聖女の加護

LUKA

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陽が傾き、辺りをオレンジ色に染める頃、厩にいたアッシュは、愛馬クロムの艶やかな黒い毛並みを梳いていた。
 機械のように、ブラシを自動的に黙々と動かしながら、アッシュはぼんやりと物思いに耽っていた。
 午前中のあれ・・は一体何だったのだろう?
 あの時、急に吹いた風に視界と気を取られ、勇者ジンの攻撃をかわし切れなかった矢先、どこからともなくまばゆい光が広場を照らし、その直後、甚だ不思議なことに、勇者ジンの清剣が見るも無残のぼろぼろに壊れ、自分は危機を脱した・・・。
 だがしかし、城の主で、加えて、城や自分に仕える魔物たちの長でもある自分が、正体不明の謎の力によって救われたなどということは、全くもって喜ばしいことでも何でもなく、むしろ憤慨すべき現象だろう。
 誇り高き魔人族が他力によって救済されるなぞ!
 考えるだけでも忌々しい!
 しかしながら一方で、アッシュはもしあの奇妙な事件がなかったら、必ずや大きな損傷を受けていただろうことも自覚していた。
 すると、先ほどから同じ箇所ばかりを梳いているために、愛馬クロムは鼻づらを主人の方へ動かし、自分の毛色と同じ漆黒のマントを羽織った肩へ、鼻を二、三度押し付けた。
 軽い衝撃に思案が破られ、アッシュは失心の面を上げた。
 澄んだガラス玉のような黒い瞳とぶつかり、アッシュはぎこちなく微笑んだ。
 「すまない、クロム。少し気になることがあってな」
 クロムは返事をする代わりに、鼻を軽く鳴らし、数回瞬いた。
 「アッシュま。こちらへおいででしたか」
 全体的にずんぐりとした小鬼が、開け放たれ、茜射す戸口に立った。
 扉の向こうでは、城の周りを取り囲む森からやって来たカラスが、日暮れに色づく地面にちょこんと立ち、こちらを興味深げに窺っていた。
 そしてリサイクルは、極めて短い脚を精一杯に持ち上げ、敷居を難儀そうに跨ぐと、もう一本の脚も大仰に持ち上げて、厩の中に立った。
 「何の用だ?リサイクル」
 アッシュは目線を愛馬の躰へ戻すと、ブラシを持った手を再び動かした。
 リサイクルは若干つれない主人の様子を知ってか知らずか、少しの間、焦点の定まらない黒目でアッシュをじっと見つめていたが、やがて口をゆっくりと開いた。
 「・・・アッシュま。んのけんでございま
 「そうか」
 手を動かし、灰色の視線を愛馬へ留めたまま、アッシュは素っ気なく答えた。
 「・・・アッシュま。あれは・・・。あののちからはましく――」
 「『聖女の加護』、か?」
 「どうやらうわは本当だったようで、アッシュま!」
 すると、甲斐甲斐しく動いていた手がピタリと止まり、アッシュはやや眉を吊り上げつつ、しもべを見た。
 「すると何か、俺はあの貧弱な聖女に助けられたというのか?」
 リサイクルは答えを探しあぐねているようで、所在なさげに、長く鋭い爪を載せた指先をカチャカチャ合わせた。
 「・・・一時はに者かともを冷やしましたが、アッシュま。確かにあ奴の見かけは、一般てい女の足元にも及びまんが、この界を牛耳るために必要な、特別な・・・真のい女だと分かり、この老いぼれリイクルめは、胸のつかえが下りました」
 額に醜いコブを設けたゴブリンは、言い終わりかけに微笑んだ。
 「・・・だが一つ分からない。あいつはどうして、最初から俺たちの目的とする聖女だと言わなかった?」
 アッシュは不可解をたたえた灰色の眼差しを、向かいの年老いた魔物へ向けた。
 リサイクルも同様に、焦点がずれた瞳を瞬かせながら一瞬間沈黙していたが、またしても口をゆったりと開いた。
 「・・・お言葉でございまがアッシュま。何はともあれ、あ奴は『い女の加護』を宿真のい女に間違いはありまんし、あの忌々しい勇者と妖いどもが、あ奴を追いかけて森を突破し、果てはこの城までやってたのでから、奴らが再び戻ってくる前に、例の計画を実行すべではないでしょうか?」
 「・・・そうだな。お前の言う通りだ、リサイクル。俗に、勇者とやらは愚かしいほどしつこいらしいからな。きっと魔人に攫われた哀れな聖女を取り戻すまで、奴は何度でもやって来るだろう」
 アッシュは言いながら肩をすくめ、ため息をついた。
 「れでこ、我々魔物一同がお仕える主人でございま、アッシュま」
 リサイクルはにいっと薄気味悪く笑った。喜びに、斜視の黒目が左右非対称にくるくると踊った。



