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今朝は清々しい朝だ。
長い習慣ゆえに、目を自然と覚ましたリサイクルは、自分の小さな寝床から起き出すと、壁に開いた窓へ顔をやって、燦々と輝く朝日、雲一つないよく晴れた青い空、その中を気持ちよさそうに、のびのびと泳ぐかのように飛ぶ鳥たちを眺めた。
そして、彼はそれから感慨深いため息を一つつくと、身支度を整え始めた。
ひび割れ薄汚れた鏡がはめ込まれた古そうな鏡台へ向かい、自分の背の丈ぐらいある高い椅子に慣れた仕草で乗り込むと、木の取っ手と豚毛でできた櫛を手に取り、ほとんど真っ白に近い髪の毛――ごわごわで、ぐしゃぐしゃだった――を、梳かす。
ひび割れた鏡の中に、一生懸命に鏡を覗き込んで、映るぼさぼさの白髪を梳かす老魔物が映っていたが、その黒曜石のような小粒な瞳は、不思議にもぐるぐると円を描いていた。
満足の及ぶところまで髪を梳くと、リサイクルはよいしょと足のつかない椅子から降り、鈍い光を帯びた飴色の鏡台を後にすると、隣の小部屋、すなわち洗面や用を足す所へちょこちょこと赴き、三脚の白木のスツール――三脚には間違いなかったが、一本の先が無残にも折れ、実質、背もたれのない素朴な椅子は二本足で支え立っていた――を横目に、城の水汲み場からあらかじめ水を入れておいた琺瑯の水差しを、冷たく押し黙る石床から取ると、スツールの上に載った、所々欠けた陶器のボウルへ水を注いだ。
その後、彼は部屋の片隅に置いてあった、足台代わりのレンガを持ってくる(この老ゴブリンは年を重ねてはいるけれども、まだまだ力持ちだった)と、脚先の一本が折れたスツールの前に置き、糸がほつれた小さなスリッパを履いた両足を載せて、立った。
朝起きて、まず顔など洗わない他の不衛生なゴブリンたちと違って、身綺麗にすることを心掛けているリサイクルは、壁にくっついているフックに掛かっている、目の粗い生成りの布を取り上げると、ボウルに満たした水に浸した後、軽く絞って、お世辞にも綺麗とは言えない独特な顔を拭いた。
長い年月が経ち、老いたしもべの固い皮膚には、幾本もの筋がくっきりと走り、禿げあがり、醜いコブが膨らんだ額の生え際には、手指と同じような茶ジミが、ぽつぽつと色濃く浮かんでいた。
気分もさっぱりすると、リサイクルはふうっと息を吐き、粗布を元あった場所へ掛け戻した。
そして、彼は台代わりのレンガから降りると、着替えを済ますために、再びベッドのある部屋へちょこちょこ歩きで戻った。
部屋の出入り口近くに設けられている、のっぽな古時計にも似た、彼の小さな背丈には不釣り合いなほど大きな衣装だんすまで来ると――何着も掛けられそうに広々としたたんすの中には、普段着ているサイズ違いでぱんぱんの黒のジャケットと、丈の短いぴちぴちのズボン、黄ばんだ生成りのシャツ、しわしわのクラヴァットだけが、金属のハンガーに丁寧に掛かっており、見る者にとっては、たんすの中は滑稽な印象に映った――、リサイクルは筒状の綿の寝間着から、いつもの装いに着替えた。
そして、糸のほつれた粗末なスリッパから、黒くて小さい紐付きの革靴を履いたリサイクルは、自室を後にすると、意気揚々と主人の居場所を目指した。
道中、リサイクルはまたしても肯定的なため息をつき、うっとりと考えた。
ああ、今日は記念すべき日だ!
ついに、今日はご主人様の長年の望みだった、あの似つかわしくない聖女を捧げてこの世を支配する、栄光かつ偉大なる一日!
我ら魔物一族を始め、闇の眷属たち一同が牛耳り、世界を恐怖に陥れる強大な支配者となる、特別な日!
