1 / 36
1
しおりを挟む
彼女は、青白い月の光が射し込む以外、何の明かりもない薄暗い部屋で、一人背の高い椅子に腰かけて、目を閉じていた。
部屋はいかにも質素な作りで、木板の床の上に衣装だんすが一つと、書き物机、それとベッドが置かれ、ごつごつざらざらと、目の粗い石造りの壁の中にはめ込まれ、少し開いた窓の外から入ってくる冷たい夜気が、傍らの白いレースカーテンをはためかせ、それと共に、白い月光が細い筋となって室内に侵入し、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
神秘的な月明りの中、一人ひっそりと静かに椅子に座る女は、今宵の月と同じ色をした白銀のワンピースを纏い、服は月の光に照らされて、まるで狼の毛並みのように見事な輝きを放っていた。
彼女は、恐らく眠っているのだろう、椅子に背を預けたまま、呼吸のために上下する胸以外、微動だにしなかった。
彼女の安らかな眠りを妨げるものは何一つとしてなかった。――黒い影が簡素な部屋の中に落ちるまでは。
それは音もなく、窓の外に現れたかと思うと、軽やかに、かつ素早く室内へ滑り込んできた。
それは二本足で立ち、天井まで頭一つ分足りないというくらい、図体が大きかった。
顔は頭巾で隠れていたため、性別はおろか、人間であるかどうかもはっきりしなかった。
侵入者は、青白い月明りの中、淑やかに椅子に座った彼女を一瞥すると、被っていたフードを、まさしく人間のそれである、五本指の手で下ろした。
「おい」
侵入者の口から、男らしい低い声が出た。
「・・・」
しかし、眠り姫は眠ったまま、応答はなかった。
「・・・おい」
今度は、男の声がやや上がった。
「・・・ぅ・・・ん・・・」
しかしながら、それでも彼女の目は、なかなか開こうとしなかった。
「・・・こちらです!・・・」
「・・・勇者様、お急ぎを!・・・」
閉ざされたドアの遠い向こうから、石の廊下を急いでくる足音と一緒に、ただならぬ気配を含んだ声が三つ四つ、男の鋭い耳に届いた。
男は、チと、舌を鳴らして悪態をつくと、手を彼女の華奢な肩に置いて、乱暴に揺さぶりながら、声をかけた。
「おい、起きろ」
「!?」
遂に、固く閉ざされていた女の目蓋が、驚きのために見開き、翡翠の如く碧い目が、薄闇の中にいきなり煌めいた。
「見張りが倒されていたのは本当か!?」
「間違いありません!奴が来たとしか!」
すると、扉の向こうから、緊迫を孕んだ声がはっきりと、二人の耳に飛び込んできた。
「ネル、無事か!」
白い顎髭を生やした老人が、木のドアを無作法に開け放った瞬間、ネルと呼ばれた彼女と、似たようなデザインと色調の服を着た、仲間らしき人物たちが、どやどやと部屋の中へ入り込んできた。
「おのれ、汚らわしい魔人め!ネルから手を放せ!」
長老らしき老人は、月明りの中、宵闇の如く黒ずくめで、長身な男を見届けると、支えにしていた、節くれだった木の杖を振りかざし、濃い眉毛のせいで、ほとんど隠れてしまった瞳と、しゃがれた声にありったけの憎しみを込めて、罵った。
しかしながら、魔人と呼ばれた黒装束の男は、状況が全く掴めないで、困惑しているネルを軽々と抱き上げる(「きゃあっ!」)と、その屈強な肩の上に載せ、平静と言った。
「聖女は貰っていく。いいな?」
「なっ・・・!」
言葉尻に不敵な笑みを浮かべつつ、男が決してイエスとは言えない問いを投げかけたが故に、怒りに滾った血が、カアーッと長老の禿げ頭に昇った。
「この口の減らない若僧めが!お前は今夜ここで、成敗されるのだ!」
傍から見て、どこにそのような力があるのだろうと疑ってしまうほど、ひょろひょろなのに、きちんと見据えているかどうかも分からない、年老いた目を引きつらせながら、老人は怒鳴った。
「成敗?それは大した見ものだな。どいつが俺を負かしてくれるのか?」
