゃくちゃ噛むロバのデ・ニーロのねぐらと同じ、土を踏み固めただけの質素な土間があり、近くの森から拾ってきた、あるいは切り出した、木の切り株や太い幹の上に私たちは腰かけ、大きな石を支えに、節穴が開いた、年輪の目立つ木の一枚板を、テーブル代わりに置いていた。
単純な食事をとりながら、抜け目ないちゃっかり者のエフィは、年老いた人間のウディ爺さんと話をして、魔物たちの最近の動向や、勇者ジン、ボウイ、ウディ爺さんなどの、ケチャッピ村の人々を始め、彼ら普通の人間たち、それから単独行動の魔人族が住む、下界の情報を集めた。
大胆とも勇敢とも聞こえるが、実際は無茶で無謀、無様な向こう見ずという、むやみに突き進む以外の行動や、実行力の欠片もない引きこもりで、どうしようもないオタクの私は、この美しくも活動的で精力的なエルフを、斜めった野暮ったいレンズ越しに眩しく見つめながら、乗合馬車は村に寄るのかだとか、何か馬などの足は借りることができないのか、とか、そのどちらもないようであれば、どこに行けば足が付くのか、とか言うのを、頼もしく聴いていた。
ごま塩頭で、こんがりと日焼けした農夫のウディは、まさしくファンタジーゲームに出てくる温和な爺さんで、彼はエフィのような見目麗しい娘が熱心に話しかけてくるため、時折ホッホッと、嬉しそうに笑った。一度など、彼は感激のあまり、笑いをこらえることができなくて、ゲームのバグらしく、壊れた機械仕掛けのおもちゃのように、ホッホッと笑い続けた。
言うまでもないが、一人の男の子と、四人の大人が一堂に眠る場所なんて、このみすぼらしいおんぼろ小屋には、存在しなかった。
しかしながら、とはいえども、問題はあっけなく解決した。というのも、妖精のエフィとケットは、人型のエルフから、元のコンパクトな妖精へと、姿を変えて眠りに就けばよかったからだ。
さすがに彼ら一般人の目の前で変化しては、妖しい魔人や魔物の疑いをかけられた上、この孝行に手厚い、親切な村の人たちを無駄に怖がらせてしまうことは、必ずや避けるべきことで、一日を終えたボウイとウディが先に寝てしまってから、ピンクと緑のベールを纏ったエフィとケットの二人は、それぞれに、私の前で妖精の姿へと戻った。
むろん、煤や泥にまみれた家主と劣らず薄汚い小屋は、寝室なんていう贅沢な部屋はなく、土間より一段上がっただけの、羽目板が敷かれた堅い床の上に、藁を敷いて、ぼろぼろで汚い、薄っぺらな毛布を掛けただけの、ひどく簡素な寝床の中に、寝息を立てるボウイとウディは横になっていた。
私はそうした彼らの寝そべる床に腰かけ、ひもで縛ったウールのブーツを脱いだ。
すると、夜の暗がりの中、苦しそうなうめき声が、ボウイの寝ている所から聴こえ、びっくりした私は声のする方へ近づいた。
「う、う~ん・・・、う~ん・・・」
トンボの眼鏡越しに見ると、せまい額に脂汗を滲ませ、眉間にしわを寄せてうめきつつ、おなかを庇うように抱えたボウイを発見した。
またもや驚いた私は咄嗟に、小声でボウイに話しかけた。
「ボウイ、大丈夫?どこか悪いの?」
「う、うぅ~ん・・・」
しかし、痛がるボウイはまともに答えられず、痛みを我慢するかのように、ところどころ抜けた歯を食いしばりながら、おなかを庇う細い両の手腕に力を込めた。
もちろん、医者でも看護師でもない、凄まじい恐慌に駆られたただのオタクの私にも、可哀そうな彼が緊急を要するのは分かっていた。そして、(おお、偉大なる慈悲深き女神様!このみじめで哀れな少年を、のっぴきならない腹痛から救いたまえ!)なんて悠長に祈っている暇もないことも。
私の中の癒しの力は、ボウイから取り除くべき痛みを機敏に察知し、ためらう私を問答無用で駆り立てた。
能力を出し惜しみする理由がないどころか、進んで男の子を助けてやる必要があることを噛みしめながら、落ち着きを取り戻しつつあった私は、苦しむボウイに優しい小声をかけた。
「大丈夫、ボウイ。もう大丈夫だから、力を抜いて・・・、そう。偉いね」
二つの小さな手腕を退かし、ボウイのおなかに手のひらを当てた私は、神経を研ぎ澄まし、聖人族特有の力を揮った。
