聖女の加護

LUKA

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いつの間に眠ってしまったのだろうか、アッシュの頼もしい腕に抱かれたネルが次に目覚めた時、暗かった東の空が明けて白み始めていた。
 星の瞬く暗黒から濃紺、そして青へと、明けの明星をキラキラと光らせながら、表情を変えていく空は神秘的で、美しかった。
 できることならば、もう二度と足を踏み入れたくない迷いの森を背に、落ち着きを取り戻したネルは、遂に顔を出した朝日を浴びた。
 生きて再び陽の光を拝めることに対する感謝と喜びをしみじみと感じながら、彼女が森へ逃げ出すきっかけでもあり、同時に、苦しんでいた死と恐怖の暗闇から救い出してくれた男の顔を、ネルは何とはなしにチラリと見やった。
 前を見据える濃い灰色の瞳は、思わず吸い込まれてしまいそうなほど絶妙な色合いを醸し、端正で精悍な横顔は、浴びる陽の光を受けて神々しく輝いていた。
 彼女はこれほどまでに上品で、高貴な横顔を今までに見たことがなかった。
 そして、この男アッシュの言う事曰く、彼女はこの底知れない魅力を携えた彼に抱かれたそうだが、真偽は別にして、考えてみるだけで、胸の動悸が鳴り止まなかった。
 中でも、アッシュについて一番快かったのは、一方的だったとは言えども、彼の力強い抱擁と情熱的な接吻は意外にもとても心地よく、彼女の冷え固まっていた情感を呼び覚ました点だ。
 それに、一見支配的で抑圧的な彼だが、決して嗜虐的という訳でもなく、逃げ出した彼女を怒鳴りつけることもなく、むしろ温情をもって接してくれた。
 始めまるで荷物か何かのように、怯える彼女をずさんに扱っていた時と違って、今現在のように、彼女を尊重すべき人間としてみなした彼が、大事に抱え持ってここまで戻ってきた変化には少々面食らったものの、彼を嫌いになれない自分がいた。
 自分にとって、ネルという名前は聞き覚えのないなじみの薄いものではあっても、この男に呼ばれる時の名前はやけにくすぐったく、甘美な響きがあり、それこそ聞き惚れてしまいそうな気分に陥ることもしばしばだった。
 彼女は自分やこの世界について分からず、恐怖に臆することは多々あれど、ネルはアッシュの素性について次第に興味を惹かれていた。
 すると、余りに長く見つめられるので、遂に彼女の視線に気が付いたアッシュが、腕の中のネルを覗き込んだ。
 例えようもないほど魅惑的な灰色の瞳が、彼女の青緑色の眼差しとぶつかり、不意に、何故だか彼の熱い口づけと堅い抱擁を思い出してしまったネルは、自らのはしたなさに恥じらい、慌てて目線を逸らした。
 対するアッシュは、そんな彼女のつれない態度にどういう訳だか愛おしさを感じ、これといった目的もなく、気の赴くまま、頭と首を動かして、輝かしい白金プラチナブロンドに波打つネルの頭に優しくキスをした。
 びっくりして、呆気にとられたネルはそれこそ言葉を失ってしまったが、幸か不幸か、彼女が話す必要はなかった。
 「~~良かった・・・!戻ってこれたのね、アッシュ様!」
 昨夜と同じ服装のまま、丸太が散乱する薪割り場で立ち尽くすピケが、感極まったように、夜の森から帰還した主人と下働きへ声をかけた。
 よく見ると、黒曜石のようなつぶらな眼の下で、青黒いくすみが目立ち、彼は真夜中の迷いの深林へ入った主君を心配するあまり、ろくな睡眠がとれていないことは明らかだった。
 「ああ。心配をかけてすまなかった、ピケ」
 「そんな!もとはと言えばアタシのせいです、アッシュ様!」
 「いいや。お前のせいじゃない、ピケ。ノームの奴どもがちょっかいを出したんだ」
 「ノームって・・・、あいつらが!」
 「ああ。奴らの悪ふざけにもほどがある・・・。そういえばピケ、リサイクルはどうした?」
 「さあ・・・。多分、ショックで寝込んでいるんじゃないかしら・・・。起こしてきましょうか?」
 「いや、大丈夫だ。それこそ奴と会えば、うるさい説教が始まるに決まっている・・・。ピケ、ネルが足首を痛めた。薬湯の用意を頼む」
 と、大切な主人の言葉を契機に、ピケは目に入れているようで入れていなかった、みすぼらしいワンピースを着たネルを、改めてその黒い両目に入れた。
 見れば何と、裏切りを図ったしもべが、それこそ姫か女王のように主君の腕にきちんと抱かれ、まんざらでもないしたり顔で淑やかに収まっている!