そう遠くはない喜々とした未来に、リサイクルは目を細まんばかりにほくそ笑み、城の回廊を通り抜け、いくつもの廊下を進んだのち、彼はまず主人の紅い寝室へ足を運んだ。
しかしながら、何度呼びかけてみても、部屋の内側から返事はないし、ドアをしつこく叩いてみても、アッシュの苛立たしそうな怒声は聴こえない上、眠っているには異様に静かすぎると感じたリサイクルは、次に食堂へ歩みを寄せた。
石柱の間から明るい太陽光が燦々と入る、丸屋根の広い食堂は、長い食卓と何脚もの椅子が、しめやかに佇んでいる以外もぬけの殻で、がらんとしていた。
ここでも主人が見つからないので、困惑気味のリサイクルは、はてと首をひねった。
寝室にもいないし、食堂にもいない・・・。
とすると、主人はどこへ行ってしまわれたのだろうか?
・・・もしかしたら・・・。
そして、閃いたリサイクルは半信半疑ながらも、城の一隅にあるとある部屋へちょこちょこと赴くと、城の出入り口を護る門扉よろしく、厳めしい厚い木の扉を体当たりで押し開け(鋳造の丸い取っ手が付けてあったけれども、彼の手がかろうじて届くか届かないくらいの位置にあった)、ギギィーッときしむ音を響かせながら入った。
部屋は暗く、奥で妖しげに光っている光の他に光源はなく、リサイクルは不思議な色に発光する光の手前で、何やら作業をしている主人の方へ向かっていった。
一歩ずつ、小さな歩幅が近づいていくごとに、リサイクルの焦点のずれた瞳に、鋳鉄の鍋釜のあらゆる方向から吐き出る白い煙が、細い筋となって、床や壁や天井にまでたなびく様が映り込み、鍋釜の光る中身に照らされて、ぼんやりと浮かび上がる中二階の書棚――床から天井まである高い棚に、上から下まで本がびっしりと詰まっていた――それから、何かを煮込んでいる竈の明かりによって、傍らの机の上でひしめいている素材――薬草や生花などの草木を始め、見たこともない珍しい植物(透明なガラスケースに粛然と収まっているものもあれば、鉢を土台に旺盛に動き回っているものもいた)、カゴの中でめったやたらと鳴く昆虫、止まり木に留まったまま、色鮮やかな羽をばたつかせる鳥、一見ネズミのような風貌だが、モグラとも言える四つ足の細かな珍獣、水槽の中で悠々と泳ぐ魚やタツノオトシゴと、動物もいた一方、真鍮の天秤の上に載った、様々な形の木の実や貝殻、色とりどりの砂、大小に並んだ無数の瓶――が見えた。
「アッシュしゃま」
リサイクルは内側から光り輝く鍋釜を目前に、影を投じる主人の背中に語り掛けた。
「――ああ、リサイクルか。どうした?」
しもべの存在に気が付いたアッシュは、少し斜め後ろを振り向くと、鍋釜をかき混ぜる手の動きを休めないまま、訊き返した。
「お部屋にも食堂にもいらっしゃらなかったので、よもやと思いましたが、やはりしゃ業場へおいででしたか」
とリサイクルはしゃがれ声で言ったが、というのも、彼は愛馬クロムのいる厩と迷った挙句、低級な魔法を使う一魔物のゴブリンと異なり、著しく高度な魔法を操る魔人の主人が、生命の有無を問わず色々なものを生み出す、厩と同じくらい日常的に足を運ぶ作業場を、選んだからだった。
「まあな」
アッシュはもう一度、背後のしもべの方を振り向くと、軽く微笑んだ。
「強力なベビードラゴンを創ろうと思ってな。ドラゴンにまつわる城の魔術書を片っ端から参考にして、ただのトカゲの卵を、まじないと魔法薬で煮込んで温めている」
「しゃ様でしゅか」
リサイクルはずれた黒目を数回瞬きながら、魔法が功を奏して成功した暁には、たった今鍋釜からぐつぐつと煮える音が、鋭い牙が何本となく並んだ危険な口から、すべての事物を焼き尽くす恐ろしい大火炎を吐き出す、ベビードラゴンの狂暴な咆哮に取って代わられる光景を想像した。
ドラゴンは、同じ魔力を帯びた同類には変わりないのだろうが、禍々しいほどの恐ろしさに、リサイクルは何とはなしに縮み上がる思いがした。
