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「香ちゃん。あなたにお客さんみたいよ」
チェックアウトも大分過ぎた頃、唐突に、仲居の一人が若女将へ話しかけた。
誰だろうと、小首を傾げながら香が玄関へ赴くと、サングラスをかけたシンシアが三和土に立っていた。
彼女は香を一目入れると、ぶっきらぼうに口を開いた。
「オンセン」
・・・は?
不可解のため、香の口が小さく開いた。
「オンセン。ハイル」
・・・ああ!
シンディは温泉へ入りに来たのか。
訪問の意図が判明し、安堵から、香はホッとため息をついた。
だが、何故またよりによって、この旅館なのだろうか。
それから、どうしたものかと若女将は思案したが、幸いシンシアの他に客はいなかったので、あまり気は進まずとも、香は薄く微笑み、どうぞこちらへと、案内した。
離れの客室へ通され、源泉溢れる浴槽を見たシンディは、ワオ!と感嘆した。
「で、どうやって入るの?作法は?」
たどたどしい英語で、服を全部脱いで入ってくれと、若女将は説明した。
すると、シンシアは信じられないといった形相で絶叫した。
「冗談でしょう!?人前で裸になるなんて考えられないわ!!」
そして、何やらカバンからごそごそ取り出すと、彼女はぴしゃりと言いつけた。
「着替えるから、あっち向いてて!」
「は、はいっ・・・!」
香は慌てて背中を向けると、服を脱ぐ音が後に続いた。
「・・・もういいわよ」
香が許されて振り向くと、ビキニを着たシンディが、明るい塗料の塗られたつま先を湯の中へ入れ、入浴していた。
ああ・・・!
若女将は唖然と光景を見届けた。
また他方で、作法的にはタブーだが、シンシアは個人専用の風呂へ浸かっているのだから、そこまで目くじらを立てる必要はないかとも、彼女は考え直した。
「ん~~、気持ちがいいわ!ジャグジーに近いわね。・・・ねえ。夕貴とはどうやって知り合ったの?」
この部屋で起こった情事が自然と思い出され、香の頬にカアッと赤みが差した。
「こ、ここで知り合いになりました」
「そう。あなた大人しそうな顔して、意外と大胆なことするのね。客と寝るなんて」
ジョークのつもりだったが、若女将の言葉が詰まり、顔がますます赤らんでいくのを目撃すると、シンシアの中で、嫉妬がムクムクと頭をもたげてきた。
よって、彼女は容赦ない言葉を浴びせかけた。
「・・・夕貴は紳士だから、きっとあなたの顔を潰さないために、誘いへ乗ったに過ぎないわ。それに、彼は・・・わたしという婚約者がいるもの」
瞬間、香は後ろ頭を鈍器でガーンと殴られたような衝撃を覚えた。
婚約者!?
ショックを受けた香の顔から血の気がサアーッと引いた。
シンディは尚も続けた。
「・・・別に、あなたも本気じゃあないんでしょう?単に、彼の容姿や立場が気に入っただけなんでしょう?だけど、わたしは違うわ。わたしは彼の内面、いえ、彼の全てを愛しているの。彼もわたしを心から愛してくれていて、昨夜も、それはもう激しく燃え上がったわ」
(・・・いや!いや!聴きたくない!もうこれ以上聴きたくない!!)
「・・・わ、わたし・・・、タオルを・・・取ってきます・・・」
台詞を辛うじて口から絞り出すと、紙のように白い面持ちの若女将は、部屋から小走りで立ち去っていったのだった。
業務に没頭して、シンシアが放った言葉を頭の中から締め出してしまいたかったが、生憎泊り客は一人もおらず、手隙の香は手を握りしめ、呆然と考え込んでいた。
壁時計の針が秒を刻む、カチカチという音だけが静まり返った事務所に響いた。
・・・シンシアは夕貴の婚約者・・・。
『昨夜も、それはもう激しく燃え上がったわ』
台詞につられ、生々しくも光景を想像してしまった香は、胸の辺りが射し込むように痛んだ。
それは真実なのだろうか。
もし本当ならば、夕貴は誠実な男ではない。
そのような人間を好きになってしまった自分がみっともない。
一方で、香は自分へ言い聞かせた。
(~~・・・嘘よ、嘘・・・。そんなの嘘。だって、好きだって言われたもの・・・!それに、旅館が危なくなれば、力になるとも言ってくれた・・・!・・・だけど・・・?)
シンディは自分などより遥かに美人だ。
しかも、夕貴と同じく、高級ホテルチェーンを経営する大会社を継ぐ女性でもある。
どちらが彼にとって相応しいかと問われれば、それはごく簡単な答えに、香には思えた。
無意識に、握り合わせた手の力がこもった。
その時、傍らに置いた携帯から着信音が鳴り響き、香は両手を解くと、画面を見た。
そこには、「明日葉夕貴」の文字が浮き上がり、香は一瞬躊躇ったが、結局電話へ出た。
「―――はい」
「こんばんは、香さん。今お話ししても大丈夫でしょうか?」
「はい・・・」
「今日もシンシアがそちらへいきなりお邪魔したようで、申し訳ありません。温泉へ入ったらしいですが、彼女がまた何かご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「いえ・・・」(~~どうしてあの人のことばかり気にかけるの。婚約者だから?)
「宜しければ、今度三人で食事にでも行きませんか」
「――っ!」(そこで改めて婚約者を紹介するつもりだから!?)
「香さん?」
辛い想像のせいで潰れかけた胸を抱え、香はやっとのことで言葉を引きずり出した。
「い、いやです・・・。今は・・・話したく、ありません・・・!」
そして、香は言い切ると、一方的に電話を切ったのだった。
「? 香さん!?」
もう一度、夕貴は携帯へ呼びかけた。
しかしながら、声に代わって返ってきたのは、通話が切れて鳴る、ツーツーという電子音だった。
「~~~!」
電波の調子でも悪かったのかとは思ったが、じれったい夕貴は携帯を背広の内側へ手早くしまうと、席から立ち上がり、執務室を出てシンシアの部屋へ急いだ。
「ーーあら、夕貴。仕事はもういいの?」
シンディは屈託なく夕貴を出迎えた。
「シンディ。彼女に何を言った」
客室へ入るや否や、夕貴は美女へ詰め寄った。
「彼女って誰?ああ。もしかして、あの温泉旅館の女?別に何も?そうだ。夕貴、今からクラブにでも踊りに行きましょうよ」
話題が不自然に逸らされ、確信を深めた夕貴は平静な顔つきのまま、だが一方で眉を少し吊り上げ、淡々と語り掛けた。
「シンディ。どうせきみのことだから、家の者や秘書には何も言わずに出てきたのだろう?ましてや婚約者にも」
「!」
シンシアは事実を見透かされ、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「今からきみの秘書のマギーに連絡して、迎えに来てもらうことだってできるんだ」
シンディは負けじと反論した。
「マギーがどうしたって言うのよ。彼女はわたしのために働いているんだから、あなたの言う事を素直に聞くとは思えないわ!」
「それもそうだな。では、ジムに迎えに来てもらおう」
「いやよ、余計なことしないで頂戴!」
「なら、彼女に何を言ったか教えてもらおうか」
シンシアはしぶしぶ明かした。
「・・・別に、嘘は言ってないわ。わたしがあなたの婚約者だって言っただけよ」
数秒、夕貴は驚きと矛盾から呆気にとられたが、直ちに語気荒く指摘した。
「きみの婚約者はジムじゃないか!」
「それでも、わたしはあなたがいいのよ!」
絶世の美女から求婚され、男であれば、鼻の下を長くし、心底舞い上がってもおかしくない状況だったが、夕貴は顔色一つ変えず、シンシアを諭した。
「シンディ。俺たちはとうの昔に終わったはずだ」
だがしかし、シンディは夕貴の胸へ情熱的に縋ると、ぽつりと独り言ちた。
「わたしの中では終わってないわ・・・」
「シンディ・・・」
シンシアは涙に濡れた瞳を見上げ、懇願した。
「夕貴・・・。抱いて・・・」
チェックアウトも大分過ぎた頃、唐突に、仲居の一人が若女将へ話しかけた。
誰だろうと、小首を傾げながら香が玄関へ赴くと、サングラスをかけたシンシアが三和土に立っていた。
彼女は香を一目入れると、ぶっきらぼうに口を開いた。
「オンセン」
・・・は?