男は長老の脅し文句にもどこ吹く風で、飄々と、だが好戦的に言った。
「勇者様!」
「我らが神に選ばれし偉大なお方!」
「どうか可哀そうなネルを救ってやってください!」
ざわざわと、戸口に集まっていた集団から口々に発せられた台詞が、男の質問に答えた。
(・・・)
男は無言で、人の群れの中から、目の前に進み出てくる小柄な青年をじっと見据えた。青白い月の光が反射して、青年の持つ刀身がキラリと光るのを、男は見逃さなかった。
男は短く息をふっと吐くと、空いた方の片手で、指をパチンと鳴らした。
すると、一瞬間、部屋を照らしていた清涼な月明りが、夜空から月ごと消え、部屋は漆黒の暗闇に閉ざされた。
「!?」
「うわぁっ!」
「何だ!?」
突然の異変に、人々は動揺を露わにした。
そして、煌々と明るい月が、再び暗い天空にパッと浮かび上がると、光源を取り戻した室内に、聖女と男の姿は、既に見えなくなっていた。代わりに、ネルのか細い悲鳴が、窓の外の、下の方から、群衆の鼓膜に響いてきた。
「きゃあ~~~~~!!△*☐%〇’#✕~~~~!!」
「ネル!!」
勇者共々、白亜の装いをした同胞らは、聖女の身を案じ、急いで声のする窓へ駆けつけた。
見ると、彼らが住まう居館の塔の中でも、最も上の階に位置する彼女の部屋から、命綱もつけずに、魔人に抱え上げられたまま、隣接した中庭の地面へ、そのまま真っ直ぐに落下していく、聖女がいた。
そして、彼らが唖然と二人を見届けている間に、ネルを攫った男は何の障害もなく、易々と地面へ降り立ち、人々はハッと正気に返った。
「急げ!」
「追え!奴を逃がすな!」
「勇者様、どうかネルを!」
よって、慌ただしく部屋を目指してきた一行は、またしても、尻に火が点いた如く、てんやわんやと、廊下を走り、石の階段を駆け下り始めた。
一方、居館の中庭へ降り立った男は、パニック状態の聖女を肩に掛けたまま、口笛をヒュウッと軽妙に鳴らし、馬を呼んだ。
主人の呼ぶ音を聴きつけ、向こうの木立の中から、白い石の埋め込まれた中庭を通ってやって来たのは、一頭の真っ黒な牡馬だった。
彼は主人を見つけると、蹄の調子を緩め、最終的には、彼の横でピタリと止まった。
「よし、よし」
男は愛着のこもった優しい声色で、牡馬の滑らかな首を、肯定的な手つきで撫でてやった。
ネルは、未だ恐怖や戸惑いに憑りつかれたまま、男と馬との間の友愛の情を目にしたが、同時に、馬の脇腹に、鳥の羽のようなものが付いている事実も、目の当たりにしないではいられなかった。
「・・・!?」
驚愕に、ネルの青緑色の瞳が大きく見開かれた。
「きゃ・・・!」
すると、ネルは唐突に、男の逞しい肩から、鞍の付いた馬の背へ雑に乗せられ、抗議する暇もなく、彼女の後ろへ、男がひらりと跨った。
「行け!」
主人である男の指示と、出発の合図でもある腹を蹴られた黒馬は、元来た道を速歩で駆け出した。
「!? !?」
矢継ぎ早の展開に、目覚めたばかりのネルは混乱を隠し切れず、そのような彼女の耳に、ちょうど今時分中庭へ到着した、勇ましい男たちの必死な叫び声が届いた。
「待て~っ!」
「おのれ、魔人!止まれ~っ!」
「ネル~っ!」
だがしかしながら、馬の足並みはスピードをぐんぐん増していき、走って追いかけてきた彼女の仲間を完全に振り切り、その懸命な声は次第に小さくなっていき、しまいには、地面を蹴る蹄の荒々しい音と、風の唸り声に、かき消されてしまった。
夜の暗い木立の中、凄まじい勢いで駆けていく馬の上で、ネルは見知らぬ男に誘拐されている現実に、冷たい恐怖が募っていくのを、ひしひしと感じた。彼女は一刻も早く、狂ったように駆ける馬から降りて、この闇に溶け込む男から逃げ出してしまいたかった。だが、すこぶる不幸にも、風を唸らせ疾駆する馬から降りるのは、自殺行為にも等しく、ネルは恐怖に苛まれながらも、手も足も出なかった。
