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彼が破いたはずのぼろ布ワンピースは、ネルではない女が着ていた。
彼は女を知っていたつもりだが、どうも名前が出てこない。
また、女の顔はおぼろげで不鮮明なために、思い出せない名前と一致のしようがない。
そんな能面のような顔を縁どった亜麻色の髪は上に束ね上げられ、絡みもつれていた。
継ぎ接ぎだらけで、糸のほつれた史上最悪の鉛色のワンピースという惨めな装いにも拘わらず、女はとてもよく笑った。微笑みは実に柔らかかった。
彼は彼女を知っているのに、どうして覚えていないのだろう?
女が誰であるかを除けば、彼は彼女のことをよく覚えていた。
無邪気な彼女は穏やかで、優しい心の持ち主だった。
彼がよくして見せた魔法を手品みたいだと言って、彼女は楽しそうにはしゃいでいたものだった。
動物が好きだった彼女は、仔馬だったクロムを可愛がり、彼が創り出した魔物もへっちゃらだった。
根が真面目で働き者の彼女は、下働き同然の仕事にも嫌な顔一つせず、進んでゴブリンたちを手伝った。
掃除、洗濯、炊事、家畜の世話・・・。どれも非常に慣れ親しんだものだと、彼女は笑った。
痩せた身体を包んだ拙い身なりから察するに、彼女は苦労と隣り合わせで生きてきた可哀そうな女ではあったが、過去を悔んだり、みじめな身の上をひがんだりすることもなく、太陽のように明るく、真っ直ぐな人だった。
彼女は彼のいい話し相手であり、姉のように近しい存在だった。
彼は彼女のためであったならば、心を砕くこともやぶさかではなく、出先で彼女に似合いそうな衣服や装飾品を見つけると、一度は手に入れてやろうと必ず思ったものだった。
だがしかし、彼女は控えめで質素を好んだがために、たとえ贈ったとしても、頑として受け取ろうとはしなかったし、それが奪い取ってきたものであったならば、直ちに元の持ち主へ返すよう訴えた。
それならば、彼の魔の力をもってすれば、彼女が好きなドレスを何枚でも作ることができると説いたにもかかわらず、彼女の細い首は決して縦に動かなかった。
彼女はその時の彼と負けないくらい強情で、健気な女だった。
確かに彼女は彼の側にいたのだ。
だが、いつどのようにしていなくなってしまったかは、さっぱりだ。
彼女は今どこにいるのだろうか。
会えるものならば、会って顔を見て、彼女を思い出したい。
しかしながら、とはいえども、彼女と過ごした記憶は実に素晴らしいものであったはずなのに、彼は何故彼女にまつわる記憶にふたをしただけでなく、届きようもない記憶の奥底へと沈ませてしまったのだろうか?
どうして彼は、宝物のような彼女を忘れてしまったのだろうか?
夢の中で彼女を思い出すときはいつも――、決まって雨が降っていた。
曇った鈍色の空から降り出す雨は冷たく、辺りを灰色にくすませていた。
彼は雨に濡れるのも構わず、同じ雨に濡れた彼女を腕に抱いていた。
鉛色のワンピースは、降りしきる雨を吸い込むためにどす黒く濡れていた。
彼女は口を弱々し気に動かして、何かを呟いた。
「・・・ワレワレトハチガウ、セイナルチカラヲモツモノ・・・」
声は女の声ではなく、城の入り口を守る門扉のものだった。
「ソレハ、ワレワレニワザワイヲモタラス――!」
「―――!」
アッシュは目覚めと同時に、横たえていた裸身を素早く起こした。
「・・・!」
乱れた呼気をがっしりした双肩で整えつつ、大きく見開かれた目の中で、灰色の瞳が揺れ動いていた。
玉となって浮かんでいた冷たい汗が額から滑り落ち、アッシュは自身にまとわりつく奇妙な感覚に戸惑った。
・・・夢?
いやしかし、夢にしてはやけに不気味で、不吉な予感のする夢だった・・・。
汗は未だこめかみや首の周りを冷たく流れ、肌をじっとりと濡らしていた。
彼は夢の中で、ネルが着ていたおんぼろワンピースを着た女を腕に抱いていた。
降りしきる雨の中、彼は頭巾もかぶらず女を抱いていた・・・。
女は言った。
ワレワレトハチガウセイナルチカラヲモツモノ。ソレハ、ワレワレニワザワイヲモタラス・・・。
これはネルを攫ってきたあの夜、ゲートが城の中へ入ろうとする彼に向かって言った言葉だ・・・。
それに、女は一体誰だったのだろうか。
何故今になって、彼は夢の中で、予言めいたセリフを思い起こしたのだろうか?
ゲートは聖人族のネルを城へ迎えてはいけないと注意した。
彼ら魔族に災いをもたらすと、ゲートは言ったが、その時のアッシュは、老獪な門扉の世迷い言か、くだらない戯言にしか過ぎないと考えていた。
災い・・・?
馬鹿馬鹿しい!
そんな血迷った迷信に耳を貸すような耳があってたまるか!
第一、聖女のネルを利用して世界を恐怖に陥れ、災いの渦を巻き起こそうとしているのは他ならぬ自分だったし、それこそいっぱしの魔人が、降りかかるかどうかも知れないものについて、いちいち気に病んでいられるものか!
「・・・ふう・・・」
ごちゃごちゃと飛び交う情報を整理するように、アッシュはため息をつくと、傍らで寝ているネルを見やった。
眠りに落ちてしまうまで、彼の腕の中、上品ぶる暇もなく乱れ、彼を切なげに求めていたこの聖女が、いつか彼を憂き目に遭わせる?
それでは、彼女は何故憎い敵である魔人の自分へ、特別な加護の力を発動させたのだ?
つじつまが合わないではないか。
方や守っておきながら、その後で崖から突き落とすというのは・・・?
