紳士は若女将がお好き

LUKA

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 時刻は夜だった。

一日の任務を終え、くたびれた様子の夕貴は、東京にいる間の自室でもある、自社ホテルの客室の一室へ入った。

手間を惜しんだ夕貴は、明かりも点けずに、広々と大きいベッドへ直行すると、上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めつつ、フーッと疲れたため息を吐きながら、背中からマットレスへ沈み込んだ。

ガラス張りの窓の外で、一面に染まった漆黒の中、都心の高層ビル群の明るい照明が煌々と浮かんでいた。

「・・・」

夕貴は無言で、父親から告げられた言葉を反芻していた。

最初から、蓋を開けてみれば、彼は香との結婚を歓迎していなかったようだ。

故に、それは、唯一の肉親が、伴侶としての恋人を認めていない事実は、普段は元気に満ち溢れている彼を参らせた。

何故自分が凹んでいる時に限って、彼女が側にいないのだろうか?

口惜しさと無力感が相まって、夕貴を一段と消耗させた。

するとちょうどその時、ベストの胸ポケットから、震動と共に無機質な着信音が鳴り響き、夕貴は電話を報せる携帯を取り出した。

薄闇の中、光る画面を覗いた彼は、香が発信源であることを学ぶと、すかさず応答した。

「もしもし?」

「あ、夕貴さん。今電話してもよかったですか?」

携帯のスピーカーを通して、夕貴は恋人の、鈴の如く甘美な高音を聴いた。

「はい、もちろん」

とはいえ、夕貴は疲労のために調子が冴えず、平時は難なく出てくる口説き文句が、スラスラと発声できなかった。

「あの、明日帰ってくるお話だったので、もしよければ、会えないかなって・・・」

そうだ、彼女との結婚さえ反対されなければ、彼は明日、彼女のもとへ戻るはずだったのだ!

「・・・すみません、香さん。実は、もう一週間東京に留まることになりまして・・・」

「え、そうだったんですか」

どことなく声が微かに低まり、寂し気に聴こえたのは彼の気のせいだろうか?

「・・・はい。急に決まりまして・・・」

「・・・分かりました。お仕事、頑張ってください。もう一週間くらい、我慢できますから」

「我慢・・・?」

「あっ、わたし、声に出してました!?ひゃ~、恥ずかし~・・・!あの、今の。聞かなかったことにしてくださいね?」

「どうしてですか」

思わず、夕貴の顔から笑みがこぼれた。

「・・・俺も、会いたいです」

「ッ!」

香は電話の向こうで、心臓がドキリと一瞬硬直した。

何となく声が物憂げで、元気がないような感じがしたのは、彼女の思い過ごしだろうか?

「・・・わたしも・・・寂しい、です・・・」

ああ、どうして彼女が今この場に、彼の隣にいないのだろうか?

もしいたら、彼は今すぐにでも、自分の逞しい両腕の中へ抱き寄せて、恋しがっている彼女に、温かいキスを雨あられと降らせるのに!

空間的に離れている二人の距離が、夕貴は実に憎らしかった。

「~~~」

「? 夕貴さん?」

「・・・一週間したら、必ずあなたのもとへ帰りますから。それまで、良い子で待っていてくれますか?」

「良い子って、わたし子供じゃないですよー」

香は電話上で抗議をやんわりと示したが、夕貴の目に、恋人がむくれている愛らしい顔つきが、ありありと浮かぶようだった。

「すみません。あなたは一人前のレディでしたね」

「フフ、冗談です。待ってますから、帰ってきてくださいね。あんまり遅いと、忘れちゃいますから!」

香は努めて明るい調子で語り掛けた。

それは、何とはなしにしょげている恋人に対する、彼女なりの気遣いだった。

「香さんこそ、俺以外の男に目移りしないでくださいよ?・・・信じていますから。・・・はい、それじゃあ。・・・愛しています・・・」


 営業終了時間を残り三十分切った銀行は、特に女性行員たちの間で、一人の珍客の存在に関するひそひそ話で、もちきりだった。

閉店前ともあって、客はまばらで数えるほどもなく、窓口業務に当たる手隙の女性行員らは、互いの顔をつき合せて、声を落とした小声で、店内の片隅に立つ、美形の紳士を褒めそやした。

「うっそーん、超イケメ~ン♡!」

「ねぇーっ、芸能人かしら?誰か知ってる?」

「ちょっと、あんた声かけてきなさいよ!」

「え~っ、無理ぃ~っ!」

すると直後、彼女たちの背後で、ウォッホン!と厳めしい空咳が聴こえ、瞬く間に、噂話は水を打った如く、ピタリと鳴りを潜めた。

(・・・全く)

というのも、咳を(わざと)鳴らしたのは、彼女たちが陰で「お局」と揶揄している、髪をきっちりとまとめ、眼鏡をかけた、典型的かつ神経質なベテラン女性行員だったからだ。

そして、古参の女性行員は席からすっくと立ち上がると、実に愛想の良い笑顔で、夕貴へにっこりと話しかけた。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」

同様に、夕貴も優しく微笑み返すと、首を落ち着いて横に振った。

「いえ、人を待っているんです」

「あら!うちの行員でしょうか?でしたら、もし宜しければ、呼び出しますが?」

「いえ、少し早く着いてしまっただけなので、貴女のお手を煩わせる訳にはいきません」

(んまぁーッ!)

「ちょっと~、何あれ~!お局、マジむかつくんですけどぉ~!」

「あーん、悔し~!!」

「同感。こんなことなら先に声かけときゃよかった・・・」

続いてその時、外回りから戻ってきた絵莉花が、横から彼女たちへ呼びかけた。

「ただいまですー」

「あ、絵莉花お帰りー」

「? どうしたの、みんな?何か怒ってるみたいだけど・・・」

「だってさ、見てよ、あ・れ!」

絵莉花が同僚の指差す方向を見ると、そこには、少々厳しいが、尊敬しているベテランの女性行員と、彼女の憧れの君が立って、何やら滔々と話し合っている姿があった。

「! 明日葉さん・・・!!」

刹那、営業の終了を告げる音楽が鳴り、向き合っていた二人が彼女の方へ顔を動かした。

よって、古参の女性行員はようやく納得したようで、彼のもとから去っていった。

その後、絵莉花は緊張のあまり、片付けや着替えをしている間、意識がまるでなく、彼女は店の前で、明日葉の御曹司の目前に立って初めて、意識を取り戻したのだった。

「お疲れ様です、絵莉花さん」

夕貴は川端の令愛へにこりと柔らかく微笑んだ。

(はう・・・っ!)

瞬間、銃から飛び出た弾丸が心臓を貫通したかの如く、絵莉花は必死の喜びに悶え苦しんだ。

「お、おつ、お、お疲れ様です・・・、明日葉さん・・・!」

「では行きましょうか」

「はっ、は、はい・・・!」

小柄な絵莉花は、背の高い夕貴と並んで街中を歩いた。

初心で奥手な彼女は、恥ずかしさのために前を向けず、下を向いて歩いた。

だがしかし、彼女は時折チラリと目を横へ走らせては、長身で整った顔立ちの、有名ホテル企業の後継者を盗み見た。

(きゃ~~~ッッ!!)

あの憧れの人が、現在自分の隣を歩いている!

彼女はその事実だけで、天にも昇る心地だった。

「あ、あの、明日葉さん・・・!ど、どこへ行くんですか・・・っ?」

絵莉花は声を一生懸命に振り絞った。

「そうですね・・・。メキシコ料理は如何です?合衆国向こうにいた時、よく食べたんですよ」

(メキシコ料理・・・!?)