「来たか」
風が頬を切り、彼女の髪をビュウビュウたなびかせる中、ネルは背後で、男の独り言を聴いた。
すると、男の呟きに呼応するかのように、葦毛の馬に跨った連中が、木々の間を縫うように走り、先頭を走る黒馬に追いつこうとしていた。
「待てぇ~っ!」
「卑しい悪党め!目にもの見せてくれるわ!」
逃がしてなるものかと、数々の手練れが彼らを熱心に追いかける中でも、とりわけ、青白い月の光を燦々と浴びた一頭の白馬が、黒馬のすぐ後ろまで近づいてきていた。
「・・・!」
怯えるネルの碧い横目に、勇者と呼ばれていたあの青年が白馬に乗り、器用に手綱を操作しながら、剣を確かに引き抜く姿が映った。
「た、助けて・・・!」
ネルは堪らず、腕を青年の方へ伸ばした。
青年は片手で剣を掴んだまま、反対の片腕を、差し出されたネルの手へ、一心に伸ばした。
二人の指先が触れるか触れないくらいまで、距離が縮んだ時だった。
男はすかさずピュイッと口笛を吹き、馬へ何かしら合図を送った。
すると、今の今まで地面の上を駆けていた馬の蹄が、徐々に宙へ浮き上がり、空中を駆け始めたかと思うと、畳んでいた翼が左右に大きく広がり、バサバサと羽音を立てて、上下に忙しなく動き始めた。
「!?」
身体が宙にフワッと浮く、不思議な感覚を味わったネルは、すぐさま自分の感覚を疑った。
彼女は空を飛んでいる!それも翼の生えた馬に乗って!
その時の恐怖と驚きといったら!
「&〇%*✕#▽?☐~~~~!!」
実際、あれ程高い塔に住んでいながら、ネルは高い所が大の苦手だった。その上、この独特の浮遊感といったら!また今では、翼で大気の海を漕ぐ馬は、勇者や仲間たちの手の届かない高さまで飛び上がり、ネルは足のつかない不安定さと心細さで、全くもってどうにかなってしまいそうだった。
もし馬から落ちてしまうようなことがあれば?
ネルは想像しただけで、おぞましさに血が凍る思いだった。
そして、遥か下方から、侵入者を取り逃した上、仲間を連れ去られてしまった人々の、悔しそうな怒声と、馬のいななきが響いたが、恐怖の許容量をゆうに超えてしまったネルの耳に届いたかどうかは、疑問だった。
「おっと」
男は、意識を失ったネルの身体がぐらつき、愛馬から滑り落ちてしまいそうなところを、すんでのところで支え持った。
それから、青白い月を灯台にして、無数の星が散らばった漆黒の海の中を、どれくらい泳いでいったのか、または途中で地面へ降り立ったのか、またも深い眠りについたネルには、ちっとも知りようがなかった。
部屋はいかにも質素な作りで、木板の床の上に衣装だんすが一つと、書き物机、それとベッドが置かれ、ごつごつざらざらと、目の粗い石造りの壁の中にはめ込まれ、少し開いた窓の外から入ってくる冷たい夜気が、傍らの白いレースカーテンをはためかせ、それと共に、白い月光が細い筋となって室内に侵入し、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
神秘的な月明りの中、一人ひっそりと静かに椅子に座る女は、今宵の月と同じ色をした白銀のワンピースを纏い、服は月の光に照らされて、まるで狼の毛並みのように見事な輝きを放っていた。
彼女は、恐らく眠っているのだろう、椅子に背を預けたまま、呼吸のために上下する胸以外、微動だにしなかった。
彼女の安らかな眠りを妨げるものは何一つとしてなかった。――黒い影が簡素な部屋の中に落ちるまでは。
それは音もなく、窓の外に現れたかと思うと、軽やかに、かつ素早く室内へ滑り込んできた。
それは二本足で立ち、天井まで頭一つ分足りないというくらい、図体が大きかった。
顔は頭巾で隠れていたため、性別はおろか、人間であるかどうかもはっきりしなかった。
