聖女の加護

LUKA

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一体いつの間に、日中を明るく照らしていた日が暮れ、沈んだ太陽に代わって、見事な金色の月が、宵空の中、再びありありと浮かび上がったのだろうか。
 穏やかでうららかな昼間と裏腹に、迷いの深林は、どこか狂気的な静けさを含む、森が本来持つべき獰猛な夜の姿を、一変して見せていた。
 気温は驚くほど降下し、そよ風に揺らぐ梢の合間から降り注ぐ、月の光以外何の明かりもない、真っ暗闇な森の中、梟や虫が不吉に鳴く傍ら、四つ足の夜行性動物が、えさを求めてうろつきまわる音だけが、物悲しく響いていた。
 「―――きゃっ!」
 ついに、視界の満足に効かない宵闇の中、まるで罠か何かのように、地面を傲慢にも突き破り、誰かの足を引っ掛けるためだけに存在しているような、忌々しい木の根に足を取られ、派手に転倒する聖女の、悲劇的な悲鳴が、その痛々しい着地音と共に上がった。
 「ダイジョウブ?」
 すぐさま、先を行っていたノームの動きが止まり、背後の遊び相手を振り返った。
 「う、うん・・・。でも、まだ森を抜けられないの・・・?」
 ネルは、少々苦心して半身を起こしながら言ったが、哀れにも、今夜の月に瓜二つの、美しい白金の髪や、透き通るような乳白色の頬は、濃い茶色の土に汚れ、ずた袋みたいなワンピースの胸元にも、泥土がべったりと付着していた。
 「・・・アトモウチョットダヨ」
 ノームは言った。
 「ほ、本当に・・・?さっきからずっと、もう少しって言ってるけど・・・」
 縋りつつも、ネルは夜目の効かない暗闇の中、ぼんやりと発光する小人を訝しげに捉えた。
 「・・・オネエチャン、ボクガウソツキダッテイイタイノ?」
 ノームは答えると同時に訊いた。
 「そ、そんなことはないけど・・・!・・・でも・・・」
 消え入る言葉尻に疑念を濁しつつ、ネルは辺りを不安げに見回した。
 見通しの効かない闇の中、入った時と変わらず、幾本ものおびただしい大小の木が厳粛にそびえ立ち、冷えた夜と、独特の静寂に怯える聖女を取り囲んでいる。
 誰の目から見ても、出口へ向かっている気配がないのは、明らかだった。
 「・・・オネエチャン、ボクトイッショニアソンデクレルンジャナカッタノ?」
 しょげているとも、怒っているとも聞こえる、ノームの声が返ってきた。
 「う、うん・・・。でもね・・・?」
 すぐさまノームの気分に感づいたネルは、急いで損ねた機嫌を取ろうとした。
 しかし、幼気な声と言葉を苦し気に詰まらせて、ノームは言い淀んだ。
 「・・・ボク・・・、ボク・・・――」
 次の瞬間、にわかには信じがたい光景が、驚くネルの翡翠色の瞳に映った。
 瞬く間に、彼の顔ほどもある巨大な舌が躍り出て、ノームは地面にへたり込むネルに向かって、これでもかというくらい意地悪な、あっかんべえをした。
 彼はなお悪いことに、小さな指を使って、目尻を下に引っ張り下げ、何とも小生意気で挑発的な表情を作っていた。
 次に、子どものふざけた、キャハハと甲高い笑い声が響き、ぴょんぴょん飛び跳ねる彼は、手を上に叩いて、大いに喜んでいた。
 「ヤーイ、ヤーイ!キャハハ!ヒッカカッタ、ヒッカカッタ~!!」
 「―――」
 当然のことながら、ノームの余りに突然の変わりようにびっくりしたネルは、しばし呆気にとられ、口もきけなかった。
 一方、そのように驚きに我を失うネルの目前で、小悪魔的な本性を露わにしたノームは、誰もいない周りに向かって、大声で呼びかけた。
 「オイ、ミンナ!デテミロヨ!」
 すると途端に、低木の茂み以外何もなかった辺りの地表から、土が一斉に盛り上がったかと思うと、その中から、ノームと全く同じ背格好の小人たちが複数飛び出てきて、新たな驚きに苛まれたネルは、碧い目をギョッと剥いた。
 「!?」
 そして、身を隠していた他のノームたちが、彼らのいたずらに、まんまとはめられたネルと対面するや否や、キャハハと、笑いの大合唱が、静かな宵闇の中、けたたましい鈴のように鳴り響いた。
 「・・・えっ・・・?」
 凄まじい混乱が容赦なく襲い掛かり、現実の飲み込めないネルは、呆然と呟いた。
 すると、小人の一人が堪らず吹き出した。
 「オネエチャン、マダワカラナイノ?モリノデグチナンテ、ハジメカラナインダヨ!」
 言葉を皮切りに、ドッと笑い転げるノームたち。
 ・・・ない・・・?
 最初から、森の出口なんてなかった・・・!?
 衝撃かつあるまじき真実に、ネルは愕然と項垂れた。
 ・・・騙された・・・!!
 「オネエチャンタラ、ホントウニニブインダモノ!ボクタチガイレカワッテタコト、シッテタ?」
 先ほどのノームとはまた別のノームが、嬉しそうに尋ねた。
 入れ替わっていた!?
 「~~ひどい!・・・騙してたのね!?」
 ネルは黒い地面に半分伏したまま、周りのいたずらっ子たちを口惜しそうに睨んだ。
 しかしながら、とはいえども、反省の念など露ほども持ち合わせていないノームたちは、ただヘラヘラと笑い合うだけだった。
 「アー、オモシロカッタ!オイ、ミンナ!モウジュウブンタノシンダシ、カエロウゼ!」
 城の薪割り場で出会ったノームが、他の仲間に元気よく語り掛けた。
 すると彼らは揃いにそろって、小さな頭をうんうん頷き合うと、土の中へ次々と潜り込み、来た時と同じように、線を引きながら、森の中のどこかにある住処へと、帰っていった。
 「えっ、ちょっと待っ・・・」
 「ジャアネ、オネエチャン!マタアソボウネ~!」
 最後に残ったノームが去り際、小さな手をひらひら降って言うと、そのこぶし大ほどの姿は、あっという間に土の中へ消えてしまい、ネルは――、どうすることもできなかったネルは、その場にへたり込んだまま、暗い夜の迷いの深林に、ただ一人取り残されてしまった。