・・・ふいー、くらばらくわばら・・・。
すると、大事な要件を思い出したしもべの老ゴブリンは、息継ぎもなく素早く二の句を継いだ。
「アッシュしゃま!ドラゴンももちろんしゅ晴らしいでしゅが、目標でもありました例の!念願の、しぇ界を牛耳り、我ら魔族たちのちょう怖で支配しゅる偉大な計画を!」
その時、かき混ぜていた鍋釜の光彩が、不可思議にも緑色から黄色に一瞬で変化したため、アッシュはひとまず下僕の要求には答えず、手を傍らの机へ伸ばして、赤茶色の砂を掴み、黄色の鍋釜の中に投入すると、ぶつぶつと呪文を唱え、再び鋳物の杓を持った手を動かした。
そして、少しかき混ぜてから、アッシュは口を開いた。
「・・・その件だが、リサイクル。頼みがある」
か弱き聖女をいたぶって、彼を始めとする、すべての魔物たちが力を持つ世の中を期待していたリサイクルは、目をくるくると回しながら嬉しそうに答えた。
「何なりと、アッシュしゃま」
「聖女ネルは命乞いに、俺という主人に忠誠を尽くし、心身ともに仕えると誓った。俺はあいつの加護に護られ、仏心を出したわけではないが、『聖女の加護』は何かと便利な力だ。利用する手はないだろう。だからそこでだ、リサイクル。俺とこの居城に仕える魔物たちの長であるお前に、聖女ネルの監視を頼みたい」
アッシュは淡々と、何事もないかのように喋った。
最初、主人の言っていることが信じられない驚きから、彼の目が点になったと言いたいところだったが、この不細工なゴブリンの目は斜視が甚だひどく、実際には、黒目は動揺しているかのように、四方八方と慌ただしく動いていた。
「な、何を言っているんでしゅか?アッシュしゃま」
やっとのことで口を開けたリサイクルは、それだけ言った。
命令は度肝を抜かれるほど驚愕的だったが、リサイクルはやっぱり耳を疑った。
「聖女ネルは生かして、しばらく俺の側に置く」
アッシュは困惑するゴブリンに背を向けたまま、短く率直に答えた。
「んな・・・!!アッシュしゃま、しょれは正ちで言っているのでしゅか!?しぇっかく、憎たらしいしぇい人どもからしぇい女を奪いしゃった上に、あの忌々しい勇者までをも、追い返したところでしゅのに!」
リサイクルは、キイキイと金切り声に等しい悪声を発した。
すると、老いたしもべの一つ一つの発音に反応するように、トカゲの卵が入った鍋釜は、その色を逐一変えた。
混乱する下僕に同調する鍋釜を見かねたアッシュは、ため息を軽くつき、言った。
「そんなに取り乱してくれるな、リサイクル。お前が喚くと、こいつはベビードラゴンというより、ただのつまらん蛇になりそうだ。それにだ、リサイクル。いいか、お前の言った噂は真実で、俺は噂通り、あいつから『聖女の加護』を手に入れることができた。だがな、リサイクル。それ以降、加護の力はどうなる?力は対象を永遠に護り続けるのか、それとも一回きりなのか、または効果が徐々に薄れていくのか・・・。いいか。どちらにしても、力の源の聖女は、手が十分届くようにした方がいい。どうだ?何か異論はあるか?」
「アッシュしゃま!異論も何も、あの目障りな勇者は、何度でも戻ってくると仰ったばかりではないでしゅか!」
リサイクルの焦燥に煽られるかの如く、竈の火が俄然強くなり、魔法薬で満たされた鍋釜がボコボコと気泡を立て、一層煮立った。
「鎮まれ」
アッシュは竈の火に向かって冷然と言うと、逆巻いていた炎が弱まり、鍋釜の沸騰が落ち着いた。
しかし、ぷんすかと憤るゴブリンは、主人の言いつけに背いて鎮まることができなかった。
「勇者が来るなら来いだ、リサイクル。どのみち、不運な奴はしばらく動けないだろう。自慢の清剣が粉々に砕けたんだからな。さあもういいだろう、リサイクル。お前の悪いようにはしない。約束する。俺は必ずあの女に、情けなどかけやしないから」
「・・・」
主人らしい平静な口調が働き、頭に上っていた熱い血が次第に冷めていくのを感じながら、リサイクルは無言で考え込んだ。
