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リサイクルは食堂の漆喰壁に開いた大窓から、青空をどこからともなく飛んで来た、聖人族が飼っている何羽もの白ハトたちが広場へ舞い降り、くちばしと爪を器用に使って、無残にひび割れた清剣を回収していくところを見送った。
延々とどこまでも続く広大な青空の中に、風に吹かれて形を自在に変えていく白雲と、同じ純白の羽をはばたくハト達によって、運ばれていく清剣の小さな十字が映った。
そんな光景を、この老いたゴブリンはさながら苦虫を嚙み潰した時の、あまり心地よくない心情で眺めていた。
彼の素晴らしい主人は愚劣な勇者を二度も退けたが、それは終わりではなく、新たな始まりに過ぎないことを彼は重々承知していた。
あの忌々しい清剣が持ち主のもとへ帰る度、戦いは繰り返されるのだ。
だからそうなってしまう前に、アッシュは一秒でも早く儀式を行わねばならない。
彼は、今まで魔人の誰もが成しえてこなかった魔族の王に君臨して、彼らの偉大と恐怖を世界に知らしめ、聖人族と人間どもを、彼らの足元へひれ伏すための貢ぎ物として、聖女を奪ってきたのではないか!
だのに、それにもかかわらずアッシュときたら、彼から逃げ出したネルを許したばかりか、あの貧弱な彼女に心を奪われてしまったようだ!
そもそもネルは聖人であって、魔人のアッシュが疎みこそすれ、夢中になるなんて全くもって信じられない上、絶対に認められない!!
情けない・・・!木乃伊取りが木乃伊になるとは、不覚の極みだ!!
さあこうしてはいられない。そうと決まれば、彼は半ばの計画を進めるよう、主人にもう一度はっきり言って聞かせなければならない。
何をぐずぐずとためらうことがある?
魔族全体の悲願であり、それこそ輝かしい目標でもあった偉大な魔王の座に比べれば、こざかしい聖女の身一つくらいそれは安いものだろうに・・・。
「――アッシュしゃま」
明かりもろくにつけない薄暗い作業場で、トカゲの卵からベビードラゴンを孵そうとしているアッシュの耳に、いつもの汚いしゃがれ声が聴こえた。
「何だ、リサイクルか・・・。今は忙しくて手が離せないんだが、何の用だ?」
アッシュは背後の足元を振り返り、言った。
「・・・リシャイクルめは分かりましぇん」
「何が」
台の上に載った卵に視線を注ぎながら、アッシュは言った。
「この老いぼれリシャイクルめはよく覚えていましゅ・・・。ついこの間のように、しょれははっちりと思い出しぇましゅ」
「何を」
相変わらず、アッシュは後ろの小鬼を気にも留めず、言った。
「おしゃないアッシュしゃまが、前の旦那しゃまと交わした約しょくが、リシャイクルの目に浮かぶようでしゅ・・・」
過去を懐かしむリサイクルは、しみじみと言った。
「約束?・・・覚えてないな」
台の上で、温めた卵を触るアッシュは首をひねった。
「――アッシュしゃま!お父#__しゃ__#まはとても立派な魔人で、我らが王の中の王を目指してございました・・・!」
「・・・う~ん・・・、ちょっと早すぎたか・・・」
「アッシュしゃま!!お父しゃまは真剣でしたぞ!!」
ひどい興奮のために、怒鳴るリサイクルの黒目がぐるぐる回った。
「全くうるさいな・・・。何もそこまで喚かなくてもちゃんと聞こえている、リサイクル」
アッシュは形のいい黒い眉をひそめて、言った。
「そういえばネルはどうした?朝から姿が見えないが」
「アッシュしゃま、しょれがどうしたというのでしゅ・・・!あ奴は道具!しょれも、偉大な魔王になるためのしゃしゃげものにしゅぎましぇん!」
何度説いたか知れない台詞を、リサイクルは口を酸っぱくして主張した。
「そんなことは訊いていない。ネルはどこにいる」
あともう少しで叶えられる従者の願いを知ってか知らずか、アッシュは冷たく突き放した。
「しょれをお分かりになったら、どうしゅるおつもりなのでしょうか」
「さあな。俺はネルが欲しい。そんなこと言わなくても分かるだろう」
ああそうだ、きっと主人は聖女を捧げるどころか自由にして、今は亡き先代が果たせなかった最高の未来とは、全く反対の未来を歩もうとするに違いない!
あれほど興味を示していた、最強の魔王になって世界を牛耳る計画から意識が背いてしまうほど、聖女の一体どこにいかれてしまったのだろうか!
力に恵まれた魔人に仕える魔物の自分は、父親の意志を継いだ幼い主君を頼もしく思ったものだし、その偉大な夢を実現したアッシュが、恐怖と支配に震えた小生意気な聖人や愚かな人間どもを、そろって自分ら魔族たちのために跪かせることを目の当たりにする日を、それは心待ちにしていたのに!
お願いだから目を覚ましてくれ!!
と、この老いた醜い魔物はとても焦がれたものだったが、目を覚ましたのは彼の主人ではなかった。
静かな作業台の上で殻を破る音が響き、背の低いリサイクルは、アッシュが喜びと興奮に息をのむ音を、尖った両耳で聴いた。
「成功だ・・・!ベビードラゴンが生まれた・・・!」
次いで、破いた殻の中から這い出るベビードラゴンの生々しい産声が、喜ぶアッシュと見えないリサイクルの耳に入った。
「うん、なかなかいいな・・・!思った通りの出来だ!」
気分の上がったアッシュは生身のベビードラゴンと、机に置いた魔術書に描かれた挿絵のベビードラゴンを嬉しそうに見比べた。
卵から孵ったばかりのベビードラゴンは、お腹が空いているのか、ずっと鳴き続けていた。
「うん?もう飛べるのか?」
と尋ねるアッシュは台の上で、翼を精力的に羽ばたくベビードラゴンを捉えた。
ベビードラゴンは主人の問いに答えるかのように一鳴きすると、台の上にゆっくりと浮かんだ。
そして瞬く間に、羽ばたくベビードラゴンは台の上から手のひらほどの姿を消すと、ほの暗い作業部屋の中を思い思いに飛んだ。
古そうな厚い本がぎっしりと詰まった中二階、火のついていない竈の上に置かれた鍋釜、物がごちゃごちゃと散乱した隣の机、壁の隅に開いたネズミの穴、アッシュの灰色の目先と、目も止まらぬ速さで飛んだ彼は、床からほど近いリサイクルの頭上で止まり、生まれて初めてのゴブリンをじっと見つめた。
リサイクルも頭の上で飛ぶ魔物を見たが、彼と同じつぶらな黒い瞳を注ぐドラゴンは、氷柱のような長い牙が閉じた口の縁からはみ出し、トカゲやワニといった爬虫類に付き物の、びっしりと覆われたうろこのために、ざらざらと硬い肌をしており、とげとげしい骨が、皮膚をいばらの冠みたいにツンと押し上げていた。両の手足から生える鋭い爪は鉤状で、コウモリのそれのような翼は広く大きく、トカゲのしっぽみたいな尻尾は、ぶらんと空中に垂れ下がっていた。
虫の居所の悪いリサイクルは、無邪気な子供のように目を喜々と輝かせる主人と異なり、この生まれたばかりの小さなドラゴンなぞどうでもいいわ、と鼻を憎たらし気に鳴らした。
すると、気高く繊細なドラゴンは軽くあしらわれた悲劇に傷ついたのか、目の前で膨らむ額のコブに齧り付いた。
「うぎゃあッ!!」
瞬時に、痛みに目玉が飛び出そうな小鬼の喉の奥から、聞くに堪えないおぞましい叫びがほとばしった。
「いだだだだ・・・!!こらっ、離しぇ!!こいつッ・・・!!」
と、老いたしもべは手を振り乱し必死に訴えるも、ベビードラゴンは自分の躰ほどの大きさのコブに、鋭い鉤爪の付いた四本足でしがみつき、食いちぎらんばかりに牙を立てた。
「アッシュしゃま!!」
と、哀れなゴブリンは助けを求めたが、しかしながら、すこぶる上機嫌のアッシュは、この喜劇を愉快に笑っていただけだった。
そして、この面白い見世物を一通り堪能してから、アッシュは離してやるよう、ドラゴンに命じた。
するとドラゴンは、主人の言いつけを素直に聞き、パタパタと彼のもとへ飛んでいった。
やれやれなんてこった、えらい目に遭った!
しかしありがたいことに、まだズキズキジンジンと痛むコブは血管が通っておらず、爪痕と噛み痕だけで被害は済んだものの、参る彼の精神的苦痛は計り知れない!
アッシュはなんて凶暴なベビードラゴンを創り出したのだろう!
卵から孵ったばかりの今はまだ、手のひらに収まるくらいの大きさに過ぎないが、これからやがて彼と同じくらい、いや彼よりも大きくなれば、それこそ嚙まれるどころの騒ぎではなくなるだろう・・・!
危険でないドラゴンがいることは信じなかったにせよ、このベビードラゴンはかなり乱暴で、危ない奴だ・・・!
「すまなかったな、リサイクル。悪気はなかったんだ、許してやってくれ」
と、主人に忠実なベビードラゴンを肩に載せたアッシュは、足元の小妖怪に向かって謝ったが、リサイクルは何と言うべきか分からなかった。
彼は新参者でありながらも、強力な魔物のベビードラゴンに対する態度を決めかねた。
彼と同じくらい義理深いかどうかは置いといて、概してドラゴンは、抜け目のない狡猾な生き物だと世間は言う。
だからもし自分が、魔王への野望についてやいのやいのまくし立てれば、主人の迷惑や自身の空腹を見過ごさないドラゴンは、それこそ命令よりも先に、はた迷惑な自分を一飲みすることだっていとわないだろう!!
野望はぜひともアッシュに叶えてもらいたいものだが、まず命がなければ、彼らが頂点に立った世界を見ることもできやしない!