楽しい楽しい夕食の時間がやって来た。
 献立は、家畜小屋で搾った新鮮な牛乳と、菜園で採ってきて、皮も剝かずに大まかに切った色鮮やかな野菜、それからぶつ切りの鶏肉で煮込んだ、白茶色のクリームシチュー、窯で焼いたパン、水またはぶどう酒に蜂蜜酒と、シンプルながらも滋味深い品目で、一働き終えたゴブリンたちは、蜜蠟の黄色いろうそくに灯った火や、年季の入った、古ぼけたランプのぶら下がる調理場兼食堂に列をなし、炊事当番でもあるピケの提供を心待ちに待った。
 「・・・」
 しかしながら、そうした仲間たちの高揚にもかかわらず、当のピケは何やら上の空で、普段はお喋りの口数も少なく、時折憂いのため息を短くついては、深い鍋からすくう茶色がかったシチューを、同胞たちの皿へ機械的に移していく。
 すると、ひと悶着あった家畜番のゴブリン、ミノ・モンタらが、いつもは勝気な同僚を見かねて、しゃがれ声を親しくかけた。
 「どうしたんだよ、ピケ。腹でも壊したのか?」
 と、尋ねるミノ。
 「そうだぞ、つまみ食いのし過ぎか?」
 と、冷やかすモンタ。
 「・・・」
 ピケは虚ろな黒い瞳で二匹を見返してから、ふうーっと長いため息を吐いて、ぼそりと呟いた。
 「あんたらはいいわね、呑気で」
 「「・・・?」」
 したがって、言葉の意味がよく分からなかった二体の小鬼は、互いの顔を不思議そうに見合わせた後、列を進んで離れていった。
 だがしかし、理解されなかったとはいえども、それは、他のゴブリンたちには、計り知れないほど重大な秘密を抱えているピケにとって、嘘偽りない本心だった。
 事実、彼はこのようなところでシチューを黙々とすくって、よそっている場合ではないのだ!
 今すぐにでも、シチューをすくうためのおたまを投げ出して、誰の目も届かない世界の果てへ、さっさと逃げ出さなければならないのに!
 「ハア・・・」
 濃い黒髭に覆われた口から、またしても憂慮のため息が自然と漏れ出た。
 ボスでありながらも、老いぼれたリサイクルはともかく、あの聡明なアッシュをごまかし抜けるものだろうか?
 ああ神様!あのネルとかいうみすぼらしい女の記憶が、みんなの頭から、一瞬にして消えてなくなってしまえばいいのに!
 悶々とピケは悩み、癒しを必要としていたが、その活力の源から嫌われてしまうかもしれないという、甚大な恐怖の前で、成すすべなく、手をこまねいていた。
 そして、審判の時は確実に近づいていて、列も短くなってから、主人の指令を受けたリサイクルが、調理場兼食堂にひょこひょことやって来た。
 「ピケ、アッシュまがネルをお求めだ。ネルはどこだ?」
 しわしわのクラヴァットをきちんと締めたリサイクルが、台座の上に立つ彼を見上げた。次いで、律義に順番を待つ残りのゴブリンたちも、顔を向けた。
 「え、ええっと・・・」
 ピケは言い淀んだ。
 「?」
 「そ、そうね。さっきから姿が見えないわね。お手洗いにでも行ってるんじゃないかしら、ボス」
 努めて平静を装いながら、ピケは言った。
 「うか。あとどのくらいかかりうだ?」
 「え!?さ、さあ・・・」
 と、内心焦ったピケは濁したものの、カメレオンを彷彿とさせる、上司の薄気味悪い眼で見つめられる不気味な間が後に続き、心臓と居心地の悪いひと時を過ごした。
 「・・・分かった。もうしばらくかかると、報告してこよう」
 「そ、そう。お願いね、ボス」
 そして、ようやく責め苦から解放されると、ピケが胸をなでおろした矢先、リサイクルは言った。
 「お前も一緒に来るんだ」
 「え!?」
 と、驚き慌てふためくピケの腕を、リサイクルはがっしと掴み、台座から引きずり下ろすと、来た道を彼と共によちよちと戻り、明るい調理場兼食堂を後にした。
 他方、おなかの空いた小鬼たちは、扉の向こうに消える彼らなど、眼中にないといった様子で、ピケの作った料理を思い思いに堪能していた。
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