そして、何だかネルに無性に触れたくなったアッシュは、手を伸ばして、彼女の波打つ白金の髪を指で軽く梳いた。
クセづいた月色の髪はふわふわさらさらと指通りがよく、いつまでも梳いていたいような柔らかさと優美さがあった。
何度か指を往復していると、アッシュは隣で心地よく眠っている聖女に対する執着と、独占欲を感じないではいられなかった。
すこぶる不思議なことに、ほんの少し前までは、彼の中でこれっぽっちも芽生えていなかった愛しさが、ここ数日で頭をむくむくともたげてきて、ついには、聖人族のネルを愛してしまうようになっていた。
だがしかし、とはいえども、それもこれもみんな、全くもって聖女らしくなかったネルのせいではないかと、アッシュは心の中で開き直った。
いいや、彼は言ったではないか。
ネルが聖人だろうと人間だろうと、彼と同じ魔人だろうと関係ない・・・。
アッシュからすれば、好きな女をものにするのは当たり前で、それこそたった今梳いている、彼女の髪の一本一本までもが、彼のものなのだと。
この女が災いをもたらすなら、もたらせばいい。
俺はただ、こいつを愛したい――。
するとちょうどその時、髪に何かを感じ取ったネルが眠りから覚め、鮮やかな翡翠色の寝ぼけた眼が姿を現した。
「・・・?」
ネルははじめ、横で髪を梳いている裸の男が分からずぼうっとしていたが、やがてすぐに男が誰であるかを気がつくと、大急ぎで身体を起こした。
「!!―――わっ、~~~きゃあっ!?」
と、ベッドの端で寝ていたネルは、勢いよく起き上がったはずみで、後ろを向いたまま、台から無様に滑り落ちてしまった。
「~~~!」
「―――」
と、予想外の出来事にびっくりしたアッシュは、灰色の目を点にしていたが、瞬く間に吹き出すと、ネルの失敗をおかしそうに笑った。
「フフ、ハハハ!~~馬鹿だな、ほら、手を貸せ。引っ張り上げてやる」
笑顔のアッシュは言うと、しっかりした片腕をベッドの下へ伸ばし、ネルの小さな手のひらを掴んでから、台の上へ引き上げた。
「~~~」
(か、かっこ悪い・・・。恥ずかしい・・・)
決まりの悪い顔を耳まで真っ赤に染めたネルは、ぼさぼさと乱れた頭で寝台へよじ登った。
彼女の編み込みねじれた白金の毛束は解け、もともとうねった髪はもつれ絡まり、少々見苦しく映った。
「あっちを向くんだ、ネル。髪を直してやろう」
「へ?」
と、ネルは惚けるものの、されるがまま、剥き出しの背中をアッシュへ向けた。
(なっ、何・・・?髪・・・?)
裸の前を赤いシーツで隠しながら、状況の飲み込めないネルは胸をドキドキと弾ませた。
艶やかなクリーム色の髪が再びアッシュの指に絡み取られ、肩から浮く軽さをネルは感じ取った。
(~~手櫛・・・?)
見えない後ろに対して考えを巡らせつつ、ネルはアッシュの意図を探った。
(・・・この人さっきも髪触ってたけど・・・、何なんだろう・・・。髪フェチってやつかな・・・。・・・いやいやいや、違うでしょ、そうじゃないでしょ・・・!?・・・わたし、ずっとこの人と――・・・)
さかのぼった記憶がとんでもないことに気が付くと、ネルは直ちに思い返すのをやめた。
(~~やだ、わたしったら・・・!何思い出したりしてるの・・・!ああもう、恥ずかしい・・・!)
と、赤くなったり青くなったりする一方で、指で十分に梳かれた白金の髪は元の形を取り戻しつつあり、アッシュは束ねた毛を、こめかみから後ろ頭にかけて丁寧に編み込んでいた。
(・・・なんか、男の人に髪の毛やってもらうなんて不思議な感じ・・・。どうしてやり方を知っているんだろう・・・。器用だからなのかな・・・?)
「・・・うん。まあ、こんなところだろう」
と、終わったアッシュは呟くと、何やら枕の下をごそごそと探って、取っ手と金の縁取りがついた手鏡を取り出した。
「ほら、見てみるといい」
ネルはアッシュに言われて、渡された手鏡を手に取ると、何とはなしに恐る恐る鏡を覗き込んだ。
自分が誰であるかもはっきりしない上、この見知らぬ世界で目覚めてから、初めて見る自分の顔。
それは果たして、自分にとって見覚えのある顔をしているのだろうか?
それとも、全く知らない赤の他人の顔をしているのだろうか?
「・・・―――」
鏡の中に、整えられたばかりの明るい月色の髪を伸ばした、鮮やかな青緑色の瞳の女が自分を見返していて、ネルは半ば呆気にとられた。
・・・これがわたし・・・?