アッシュが偉大な魔王に君臨する直前に、このように末恐ろしいドラゴンを創り出したのは、全くの過ちだった・・・。
ああもう、それもこれもみんな、あの忌々しくて弱々しい聖女のせいだ!
あとほんの少しで達成した魔族の野望が打ち止められただけでなく、彼はこれで、気のそれた主人を厳しく言い立てることが難しくなってしまったのだ!
おまけに、あのしつこいポンコツの勇者は、聖女を取り返すまで何度でもやって来る次第だ!!
「~~~!!」
とてつもない口惜しさと憤怒のために、斜視の黒目が中央に寄ったリサイクルは、それこそ歯がすり減ってしまうくらい強く、ギザギザの歯をそれは目いっぱいにきしませた。
★
止めようとしても勝手に震えてしまうので、手首にはめられた枷から伸びる鎖がカチャカチャとうるさい。
それもそのはず、一つ目の恐ろしい怪物の手首と鎖で繋がれているネルは、格子の内側で座っているにもかかわらず、身体がフルフルと震え、あんなにも鮮やかだった血の気は失せ、幽霊のように青ざめていた。
むごい仕打ちだと思った。
格子の向こうで座る牢屋番のサイクロプスは、いつもの薄青い瞳を瞬きもせず、房の中のネルに血眼を注いでいた。
見まいとしても、あまりに熱心に見つめられるため、ネルはこの力強い魔物に対して、青緑色の視線を恐る恐る送らざるお得なかった。
彼は何故こうも一途に凝視してくるのだろうか?
ネルは理由を考えようとしたが、恐怖がそれを許さなかった。
彼はそれは太いこん棒で、アッシュの寝室の扉をぶち破ったほどの怪力だ。
そして、ほとんど裸に近い彼は、さして上等でもない薄汚れた布をその骨太の身体に纏い、赤褐色の剛毛を卵型の頭以外のあらゆる箇所に、ふさふさと生やしていた。
ゴブリンたちのような尖った耳の孔からも、剥き出しの腕や脚の上にも、雑草のようにぼうぼうと生い茂っていた。
時折、彼はネルと鎖で繋がれていることを思い出すと、ようやっと瞬きしてから、枷をはめた方の腕を満悦そうに動かして見せるのだった。
それから、この哀れな聖女をまたしても監視するのだった。
おそらく意味のないこの一連の行動さえも、怯えたネルを怖がらせるには全く十分で、たとえ彼との間に格子があっても、ネルは悲鳴を上げたいくらいの恐怖と不安で、どうにかなってしまいそうだった。
見つめることにただでさえ鈍い神経を研ぎ澄ますあまり、他への意識がおろそかになったサニーの豚のような鼻からは鼻水が、サイの角みたいな牙が二本はみ出た大口からは、よだれが汚らしく垂れた。
(~~・・・ううっ・・・)
と、身の毛がよだつネルの耳に、石造りの階段を降りてくる足音が聴こえたが最後、彼女の不幸は終わりを迎えた。
だがしかし、それにもかかわらず、彼女の枷が解かれることはなく、サニーがはめていた一方の枷に、一体全体何のつもりか、アッシュの手首が代わってはまった。
驚くネルを引き連れ、地下牢から上がるアッシュ。
(こ、この人頭おかしいんじゃないの・・・っ!?)
「あ、あの、これ・・・っ、外してください・・・っ!」
「どうかな。お前には前科があるしな」
おやおや、前科とはなんと人聞きの悪い!
「~~っ・・・、お願いですから・・・っ!もう逃げたりしませんから・・・!」
「だが、ネル。これはお前のためでもあるぞ?お前から目を離したら、逆上したリサイクルがお前に何をしでかすか分からないからな」
と、何でもないかのようにアッシュは淡々と言ったが、冷たい恐怖に鳥肌が立ったネルは、今すぐ逃げなければならないと思った。
「・・・それに―――」
アッシュは言いかけると、枷のはまった腕を強めに引き寄せ、鎖に引っ張られるネルを抱き寄せた。
「何の小細工もなしに、お前をいとも簡単に捕まえることができる」
「―――!」
あまりに急な抱擁に、言葉を失うネルの心臓は慌ただしく跳ね、唇が触れ合いそうな向かいの顔は、息をのむほど美しく、情熱的だ。
唇は、ほんの少し動かすだけで触れてしまいそうだったので、近すぎるという指摘は沈黙の彼方に飲み込まれてしまった。
ああ、言いたい!
しかし、どんなに蚊の鳴くような小さな声で口にしても、きっと必ず触れてしまう!
「~~~!」
仕方なしに、頬を赤らめたネルは目を瞑り、困った。
ああもういっそのこと、奪ってくれさえしたらいいのに!
だがしかしながら、アッシュが彼女をあっさりと離した時、張り裂けそうな心臓の高鳴りを、微熱に疼く全身で聴いていたネルは、拍子抜けした自分に気が付いた。
アッシュは、このらしくない聖女を魅了するだけでは飽き足らず、女心をつかむ術をよく心得ていた。
衣裳部屋は、彼の死んだ母親が主に使っていた部屋で、フランス窓から射し込む光で明るい室内は、こぢんまりとしていた。
それは大きく立派な衣装ダンスが花模様の壁紙の前に立ち、部屋は彫刻と絵画も並べられていたが、モデルはいずれも不気味な魔物だったため、ビビるネルは身を竦めた。
寒い日の着替えを格子の付いた暖炉が温めてくれる中、輝く金で縁取られた唐草模様の長いすが、毛足の長い絨毯を敷いた床の上で、女の着替えや衣装づくりを静観している・・・。
扉を開けたアッシュは、年季の入った衣装ダンスから、仕立ては派手だが落ち着いた灰色のドレスを一着、黒のレースが優美な一反の布、光沢が素晴らしいクリーム色の絹織物を取り出すと、まずドレスを着るよう求めた・・・というより一方的に着せた。
身長がとても高かった母親のドレスはぶかぶかで、布が小さな肩からずり落ちるありさま、滑稽なほどガバガバに開いた胸元はみっともなく、広がった裾はたっぷりと余り、絨毯の床上にだらだらと伸びていた。
これでは歩くこともままならないだろう!
とはいえ、大きなドレスに包み込まれ、子どものように一際小さく見える聖女は、何かこう、小さくか弱いものを守りたい男心をくすぐるものがあり、アッシュは服のことなど忘れて、ありのままの彼女を愛したい衝動に駆られたが、ここはひとまずぐっと堪えて、魔法の呼び鈴を鳴らした。
澄んだ高音が部屋に響き渡ると、ネルの甚だびっくりしたことに、床に接する壁の隅に開いた穴から、ハツカネズミがぞろぞろと出てきた。
「・・・!!」
意表を突かれたネルはあまりに驚きすぎたため、言葉を忘れた。
むろん、アッシュとネズミたちは、そんな彼女を悠々と無視だ。
他のネズミより一回り大きい、群れの長らしきネズミが、二本の後ろ脚で器用に立ち上がると、彼はひげの長い鼻をヒクヒク動かして、チューチューと鳴いた。
「ああ、確かに呼んだ。頼む、お前たちの力を貸してほしいんだ」
アッシュは小さなネズミに向かって答えた。
「見ての通り、こいつに合うようサイズを縮めてほしいんだ」
顎と目線で示しながら、アッシュは言葉を続けた。
そして、チューチューと鳴いたネズミは床へ降り、仲間に向かってまたしてもチューチューと鳴いた。
彼の注文に応じるよう、ハツカネズミたちがそろってチューチュー鳴くのを見届けると、微笑むアッシュは言った。
「ああ、すまない。よろしく頼む」
すると、ネズミたちはこぞって動き出した。
「きゃああッ!?」
と、大声を上げたネルが慌てふためくのも、傍らで佇む彼女へ向かうネズミもあれば、針と糸の仕舞ってある引き出しへ、一目散に駆け出すネズミもいたからだ。
「あ・・・あ・・・!」
迅速なネズミたちは、だぶついたドレスに素早くまとわりつくと、チューチュー鳴きながら、齧歯で余分な生地を嚙み切っていった。
その最中、ちょこまかちょこまかと、身軽なハツカネズミが身体の上を走る、薄気味の悪さといったら!
ネルはそれこそ気が変になっても、ちっとも不思議ではなかっただろうに!
一方、絶句するネルをよそに、針と糸を咥えて戻ってきたネズミたちは、生地を嚙み切る仲間に加わり、とてつもなく小さな前足を使いこなして、ドレスを縫い合わせていった。
「~~~!!」
起きながらにして悪夢でも見ているかのように、表情を険しくゆがめるネルは、じっと耐えた。
そしてそのうち、作業を終えたネズミたちが、来た時と同じくらいの速さでそそくさと引き揚げていくので、ネルは堅く閉じていた目蓋をこわごわと開いた。
切り取られた灰色の布が床へ落ち、周りに散らばっていた。
魔法にかけられたおとぎ話のヒロインみたく、ネルはピッタリのドレスを着ていることを知った。
布はきちんと肩に引っかかっており、だぶだぶに開いていた胸元は、僅かな隙間もない。
くびれから大きく広がるスカートは、足首まで傘のようにふんわりと広がっている。
憧れのドレスを着ている高揚感に、ネルは胸が少なからず弾むのが分かった。
「ああ、よく似合っている、ネル」
微笑むアッシュは、やや尋ねるような翡翠色の視線を受け、言った。
「・・・可愛い」
母親の灰色のドレスを着たネルへ近づき、どことなくうっとりしたアッシュは、指に白金の髪を絡ませながら、呟いた。
例えようもない歓喜が、ドキドキと打つ心の底から湧き上がり、照れたネルははにかんだ。
「・・・くそ、だめだ・・・。もう待てない―――」
と、半ば苛立たし気に言い残すアッシュは、見つめ返すネルを力強く抱き寄せ、抑えの利かない愛情のゆくまま、唇を奪った。
「・・・―――♡♡!」
「・・・ネル・・・。好きだ・・・、ネル・・・!」
「んっ・・・♡♡アッシュ・・・♡♡ん――♡♡」
ああなんてことだ、彼女は自ずから名前を呼んでいる!
