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徳川家臣団は一日にしてならず

宗教戦争と言うよりは

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私(三成):(桶狭間の戦いにおきまして今川義元は討ち死に。その間隙を縫い家康は、駿府には戻らず。岡崎城に残り、今川家からの独立を狙うのでありました。)
所員:(この動きは家康のみならず。三河全土で見られまして。跡を継ぎました氏真はこれまで通り。各国人の利権を認めているにもかかわらず。『怖い義元が居なくなったぞ!!』とばかりに吉田城の人質のことなど忘れ。)
私(三成):(似たような事例が遠江にもあったような……。)
所員:(その動きに目を付けたのが織田信長。美濃進出を目論む信長と、今川から独立する=今川との抗争が始まる家康にとって互いの背後を安全地帯にしたい思惑が一致。清州同盟が結ばれるのでありました。背後の心配が無くなった家康は三河制圧を本格化させ。途中、人質交換の形で駿府に残した妻と子を奪還するのでありました。そんな家康の前に立ちはだかったのが……。)
私(三成):(三河で発生しました一向一揆。)
所員:(……なのでありますが。これは信仰上の違いで始まったものでは無かったと思います。その理由としまして、家康の重臣の家は基本。一向宗の門徒でありますので、宗教が戦いの原因とはなり得ません。)
私(三成):(……となりますと……。)
所員:(一向宗。浄土真宗は鎌倉時代からの新興宗教であります。そのため、国の権力と歩調を合わせる形で。東からの敵を食い止めるため。とか中国から持ち帰った技術を使い土木事業で発展した奈良・平安からの宗教のようにはいかず。何か別の方法で持って、経済力をつけなければなりませんでした。その中にありまして、浄土真宗が見出した鉱脈が『流通経済』でありました。大坂城のありますかつての石山本願寺のように水運に恵まれ、かつ水害に遭わない土地に街を形成し、市を開くことにより浄土真宗は力を蓄えていくのであります。ヒトとモノが集まる豊かな場所でありますので当然の如く、他のモノから狙われることになります。実際、本願寺は山科の拠点を攻められ、全て灰燼に帰す。と言う苦い体験もしています。狙われる以上。自分の手で守らなければいけません。そこで役に立つのが本来の目的であります布教活動。豊かな経済力を背景にしました布教活動。そこで仕事しているかたも当然いらっしゃいますので。三河の国におきましても家康の重臣がそうでありますように。かなり広範囲のエリア。身分のところにまで本願寺は食い込んでいたのでありました。)
私(三成):(権力者に対し、『我々本願寺の言うことを聞かないと、どうなるかわかっていますよね。あなたの重臣共があなた様の命を。』と……。)
所員:(で。実際に加賀や朝倉滅亡直後の越前など本願寺の宗教王国が幾つも誕生した時代でもありました。そうなってはかなわないと、各戦国大名は彼らの利権を認めるなど。上手に付き合わざるを得ないのが実情でありました。)
私(三成):(義元もそうでしたね。)
所員:(そんな中。家康は一向宗と対立する道を選ぶのでありました。)
私(三成):(何故でしょうか?)
所員:(答えは当時の家康と今川家の経済力の差。これに尽きると思います。義元の今川家は駿河に遠江を領し、三河に進出して来た大大名。家を維持するには十分過ぎる収入減を既に有している。尾張への進出にしましても、他国にでも目を向けさせないと、国人共が何をして来るかわからないから。が理由でありましたので。一方の家康は?と言いますと。三河の盟主の家ではありますが、長年。今川家が管理していたこともあり。当時、家康と家康の直臣が収入源とすることが出来た地域は、矢作川流域の平野部。それも岡崎城の周辺のみ。あとの三河地域につきましては、義元同様。彼らの利権を認めなければならなかった=家康の収入源とはならなかった。そんな脆弱な基盤しか有していない家康でありますが、今後も三河の国人領主の支持を得るためには、外部からの侵入を阻止しなければなりません。当然その費用は家康の収入源で賄わなければなりません。それでは家康自身が干上がってしまうため新たな直轄地を求め、外に押し出していかなければなりません。ただそのためにも当然費用は掛かります。その費用は家康直轄地のあがりから捻出しなければなりません。当然足りません。どこかから資金を調達しなければなりません。そんな家康の目に留まったのが……。)
私(三成):(一向宗が岡崎城近辺で運営・管理する街であった。と……。でも家康の重臣の中にも多数の門徒。一向宗を信仰する人物が居たのでありますが。)
所員:(ここで活きて来たのが、『何故松平は、今川の植民地にならなければならなかったのか?』の実体験でありますし、家康の重臣でありますので。当然の如く家の財政状況も把握していました。加えて浄土真宗と同じ教えであり、かつ浄土真宗と喧嘩別れしたわけではない浄土宗と言うモノがありましたので、これまで浄土真宗を信仰していました家康の重臣は浄土宗に改宗した上、家康方として一向宗に相対するのでありました。従いまして岡崎近辺で勃発しました一向一揆でありますが、主だった家臣のほとんどは家康に付き。一向宗方に参戦したのは分家筋ないし、本願寺が営む小規模集落の領主に留まったのが実態でありました。)
私(三成):(これだけ見ますと『家康の圧勝』のように思われるのでありますが……。)
所員:(……実は簡単には終わりませんでした。その理由となりましたのが『鉄砲』であります。一向宗は山科・石山と言いました畿内。当時の最先端の地域にも拠点を築いていますので、当然。鉄砲や、輸入に頼らざるを得ない硝石を手に入れることが出来る教団。しかも彼らには経済力がありますから大量に購入することが出来。各地の拠点に配備していました。加えて、経済力がある=敵から狙われやすいこともありますので、拠点を。交通の便が良い川の河口などの。それも天然の要害によって守られた攻められ難い場所に立地していました。そこに持ってきての飛び道具。家康も危うく……。とは言え、本願寺が頼みとしました家康の重臣が改宗してまで家康側に留まったことが決め手となり、家康方が勝利を修めたのであります。)
私(三成):(一揆側についた元家臣の処遇は……?)
所員:(改宗を条件に復帰を認めています。そもそもの目的が本願寺の持つ利権を手に入れるためでありますので。一方、家康が厳しい対応を採ったのが一向宗側でありました。竹槍程度の粗末な装備しか持っていないにもかかわらず、逃げず。討ち死にするまで突撃を繰り返して来た。それもほぼ農業が専業と言うモノが……。宗教の持つ力を家康は見せつけられた……。このままにしていてはいずれまた……。故に家康は『元のまま』と言って本願寺を騙し。全て元の更地に戻すのでありました。)
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