確かにアッシュの言った通り、女は明るい白金の髪に、翡翠色の瞳をしているが、胸を張って自分だと言えるほど自信がないどころか、どことなく違和感を感じる・・・。
なぜかは分からないが、髪はもっと暗めで、やっぱり黒か茶色か・・・。瞳も同じ色合いだった気がする・・・。
そして鏡の向こうのわたしはネルという名前で、どうやら普通の人間ではないらしい・・・。
一般的な人間や動物以外の生き物を知らなかったネルは、鏡に映った不思議な自分をまじまじと見入った。
対するアッシュは、この一風変わった聖女は、彼が結わえてやった髪型を純粋に見惚れているのだと受け取り、後ろからネルを抱きしめると、素肌のうなじへ甘い口づけを捺した。
「っ・・・」
ネルは頬をバラ色に染め、うろたえた。
「・・・ネル・・・、好きだ・・・」
「―――ッ・・・♡♡」
その時、まるで恋人たちの甘い親密な雰囲気をぶち壊すかのように、大砲がさく裂したような爆音が二人の鼓膜に響いた。
爆音は部屋の出入り口扉から発し、一度ならず二度三度と、彼らのいる寝室中に朗々と響き渡った。
そして、蝶番の外れる痛ましい音が上がったかと思うと、次の瞬間には、ずっしりと重たい、幾筋もの亀裂を立てた堅い木戸が、細かい木くずを飛ばしながら、勢いよく開け開かれた。
「ふ、ふ、ふ、アッシュしゃまぁ~・・・。ついにこじ開けてやりましたぞぉ~・・・」
廊下の暗がりから、気味の悪いしゃがれ声が聴こえた。
「なめないでくだしゃいと言ったはずでしゅ・・・。しゃあこれでもう居留しゅはでちましぇんからねぇ・・・」
醜い声の主は、暗がりからシャンデリアの煌々と灯る部屋の中へ、ちょこちょこと進み出た。
言うまでもなく、執念深い老従者の小さな姿が、驚き惚ける二人の目に入った。
相変わらずのずれた瞳で、リサイクルは逃げ出した聖女が主人に抱き留められ、再び彼らの手中に落ちていることを知ると、束の間の安心の後、またしても怒りに燃え上がった。
牢屋番であるサイクロプスのサニーも、扉を壊し開けた頑強なこん棒を手に、暗い廊下から明るい寝室へのそのそと歩み出ると、ベッドの上の二人をのろまな薄青い一つ眼で捉えた。
頭の弱いサニーは、こちらを呆然と見つめる主人に対して、うめいて楽し気に話しかけたが、まさか本当に扉をぶち開けると思っていなかったアッシュは、言葉が出てこなかった。
「こんの憎たらしいしぇい女め・・・!アッシュしゃま!今しゅぐ計画に移るのでしゅ!リシャイクルめはもう辛抱なりましぇん!!しゃあ、生意ちなしぇい女め、来るんだ!!」
と、怒りに見境を失ったリサイクルが、ベッドの上で座り込むネルへ突進した矢先――、
「アッシュ様ぁー!!侵入者です!!」
といった、リサイクルとはまた別のしゃがれ声が、危機感いっぱいに叫ぶのを、四者はそれぞれの耳で聴いた。
緊迫を孕んだしゃがれ声はなおも続けた。
「勇者です、アッシュ様―!!ひぃ~、こっちに向かってくる~!!」
ほうら、言わんこっちゃない!というイラついた台詞を飲み込みつつ、リサイクルは目の前のアッシュに向かって言った。
「アッシュしゃま。もちろんあ奴のねらいはネルでしゅ。今度こしょ取り返しゅつもりなのでしょう・・・。いいでしゅか、前回のように追っ払うことがでちなければ、しぇっかくの苦労も水の泡になりましゅぞ!」
「・・・分かった。相手になろう。リサイクル、宝物庫から剣を。サニー、ネルが着ていた服を返してやれ」
アッシュはテキパキと指示を下すと、ネルから離れ、脱ぎ捨てた服に着替え始めた。
アッシュが瞬く間に着替えを終える横で、破けた粗末なワンピース以外着るものもないネルは、つい先ほどまで心地よく弾んでいた心臓が、急に冷たくなった上、今では不穏な拍を刻んでいることを理解した。
身支度を済ませたアッシュは、妖しい紋様の治まった額に落ちる黒髪をかき上げながら、戸惑うネルを後ろに、ぼろぼろに傷んだ扉の開いた寝室を出て行った。
(ゆ、勇者って・・・。あの・・・)
そうだ、アッシュという魔人に奪い去られた彼女は、ジンと呼ばれる勇者に救い出される幸運に見舞われている!
先日は惜しくも助け損なってしまったが、今日はそのつもりだという訳だ。
今日こそネルは、垂らされた救いの糸を掴むことができるのだろうか!
ネルはそれこそ藁にも縋る思いで、希望の滲んだ面を上げた。
★
夜風は広場を冷たく吹き流れ、はじめに着ていた白銀のワンピースに身を包んだネルは、囚われた彼女をまたしても救いに来た勇者ジンと、その相棒で妖精のエフィと向かい合った。
「・・・愚かな勇者ジンとやら・・・。お前は自慢の清剣が朽ちても、また懲りずに聖女を取り返しに来たんだな?」
アッシュは冷たく言い捨てた。
「フン、ナニヨ、バカニシナイデヨネ!ケンハナンデカワカンナイケド、コワレチャッタケド、キチントキタエナオシタンダカラ!イイ?キョウコソハカンネンシナサイ!?」
勇者ジンの頭上でひらひら舞う妖精エフィは、頭に響く高音でがなり立てた。
「いいぞ、勇者ジン・・・。奪えるものなら奪ってみろ」
不敵な文句を口にしながら、アッシュは革のさやに収めた黒い妖剣をゆっくりと抜き出した。
それに応じて、勇者ジンも背中に負ったピカピカの清剣をスラリと抜き取った。
粉々に崩れた清剣は、元のヒビ一つない完璧な状態へ戻り、見事な輝きを放っていた。
それもそのはず、バラバラに散った破片は、聖人族専用の白ハト達によって一つずつ集められ、妖精の住まう清らかな泉に浸して、秀でた退魔の力を蓄えた後、峻厳な岩山で巣くう、恐ろしい火竜の口から放たれる灼熱の息吹をもって、元の形まで鍛え上げられた次第だった。
ネルを救出していない勇者と会った聖人たちは、女神の神秘的な力を宿した伝説の清剣が折れるどころか、崩れ落ちたという前代未聞の事件に泡を吹いた。
その場にいた誰もが耳を疑った。
悪しき魔人から、大事な聖女を取り返す勇者のために作られて以来、一度たりとも傷つけられなかった清剣を、砕くことができるほど強大な力は、一体何だったのだろうと。
訳の分からない聖人たちは、ネルを攫ったアッシュに対する憎しみを一層激しく燃やした。
おのれ、あくどい魔人め・・・!一体どんな姑息かつ面妖な手を使いおった・・・!くっ・・・、ネル!待っててくれ、すぐに剣を直して助けに行く!