まさか、先ほどの抱擁で焦らされた彼女は、続きを望んでいた?
だとすれば、彼女は何ていじらしくて、愛らしい生き物だろう!
種族は違えども、溺れるくらい深く、愛されるためだけに生まれてきた、彼だけの特別な女。
彼の中で、熱がどんどん上がっていくのが分かったアッシュは、後ろの唐草模様の長いすへ、ネルを思わず押し倒した。
「ん、あ・・・♡♡~~アッシュ・・・っ♡♡」
押し倒されるまま、椅子の座る面に背を、ひじ掛け部分にもつれる頭を預けたネルは、はち切れんばかりのときめきと甘い高熱に侵され、うわごとのように何を喋っているかも定かでなく、舌と舌が触れる、頭の中が痺れるような感覚に酔った。
(~~・・・ああ、綺麗な銀色の瞳・・・。分からない・・・。キスが気持ちよすぎて・・・。何も・・・考えられない・・・)
と、めくるめく甘い世界に没する二人を、つぶらな黒い眼に捉えたハツカネズミたちは、チューチューと互いの意見を交わし合った。
「・・・あいつら何やってるんだ?」
一匹のネズミが言う。
「さあ・・・。俺たちが縫ったドレスを確かめてるんじゃないの」
別のネズミが答える。
「そうかも。ドレス弄ってるし、アッシュ様」
また別のネズミが呟く。
「全く、アッシュ様も疑い深いんだから・・・。俺たちの腕が確かだってこと、よく分かってるくせに」
「ああーん、いつ見ても素敵ね~、アッシュ様!」
「おい、チュー子。昨日は俺の方がかっこいいって言ってたじゃんよ」
「はあ?アタシ知らない、そんなこと。言ったっけ?」
「おい、見ろよ!ドレス脱がしてるぞ、何か不備があったのかな?」
と、横で群れるネズミたちがチューチューチューチューうるさいために、アッシュはドレスを脱がす手を止めた。
「・・・・・・あともう二着頼みたい」
アッシュは額に落ちる髪をかき上げ、ネズミの仕立て集団に言った。
出来上がったのは、真っ白なレースで作られたワンピースと、クリーム色の絹のナイトドレスで、どちらも足首までスカートが伸びていた。
相変わらず、ネズミたちがちょろちょろと身体の上を走るありさまだったが、ネルはこれらの可愛らしい衣装に、胸を大変ときめかせた。
揃いの色でもあり、何より魔族の象徴だった黒色は捨てがたかったものの、レース布をネルに当てたアッシュは、ネズミたちの助言もあり、色を抜くことに決めた。
アッシュが魔法で命を吹き込んだ布は、高貴な黒色を抜かれることを嫌がり、さめざめと泣いた。
だがしかし、すこぶる皮肉なことに、布は滴る黒色の涙と共に、色を失っていった。
したがって、純白の布は、これ以上泣けない黒布の、惜しみの涙を流し尽くした結果、起きたことだった。
悲しみの涙でぐっしょりと濡れたレースは後に回し、走り回るハツカネズミたちは、クリーム色のナイトドレスを先に作り始めた。
普通であれば、採寸してからドレスの型を紙に写し、生地を合わせて裁断、縫い合わせ・・・と順を踏むが、それは独創的で崇高な職人である彼らは、獣の勘を頼りに、絹地を立て続けに嚙み切っては、針と糸で器用に縫い合わせていくのだった。
しっとりと肌に吸い付くような素晴らしい着心地!照りのある輝かしい光沢!
これを着て眠れば、誰しも幸せな夢が見られることは明白だった。
色を失ったレースのワンピースは、清純な花嫁を思わせる、優雅で繊細な作りで、袖は上品に肘で切り揃えられ、くびれの優美な曲線を台無しにしないよう、細心の注意をもって縫われた。
「か、可愛い・・・!」
と、感想が自然と漏れてしまうほど、ネルは美しい衣装に感動した。
それもそのはず、白を基調とした服を着ることが作法でもあり、また、白亜の装いが最も似合う事を自負していた聖人族の彼女は、白い衣服の真価を無意識のうちに認めていたからだ。
ネルは、輝きを増す聖女を眩しそうに眺める、アッシュの灰色の眼差しが心に焼き付いて、どれだけ払おうとしても、眼差しはどういう訳か、彼女の心から決して離れなかった。
城の水汲み場は、地下からくみ上げた豊富な水が、黒の御影石を彫ったモンスターの立像の、おぞましい牙の生えた口や、伝説上の魔人の抱えた壺から流れ出ていた。
城の中央に据え置かれた水汲み場は、四つの花壇が取り囲んでおり、いずれも魔物の不気味な彫像が、そこかしこに立っていた。
しかし基本的に、手入れの行き届いていない花壇は荒れ、生命力あふれる蔦が彫像に巻き付き、伸びた雑草と一緒に、雑多な花々が風に揺れていた。
花ははじめから植えられていたものもあれば、風や鳥が運んできた野生種もあった。
奇跡的に、落ち葉や枯れ葉の目立つ、このように荒廃した庭園の中、目に鮮やかな大輪のバラがぽつぽつと咲き誇っているものの、アッシュがネルのために一本残らず全て手折ってしまうので、噴水を抱いた庭園は完全にみすぼらしくなってしまった。
全くと言っていいほど、目をかけられていない不遇の生育地にもかかわらず、バラは甘く爽やかな香りを濃厚に放ち、夢のように美しいピンクが耽美な心を捉えて離さない。
花束ならなおさらだが、見目麗しい花を贈られて、喜ばない女はいない。
彼が贈ってきた女たちの多分に漏れず、ネルの心は反射的に浮き立った。
微笑みが勝手にこぼれそうになるのを、ネルはすんでのところで抑えたが、アッシュは心の中で舌打ちし、口を尖らせた。
粗末な花壇に咲いたバラがネルのものになったと同時、アッシュはこの庭園さえも彼女のものだと言った。
ネルははじめ大いに驚いたが、そこまで悪い気はしなかった。
というのも、この世界で目覚める前の彼女は、仕事の行き帰り、花屋の店先であふれる色とりどりの花に和み、また少女時代には、花屋を営む夢を抱くほど、草花が好きだったからだ。
華やかに咲き乱れる色彩豊かな花々の前では、気味の悪い怪物の彫像はかすみ、立っていないも同然だ。
ああ、彼女は何を植えようか!
カスミソウ、ワスレナグサ、マーガレットにコスモス!
伸びた雑草を引き、凝り固まった土を解し、種をまき、そこの水汲み場からたっぷりと水を与えてやった暁には、たった今目に映る荒れ果てた花壇が、可憐な花々で埋め尽くされた、それは素敵な花畑へと変わるだろう!
囚われの身である現実も忘れて、ネルは胸をワクワクと弾ませたが、それを傍らの男に気取られないよう努めた。
食事の席では、ベビードラゴンが食卓の上を滑空し、魂消たネルはもうちょっとで気を失うところだった。
見たこともない、羽を生やした奇妙なトカゲのお化けが、目の前で楽しそうにゆるゆると飛んでいる!
動揺と恐怖は凄まじく、せっかくのご飯が喉を通らないネルだったが、城の炊事係がそれは恐ろしい形相で睨んでいるため、頑張って頬張った。
あの醜いおんぼろワンピースから一転、実に可愛らしいワンピースを着たネルを、嫉妬と怒りに燃える眼で見据えたピケは、彼女の食べ物に毒を入れておけばよかったと悔やんだ。
あり得ない!
アッシュの心変わりを、ピケは到底信じられるわけがなかった。
そんな、魔人が聖人に恋するなんて、全くもってあり得ない!
そんなの、ふざけた冗談でもあるはずがない!
自分も含め、種族らは軽蔑し合っているではないか!
ああ、彼の敬愛していた旦那様はどこへ行ってしまわれたのだろうか?
そもそもの話、彼ら闇の眷属たちが世界を掌握するための、ただの捨て石に過ぎなかった聖女に惚れるなんて、おかしいにもほどがある!!
憎い聖女から主人へ、ピケは恨みがましい目を移した。
しかしながら、非難のゴブリンに対して、余裕のアッシュはパンをちぎっては、食卓の上で浮かぶベビードラゴンへ投げ、ドラゴンは上手に口で受け止めては、パンをむしゃむしゃと食べ、面白そうに遊んでいた。
(はあ~ん、明るく戯れる男性ってス・テ・キ、癒される~♡♡・・・って!ダメよ、アッシュ様!道を誤らないで!聖女なんかに心を許しちゃダメなのよぉ~~~!!)
黒い髭をもさもさ生やした小鬼が緩んだり締まったり、表情がころころ変わる様は不気味以外の何物でもなく、世にも恐ろしい面相を見たネルは、食べ物が喉につかえて上手く飲み込めなかった。
夜はアッシュの隣で寝ることを余儀なくされた。
一晩中起きていると言う彼女をからかい、アッシュは黒い服を脱いだ。
脱いだ服をもう一度着ろと、ネルはとんちんかんな要求を口にしたが、いつも寝間着は付けずに眠るのだと、アッシュは晒した肩を竦めた。
ひどく意識しているのは、取り乱す態度や真っ赤に紅潮した頬からもバレバレで、おかしそうに笑うアッシュは、そのことについて意地の悪いことを言った。
しかも彼は、もし彼女が望むなら、その希望を進んで叶えようとも言ったのだ!
だがしかし、彼女は飢えた狼の側で眠るようなものではないか!
進退窮まるとは正にこのことだ・・・。
退けば、それは不細工な牢屋番のいる、粗末な藁のベッド、進めば、薄笑いを浮かべる男の座る、豪華な紅いベッド・・・。
どちらにせよ、心安らかな眠りに落ちることは期待できないだろう!
ネルは本当に一睡もせず、夜通し起きていることができるのだろうか?