侵入者は、青白い月明りの中、淑やかに椅子に座った彼女を一瞥すると、被っていたフードを、まさしく人間のそれである、五本指の手で下ろした。
「おい」
侵入者の口から、男らしい低い声が出た。
「・・・」
しかし、眠り姫は眠ったまま、応答はなかった。
「・・・おい」
今度は、男の声がやや上がった。
「・・・ぅ・・・ん・・・」
しかしながら、それでも彼女の目は、なかなか開こうとしなかった。
「・・・こちらです!・・・」
「・・・勇者様、お急ぎを!・・・」
閉ざされたドアの遠い向こうから、石の廊下を急いでくる足音と一緒に、ただならぬ気配を含んだ声が三つ四つ、男の鋭い耳に届いた。
男は、チと、舌を鳴らして悪態をつくと、手を彼女の華奢な肩に置いて、乱暴に揺さぶりながら、声をかけた。
「おい、起きろ」
「!?」
遂に、固く閉ざされていた女の目蓋が、驚きのために見開き、翡翠の如く碧い目が、薄闇の中にいきなり煌めいた。
「見張りが倒されていたのは本当か!?」
「間違いありません!奴が来たとしか!」
すると、扉の向こうから、緊迫を孕んだ声がはっきりと、二人の耳に飛び込んできた。
「ネル、無事か!」
白い顎髭を生やした老人が、木のドアを無作法に開け放った瞬間、ネルと呼ばれた彼女と、似たようなデザインと色調の服を着た、仲間らしき人物たちが、どやどやと部屋の中へ入り込んできた。
「おのれ、汚らわしい魔人め!ネルから手を放せ!」
長老らしき老人は、月明りの中、宵闇の如く黒ずくめで、長身な男を見届けると、支えにしていた、節くれだった木の杖を振りかざし、濃い眉毛のせいで、ほとんど隠れてしまった瞳と、しゃがれた声にありったけの憎しみを込めて、罵った。
しかしながら、魔人と呼ばれた黒装束の男は、状況が全く掴めないで、困惑しているネルを軽々と抱き上げる(「きゃあっ!」)と、その屈強な肩の上に載せ、平静と言った。
「聖女は貰っていく。いいな?」
「なっ・・・!」
言葉尻に不敵な笑みを浮かべつつ、男が決してイエスとは言えない問いを投げかけたが故に、怒りに滾った血が、カアーッと長老の禿げ頭に昇った。
「この口の減らない若僧めが!お前は今夜ここで、成敗されるのだ!」
傍から見て、どこにそのような力があるのだろうと疑ってしまうほど、ひょろひょろなのに、きちんと見据えているかどうかも分からない、年老いた目を引きつらせながら、老人は怒鳴った。
「成敗?それは大した見ものだな。どいつが俺を負かしてくれるのか?」
男は長老の脅し文句にもどこ吹く風で、飄々と、だが好戦的に言った。
「勇者様!」
「我らが神に選ばれし偉大なお方!」
「どうか可哀そうなネルを救ってやってください!」
ざわざわと、戸口に集まっていた集団から口々に発せられた台詞が、男の質問に答えた。
(・・・)
男は無言で、人の群れの中から、目の前に進み出てくる小柄な青年をじっと見据えた。青白い月の光が反射して、青年の持つ刀身がキラリと光るのを、男は見逃さなかった。
男は短く息をふっと吐くと、空いた方の片手で、指をパチンと鳴らした。
すると、一瞬間、部屋を照らしていた清涼な月明りが、夜空から月ごと消え、部屋は漆黒の暗闇に閉ざされた。
「!?」
「うわぁっ!」
「何だ!?」
突然の異変に、人々は動揺を露わにした。
そして、煌々と明るい月が、再び暗い天空にパッと浮かび上がると、光源を取り戻した室内に、聖女と男の姿は、既に見えなくなっていた。代わりに、ネルのか細い悲鳴が、窓の外の、下の方から、群衆の鼓膜に響いてきた。
「きゃあ~~~~~!!△*☐%〇’#✕~~~~!!」
「ネル!!」
勇者共々、白亜の装いをした同胞らは、聖女の身を案じ、急いで声のする窓へ駆けつけた。
見ると、彼らが住まう居館の塔の中でも、最も上の階に位置する彼女の部屋から、命綱もつけずに、魔人に抱え上げられたまま、隣接した中庭の地面へ、そのまま真っ直ぐに落下していく、聖女がいた。