そして、彼らの知恵と経験を得た勇者ジンは、装備を整え、果てしない迷路のような深い迷いの森を通り抜け、この許すまじき魔人がこもる石造りの古城へと、足を再び踏み入れたのだった。
革の長手袋をはめた両手で、剣の柄を握りしめつつ、勇者ジンはネルをチラリと窺った。
装備に念を入れてきたのだろう、前はなかった、色とりどりの宝石が埋められた黄金の環を、濃い褐色の頭にはめ込んだ青年の、淡いとび色の瞳と目が合ったネルは、心臓をドキリと収縮させた。
・・・この人はわたしを助けようとして、また来たんだ・・・。なぜかは分からないけど、わたしはこの人に大きな借りがあるんだ・・・。
・・・お願い、わたしを救って・・・!
不気味な魔物たちの彫像が取り除かれ、四隅のたいまつが明々と照らし、星空が見えた広場は、激突の直前による緊張の一瞬に満ちていた。
「うわああああ!!」
清剣を手にした勇者ジンは雄叫びと共に、正面のアッシュに向かって勢いよく突き進むと、彼の勇ましい一撃は、もう一人の男の刀剣によって受け止められ、その激しい風圧のために、お互いのマントや髪がびゅうびゅうたなびいた。
「~~~!!」
刃に渾身の力を込めて、勇者ジンは敵を押し退けようとするも、競り合う黒刀はびっくりするくらいびくともしなかった。
(くっ、何故だ・・・!前よりも強くなってやがる・・・!)
勇者ジンの勝つために食いしばっていた歯は、焦りの歯ぎしりへと変わっていった。
「どうした。偉大な勇者様のお力は、こんなものじゃないだろう?」
と、不敵で悪い光を双眸に灯したアッシュは、頑丈なブーツを履いた足で勇者ジンを蹴とばすと、間髪入れずに駆け出した。
よろめきつつも、体勢を急いで整えたジンは、せまりくる敵を目の前に見据えた。
だがしかし――、
「ジン!キヲツケテ!ウエヨ!!」
という相棒の金切り声が、彼の注意を星の瞬く上空へそらした。
見れば何と、いつの間に跳び上がったのだろう、危険な妖剣を垂直に構えたアッシュが、大気を切り裂き、彼目がけて落下してくるではないか!
「ッくそ・・・!!」
間一髪、すんでのところで避けた勇者ジンは、埃っぽい石畳をゴロゴロと転がった。
そして転がる勢いを使って、埃まみれの彼は再び立ち上がると、剣を地面に突き刺した敵から目を離さず、荒い吐息をついた。
「・・・ハア、ハア、ハア・・・!」
(おかしい・・・!こんなにも手ごわくなかったはずだ・・・!)
「どうした。本気でかかってこい。俺はまだ、十分の一の力さえ出していないぞ」
剣を抜き、妖しい紋様を少しずつ額に浮かばせながら、アッシュは言った。
(・・・清らかなる女神に仕える精霊たちよ、俺に力を――、悪しき魔の力を退ける聖なる力を、俺に貸してくれ・・・!)
古の清剣に宿る退魔の力を信じ、勇者ジンは熱心な祈りを捧げると、剣は剣の守り人だった精霊たちの答えに応じるように、まばゆい青白い光を辺り一面に照らした。
「・・・退魔の力・・・!こしゃくな・・・!」
目もくらまん輝きに呆気にとられるネルの隣で、老いたゴブリンが口惜しそうに吐き捨てた。
「イッチャイナサイ、ジン!!」
「うおりゃああああーーーーッッ!!」
勇者ジンは声をあらん限りに荒げ、眩しそうに目を細めるアッシュに向かって猛突進して、退魔の力を帯びた清剣で切りつけた。
だがしかしながら、確かな手ごたえはなかった。
というのも、ジンは間違いなくアッシュを切りつけたものの、実は魔の力によって生み出された、彼の残像を切ったに過ぎなかったからだ。
「!?」
瞬間移動とも言える電光石火の速さで、アッシュ本体は泡を喰ったジンの傍らに立つと、妖しい魔力に満ちた黒刀を、光る清剣目がけて振り下ろした。
それは硬い鋼同士がぶつかる独特の音が、一同の耳をつんざくと、地に着いた清剣は、見る見るうちに青白い煌めきを失っていき、最終的には、元の純白からくすんだ鉛色まで落ちぶれ、めきめきと亀裂音を上げた。
ヒビは黒っぽい紫色の光と一緒に走り、剣の持ち主を苦しめた。
「うあ・・・っ!!」
「ダメヨ、ジン!ケンヲハナシテ!!」
したがって、妖精エフィの鬼気迫る忠告に、無我夢中のジンは手を剣の柄から離すと、革の長手袋をはめた両手は痛いほど痺れていたために、汗をびっしょりとかいた。
(な、何だったんだ・・・、一体・・・!?)
浅い乱れた呼吸を繰り返しながら、信じられない面持ちのジンは、痺れた両手と石床に落ちた清剣を交互に見返した。
「・・・ゲームオーバーだ・・・。今度はどうやら奇跡は起きなかったようだな」
「!」
「命が惜しくばさっさと逃げるがいい」
「~~くっ・・・!」
「ほう。まだやる気か?いいぞ。命がそこまで惜しくないのなら、望み通り息の根を今すぐ止めてやろう・・・」
「~~くそっ・・・!」
魔法に侵された清剣以外に頼る武器もなく、ジンはまたしても聖女を救い損ねた悔しさと苛立ちを露わにしつつも、マントを翻し、痺れた両手を庇いながら、広場を相棒の妖精と共に立ち去っていった。
ゆえに、彼に救い出されるはずだったネルは、逃げ帰っていく彼の背中を、失意の苦い気持ちで見届けることしかできなかった。
彼は女を知っていたつもりだが、どうも名前が出てこない。
また、女の顔はおぼろげで不鮮明なために、思い出せない名前と一致のしようがない。
そんな能面のような顔を縁どった亜麻色の髪は上に束ね上げられ、絡みもつれていた。
継ぎ接ぎだらけで、糸のほつれた史上最悪の鉛色のワンピースという惨めな装いにも拘わらず、女はとてもよく笑った。微笑みは実に柔らかかった。
彼は彼女を知っているのに、どうして覚えていないのだろう?
女が誰であるかを除けば、彼は彼女のことをよく覚えていた。
無邪気な彼女は穏やかで、優しい心の持ち主だった。
彼がよくして見せた魔法を手品みたいだと言って、彼女は楽しそうにはしゃいでいたものだった。
動物が好きだった彼女は、仔馬だったクロムを可愛がり、彼が創り出した魔物もへっちゃらだった。
根が真面目で働き者の彼女は、下働き同然の仕事にも嫌な顔一つせず、進んでゴブリンたちを手伝った。
掃除、洗濯、炊事、家畜の世話・・・。どれも非常に慣れ親しんだものだと、彼女は笑った。
痩せた身体を包んだ拙い身なりから察するに、彼女は苦労と隣り合わせで生きてきた可哀そうな女ではあったが、過去を悔んだり、みじめな身の上をひがんだりすることもなく、太陽のように明るく、真っ直ぐな人だった。
彼女は彼のいい話し相手であり、姉のように近しい存在だった。
彼は彼女のためであったならば、心を砕くこともやぶさかではなく、出先で彼女に似合いそうな衣服や装飾品を見つけると、一度は手に入れてやろうと必ず思ったものだった。
だがしかし、彼女は控えめで質素を好んだがために、たとえ贈ったとしても、頑として受け取ろうとはしなかったし、それが奪い取ってきたものであったならば、直ちに元の持ち主へ返すよう訴えた。
それならば、彼の魔の力をもってすれば、彼女が好きなドレスを何枚でも作ることができると説いたにもかかわらず、彼女の細い首は決して縦に動かなかった。
彼女はその時の彼と負けないくらい強情で、健気な女だった。
確かに彼女は彼の側にいたのだ。
だが、いつどのようにしていなくなってしまったかは、さっぱりだ。
彼女は今どこにいるのだろうか。
会えるものならば、会って顔を見て、彼女を思い出したい。
しかしながら、とはいえども、彼女と過ごした記憶は実に素晴らしいものであったはずなのに、彼は何故彼女にまつわる記憶にふたをしただけでなく、届きようもない記憶の奥底へと沈ませてしまったのだろうか?
どうして彼は、宝物のような彼女を忘れてしまったのだろうか?
夢の中で彼女を思い出すときはいつも――、決まって雨が降っていた。
曇った鈍色の空から降り出す雨は冷たく、辺りを灰色にくすませていた。
彼は雨に濡れるのも構わず、同じ雨に濡れた彼女を腕に抱いていた。
鉛色のワンピースは、降りしきる雨を吸い込むためにどす黒く濡れていた。
彼女は口を弱々し気に動かして、何かを呟いた。
「・・・ワレワレトハチガウ、セイナルチカラヲモツモノ・・・」
声は女の声ではなく、城の入り口を守る門扉のものだった。
「ソレハ、ワレワレニワザワイヲモタラス――!」
「―――!」
アッシュは目覚めと同時に、横たえていた裸身を素早く起こした。
「・・・!」
乱れた呼気をがっしりした双肩で整えつつ、大きく見開かれた目の中で、灰色の瞳が揺れ動いていた。
玉となって浮かんでいた冷たい汗が額から滑り落ち、アッシュは自身にまとわりつく奇妙な感覚に戸惑った。
・・・夢?
いやしかし、夢にしてはやけに不気味で、不吉な予感のする夢だった・・・。
汗は未だこめかみや首の周りを冷たく流れ、肌をじっとりと濡らしていた。
彼は夢の中で、ネルが着ていたおんぼろワンピースを着た女を腕に抱いていた。
降りしきる雨の中、彼は頭巾もかぶらず女を抱いていた・・・。
女は言った。
ワレワレトハチガウセイナルチカラヲモツモノ。ソレハ、ワレワレニワザワイヲモタラス・・・。
これはネルを攫ってきたあの夜、ゲートが城の中へ入ろうとする彼に向かって言った言葉だ・・・。
それに、女は一体誰だったのだろうか。
何故今になって、彼は夢の中で、予言めいたセリフを思い起こしたのだろうか?
ゲートは聖人族のネルを城へ迎えてはいけないと注意した。
彼ら魔族に災いをもたらすと、ゲートは言ったが、その時のアッシュは、老獪な門扉の世迷い言か、くだらない戯言にしか過ぎないと考えていた。
災い・・・?
馬鹿馬鹿しい!
そんな血迷った迷信に耳を貸すような耳があってたまるか!
第一、聖女のネルを利用して世界を恐怖に陥れ、災いの渦を巻き起こそうとしているのは他ならぬ自分だったし、それこそいっぱしの魔人が、降りかかるかどうかも知れないものについて、いちいち気に病んでいられるものか!
「・・・ふう・・・」
ごちゃごちゃと飛び交う情報を整理するように、アッシュはため息をつくと、傍らで寝ているネルを見やった。
眠りに落ちてしまうまで、彼の腕の中、上品ぶる暇もなく乱れ、彼を切なげに求めていたこの聖女が、いつか彼を憂き目に遭わせる?
それでは、彼女は何故憎い敵である魔人の自分へ、特別な加護の力を発動させたのだ?
つじつまが合わないではないか。
方や守っておきながら、その後で崖から突き落とすというのは・・・?