あれはないものとしても、緊張のせいで寝付かれないのではなかろうか?
衝立か何かないだろうか?
いや、動かせるようでは意味がない・・・!
・・・どうしたら、どうしたらいいのだろう・・・!!
と、アッシュからすれば極めてくだらない問題を、悶々と真面目に悩むネルだったが、しぶしぶ同じベッドに入ったその晩は、意外というか拍子抜けにも、彼女に抱きつくアッシュはそれ以上進むことなく、先に寝息を立てて眠ってしまった。
大いに安堵したネルは胸をなでおろし、眠りに就いたものの、やはり隣で眠る男は狼に違いなかった。
次の日の朝、とんでもなくいやらしい夢を見たネルは、戸惑う碧い瞳を見開き、跳び起きた。
「・・・・・・!?」
狂おしい興奮に、胸がまだドキドキしている。
汗が火照った肌の上を流れ、ネルは乱れる吐息を鎮めた。
つい先ほどまで、目も当てられないほど激しく、それは濃厚に彼女を抱いていた男は、すやすやと傍らで眠りこけていたが、ひどく生々しい夢に慌てるネルは、深く恥じ入った。
恥ずかしい!
なんて淫らな恥ずかしい夢を見たのだろう!
あんなにも熱情的で、非常にふしだらな夢を見た自分は、欲求不満だったのだろうか!
ああいやだ、火照った身体が疼くように熱い・・・!頭も心も変な気持ちでいっぱいだ・・・!
と、すこぶる大きな動揺を露わにするネルの手指に、目覚めたアッシュの指が絡まった。
「!?」
「・・・ネル・・・。どうかしたのか・・・?」
寝起きのアッシュはのっそり起き上がると、言った。
「~~~!!」
どうしたもこうしたも!
あなたとそれは深く愛し合っている夢を見たのよ、なんて口が裂けても言えるわけがないだろう!!
「・・・顔が赤いな・・・。どれ、熱をみてやろう・・・」
アッシュは呟くと、誰のせいで上がったか知れないおでこに額をくっつけ、熱をみた。
「~~~♡♡!」
束の間の静寂がベッドの上に流れたが、ネルの早鐘のような心臓はけたたましかった。
「・・・なるほど。つまり、こういう事だな?」
つけた額を離し、ずるい微笑みを浮かべたアッシュは、指を一段と強く絡めた。
「ッ♡♡!?」
「フフ、可愛いな・・・。ネル。お前は夢の中の俺だけでは満足できない、そうだろう?」
・・・な・・・!
アッシュはにこやかに言い終えると、もう片方の手で、真紅に染まったネルの頬を包み込んだ。
「・・・♡♡!」
彼はどうして知っているのだろう!
まさか本でも読むように、彼女の頭の中を読んだとでも言うのだろうか!
「ん・・・♡♡・・・あっ・・・♡♡~~ちょ、やめ・・・♡♡」
熱い頬を包み込んでいた手のひらは、ゆっくりと下へずれ、絹のナイトドレスの上からなぞるように、ドキドキと弾む胸のふくらみを通って、緩やかな腰のくびれまで降りていった。
「やめない。誘ったのはお前だ」
「ち、違う・・・♡♡!~~誘ってなんか・・・―――んぅ♡♡!」
強引に抱き寄せられ、齧り付くように唇を奪われた時の心臓は、それは見事な宙がえりを披露した。
なんてことはない、結局のところ、熱と愛にほだされたネルは、正夢を見ていただけに過ぎなかったのだから!
そんなこんなで、日々は一日、また一日と過ぎ去っていった。
そのように刻一刻と移り変わる時の中でも、勇者ジンは週を跨ぐ日もあれば、数日おきにやって来る日もあった。
とりわけ間が一番空いたときは、彼に救われるより手段のないネルは、それはヒヤヒヤしたものだった。
だがしかしながら、密かに勇者を応援する彼女の熱心な祈りも届かず、勝負は決まって散々なものだった。
肉迫の接戦?
まことに残念ながら、かすりもしなかった。
それこそ桁違いの強さを発揮するアッシュの前では、勇者ジンの武勇は一抹の塵、風前の灯火にも等しかった。
おまけに、勇者ジンのなお悪いことに、回を重ねていくごと、アッシュの魔力は威力を増し、赤子の手をひねるような闘いが続いた。
何がこうなるのか、勇者ジンの困惑は深まっていくばかりだった。
もちろん相棒の妖精エフィも右に同じで、はじめの衝突とはかけ離れた、魔人のすこぶる強い力に圧倒された。
だが、歴然の差、歯が立たないにもかかわらず、聖女を救い出す使命を担った勇者ジンは、妖しい魔力に打ち勝つ唯一の清剣と共に、勇猛果敢に挑み続けた。
いくつもの試練を乗り越えてきた、真の勇者だけが手にすることのできる清剣は、砕かれ、ひび割れようと、退魔の煌めきと一緒に、さながら不死鳥のように蘇り、一筋縄ではいかない悪敵をぜひとも攻略したい、彼の負けん気や粘り強さも背中を押して、勇者ジンは何度も何度もアッシュと刃を交えた。
一方、持つ者の魔力によって、その能力を変える妖刀は、持ち主の溢れんばかりの魔力のおかげで、攻撃性がかつてないほど増強された。
一振り一振りが強力で、一度でも当たったらひとたまりもないくらい、黒い魔剣は勇者を震え上がらせた。
まるで意思を持った黒刀が、ひとりでに魔人の手腕から動くかのよう、繰り出される斬撃は息つく暇もなく、かつ呻いてしまうほど一撃が重たかった。
種族が生まれながらにして抱く不思議な力・・・。
アッシュはおのれの魔人の血に流れる、妖しく独特な力が底上げされているような、今までに感じたことのない感覚を感じることがあった。
一度など、力は想像以上の威力を発揮し、その余波を受けたコウモリどもが、何百羽の群れとなって、勇者に一斉に襲い掛かる時もあれば、ベビードラゴン――彼はハンターと名付けたが――の成長が著しく早かったために、とんでもない風圧を巻き起こす、それは盛大な羽ばたきが、目を丸くする勇者を吹き飛ばしたり、逃げ惑う勇者のマントが鋭い鉤爪で引き裂さかれたり、とげとげしい牙の並ぶ口から吹く大火炎が、耐火の防具を付けていない勇者を真っ黒こげにしたり、聖女は耳をつんざく凶暴な咆哮で気絶したりと、彼自身も魔力のみなぎりに目を見張った。
退魔の清剣は何度となく青白く輝き、そうした脅威から勇者を守るが、妖しき魔の力は彼と剣の力量をはるかに上回り、励む彼らは一進一退の攻防に甘んじるよりほかなかった。
食いしばりつつも、悔しみの歯ぎしりで音を立てながら、勇者ジンは彼を凌駕する魔人と、その圧倒的な力に悪態をついた。
(~~~くそっ、くそっ、くそぉ・・・っ!!)
先に膝をつくのはほとんどいつも自分の方で、彼は敵の並々ならぬ強さに愕然とした。
(~~・・・おかしい・・・!こうも強くなったからくりが分からない・・・!)
ジンの手にも負えないほど、アッシュがはじめから強かったはずがない。
もしそこまで強大であったならば、まず聖女を奪い去るなんて遠回りはせず、血の冷たい魔人は世界をすぐに支配しようとしただろう。
その上、一回目の衝突は、あの突然の発光さえなければ、古の退魔の清剣が砕かれるなんて摩訶不思議な事件は起きず、憎き魔人は輝かしい清剣の一撃を食らって、それは深い痛手を負ったに違いなかったのに!
そうだ、あれからだ。最強の魔王を志す魔人の力が、更なる飛躍を遂げたのは!
だがしかしながら、その点については、肝心のアッシュも何がこうなると、方程式の解をすんなり得ることが容易でなかった。
魔人たちの中でも並みか、それより少しましな魔力が、以前にもまして増幅し、威力や精度までが右肩上がりである現実が、彼は不可解だった。
古書や言い伝えに聞く魔王を別として、生まれつきの力が劣ることもなければ、向上する話も聞いたことはなかったが、今自分の身に起きていることは、果たして起こりうるのだろうか?
力は首をかしげる彼の中で確実に息づき、その力強い脈動を、事実アッシュは聴いた。
一体何が、彼の中で渦巻く魔力を揺るぎない力へと押し上げ、愛するネルを取り返そうとする勇者の行く手と、数多の試みを阻み続けるのだろうか?
しかしながら、彼の頻繁かつ真摯な自問にもかかわらず、それは無理もない皮肉な話ではあったが、どれだけ頭を悩ましても、明確な答えが浮かび上がらないアッシュと、負けず劣らず理由が分からない聖女の中に、手掛かりはあった。
『聖女の加護』はそれは天啓的な、類まれなる奇跡の卓越した力だった。
優れた勇者は、悪しき魔人を討ち、恐ろしい悪魔神の餌食になるところだった聖女を救い出した暁には、この並外れた庇護にあずかる、それは素晴らしい栄光、栄誉と名誉を授かることができたのだが、『聖女の加護』は永遠の繁栄、幸福、安寧、守護といった、闇のどんな力をもってしても到底敵わない、とてつもなく深い慈愛に満ちた、最も心強い、聖なる贈り物を対象に寄与する。
だからこそ、正当な常識や決まり事に乗っ取らず、反則的な裏技、はたまた事故だったにもかかわらず、なぜかしらアッシュへ贈られた庇護の力は、彼を守るどころか強くしている、魔力に何かしら作用していることは、考えられなくはなかった。
つまり言うなれば、自分がはっきりしない聖女の、哀れな身から出た錆ということだろうか!
勝ち目のない闘いに敗れ、退散する勇者の悔しそうな横顔や、ぼろぼろに傷んだマントの翻る背中を、消沈の眼差しで見送りながらも、彼があきらめずにまた、お手上げ状態の彼女を助けに来てくれることを、ネルは痛む胸で切望したが、全く信じられないことに、ある日を境に、勇者ジンはぷっつりと消え、彼女の青緑色の目の前に、頼もしい姿を見せなくなってしまった。
延々とどこまでも続く広大な青空の中に、風に吹かれて形を自在に変えていく白雲と、同じ純白の羽をはばたくハト達によって、運ばれていく清剣の小さな十字が映った。
そんな光景を、この老いたゴブリンはさながら苦虫を嚙み潰した時の、あまり心地よくない心情で眺めていた。
彼の素晴らしい主人は愚劣な勇者を二度も退けたが、それは終わりではなく、新たな始まりに過ぎないことを彼は重々承知していた。
あの忌々しい清剣が持ち主のもとへ帰る度、戦いは繰り返されるのだ。
だからそうなってしまう前に、アッシュは一秒でも早く儀式を行わねばならない。
彼は、今まで魔人の誰もが成しえてこなかった魔族の王に君臨して、彼らの偉大と恐怖を世界に知らしめ、聖人族と人間どもを、彼らの足元へひれ伏すための貢ぎ物として、聖女を奪ってきたのではないか!
だのに、それにもかかわらずアッシュときたら、彼から逃げ出したネルを許したばかりか、あの貧弱な彼女に心を奪われてしまったようだ!
そもそもネルは聖人であって、魔人のアッシュが疎みこそすれ、夢中になるなんて全くもって信じられない上、絶対に認められない!!
情けない・・・!木乃伊取りが木乃伊になるとは、不覚の極みだ!!
さあこうしてはいられない。そうと決まれば、彼は半ばの計画を進めるよう、主人にもう一度はっきり言って聞かせなければならない。
何をぐずぐずとためらうことがある?
魔族全体の悲願であり、それこそ輝かしい目標でもあった偉大な魔王の座に比べれば、こざかしい聖女の身一つくらいそれは安いものだろうに・・・。
「――アッシュしゃま」
明かりもろくにつけない薄暗い作業場で、トカゲの卵からベビードラゴンを孵そうとしているアッシュの耳に、いつもの汚いしゃがれ声が聴こえた。
「何だ、リサイクルか・・・。今は忙しくて手が離せないんだが、何の用だ?」
アッシュは背後の足元を振り返り、言った。
「・・・リシャイクルめは分かりましぇん」
「何が」
台の上に載った卵に視線を注ぎながら、アッシュは言った。
「この老いぼれリシャイクルめはよく覚えていましゅ・・・。ついこの間のように、しょれははっちりと思い出しぇましゅ」
「何を」
相変わらず、アッシュは後ろの小鬼を気にも留めず、言った。
「おしゃないアッシュしゃまが、前の旦那しゃまと交わした約しょくが、リシャイクルの目に浮かぶようでしゅ・・・」
過去を懐かしむリサイクルは、しみじみと言った。
「約束?・・・覚えてないな」
台の上で、温めた卵を触るアッシュは首をひねった。
「――アッシュしゃま!お父#__しゃ__#まはとても立派な魔人で、我らが王の中の王を目指してございました・・・!」
「・・・う~ん・・・、ちょっと早すぎたか・・・」
「アッシュしゃま!!お父しゃまは真剣でしたぞ!!」
ひどい興奮のために、怒鳴るリサイクルの黒目がぐるぐる回った。
「全くうるさいな・・・。何もそこまで喚かなくてもちゃんと聞こえている、リサイクル」
アッシュは形のいい黒い眉をひそめて、言った。
「そういえばネルはどうした?朝から姿が見えないが」
「アッシュしゃま、しょれがどうしたというのでしゅ・・・!あ奴は道具!しょれも、偉大な魔王になるためのしゃしゃげものにしゅぎましぇん!」
何度説いたか知れない台詞を、リサイクルは口を酸っぱくして主張した。
「そんなことは訊いていない。ネルはどこにいる」
あともう少しで叶えられる従者の願いを知ってか知らずか、アッシュは冷たく突き放した。
「しょれをお分かりになったら、どうしゅるおつもりなのでしょうか」
「さあな。俺はネルが欲しい。そんなこと言わなくても分かるだろう」
ああそうだ、きっと主人は聖女を捧げるどころか自由にして、今は亡き先代が果たせなかった最高の未来とは、全く反対の未来を歩もうとするに違いない!
あれほど興味を示していた、最強の魔王になって世界を牛耳る計画から意識が背いてしまうほど、聖女の一体どこにいかれてしまったのだろうか!
力に恵まれた魔人に仕える魔物の自分は、父親の意志を継いだ幼い主君を頼もしく思ったものだし、その偉大な夢を実現したアッシュが、恐怖と支配に震えた小生意気な聖人や愚かな人間どもを、そろって自分ら魔族たちのために跪かせることを目の当たりにする日を、それは心待ちにしていたのに!
お願いだから目を覚ましてくれ!!
と、この老いた醜い魔物はとても焦がれたものだったが、目を覚ましたのは彼の主人ではなかった。
静かな作業台の上で殻を破る音が響き、背の低いリサイクルは、アッシュが喜びと興奮に息をのむ音を、尖った両耳で聴いた。
「成功だ・・・!ベビードラゴンが生まれた・・・!」
次いで、破いた殻の中から這い出るベビードラゴンの生々しい産声が、喜ぶアッシュと見えないリサイクルの耳に入った。
「うん、なかなかいいな・・・!思った通りの出来だ!」
気分の上がったアッシュは生身のベビードラゴンと、机に置いた魔術書に描かれた挿絵のベビードラゴンを嬉しそうに見比べた。
卵から孵ったばかりのベビードラゴンは、お腹が空いているのか、ずっと鳴き続けていた。
「うん?もう飛べるのか?」
と尋ねるアッシュは台の上で、翼を精力的に羽ばたくベビードラゴンを捉えた。
ベビードラゴンは主人の問いに答えるかのように一鳴きすると、台の上にゆっくりと浮かんだ。
そして瞬く間に、羽ばたくベビードラゴンは台の上から手のひらほどの姿を消すと、ほの暗い作業部屋の中を思い思いに飛んだ。
古そうな厚い本がぎっしりと詰まった中二階、火のついていない竈の上に置かれた鍋釜、物がごちゃごちゃと散乱した隣の机、壁の隅に開いたネズミの穴、アッシュの灰色の目先と、目も止まらぬ速さで飛んだ彼は、床からほど近いリサイクルの頭上で止まり、生まれて初めてのゴブリンをじっと見つめた。
リサイクルも頭の上で飛ぶ魔物を見たが、彼と同じつぶらな黒い瞳を注ぐドラゴンは、氷柱のような長い牙が閉じた口の縁からはみ出し、トカゲやワニといった爬虫類に付き物の、びっしりと覆われたうろこのために、ざらざらと硬い肌をしており、とげとげしい骨が、皮膚をいばらの冠みたいにツンと押し上げていた。両の手足から生える鋭い爪は鉤状で、コウモリのそれのような翼は広く大きく、トカゲのしっぽみたいな尻尾は、ぶらんと空中に垂れ下がっていた。
虫の居所の悪いリサイクルは、無邪気な子供のように目を喜々と輝かせる主人と異なり、この生まれたばかりの小さなドラゴンなぞどうでもいいわ、と鼻を憎たらし気に鳴らした。
すると、気高く繊細なドラゴンは軽くあしらわれた悲劇に傷ついたのか、目の前で膨らむ額のコブに齧り付いた。
「うぎゃあッ!!」
瞬時に、痛みに目玉が飛び出そうな小鬼の喉の奥から、聞くに堪えないおぞましい叫びがほとばしった。
「いだだだだ・・・!!こらっ、離しぇ!!こいつッ・・・!!」
と、老いたしもべは手を振り乱し必死に訴えるも、ベビードラゴンは自分の躰ほどの大きさのコブに、鋭い鉤爪の付いた四本足でしがみつき、食いちぎらんばかりに牙を立てた。
「アッシュしゃま!!」
と、哀れなゴブリンは助けを求めたが、しかしながら、すこぶる上機嫌のアッシュは、この喜劇を愉快に笑っていただけだった。
そして、この面白い見世物を一通り堪能してから、アッシュは離してやるよう、ドラゴンに命じた。
するとドラゴンは、主人の言いつけを素直に聞き、パタパタと彼のもとへ飛んでいった。
やれやれなんてこった、えらい目に遭った!
しかしありがたいことに、まだズキズキジンジンと痛むコブは血管が通っておらず、爪痕と噛み痕だけで被害は済んだものの、参る彼の精神的苦痛は計り知れない!
アッシュはなんて凶暴なベビードラゴンを創り出したのだろう!
卵から孵ったばかりの今はまだ、手のひらに収まるくらいの大きさに過ぎないが、これからやがて彼と同じくらい、いや彼よりも大きくなれば、それこそ嚙まれるどころの騒ぎではなくなるだろう・・・!
危険でないドラゴンがいることは信じなかったにせよ、このベビードラゴンはかなり乱暴で、危ない奴だ・・・!
「すまなかったな、リサイクル。悪気はなかったんだ、許してやってくれ」
と、主人に忠実なベビードラゴンを肩に載せたアッシュは、足元の小妖怪に向かって謝ったが、リサイクルは何と言うべきか分からなかった。
彼は新参者でありながらも、強力な魔物のベビードラゴンに対する態度を決めかねた。
彼と同じくらい義理深いかどうかは置いといて、概してドラゴンは、抜け目のない狡猾な生き物だと世間は言う。
だからもし自分が、魔王への野望についてやいのやいのまくし立てれば、主人の迷惑や自身の空腹を見過ごさないドラゴンは、それこそ命令よりも先に、はた迷惑な自分を一飲みすることだっていとわないだろう!!
野望はぜひともアッシュに叶えてもらいたいものだが、まず命がなければ、彼らが頂点に立った世界を見ることもできやしない!
アッシュが偉大な魔王に君臨する直前に、このように末恐ろしいドラゴンを創り出したのは、全くの過ちだった・・・。
ああもう、それもこれもみんな、あの忌々しくて弱々しい聖女のせいだ!
あとほんの少しで達成した魔族の野望が打ち止められただけでなく、彼はこれで、気のそれた主人を厳しく言い立てることが難しくなってしまったのだ!
おまけに、あのしつこいポンコツの勇者は、聖女を取り返すまで何度でもやって来る次第だ!!
「~~~!!」
とてつもない口惜しさと憤怒のために、斜視の黒目が中央に寄ったリサイクルは、それこそ歯がすり減ってしまうくらい強く、ギザギザの歯をそれは目いっぱいにきしませた。
★
止めようとしても勝手に震えてしまうので、手首にはめられた枷から伸びる鎖がカチャカチャとうるさい。
それもそのはず、一つ目の恐ろしい怪物の手首と鎖で繋がれているネルは、格子の内側で座っているにもかかわらず、身体がフルフルと震え、あんなにも鮮やかだった血の気は失せ、幽霊のように青ざめていた。
むごい仕打ちだと思った。
格子の向こうで座る牢屋番のサイクロプスは、いつもの薄青い瞳を瞬きもせず、房の中のネルに血眼を注いでいた。
見まいとしても、あまりに熱心に見つめられるため、ネルはこの力強い魔物に対して、青緑色の視線を恐る恐る送らざるお得なかった。
彼は何故こうも一途に凝視してくるのだろうか?
ネルは理由を考えようとしたが、恐怖がそれを許さなかった。
彼はそれは太いこん棒で、アッシュの寝室の扉をぶち破ったほどの怪力だ。
そして、ほとんど裸に近い彼は、さして上等でもない薄汚れた布をその骨太の身体に纏い、赤褐色の剛毛を卵型の頭以外のあらゆる箇所に、ふさふさと生やしていた。
ゴブリンたちのような尖った耳の孔からも、剥き出しの腕や脚の上にも、雑草のようにぼうぼうと生い茂っていた。
時折、彼はネルと鎖で繋がれていることを思い出すと、ようやっと瞬きしてから、枷をはめた方の腕を満悦そうに動かして見せるのだった。
それから、この哀れな聖女をまたしても監視するのだった。
おそらく意味のないこの一連の行動さえも、怯えたネルを怖がらせるには全く十分で、たとえ彼との間に格子があっても、ネルは悲鳴を上げたいくらいの恐怖と不安で、どうにかなってしまいそうだった。
見つめることにただでさえ鈍い神経を研ぎ澄ますあまり、他への意識がおろそかになったサニーの豚のような鼻からは鼻水が、サイの角みたいな牙が二本はみ出た大口からは、よだれが汚らしく垂れた。
(~~・・・ううっ・・・)
と、身の毛がよだつネルの耳に、石造りの階段を降りてくる足音が聴こえたが最後、彼女の不幸は終わりを迎えた。
だがしかし、それにもかかわらず、彼女の枷が解かれることはなく、サニーがはめていた一方の枷に、一体全体何のつもりか、アッシュの手首が代わってはまった。
驚くネルを引き連れ、地下牢から上がるアッシュ。
(こ、この人頭おかしいんじゃないの・・・っ!?)
「あ、あの、これ・・・っ、外してください・・・っ!」
「どうかな。お前には前科があるしな」
おやおや、前科とはなんと人聞きの悪い!
「~~っ・・・、お願いですから・・・っ!もう逃げたりしませんから・・・!」
「だが、ネル。これはお前のためでもあるぞ?お前から目を離したら、逆上したリサイクルがお前に何をしでかすか分からないからな」
と、何でもないかのようにアッシュは淡々と言ったが、冷たい恐怖に鳥肌が立ったネルは、今すぐ逃げなければならないと思った。
「・・・それに―――」
アッシュは言いかけると、枷のはまった腕を強めに引き寄せ、鎖に引っ張られるネルを抱き寄せた。
「何の小細工もなしに、お前をいとも簡単に捕まえることができる」
「―――!」
あまりに急な抱擁に、言葉を失うネルの心臓は慌ただしく跳ね、唇が触れ合いそうな向かいの顔は、息をのむほど美しく、情熱的だ。
唇は、ほんの少し動かすだけで触れてしまいそうだったので、近すぎるという指摘は沈黙の彼方に飲み込まれてしまった。
ああ、言いたい!
しかし、どんなに蚊の鳴くような小さな声で口にしても、きっと必ず触れてしまう!
「~~~!」
仕方なしに、頬を赤らめたネルは目を瞑り、困った。
ああもういっそのこと、奪ってくれさえしたらいいのに!
だがしかしながら、アッシュが彼女をあっさりと離した時、張り裂けそうな心臓の高鳴りを、微熱に疼く全身で聴いていたネルは、拍子抜けした自分に気が付いた。
アッシュは、このらしくない聖女を魅了するだけでは飽き足らず、女心をつかむ術をよく心得ていた。
衣裳部屋は、彼の死んだ母親が主に使っていた部屋で、フランス窓から射し込む光で明るい室内は、こぢんまりとしていた。
それは大きく立派な衣装ダンスが花模様の壁紙の前に立ち、部屋は彫刻と絵画も並べられていたが、モデルはいずれも不気味な魔物だったため、ビビるネルは身を竦めた。
寒い日の着替えを格子の付いた暖炉が温めてくれる中、輝く金で縁取られた唐草模様の長いすが、毛足の長い絨毯を敷いた床の上で、女の着替えや衣装づくりを静観している・・・。
扉を開けたアッシュは、年季の入った衣装ダンスから、仕立ては派手だが落ち着いた灰色のドレスを一着、黒のレースが優美な一反の布、光沢が素晴らしいクリーム色の絹織物を取り出すと、まずドレスを着るよう求めた・・・というより一方的に着せた。
身長がとても高かった母親のドレスはぶかぶかで、布が小さな肩からずり落ちるありさま、滑稽なほどガバガバに開いた胸元はみっともなく、広がった裾はたっぷりと余り、絨毯の床上にだらだらと伸びていた。
これでは歩くこともままならないだろう!
とはいえ、大きなドレスに包み込まれ、子どものように一際小さく見える聖女は、何かこう、小さくか弱いものを守りたい男心をくすぐるものがあり、アッシュは服のことなど忘れて、ありのままの彼女を愛したい衝動に駆られたが、ここはひとまずぐっと堪えて、魔法の呼び鈴を鳴らした。
澄んだ高音が部屋に響き渡ると、ネルの甚だびっくりしたことに、床に接する壁の隅に開いた穴から、ハツカネズミがぞろぞろと出てきた。
「・・・!!」
意表を突かれたネルはあまりに驚きすぎたため、言葉を忘れた。
むろん、アッシュとネズミたちは、そんな彼女を悠々と無視だ。
他のネズミより一回り大きい、群れの長らしきネズミが、二本の後ろ脚で器用に立ち上がると、彼はひげの長い鼻をヒクヒク動かして、チューチューと鳴いた。
「ああ、確かに呼んだ。頼む、お前たちの力を貸してほしいんだ」
アッシュは小さなネズミに向かって答えた。
「見ての通り、こいつに合うようサイズを縮めてほしいんだ」
顎と目線で示しながら、アッシュは言葉を続けた。
そして、チューチューと鳴いたネズミは床へ降り、仲間に向かってまたしてもチューチューと鳴いた。
彼の注文に応じるよう、ハツカネズミたちがそろってチューチュー鳴くのを見届けると、微笑むアッシュは言った。
「ああ、すまない。よろしく頼む」
すると、ネズミたちはこぞって動き出した。
「きゃああッ!?」
と、大声を上げたネルが慌てふためくのも、傍らで佇む彼女へ向かうネズミもあれば、針と糸の仕舞ってある引き出しへ、一目散に駆け出すネズミもいたからだ。
「あ・・・あ・・・!」
迅速なネズミたちは、だぶついたドレスに素早くまとわりつくと、チューチュー鳴きながら、齧歯で余分な生地を嚙み切っていった。
その最中、ちょこまかちょこまかと、身軽なハツカネズミが身体の上を走る、薄気味の悪さといったら!
ネルはそれこそ気が変になっても、ちっとも不思議ではなかっただろうに!
一方、絶句するネルをよそに、針と糸を咥えて戻ってきたネズミたちは、生地を嚙み切る仲間に加わり、とてつもなく小さな前足を使いこなして、ドレスを縫い合わせていった。
「~~~!!」
起きながらにして悪夢でも見ているかのように、表情を険しくゆがめるネルは、じっと耐えた。
そしてそのうち、作業を終えたネズミたちが、来た時と同じくらいの速さでそそくさと引き揚げていくので、ネルは堅く閉じていた目蓋をこわごわと開いた。
切り取られた灰色の布が床へ落ち、周りに散らばっていた。
魔法にかけられたおとぎ話のヒロインみたく、ネルはピッタリのドレスを着ていることを知った。
布はきちんと肩に引っかかっており、だぶだぶに開いていた胸元は、僅かな隙間もない。
くびれから大きく広がるスカートは、足首まで傘のようにふんわりと広がっている。
憧れのドレスを着ている高揚感に、ネルは胸が少なからず弾むのが分かった。
「ああ、よく似合っている、ネル」
微笑むアッシュは、やや尋ねるような翡翠色の視線を受け、言った。
「・・・可愛い」
母親の灰色のドレスを着たネルへ近づき、どことなくうっとりしたアッシュは、指に白金の髪を絡ませながら、呟いた。
例えようもない歓喜が、ドキドキと打つ心の底から湧き上がり、照れたネルははにかんだ。
「・・・くそ、だめだ・・・。もう待てない―――」
と、半ば苛立たし気に言い残すアッシュは、見つめ返すネルを力強く抱き寄せ、抑えの利かない愛情のゆくまま、唇を奪った。
「・・・―――♡♡!」
「・・・ネル・・・。好きだ・・・、ネル・・・!」
「んっ・・・♡♡アッシュ・・・♡♡ん――♡♡」
ああなんてことだ、彼女は自ずから名前を呼んでいる!