そして、彼らが唖然と二人を見届けている間に、ネルを攫った男は何の障害もなく、易々と地面へ降り立ち、人々はハッと正気に返った。
「急げ!」
「追え!奴を逃がすな!」
「勇者様、どうかネルを!」
よって、慌ただしく部屋を目指してきた一行は、またしても、尻に火が点いた如く、てんやわんやと、廊下を走り、石の階段を駆け下り始めた。
一方、居館の中庭へ降り立った男は、パニック状態の聖女を肩に掛けたまま、口笛をヒュウッと軽妙に鳴らし、馬を呼んだ。
主人の呼ぶ音を聴きつけ、向こうの木立の中から、白い石の埋め込まれた中庭を通ってやって来たのは、一頭の真っ黒な牡馬だった。
彼は主人を見つけると、蹄の調子を緩め、最終的には、彼の横でピタリと止まった。
「よし、よし」
男は愛着のこもった優しい声色で、牡馬の滑らかな首を、肯定的な手つきで撫でてやった。
ネルは、未だ恐怖や戸惑いに憑りつかれたまま、男と馬との間の友愛の情を目にしたが、同時に、馬の脇腹に、鳥の羽のようなものが付いている事実も、目の当たりにしないではいられなかった。
「・・・!?」
驚愕に、ネルの青緑色の瞳が大きく見開かれた。
「きゃ・・・!」
すると、ネルは唐突に、男の逞しい肩から、鞍の付いた馬の背へ雑に乗せられ、抗議する暇もなく、彼女の後ろへ、男がひらりと跨った。
「行け!」
主人である男の指示と、出発の合図でもある腹を蹴られた黒馬は、元来た道を速歩で駆け出した。
「!? !?」
矢継ぎ早の展開に、目覚めたばかりのネルは混乱を隠し切れず、そのような彼女の耳に、ちょうど今時分中庭へ到着した、勇ましい男たちの必死な叫び声が届いた。
「待て~っ!」
「おのれ、魔人!止まれ~っ!」
「ネル~っ!」
だがしかしながら、馬の足並みはスピードをぐんぐん増していき、走って追いかけてきた彼女の仲間を完全に振り切り、その懸命な声は次第に小さくなっていき、しまいには、地面を蹴る蹄の荒々しい音と、風の唸り声に、かき消されてしまった。
夜の暗い木立の中、凄まじい勢いで駆けていく馬の上で、ネルは見知らぬ男に誘拐されている現実に、冷たい恐怖が募っていくのを、ひしひしと感じた。彼女は一刻も早く、狂ったように駆ける馬から降りて、この闇に溶け込む男から逃げ出してしまいたかった。だが、すこぶる不幸にも、風を唸らせ疾駆する馬から降りるのは、自殺行為にも等しく、ネルは恐怖に苛まれながらも、手も足も出なかった。
「来たか」
風が頬を切り、彼女の髪をビュウビュウたなびかせる中、ネルは背後で、男の独り言を聴いた。
すると、男の呟きに呼応するかのように、葦毛の馬に跨った連中が、木々の間を縫うように走り、先頭を走る黒馬に追いつこうとしていた。
「待てぇ~っ!」
「卑しい悪党め!目にもの見せてくれるわ!」
逃がしてなるものかと、数々の手練れが彼らを熱心に追いかける中でも、とりわけ、青白い月の光を燦々と浴びた一頭の白馬が、黒馬のすぐ後ろまで近づいてきていた。
「・・・!」
怯えるネルの碧い横目に、勇者と呼ばれていたあの青年が白馬に乗り、器用に手綱を操作しながら、剣を確かに引き抜く姿が映った。
「た、助けて・・・!」
ネルは堪らず、腕を青年の方へ伸ばした。
青年は片手で剣を掴んだまま、反対の片腕を、差し出されたネルの手へ、一心に伸ばした。
二人の指先が触れるか触れないくらいまで、距離が縮んだ時だった。
男はすかさずピュイッと口笛を吹き、馬へ何かしら合図を送った。
すると、今の今まで地面の上を駆けていた馬の蹄が、徐々に宙へ浮き上がり、空中を駆け始めたかと思うと、畳んでいた翼が左右に大きく広がり、バサバサと羽音を立てて、上下に忙しなく動き始めた。
「!?」
身体が宙にフワッと浮く、不思議な感覚を味わったネルは、すぐさま自分の感覚を疑った。
彼女は空を飛んでいる!それも翼の生えた馬に乗って!