不可解のため、香の口が小さく開いた。
「オンセン。ハイル」
・・・ああ!
シンディは温泉へ入りに来たのか。
訪問の意図が判明し、安堵から、香はホッとため息をついた。
だが、何故またよりによって、この旅館なのだろうか。
それから、どうしたものかと若女将は思案したが、幸いシンシアの他に客はいなかったので、あまり気は進まずとも、香は薄く微笑み、どうぞこちらへと、案内した。
離れの客室へ通され、源泉溢れる浴槽を見たシンディは、ワオ!と感嘆した。
「で、どうやって入るの?作法は?」
たどたどしい英語で、服を全部脱いで入ってくれと、若女将は説明した。
すると、シンシアは信じられないといった形相で絶叫した。
「冗談でしょう!?人前で裸になるなんて考えられないわ!!」
そして、何やらカバンからごそごそ取り出すと、彼女はぴしゃりと言いつけた。
「着替えるから、あっち向いてて!」
「は、はいっ・・・!」
香は慌てて背中を向けると、服を脱ぐ音が後に続いた。
「・・・もういいわよ」
香が許されて振り向くと、ビキニを着たシンディが、明るい塗料の塗られたつま先を湯の中へ入れ、入浴していた。
ああ・・・!
若女将は唖然と光景を見届けた。
また他方で、作法的にはタブーだが、シンシアは個人専用の風呂へ浸かっているのだから、そこまで目くじらを立てる必要はないかとも、彼女は考え直した。
「ん~~、気持ちがいいわ!ジャグジーに近いわね。・・・ねえ。夕貴とはどうやって知り合ったの?」
この部屋で起こった情事が自然と思い出され、香の頬にカアッと赤みが差した。
「こ、ここで知り合いになりました」
「そう。あなた大人しそうな顔して、意外と大胆なことするのね。客と寝るなんて」
ジョークのつもりだったが、若女将の言葉が詰まり、顔がますます赤らんでいくのを目撃すると、シンシアの中で、嫉妬がムクムクと頭をもたげてきた。
よって、彼女は容赦ない言葉を浴びせかけた。
「・・・夕貴は紳士だから、きっとあなたの顔を潰さないために、誘いへ乗ったに過ぎないわ。それに、彼は・・・わたしという婚約者がいるもの」
瞬間、香は後ろ頭を鈍器でガーンと殴られたような衝撃を覚えた。
婚約者!?
ショックを受けた香の顔から血の気がサアーッと引いた。
シンディは尚も続けた。
「・・・別に、あなたも本気じゃあないんでしょう?単に、彼の容姿や立場が気に入っただけなんでしょう?だけど、わたしは違うわ。わたしは彼の内面、いえ、彼の全てを愛しているの。彼もわたしを心から愛してくれていて、昨夜も、それはもう激しく燃え上がったわ」
(・・・いや!いや!聴きたくない!もうこれ以上聴きたくない!!)
「・・・わ、わたし・・・、タオルを・・・取ってきます・・・」
台詞を辛うじて口から絞り出すと、紙のように白い面持ちの若女将は、部屋から小走りで立ち去っていったのだった。
業務に没頭して、シンシアが放った言葉を頭の中から締め出してしまいたかったが、生憎泊り客は一人もおらず、手隙の香は手を握りしめ、呆然と考え込んでいた。
壁時計の針が秒を刻む、カチカチという音だけが静まり返った事務所に響いた。
・・・シンシアは夕貴の婚約者・・・。
『昨夜も、それはもう激しく燃え上がったわ』
台詞につられ、生々しくも光景を想像してしまった香は、胸の辺りが射し込むように痛んだ。
それは真実なのだろうか。
もし本当ならば、夕貴は誠実な男ではない。
そのような人間を好きになってしまった自分がみっともない。
一方で、香は自分へ言い聞かせた。
(~~・・・嘘よ、嘘・・・。そんなの嘘。だって、好きだって言われたもの・・・!それに、旅館が危なくなれば、力になるとも言ってくれた・・・!・・・だけど・・・?)