そして、何だかネルに無性に触れたくなったアッシュは、手を伸ばして、彼女の波打つ白金の髪を指で軽く梳いた。
クセづいた月色の髪はふわふわさらさらと指通りがよく、いつまでも梳いていたいような柔らかさと優美さがあった。
何度か指を往復していると、アッシュは隣で心地よく眠っている聖女に対する執着と、独占欲を感じないではいられなかった。
すこぶる不思議なことに、ほんの少し前までは、彼の中でこれっぽっちも芽生えていなかった愛しさが、ここ数日で頭をむくむくともたげてきて、ついには、聖人族のネルを愛してしまうようになっていた。
だがしかし、とはいえども、それもこれもみんな、全くもって聖女らしくなかったネルのせいではないかと、アッシュは心の中で開き直った。
いいや、彼は言ったではないか。
ネルが聖人だろうと人間だろうと、彼と同じ魔人だろうと関係ない・・・。
アッシュからすれば、好きな女をものにするのは当たり前で、それこそたった今梳いている、彼女の髪の一本一本までもが、彼のものなのだと。
この女が災いをもたらすなら、もたらせばいい。
俺はただ、こいつを愛したい――。
するとちょうどその時、髪に何かを感じ取ったネルが眠りから覚め、鮮やかな翡翠色の寝ぼけた眼が姿を現した。
「・・・?」
ネルははじめ、横で髪を梳いている裸の男が分からずぼうっとしていたが、やがてすぐに男が誰であるかを気がつくと、大急ぎで身体を起こした。
「!!―――わっ、~~~きゃあっ!?」
と、ベッドの端で寝ていたネルは、勢いよく起き上がったはずみで、後ろを向いたまま、台から無様に滑り落ちてしまった。
「~~~!」
「―――」
と、予想外の出来事にびっくりしたアッシュは、灰色の目を点にしていたが、瞬く間に吹き出すと、ネルの失敗をおかしそうに笑った。
「フフ、ハハハ!~~馬鹿だな、ほら、手を貸せ。引っ張り上げてやる」
笑顔のアッシュは言うと、しっかりした片腕をベッドの下へ伸ばし、ネルの小さな手のひらを掴んでから、台の上へ引き上げた。
「~~~」
(か、かっこ悪い・・・。恥ずかしい・・・)
決まりの悪い顔を耳まで真っ赤に染めたネルは、ぼさぼさと乱れた頭で寝台へよじ登った。
彼女の編み込みねじれた白金の毛束は解け、もともとうねった髪はもつれ絡まり、少々見苦しく映った。
「あっちを向くんだ、ネル。髪を直してやろう」
「へ?」
と、ネルは惚けるものの、されるがまま、剥き出しの背中をアッシュへ向けた。
(なっ、何・・・?髪・・・?)
裸の前を赤いシーツで隠しながら、状況の飲み込めないネルは胸をドキドキと弾ませた。
艶やかなクリーム色の髪が再びアッシュの指に絡み取られ、肩から浮く軽さをネルは感じ取った。
(~~手櫛・・・?)
見えない後ろに対して考えを巡らせつつ、ネルはアッシュの意図を探った。
(・・・この人さっきも髪触ってたけど・・・、何なんだろう・・・。髪フェチってやつかな・・・。・・・いやいやいや、違うでしょ、そうじゃないでしょ・・・!?・・・わたし、ずっとこの人と――・・・)
さかのぼった記憶がとんでもないことに気が付くと、ネルは直ちに思い返すのをやめた。
(~~やだ、わたしったら・・・!何思い出したりしてるの・・・!ああもう、恥ずかしい・・・!)
と、赤くなったり青くなったりする一方で、指で十分に梳かれた白金の髪は元の形を取り戻しつつあり、アッシュは束ねた毛を、こめかみから後ろ頭にかけて丁寧に編み込んでいた。
(・・・なんか、男の人に髪の毛やってもらうなんて不思議な感じ・・・。どうしてやり方を知っているんだろう・・・。器用だからなのかな・・・?)
「・・・うん。まあ、こんなところだろう」
と、終わったアッシュは呟くと、何やら枕の下をごそごそと探って、取っ手と金の縁取りがついた手鏡を取り出した。
「ほら、見てみるといい」
ネルはアッシュに言われて、渡された手鏡を手に取ると、何とはなしに恐る恐る鏡を覗き込んだ。
自分が誰であるかもはっきりしない上、この見知らぬ世界で目覚めてから、初めて見る自分の顔。
それは果たして、自分にとって見覚えのある顔をしているのだろうか?
それとも、全く知らない赤の他人の顔をしているのだろうか?
「・・・―――」
鏡の中に、整えられたばかりの明るい月色の髪を伸ばした、鮮やかな青緑色の瞳の女が自分を見返していて、ネルは半ば呆気にとられた。
・・・これがわたし・・・?