その時の恐怖と驚きといったら!
「&〇%*✕#▽?☐~~~~!!」
実際、あれ程高い塔に住んでいながら、ネルは高い所が大の苦手だった。その上、この独特の浮遊感といったら!また今では、翼で大気の海を漕ぐ馬は、勇者や仲間たちの手の届かない高さまで飛び上がり、ネルは足のつかない不安定さと心細さで、全くもってどうにかなってしまいそうだった。
もし馬から落ちてしまうようなことがあれば?
ネルは想像しただけで、おぞましさに血が凍る思いだった。
そして、遥か下方から、侵入者を取り逃した上、仲間を連れ去られてしまった人々の、悔しそうな怒声と、馬のいななきが響いたが、恐怖の許容量をゆうに超えてしまったネルの耳に届いたかどうかは、疑問だった。
「おっと」
男は、意識を失ったネルの身体がぐらつき、愛馬から滑り落ちてしまいそうなところを、すんでのところで支え持った。
それから、青白い月を灯台にして、無数の星が散らばった漆黒の海の中を、どれくらい泳いでいったのか、または途中で地面へ降り立ったのか、またも深い眠りについたネルには、ちっとも知りようがなかった。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

【完結】『飯炊き女』と呼ばれている騎士団の寮母ですが、実は最高位の聖女です
葉桜鹿乃
恋愛
ルーシーが『飯炊き女』と、呼ばれてそろそろ3年が経とうとしている。
王宮内に兵舎がある王立騎士団【鷹の爪】の寮母を担っているルーシー。
孤児院の出で、働き口を探してここに配置された事になっているが、実はこの国の最も高貴な存在とされる『金剛の聖女』である。
王宮という国で一番安全な場所で、更には周囲に常に複数人の騎士が控えている場所に、本人と王族、宰相が話し合って所属することになったものの、存在を秘する為に扱いは『飯炊き女』である。
働くのは苦では無いし、顔を隠すための不細工な丸眼鏡にソバカスと眉を太くする化粧、粗末な服。これを襲いに来るような輩は男所帯の騎士団にも居ないし、聖女の力で存在感を常に薄めるようにしている。
何故このような擬態をしているかというと、隣国から聖女を狙って何者かが間者として侵入していると言われているためだ。
隣国は既に瘴気で汚れた土地が多くなり、作物もまともに育たないと聞いて、ルーシーはしばらく隣国に行ってもいいと思っているのだが、長く冷戦状態にある隣国に行かせるのは命が危ないのでは、と躊躇いを見せる国王たちをルーシーは説得する教養もなく……。
そんな折、ある日の月夜に、明日の雨を予見して変装をせずに水汲みをしている時に「見つけた」と言われて振り向いたそこにいたのは、騎士団の中でもルーシーに優しい一人の騎士だった。
※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。
※小説家になろう様でも掲載予定です。


だいたい全部、聖女のせい。
荒瀬ヤヒロ
恋愛
「どうして、こんなことに……」
異世界よりやってきた聖女と出会い、王太子は変わってしまった。
いや、王太子の側近の令息達まで、変わってしまったのだ。
すでに彼らには、婚約者である令嬢達の声も届かない。
これはとある王国に降り立った聖女との出会いで見る影もなく変わってしまった男達に苦しめられる少女達の、嘆きの物語。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる