聖女の加護

LUKA

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何故自分ばかり、このような目に遭わなければならないのか?
 夜中の漆黒に隅々まで染まった森の中、ネルは途方に暮れ、不運な身の上を嘆いた。
 (一体わたしが何をしたって言うの・・・!)
 こみ上げてくる嗚咽を必死に殺し、ネルはやりきれない思いに苦しんだ。
 せっかくこれ以上怖い思いをせんがために、息が楽につける場所目指して、あのように末恐ろしい古城から、しゃにむに抜け出してきたというのに、真っ暗な森の真ん中で置き去りにされるなど、より一層ひどいではないか!
 しかし、とはいえども、今さらのこのこと城へ戻るつもりは毛頭ない上、迷いの森を永遠にさすらうことなど、できやしない。
 どうしたらいいんだろうか・・・。
 ネルはあてどもなく考えた。
 「・・・~~ううっ・・・、寒い・・・」
 寒気が肌を伝い、ぶるぶる震えると、ネルは衝動的に腕を抱きかかえた。
 ぺらぺらの薄生地一枚で仕立てられた、心もとないおんぼろワンピースは、寒さをしのぐどころか、透けて地肌が見えないだけの機能は果たしているという風情だった。
 冷えの次に、夜の闇から生まれた寂寞が、無力な聖女をいきなり見舞った。
 というのも、冷厳なまでに押し黙った、死にも似た、深くて暗い森にたたずんでいると、生き物が他にいるのだろうが、ネルは宇宙に放り出されたような、完全に一人ぼっちのような気がしてならかった。
 寂しさは、直ちに恐怖に取って代わり、ネルは第三者に責められているような、心が暗鬼に満ちていくことを知った。
 ――怖い!
 いたたまれないとは、正にこのことだ!
 今すぐ、この場を離れなければ!
 恐怖は彼女にとって独裁者であり、暴君でもあった。
 もし夜通しここに留まり続けたとしたら、恐怖でどうにかなってしまいそうだ!
 とにかく、行かなければならない。止まっていてはだめだ。
 よって、恐慌に駆られた脳が指示を出すと、ネルは無我夢中で立とうとする。だがしかし――、
 「痛っ」
 面をやや険しく歪め、ネルは片方の足首を見やった。
 結構な暗さゆえ、傷口を見ることはかなわなかったが、ネルは足首の一つが、正常に機能していないことは理解した。
 これは恐らく、先ほど木の根に足を取られ、転んだときに挫いたのだろう。
 「~~~」
 言葉にならないもどかしさを感じつつも、ネルは立ち上がることに奮闘した。
 片足は使えないが、歩けないことはない。
 したがって、ネルはびっこを引き引き、今度は恐怖を司令塔に、暗黒の森の中を進んだ。