 一体全体どういう訳があって、そのような不届き者が、彼にとって憧れの位置を占め、偉そうにふんぞり返っているのだ!?
 (キイ~~~~~!!悔しい~~~~~!!)
 と、はらわたが煮えくり返るような嫉妬と怒りで、真っ二つに切り別れそうになりながらも、今すぐネルをその場所から引きずり下ろしてやりたい激しい衝動を感じつつも、後での復讐を誓ったピケはにっこり微笑むと、調理場兼食堂へと向かって、ちょこちょこと歩いていった。
 「あ、あの・・・。もう一人で立てますから、降ろしてください・・・」
 恥じているのか、ネルは申し訳なさそうに頼んだ。
 「・・・断る、と言ったら?」
 「えっ・・・」
 「さっき目を逸らしただろう。俺への当てつけか?」
 「そ、そんな・・・」
 「・・・まあ、お前が心から降ろしてくれというならば、降ろしてやらなくもないが」
 「?」
 (心から?)
 「・・・俺はお前の何だ、ネル」
 「?」
 (何・・・?ええっと・・・)
 「・・・俺の名前を呼べ、ネル・・・」
 「あ―――」
 そうか。そういう事か・・・!
 アッシュ。
 これがこの男の名だ。
 『立てますから降ろしてください、アッシュ様』
 彼女はこう言えばいいのだ。
 だがしかし、彼はどうして今になって、名前を呼ばせようとしているのだろうか?
 彼は何故、彼女が名前を言うのを聴きたいのだろうか?
 どうして―――。
 すると瞬間、ネルの胸の鼓動がトクントクンと弾んで、血液を身体中に巡らせると、頬に赤みがジワリと滲み、唇にも赤みがうっすらと差してきた。
 目はまるで強力な磁石が引き合うように吸い寄せられ、どうしても離せなかった。
 訳が分からなかった。
 彼女は何故、たったこれだけの要求に舞い上がり、幸せであるような気分がするのだろうか?
 何故。何故。何故―――。
 「アッシュ様、お湯が沸いたわ」
 と、やや離れた調理場兼食堂の敷居から呼び込むピケの声が自問を突き破り、ネルははたと現実へ返ると、依然とアッシュの力強い両腕に抱かれたまま、丁重に運ばれていった。
 桶に満たされた赤茶褐色の薬湯はじんわりと温かく、様々な薬草の成分が溶け込んでいるのだろう、薬らしい特有の匂いが鼻を付いた。
 驚くべきことに、挫いた足首の痛みはほとんど消えていた。
 というのも、昨夜の手当てが適切だったのだろう、足首は捻る前の状態まで回復していた。
 これまで随分と不思議なものをたくさん見てきたが、感心するネルはこれこそが魔法ではないかと思った。
 「・・・うん。これなら歩いても問題はないだろう」
 足元で見上げるアッシュは軽く微笑んで見せた。
 「あ、ありがとうございます・・・」
 薬湯に濡れた素足を持たれたまま、ネルは正直に言った。
 (・・・何?何なの、この雰囲気!)
 二人を取り巻く親密な空気を感じ取ったピケは、ふさふさと生えた黒ひげの奥で歯ぎしりをした。
 「ピケ。いろいろとすまなかった、ありがとう。今日は休んでくれ」
 「・・・アッシュ様・・・!」
 「さて。俺はもう一仕事するとしよう・・・。一緒に来い、ネル。お前には俺の忠実なしもべとしての調教が必要だ」
 「「え――」」
 「――あっ・・・!」
 と、驚くネルをよそに、心を決めたアッシュが、またしてもネルを軽々と持ち上げると、二人は唖然と佇むピケの前を通り過ぎ、調理場兼食堂から出て行ってしまった。

                      ★

あの紅い寝室へ辿り着くまで、心拍がひどい爆音を刻むので、ひょっとしたら破裂するんじゃないだろうか、とネルは懸念していた。
 というのも、調教などという乱暴な事柄とは一切無縁だった彼女の人生、これから一体彼女の身に何が起こるのか、凄まじい不安と緊張で、彼女の心臓はかつてないほど性急に打っていた。
 彼は一体何をするつもりなのだろうか。
 それこそ馬の調教らしく、彼は自分を鞭で打つのだろうか。
 しなやかな革の鞭が、背中を強かに打つところを想像しただけで、ネルは辛い痛みに血が凍るほどの寒気を感じた。
 もし万が一、そのような恐ろしい事態にでもなるのであれば、彼女は今すぐ逃げなければならない!