まさか、先ほどの抱擁で焦らされた彼女は、続きを望んでいた?
だとすれば、彼女は何ていじらしくて、愛らしい生き物だろう!
種族は違えども、溺れるくらい深く、愛されるためだけに生まれてきた、彼だけの特別な女。
彼の中で、熱がどんどん上がっていくのが分かったアッシュは、後ろの唐草模様の長いすへ、ネルを思わず押し倒した。
「ん、あ・・・♡♡~~アッシュ・・・っ♡♡」
押し倒されるまま、椅子の座る面に背を、ひじ掛け部分にもつれる頭を預けたネルは、はち切れんばかりのときめきと甘い高熱に侵され、うわごとのように何を喋っているかも定かでなく、舌と舌が触れる、頭の中が痺れるような感覚に酔った。
(~~・・・ああ、綺麗な銀色の瞳・・・。分からない・・・。キスが気持ちよすぎて・・・。何も・・・考えられない・・・)
と、めくるめく甘い世界に没する二人を、つぶらな黒い眼に捉えたハツカネズミたちは、チューチューと互いの意見を交わし合った。
「・・・あいつら何やってるんだ?」
一匹のネズミが言う。
「さあ・・・。俺たちが縫ったドレスを確かめてるんじゃないの」
別のネズミが答える。
「そうかも。ドレス弄ってるし、アッシュ様」
また別のネズミが呟く。
「全く、アッシュ様も疑い深いんだから・・・。俺たちの腕が確かだってこと、よく分かってるくせに」
「ああーん、いつ見ても素敵ね~、アッシュ様!」
「おい、チュー子。昨日は俺の方がかっこいいって言ってたじゃんよ」
「はあ?アタシ知らない、そんなこと。言ったっけ?」
「おい、見ろよ!ドレス脱がしてるぞ、何か不備があったのかな?」
と、横で群れるネズミたちがチューチューチューチューうるさいために、アッシュはドレスを脱がす手を止めた。
「・・・・・・あともう二着頼みたい」
アッシュは額に落ちる髪をかき上げ、ネズミの仕立て集団に言った。
出来上がったのは、真っ白なレースで作られたワンピースと、クリーム色の絹のナイトドレスで、どちらも足首までスカートが伸びていた。
相変わらず、ネズミたちがちょろちょろと身体の上を走るありさまだったが、ネルはこれらの可愛らしい衣装に、胸を大変ときめかせた。
揃いの色でもあり、何より魔族の象徴だった黒色は捨てがたかったものの、レース布をネルに当てたアッシュは、ネズミたちの助言もあり、色を抜くことに決めた。
アッシュが魔法で命を吹き込んだ布は、高貴な黒色を抜かれることを嫌がり、さめざめと泣いた。
だがしかし、すこぶる皮肉なことに、布は滴る黒色の涙と共に、色を失っていった。
したがって、純白の布は、これ以上泣けない黒布の、惜しみの涙を流し尽くした結果、起きたことだった。
悲しみの涙でぐっしょりと濡れたレースは後に回し、走り回るハツカネズミたちは、クリーム色のナイトドレスを先に作り始めた。
普通であれば、採寸してからドレスの型を紙に写し、生地を合わせて裁断、縫い合わせ・・・と順を踏むが、それは独創的で崇高な職人である彼らは、獣の勘を頼りに、絹地を立て続けに嚙み切っては、針と糸で器用に縫い合わせていくのだった。
しっとりと肌に吸い付くような素晴らしい着心地!照りのある輝かしい光沢!
これを着て眠れば、誰しも幸せな夢が見られることは明白だった。
色を失ったレースのワンピースは、清純な花嫁を思わせる、優雅で繊細な作りで、袖は上品に肘で切り揃えられ、くびれの優美な曲線を台無しにしないよう、細心の注意をもって縫われた。
「か、可愛い・・・!」
と、感想が自然と漏れてしまうほど、ネルは美しい衣装に感動した。
それもそのはず、白を基調とした服を着ることが作法でもあり、また、白亜の装いが最も似合う事を自負していた聖人族の彼女は、白い衣服の真価を無意識のうちに認めていたからだ。
ネルは、輝きを増す聖女を眩しそうに眺める、アッシュの灰色の眼差しが心に焼き付いて、どれだけ払おうとしても、眼差しはどういう訳か、彼女の心から決して離れなかった。
城の水汲み場は、地下からくみ上げた豊富な水が、黒の御影石を彫ったモンスターの立像の、おぞましい牙の生えた口や、伝説上の魔人の抱えた壺から流れ出ていた。
城の中央に据え置かれた水汲み場は、四つの花壇が取り囲んでおり、いずれも魔物の不気味な彫像が、そこかしこに立っていた。
しかし基本的に、手入れの行き届いていない花壇は荒れ、生命力あふれる蔦が彫像に巻き付き、伸びた雑草と一緒に、雑多な花々が風に揺れていた。
花ははじめから植えられていたものもあれば、風や鳥が運んできた野生種もあった。
奇跡的に、落ち葉や枯れ葉の目立つ、このように荒廃した庭園の中、目に鮮やかな大輪のバラがぽつぽつと咲き誇っているものの、アッシュがネルのために一本残らず全て手折ってしまうので、噴水を抱いた庭園は完全にみすぼらしくなってしまった。
全くと言っていいほど、目をかけられていない不遇の生育地にもかかわらず、バラは甘く爽やかな香りを濃厚に放ち、夢のように美しいピンクが耽美な心を捉えて離さない。
花束ならなおさらだが、見目麗しい花を贈られて、喜ばない女はいない。
彼が贈ってきた女たちの多分に漏れず、ネルの心は反射的に浮き立った。
微笑みが勝手にこぼれそうになるのを、ネルはすんでのところで抑えたが、アッシュは心の中で舌打ちし、口を尖らせた。
粗末な花壇に咲いたバラがネルのものになったと同時、アッシュはこの庭園さえも彼女のものだと言った。
ネルははじめ大いに驚いたが、そこまで悪い気はしなかった。
というのも、この世界で目覚める前の彼女は、仕事の行き帰り、花屋の店先であふれる色とりどりの花に和み、また少女時代には、花屋を営む夢を抱くほど、草花が好きだったからだ。
華やかに咲き乱れる色彩豊かな花々の前では、気味の悪い怪物の彫像はかすみ、立っていないも同然だ。
ああ、彼女は何を植えようか!
カスミソウ、ワスレナグサ、マーガレットにコスモス!
伸びた雑草を引き、凝り固まった土を解し、種をまき、そこの水汲み場からたっぷりと水を与えてやった暁には、たった今目に映る荒れ果てた花壇が、可憐な花々で埋め尽くされた、それは素敵な花畑へと変わるだろう!
囚われの身である現実も忘れて、ネルは胸をワクワクと弾ませたが、それを傍らの男に気取られないよう努めた。
食事の席では、ベビードラゴンが食卓の上を滑空し、魂消たネルはもうちょっとで気を失うところだった。
見たこともない、羽を生やした奇妙なトカゲのお化けが、目の前で楽しそうにゆるゆると飛んでいる!
動揺と恐怖は凄まじく、せっかくのご飯が喉を通らないネルだったが、城の炊事係がそれは恐ろしい形相で睨んでいるため、頑張って頬張った。
あの醜いおんぼろワンピースから一転、実に可愛らしいワンピースを着たネルを、嫉妬と怒りに燃える眼で見据えたピケは、彼女の食べ物に毒を入れておけばよかったと悔やんだ。
あり得ない!
アッシュの心変わりを、ピケは到底信じられるわけがなかった。
そんな、魔人が聖人に恋するなんて、全くもってあり得ない!
そんなの、ふざけた冗談でもあるはずがない!
自分も含め、種族らは軽蔑し合っているではないか!
ああ、彼の敬愛していた旦那様はどこへ行ってしまわれたのだろうか?
そもそもの話、彼ら闇の眷属たちが世界を掌握するための、ただの捨て石に過ぎなかった聖女に惚れるなんて、おかしいにもほどがある!!
憎い聖女から主人へ、ピケは恨みがましい目を移した。
しかしながら、非難のゴブリンに対して、余裕のアッシュはパンをちぎっては、食卓の上で浮かぶベビードラゴンへ投げ、ドラゴンは上手に口で受け止めては、パンをむしゃむしゃと食べ、面白そうに遊んでいた。
(はあ~ん、明るく戯れる男性ってス・テ・キ、癒される~♡♡・・・って!ダメよ、アッシュ様!道を誤らないで!聖女なんかに心を許しちゃダメなのよぉ~~~!!)
黒い髭をもさもさ生やした小鬼が緩んだり締まったり、表情がころころ変わる様は不気味以外の何物でもなく、世にも恐ろしい面相を見たネルは、食べ物が喉につかえて上手く飲み込めなかった。
夜はアッシュの隣で寝ることを余儀なくされた。
一晩中起きていると言う彼女をからかい、アッシュは黒い服を脱いだ。
脱いだ服をもう一度着ろと、ネルはとんちんかんな要求を口にしたが、いつも寝間着は付けずに眠るのだと、アッシュは晒した肩を竦めた。
ひどく意識しているのは、取り乱す態度や真っ赤に紅潮した頬からもバレバレで、おかしそうに笑うアッシュは、そのことについて意地の悪いことを言った。
しかも彼は、もし彼女が望むなら、その希望を進んで叶えようとも言ったのだ!
だがしかし、彼女は飢えた狼の側で眠るようなものではないか!
進退窮まるとは正にこのことだ・・・。
退けば、それは不細工な牢屋番のいる、粗末な藁のベッド、進めば、薄笑いを浮かべる男の座る、豪華な紅いベッド・・・。
どちらにせよ、心安らかな眠りに落ちることは期待できないだろう!
ネルは本当に一睡もせず、夜通し起きていることができるのだろうか?
あれはないものとしても、緊張のせいで寝付かれないのではなかろうか?
衝立か何かないだろうか?
いや、動かせるようでは意味がない・・・!