食堂ダイニングホールでは、主人席に座ったアッシュが、ドラゴンにまつわる古文書を読みながら、これまたドラゴンの彫刻が施された杯で、赤紫色のぶどう酒を啜っていた。
 机の上で、白磁や銀の食器は整然と並べられ、シャンデリアや燭台に灯るろうそくの光を受けて、鈍く輝いていたが、料理は未だ載っておらず、活躍を今か今かと待ちわびていた。
 長い年月のために黄ばんだページを繰る音と、ときたまワインを啜る音、それからろうそくの火がちらちらと揺れる、無音にも等しい至って些末な音のみが上がる、静かな宵。
 傍から見ると、本に集中しているように見えるが、その実、意識の枠から外れていたけれども、アッシュは、まもなく姿を見せるだろうネルに思いを馳せていた。
 二人が初めて出会ってから、彼はまだ彼女の怯えた顔や、困惑した表情しか見ていない。
 どういう訳だか、無意識ながらも、アッシュはネルの微笑みを目の当たりにすることを、望んでいた。
 しかしながら、とはいえども、彼からすれば、ネルなど単なる捕虜に過ぎず、特別な感情など生まれようもないのに、彼女の笑みを見たくて仕方がない自分がいる!
 それはすなわち、自分のために死んでいく女に、憎まれたくないがための、おのれの甘さゆえかと、アッシュは考え、一呼吸おいてから、まあそんなところだろうと、思い直した。
 そうこうしているうちに、向こうからやって来る、パタパタという足音が食堂ダイニングホールの床に響き、アッシュは古びた書物から顔を上げた。
 見ると、白銀のワンピースに身を包み、豊かな白金の髪を下げた、碧い瞳のネルの姿はそこにはなく、代わりに、二体の見慣れたゴブリンが立っていた。
 一匹は、年老いてはいるが、威厳のある、コブ付きの醜い従者。
 そしてもう一匹は、黒い口髭をふさふさと蓄えた、城の炊事当番。
 「何だ、ピケじゃないか。最近見なかったな。どうした?」
 アッシュは厚い古書を閉じると、優しく話しかけた。
 「あ、え、は、・・・まあ・・・」
 ピケはもじもじと、困っている仕草で答えた。
 「? どうかしたのか?リサイクル、ネルはどうした?」
 しかし、当のリサイクルは主人の質問には答えず、一方的に引き連れてきたピケに、同様な問いを無言で投げかけた。
 「・・・~~~・・・」
 そわそわと、ピケの動きは全くもって落ち着きがなく、簡単には言い出せない何かを抱えている感じが、ありありと見て取れた。
 よって、それを鋭く勘付いたアッシュは、声に特定の感情を込めず、言った。
 「・・・ピケ、ネルはどこだ」
 刹那、張り詰めた緊張の糸が切れたように、ピケはぶわっと泣き出した。
 「あ~~ん!!ごめんなさ~い、旦那様~~!!お願いだから、豚になんかしないでぇぇ~~~!!目を離した隙に、いなくなっちゃったのよ~~~!!」
 オイオイと大声でしゃくり上げながら、ピケは真実を告白した。
 いなくなった!!
 かつてない衝撃が老いたゴブリンを襲い、リサイクルはもうちょっとで、ひっくり返ってしまいそうだった。
 だがしかし、とはいえども、この老体の中に、豚などでは生ぬるい、このように大それた過失を犯した者を生かしておくべきものかという、殺的な怒りが直ちに沸き上がり、哀れな部下向かって、リサイクルは口を切った。
 「ピケ!貴ま~!!――」
 二の句を間髪入れず継ごうと息巻くも、主人の長い腕に制された小鬼は、たたらを踏んだ。
 「アッシュま!」
 下僕の憤るしゃがれ声がよく通った。
 「リサイクル、少し黙ってろ」
 アッシュの冷静な言葉が放たれた。
 「ピケ、お前はネルがいなくなったと言うが、一体どこへ行ったというんだ?城を囲む森以外、城から離れられる場所なんて存在しやしない。あそこは、あの森に精通している者だけが踏破できる、未開の地だぞ?」
 アッシュは椅子に座ったまま、涙で顔を濡らし、すすり泣くピケへ、淡々と語り掛けた。
 「そ、それはそうだけど・・・。でも、本当にいなくなってたのよ・・・」
 訳が分からないと言わんばかり、もじゃもじゃの黒い髭まで涙をたっぷりと浸みこませ、ピケはしゃくり上げた。
 「いなくなってたじゃないだろう!どうして見張っておかなかったんだ!」
 すかさず、側のリサイクルが、耳に障るしゃがれ声で怒鳴り立てた。
 「黙ってろと言ったろう、リサイクル」
 アッシュは変わらず冷ややかに命じた。
 「これが黙っていられましょうか、アッシュま!だから私は反対したんでい女なぞ、生かしておいてはろくなことにならないと――!%$&#+*!?~~~!!」
 急に言語が不自由になったゴブリンの戸惑いを尻目に、何一つ喋らなかったものの、額の紋様が妖しくうごめいたアッシュの思惑通りとなった。
 一時的に、彼は魔の力をもってして、うるさい従者の舌を消したのだ。
 「ピケ、お前とネルはどこにいたんだ?」
 愚鈍な牢屋番、サイクロプスのサニーよろしく、何やらもごもごと訴えるリサイクルを歯牙にもかけず、アッシュはもう一体のゴブリンに訊いた。
 主人の高等な魔力に少々怯えつつも、頭ごなしに叱られないことに安堵したピケは、口をもたもたと開いた。
 「・・・薪割り場です・・・、旦那様」
 「そうか」
 と言ってアッシュは立ち上がると――、
 「ピケ、お前も来い。安心しろ、豚になんぞしやしない」
 そう弱く微笑んでから、城の当主と調理係は、頭上で星が瞬く夜の闇と、目の冴えるような冷気に包まれた外へ出て、東の片隅に小さく構えた薪割り場へと、足を運んだ。
 よって、ぼろぼろのランプで照らし出されたのは、ごく当たり前で、日常的な風景――、切り株に深々と突き刺さる斧、散らばる丸太、積まれた薪束だった。
 普段と変わらない、何の変哲もない薪割り場だったが、実のところ、目ざといアッシュの灰色の瞳には、地面に不可思議に盛り上がった、一筋の線が入っていた。
 線は森へ続き、木立や藪の中に消えていた。
 したがって、漆黒のマントを纏い、ほぼ暗闇と同化していたアッシュは、後ろでおんぼろランプを抱え持つピケに振り向いた。
 「明かりを貸せ、ピケ。今から森へ入ってくる」
 「ええっ、そんな!無茶よ、旦那様!」
 魂消たピケは、あわやランプを落としそうになった。
 しかしながら、アッシュは年代物のランプを素早くひったくると、黒一色に塗りつぶされた森林へと消えていった。
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