確かにアッシュの言った通り、女は明るい白金の髪に、翡翠色の瞳をしているが、胸を張って自分だと言えるほど自信がないどころか、どことなく違和感を感じる・・・。
なぜかは分からないが、髪はもっと暗めで、やっぱり黒か茶色か・・・。瞳も同じ色合いだった気がする・・・。
そして鏡の向こうのわたしはネルという名前で、どうやら普通の人間ではないらしい・・・。
一般的な人間や動物以外の生き物を知らなかったネルは、鏡に映った不思議な自分をまじまじと見入った。
対するアッシュは、この一風変わった聖女は、彼が結わえてやった髪型を純粋に見惚れているのだと受け取り、後ろからネルを抱きしめると、素肌のうなじへ甘い口づけを捺した。
「っ・・・」
ネルは頬をバラ色に染め、うろたえた。
「・・・ネル・・・、好きだ・・・」
「―――ッ・・・♡♡」
その時、まるで恋人たちの甘い親密な雰囲気をぶち壊すかのように、大砲がさく裂したような爆音が二人の鼓膜に響いた。
爆音は部屋の出入り口扉から発し、一度ならず二度三度と、彼らのいる寝室中に朗々と響き渡った。
そして、蝶番の外れる痛ましい音が上がったかと思うと、次の瞬間には、ずっしりと重たい、幾筋もの亀裂を立てた堅い木戸が、細かい木くずを飛ばしながら、勢いよく開け開かれた。
「ふ、ふ、ふ、アッシュしゃまぁ~・・・。ついにこじ開けてやりましたぞぉ~・・・」
廊下の暗がりから、気味の悪いしゃがれ声が聴こえた。
「なめないでくだしゃいと言ったはずでしゅ・・・。しゃあこれでもう居留しゅはでちましぇんからねぇ・・・」
醜い声の主は、暗がりからシャンデリアの煌々と灯る部屋の中へ、ちょこちょこと進み出た。
言うまでもなく、執念深い老従者の小さな姿が、驚き惚ける二人の目に入った。
相変わらずのずれた瞳で、リサイクルは逃げ出した聖女が主人に抱き留められ、再び彼らの手中に落ちていることを知ると、束の間の安心の後、またしても怒りに燃え上がった。
牢屋番であるサイクロプスのサニーも、扉を壊し開けた頑強なこん棒を手に、暗い廊下から明るい寝室へのそのそと歩み出ると、ベッドの上の二人をのろまな薄青い一つ眼で捉えた。
頭の弱いサニーは、こちらを呆然と見つめる主人に対して、うめいて楽し気に話しかけたが、まさか本当に扉をぶち開けると思っていなかったアッシュは、言葉が出てこなかった。
「こんの憎たらしいしぇい女め・・・!アッシュしゃま!今しゅぐ計画に移るのでしゅ!リシャイクルめはもう辛抱なりましぇん!!しゃあ、生意ちなしぇい女め、来るんだ!!」
と、怒りに見境を失ったリサイクルが、ベッドの上で座り込むネルへ突進した矢先――、
「アッシュ様ぁー!!侵入者です!!」
といった、リサイクルとはまた別のしゃがれ声が、危機感いっぱいに叫ぶのを、四者はそれぞれの耳で聴いた。
緊迫を孕んだしゃがれ声はなおも続けた。
「勇者です、アッシュ様―!!ひぃ~、こっちに向かってくる~!!」
ほうら、言わんこっちゃない!というイラついた台詞を飲み込みつつ、リサイクルは目の前のアッシュに向かって言った。
「アッシュしゃま。もちろんあ奴のねらいはネルでしゅ。今度こしょ取り返しゅつもりなのでしょう・・・。いいでしゅか、前回のように追っ払うことがでちなければ、しぇっかくの苦労も水の泡になりましゅぞ!」
「・・・分かった。相手になろう。リサイクル、宝物庫から剣を。サニー、ネルが着ていた服を返してやれ」
アッシュはテキパキと指示を下すと、ネルから離れ、脱ぎ捨てた服に着替え始めた。
アッシュが瞬く間に着替えを終える横で、破けた粗末なワンピース以外着るものもないネルは、つい先ほどまで心地よく弾んでいた心臓が、急に冷たくなった上、今では不穏な拍を刻んでいることを理解した。
身支度を済ませたアッシュは、妖しい紋様の治まった額に落ちる黒髪をかき上げながら、戸惑うネルを後ろに、ぼろぼろに傷んだ扉の開いた寝室を出て行った。
(ゆ、勇者って・・・。あの・・・)
そうだ、アッシュという魔人に奪い去られた彼女は、ジンと呼ばれる勇者に救い出される幸運に見舞われている!
先日は惜しくも助け損なってしまったが、今日はそのつもりだという訳だ。
今日こそネルは、垂らされた救いの糸を掴むことができるのだろうか!
ネルはそれこそ藁にも縋る思いで、希望の滲んだ面を上げた。
★
夜風は広場を冷たく吹き流れ、はじめに着ていた白銀のワンピースに身を包んだネルは、囚われた彼女をまたしても救いに来た勇者ジンと、その相棒で妖精のエフィと向かい合った。
「・・・愚かな勇者ジンとやら・・・。お前は自慢の清剣が朽ちても、また懲りずに聖女を取り返しに来たんだな?」
アッシュは冷たく言い捨てた。
「フン、ナニヨ、バカニシナイデヨネ!ケンハナンデカワカンナイケド、コワレチャッタケド、キチントキタエナオシタンダカラ!イイ?キョウコソハカンネンシナサイ!?」
勇者ジンの頭上でひらひら舞う妖精エフィは、頭に響く高音でがなり立てた。
「いいぞ、勇者ジン・・・。奪えるものなら奪ってみろ」
不敵な文句を口にしながら、アッシュは革のさやに収めた黒い妖剣をゆっくりと抜き出した。
それに応じて、勇者ジンも背中に負ったピカピカの清剣をスラリと抜き取った。
粉々に崩れた清剣は、元のヒビ一つない完璧な状態へ戻り、見事な輝きを放っていた。
それもそのはず、バラバラに散った破片は、聖人族専用の白ハト達によって一つずつ集められ、妖精の住まう清らかな泉に浸して、秀でた退魔の力を蓄えた後、峻厳な岩山で巣くう、恐ろしい火竜の口から放たれる灼熱の息吹をもって、元の形まで鍛え上げられた次第だった。
ネルを救出していない勇者と会った聖人たちは、女神の神秘的な力を宿した伝説の清剣が折れるどころか、崩れ落ちたという前代未聞の事件に泡を吹いた。
その場にいた誰もが耳を疑った。
悪しき魔人から、大事な聖女を取り返す勇者のために作られて以来、一度たりとも傷つけられなかった清剣を、砕くことができるほど強大な力は、一体何だったのだろうと。
訳の分からない聖人たちは、ネルを攫ったアッシュに対する憎しみを一層激しく燃やした。
おのれ、あくどい魔人め・・・!一体どんな姑息かつ面妖な手を使いおった・・・!くっ・・・、ネル!待っててくれ、すぐに剣を直して助けに行く!