・・・どうしたら、どうしたらいいのだろう・・・!!
と、アッシュからすれば極めてくだらない問題を、悶々と真面目に悩むネルだったが、しぶしぶ同じベッドに入ったその晩は、意外というか拍子抜けにも、彼女に抱きつくアッシュはそれ以上進むことなく、先に寝息を立てて眠ってしまった。
大いに安堵したネルは胸をなでおろし、眠りに就いたものの、やはり隣で眠る男は狼に違いなかった。
次の日の朝、とんでもなくいやらしい夢を見たネルは、戸惑う碧い瞳を見開き、跳び起きた。
「・・・・・・!?」
狂おしい興奮に、胸がまだドキドキしている。
汗が火照った肌の上を流れ、ネルは乱れる吐息を鎮めた。
つい先ほどまで、目も当てられないほど激しく、それは濃厚に彼女を抱いていた男は、すやすやと傍らで眠りこけていたが、ひどく生々しい夢に慌てるネルは、深く恥じ入った。
恥ずかしい!
なんて淫らな恥ずかしい夢を見たのだろう!
あんなにも熱情的で、非常にふしだらな夢を見た自分は、欲求不満だったのだろうか!
ああいやだ、火照った身体が疼くように熱い・・・!頭も心も変な気持ちでいっぱいだ・・・!
と、すこぶる大きな動揺を露わにするネルの手指に、目覚めたアッシュの指が絡まった。
「!?」
「・・・ネル・・・。どうかしたのか・・・?」
寝起きのアッシュはのっそり起き上がると、言った。
「~~~!!」
どうしたもこうしたも!
あなたとそれは深く愛し合っている夢を見たのよ、なんて口が裂けても言えるわけがないだろう!!
「・・・顔が赤いな・・・。どれ、熱をみてやろう・・・」
アッシュは呟くと、誰のせいで上がったか知れないおでこに額をくっつけ、熱をみた。
「~~~♡♡!」
束の間の静寂がベッドの上に流れたが、ネルの早鐘のような心臓はけたたましかった。
「・・・なるほど。つまり、こういう事だな?」
つけた額を離し、ずるい微笑みを浮かべたアッシュは、指を一段と強く絡めた。
「ッ♡♡!?」
「フフ、可愛いな・・・。ネル。お前は夢の中の俺だけでは満足できない、そうだろう?」
・・・な・・・!
アッシュはにこやかに言い終えると、もう片方の手で、真紅に染まったネルの頬を包み込んだ。
「・・・♡♡!」
彼はどうして知っているのだろう!
まさか本でも読むように、彼女の頭の中を読んだとでも言うのだろうか!
「ん・・・♡♡・・・あっ・・・♡♡~~ちょ、やめ・・・♡♡」
熱い頬を包み込んでいた手のひらは、ゆっくりと下へずれ、絹のナイトドレスの上からなぞるように、ドキドキと弾む胸のふくらみを通って、緩やかな腰のくびれまで降りていった。
「やめない。誘ったのはお前だ」
「ち、違う・・・♡♡!~~誘ってなんか・・・―――んぅ♡♡!」
強引に抱き寄せられ、齧り付くように唇を奪われた時の心臓は、それは見事な宙がえりを披露した。
なんてことはない、結局のところ、熱と愛にほだされたネルは、正夢を見ていただけに過ぎなかったのだから!
そんなこんなで、日々は一日、また一日と過ぎ去っていった。
そのように刻一刻と移り変わる時の中でも、勇者ジンは週を跨ぐ日もあれば、数日おきにやって来る日もあった。
とりわけ間が一番空いたときは、彼に救われるより手段のないネルは、それはヒヤヒヤしたものだった。
だがしかしながら、密かに勇者を応援する彼女の熱心な祈りも届かず、勝負は決まって散々なものだった。
肉迫の接戦?
まことに残念ながら、かすりもしなかった。
それこそ桁違いの強さを発揮するアッシュの前では、勇者ジンの武勇は一抹の塵、風前の灯火にも等しかった。
おまけに、勇者ジンのなお悪いことに、回を重ねていくごと、アッシュの魔力は威力を増し、赤子の手をひねるような闘いが続いた。
何がこうなるのか、勇者ジンの困惑は深まっていくばかりだった。
もちろん相棒の妖精エフィも右に同じで、はじめの衝突とはかけ離れた、魔人のすこぶる強い力に圧倒された。
だが、歴然の差、歯が立たないにもかかわらず、聖女を救い出す使命を担った勇者ジンは、妖しい魔力に打ち勝つ唯一の清剣と共に、勇猛果敢に挑み続けた。
いくつもの試練を乗り越えてきた、真の勇者だけが手にすることのできる清剣は、砕かれ、ひび割れようと、退魔の煌めきと一緒に、さながら不死鳥のように蘇り、一筋縄ではいかない悪敵をぜひとも攻略したい、彼の負けん気や粘り強さも背中を押して、勇者ジンは何度も何度もアッシュと刃を交えた。
一方、持つ者の魔力によって、その能力を変える妖刀は、持ち主の溢れんばかりの魔力のおかげで、攻撃性がかつてないほど増強された。
一振り一振りが強力で、一度でも当たったらひとたまりもないくらい、黒い魔剣は勇者を震え上がらせた。
まるで意思を持った黒刀が、ひとりでに魔人の手腕から動くかのよう、繰り出される斬撃は息つく暇もなく、かつ呻いてしまうほど一撃が重たかった。
種族が生まれながらにして抱く不思議な力・・・。
アッシュはおのれの魔人の血に流れる、妖しく独特な力が底上げされているような、今までに感じたことのない感覚を感じることがあった。
一度など、力は想像以上の威力を発揮し、その余波を受けたコウモリどもが、何百羽の群れとなって、勇者に一斉に襲い掛かる時もあれば、ベビードラゴン――彼はハンターと名付けたが――の成長が著しく早かったために、とんでもない風圧を巻き起こす、それは盛大な羽ばたきが、目を丸くする勇者を吹き飛ばしたり、逃げ惑う勇者のマントが鋭い鉤爪で引き裂さかれたり、とげとげしい牙の並ぶ口から吹く大火炎が、耐火の防具を付けていない勇者を真っ黒こげにしたり、聖女は耳をつんざく凶暴な咆哮で気絶したりと、彼自身も魔力のみなぎりに目を見張った。
退魔の清剣は何度となく青白く輝き、そうした脅威から勇者を守るが、妖しき魔の力は彼と剣の力量をはるかに上回り、励む彼らは一進一退の攻防に甘んじるよりほかなかった。
食いしばりつつも、悔しみの歯ぎしりで音を立てながら、勇者ジンは彼を凌駕する魔人と、その圧倒的な力に悪態をついた。
(~~~くそっ、くそっ、くそぉ・・・っ!!)
先に膝をつくのはほとんどいつも自分の方で、彼は敵の並々ならぬ強さに愕然とした。
(~~・・・おかしい・・・!こうも強くなったからくりが分からない・・・!)
ジンの手にも負えないほど、アッシュがはじめから強かったはずがない。
もしそこまで強大であったならば、まず聖女を奪い去るなんて遠回りはせず、血の冷たい魔人は世界をすぐに支配しようとしただろう。
その上、一回目の衝突は、あの突然の発光さえなければ、古の退魔の清剣が砕かれるなんて摩訶不思議な事件は起きず、憎き魔人は輝かしい清剣の一撃を食らって、それは深い痛手を負ったに違いなかったのに!
そうだ、あれからだ。最強の魔王を志す魔人の力が、更なる飛躍を遂げたのは!
だがしかしながら、その点については、肝心のアッシュも何がこうなると、方程式の解をすんなり得ることが容易でなかった。
魔人たちの中でも並みか、それより少しましな魔力が、以前にもまして増幅し、威力や精度までが右肩上がりである現実が、彼は不可解だった。
古書や言い伝えに聞く魔王を別として、生まれつきの力が劣ることもなければ、向上する話も聞いたことはなかったが、今自分の身に起きていることは、果たして起こりうるのだろうか?
力は首をかしげる彼の中で確実に息づき、その力強い脈動を、事実アッシュは聴いた。
一体何が、彼の中で渦巻く魔力を揺るぎない力へと押し上げ、愛するネルを取り返そうとする勇者の行く手と、数多の試みを阻み続けるのだろうか?
しかしながら、彼の頻繁かつ真摯な自問にもかかわらず、それは無理もない皮肉な話ではあったが、どれだけ頭を悩ましても、明確な答えが浮かび上がらないアッシュと、負けず劣らず理由が分からない聖女の中に、手掛かりはあった。
『聖女の加護』はそれは天啓的な、類まれなる奇跡の卓越した力だった。
優れた勇者は、悪しき魔人を討ち、恐ろしい悪魔神の餌食になるところだった聖女を救い出した暁には、この並外れた庇護にあずかる、それは素晴らしい栄光、栄誉と名誉を授かることができたのだが、『聖女の加護』は永遠の繁栄、幸福、安寧、守護といった、闇のどんな力をもってしても到底敵わない、とてつもなく深い慈愛に満ちた、最も心強い、聖なる贈り物を対象に寄与する。
だからこそ、正当な常識や決まり事に乗っ取らず、反則的な裏技、はたまた事故だったにもかかわらず、なぜかしらアッシュへ贈られた庇護の力は、彼を守るどころか強くしている、魔力に何かしら作用していることは、考えられなくはなかった。
つまり言うなれば、自分がはっきりしない聖女の、哀れな身から出た錆ということだろうか!
勝ち目のない闘いに敗れ、退散する勇者の悔しそうな横顔や、ぼろぼろに傷んだマントの翻る背中を、消沈の眼差しで見送りながらも、彼があきらめずにまた、お手上げ状態の彼女を助けに来てくれることを、ネルは痛む胸で切望したが、全く信じられないことに、ある日を境に、勇者ジンはぷっつりと消え、彼女の青緑色の目の前に、頼もしい姿を見せなくなってしまった。
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