やがて、せめぎ合う感情の上から無理くり蓋をして押し込めると、小柄な醜い魔物は、ゆっくりと甘んじるかのように口を開いた。
「・・・畏まりました・・・。この老いぼれリシャイクルめ、敬愛しゅる旦那しゃまの信頼を裏切る訳にはいきましぇん・・・」
多少、しもべの小さな肩ががっくりと落ちるのを目に入れながらも、アッシュは頼もしそうに言った。
「任せたぞ、リサイクル」
長い習慣ゆえに、目を自然と覚ましたリサイクルは、自分の小さな寝床から起き出すと、壁に開いた窓へ顔をやって、燦々と輝く朝日、雲一つないよく晴れた青い空、その中を気持ちよさそうに、のびのびと泳ぐかのように飛ぶ鳥たちを眺めた。
そして、彼はそれから感慨深いため息を一つつくと、身支度を整え始めた。
ひび割れ薄汚れた鏡がはめ込まれた古そうな鏡台へ向かい、自分の背の丈ぐらいある高い椅子に慣れた仕草で乗り込むと、木の取っ手と豚毛でできた櫛を手に取り、ほとんど真っ白に近い髪の毛――ごわごわで、ぐしゃぐしゃだった――を、梳かす。
ひび割れた鏡の中に、一生懸命に鏡を覗き込んで、映るぼさぼさの白髪を梳かす老魔物が映っていたが、その黒曜石のような小粒な瞳は、不思議にもぐるぐると円を描いていた。
満足の及ぶところまで髪を梳くと、リサイクルはよいしょと足のつかない椅子から降り、鈍い光を帯びた飴色の鏡台を後にすると、隣の小部屋、すなわち洗面や用を足す所へちょこちょこと赴き、三脚の白木のスツール――三脚には間違いなかったが、一本の先が無残にも折れ、実質、背もたれのない素朴な椅子は二本足で支え立っていた――を横目に、城の水汲み場からあらかじめ水を入れておいた琺瑯の水差しを、冷たく押し黙る石床から取ると、スツールの上に載った、所々欠けた陶器のボウルへ水を注いだ。
その後、彼は部屋の片隅に置いてあった、足台代わりのレンガを持ってくる(この老ゴブリンは年を重ねてはいるけれども、まだまだ力持ちだった)と、脚先の一本が折れたスツールの前に置き、糸がほつれた小さなスリッパを履いた両足を載せて、立った。
朝起きて、まず顔など洗わない他の不衛生なゴブリンたちと違って、身綺麗にすることを心掛けているリサイクルは、壁にくっついているフックに掛かっている、目の粗い生成りの布を取り上げると、ボウルに満たした水に浸した後、軽く絞って、お世辞にも綺麗とは言えない独特な顔を拭いた。
長い年月が経ち、老いたしもべの固い皮膚には、幾本もの筋がくっきりと走り、禿げあがり、醜いコブが膨らんだ額の生え際には、手指と同じような茶ジミが、ぽつぽつと色濃く浮かんでいた。
気分もさっぱりすると、リサイクルはふうっと息を吐き、粗布を元あった場所へ掛け戻した。
そして、彼は台代わりのレンガから降りると、着替えを済ますために、再びベッドのある部屋へちょこちょこ歩きで戻った。
部屋の出入り口近くに設けられている、のっぽな古時計にも似た、彼の小さな背丈には不釣り合いなほど大きな衣装だんすまで来ると――何着も掛けられそうに広々としたたんすの中には、普段着ているサイズ違いでぱんぱんの黒のジャケットと、丈の短いぴちぴちのズボン、黄ばんだ生成りのシャツ、しわしわのクラヴァットだけが、金属のハンガーに丁寧に掛かっており、見る者にとっては、たんすの中は滑稽な印象に映った――、リサイクルは筒状の綿の寝間着から、いつもの装いに着替えた。
そして、糸のほつれた粗末なスリッパから、黒くて小さい紐付きの革靴を履いたリサイクルは、自室を後にすると、意気揚々と主人の居場所を目指した。
道中、リサイクルはまたしても肯定的なため息をつき、うっとりと考えた。
ああ、今日は記念すべき日だ!
ついに、今日はご主人様の長年の望みだった、あの似つかわしくない聖女を捧げてこの世を支配する、栄光かつ偉大なる一日!
我ら魔物一族を始め、闇の眷属たち一同が牛耳り、世界を恐怖に陥れる強大な支配者となる、特別な日!