光の十分に届かない檻の狭い通気口から、地下牢を朱く染めていた夕陽は、いつの間にか闇夜に浮かぶ月と取って代わられ、夜の帳が音もなく辺りを包み込むと、ネルは石造りの房の中、虫の音や梟のくぐもった鳴き声を遠くに聴いた。
 ネルは自分を取り巻く不可解な状況、自分を連れ去った魔人アッシュと、おそらく自分を救出しに来た勇者ジンの格闘、想像だにしたことのない未知なる怪物との邂逅――それは即ち、お化け屋敷の真っただ中にいるかのような、底冷えのする恐怖だった――、それからまた、自分に関する記憶が霞のようにつかみどころがなく、ぼんやりとあやふやで確かでない不安に、かろうじて耐えていた。
 もし、あのまま勇者の一撃が当たっていれば、自分は元居た場所へ帰ることができたのだろうか?
 今となっては考えるも無駄に等しかったが、ネルはどうしても考えずにはいられなかった。
 一体あの光はどこから始まったのだろう?
 あれはまるで、隙を突かれたアッシュを護らんばかりに突然煌めき、勇者の清剣をあっという間に砕いてしまった!
 何という不思議で、奇跡のような特殊な力だろう、あれ・・は!
 後になって思い返すたび、ネルはただ閉口し、ひたすら圧倒されるばかりだった。
 今正に攫われ囚われた自分も、あの神秘的な力に護られていればよかったのに、ネルは嘆いた。
 牢屋番の一つ目お化けは、つい先ほどまでその任に就いていたが、いつの間にか姿をふらりと消し、陰気な地下牢には、ネル一人が取り残されていた。
 (・・・帰りたい)
 どこへ帰りたいかはよく分からなかったが、俯いたネルは惨めな気持ちで考えた。
 その時、地下牢へ続く石段を降りる靴音が重く鳴り響き、音に反応したネルが顔を上げると、彼女の碧い視線の先に、彼女を利用せんがために連れ去った魔人の男アッシュが立っていた。
 「・・・!」
 ネルは思わず青緑の目を見開いた。
 「わたしをここから出してください!」
 ネルは格子越しに語気荒く訴えた。
 しかしながら、アッシュは端正な顔色を一片も変えず、冷ややかに答えた。
 「断る」
 「そんな!どうかお願いですから、わたしを元居た場所へ帰してください!」
 ネルは格子にしがみつき、必死に訴えた。
 だが、懸命な願いむなしく、アッシュはもう一度短く答えた。
 「だめだ」
 「~~~!」
 ネルは格子に縋りついたまま、憤慨した。
 すると、アッシュは威圧的な態度をやわらげ、口を切った。
 「――だが、質問に正しく答えれば、出してやらないこともない」
 「・・・?」
 ネルは格子から手を離すと、言っている意味がよく分からないといった視線を投げた。
 「どうしてお前が俺の望む特別な聖女だと、始めから言わなかった?」
 アッシュはネルの訝しむ眼差しには構わず、平然と訊いた。
 「?」
 ネルは聞くや否や、質問の意図が分からず、困惑した。
 そしてしばらく逡巡した後、ネルは恐る恐る言った。
 「・・・あの、『聖女』って何なんですか?」
 「いい加減とぼけるのはよせ。お前は非凡な加護の力を宿した特別な聖女、そうだろう?」
 アッシュは言葉尻に尋ねるように言ったが、語調は断定的だった。
 「加護の力・・・?」
 理解できないネルは小首をかしげ、訊き返した。
 「知らないはずないだろう。不本意だが、勇者の清剣を打ち砕いたのはお前だからな」
 「わたしが!?」
 ネルはびっくりして、つい大声を上げてしまった。
 「そうでなければ他に説明がつかないからな・・・。全く、この俺がよりによって聖人などに護られるとはな」
 アッシュは不服そうに腕を組むと、そっぽを向きつつ、ため息をついた。
 「・・・」
 ネルは驚きのあまり、物も言えなかった。
 いや、驚愕というよりも、彼女はアッシュの途方もない作り話に半ば呆れているようだった。
 これは一体どうしたことだろう!
 あの奇跡のような現象を自分が引き起こしたと言うのか!
 まさか!
 全くもってにわかには信じがたい話だが、この男曰く、自分が彼を危険から護り、はたまた勇者の攻撃から救ったらしい!
 そのような馬鹿馬鹿しい話を誰が信じられるものか!
 例え信じたにせよ、何故自分が、人を攫うような悪漢を救い出さなければならないのか?
 よって、ネルはきっぱりと否定した。
 「そ、そんなの知りません!とにかくわたしをここから出して、元居た所へ帰してください!」
 しかしながら、アッシュは問いただす姿勢を少しも崩さずに、再び冷たく訊いた。
 「言っただろう、質問に正しく答えろと。何故黙っていた?」
 「~~~」
 徹頭徹尾無理難題を突き付けられ、ネルは言葉に窮した。
 (・・・そんなの、分かるわけない・・・!)
 とはいえ、ネルはやがて力なく答えた。
 「・・・り、理由がどうしても必要ですか・・・?それなら、どうしてあなたはわたしを攫ったんですか・・・?」
 瞬間ちょっと驚いたように、アッシュの濃灰色の瞳が微妙に見開かれた。
 「・・・それはだな―――」
 しかしながら、言葉の途中でアッシュは口をつぐみ、手を口元に当てて黙り込んでしまった。
 そして、しばらく何かを考え込んでいる様子だったが、アッシュは再び口をゆっくりと開いた。
 「・・・ふん、まあいい。・・・出してやってもいいが、条件がある」
 「(条件)?」
 「俺に忠誠を尽くせ。他の魔物共々、心身ともに、俺に忠実に仕えると誓え」
 ・・・忠誠を、尽くす・・・?
 ・・・心身ともに、忠実に仕える・・・?
 今までの質問と違い、難しいことを言われているわけでも何でもなかったにも拘わらず、何となくその実体が掴めないネルは、阿呆のように呆然と頭の中で台詞を繰り返した。
 とはいえども、ネルは迷った。
 しかし、この男の言う事を飲まなければ、檻から出る機会は万に一つもない。
 ネルは翡翠色の瞳をチラリと動かし、彼女を静かに見つめ返す灰色の瞳へ目配せした。
 「――どうする?俺に忠誠を尽くすと誓うか?」
 聖女の碧い目線を受けて、アッシュは簡潔に尋ねた。
 ネルは嫌がる心を無視して、震える顎を縦にゆっくり動かすと、頷いた。
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