「はっ、はい・・・!じゃあ、それで・・・!」

美食家グルメでなかった絵莉花は、多国籍料理に疎かった上に、逆に何が食べたいと訊かれても、迷ってしまうのが関の山だった故に、簡単に賛同した。


 店は都心の中でも割と落ち着いた地域にあり、客層もそれに倣っていた。

更に、本格的なメキシコ料理とテキーラ、本場のマリアッチ演奏が楽しめるという事で、店は平日にも拘わらず、賑わいを見せていた。

中へ入ると、陽気なラテン音楽が二人を迎え、これまた同様に、明るいウェイトレス(“Hola! Como estas? ”ハーイ!お元気?)が席まで案内してくれた。

「・・・タコスとナチョス、それからテキーラを」

帰国子女ともあって、外国料理に慣れ親しんだ夕貴が注文をテキパキと頼み、絵莉花は華やかな色使いで装飾された派手な店内を、きょろきょろと物珍しそうに見渡した。

「メキシコ料理は初めてですか?」

夕貴は目の前に座った同伴者へ訊いた。

「あ、は、はい!多分・・・!」

「多分?」

「い、いえ!初めて、です!」

「そうですか。きっと気に入ると思います」

会話はいったんそこで途切れた。

故に、どことなく気まずい沈黙に、陽気なラテン音楽が流れているのが、せめてもの救いだった。

絵莉花は明るい沈黙の中、夕貴との突然の食事を、父親づてに初めて聞かされた時を思い返した。

当初、彼女は憧れの人と二人きりで出かけることにすっかり舞い上がってしまって、そもそもどうして誘われたのかを一向に考えてこなかったが、今思うに、どうやら彼は、父親の顔を立てるための義理として、自分というさして興味もない女と食事へ来ているらしかった。

だから、彼女は内心踊り出すほど嬉しかったのに、常に何があっても、女性に対して並々ならぬ気を利かしている紳士の口数が少なく、心地好い話ができなかったのも無理はなかった。

「ハーイ、オマタセシマシター」

お盆を持ったウェイトレスが現れ、テーブルへできたてのメキシコ料理の皿を置いた。

最後に、テキーラの瓶と小さなショットグラスを二つ置くと、彼女は他のテーブルへ空いた皿を回収しに行った。

続いて折良く、ステージに上がったマリアッチらが、各々楽器を手に取り、演奏と合唱を始めた。

「懐かしいな。こっちへ来てから滅多に食べなくなりまして」

明日葉の後継者が微笑んだ。

「そうそう。絵莉花さんはテキーラを飲んだことはありますか?」

「い、いえ。ないです・・・!」

「試しに一寸飲んでみませんか?」

夕貴は笑顔で誘いかける傍ら、二つの小さなグラスへ透明なテキーラを注いだ。

「どうぞ」

絵莉花は渡された小さなグラスを受け取った。

「乾杯」

夕貴は告げると、グイッとアルコール度数の高い酒を一息にあおった。

一方、絵莉花は恐る恐る、唇を湿らす程度に蒸留酒をちびりと飲んでみた。

「!!」

瞬く間に、ムアッと口の中で、燃料の如くアルコールが揮発し、彼女の喉をひりひりと焼け焦がした。

(み、水・・・!)