シンディは自分などより遥かに美人だ。
しかも、夕貴と同じく、高級ホテルチェーンを経営する大会社を継ぐ女性でもある。
どちらが彼にとって相応しいかと問われれば、それはごく簡単な答えに、香には思えた。
無意識に、握り合わせた手の力がこもった。
その時、傍らに置いた携帯から着信音が鳴り響き、香は両手を解くと、画面を見た。
そこには、「明日葉夕貴」の文字が浮き上がり、香は一瞬躊躇ったが、結局電話へ出た。
「―――はい」
「こんばんは、香さん。今お話ししても大丈夫でしょうか?」
「はい・・・」
「今日もシンシアがそちらへいきなりお邪魔したようで、申し訳ありません。温泉へ入ったらしいですが、彼女がまた何かご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「いえ・・・」(~~どうしてあの人のことばかり気にかけるの。婚約者だから?)
「宜しければ、今度三人で食事にでも行きませんか」
「――っ!」(そこで改めて婚約者を紹介するつもりだから!?)
「香さん?」
辛い想像のせいで潰れかけた胸を抱え、香はやっとのことで言葉を引きずり出した。
「い、いやです・・・。今は・・・話したく、ありません・・・!」
そして、香は言い切ると、一方的に電話を切ったのだった。
「? 香さん!?」
もう一度、夕貴は携帯へ呼びかけた。
しかしながら、声に代わって返ってきたのは、通話が切れて鳴る、ツーツーという電子音だった。
「~~~!」
電波の調子でも悪かったのかとは思ったが、じれったい夕貴は携帯を背広の内側へ手早くしまうと、席から立ち上がり、執務室を出てシンシアの部屋へ急いだ。
「ーーあら、夕貴。仕事はもういいの?」
シンディは屈託なく夕貴を出迎えた。
「シンディ。彼女に何を言った」
客室へ入るや否や、夕貴は美女へ詰め寄った。
「彼女って誰?ああ。もしかして、あの温泉旅館の女?別に何も?そうだ。夕貴、今からクラブにでも踊りに行きましょうよ」
話題が不自然に逸らされ、確信を深めた夕貴は平静な顔つきのまま、だが一方で眉を少し吊り上げ、淡々と語り掛けた。
「シンディ。どうせきみのことだから、家の者や秘書には何も言わずに出てきたのだろう?ましてや婚約者にも」
「!」
シンシアは事実を見透かされ、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「今からきみの秘書のマギーに連絡して、迎えに来てもらうことだってできるんだ」
シンディは負けじと反論した。
「マギーがどうしたって言うのよ。彼女はわたしのために働いているんだから、あなたの言う事を素直に聞くとは思えないわ!」
「それもそうだな。では、ジムに迎えに来てもらおう」
「いやよ、余計なことしないで頂戴!」
「なら、彼女に何を言ったか教えてもらおうか」
シンシアはしぶしぶ明かした。
「・・・別に、嘘は言ってないわ。わたしがあなたの婚約者だって言っただけよ」
数秒、夕貴は驚きと矛盾から呆気にとられたが、直ちに語気荒く指摘した。
「きみの婚約者はジムじゃないか!」
「それでも、わたしはあなたがいいのよ!」
絶世の美女から求婚され、男であれば、鼻の下を長くし、心底舞い上がってもおかしくない状況だったが、夕貴は顔色一つ変えず、シンシアを諭した。
「シンディ。俺たちはとうの昔に終わったはずだ」
だがしかし、シンディは夕貴の胸へ情熱的に縋ると、ぽつりと独り言ちた。
「わたしの中では終わってないわ・・・」
「シンディ・・・」
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