そう遠くはない喜々とした未来に、リサイクルは目を細まんばかりにほくそ笑み、城の回廊を通り抜け、いくつもの廊下を進んだのち、彼はまず主人の紅い寝室へ足を運んだ。
しかしながら、何度呼びかけてみても、部屋の内側から返事はないし、ドアをしつこく叩いてみても、アッシュの苛立たしそうな怒声は聴こえない上、眠っているには異様に静かすぎると感じたリサイクルは、次に食堂へ歩みを寄せた。
石柱の間から明るい太陽光が燦々と入る、丸屋根の広い食堂は、長い食卓と何脚もの椅子が、しめやかに佇んでいる以外もぬけの殻で、がらんとしていた。
ここでも主人が見つからないので、困惑気味のリサイクルは、はてと首をひねった。
寝室にもいないし、食堂にもいない・・・。
とすると、主人はどこへ行ってしまわれたのだろうか?
・・・もしかしたら・・・。
そして、閃いたリサイクルは半信半疑ながらも、城の一隅にあるとある部屋へちょこちょこと赴くと、城の出入り口を護る門扉よろしく、厳めしい厚い木の扉を体当たりで押し開け(鋳造の丸い取っ手が付けてあったけれども、彼の手がかろうじて届くか届かないくらいの位置にあった)、ギギィーッときしむ音を響かせながら入った。
部屋は暗く、奥で妖しげに光っている光の他に光源はなく、リサイクルは不思議な色に発光する光の手前で、何やら作業をしている主人の方へ向かっていった。
一歩ずつ、小さな歩幅が近づいていくごとに、リサイクルの焦点のずれた瞳に、鋳鉄の鍋釜のあらゆる方向から吐き出る白い煙が、細い筋となって、床や壁や天井にまでたなびく様が映り込み、鍋釜の光る中身に照らされて、ぼんやりと浮かび上がる中二階の書棚――床から天井まである高い棚に、上から下まで本がびっしりと詰まっていた――それから、何かを煮込んでいる竈の明かりによって、傍らの机の上でひしめいている素材――薬草や生花などの草木を始め、見たこともない珍しい植物(透明なガラスケースに粛然と収まっているものもあれば、鉢を土台に旺盛に動き回っているものもいた)、カゴの中でめったやたらと鳴く昆虫、止まり木に留まったまま、色鮮やかな羽をばたつかせる鳥、一見ネズミのような風貌だが、モグラとも言える四つ足の細かな珍獣、水槽の中で悠々と泳ぐ魚やタツノオトシゴと、動物もいた一方、真鍮の天秤の上に載った、様々な形の木の実や貝殻、色とりどりの砂、大小に並んだ無数の瓶――が見えた。
「アッシュしゃま」
リサイクルは内側から光り輝く鍋釜を目前に、影を投じる主人の背中に語り掛けた。
「――ああ、リサイクルか。どうした?」
しもべの存在に気が付いたアッシュは、少し斜め後ろを振り向くと、鍋釜をかき混ぜる手の動きを休めないまま、訊き返した。
「お部屋にも食堂にもいらっしゃらなかったので、よもやと思いましたが、やはりしゃ業場へおいででしたか」
とリサイクルはしゃがれ声で言ったが、というのも、彼は愛馬クロムのいる厩と迷った挙句、低級な魔法を使う一魔物のゴブリンと異なり、著しく高度な魔法を操る魔人の主人が、生命の有無を問わず色々なものを生み出す、厩と同じくらい日常的に足を運ぶ作業場を、選んだからだった。
「まあな」
アッシュはもう一度、背後のしもべの方を振り向くと、軽く微笑んだ。
「強力なベビードラゴンを創ろうと思ってな。ドラゴンにまつわる城の魔術書を片っ端から参考にして、ただのトカゲの卵を、まじないと魔法薬で煮込んで温めている」
「しゃ様でしゅか」
リサイクルはずれた黒目を数回瞬きながら、魔法が功を奏して成功した暁には、たった今鍋釜からぐつぐつと煮える音が、鋭い牙が何本となく並んだ危険な口から、すべての事物を焼き尽くす恐ろしい大火炎を吐き出す、ベビードラゴンの狂暴な咆哮に取って代わられる光景を想像した。
ドラゴンは、同じ魔力を帯びた同類には変わりないのだろうが、禍々しいほどの恐ろしさに、リサイクルは何とはなしに縮み上がる思いがした。
・・・ふいー、くらばらくわばら・・・。
すると、大事な要件を思い出したしもべの老ゴブリンは、息継ぎもなく素早く二の句を継いだ。
「アッシュしゃま!ドラゴンももちろんしゅ晴らしいでしゅが、目標でもありました例の!念願の、しぇ界を牛耳り、我ら魔族たちのちょう怖で支配しゅる偉大な計画を!」