絵莉花は堪らず、冷たい水の満たされたコップを慌てて掴み、熱い喉を潤した。

「大丈夫ですか?慣れないうちは辛いですよね。無理しないでください」

「あ、明日葉さんは平気なんですか?」

「もう慣れました。向こうへいた頃、散々飲んで鍛えられましたから」

アメリカ帰りの紳士は朗らかに微笑みつつ、酒瓶を傾け、空のグラスを再び満たした。

その後、彼はまたしても、色が付いていない酒をサッと素早く飲み干すと、空けたショットグラスをテーブルへ置いた。

「食べましょうか」

「はっ、はい・・・!」

「お仕事の調子は如何ですか?」

夕貴は皿からトルティーヤを一枚取った。

「えっ、あ、はい。みんな、父が上司でも優しくて、楽しいです」

絵莉花も同様に、とうもろこしの粉から作られた薄焼きパンを手に取った。

「そうですか。それは良かったですね」

夕貴は手に持った皮へひき肉をスプーンで載せた。

食べ方の分からない絵莉花も推しの真似をした。

「あ、明日葉さんの方は、ど、どうですか?」

「そうですね。上々というところでしょうか。施設ホテルはまだオープンしたばかりですし、計画中の事案も途中ですし・・・」

夕貴は肉の載った薄焼きパンへサイコロ状のトマトとアボカドを載せた。

絵莉花もそれに倣った。

「け、計画中の事案?ですか?」

「はい。地元の老舗旅館と手を組んで、明日葉ホテルうちの別館として活用しようかと」

夕貴は最後に、ライムの切れ端を搾って、爽やかな果汁を肉と野菜の載ったトルティーヤへ降り掛けた。

「へ、へぇ~。いいですね・・・。どんな旅館なんですか?」

同じく緑の柑橘を搾った絵莉花は、完成したタコスへ齧り付く憧れの君を見た。

「先日パーティーで紹介した、志筑香さんの旅館です」

頬をタコスで膨らませた夕貴は、小さな口でタコスへ齧り付く川端の令嬢を見た。

(・・・シヅキカオリ・・・)

「そ、そうなんですか。確か、温泉旅館の若女将さんでしたっけ・・・」

育ちの良い絵莉花は、口へ小さな手を当てて、隠しながら喋った。

「はい。まだOKの返事は貰っていないのですが、一足先に、彼女だけでも俺のものにしようと」

夕貴はテキーラを自分のグラスへ注いだ。

「?」

「今のままの関係も好いんですが、俺は彼女に結婚を申し込むつもりです」

彼は言い切ると、前回と同様、グイッと一気に少量の蒸留酒が入ったグラスを空けた。

結婚!

いつかは来るだろうと、絵莉花の覚悟していた日が遂にやって来た!

「そ、そうなんですか・・・」

「絵莉花さんは、職場で気になっている男性は・・・?」

「い、いません、そんなの」

「それはどうでしょうか。きっと絵莉花さんが気付いていないだけで、あなたに気がある男性は大勢いると思います」

目前の紳士は、にこっと穏やかに提言したが、百歩譲って、彼の言う通りだとしても、密かに想い慕っている相手から発破を掛けられた彼女の心は、破れたも同然だった。

無意識に黙り込む絵莉花の横で、陽気なラテン音楽と歌が、まるで消沈した彼女を励ますかのように軽快に鳴り響いた。

同時に、明日葉ホテルの御曹司も快活な音楽に乗って、アルコール度数の強い酒で満たされたショットグラスを何度も空けた。

したがって、紳士の面目は丸潰れだったが、夕貴は見事に酒に酔わされてしまった・・・・・・・・・

恐らく、彼は向こうアメリカで鍛えたといえども、日本へ渡って以来、十分飲んでこなかったために、テキーラへの耐性が弱まっていたのだろう。

精算時は、まだ意識が大分はっきりしており、絵莉花に恥をかかさずに済んだのだが、結局、彼は彼女の連れ立ちなしに、とても一人で帰れる状態ではなかった。

完璧な紳士の失態を初めて目の当たりにした絵莉花は動揺したが、とりあえず、焦った彼女はタクシーへ一緒に乗り込んだ。

「あちゃー、お連れさん、大分飲んでるねぇ!」

二人が後部座席へ乗り込むと、タクシーの運転手が、夕貴の隣で困り果てた絵莉花に軽い口を叩いた。

こういう時はどうすればいいのだろう?

絵莉花は非常事態に際して、考えを急いで巡らせた。

家へ送り届けるにしても、夕貴がどこに住んでいるか知らない上、東京のどの明日葉ホテルへ滞在しているかも、彼女の見当外だった。

きっと明日葉ホテルならどこでもいいのだろうが、酔い潰れた情けない姿を従業員へ晒してしまっては、彼の誇りに瑕が付いてしまう。

かといって、両親と同居している彼女の自宅へ行くわけにもいかない。

もうこうなっては致し方ないのだ。

決断した絵莉花は口を開いた。

「すみません、一番近いホテルまでお願いします!」

「あいよ」

運転手の相槌と共に、車はゆっくりと動き出したのだった。
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