そして、彼らの知恵と経験を得た勇者ジンは、装備を整え、果てしない迷路のような深い迷いの森を通り抜け、この許すまじき魔人がこもる石造りの古城へと、足を再び踏み入れたのだった。
革の長手袋をはめた両手で、剣の柄を握りしめつつ、勇者ジンはネルをチラリと窺った。
装備に念を入れてきたのだろう、前はなかった、色とりどりの宝石が埋められた黄金の環を、濃い褐色の頭にはめ込んだ青年の、淡いとび色の瞳と目が合ったネルは、心臓をドキリと収縮させた。
・・・この人はわたしを助けようとして、また来たんだ・・・。なぜかは分からないけど、わたしはこの人に大きな借りがあるんだ・・・。
・・・お願い、わたしを救って・・・!
不気味な魔物たちの彫像が取り除かれ、四隅のたいまつが明々と照らし、星空が見えた広場は、激突の直前による緊張の一瞬に満ちていた。
「うわああああ!!」
清剣を手にした勇者ジンは雄叫びと共に、正面のアッシュに向かって勢いよく突き進むと、彼の勇ましい一撃は、もう一人の男の刀剣によって受け止められ、その激しい風圧のために、お互いのマントや髪がびゅうびゅうたなびいた。
「~~~!!」
刃に渾身の力を込めて、勇者ジンは敵を押し退けようとするも、競り合う黒刀はびっくりするくらいびくともしなかった。
(くっ、何故だ・・・!前よりも強くなってやがる・・・!)
勇者ジンの勝つために食いしばっていた歯は、焦りの歯ぎしりへと変わっていった。
「どうした。偉大な勇者様のお力は、こんなものじゃないだろう?」
と、不敵で悪い光を双眸に灯したアッシュは、頑丈なブーツを履いた足で勇者ジンを蹴とばすと、間髪入れずに駆け出した。
よろめきつつも、体勢を急いで整えたジンは、せまりくる敵を目の前に見据えた。
だがしかし――、
「ジン!キヲツケテ!ウエヨ!!」
という相棒の金切り声が、彼の注意を星の瞬く上空へそらした。
見れば何と、いつの間に跳び上がったのだろう、危険な妖剣を垂直に構えたアッシュが、大気を切り裂き、彼目がけて落下してくるではないか!
「ッくそ・・・!!」
間一髪、すんでのところで避けた勇者ジンは、埃っぽい石畳をゴロゴロと転がった。
そして転がる勢いを使って、埃まみれの彼は再び立ち上がると、剣を地面に突き刺した敵から目を離さず、荒い吐息をついた。
「・・・ハア、ハア、ハア・・・!」
(おかしい・・・!こんなにも手ごわくなかったはずだ・・・!)
「どうした。本気でかかってこい。俺はまだ、十分の一の力さえ出していないぞ」
剣を抜き、妖しい紋様を少しずつ額に浮かばせながら、アッシュは言った。
(・・・清らかなる女神に仕える精霊たちよ、俺に力を――、悪しき魔の力を退ける聖なる力を、俺に貸してくれ・・・!)
古の清剣に宿る退魔の力を信じ、勇者ジンは熱心な祈りを捧げると、剣は剣の守り人だった精霊たちの答えに応じるように、まばゆい青白い光を辺り一面に照らした。
「・・・退魔の力・・・!こしゃくな・・・!」
目もくらまん輝きに呆気にとられるネルの隣で、老いたゴブリンが口惜しそうに吐き捨てた。
「イッチャイナサイ、ジン!!」
「うおりゃああああーーーーッッ!!」
勇者ジンは声をあらん限りに荒げ、眩しそうに目を細めるアッシュに向かって猛突進して、退魔の力を帯びた清剣で切りつけた。
だがしかしながら、確かな手ごたえはなかった。
というのも、ジンは間違いなくアッシュを切りつけたものの、実は魔の力によって生み出された、彼の残像を切ったに過ぎなかったからだ。
「!?」
瞬間移動とも言える電光石火の速さで、アッシュ本体は泡を喰ったジンの傍らに立つと、妖しい魔力に満ちた黒刀を、光る清剣目がけて振り下ろした。
それは硬い鋼同士がぶつかる独特の音が、一同の耳をつんざくと、地に着いた清剣は、見る見るうちに青白い煌めきを失っていき、最終的には、元の純白からくすんだ鉛色まで落ちぶれ、めきめきと亀裂音を上げた。
ヒビは黒っぽい紫色の光と一緒に走り、剣の持ち主を苦しめた。
「うあ・・・っ!!」
「ダメヨ、ジン!ケンヲハナシテ!!」
したがって、妖精エフィの鬼気迫る忠告に、無我夢中のジンは手を剣の柄から離すと、革の長手袋をはめた両手は痛いほど痺れていたために、汗をびっしょりとかいた。
(な、何だったんだ・・・、一体・・・!?)
浅い乱れた呼吸を繰り返しながら、信じられない面持ちのジンは、痺れた両手と石床に落ちた清剣を交互に見返した。
「・・・ゲームオーバーだ・・・。今度はどうやら奇跡は起きなかったようだな」
「!」
「命が惜しくばさっさと逃げるがいい」
「~~くっ・・・!」
「ほう。まだやる気か?いいぞ。命がそこまで惜しくないのなら、望み通り息の根を今すぐ止めてやろう・・・」
「~~くそっ・・・!」
魔法に侵された清剣以外に頼る武器もなく、ジンはまたしても聖女を救い損ねた悔しさと苛立ちを露わにしつつも、マントを翻し、痺れた両手を庇いながら、広場を相棒の妖精と共に立ち去っていった。
ゆえに、彼に救い出されるはずだったネルは、逃げ帰っていく彼の背中を、失意の苦い気持ちで見届けることしかできなかった。
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