温かいオレンジ色の光が、私の手のひらからじんわりと漏れ出し、治癒能力を秘めた光彩は、ボウイのおなかの内部に働きかけ、痛みと苦しみの元凶を溶かし、治していった。
「・・・!」
やがて、辛そうに歪めていた表情が和らぎ、食いしばっていた口が緩み、眉間のしわが平らになったボウイは安息のため息をつき、目をゆっくりと開けた。
「・・・変なの・・・。さっきまでものすごく痛かったのに、全然痛くないや・・・」
まるで不可思議な夢を見ていたかのように、ほんの少し目覚めたボウイは、囁くように私に言った。
「・・・よかったね・・・。だけど、私が治したことは絶対に秘密だよ?誰にも言わないでね・・・」
微笑む私も囁き返した。
「うん・・・。約束する・・・」
ボウイは小声で言うと、小さな小指を掲げた。
そうして、指切りげんまんの誓いを立て終えると、耐え難い腹痛から回復したボウイは目蓋を閉じ、深い眠りの底へ再び落ちていった。
彼から一度途絶えた、安らかな寝息がもう一度立つのを聴いた私は、ホッと胸をなでおろし、向こうで寝ているウディ爺さんをそっと見た。
呑気な彼は、孫の切迫した事態に露ほども気が付かず、ガアガアとアヒルのような高いびきをかいて、熟睡していた。
私はまたしても安堵の吐息をホッとつき、羽織っていた緑茶色のマントと眼鏡を外してから、簡略な藁のベッドに横になった。
粗末な寝床に入って早々、体力を消耗した私は、どうにも抗えない眠気に、目蓋が自然と重たくなってくるのを感じた。
それというのも、私はもうすぐ眠ってしまう前に、あなたに伝えておきたいのだが――、私が転生した、ファンタジーゲームの中の聖人族は、不思議な力――人々はこれを魔法と呼ぶのだが――を、生まれながらにして持つ魔人族と同じように、万物を癒す治癒の力に、生まれつき恵まれている。
事実、痛みや傷を癒す程度は、聖人によって差こそあれど、癒しの力を発揮した聖人は、体力を消耗する。そしてそれは、ひどいけがや、治りにくい病気であればあるほど、治癒を施す聖人の体力が、たっぷりと消費される。(ちなみに、聖人は自分のけがや病気を、自分の力で治すことはできない。人間の二、三倍長く生きる彼らは、数自体少ないし、平和に暮らしているので、むごいけがもあまりしない)
聖人族はとある理由から、下界へ降りるのを敬遠していると私は言ったが、もし、この奇跡的な、医者いらずの能力を一度でも聞きつける者がいたならば、たちまち地上へ降りた聖人の周りに、人だかりができてしまうだろう!しかも、地上にある全ての苦しみを取り除けるほど、聖人たちの体力は、底なしの無尽蔵というわけではない。
ゆえに、痛みに敏感な下界へ降りた聖人族は、自然と人目を憚り、目立たない行動を余儀なくされる。
聖人は万物を癒すと言いはしたが、それはいくら何でも、死者を生き返らせることはできないし、治す範囲も聖人によってまちまちだ。それに、どれだけ高い治癒能力を持っていたとしても、力の持ち主の聖人が幼かったり、年老いていたりすれば、体力が十分でないために、かえって自身の身の危険に及んでしまう。
彼らや魔人と異なり、何の特殊能力も持たない人間から頼られ、褒め称えられ、感謝されることに対して、謙虚な聖人族は、自分たちの癒しの力について、光栄とか、栄誉や名誉を覚えないでもなかったが、実際その裏で潜む、嫉妬や畏怖の感情を取り除けるほど、彼らは万能ではなかった。
何にせよ同じ人として、他者の痛みや苦しみを溶かし、和らげ、役に立つことは、聖人族にとって、素直に嬉しいところではあったが、それと同時に、心無い人々から疎まれ、蔑まれるのに加えて、体力を大幅に消耗しては、それはあまりにも割に合わない考えだと、彼らは思った。
したがって、そういう込み入った事情により、治癒能力に恵まれた聖人たちは、普通の人間や、妖しい魔法を使う魔族たちの住まう地上を離れて、険しいロック・マッシュルームの傘の上で、平穏無事に暮らしているという訳だった。
肉の薄い目蓋はついに重たくのしかかり、私の視界を完全に遮ってしまった。
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