その時、かき混ぜていた鍋釜の光彩が、不可思議にも緑色から黄色に一瞬で変化したため、アッシュはひとまず下僕の要求には答えず、手を傍らの机へ伸ばして、赤茶色の砂を掴み、黄色の鍋釜の中に投入すると、ぶつぶつと呪文を唱え、再び鋳物の杓を持った手を動かした。
そして、少しかき混ぜてから、アッシュは口を開いた。
「・・・その件だが、リサイクル。頼みがある」
か弱き聖女をいたぶって、彼を始めとする、すべての魔物たちが力を持つ世の中を期待していたリサイクルは、目をくるくると回しながら嬉しそうに答えた。
「何なりと、アッシュしゃま」
「聖女ネルは命乞いに、俺という主人に忠誠を尽くし、心身ともに仕えると誓った。俺はあいつの加護に護られ、仏心を出したわけではないが、『聖女の加護』は何かと便利な力だ。利用する手はないだろう。だからそこでだ、リサイクル。俺とこの居城に仕える魔物たちの長であるお前に、聖女ネルの監視を頼みたい」
アッシュは淡々と、何事もないかのように喋った。
最初、主人の言っていることが信じられない驚きから、彼の目が点になったと言いたいところだったが、この不細工なゴブリンの目は斜視が甚だひどく、実際には、黒目は動揺しているかのように、四方八方と慌ただしく動いていた。
「な、何を言っているんでしゅか?アッシュしゃま」
やっとのことで口を開けたリサイクルは、それだけ言った。
命令は度肝を抜かれるほど驚愕的だったが、リサイクルはやっぱり耳を疑った。
「聖女ネルは生かして、しばらく俺の側に置く」
アッシュは困惑するゴブリンに背を向けたまま、短く率直に答えた。
「んな・・・!!アッシュしゃま、しょれは正ちで言っているのでしゅか!?しぇっかく、憎たらしいしぇい人どもからしぇい女を奪いしゃった上に、あの忌々しい勇者までをも、追い返したところでしゅのに!」
リサイクルは、キイキイと金切り声に等しい悪声を発した。
すると、老いたしもべの一つ一つの発音に反応するように、トカゲの卵が入った鍋釜は、その色を逐一変えた。
混乱する下僕に同調する鍋釜を見かねたアッシュは、ため息を軽くつき、言った。
「そんなに取り乱してくれるな、リサイクル。お前が喚くと、こいつはベビードラゴンというより、ただのつまらん蛇になりそうだ。それにだ、リサイクル。いいか、お前の言った噂は真実で、俺は噂通り、あいつから『聖女の加護』を手に入れることができた。だがな、リサイクル。それ以降、加護の力はどうなる?力は対象を永遠に護り続けるのか、それとも一回きりなのか、または効果が徐々に薄れていくのか・・・。いいか。どちらにしても、力の源の聖女は、手が十分届くようにした方がいい。どうだ?何か異論はあるか?」
「アッシュしゃま!異論も何も、あの目障りな勇者は、何度でも戻ってくると仰ったばかりではないでしゅか!」
リサイクルの焦燥に煽られるかの如く、竈の火が俄然強くなり、魔法薬で満たされた鍋釜がボコボコと気泡を立て、一層煮立った。
「鎮まれ」
アッシュは竈の火に向かって冷然と言うと、逆巻いていた炎が弱まり、鍋釜の沸騰が落ち着いた。
しかし、ぷんすかと憤るゴブリンは、主人の言いつけに背いて鎮まることができなかった。
「勇者が来るなら来いだ、リサイクル。どのみち、不運な奴はしばらく動けないだろう。自慢の清剣が粉々に砕けたんだからな。さあもういいだろう、リサイクル。お前の悪いようにはしない。約束する。俺は必ずあの女に、情けなどかけやしないから」
「・・・」
主人らしい平静な口調が働き、頭に上っていた熱い血が次第に冷めていくのを感じながら、リサイクルは無言で考え込んだ。
やがて、せめぎ合う感情の上から無理くり蓋をして押し込めると、小柄な醜い魔物は、ゆっくりと甘んじるかのように口を開いた。
「・・・畏まりました・・・。この老いぼれリシャイクルめ、敬愛しゅる旦那しゃまの信頼を裏切る訳にはいきましぇん・・・」
多少、しもべの小さな肩ががっくりと落ちるのを目に入れながらも、アッシュは頼もしそうに言った。
「任せたぞ、リサイクル」
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