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鹿威しが庭で高らかに鳴り響く傍ら、香の母は茶室で一人の男と対座していた。
彼は彼女が点てた茶をゆっくりと落ち着いて飲み干し、礼を言った。
「結構なお点前でございました」
女将は畳へ指をつき、頭を下げた。
「お粗末様でございました」
もてなしが済むと、女主人は早速本題へ移った。
「それで、お話とは何でしょうか」
「はい。まず第一に、私は香さんとお付き合いをしていますが、挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
「まあ、そうでしたか」
香の母は、一見無知なわざとらしい微笑みを見せた。
しかし、表情はすぐに切り替えられ、彼女は先手を打った。
「でも、ごめんなさいね。あの娘はちょうど今、お見合いで良い縁に恵まれたところなんですよ」
畳みかける如く、女将は話し続けた。
「私共はこの温泉地で、先祖代々営んできた宿屋を大切に思っております。香は、女将としては、やや気の弱いところはありますが、苦楽を共にし、支え合っていく良き伴侶さえいれば、どうにかやっていけるだろうと、考えております。若いあなた方のことを、とやかく言うのは気が引けるものですが、あの娘には背負っている看板があるのです」
言葉尻にこう言い退けて、女主人は客人との間に一本の明確な線を引いた。
対する夕貴は、少しも動揺したところを見せず、堂々と同意した。
「お話はよく分かります。実は、私も香さんと似たような立場にありまして」
「あら、そうだったの」
同調から、少なからず気を良くした香の母は、相槌を打った。
「はい。先代から渡されたバトンを引き継ぎ、維持していくためには、志筑さんの仰った、苦楽を共にし、支え合っていく良きパートナーは、確かに必要不可欠だと私も思います。ですが、何せ生身の人間ですから、いつ何時何かが起こり、彼らを失ってしまうような不運は避けられません。ですから、伴侶は複数いた方がいいのかもしれません」
最後の非常識的な発言に、女将は眉を顰めた。
「失礼致しました。誤解を招くような言い方をしました。持論はさておき、今日はビジネスの相談をしに参りました」
「ビジネス・・・?」
いまいち真意が掴めない女将は、眉根を依然と皺寄せ、訊き返した。
「はい。弊社と業務提携を結んでくださいませんでしょうか」
朗らかに微笑み、夕貴は話を持ち掛けた。
(・・・業務提携・・・?)
美人だが、威厳に満ちた女主人が、皺の少ない滑らかな顔に、驚きと困惑の色を滲ませ、小首を傾げたので、夕貴は平たく言い直した。
「明日葉ホテルグループの傘下に入りませんか」
ようやく、相手の意図するところが飲み込めて来ると、彼女は笑ってみせた。
これはきっと彼の冗談だろう。
何故ならば、どうしてホテルの一従業員にすぎない夕貴が、グループ企業の傘下に入れなどと、勧めることができるのだろうか。
「どうしてあなたがそんなことを言えるのです?冗談はよしてくださいな」
彼女が指摘すると、夕貴は申し遅れたと言って、懐から名刺入れを取り出し、名刺を一枚、事実を知らない女将の前へ差し出した。
娘の恋人がライバルホテルの責任者であり、同時に、グループ会社の御曹司でもある現実を目の当たりにすると、香の母は初めて動揺を露わにした。
(あら、まあ・・・!)
香と同じく、彼女は極力、商売敵の情報を寄せ付けないよう、心を砕いていたし、その上、夕貴が一定の地位にあるとは知っていたが、まさか経営者一族だったことは想像だにしていなかったばかりに、驚愕は尚更大きかった。
しばしの間、女主人は呆然と名刺を眺めていたが、やがて間の抜けた声で、「あら、そう・・・」と呟いた。
至って紳士的に、夕貴は話を続けた。
「先程伴侶は多い方がいいと申しましたのも、つまりは、明日葉ホテルグループが香さんの、『志筑』さんのパートナーとなることは如何でしょうか。まず一寸やそっとのことで、会社が傾くことはないでしょうし、商売としても、『志筑』さんのような伝統的な宿が、現代的な明日葉ホテルグループの傘下に加わってくだされば、心強いことこの上ありません。実のところ、以前から私は、独特で趣深い温泉旅館というものを、ホテルの『離れ』として取り入れる案に目を付けており、中でも、『志筑』さんのような老舗旅館が、とりわけ国際人たちの目を引く、理想的な環境だと思ったのです」
一度に様々な話を持ち出され、女将の頭は混乱を覚えつつも、目一杯働いた。
早い話が、寄らば大樹の陰、というわけか。
確かに、この男の言う事は一理ある。
しかしそれ以上に―――。
やっと口を開くと、香の母は確認を取った。
「そこまであの娘のことを想ってくださっているのですか?」
それは母親としての台詞だった。
「はい。私は香さんを愛しています」
あまり率直に答えられたものだから、かえって逆に、女主人はまごついてしまった。
そして、逡巡によるため息をついた後、彼女は深々と頭を下げた。
「業務提携のお話は、前向きに検討させていただきます。それからまた、娘を宜しくお願い致します」