 ゆえに、今彼女が一番欲しいものを挙げるならば、調教という恐怖が待ち受けているネルにとって、何よりもまず説明が欲しかった。
 説明――、それは、そのような暴力的なことをして、怯える彼女にほんの少しでも怖い思いをさせないという確約の言葉。
 ネルはそれさえ聞けるなら、何を捨てても、それこそ彼女のすべてを捧げても、惜しくはなかっただろう。
それくらい、今現在のネルにとっては、説明が喉から手が出るほど必要だった。
 だがしかし――、幸か不幸か、目前の扉はもう開かれ、例の奇妙な赤い部屋が、彼女の鮮やかな翡翠色の瞳に飛び込んできた。
 とはいえども、運ばれるネルがぐるりと見渡して、奇抜な寝室について改めて考えを巡らす余裕などは全くなく、彼女は言葉を発する間もなく、部屋の中ほど、真っ赤な壁際に置かれ、高い天蓋から優雅に垂れる真紅のカーテンを両脇に備えたベッドへと、一目散に運ばれた。
 「あ、あの――!――っん・・・♡♡!」
 と、寝台へ降ろされるや否や、ネルは急いで口を開いたが、言葉はすぐにアッシュの唇で塞がれ、かき消されてしまった。
 「ん♡♡ん、ン~~~ッッ・・・♡♡!!」
 紅いマットレスに膝をつき、ネルの繊細な腰をがっちりと支えるアッシュは、ネルの口の中を好きなように弄んだ。
 (~~~息、~~~苦し・・・!)
 と、大変な酸素不足で苦しむネルは、息も絶え絶えだったが、熱烈な口づけが止むことはなく、遂に溢れた唾液が零れ、ネルの唇の縁から艶かしく滴り落ちるありさまだった。
 「あ♡♡う、~~~ッッ・・・♡♡!!」
 そして、執拗に重なり合っていた唇がやっと離れると、ネルはかすむ意識と荒い息遣いの最中、神に感謝した。
 というのも、完全な呼吸困難に陥っていたネルは、約束の地がすぐそこに見えていたからだった。
 「~~~もぉ・・・、何するんですか・・・!」
 「何をするかって?当然、お前を抱くに決まってるだろう、馬鹿」
 「ば、馬鹿って・・・。だ、抱くって・・・」
 「これは決定事項だ。異論は許さない。俺は主人で、お前はしもべだ」
 「は、はああ!?」
 「何、不満か。だが言ったはずだ、ネル。俺は俺の忠実なしもべとしてお前を調教する、とな・・・」
 という脅しにも似た文句の言い終わり様、アッシュの温かくて大きい手のひらが、乱れたおんぼろスカートから伸びた彼女の太ももを撫で、ネルはとっさに頬を赤らめた。
 「い、いやです!わたしはあなたの忠実なしもべなんかじゃない!~~わたしは――、~~わたしは――!」
 ・・・誰、なんだろう・・・?
 「・・・いいか、ネル。俺が言いたいのは、お前が忠実なしもべだろうとなかろうと、そんなことはどうだっていい話だ・・・。お前が特別な聖女だろうが普通の人間だろうが、それこそ俺と同じ魔人だろうが、俺はお前が欲しいんだ、ネル・・・」
 お前が欲しい――。
 そう言った男の眼差しには真摯な灰色の光が宿り、驚き惚けるネルの碧い瞳を射抜かんばかりに見つめていた。
 彼女はこれほどまで熱心に、彼女自身を求められたことが、今まで生きてきた中であったろうか?
 すると、ネルはまるで死の淵にいた人が息を吹き返し、生気を取り戻すように、頬に鮮やかなバラ色が生き生きと差し、唇もサクランボみたく艶やかに色づいた。
 心臓も再び動き出し、甘い音楽を奏で始めた。
 このひとがわたしを欲しがっている――。
 他の誰でもない、このわたしを――。
 「・・・ネル・・・」
 真剣な面持ちのアッシュは灰色の視線で留めたまま、意味深に呼ぶと、ネルの白金の毛束を取って自分の唇へ当てた。
 「!」
 刹那、胸の内側で心臓がドキッと跳ね、鎮めようとするネルの思惑を外れ、心臓はバクバクと収縮した。
 次いで、毛束が軽く引き寄せられると、頭は自然と一緒に動き、ネルは再び吸い込まれるようにアッシュの口づけを受け入れた。
 「ん♡♡―――・・・」
 心臓は今までにないくらい余りに活発に動くので、血の巡りが素晴らしい今では、身体はもはや熱いくらいだ。
 舌が口の奥まで入り込んできて、持て余す彼女の舌をすくい取り、絡めていく―――。
 何て淫らで熱情的な甘いキスだろう!