彼は彼女が点てた茶をゆっくりと落ち着いて飲み干し、礼を言った。
「結構なお点前でございました」
女将は畳へ指をつき、頭を下げた。
「お粗末様でございました」
もてなしが済むと、女主人は早速本題へ移った。
「それで、お話とは何でしょうか」
「はい。まず第一に、私は香さんとお付き合いをしていますが、挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
「まあ、そうでしたか」
香の母は、一見無知なわざとらしい微笑みを見せた。
しかし、表情はすぐに切り替えられ、彼女は先手を打った。
「でも、ごめんなさいね。あの娘はちょうど今、お見合いで良い縁に恵まれたところなんですよ」
畳みかける如く、女将は話し続けた。
「私共はこの温泉地で、先祖代々営んできた宿屋を大切に思っております。香は、女将としては、やや気の弱いところはありますが、苦楽を共にし、支え合っていく良き伴侶さえいれば、どうにかやっていけるだろうと、考えております。若いあなた方のことを、とやかく言うのは気が引けるものですが、あの娘には背負っている看板があるのです」
言葉尻にこう言い退けて、女主人は客人との間に一本の明確な線を引いた。
対する夕貴は、少しも動揺したところを見せず、堂々と同意した。
「お話はよく分かります。実は、私も香さんと似たような立場にありまして」
「あら、そうだったの」
同調から、少なからず気を良くした香の母は、相槌を打った。
「はい。先代から渡されたバトンを引き継ぎ、維持していくためには、志筑さんの仰った、苦楽を共にし、支え合っていく良きパートナーは、確かに必要不可欠だと私も思います。ですが、何せ生身の人間ですから、いつ何時何かが起こり、彼らを失ってしまうような不運は避けられません。ですから、伴侶は複数いた方がいいのかもしれません」
最後の非常識的な発言に、女将は眉を顰めた。
「失礼致しました。誤解を招くような言い方をしました。持論はさておき、今日はビジネスの相談をしに参りました」
「ビジネス・・・?」
いまいち真意が掴めない女将は、眉根を依然と皺寄せ、訊き返した。
「はい。弊社と業務提携を結んでくださいませんでしょうか」
朗らかに微笑み、夕貴は話を持ち掛けた。
(・・・業務提携・・・?)
美人だが、威厳に満ちた女主人が、皺の少ない滑らかな顔に、驚きと困惑の色を滲ませ、小首を傾げたので、夕貴は平たく言い直した。
「明日葉ホテルグループの傘下に入りませんか」
ようやく、相手の意図するところが飲み込めて来ると、彼女は笑ってみせた。
これはきっと彼の冗談だろう。
何故ならば、どうしてホテルの一従業員にすぎない夕貴が、グループ企業の傘下に入れなどと、勧めることができるのだろうか。
「どうしてあなたがそんなことを言えるのです?冗談はよしてくださいな」
彼女が指摘すると、夕貴は申し遅れたと言って、懐から名刺入れを取り出し、名刺を一枚、事実を知らない女将の前へ差し出した。
娘の恋人がライバルホテルの責任者であり、同時に、グループ会社の御曹司でもある現実を目の当たりにすると、香の母は初めて動揺を露わにした。
(あら、まあ・・・!)
香と同じく、彼女は極力、商売敵の情報を寄せ付けないよう、心を砕いていたし、その上、夕貴が一定の地位にあるとは知っていたが、まさか経営者一族だったことは想像だにしていなかったばかりに、驚愕は尚更大きかった。
しばしの間、女主人は呆然と名刺を眺めていたが、やがて間の抜けた声で、「あら、そう・・・」と呟いた。
至って紳士的に、夕貴は話を続けた。
「先程伴侶は多い方がいいと申しましたのも、つまりは、明日葉ホテルグループが香さんの、『志筑』さんのパートナーとなることは如何でしょうか。まず一寸やそっとのことで、会社が傾くことはないでしょうし、商売としても、『志筑』さんのような伝統的な宿が、現代的な明日葉ホテルグループの傘下に加わってくだされば、心強いことこの上ありません。実のところ、以前から私は、独特で趣深い温泉旅館というものを、ホテルの『離れ』として取り入れる案に目を付けており、中でも、『志筑』さんのような老舗旅館が、とりわけ国際人たちの目を引く、理想的な環境だと思ったのです」
一度に様々な話を持ち出され、女将の頭は混乱を覚えつつも、目一杯働いた。
早い話が、寄らば大樹の陰、というわけか。
確かに、この男の言う事は一理ある。
しかしそれ以上に―――。
やっと口を開くと、香の母は確認を取った。
「そこまであの娘のことを想ってくださっているのですか?」
それは母親としての台詞だった。
「はい。私は香さんを愛しています」
あまり率直に答えられたものだから、かえって逆に、女主人はまごついてしまった。
そして、逡巡によるため息をついた後、彼女は深々と頭を下げた。
「業務提携のお話は、前向きに検討させていただきます。それからまた、娘を宜しくお願い致します」
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