 それは何とも言い難い心地よさにふやけつつあるネルの脳をさらに溶かし、彼女の頑なな理性や常識を隙あらば台無しにしてしまおうと脅かしてくるため、キスはネルにとって危険なものにさえ感じられてきた・・・。
 抗え、いや抗わなければいけないと理性は命ずるが、身体はまるで自分のものじゃないみたいだし、思惑は混線していた・・・。
 それこそ本気の求愛と比べれば、理性などは、ほんのちっぽけなものにすぎないと思えてならなかった・・・。
 だがしかし、求めているからと言って、はいそうですかと素直に与えるほど自分は安くないし、何より常識や理性、それから女としての矜持でごちゃ混ぜになった何かが、彼女がし得るだろう軽率な行動を反対していた。
 と、なんだかんだ考えている内に、いつの間にか紅のマットレスへ背中を預けていたネルは、直前まで自身の唇に触れていたアッシュの唇が、彼女のほっそりと伸びた首筋に吸い付いている事実を知った。
 「いや・・・。やめて・・・、調教なんていや・・・!」
 「ただの言葉の綾だ、ネル・・・。俺はお前の全てが欲しい・・・から、今すぐこの薄汚い服を脱ぐんだ、ネル」
 「い、やです・・・!何で脱がなきゃいけないんですか・・・!」
 「何で?馬鹿。決まってるだろう、こんなみっともないぼろ雑巾みたいなもの、これ以上見てられるか。お前には後でもっと似合う服を用意してやる」
 と、アッシュは言う傍ら、擦り切れほつれた鉛色のワンピースの裾をつかみ、下から上へ引っぺがそうとした。
 「やだ、やめて!ちょっと、引っ張らないで・・・―――きゃあ!?」
 瞬間、束の間のすったもんだの末、哀れなおんぼろワンピースのすり減った生地が裂ける痛ましい音が響き、裂け目はスカート全体を縦に深々と走っていた。
 ・・・信じられない・・・!
 ベッドから半身を起こしたネルは愕然とした。
 「ハハ、これで脱ぐ手間が省けたな、ネル。ああもう脱がないんだったら、俺が脱がしてやる」
 「――きゃっ、ちょっと待っ・・・!~~~分かった、~~~分かりましたから・・・!」
 「・・・言ったな?」
 破れたワンピースを剥ぐ手を止め、ニヤリと微笑むアッシュの笑みは何とも小狡い。
 「―――」
 直ちに、ネルはとっさに口を突いて出た言葉を恥ずかしさと共に後悔した。
 それと同じくして、ネルは崖から落ちるか落ちないかの瀬戸際で、退路を断たせたアッシュの強引なやり方が気に入らなかった。というより恨めしかった。
 ああもう、彼女は何て馬鹿なんだろう!
 これでは、何も知らない無垢な小ウサギが進んで罠へはまりに行くみたく、この男の思うつぼではないか!
 だからもし、ほんのちょっとでも過去に戻って、彼女が放った台詞を取り消せるものならば、喜ぶネルはこの身が滅びようとも一向に構わなかっただろう。
 しかし、もうどうしていいのか、理性や常識がとっくの昔に崩壊したネルの頭では、処理しきれなかった。
 つまり、そうした彼女の中で残るはなけなしの気力と――、アッシュが彼女を欲しているという半端ない高揚感だけだった。
 追い詰められた彼女を見つめる灰色の瞳は悪戯っぽく光っていて、そんな眼差しを受けたネルの心臓の鼓動は、煽られたかの如く荒々しかった。
 「・・・ネル・・・」
 と呼ばれ、ネルはビクッと反応した。
 というのも、声はまるで甘美な恋の歌でも歌っているかのように甘く、呼ばれたネルは並々ならぬ歓喜と驚きを感じたからだ。
 よって、驚きが非常に大きかったため、何をしているかの自覚もなく、頭の中が真っ白のネルは、微かに震える手でワンピースを掴み、頭を通して脱いだ。
 「―――」
 意外だと言わんばかり、アッシュの灰色の目が驚いたように見張られた。
 「・・・いい子だ、ネル・・・。俺の名前を呼んでみろ・・・」
 アッシュは言いながら、手をネルの頬へ優しく当てた。
 肌を通して伝わる手のひらは広く、温かかった。
 ネルは小さな手を上へ重ねると、初めて魔人の名前を口にした。
 「・・・アッシュ・・・」
 「・・・ネル・・・。お前が好きだ・・・」
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